月の旅人

月の旅人

古都セゴビアと首都マドリード

古都セゴビアと首都マドリード




『セゴビア』に着いたのは16時半頃。アビラを出てから1時間ほどである。
セゴビアの起源は紀元前8世紀のケルト人による町『セゴブリカ』で、その後ローマ人によって開拓され、現在でもセゴビアのシンボルといわれている『水道橋』が建設された。この水道橋は、ローマ帝国時代の最も保存状態の良い建造物の1つとされている。
“カスティーリャ地方に広がる穀物畑の海原に停泊する、石の艦艇”と詩的な表現をされるセゴビアは、標高1000mの高地にあり、グアダラマ山脈を背後にしてエレスマ川とクラモレス川が町を囲むように流れ、自然の要塞となっている。イスラムの時代には織物の町として名を馳せていたが、最も栄えたのは15世紀のこと。後にスペイン統一を成し遂げたカトリック両王の1人カスティーリャ王国の女王イサベルがこの地で戴冠式を行い、セゴビアは王都としてスペインの黄金時代を支えたのだ。さらに、“太陽の沈まぬ国”といわれていた時代の王フェリペ2世がここで結婚式を挙げたという。
現在はマドリードからの避暑地として人気のセゴビアは、ローマの水道橋と記念碑的建造物のそろう街として、1985年に旧市街と水道橋が世界遺産に登録された。


アルカサール(セゴビア城)まず最初に向かったのは、ディズニーが白雪姫のお城のモデルにしたという『アルカサール(セゴビア城)』。エレスマ川とクラモレス川が合流する地点の岩山の頂に聳えている。いわば艦艇の船首部分にあたる位置にある。
1083年にカスティーリャ王国がイスラム王国から奪取し、12世紀に入ってアルフォンソ6世が王宮にするために整備を始め、12世紀末~13世紀にかけてアルフォンソ8世が破壊と補修が繰り返されたこの古城を取り壊して新たに築城した。その後も増築され、14世紀にカスティーリャ王エンリケ2世が再建して、現在のアルカサールの大部分は1410~1455年にできたもの。1862年に大火災に遭いかなり焼失したが、後に修復されてかつての美しい姿を甦らせた。
歴代のカスティーリャ王の居城としてだけでなく、スペイン議会の前進であるコルテス(身分制議会)の舞台としても歴史に名を残している。そして、1474年12月13日に女王イサベルが即位したのもこの城だ。16~18世紀にかけて一部が監獄として使われたが、白雪姫の城のモデルとなったためか現在では古城ウェディングの場所として人気を集めている。

女王イサベル・ラ・カトリカは3歳で父王が他界したときに異母兄エンリケ4世によって追放され、不遇な少女時代を送っている。22歳になった1473年のクリスマスにこの城で再会して和解し、エンリケ4世は妹にこの城に住む許可を与えた。だが、王となったがなかなか子宝に恵まれなかった兄に娘ファーナが授かったものの父親が本当にエンリケ4世なのかと疑いが生じ、王位継承問題が勃発。セゴビアのみならずカスティーリャ全土の民衆が、優柔不断なエンリケ4世よりも、また不義の子かもしれないファーナ王女よりも、頭脳明晰といわれたイサベルを待望し始める。
イサベルは地中海に領海権を持つアラゴン王国の王子フェルナンドと密かに会って結婚し、内紛続きの国内問題に取り組んで、兄王がこの世を去った2日後の早朝、白の喪服姿に身を包んで城から300mほど下ったところにある中央広場まで馬で出向き、市民に歓呼で迎えられてサン・ミゲル教会前のその広場で戴冠式を行った。この日が、スペインの近代の始まりの日だといわれている。
その5年後、夫のフェルナンドがアラゴン王となりカスティーリャ・アラゴン連合王国が誕生する。カトリック両王となった2人は700年間のレコンキスタを完了させ、子供にも恵まれてハプスブルク家やイングランドと婚姻を結んで縁戚となり国の繋がりを保つことに努めたが、子供たちは不運の道を辿ってしまう。特に次女フアナは神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公(金髪碧眼の美青年)に嫁いだ後精神を病み、イサベルはそれに心を痛めながら1504年に波乱万丈の生涯を終えた。享年53歳。
スペインを統一し黄金時代の幕を開けたイサベラは、スペイン史上最高の名君と謳われている。

