月の旅人

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“西方の真珠”の残り香漂うコルドバ

“西方の真珠”の残り香漂うコルドバ




アルハンブラ宮殿から来た道を下って、10分もしないうちにグラナダの名産品である寄木細工(タラセア)のお店に立ち寄った。たぶん『GAUDI(ガウディ)』という店名だと思う。←曖昧(;一一)ゞ
お店に入るなり、まず寄木細工について説明をする、ということでアルハンブラ宮殿に引き続きガイドをしてくれる日本人女性がいちばん奥へと案内してくれた。作業台らしきものの上に完成品と製作途中の棒状態の寄木細工がいくつか置かれていて、それを手にガイドさんが説明をしてくれる。寄木細工は最初棒状のように長いものを組み合わせはめ込んで作成し、できあがったものを金太郎飴のように切っていくのだそうだ。
グラナダの寄木細工は直線的なアラビア模様に牛骨をはめ込んでいく手法で、イスラム文化が生んだスペインを代表する工芸品の1つである。だが現在、グラナダに存在する寄木細工工芸師はたった10名。そのほとんどが、家業を先代から受け継いでいる家系の人たちだそうだ。
寄木細工(タラセア)その図柄はすべてユダヤ調とアラブ調で、材料にはイトスギ、イチジクの木、黒檀、クルミ材、紫檀などの高級木材が使用され、ヨーロッパ産やアフリカ産もあるが、特に中南米産の木材が用いられている。土台となるポプラの木は、グラナダ郊外のサンタ・フェという村のもの。
サンタ・フェ村は、カトリック両王がグラナダ侵攻の野営地として建設した所である。
寄木細工はスペインで団体旅行が流行し始めた1950年頃から観光客用にお盆やコースター、チェス盤や小テーブルなどが作られるようになったが、製図のときに簡単な機械を使用する以外はすべて手作業で丹念に作り込まれ、伝統的な制作方法を代々受け継いで製作されている。そのため大量生産はできず、手作りのぬくもりを大切にしてきた寄木細工工芸技術は、スペインの貴重な財産となっている。
日本でも箱根寄木細工が有名だが、グラナダの寄木細工が伝わったのではないかともいわれているそうだ。ちなみに、箱根では江戸時代末期(1790年~1850年)に石川仁兵衛によって創作されたとされている。

説明を聞き終えて、ショッピングタイムとなる。寄木細工の綺麗な時計や壁掛け鏡などほしいものはたくさんあったが、高い……。お小遣いに余裕がないため、写真を撮るだけで我慢することにする。(TnT)くっ…
壁掛け鏡はその前にちょうど甲冑が置かれていたため、自分も一緒に鏡に映って撮ってみた。ちょっとだけ満足。(笑)
トイレを済ませ、またうろつこうかと思っていると、お店の入口方向からみきちゃんがスタスタと戻ってきて「この水1人1本タダでくれはるねんて。もらってきぃ(^-^)」と言い、その手にはすでにミニペットボトルがあった。
それはラッキーと、すぐさまレジカウンターの端に並べておいてあったペットボトルを1本取る。それからまだトイレにいたNさんの分ももらっておこうと思い手に取ると、ちょうど傍に来たガイドさんが言った。
「それ有料ですよ」
「えっΣ( ̄- ̄;)、もらえるんじゃないんですか!?」
そんなバカな、と手にしていたペットボトルを名残惜しげに戻す。傍の椅子には、すっかりくつろいですでに水を飲んでいる人たちが何人もいた。もうほとんどの人たちが飲むかカバンに仕舞うかしていて、しかも誰もお金を払っていない。
みきちゃんに「水、お金いるねんて……」と言うと、「うそっ。添乗員さんがひとり1本もらえるって言わはったで」と言う。
どっちが本当なんだと再びペットボトルの傍に行くと、ガイドさんがやっぱり有料だと言う。で、それを聞いた添乗員さんも驚いて「え……うそっ、私も飲んでしまった。ははは……」と困った笑いを洩らしていた。
いったいなぜこんな間違いが……?( ̄_ ̄;)
結局、早く取った者勝ちのような状況で誰も支払いをしなかった。というより、有料であることを最後まで知らなかった人が大半だったのだが。
リヤドロのシンデレラなんだか妙に悔しい感じがして、入口付近の棚に並んでいたリヤドロの数々を写真に収め「350万円もするねんて!Σ( ̄□ ̄*)」と驚いたりして、気を紛らした。(笑)
右の写真が、その驚愕の値段のリヤドロ代表作の1つ『シンデレラ』。

