月の旅人

月の旅人

駆け足のプラド美術館

駆け足のプラド美術館




8時から、フロント前のレストランで朝食を取った。なかなか種類が豊富で、フルーツもたっぷりある。その中にはメロンも。(≧∇≦)b よしっ
ジャムも小瓶で山積みされていたし、オムレツやスモークサーモンまであった。野菜不足はマッシュルームとトマト、さらにトマトジュースで少しばかり補う。このホテルに2連泊できるのはちょっと嬉しい、と朝食だけで思ってしまった。(笑)
メタリック・ベッカムのポスター朝食後は出発まで少しだけできた時間の余裕を利用して、サンチアゴ・ベルナベス・スタジアムまで行ってみた。そこでベッカムに……会えなかった。代わりに全てが銀色のメタリックなベッカムがボールを今にも蹴ろうとしている姿のポスターを何枚も見かけ、Nさんがカメラに収める。少しだけスタジアム入りするベッカムに会えるかと期待もしてみたが、9時ではまだ早過ぎるのか閑散としていた。
ホテルへ戻る道中にバス停があり、そこに設置された待合所の透明な壁にアフロ頭が描かれているのを発見して、みきちゃんと私の目がキラリと光る。おもしろ写真スポットレーダーが感知したのだ。(笑) 日本だと観光地にある『顔出し(顔ハメ)看板』に似た感じである。でも観光場所でもなんでもないただのバス停にそんなものがあるなんて、スペイン人ってユーモアがあるなぁ。ちょうど口からあごの辺りにかけて白いストライプが入っていて邪魔なことをのぞけば、なかなかおもしろい写真が撮れた。朝から食事も満足したうえ思わぬところで笑えて、いい一日になりそうな予感大?((o(*^^*)o))わくわく


現地ガイドさん2人を乗せ、9時半にホテルを出発。いよいよ、というかとうとう、スペイン・ポルトガル旅行最後の観光の始まりである。
サンチアゴ・ベルナベス・スタジアムの前を右折するとき、日本人ガイドのIさんが言った。選手たちの練習は基本的に平日に行われる、と。Σ( ̄- ̄;)!? そしてさらにIさんが言った。ベッカムは今スペインにいない、と。Σ( ̄□ ̄;)!!
……期待する以前の問題だったようだ。特にファンではないとはいえ、やっぱり会えるものなら会ってみたかったんだけどなぁ。(_ _。)がっかり…

出発から10分ほど経った頃、1780年に造られた『ネプチューンの噴水』のあるロータリーのカノバス・デル・カスティーリョ広場に出た。ネプチューンの噴水の作者は、シベレス広場の噴水と同じベントゥラ・ロドリゲス。『プラド美術館』はそのすぐ傍にあった。バスを停めた道の左側にはマドリードの名門ホテルの1つ、1910年創立の『ホテル・リッツ』が宮殿のような佇まいを見せていた。プラド美術館と隣接しているという最高の立地である。( ̄- ̄*)さすがやぁ
プラド美術館ゴヤの門プラド美術館は、1785年にカルロス3世の命により自然科学博物館として建築家フアン・デ・ビヤヌエバ設計で建てられたネオ・クラシック様式の建物である。だが途中フランスとの戦争によって建設工事が中断してナポレオン軍の宿舎兼火薬庫とされたり、独立戦争によってさらに建設が頓挫し、フェルナンド7世の時代にようやく工事が再開され、1819年に王立美術館として開館した。
美術館として利用されることになったのはフェルナンド7世の3番目の妻マリア・イサベル・デ・ブラガンサが進言したことによるそうで、ベラスケス門のホールに彼女の坐像が創設者として飾られているとか。
世界三大美術館の1つに数えられているプラド美術館の所蔵絵画数は8000点を越え、展示されているのは約3000点ほどである。常時見ることができるのは約3分の1しかないのだ。ガイドのIさんが、プラド美術館の所蔵品には盗品や略奪によって納められたものは1点もないと教えてくれた。лヾ( ̄o ̄*)へぇ~ そう言ったIさんは、まるで自分のことのように誇らしげである。もうすっかりスペインに染まっている感じだ。
そんな所蔵品はどれも15世紀以降に王室が私財を投じて代々収集してきたもので、つまり展示品はいわば国王の私有財産だった。王室が収集した美術品の数では世界一だそうだ。その当時の美術館は維持費も王室がまかない、開館するのは週1回で、入館するには許可を必要とした。国有化されたのは1868年にブルボン王朝が追放されてスペインが共和制になったときで、王立美術館を改め国立プラド美術館と改められた。現在も12世紀ロマンネスク絵画から、ゴシック期、バロック期の19世紀初めまでの作品など、その所蔵品は増え続けているという。