私たちは、アルカサールを崖の下の広場から見上げた。またもや“外観を見るだけ見学”である。......(;_ _)/| あぁ…
広場は芝の広がっているところがあり、グラナダのアルハンブラ宮殿のときと同じくポプラの綿が雪のように舞っていた。アルカサールを背景にして強い陽射しの中を舞う綿雪はとても幻想的である。残念ながら、写真にするとその綿雪はよく見えなかったが……。


ローマの水道橋5分弱の後バスに乗って移動し、今度は艦艇の船尾部分にあたるローマの『水道橋』前のロータリーで下車した。
トラヤヌス帝の時代である1世紀後半に建造されたこのローマ水道橋は、フエンフリア山脈から流れる17km先のアセベタ川の水を町の最も高い場所にまで供給するために造られたものだが、漆喰などの接着剤も留め金も一切使用されておらず、なんとグアダラマ産の花崗岩を積み重ねただけだという。アーチ部分ももちろん同様で、石と石が互いに支え合い反発する力を利用して造られているのだとか。当時の土木技術の高度さにひたすら驚かされるばかりだ。Σ( ̄□ ̄*)すご過ぎる!!
『悪魔の橋』という異名を持つこの驚異の水道橋は全長728m、高さ約28m、幅約4mで、122の柱と163のアーチから形成されている。5世紀になって西ローマ帝国を滅亡させたゴート族とバンダル族が攻め入ってきたが、重要な水路であるこの橋は破壊しなかった。ところが、1072年にモーロ人によって橋の一部(アーチ36個分)を破壊されてしまう。1484年にイサベル女王の命により修復され、1884年まで町に水を供給し続けてきた。1928年に水道管が設置され主要水路ではなくなったが、約70年前に通されたパイプを利用して現在でも水道橋の役割を担っている。2000年にわたって脈々と水が供給され続けているのだ。( ̄▽ ̄*)素晴らしい!
聖母マリア像『悪魔の橋』と呼ばれるようになった所以は、ローマ帝国滅亡の後橋の造営技術も滅び、当時の人々には到底理解できない構造だったため「悪魔が一夜で造った橋」という伝説が生まれたためだとか。それなら、「神様が一夜で造った橋」でもいいんじゃないのかなぁ……。悪魔が人助けの水道橋を造るのもおかしな話だし。┐( ̄o ̄;)┌
ちなみにセゴビアの名物料理は『乳飲み仔豚の丸焼き(コチニーヨ・アサード)』だそうだが、水道橋の南側にある『メゾン・デ・カンディド(Meson de Candido)というレストランが有名らしい。『乳飲み仔豚の丸焼き』はその料理名どおり、母乳だけで育った生後3週間足らずの仔豚を、内臓だけ取り出してそのまま釜戸で蒸し焼きにした料理。……( ̄- ̄;)