リヤドロは1950年代の初めにホアン、ホセ、ビセンテという三兄弟がアルマセラという村の自宅の中庭にイスラム様式の窯を構えて小さな工房を建て、より完成度の高いポーセリン(白磁)作りを探求したのが始まりだ。経験豊かな職人たちによって完全な手作業で微妙で繊細な装飾の花、豊かな表情やしぐさ、バランスと躍動感など、卓越した表現力で形作られ、秘伝の優しい色合いの彩色で仕上げられているのが特徴である。
現在ではいくつもの施設や庭園が集まって2000人を超えるアーティストや職人が働くまでになり、ここからすべてのリヤドロ作品が生み出され、世界120ヵ国以上に輸出されている。
その芸術的価値は世界中の美術館や博物館でも認められ、エルミタージュ美術館を始めとした世界有数の美術館などで所蔵、展示されている。

買い物をしている人たちもいたが私たちはすっかり時間を持て余し、先にバスに戻っていようとお店を出た。入るときにもいたジプシーのおばあさんが、レース編みのテーブルクロスを懸命に広げて立ち売りしていた。なかなか綺麗な出来で大きさのわりに3000円と値段も比較的安く、お買い上げしていたおばさんもいた。
「日本でレースのテーブルクロスを買おうと思ったら高いから、お買い得やんね~」
と、とてもご満悦。確かにそのとおり。私もちょっとほしかったです、はい。f^_^*)


土産物店を出発して程なく、車窓に一面のオリーブ畑が広がった。丘のそのまた向こうの丘にも果てしなくオリーブ畑が続いている。
スペインのオリーブ生産量は世界一で、オリーブの木の数はスペインの人口をはるかに上回る2億1500万本なのだそうだ。ちなみに人口は2004年8月の時点で4272万人である。オリーブ畑は202万3000ヘクタールを締め、世界のオリーブ畑の27%、生産量では45%程度にもなるらしい。
果てなく続くオリーブ畑収穫期には毎年北アフリカや東ヨーロッパなど多数の外国人労働者が出稼ぎに訪れ、生食用はまだ実が緑色をしている10月、11月に、オイル用は黒色になる12月以降に収穫される。なんと、1本の木から平均80~100kgもの実が取れるそうだ。
だがそんなオリーブ大国にもかかわらずスペインは商売下手なようで知名度がなかなかあがらず、イタリアにラベル包装なしの状態で輸出し、イタリアから世界へ売ってもらっているのだとか。他にもフランス、ポルトガル、イギリス、ドイツなどに、同じようにラベル包装なしで輸出を行っている。がんばれスペイン!~\(>_<*)フレ~フレ~


グラナダから1時間ちょっとの地点で、トイレ休憩となった。
周囲には他にこれと言って何もない土産物店で、軽食を出してくれるカウンターが店内に併設されている。オリーブ畑が続く中にあるだけに、大小様々なオリーブオイルが多く、他にオリーブの実やお菓子、アクセサリーなどが売られていた。
ペットボトル・コレクション先にトイレを済ませようと男女共用のそこに並んでいると、バルセロナ大聖堂へ一緒に行ったHさんが私の後ろに並び、上を指差した。そこにはなぜか、日本のお茶のペットボトル・コレクションが。Σ( ̄- ̄*)なんや!?
「伊右衛門はさすがにまだないねぇ」
「ほんとだ。まだまだ甘いですね( ̄ー ̄)」
そんな会話を交わしている間にトイレの順番が回ってきて済ませ、「5本買ったら1本おまけ」と、魚屋さんや八百屋さんもびっくりなほどまるで競りのように声を張り上げて日本語を繰り返しているおじさんから、そのオリーブオイルをNさんと3本ずつ購入。
その後、カウンターでドライバーのJさんと並んで何かを食べている添乗員のKさんに前日と同じく「何食べてるんですか~?」と言って傍に寄ると、カナッペのような薄いピザのようなものを食べていた。またもやJさんの奢りらしい。さらに私たちにも愛嬌たっぷりの笑顔で勧めてくれて、生ハムまで追加してくれた。ヽ(*^^*)ノいい人♪
が、残念なことにバスに戻らなければならなくなり、生ハムは無理やり2口食べただけに終わってしまった。
「おいしい~っ♪ グラシア~ス!」
ほんとにおいしくて感動したのもつかの間、その場を後にする。も……もっと食べたかった。(_ _。)がっかり…


さらに続くオリーブ畑、時折見える白壁の家々が集まる丘の上の村、オリーブ畑に変わって続くニンニク畑、黄色い花が絨毯のように広がる場所などの高地を通過し、一路コルドバへと向かう。
ヒマワリの替わり(^-^;)途中、今回の旅の第2の目的でもあったヒマワリ畑も通過したが、残念ながらちらほらっ……と早咲きのヒマワリが咲いている程度だった。~(>_<。)~く~っ
写真に撮ってもイマイチよくわからないほどちょっとしか咲いていなかったヒマワリの替わりに、一面に咲いていた名も知らない花を何枚も写真に収め、「ま、こっちも綺麗やしいっかぁ」と頷き合った。(ー_ー )ふっ…
おそらく、白壁の村のどれかがサンタ・フェ村だったはずだが、どれがそれだったかわからない。あ~あぁ。┐( ̄- ̄;)┌