正門であるベラスケス門、ゴヤ門、ムリーリョ門があり、それぞれの画家の像が来場者を迎える。私たちが入ったのはゴヤ門からだった。
日曜日は入館無料という素晴らしい美術館だが、土曜日の午後と日曜日の午前は団体入場ができないためガイドさんも入れないということで、車内で「これは見逃すな」という名画の場所が記された館内図を渡され、各自で見学することになった。時間は11時半までの約1時間20分。絵画に興味のない人は入らなくてもいいというある意味フリータイムのような感じだったため、何人か入館しない人もいた。
私たちは入口に少しできていた列にさっそく並び、3分ほど後にセキュリティーを通った。1998年6月9日から設置されたもので、所持品は厳重に検査が行われる。私は、ここでまたもや止められた。持っているのはデジカメ用ショルダーポーチだけで、やましいものなど持ち合わせていない。が、係員が眉をひそめて不審がり傍の同僚にまで声をかけたのは、またしてもデジカメにつけていたミニ三脚だった。関空に続いて2度目である。/(>_<)\なんで~っ!?
結局ミニ三脚は取り外して預けることになり、番号札をもらった。取り出しやすくて便利だから、常につけてるだけなんだけどなぁ……。(;一一)ゞ

ボッシュ『快楽の園』とにかくまずは見るべきものをとにかく見てしまおうと急いで進むと、人だかりのできている絵画があった。何だろうと覗き込むと、まず最初に館内図に紹介されているボッシュの『快楽の園』だった。当時まだフランドルと呼ばれていたオランダの宗教画家ヒエロニムス・ボッシュの代表作で、とにかく写真を撮っておこうと思うものの人の頭を避けながらの撮影だったため、ただでさえ暗いのに腕を伸ばした不安定な状態でかなりブレてしまった。
プラド美術館はフラッシュを使用しない写真撮影を許可していて、さらに模写までさせてくれるという懐の大きな美術館なのだ。だからといって、写真の腕は本人次第。←ヾ(ーー;)当たり前やん
というわけで、右側にブレが鬱陶しくない程度の小さな画像を。……え? まだ鬱陶しい?┐( ̄▽ ̄;)┌
ファンタジーな雰囲気に溢れる画風で人気を集めたボッシュの名はスペインへも届き、多くの作品がスペインに運び込まれることになった。そのあまりに独創的な絵から、“地獄と怪物の画家”といわれていたという。
『快楽の園』は絶対君主といわれたフェリペ2世がその王宮エル・エスコリアルに飾っていた。三連祭壇画として描かれたもので、左右は扉となっていて開閉することができる。制作年は1505~1516年頃と推定されているが、確かな年はわかっていない。扉を閉めた状態にすると、そこに描かれているのは“天地創造”である。透明な球体の中に平面になった地球が浮かび、その下の部分は下界、上の部分は雲が渦巻き天空を表してる。
扉を開いた内側部分の左翼に描かれているのは“エデンの園(地上の楽園)”。アダムとイブが描かれ、神が生まれたばかりのイブの手を取って導き、アダムに引きあわせている。アダムとイヴといえば共に描かれる蛇の巻きついた知恵の木は、まるで彼らとは無関係であるかのように遥か後方に描かれている。対して右翼に描かれているのは“地獄”。知恵の木の実を食べた人々が落ちてしまった地獄の辛苦を表し、なんとも奇怪な生き物や人間が描かれている。この中に薄笑いを浮かべて振り返っている男の姿があり、これがボッシュの肖像画だといわれている。
そして中央部分に描かれているのが“快楽の園”。愛と快楽が題材であるこの中央画には円形と卵形が多用されており、それぞれ豊穣を意味する宇宙(子宮)を表している。
『快楽の園』をはじめ現存するボッシュの作品は25点しかないが、そのうちの10点がプラド美術館に所蔵されている。


デューラー『アダム』と『イヴ』プラド美術館の展示室はよく変更されるようだが、この『快楽の園』からしてすでにもらった館内図に示された場所と異なっていた。なんたってプラド美術館内の案内パンフレットすらあてにならないのだ。時間のないツアー観光客にとってはちょっと困りものである。
『快楽の園』を通り抜けてさらに奥へ進み、3つ目の部屋でとりあえず館内図を信じて左に曲がった。壁に行く手を塞がれてまっすぐに進めず左へ行ったり右へ行ったりしながら、その途中でデューラーの『アダム』と『イヴ』を見つけた。
1471年にドイツで生まれたアルブレヒト・フォン・デューラーは、ドイツ・ルネッサンスを代表する画家であり版画家である。
妹とドイツ旅行をしたときに訪れたニュルンベルク旧市街に、彼が1509年から1528年に亡くなるまで制作に没頭した家が記念館として残されていた。前を通っていながら見逃したけど……。( ー_ー)フッ
それはともかく……1512年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の宮廷画家となって諸外国にも名を広めたデューラーの作品中、最も著名なのが1507年に制作されたこの『アダム』と『イヴ』である。ドイツの絵画史上初めて描かれた等身大の人間とされ、完全な肉体の理想像といわれている。見てのとおり、神によって天地創造が行われた6日目に作られた最初の人間アダムとその妻イヴが禁断の果実である知恵の実を手にした旧約聖書の一場面が描かれていて、2人が持っているのがその知恵の実である。これを口にしたばかりに、神の怒りをかって楽園を追放されてしまうのだ。
プラド美術館は意外に混雑しておらず、さっそくみきちゃんとその『アダム』と『イヴ』のポーズを真似て撮った。(笑)


エル・グレコ『胸に手を置く騎士』そしてすぐさま移動を開始し、1548年に制作されたティツィアーノの『ヴィーナスとオルガン奏者』2種類を見、その少し奥に2つ目の「これは見逃すな名画」であるエル・グレコの『胸に手を置く騎士』を見つける。ここは『エル・グレコの部屋』と呼ばれ、他にもグレコの名画が集められていた。
1541年に生まれたエル・グレコはクレタ島生まれのギリシャ人で、本名はドメニコス・テオトコプーロスという。エル・グレコとはスペイン語で“あのギリシャ人”という意味なのだ。グレコと呼ばれることは諦めて受け入れた彼だったが、作品にはどこかに必ず本名でサインを入れている。それを見つけ出すのも楽しいものかもしれない。ローマで学び、保護を受けていたスペイン担当の枢機卿ファルネーゼによって35歳のときにスペインを訪れ当時の首都であったトレドに定住したグレコは、近世スペイン画の祖といわれるまでになり、16世紀のスペインを代表する宗教画家として活躍した。
『胸に手を置く騎士』は、グレコの青年時代を描いたのであろうとされている。静かにこちらを見つめるその目と、時空を越えて視線が合ったような錯覚に陥る。グレコは卓越した肖像画家でもあり、対象となる人物を誇示することも飾り立てることもなくありのままの姿で描き出した。そのため時には不興を買ったこともあるようだ。(^-^;)

続いて『受胎告知』、そして『聖三位一体』を鑑賞する。『聖三位一体』は、グレコがスペインへ来て最初に描いた作品である。ちなみに最後の絵は『羊飼いの礼拝』。
エル・グレコ『聖三位一体』エル・グレコ『受胎告知』『聖三位一体』は父なる神と精霊である鳩、受難後のキリストが同一に神格であることが表現されている。キリストの姿がどこかミケランジェロの『ピエタ』に似ているのは、きっとローマで学んだときにサン・ピエトロ寺院で見たんだろう。


さて、とにかく次はゴヤの『着衣のマハ』、『裸のマハ』を目指して2階へ急ぐ。もちろん「これは見逃すな名画」の1つである。
その2枚のマハに辿り着く途中に『アダムとイヴ』を見かけた。とりあえずNさんが写真を撮っただけで通過する。こんなに大急ぎで名画の前を通り過ぎる日本人を、周りの人はいったいどう思って見ていたんだろう。(;^_^A
2枚のマハは、さすがに人垣ができていたためすぐにそこにあることがわかった。なかなか人が途切れず、鑑賞はもちろん写真を撮るのにも時間を取ってしまった。
『着衣のマハ』と『裸のマハ』の作者であるフランシスコ・デ・ゴヤは、スペインを代表する3大画家の1人(他の2人はベラスケスとエル・グレコ)である。1746年に生まれ、7歳ですでに画才を認められたゴヤは、78歳で亡命するように移住したフランスのボルドーで1828年にその生涯を終えるまで絵を描き続けた。が、カルロスj3世の宮廷画家となりスペイン最高の画家という地位を得たのは、ゴヤが40歳になったときだった。その3年後に新王カルロス4世の宮廷画家となり、さらにその10年後の1799年に主席宮廷画家となったが、その間の1792年に病に侵されて聴力を失っている。代表作として知られている『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード1808年5月3日』、『カルロス4世の家族』、『巨人』などはどれも聴力を失った後に描かれたものだ。
”近代絵画の父”といわれるゴヤの作品の多くはプラド美術館をはじめスペイン国内の美術館に集まっていて、プラド美術館だけでも油絵はもちろん版画からスケッチに至るまで600点以上の作品が所蔵されている。
ゴヤ『裸のマハ』

『着衣のマハ』の制作年は1800~1805年頃、『裸のマハ』の制作年は1797~1800年頃とされていて正確な年はわかっていないそうだ。
デューラーの『アダム』と『イヴ』がドイツ絵画史上初めて描かれた等身大の人間ならば、『裸のマハ』はスペイン絵画史上初めての裸体画だといわれている。来客のある日だけ『裸のマハ』を『着衣のマハ』で覆い隠していたらしいが、そのうち公になってしまったようで異端審問所から追求を受けたこともあるという。そのモデルとなった女性が誰なのかは謎のままで、そもそもモデルがいたのかどうかもわかっていない。マハとは名前ではなく“いい女”という意味だそうで、他にヴィーナスやジプシー女など様々な愛称で呼ばれている。
注文したのは美術品収集家として有名だった宰相ゴドイだといわれ、マハは彼の愛人だったアルバ公爵夫人やペピータという女性など様々に憶測されていて、マハの顔がペピータに似ていると言う者もいたらしい。
そのゴドイ邸にはベラスケスの『鏡のヴィーナス』があり、この名作に並ぶ裸体画をゴヤに依頼したと推察されている。
ちなみにロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている『鏡のヴィーナス』は神話を題材としているため、同じ裸体画でも意味が違うようだ。
ゴヤ『着衣のマハ』
ほんと、『裸のマハ』が異端審問の追求にあったというけど、神話や聖書を題材にした絵画は裸体だらけなのにねぇ。┐( ̄▽ ̄;)┌
あ、異端審問から逃れるためにマハのモデルが明かされなかったのかも?
ともあれ、200年の時を越えてその神秘的な微笑が世界中の人々を惹きつけていることに変わりはない。

そんな名画の前で、わずかに人が途絶えた隙を突いて写真を撮る。みきちゃんに続いて私も撮ってもらおうとしたが、そうそう甘くなかった。またもや人だかりができてしまい、仕方なくたくさんの人の頭越しにマハと撮った。(_ _。)
並んで展示されている2枚のマハを1枚の写真に収めようとタイミングを窺っているとき、誰かがフラッシュを光らせた。すかさず係員が飛んでくる。そして、注意した。
私に。Σ( ̄□ ̄∥)はっ!?
なんで私がっと自分じゃないことを身振り手振りで訴えてみたが、係員の女性はじろりと私を睨んで聞く耳も持たず離れて行き、また辺りに目を光らせていた。(;`O´)oコラ~ッ
ちょっと不愉快に思いながらあと数枚マハを撮ってその場を離れる。マハだけで15分も経過してしまっていた。急がねばっ!


幸い、ベラスケスの『ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)』はすぐに見つかった。磨りガラスの天窓からやわらかな陽光が射しとても明るい展示廊の中程に、またもや人だかりができていたのだ。
ベラスケス『ラス・メニーナス』かつて王の私室に飾られていたという『ラス・メニーナス』は、世界三大名画の1つと謳われている名画中の名画である。スペインが誇る20世紀絵画の巨匠ピカソもこの絵にインスピレーションを受けて40枚以上の連作を残し、他にもモネやダリなど多くの画家が同じくインスピレーションを得たという。ベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』の影響を受けて『笛を吹く少年』を描いたマネは、「画家の中の画家」とベラスケスを讃えた。
そんなディエゴ・ロドリゲス・デ・シルヴァ・イ・ベラスケスは1599年6月6日にセビリアで生まれ、ゴヤと同じく幼い頃から画才を発揮していた。24歳となった1623年にフェリペ4世の肖像を描いたのを機に宮廷画家となり、国王や王女をはじめ宮廷内の人々の肖像画や宮廷内を飾る絵画を30数年間描き続けた。とはいえ、ベラスケスがその生涯に描いた絵画は120点前後で、使節としてスペインを訪れたルーペンスの誘いでイタリアを訪問したのを境に遠近法や学んだ解剖学を絵画に反映させたが、2度目のイタリア訪問の帰国後である1651年以降はわずかに10作品しか描いていない。その10作品の中の1作が、1656年に描かれたこの『ラス・メニーナス』である。

『ラス・メニーナス』『ラス・メニーナス』は王女マルガリータを中心に明暗を駆使して描かれ、侍女や侍従、召使、犬が王女を囲んでいる。左側でキャンバスに向かっているのがベラスケス自身で、その黒い衣服の胸にサンチアゴ騎士団の紋章である赤い十字架が描かれている。フェリペ4世のお気に入りだったベラスケスは当時職人としての地位しか認められていなかった画家だったが、自分の肖像画を描くのはベラスケスただ一人とフェリペ4世に言わしめた画才だけでなく、宮廷内最高位である王宮配室長に昇りつめるほどの長年にわたる努力が実を結び、家柄や血筋をはじめ細部にわたって厳しい審査が行われる権威ある貴族集団『サンチアゴ騎士団』の入団を格別の計らいで許され、貴族に列せられた。その年の1659年に、赤い十字架の紋章を描き加えたベラスケス。それは、彼がこの世を去る前年のことだった。
『ラス・メニーナス』の人物の視線はベラスケスをはじめ鑑賞者の方へ向けられていて、まるで自分がモデルになっているような絵の中の一部にいるような錯覚を覚える。この感覚だけを取っても、『ラス・メニーナス』が名画中の名画、傑作中の傑作と賞される所以がわかる気がした。
では絵の中のベラスケスが実際にそのキャンバスに描いているのは誰なのか、その答えは中央奥にある鏡の中にある。そこに映り込んでいるのは、フェリペ4世国王夫妻。鑑賞者である私たちのいる場所に、国王夫妻がモデルとして立っているのだ。つまり鑑賞者は、国王夫妻の視点で絵画の中の人物たちを見ていることになるというわけ。w( ̄o ̄*)wおぉ~

ベラスケスはイタリアから帰ったあと、『ラス・メニーナス』にも描いているように小人や道化師などをたびたびモデルにしている。宮廷で小人や道化師を養うことが伝統となっていたらしい。そういえば聞こえはいいが、小人たちは奇形であればあるほど重用されて生きた玩具として扱われ、王子や王女たちの身代わりとして体罰を受けたりしていた。( ̄- ̄;)ひどい…
だがベラスケスは、彼らを王家の人々や貴族たちと区別することなく公平にあるがままの姿を描き出していった。その代表作が『道化セバスティアン・デ・モーラ』。残念ながら見逃してしまった……。
でも、門外不出の国宝扱いとなっている『ラス・メニーナス』を鑑賞できただけでも良しとするか!┐( ̄ー ̄)┌


『ラス・メニーナス』を越えてさらに奥の部屋へ行き、ルーベンスの『三美神』に辿り着いた。ここは意外にも人垣がなく、絵画の前に置かれているソファに座ってゆっくり鑑賞することも可能なほどだった。……もちろん、人垣はなくとも私たちには時間がなかったが。( ー_ー)フッ
ルーベンス『三美神』1577年にドイツで生まれ、10歳のときに両親の祖国フランドル地方(英語ではフランダース、現在のベルギー)へ帰郷したペーター=パウル・ルーベンスは、17世紀バロック期を代表するフランドル絵画の巨匠である。
23歳のときにアントワープを離れ芸術の中心地だったイタリアへ勉学に赴いたルーベンスは、マントヴァ公爵によって宮廷画家となった後、30歳のときに重病の母のためアントワープに戻って定住し、スペイン領だった祖国ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)の宮廷画家として1609~1621年まで活躍した。1628年に外交官となり、そのとき訪れたマドリードで22歳年下のベラスケスと出会っている。一期一会とはよく言ったもので、この出会いがなければもしかしたら『ラス・メニーナス』は生まれていなかったかもしれない。( ̄- ̄*)
またルーベンスは多くの画家を集めて『ルーベンス工房』を開き、教会や宮廷の大きな絵画や肖像画だけでなく、タペストリーや本の挿絵、スケッチにいたるまで63年の生涯の中で2500点以上もの膨大な作品を手がけた。

『三美神』は晩年の1637年に描かれ、ルーベンス後期の傑作である。愛の女神ヴィーナスに仕える三美神は、古代神話の時代から優雅さや美の擬人像とされてきた。“愛と欲望とその成就”を表しているとも、“純粋と美と愛”を表しているともされ、また“歓喜と美と快楽”を意味しているとも“恩恵を与える者と受け取る者、そして返礼する者”を意味しているともいわれてきた。だがルーベンスはそういった神話はともかく、豊満で華麗な官能美を描くために三美神を選んだらしい。
ルーベンスの特徴は、躍動感のある構図と大胆な筆遣いに色使いで、ルーベンスが描く女性の肌はまるで血を混ぜて描いているかのように生き生きとした透明感に溢れていると賞されている。( ̄o ̄*)なるほどぉ
私たちは3人でそんな『三美神』のポーズを真似て、ちょうどそこを通りかかった同ツアーの人に写してもらった。そして、それを見た周囲の外国人がまたもやウケていた。美術館って楽しい。(笑)


『アダムとイヴ』『アダムとイヴ』『三美神』の傍にまたもや『アダムとイヴ』が展示されていた。先刻の『アダムとイヴ』であるはずもないが、ものすご~くそっくりである。ちなみに左がマハを鑑賞する前に見た『アダムとイヴ』だ。どっちが何という作者か、それをチェックすることに気が回らなくてわからないままになってしまった。どっちかがティツィアーノだと思うんだけど……?
それにしてもそっくり。(;^_^A


さらに、奥へと進んでみる。が、美術には疎いためこれといって見知ったことのある絵画はなく、それでもみきちゃんとグイド・レーニの『アタランテとヒッポメネス』のポーズを真似てしっかり撮った。(笑)
それからこのフロアで何枚か写真を撮ったが、またしても「No flash!」と係員に怒られた私。/(>_<)\だからなんでっ!?
私のデジカメのフラッシュは収納式になっていて、ボタンを押して出さない限りフラッシュは光らないため間違って光ってしまったなんてことは絶対にないのだ。なのにっ。青木さやかのギャグじゃないけど、「どこ見てんのよ~っ!!」と声を大にして言いたかった。もちろん私じゃないと言ってみたが、先ほどの係員と同じく今度も無視。(ー_ーメ)o゛プルプル…
私っていったい……。......(;_ _)/| はぁ…


一応ガイドのIさんが教えてくれた「これは見逃すな名画」は全て無事に見終え、集合時間も迫ってきていたため出口に向かって戻り始める。再び『三美神』の前を通り『アダムとイヴ』の前も通ったため、せっかくだから『アダムとイヴ』のものまね写真も撮っておいた。(笑)
『ラス・メニーナス』の前は相変わらずの人だかりだったが、一生の見納めかもしれずもう一度頑張って前方に進み、じっくりと眺めてみた。( ̄- ̄*)じ~


ゴヤ『カルロス4世の家族』さらに少し迷いながら移動すると、ゴヤの『カルロス4世の家族』を見つけた。
これは主席宮廷画家昇進を記念して1800年にアランフェスの離宮で描かれたカルロス4世一家の肖像画だが、ゴヤはその数が13という不吉な数字であることを嫌って自らの姿も暗がりに加えた。豪華な衣装に身を包んだ一家だが、ゴヤは見たまま感じたままに絵筆を走らせ、美術品を見抜く目は一流だが政治を宰相に任せて狩猟やビリヤード、時計のコレクションに明け暮れ“無能王”ともあだ名された暗愚なカルロス4世の威厳のない風貌や、右にいる宰相ゴドイと愛人関係にあった王妃マリア・ルイサの悪女面、その王妃の両脇にいる王女と王子のゴドイ似の顔立ちまでもがしっかりと描き出されている。なんと、そもそも近衛兵士だったゴドイを宰相に推したのも、男好きで権力欲が強かった王妃である。( ̄_ ̄;)ドロドロやん…
左側に立つ皇太子フェルナンドはこの肖像画から8年後に父王から王位を奪ってフェルナンド7世を名乗って即位したが、これ以前に宰相ゴドイがナポレオンと密約を交わして10万のフランス軍がスペイン北部と中部の主要都市を制圧して駐屯するという事態が起こっていた。これに反ゴドイ派の貴族が大衆を率いて蜂起しゴドイを失脚させ、この2日後に皇太子がフェルナンド7世として即位したのだ。だがナポレオンによってフェルナンド7世は退位させられ、ナポレオンの兄がホセ1世としてスペインの王位につく。
ゴヤ『マドリード1808年5月3日』王族はパリへ移るよう命じられたが、1808年5月2日、マドリードの民衆が立ち上がりフランス軍を襲撃した。だが圧倒的な数にものを言わせたフランス軍にたった数時間で鎮圧され、捕らえられた数百人が翌5月3日の未明にプリンシペ・ピオの丘で銃殺されてしまう。それでもこの事件は全ヨーロッパの独裁者になろうろうとしていたナポレオンへの戦線布告となり、以後6年間にわたる独立戦争の幕開けとなった。
この時の様子を描いたゴヤの『マドリード1808年5月3日』も、『カルロス4世の家族』の傍に展示されていた。
すでに処刑されて血を流し倒れている者やまさに今銃殺されようとしている者、悲劇を目のあたりにしながら銃殺を待たされる者など、今にも銃声や悲鳴や呻き声が聞こえてきそうだ。そんな中、ゴヤは両腕を上げた白服の男の右手に聖痕を描いたり、左端の暗がりに赤子をを抱いた女性の姿を描くなど、そこからキリストや聖母子を思わせる細工を施している。銃殺された人々が救われるよう願ってのことだろうかと、ふと思った。
ちなみに1813年8月、フランス軍はスペインからの撤退を余儀なくされ、フェルナンド7世が再び王位について絶対王政を敷くことになる。
他にゴヤの別荘の壁を飾っていた『黒い絵』と称される14枚の壁画も見たかったが、あるはずの場所のドアが閉ざされていたためどこかの国に貸し出しされていたのかもしれない。


『ルイ14世』ガイドのIさんがくれた館内図の3階にはこれといった案内が何もなかったが、何があるんだろうとチラリとだけ覗いてみることにした。というわけで、大急ぎで階段を登る。
そこで甲冑姿に身を包んだ『ルイ14世』を見つけた。みきちゃんが同じポーズをして凛々しく撮る。(笑) でも、この絵の作者が誰かわからない……。(;一一)ゞ

時計を見ると集合時間まで10分を切っていたため、まだ名画はたくさんるもののさすがにもう出口へ向かわないと遅れそうだと階段を1階まで降り、ゴヤ門へ向かって各部屋を突っ切る。もう出口が見えるというところで、ラファエロの『仔羊と聖家族』を発見した。急いで奥へと入り振り返ることがなかったせいで気づかなかったのだ。しかも小さな絵で、うっかりすると見逃してしまう。事実、みきちゃんが「あっ!」と言って見つけなかったら素通りしてしまっていただろう。
『仔羊と聖家族』は、そんな位置にあったというわけ。扱いが低い……?( ̄。 ̄;)
ラファエロ『仔羊と聖家族』イタリア中部のウルビーノで画家の子として1483年に生まれたラファエロ・サンティは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンス最盛期の三大巨匠の1人である。21歳のときにフィレンツェに移住したが、このときはまだただの田舎画家で名もなかったため、個人注文主を探して肖像画や聖母子などを描いていた。“聖母の画家”という異名を持つラファエロだが、数多く残されている聖母子の作品の大部分はこの時期に描かれたものだという。
師となったピエトロ・ペルジーノの教えを瞬く間に吸収し、その後ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの芸術に触れて多くを学び取り成長していった。ちなみにミケランジェロはラファエロより8歳年上で、ダ・ヴィンチとは31歳離れている。
25歳で教皇ユリウス2世の招きによりヴァチカンの宮廷画家となり、古典主義絵画の祖と呼ばれるほどになった。画家としてこれ以上はないほど恵まれた状態にあったラファエロだったが、1520年に突然の高熱病に侵され、37歳の若さでその生涯を閉じてしまった。

そんなラファエロの『仔羊と聖家族』を通り越すと、すぐ傍の左壁にアンジェリコの『受胎告知』がある。これは見逃していたわけではなく、最後もここを通るのだからということで他を先に見てきたのだ。
アンジェリコ『受胎告知』フラ・アンジェリコは本名をグィード・ディ・ピエトロといい、フィレンツェの農村地方で生まれた。20歳以前の経歴はあまり知られていないが、1417年に画家として活動を始め、1425年にドミニコ修道士となって宗教書の写本装飾師としても絵を描いた。キリストの磔刑図を描きながら涙を流したほど信仰心の厚い人だったらしく、静謐で美しい光に満ちた宗教画や敬虔で愛らしい人柄から「天使のような(アンジェリコ)人」と慕われ、彼の死後いつしかフラ・アンジェリコが彼の名になっていった。1982年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって『福者』に列せられている。
1436年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に移り、メディチ家がドミニコ教会の修道院として改築する際のフレスコ画を手がけた。1445年にはヴァチカンの礼拝堂に聖ステファヌスと聖ラウレンティスの生涯を描き、“天使の画家”と称されるようになる。
この『受胎告知』は、フィレンツェから北へ4kmほどの丘にあるフィエゾレという町のサン・ドミニコ教会から1611年にスペインに売られてきた。大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げている御堂の左奥に楽園から追放されたアダムとイヴの姿もあり、この大画の下に婚約から被昇天に至るまでのマリアの生涯が5連の帯状に描かれている。古来多くの画家がテーマに描いてきた“受胎告知”だが、その中でもアンジェリコの作品は敬虔で清楚な独自の世界が描かれているとして名高く、何かこだわりを持っていたのかプラド美術館に所蔵されているこの『受胎告知』の他にも似た構図の“受胎告知”を何度も描いている。彼が生涯を過ごしたサン・マルコ修道院(現在はサン・マルコ美術館)でも、その壁画を見ることができる。
最後にこの『受胎告知』のものまね写真を撮り、セキュリティで預けることになったミニ三脚を受け取ってゴヤ門を出た。計ったように集合時間ぴったりの11時30分だ。( ̄ー ̄)v
ゴヤの銅像の下に集まり、間もなく出発となった。


街の彫刻アルカラ通りに出たとき、ふとビルの上を見上げると4頭立ての馬車とそれを操る人の像が見えて驚いた。Σ( ̄□ ̄*)すごいっ
見上げない限り気づかないかもしれないような場所にまで彫像が置かれているなんて、日本では絶対に見られない光景である。
10分ほどでバスを降り、革製品のお店に入った。マドリードにはあの韓国女優チェ・ジウもわざわざ買いに来るという靴屋さんがあるらしいが、このお店は一角に少し置かれているだけでメインは革ジャケットのようだった。まずはペネロペ・クルスに少し似た感じのとってもかわいいおねえさんからコップ1杯ずつ冷水をサービスしてもらい、一応靴を見てみる。でも本当に数が少ない。添乗員のKさんはよくスペインで革靴を買うそうで、今履いているのもそうだと言っていた。そして今回も1足お買い上げ。よほど履き心地がいいらしい。他にも2、3人買っている人がいたが、私たちはその間にトイレを借り、それでもまだショッピングタイムが終わらないようだったため革ジャケットやその他の洋服を時間つぶしに見て回る。
みきちゃんと私はピンク色と黄緑色の派手な革ジャケットをそれぞれ羽織ってみて、「絶対派手やと思ったのに、着てみたら意外と普通やなぁ」と感想を洩らしながら、写真だけを撮って満足した。(; ̄▽ ̄)ゞへへ…
40分以上が経過してもまだショッピングタイムが続き、さすがに暇を持て余す。ふと外を見ると何人もがすでに外に出ていたため、私たちもお店を出て待つことにした。そこにドライバーのJさんもいて、みきちゃんがデジカメを向けると笑顔でこちらを向いて「オラ~( ̄▽ ̄)ノ゛」と言いながら手を振ってくれる。が、なかなかデジカメを降ろさないみきちゃんにちょっと困惑しながら、それでも笑顔を絶やさず「オラ~」と言ってくれるJさん。実は写真ではなく動画を録っていたみきちゃん。それをJさんに見せてあげると、驚いた顔をしてまた笑った。ほんま楽しい人や~♪(*^o^*)


ショッピングタイムを終えてやっと移動を開始したのは、それからさらに10分近く経った頃。長い……。
アルムデナ大聖堂お店から歩いて2、3分の距離にある『王宮』の入口は長蛇の列ができていたが、私たちはそれに並ぶことなく左に逸れて歩き進んだ。そして右側に見えてきたのは、アルメリア広場を挟んで王宮と隣接する『アルムデナ大聖堂』である。
1879年にクバス侯爵により計画され、1883年に着工されたが、100年以上にわたって増改築が重ねられ、最終的な完成をみたのは1993年のことである。とても新しいバロック様式の大聖堂なのだ。アルムデナとは、マドリードの守護聖人である聖母アルムデナのこと。もちろん祀られているのは聖母アルムデナである。
私たちが訪れるちょうど1週間前の5月22日に、このアルムデナ大聖堂でフェリペ皇太子の結婚の儀が執り行われ、日本の皇太子も出席されたというが、その華やかな痕跡はまるでない。内部には少しくらい残されていたのだろうか。フェリペ皇太子と結婚したレティシア・オルティスという女性は一般人で、元人気テレビキャスター。しかも離婚暦があるということで話題になった。当日は豪雨になったにもかかわらず、マドリードで行われる約1世紀ぶりの王族の結婚式を大勢の市民が詰めかけて祝福したそうだ。
それ以前に、3月11日に発生したマドリード同時列車爆破テロの犠牲者の国葬もこのアルムデナ大聖堂で行われている。