水道橋をくぐって、アソゲホ広場を突っ切る。道案内は添乗員さんだ。ただし現地ガイドはセゴビアでもつかずバスの中で説明を受けただけで、スペインの法律上添乗員さんは無言で歩き進むだけである。
アソゲホ広場から振り返って水道橋を見上げると、広場の中心に位置する場所に設けられた四角い窪みに聖母子像があった。当初はローマ皇帝とヘラクレス像がだったらしいが、1520年に聖母子像に変えられたそうだ。
レストランや土産物店が並ぶメイン通りを登っていくと、右側に奇妙な壁の館が見えてきた。16世紀に改修された貴族の邸宅『ピコス家の館(カサ・デ・ロス・ピコス)』である。“ピコ”はスペイン語で“先の尖ったもの”という意味を持ち、その名のとおり壁面はピラミッドを貼り付けたようなダイヤモンド・カット状の装飾で覆われている。もとは15世紀にフエンサリーダ伯爵家の館として建造されたもの。『くちばしの家』という別名もある。
サン・マルティン教会ピコス家の館
その先にはメディーナ・デル・カンポ広場があり、右に12世紀後半に建造された『サン・マルティン教会』がある。教会前に、かつてカスティーリャ地方に起こった反乱の際に活躍したフアン・ブラボ像が立っている。さらに坂道を登るとマヨール広場に出、その優雅な外観から“カテドラル(大聖堂)の貴婦人”という呼称で知られる『カテドラル(セゴビア大聖堂)』が見えた。
旧カテドラルが1521年に反乱による火災で焼失してしまったため、現在のカテドラルは1525~1768年にかけて再建され、ルネッサンス様式の最盛期ながらスペイン・ゴシック様式最後の建築物となった。設計はサラマンカの新大聖堂と同じヒル・デ・オンタニョン。88mの鐘塔を持ち、円天井は約33m、奥行き105m、幅48mで、内部の彫刻やステンドグラス、特に内庭の回廊が美しいという。
カテドラルマヨール広場からは自由散策となったが、このカテドラルも添乗員さんから有料と聞いていたため時間もないことだし入らずに外観だけを写真に収める。が、有料なのは実は附属の美術館だけ。サラマンカのカテドラルでもそうだったけど、正確な情報を教えてほしいものだ。┐( ̄_ ̄;)┌
まぁ、考えてみれば教会は本来万人を受けれる場所であるはずだから、入るのに有料というのもおかしな話なのかもしれないが。

マヨール広場にはカテドラルだけでなく他に市庁舎やサン・ミゲル教会もあるが、私たちはとにかく水道橋に登れるなら登りたいと思っていたため、カテドラルは入口まで行ってみたものの「有料やったら……いっかぁ」と見学をやめてメイン通りを下り始めた。途中、見晴らしのいいカフェテラスから市街の写真を撮ったり、お店の入口で翼のある豚のおもちゃがぶんぶんと飛んでいるのを見つけたりして15分ほどでアソゲホ広場まで戻った。
何かイベントがあるようで着々と準備が進められていて、少し目障りなことに巨大なコカ・コーラ缶が水道橋の聖母マリアの真下に当たる位置にでんと陣取っている。家の2階の屋根にも届きそうな大きさである。
上り口は、そんなコカ・コーラ缶の横奥にあった。緩やかな階段に続いて、城壁伝いに階段が設けられている。
その階段を登ってみると2層アーチの上のアーチ部分で階段が終わっている。ここで終わりかと思ったが、左側へ城壁をくぐるようになっていたため行ってみた。そこから右側にさらに登れるようになっていて、ロータリー側にある展望台に出ることができた。水道橋の頂が目線より少し高い場所にくる位置にある。橋の上は歩くことができないが、城壁越しに水道橋を眺められるこの展望台は絶好の写真スポットだ。
水道橋ちょうど一人旅のおじさんもそこにやってきたため、3人で記念写真を撮ってもらう。
お返しにおじさんも撮ってあげてから、展望台を降りる。城壁をくぐって階段を降りているところで京都のKさん夫妻に会い、Kさんのビデオカメラで水道橋をバックに撮影をお手伝いした。

水道橋の下に立って石の1つの大きさに改めて驚き、見上げてみてアーチの部分がなぜ2000年もの間落ちずにしっかり組まれているのかと不思議に思って首を傾げる。
驚異の石組み石と石の反発力を利用して、といわれてもさっぱりわからない。(;一一)ゞ
本当に「凄いなぁ」としか言いようがなかった。
そろそろ時間であるため、バスが停まっているロータリーの一角に向かう。やっぱり、時間的に他を見ていたら水道橋をろくに見ることもできずに出発する羽目になるところだった。(;~ ・~)> ふぅ…あぶないあぶない