アンダルシア地方の中央部に位置するコルドバは、“逆さまのバラの木”と例えられたほど外観は質素で中身が華麗な街である。
銀、銅、鉛などの集散地としてグアダルキビール川沿岸にできたイベリア人の町コルドゥーバをその起源とし、紀元前169年頃にローマ帝国の執政官クラウディオ・マルセロによって街が建設され、イベリア半島をローマ帝国が制圧した時代に植民都市としてローマ文化が栄えた。
イベリア人とは、紀元前3000年頃にアフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡り西ヨーロッパに広がった人々のことで、イベリア半島、フランスのブルターニュ、ブリテン諸島などに『ストーン・ヘンジ』などの有名な巨石文明や農業遺跡を残した種族のこと。イベロ族ともいう。
アンダルシアという地名は、ローマの植民地時代に花開いたコルドバを5世紀のローマ帝国衰退と同時にゲルマン人の大移動が始まって最初に入ってきたヴァンダル族が占拠し、ローマ人がこの地をヴァンダルシアと呼んだのが起こりである。だがヴァンダル族はトレドを都とする西ゴート王国に追われ、さらに711年に北アフリカからやってきたイスラム教徒・モーロ人が西ゴート王国に替わってコルドバを都とした。
モーロ人のたった一度の侵攻で降伏したコルドバだったが、それまでの生活と宗教を尊重するという協約を結んだため、ローマ人、モーロ人、ユダヤ人、キリスト教徒という4つの文化と宗教が共存して繁栄するという平和な時代の始まりでもある。こうして756年~1031年までスペインにおけるイスラム王国の首都として、“西方の真珠”または“西のメッカ”と呼ばれるほどに繁栄した。
カリフ王国が誕生した10世紀には、衛星都市も多く、王立図書館は60万冊の蔵書を数え、300も建てられたというモスク内にはスペイン最初の学校が開かれてヨーロッパ中世の文化の中心地となり、各国から様々な分野の知識人が大勢コルドバに集まって、全盛期の人口は50万人とも100万人とも言われ、東ローマ帝国のコンスタンチノープルと肩を並べるヨーロッパの2大都市となった。
14世紀初めはパリやヴェネツィア、フィレンツェなどの都市でも人口は10万人ほどだったため、その繁栄ぶりは桁違いである。
さらに、ロンドンやパリより実に700年も早く街灯がすでに設置されていた。
翻訳学校ではアリストテレスやプトレマイオスなどの古代ギリシャ・ローマ時代の文献が次々にアラビア語に翻訳され、その数百年後の11~13世紀にはそのアラビア語の文献がラテン語に翻訳されて、イタリア・ルネッサンスを花開かせていった。古代ギリシャ・ローマ時代の文化は一度イスラム世界に引き継がれ、そして改めてヨーロッパ全土へと広まっていったのだ。古代の文化と中世の文化を結ぶ役目を果たしたコルドバは、世界でも重要な都市の1つだったのである。
そんなコルドバも1236年にイサベル女王率いるキリスト教国のカスティーリャ王国に奪還され、イスラムの支配が終わった。だがその後もイスラム、ユダヤの文化や伝統は拭い去られることなく残り、現在に至っている。そのためかつて栄えていた頃のように多くの芸術家が住み、各種の国際的な催し物や展覧会などが開催されており、“西方の真珠と呼ばれた栄華の残り香漂う、メスキータを中心とした歴史地区”として、コルドバ歴史地区は1984年、1994年に世界文化遺産に登録された。


ペットボトル・コレクションのあった休憩所から1時間20分ほどで到着したコルドバは、大変な混雑だった。川に沿ってずらりと観光バスが列を成して停まっている。どうにも進めそうになく、予定していた場所よりもはるか後方でバスを降りることになった。
陽射しが強く、けっこう暑い。観光バスのエンジンの熱気がそれに拍車をかけているようだ。たくさんの西洋人とすれ違いながらまるで壁のように続く観光バスの列を抜けると、水車小屋が見えてきた。
かつては両岸に多くの水車小屋があり粉を挽いたり庭園に水を供給したりしていたが、イサベル女王が水車の軋む音を嫌って撤去させてしまい、現存する水車小屋は後世に再建されたものだそうだ。
ローマ橋そのすぐ先に『ローマ橋』が架かっていた。
グアダルキビール川に架けられた全長223mのこの橋はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの治世である紀元前1世紀に完成したもので、16のアーチを支えている橋脚は洪水の激流にも耐えるよう流線型になっていて、2000年以上にわたって現役で活躍している。だが戦乱のたびに一部が破壊されたり、敵の侵入を阻止するためアーチの幾つかを取り壊したりしては改修されることを繰り返してきた。そんなわけで現在のローマ橋は16世紀に改修されたもの。ローマ帝国時代のオリジナルの部分はほとんど残っていない。
19世紀の文学者メリメはこの橋の袂で美しいジプシーの娘に会い、名作『カルメン』を生むきっかけとなった。
橋にも歴史あり、といった感じである。( ̄。 ̄*)ほぅ
グアダルキビール川は水量が豊かで、本流にも支流にも各所にダムが作られ、穀物、綿花、ぶどう、オリーブなどの農業用水として使用されている。昔は水運にも盛んに利用されていた。ちなみにグアダルキビールとは、アラビア語で“大いなる川”という意味。