王宮の広場であるアルメリア広場からならアルムデナ大聖堂を写真に収めることができたのだろうが、王宮の門が閉ざされているためそれも叶わず、巨大な大聖堂をフレームに収め切ることは到底不可能だった。それでも何枚かを意地になって撮り(笑)、優美な柵と広場越しに王宮を眺めやる。
王宮『オリエンテ宮殿』という別名を持つ王宮は、1734年に焼失したイスラムの要塞跡に1737年に着工され1764年に完成したネオ・クラシック様式の建物である。現在国王は居住しておらず、公式行事などで使用される他は一般の見学に開放されている。
部屋数は約2800もあり、ゴヤやティエポロをはじめ有名画家の素晴らしいタペストリーや絵画、天井画で装飾された絢爛豪華な内装で、フランス風ロココ調の間や壁面に陶器で装飾が施された陶器の間、中国風の壁画で埋め尽くされた中国様式の間、晩餐会や舞踏会が開かれた大広間など、各部屋にも特色がある。スペイン王室の美術品コレクションは規模でも質でも世界的にも有名らしく、絵画だけでなく家具や金銀細工に至るまで美術館にできるくらいだという。王宮附属の薬局や図書館、武具博物館、馬車博物館のコレクションも豊富で、マドリード観光の必見の場所となっている。
でも私たちは広場越し、柵越しに白亜の外観を眺めただけ……。(T_T)


オリエンテ広場バイレン通りを挟んで王宮の隣にある『オリエンテ広場』には、レアル・マドリードのデイビッド・ベッカムがCM撮影をしたという場所がある。スペインのヴォーダフォンのCMだったかなぁ?
その場所を、ガイドのIさんが教えてくれた。右の写真がその場所である。みきちゃんが、しっかりベッカムの座った場所に座って記念撮影する。そのCMを見ていないから、なんか実感が湧かないけど……。┐( ̄▽ ̄;)┌
そこから、王宮の地下なのか広場の地下なのか、とにかく地下にある駐車場へ行ってバスに乗る。地下駐車場から出て、ぐるりと『スペイン広場』を回りこんだ。ガイドのIさんが言う。スペイン広場は各地にあるが、このスペイン広場こそがスペイン広場だと。確かに、スペインだけでも各地にあるし、イタリアにもポルトガルにもスペイン広場があった。ポルトガル・リスボンのスペイン広場は、そこにスペイン大使館があるからといかいう理由だったな。
スペイン広場このスペイン広場はかつてアルバ公爵家から公園にと寄贈された土地で、サンチョ・パンサを従えたドン・キホーテの騎馬像と、その背後に作者であるセルバンテスの坐像が刻まれた記念碑がある。というか、それ以外には何でもない噴水があるだけのただの広場である。1350年に、セルバンテスの没後300年を記念して造られた。周囲は近代的なビルが建ち並ぶビジネス街で、市民の憩いの場となっている。もちろん観光客もよく訪れるが、治安が良くないため気をつけたほうがいいらしい。


スペイン広場を通過すると、マドリード一の大通りであるグラン・ビア通りをしばらく走った。デパートやホテル、映画館などが建ち並ぶ繁華街である。ブラッド・ピット主演の『トロイ』が上映されていて、映画館入口上部に大きな看板が掲げられていた。
10分ほどバスに揺られて着いたのは、日本料理と中華料理を一緒に出している『花友』というレストランだった。
あ、そっか。お昼か。( ̄_ ̄;)忘れてた…
観光に夢中になっているとつい忘れてしまう時がある。まぁ、忘れていても連れて行ってもらえると思っているから忘れるのかもしれないけど。
スペイン最後の日なのになぜ日本料理なんだ……と思いながらも、やっぱり和食はおいしかった。ごはんをおかわりする人も続出である。
和食レストラン幕の内?みんなよく食べるなぁと感心してしまう。というか羨ましい。私もお出かけや旅先だけでいいから、大きな胃になりたいものだ。f ̄▽ ̄;)
ドリンクにはウーロン茶と麦茶で迷った。久しぶりにお茶だからどっちにしようか、と迷ったわけではない。一方は少し料金を足せば「大」と書かれていたのだ。結局、お店の日本人のおばさんが大のほうは3人で飲める量だと言ったためそちらを選んだ。が、運ばれてきたのは2つのデキャンターで、1つは一人旅のおじさんのところへ、もう1つは私たちの前に置かれた。しかも見るからに濃い色だなぁと思っていたら、飲んでみると麦茶である。私たちが頼んだのはウーロン茶のほうなのに。しかもおじさんは大など頼んだ覚えもないのにデキャンターでウーロン茶が出てきたようだった。
もしかして、わざわざ大を頼まなくても良かったってことじゃないの? と少し混乱した。私たちのほうは大を頼んだからといって、おじさんのお茶とまったく同じ量だったから。お店のおばさんにしてやられたのかも。お店の人が日本人だから話も通じてサービスもいい、と思ったら大間違いということかもしれない。
デザートにはヨーグルトらしきシャーベットが出てきて、料理もデザートも全体的にさっぱりおいしいといった感じだった。お茶の件はともかく味はおいしかったから、まぁ良しとするかな。←偉そう?(笑)

デザートが出されてから30分が経過して、ようやくしゅっぱつすることになった。すでに14時半になろうとしている。
「こんなゆっくりしてて闘牛間に合うんかなぁ……」
心配になって囁き合う私たち。
次はオプショナルツアーで『トレド』へ向かうのだが、予定では13時半に出発で18時頃にホテル着となっていたのだ。すでに1時間も遅れている。ということは、闘牛開始時間の19時頃にホテル着ということになるのでは……と大いに不安に思った。



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