18時にセゴビアを出発し、牛が放牧されている場所もあるのどかな山を越え『マドリード』に入ったのは19時を過ぎた頃。
マドリードがスペインの首都となったのは1561年のこと。それまで首都だったバリャドリードから、「心臓が人体の中心にあるように、首都もそのように」というフェリペ2世のひと言と星占いにより移された。フェリペ2世の言葉どおり、イベリア半島のほぼ中央に位置している。
バリャドリードは現在マドリードの北西約200kmにあるカスティーリャ・イ・レオンの州都で、人口約50万人の商工業の中心都市である。カトリック両王が婚礼の儀を行い、太陽王と呼ばれたフランスのルイ14世の母ドニャ・アナの生誕地であり、コロンブスが没した地であり、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスが住んでいた場所でもある。日本では、2000年1月にサッカー選手の城彰二がリーガ・エスパニョーラのサッカーチーム『バリャドリード』に移籍したことでも知られている。
メセタと呼ばれる中央台地の中心部に位置しているマドリードの標高は646m、今では人口約300万人の大都市だ。その起源は9世紀にイスラム王国のムハンマド1世が砦を築いたことから始まり、1083年にアルフォンソ6世によってキリスト教徒が奪回してイスラムの本拠地であったトレド攻略に備え、17世紀の終わりには町の外側に城壁が築かれた。この城壁跡が現在はセゴビア、トレド、バレンシアなどへ続く道路となっている。スペインにはアラビア語が語源のものが多いが、首都であるマドリードの語源も砦を意味するアラビア語“マヘリット”が始まりとされている。
マドリードはスペイン語の発音だと“マドリー”あるいは“マドリッ”という感じになり、“ド”は発音されない。日本語では“マドリード”や“マドリッド”といわれるがどちらか決まっていないそうで、要するにどちらも正しいのだとか。
また、マドリードは“不夜城”と呼ばれるほどナイトライフが盛んな街でもある。ヨーロッパ一眠らない街とも言われ、真夜中の1時や2時などまだ宵の口で、午前4時以降に帰宅ラッシュが起こるほどなのだそう。
いったいいつ寝るんだ……。(◎_◎;)びっくり…


レアル・マドリードのスタジアム19時15分頃、右の車窓にサッカーをよく知らない人でもその名は知っているだろうサッカーチーム『レアル・マドリード』のホームスタジアム、『サンチアゴ・ベルナベウ』が見えた。←私もサッカーをよく知らない人の1人(;一一)ゞ
サンチアゴ・ベルナベウとは、1943~1978年にレアル・マドリードの会長を務めた人物の名前である。土地はあったがなかなか融資を得られなかったスタジアム建設に際してベルナベル会長の努力と粘りが銀行を動かし、1947年にチャマルティン・スタジアムが完成。12月14日に7万5000人以上の観客に見守られて落成記念試合が行われた。その後拡張工事が行われて1954年6月19日に完成し、『新チャマルティン・スタジアム』や『カスティリャーナ・スタジアム』など多くのスタジアム名候補があがった中、レアル・マドリードのファンの投票によって『サンチアゴ・ベルナベウ・スタジアム』に決定された。(* ̄- ̄*)いい話やわぁ
1982年にW杯スペイン大会のために改装され、さらに1990年にも拡張工事が行われ、現在のスタジアムとなったのは1994年5月7日である。その後も座席やスタジアム内の様々な施設の改装が続けられ、スタジアムの5つ星とされている。
レアル・マドリードの設立は、1902年3月6日のこと。サッカー愛好家グループが作ったマドリード・フットボールクラブが、その強さから1920年6月29日に“レアル”の称号を当時の国王アルフォンソ8世より与えられ、レアル・マドリードと改称した。レアルとは“ロイヤル”のことである。そのときから、チームの紋章に王冠が乗せられた。『エル・ブランコ(白い巨人)』という異名を持つ名門チームとなり、王者の中の王者といわれている。そのため、スペインのサッカーチームの中にはレアル・マドリード以外に“レアル”を冠するチームが12あるが、ただ『レアル』といえばレアル・マドリードのことを指すほど。