横断歩道を渡って歴史地区に入り、城壁のような高い壁に沿って進んでいく。着いたのはホテル兼レストラン兼バー兼カフェと何でもありの(笑)お店『EL TRIUNFO』。
観光の前にまずは空腹を満たさねば。( ̄¬ ̄*)
が、またもや量が多過ぎて食べきれず……。
鶏肉の煮込み最初のサラダからして「3分の1でいいよ……」てな量だし、アンダルシアの名物料理であるスープのガスパチョも植木鉢のような素材と形の深皿で出てきて飲み終わった頃にはすでに満腹に近く、それなのにメイン料理ときたら思わず「でかっΣ( ̄- ̄;)」と言ってしまった鶏もも丸ごとだった。そのうえ更にたくさんのフライドポテトが添えられている。
無理……絶対無理……食べきれるわけがない。
自分の前に出された鶏の煮込み料理よりほんの少し小さかったみきちゃんのものとお皿を交換してもらったが、さすがのみきちゃんも残したほどだった。
でも味はどれもとてもおいしかった。鶏肉なんてすっごくやわらかく煮込んであって、簡単に骨と身を分けることができたし。……なのに、パンの固いことといったら!(>_<) 手の力がなくて か弱い 私は(笑)、そのあまりの硬さに千切ることもできず一口も食べずに断念したくらいである。
ああ、ドイツのパンが懐かしい。←日本のパンでいいだろ(笑)


昼食を終え、コルドバ歴史地区観光が始まった。まずは、ガイドブックには必ず載っているという『花の小路(こみち)』へ向かう。
結婚記念撮影花の小路の入口には、ちょうどそこに到着したばかりの花婿さんと花嫁さんがいた。とても幸せそうな笑顔を振りまき、手をつないでウェディングドレスの裾を持ってあげているやさしそうで恰幅のいい花婿さんと、左手に真紅と純白のバラのブーケを持ち八重歯の覗く堀の深い顔立ちの花嫁さん。2人はこれから記念撮影を行うらしく、カメラマンを従えて花の小路を上っていった。
私たちは彼らに先導されるようにして、ズラズラと後に続く。
両手を広げれば届きそうな気がするくらいの細い路地の白壁に、ゼラニウムなどの花々が鉢に入れて飾られている花の小路。突き当りまで行って振り返ると『メスキータ』の鐘楼が小路の間に見える。振り返ったときのこの光景が、人気の写真スポットとなっているそうだ。そのためとても狭い場所にもかかわらず、常時人で溢れている。
花の小路

花の小路を含むメスキータの北側が、『ユダヤ人街』となっている。
だが1492年にカトリック信仰によってスペインが統一されたのを機にユダヤ人追放令が出されて多くのユダヤ人が財産を没収され、着の身着のままで国外へ逃げ延び、『ユダヤ人街』という地名だけが取り残されたように今に残されていて、現在ユダヤ人は1人も住んでいない。
そんなユダヤ人街は迷路のように入り組んだ狭い石畳の小路の白壁の家々が連なり、飾られた鉢には花が咲き乱れ、開け放たれた扉越しや風流な鉄格子の透かし模様の向こうに各家のパティオ(中庭)を望むことができる。
コルドバの街の魅力は、縫うように続く白壁の小路を歩き家々のバルコニーや壁に飾られた季節の花々を愛でることに尽きる、とさえ言われるほどだそうだ。
コルドバでは各家がパティオやバルコニー、格子窓や壁などに鉢植えを美しく飾りつけるのが習慣となっていて、1918年から毎年5月初めの2週間にわたってパティオ・フェスティバルが盛大に行われるようになった。パティオ・コンクールに参加した家々のパティオは一般公開されて平日は19時まで自由に見学することができ、この中から最も美しいパティオを持つ6軒に賞が贈られる。3年に1度フランコ全国コンクールが同時開催され、優れた新人アーティストを誕生させているそうだ。
残念ながらツアーの関係上ゆっくり散策する時間は設けられず、そのままメスキータへと入ることになった。┐( ̄- ̄;)┌ 仕方ない…



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