バスはちょうどスタジアムのところで左折し、そこからさらに走るのかと思ったら、スタジアムの目と鼻の先にこの日宿泊するホテル『HOLIDAY INN MADRID(ホリデイ・イン・マドリード)』があった。
マドリード市内地図ホテルのロビーに入るとそこに市内地図が貼ってあり、さっそくホテルの位置を確認してみる。そして、闘牛場の場所を。
私たちは翌日、闘牛観戦を予定していたのだ。だがツアーには含まれておらずオプショナルツアーもないため、旅行前に日本からインターネットを利用してマドリードの旅行社に依頼し、個人でチケットの手配をした。最初は旅行社に頼もうとしたが、チケットを取るために現地ガイドさんにお願いしないといけないため、チケット代に加えて現地ガイド代がかかると言われかなり高額になるため断り、インターネットで調べまくったのだ。初めての経験でドキドキしたが、取引は無事に終了。ε=(-。-;)ほっ ……いや、この手にそのチケットを受け取るまでは終了とは言えない。o( ̄_ ̄;)oドキドキ…
そして、フロントの人に添乗員さんから訊ねてもらった。チケットはホテルに届けてもらうことになっていたからだ。もし届いてないと言われたどうしようと緊張したが、私の名前が記された大きな茶封筒を渡してもらい「グラシアス!」と安堵しながらお礼を言う。ε=(*^。^*)ほっ
高槻のKさん夫妻もチケットを手配してもらおうとフロントの人に話してみたものの、なんと人気の闘牛士が登場するとかですでに完売してしまっているらしかった。残念そうだったKさん夫妻だが以前に観たことがあるそうで、「感動するよ~!」と私たちに闘牛の素晴らしさを語ってくれた。
ちなみにホテルは地図の一番上の左側の○印、右がサンチアゴ・ベルナベス・スタジアムで、闘牛場の場所は右端の○印。

闘牛のチケット部屋に入って、さっそく開封してみる。
中からひと回り小さな茶封筒が出てきて、さらにそれを開封する。そこから、丁寧な挨拶状と闘牛場の座席配置図、そして3枚のチケットが現れた。Σ( ̄▽ ̄*)
闘牛場の座席には日陰席(ソンブラ)、日向・日陰席(ソル・イ・ソンブラ)、日向席(ソル)の3種類があり、日陰席がいちばん値が高い。チケット代は闘牛士のランクによっても違うそうで、前列から最後列にかけてもいくつかに区分けされていて、約1万円から300円まで様々。ちなみに、砂かぶり席(バレーラ)と呼ばれる最前列の席もある。
私たちは日向・日陰席をお願いしていたのだが予約開始前にすでに会員予約などで満席となっていたそうで、手配してもらったチケットはなんと日陰席だった。希望よりは7~9列ほど後ろの席でちょうど真ん中あたりだったが、なんといっても日陰席が闘牛を見るにはベストの席なのだから文句のあるはずもない。それに、予想外に入手困難なチケットだったのにしっかりと手配してもらっただけでも大満足である。
日陰席がベストである理由は、1日に行われる6頭の闘牛のうちの4頭の見せ場が日陰席の前で行われるからだ。それともう1つ、スペインの強い日射しをしばらくの間まともに受ける日向席は、暑いうえに眩しくて観づらい。そのため、日向席よりもチケット代が高いというわけ。
何はともあれ、良かった良かった♪(*^o^*)


20時過ぎ、夕食のために再びバスに乗ってホテルを出発した。
前の席がまた和歌山のIさん夫妻で、しばらくしてIさんのだんなさんが窓の外を指した。そこにあったのは、フェルナンド・ボテロの彫刻だった。たぶん手だったように思う。はっきり見る間もなく通過してしまったのだ。
リスボンで昼食をとったレストランの前にも彫刻があってそのときにIさんにボテロの話を聞いていたのだが、まさかマドリードでも見かけるとは思っていなかった。だがIさんいわく、以前マドリードを訪れた際には1つだけではなく散策した道にズラリと並んでいたらしい。
帰りにも通るだろうから、その時には見逃さないようにしっかり見ようと頷き合う。
ボテロは1932年に南米のコロンビアで生まれた画家であり彫刻家で、対象に大胆なデフォルメを施してふくよかに表現する独特の作風が世界的に人気である。その作品をひと言でいえば、「豊満」だろうか。1973年からそれまでの絵画に加えて彫刻の制作を始め、1992年にパリのシャンゼリゼ通りで行われた野外彫刻展を機にニューヨーク、ワシントン、マドリード、ベネチアと次々に世界各地で展示され、どれも評判を呼んだという。
マドリードで展示されたのは1994年のこと。Iさん夫妻がいつ旅行されたのかは聞いていないが、おそらくその野外彫刻展が開催されているときなのかもしれない。

中央郵便局ライトアップされた中央郵便局それからも車窓を眺めていると、右折するときに彫刻のある噴水と、その向こうに宮殿のような立派な建物が見えた。添乗員さんが中央郵便局だと教えてくれる。Σ( ̄□ ̄*)えぇ~っ郵便局!?
ここは『シベレス広場』と呼ばれているロータリーで、その中心に噴水があるのだ。マドリードは車道が交わる所はほとんどロータリーになっていて、様々な彫刻や噴水などで飾られている。
シベレス広場の噴水の彫刻は、戦車に乗った豊穣の女神シベレスを2頭の獅子が引いているもので、マドリードでも特に重要な建物に囲まれ、街のシンボルの1つである。レアル・マドリードが優勝するとサポーターたちがなんとこの噴水に飛び込んだりして大騒ぎになってしまうのだとか。警察も出動して警備にあたるらしい。そりゃあ車道のど真ん中で騒がれたら困るよねぇ。(^-^;)
中央郵便局は1905年に建てられたネオ・クラシック様式の建物で、夜にはライトアップされて昼間とは違った美しさを見せてくれる。ライトアップされるほどの郵便局なんて、世界中探してもそうそうないんじゃないだろうか。
他に旧ブエナビスタ宮殿で現軍事総司令部の庭園や現在アメリカ文化センターとなっている1878年に建てられたネオ・バロック様式のリナレス邸、海事博物館、ネオ・ルネッサンス様式のスペイン銀行が広場に面している。


夕食場所シベレス広場を右折し、アルカラ通りを5分ほど進んだ所に夕食をとるレストランが地下にある『MUSEO de JAMON』があった。ハム博物館というその名のとおり、店内は壁という壁に各種の生ハムが吊るされている。
頭上にSALONES(ホール)と記された階段を降りると、そこがレストランになっていた。20時半になろうかという時間だったため、さすがに地元の人らしいお客さんたちも食事を始めていて店内はほぼ席が埋まっている状態だった。私たちのツアー一行は、一段高くなっているフロアを貸切にして食事を始める。
出てきた料理は当然のことながらハム各種。少し塩味が強く、野菜に巻きつけて食べたい感じである。同じテーブルにかなりのハム好きだという富山のTさんというおじさんがいたが、「さすがに連日ハムばっかりじゃ飽きる」と苦笑していた。ハム好きでさえそうなんだから、ハム好きとはいえない普通の私には少々キツイ。
ふと気づくと、京都のKさん夫妻たちのテーブルにサラダらしきお皿が乗っている。
「あっΣ( ̄▽ ̄*)、サラダ来るのかもっ」
期待して待ってみたが、いっこうに来る気配がない。そこでKさんに訊ねてみると別注したものだと教えてくれた。
魚料理ハムなんや……そうなんやぁ。С=(_ _;)がっかり…
注文しようかとも思ったが、結局やめておく。それにしてもこんなに野菜に飢えるなんて、ここ数日の野菜の少なさが知れようというものだ。┐( ̄- ̄;)┌
メイン料理はまたもやフライドポテトがついていたが、今回は肉ではなく白身魚だった。そして「またか……」と思わず呟いてしまうチョコとバニラのアイスクリームがデザートに出てくる。せめて違う種類のアイスクリームにして……。(T_T)

食事を終え、お店の外でJさんがバスを回してくれるのを待つ。その間和歌山のIさん夫妻や周りの人たちと会話を楽しみ、バスに乗ったあとは私の横にIさんの奥さんが座って、ホテルまでの間も話が弾んだ。とても楽しいご夫妻である。
ボテロの彫刻を探すことも忘れてはいなかったが、暗い上に黒い彫刻のためか見逃してしまった。
そんなわけで、手だったかどうかは未確認のままだ。



■目次へ ■次へ

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: