全89件 (89件中 1-50件目)
うは、ずいぶん間が空いたな。 今日の日記ネタはもしかしたらトルコの新聞には同じような内容の記事になって出てるかもしれないのだが、トルコの新聞をチェックするのも面倒なので書いてしまう。 まずはこの記事。(引用開始)<スロベニア>トゥルク氏が大統領に11月12日19時19分配信 毎日新聞 スロベニア大統領選の決選投票が11日あり、中道左派の野党が支持するダニロ・トゥルク元国連事務次長補(55)が当選を確実にした。中道右派のペテルレ元首相(59)を破った。任期は5年。 選挙管理委員会の集計によると、得票率はトゥルク氏が約68%、ペテルレ氏が約32%。スロベニアでは今年1月の欧州単一通貨ユーロ導入後、物価上昇が続いており、トゥルク氏は、ヤンシャ現政権への批判票を集めた。【ウィーン支局】 (引用終了) 僕はスロヴェニアという国は行ったこともあるし山の綺麗な好きな国ではあるが、その政治にまで取り立てて興味があるわけではない。まあ1991年の独立以来政情も安定しているしパキスタンやグルジアみたいなことも起きていないし、今年の1月からはユーロ圏に参加したEUの新規加盟国の中では優等生である。 では何が気になったかというと、この当選した人の名前。日本語記事だと「トゥルク」と書いてあるが、ドイツ語の記事では「Türk」と書いてある。この記事書いた人はたぶんスロヴェニア語は出来ないだろうし僕も出来ないのだが、たぶんこれは「テュルク」と読むのが正しいのではないかと思う。トルコ語だとそんまんま「トルコ人」「トルコの」という意味になる。ただこの次期大統領がトルコ系だとはどこにも書いていないし、たぶん違うと思う。 これで連想したのだが、何年か前、トルコで一緒に発掘に参加したドイツ人学生(ルール地方出身)に「トゥルクTurck」という苗字の人がいた。顔を見るとどう見てもドイツ人だし、近い先祖にトルコ人がいるという話も聞いていないという。すると僕の先生が一言「ドイツにも時々そういう苗字の人がいて、祖先が何かトルコと関係してるはずだ」という。先生の想像では、16・17世紀にオスマン帝国(トルコ)とオーストリアがバルカン半島で激しく戦った時の名残りではないかということだった。考えられる可能性は、トルコ人の捕虜あるいは亡命者がヨーロッパに土着した、あるいはトルコとの戦いで何か手柄を立ててそれを記念に苗字にした、という感じだったと思う。 他にも18世紀、オーストリアはオスマン帝国との最前線を安定的に支配するために、ドイツ(特に南西部のシュヴァーベン地方)から農民を大量に募集して今のハンガリーやスロヴェニア、クロアチアに入植させた時期がある。地元のセルビア人などはトルコ側にもいて信用ができないから、支配階級と同じドイツ人を呼んで「ドイツ化」を図ったわけである。この人たちが(あったかどうか分らないが)「トルコのおかげでこんな所に入植した」という記念に「トルコ」を苗字にした、ということは考えられないだろうか、と思った。スロヴェニアのテュルクさんの場合、この説明が一番しっくり来るように思えるのだが。 ドイツ・オーストリアの「Türk」姓で有名どころ(僕は知らない人だが)では、ナチスの高官にリヒャルト・テュルク、自由民主党(FDP)の政治家にユルゲン・テュルク、テレビ司会者にアンドレアス・テュルク、漫画家にクリスティアン・トゥルクなどと、結構見つかる。 トルコにももちろん「テュルク」という苗字の人はいるが、そのままずばり「テュルク」よりも、「オズテュルク」(本当のトルコ人)とか「バシュテュルク」(トルコ人の頭、くらいの意味か?)とか、形容詞が付いてる方が多いんじゃないだろうか。もっとも、トルコ人が苗字を名乗るようになったのは共和国成立後の1934年以降だから、ヨーロッパの「テュルク」姓の方が古いことになる。現在のトルコ人の「テュルク」姓は、建国間もない時期の民族主義の昂揚の中で作られた苗字であろう。ヨーロッパ人の「テュルク」姓はもしかしたら悪い意味もあったかもしれないのだが。 そこでグーグルの登場だが、Türkという苗字について検索すると、こういうページを見つけた。世界各地にいる「トルコ」(Turk, Turck, Türkなど)という苗字の人を集めているサイトだという。このサイトではすでに2万2千の「トルコ」という苗字の家族が登録されているとのこと。そんなにいるのか。 このページにはヨーロッパにおける「トルコ」姓の起源について説明していて、それによればヨーロッパ最初の「テュルク」さんは、なんとトルコ人とヨーロッパ人が最初に接触した十字軍の時代にまで遡れるのだという。これは予想していなかった。第一次十字軍のとき、セルジューク朝側のエミール(将軍)の一人、ハイレッティン・サラディン(史上に有名なサラディンとは別人)という人物がトゥールーズ伯レイモン4世なる十字軍の騎士の捕虜となった。ハイレッティンはレイモンの故郷フランスに送られ、騎士の身分と「アルヌルフ・ド・トゥルク」という名前を与えられた。その子孫は「ル・トゥルク」あるいは「ド・トゥルク」という姓を代々名乗って一族が増えていったとのこと。 このトゥルク氏が再び歴史に出てくるのは、オスマン帝国とオーストリアが激しく争った16世紀で、この時代フランスはオーストリアを挟み撃ちするためにトルコに使節を送って友好関係を結んだのだが、それは残念ながら関係ない。当時の国王フランソワ1世がレジナルド・ル・トゥルクなる人物をニーム(現在のベルギー)の市長に任命したとのこと。この人は1554年に亡くなり、ヴィクトルとユーゴー(二人合わせるとヴィクトル・ユーゴーだな。笑)という二人の息子が残った。ヴィクトルの家系はラングドック地方にいたが断絶し、ユーゴーはフランス北西部のロシェルというところで技術者をして1601年に亡くなり、その子孫はアルザスやロレーヌ地方にいたという。 ではドイツの「テュルク」さんはというと、16世紀以前にその名前はなく、17世紀後半にフランスからユグノー(フランスのプロテスタント)が祖国での宗教的圧迫を避けて大量にドイツやスイスに移住した頃に登場するのだとのこと。 このページの説明は大体こんな感じだったが、とすると問題のスロヴェニアのテュルクさんはフランスからドイツを経由してスロヴェニアに来たユグノーの子孫なのだろうか。ただスロヴェニアでは16・17世紀にオーストリアによってプロテスタントが弾圧され(フランスと同じですな)、ほとんどカトリックしか残っていないので、ちょっと考えにくいのだが。あと世界中に居るヨーロッパ系の「テュルク」さんの先祖を全部ハイレッティン・サラディン、あるいはフランスのテュルク家の子孫に帰していいものだろうか。 オスマン帝国からヨーロッパに亡命したトルコの貴人でもっとも有名なのはおそらくメフメット2世の王子ジェムだと思う。兄との相続争いに敗れた彼はイタリアに送られそこで幽閉された。この話は塩野七生の「チェーザレ・ボルジア、あるいはなんとかかんとか」に出てきたと思う。 ジェム以外にもトルコから亡命してきた人とかいると思うんだが(逆にロシアによる弾圧を逃れてポーランド人がトルコに逃げたりしている)、彼らが「トルコ人」と呼ばれてその通称を苗字にしたとなると面白いんだが。カールスルーエでバーデン辺境伯がオーストリアの将軍として参加したオスマン帝国との戦いで奪った戦利品の武器とかを展示していたが、トルコというのは敵とはいえヨーロッパに割合身近な存在だったのではないだろうか。むしろ19.20世紀に民族主義を経験して(もちろんオスマン帝国の領土がヨーロッパから縮小していったことが大きいが)距離が遠くなったように想像するのだが。 こういう歴史を見ると、トルコはEUに入っていいんじゃないかと思ったりもするんだが。 さて当選したテュルク?さんだが、国際法を学んでスロヴェニアの国連大使となり、アナン事務総長に見出されて平和のために働いてきた人である。あんまり昔の戦争の話とかはふさわしくないか。リュブリャーナ大学教授をしていた彼は左派の推薦する無党派候補として立候補し、一次投票では二位だったのだが、今回の決選投票で逆転当選を決めた。 と、ここまで書いてきて英語版の「ウィキペディア」を見たら、「お父さんがトルコ人の子孫」と書いてあるじゃないか。本当かな??他の言語版には書いてないし(スロヴァニア語読めないけど、字面を見る限りそういう記述はなさそうだが・・・・)、子孫としてもそんな最近の祖先に「トルコ人」がいたのだろうか。
2007年11月12日
コメント(4)
なんかもうすっかりブログを放置してしまってたな。もう8月もおしまいか。 この日記は自分のメモのつもりで書いているので、気が向かないと全く放っているのだが、かといって全く誰にも読まれないというのもちょっと寂しいというジレンマを抱えている。まあブログというのはそうしたもんだろうけど。 楽天の場合はそれにアフィリエイトという小遣い稼ぎのようなシステムが加わっているわけだが、僕も映画のレビューとかで画像の代わりにアフィリエイトのリンクを貼っているのだが、最近久々に成果を見てみると、なんとこのページ経由で5千円とか7千円の買い物をしてくださった気得な方がいらっしゃったらしい。おかげで文庫本一冊買えるくらいのポイントがたまった。ありがたいことです。価格からみてDVDか学術書のように思われるのだが。・・・・・・・・ 日本やヨーロッパ始め世界的に猛暑が伝えられているわけですが(アメリカじゃ逆に急にものすごく寒くなったとか)、ギリシャではものすごい大火になっているらしい。 (引用開始)<ギリシャ山火事>死者は63人に 放火などで10人逮捕8月27日19時58分配信 毎日新聞【ローマ海保真人】ギリシャの山林火災は27日、発生から4日目を迎え、AFP通信によると、死者は63人に達した。26日夜にはペロポネソス半島の古代五輪発祥の地・オリンピア遺跡の近くまで火が及んだが、延焼は食い止められた。 警察当局はこれまで放火の疑いなどで10人を逮捕した。政府は26日、放火犯の逮捕に結びつく情報の提供者に最高100万ユーロ(約1億6000万円)の報奨金を支払うと発表した。 世界遺産としても知られるオリンピア遺跡には26日夕、山火事の火が入り口近くの博物館に一時迫った。しかし、空と陸から懸命の消火活動が続けられ、敷地の一部を焼いたものの、建物への延焼は免れた。 AP通信によると、各地で火災が相次いでいるため、消火活動が追いついていない。テレビ局に電話で助けを求め、政府の対応を非難する市民もいる。消防当局の広報担当者は「国土の半分以上が燃えているようだ。ギリシャ史上最悪の災害だ」と語った。 (引用終了) 記事読むとなんだかすごいことになっているようですな。 隣のトルコもぷなるじゃんさんの日記とかを読むとアンカラで水不足とかが起きて異常な暑さのようだが、僕の知る限りではギリシャも相当暑いところなので似たようなものだろう。しかしそういう天候上の理由かと思ったら、この火事はなんと放火によるものなのか??オリンピアの遺跡も危険にさらされたが何とか助かったとのこと。 こういう暑い乾燥地域での火事の怖さは、ささやかながら身をもって体験したことがある。 発掘でトルコに居た時のこと、留守にしていた冬の間にカビが生えて使い物にならなくなった家具(トルコの内陸部は冬は雪に閉ざされる)や大量のゴミを発掘隊の宿舎の裏庭(ただの野原だが)で焼くことになり、僕がそれをするように言われた。 そんなことすると有毒物質とかダイオキシンとか発生しそうだが、トルコではそんなことは頓着しないし、普段環境がどうのこうのとうるさいドイツ人もこのゴミ焼きは当たり前のように思っていたようだ。というのはそこはものすごい田舎で周りに何もない草原みたいなところ(実際は牧草地や小麦畑)だったからである。僕は「発泡スチロール焼くと毒ガスが出るよ」と言ってみたのだが、「風が吹くから構わない」と言われた。 それやこれやで裏庭の窪みにゴミを集めて火をつけたわけだが、そのゴミの中にペットボトルがあった。しかも悪いことにそれは栓がしてあって、当然加熱すると中の空気が膨張して爆発する。「ボン」という音とともにそれは飛び散ったが、悪いことに燃えかすが裏庭の枯草に引火して燃え広がり始めた。 枯草があるのは別に積んでいたわけではなく、トルコでは(おそらくギリシャでも)夏の暑さで、地面に生えている何やらトゲの生えた植物や大きなアザミ(カンガル)といった野原の雑草が立ち枯れてカラカラに乾いてしまうのである。それに火がついた。風が吹くとその速さとともに火がざーっと燃え広がる。 こうなると少々水を撒いたくらいでは追いつくものではなく(今回のギリシャの山火事でも、家庭用のホースで消火しようとした人がいたようだが、そんなもので消えるものではない)、そもそも辺りには水気が全然ないので、出来ることと言えば燃え広がりそうなところに先回りして地面の枯草を薙ぎ払うしか手はない。僕は「M(ドイツ人の名前)!」と悲鳴のような声で隊員たちを呼び、走り出た皆が総出でショベルで辺りの地面を掘り返し続けてようやく延焼を防いだ。宿舎のすぐ隣は村人の小麦畑で、それに火がついたらと思うと慄然とした。儲けが少ないとはいえ村人にとっては貴重な収入源であるから、弁償ということになったら隊に迷惑がかかるところだった。 ギリシャにはドイツからトルコに行く途上で北部を何度か車で通過したが(だからアテネやペロポネソス半島に行ったことがない)、それは往路が7月、帰路が9月だった。往路の7月は大変な暑さで、そんな中をうねうねとした険しい山道をクーラーのついていない発掘隊のおんぼろワゴン車(ベンツ)で走った。僕が持参した日本の団扇が車内で大人気になった(たいていドイツ人は我慢してしまうんだが)。山中ではドイツにはいないセミが大合唱していた。 ドイツとセルビアが国交を回復(1999年のコソヴォ戦争以来断絶していた)した頃から、トルコ行きのルートがイタリア~ギリシャ~トルコから旧ユーゴ~ブルガリア~トルコと変更になったので、最近はギリシャにも行っていない。だからずいぶんと懐かしいしそろそろ行きたいのだが、延々と続くカタラ峠(北西部の港町イグメニッツァと州都イオアニンナの間の峠)のうねうね坂は今思い出してもうんざりする。当時新しい道を建設する計画があったのだが、もう出来たのだろうか。まだだろうな。 暑いといえばイタリア南部もこれまた大変な暑さだった。ある時は気温が38℃になった。 件の車はクーラーがない(というか壊れていて熱風が出た)ので窓を開けて走っていたのだが、窓を開けていると熱風が吹き込んで来てその直撃にとても耐えられたものではなかった。だから車内の蒸し暑さを我慢して窓を閉めて走ったのだが、あんな経験は日本でもトルコでも(ましてやドイツでも)したことがない。僕は普段日焼け止めクリームとか塗らないのだが、あの時ばかりは日焼けに弱いドイツ人にクリームを借りて塗りたくらないと身体に悪いと感じた。死者が出ているという今年の暑さはあの時のようなものだろうか。 そんな暑い中僕らはギリシャ行きのフェリーの待ち時間に暇つぶしに世界遺産のカステル・デル・モンテを見に行ったのだが、こんな暑い殺風景な岩山(辺りには松が生えている)の上に、こんな無機質な城(別荘か)を作ったフリードリッヒ2世(13世紀の神聖ローマ皇帝)はおかしいんじゃないかと思ったものだった。 ずいぶんと話題が脱線したが、ギリシャの大山火事のニュースを見てあの辺りのことを思い出してみた。・・・・・・・・ ドイツのメルケル首相は中国・日本歴訪の旅に出ているが、それに合わせてのことか今週号の「シュピーゲル」がまたセンセーショナルな記事を特集している。その日本語記事。(引用開始)独政府コンピューターにハッカー=中国の経済スパイか8月26日10時1分配信 時事通信【ベルリン26日時事】27日発売のドイツ週刊誌シュピーゲル最新号は、同国政府のコンピューターが中国からとみられるハッカーによる侵入を受けていたと報じた。首相府のほか経済省や外務省、教育研究省が被害の対象になったとしており、26日に出発するメルケル独首相の中国訪問の際に取り上げられる可能性もある。 同誌によると、情報機関の憲法擁護庁などの調査で明らかになったもので、中国の人民解放軍が「攻撃元」とみられるという。ハッカー攻撃はコンピューター内のデータを読み出そうとするもので数カ月前に発覚。約160ギガバイトのデータ流出が食い止められたものの、その後も侵入の試みは続いているとしている。在独中国大使館は同誌に対し、「何ら根拠のない無責任な憶測」と反発している。 一方、同誌は独情報機関の報告として、ドイツが中国による経済スパイ活動の対象になっていると指摘。「経済スパイの疑いがある案件の60%は中国と関係がある」との同機関幹部の見方を紹介している。 (引用終了) シュピーゲルは時々すごいすっぱ抜きをするのだが(60年代にはそれで編集長が逮捕されたり、国防相が辞任する事件もあった)、僕は中国政府の言い訳よりはシュピーゲルのほうを信用するなあ。ドイツの政治家も一様にドン引きのようだ。 ただね、特集号のタイトル「黄色いスパイ-中国はいかにしてドイツの技術を盗んでいるか」の「黄色いスパイ」ってのはどいうつもりだろうか。黄禍論にでもかけているつもりか知らないが、悪趣味である。まあシュピーゲルはかつて80年代に日本脅威論が言われたころにも「日本に学ぶ?とんでもない!」という表紙を掲げたので、独特の毒なんだろうけど。 あと毎年中国詣でをしていたシュレーダー前政権に比べて、現在のメルケル政権に対して中国政府が不信と距離感を感じているという記事があった。ドイツの日本→中国へのシフトはもはや既定方針だが(シュピーゲルも支局を東京から上海に移している)、昨今喧しい中国の知的財産権侵害、危険な製品、人権問題などの流れからすれば、ほとんどセールスマンだったシュレーダー前首相よりも腰が引けるのもやむを得ないか。
2007年08月27日
コメント(6)
いつものように「Spiegel Online」を読んでいたら、とほほなニュースを発見。 しかしこれは日本だったら(あと選挙直前のような今のような状況だったら)笑えないんじゃないかと思えるニュース。 まずはスペインから。スペインのある風刺週刊誌が、フェリペ皇太子とレティシア妃(元人気テレビキャスター)がナニに及んでいる漫画を掲載したところ、裁判所がこの漫画は侮蔑的で王家の尊厳を損ねるということで出版差し止めを命令した。 漫画ではベッドの上でナニしてる最中の皇太子が相手の妃に向かって、「君が妊娠したら、僕の人生で初めて何か実りのある仕事をしたことになるな・・・」と言っている図柄。日本と同じく少子化(出生率1.3)に悩むスペイン政府が、近頃新生児一人当たり2500ユーロ(約42万円)の支給を決めたことと、「税金泥棒」としての王家に対するからかいの意をこめた漫画である。 裁判所の決定を受けた出版社側は「我々は本当に2007年に生きているのだろうか」とコメントしている、とのこと。 新生児への支給法が王家の人間に同じく適用されるのかどうか知らないが、うーん、こういうセンスははっきり嫌いだな。昨年のデンマークのムハンマドの風刺画騒動じゃないけど、「言論の自由」とかをはき違えているように思う(こういうのはなぜか風刺漫画が多いけど)。 ナニって(まあ別に性交渉でも排泄でもなんでもいいんですが)誰でもすることだと思うんだが、そういうのを使った「風刺」って風刺になってないと思う。これ書いた漫画家だって当然家ではナニしてると思うんだけど、そういう誰でもすること(あるいは病気とか)で相手の人格を貶めるってのは最低限のルールを破ってるんじゃないかと。風刺というより確かに侮辱というか中傷だと思う。僕は「Mr.ビーン」は好きだけど、あれのたとえばエリザベス女王のオナラネタとかは全く面白いと思えない(気取った王家の人間がへまをやらかす、というのなら面白いと思うけど)。 まあ低俗な雑誌に目くじら立てるのは野暮というのかもしれないが、やはりこりゃまずいだろ。 現スペイン王家ブルボン(ボルボーン)家は1931年に一度王位を追われた後、独裁者フランコが1975年に死んでその遺言で復活したものである。 「無脊椎のスペイン」(オルテガ・イ・ガセトの命名)は左右の揺れが激しい国で、20世紀に王制・軍部独裁→共和制(左派)→内戦→ファシズム独裁政権→王制と揺れ動いたが、一番国が荒れたのは共和制とそれに続く内戦時代だった。もちろん独裁政権下でも激しい弾圧があった。現在の王制下では左右の政権が交代しているが、おおむね左派政権が強い。学問の世界(考古学とか)でも、フランコ政権下で禁止されていたマルクス系の思想がむしろヨーロッパで一番流行っているのだそうだ。 今の国王フアン・カルロス1世はフランコの遺言で王位に戻ったのだが、彼の声望を高めたのは1981年2月23日の軍部のクーデター事件で、国会を占拠して首相らを人質にフランコ時代の復活を目指した軍の一部に対して、軍最高司令官の肩書をもち軍に近いと思われていた国王は断固反対を表明して事態を収拾させた。このおかげで今のスペイン国民はおおむね王制を支持しているといわれている。ただ左派も強いし割合歴史の浅い王制に対する反感も根強いのかもしれない。 ところでもしこういう漫画が日本の皇室を題材に雑誌に掲載されたら・・・・。ちょっと考えられないな。アングラ雑誌とかならともかく。載せたら載せたで恐い人とかが出版社の周りをうろつきそうだ。日本でおおっぴらに天皇制廃止を唱えてる政党ってあるのだろうか。共産党とかはそうなのかな?辻元さんのいる社民も怪しいが。僕は皇室の人々個人には全くと言っていいほど思い入れはないが、天皇制自体は(女系だろうが男系だろうが)維持すべきだと思っている。 日本の皇室と同じく、39歳のフェリペ皇太子も子供は今のところ二人とも娘で、男系維持か女系容認かで揺れているそうだが(19世紀にはそれが名目で内戦=カルリスタ戦争にもなっている)、どうなるんだろうか。 風刺漫画といえば、先日のEU首脳会議でポーランドがゴネて問題になったが、その直後ポーランドの風刺週刊誌が、この会議の議長を務めたドイツのメルケル首相の両の乳房にポーランドの大統領と首相のカチンスキ兄弟が吸いついているコラージュを表紙にして両国で物議をかもしたことがあった。 雌狼に育てられたロムルスとレムス(ローマの建設者)の逸話と、新ローマ帝国=EUをかけた、洒落としては結構面白いと思うのだが、図柄があまりに悪趣味で・・・・。ヨーロッパ人のセンスというのは時々分らんことがある。・・・・・・・・ 次のニュース。今度はベルギー。 ベルギーでは6月10日に総選挙が行われ、キリスト教民主党が躍進して第1党になり、自由党のフェアホーフシュタット首相が退陣を表明した。次期首相就任が濃厚なキリスト教民主党のレテルメ党首が、教会でのお祈りに参加する途上、テレビ局ののインタビューを受ける。 「党首、今日は7月21日の建国記念日ですが、何の日かご存じですか?」「んー、憲法記念日かな」「いいえ」・・・・正解は、1831年にベルギーがオランダから独立した際、初代国王レオポルト1世が即位した日である。 続くレポーターの意地悪な質問。「党首、国歌の歌詞はご存じですか」「ちょっとならね」「それではちょっと歌っていただけますか」と言われて党首が歌ったのは「♪Allons enfants de la patrie...」、隣国フランスの「ラ・マルセイエーズ」だった。 しかもその後の教会でのお祈りで国歌が合唱されたときも首相は歌わず、しかもキリスト教民主党党首のくせに、お祈りの最中ずっと携帯電話で話をしていましたとさ、チャンチャン。 国歌の正解は「ブラバンソンヌ(ブラバントの歌)」である。 ベルギーは周知のようにオランダ語(6割)とフランス語(3割)が主要な国語として拮抗する国だけに、オランダ系である党首がうまく答えられなかったのかな、と思ったが、この国歌にはお国柄を反映してオランダ語、フランス語、ドイツ語(人口比では1%程度)の3ヴァージョンが存在する(言語により多少ニュアンスが違う)。あとインタビューのビデオを見ると、党首は流暢にフランス語を話し、語学上の理由ではないように思える。 首相はしょうもない質問をするリポーターにふざけてフランス国歌を答えたのか、それとも本当に知らなかったのか。ただ国王が演説するときも両言語でするというくらいデリケートな問題だけに、首相がフランス語ヴァージョンの歌詞を知らないというのは大問題なのだろうか。昨年末国営テレビが「フランス語圏が分離独立し、国王が旧植民地のコンゴに亡命した」と確信犯的(「深い論議を起こすため」)に誤報を流しただけに、単に失言というより根が深そうな問題である。 ちなみにこの国歌、1831年の独立以来事実上の国歌の扱いを受けているが(そのため歌詞も大時代な感じ)、法的には制定されていないという。またレテルメ党首は第一党の党首として国王から組閣を要請されているが、連立交渉が難航しており、場合によっては第一党を抜いた第二・第三・第四党による組閣もありうるという。 さて日本の「建国記念日」(2月11日)って何の日か知ってます? 正解は紀元前660年に神武天皇が即位した日だそうで、戦前は「紀元節」と呼ばれた一番大切な祝日の一つだったわけですな。名前は変わっても維持されているわけね。これは今後答えられない首相が出ても仕方ないんじゃないかと思うが。ていうか僕も大学に入るまで知らんかったし。紀元前660年は今は縄文晩期か弥生早期かでもめているわけですが、ものの本によっては(考古学書籍で見ることはないですが)神武天皇は紀元前2~1世紀とか紀元後1世紀ころの人、という推測を書いているものもある。キリストと同じで、大事なのは神話とか物語であって実在性ではないと思うんですがね。 国歌のほうはさすがに間違える人はいないと思うけど、あえて歌わない人はたくさんいそうですね。この党首の場合に例えると、アメリカや中国の国歌か、「緑の山河」を歌うようなもんだろうか。日本の言語環境ではそもそも外国の国家を歌える党首はいなさそうだけど。 スペインのニュースとのつながりでベルギー王家のことを書いとくと、ここの王家はザクセン・コーブルク・ゴータ家である。この家系はもともとドイツ(現バイエルン州とチューリンゲン州)の小領主にすぎなかったのだが、ヴェッティン家の末裔という血筋の良さからヨーロッパ各地の王家との通婚が多く、象徴君主として迎えられることがあった。1831年ベルギーのほか、1878年に独立したブルガリアの王に迎えられたほか(ブルガリアの前首相はこの王家最後の王)、王女との通婚により旧ポルトガル王家にもなった。 また仮に日本の皇室のような男系相続の原則で見れば、ザクセン・コーブルク・ゴータ家のアルバートとヴィクトリア女王の結婚により、イギリス王室にもなったともいえる。現エリザベス女王がその最後となり、チャールズ皇太子からはグリュックスブルク家(フィリップ殿下は旧ギリシア王子)ということになるが、これはやはりドイツの家系で現デンマークおよびノルウェーの王家、かつてのギリシア王家である。 ・・・ヨーロッパが統合できるわけだ。逆にフランス、ドイツ、イタリアの共和制樹立が非常に衝撃的なものだった(その結果はナポレオン、ヒトラー、・・・・ムッソリーニは王制下だな)のも頷ける。一方で王家が親戚でも、大戦争は避けられなかったものなんだろうか。
2007年07月22日
コメント(2)
なんか異様に管理画面が重い気がするのだが・・・・?・・・・・・ ヨーロッパ連合(EU)の議長国は半年交代で、今はドイツがその任にあって今月いっぱいで任期が終わる。いまやEUは27ヶ国体制だから、単純計算しても次に議長国の任が回ってくるのは13年先ということになる。 議長を務めるドイツのメルケル首相にとって最後の大仕事がEU首脳会議で、暗礁に乗り上げている欧州憲法の批准あるいは改定問題が大きなテーマとなるわけだが、なかなか大変なようで・・・・。(引用開始)EU首脳会議、欧州憲法の改定めぐり協議が難航6月22日11時27分配信 ロイター [ブリュッセル 21日 ロイター] 21日に開幕した欧州連合(EU)首脳会議では、欧州憲法の改定をめぐり協議が難航している。2日間の日程で27全加盟国の同意を取り付けられるかどうかについて、見極めるのは時期尚早としている。 外交筋によると、ポーランドと英国が改定方針について難色を示しているという。 チェコのトポラーネク首相が記者団に明らかにしたところによると、ポーランドのカチンスキ大統領が議決法としての人口比による多数決制について妥協する可能性を否定し、「議論は凍結した」という。 一方、英国は、外交政策、司法、移民、人権の4分野での主権維持という要求が通らない限り、改定には同意しないとしている。 EU議長国ドイツのメルケル首相は記者団に対し、EU首脳らは意見の対立を抱えつつも、欧州憲法に代わる新条約の発効を望んでいると述べた。 欧州憲法は2005年にフランス、オランダの国民投票で批准が否決され、批准作業が事実上停止している。 (引用終了) やはりというかイギリスとポーランドがありていに言えばゴねているらしい。この両国、ヨーロッパきっての親米路線(かつてはスペインもそうだったが政権交代で脱落)という特徴で共通している。それと関係するのか、ドイツとは腐れ縁があるわけだが。 イギリスのブレア首相はそれでも割合ヨーロッパに近い立場だったらしいが、今月末にその跡を襲うことが決まっているブラウン蔵相はヨーロッパに対しさらに冷淡という事情があるようだ。 さらにややこしい問題はポーランドのほうで・・・、(引用開始)<ポーランド首相>ナチス侵略なければ人口2倍…発言が波紋6月22日10時24分配信 毎日新聞 【ブリュッセル福原直樹】第二次世界大戦でナチスの侵略がなければ、ポーランドの人口は約2倍だった――。ポーランドのカチンスキ首相が地元ラジオで行った発言が、欧州憲法の再生を目指す新条約を検討するため、ブリュッセルで開催中の欧州連合(EU・27カ国)の首脳会議で波紋を呼んでいる。多くのポーランド人がナチス・ドイツの犠牲になった大戦を理由に、歴史的に対立する議長国・ドイツをけん制したと受け止められている。 ポーランドの人口は約3800万人。EUが多数決を行う場合、政治的妥協でポーランドには人口8200万人のドイツとほぼ同数の票数が与えられている。新条約では、各国の人口比をより正確に反映して票数を再配分する方針だが、ポーランドは現在と同じ票数を求め、交渉の障害になっていた。 カチンスキ首相は「失ったものを取り返すべきだ」と、要求理由を説明した。各国首脳は21日、「ばかげている。歴史を持ち出す場合ではない」(デンマーク)などと一斉に反発。交渉取りまとめを目指すドイツのメルケル首相だけが言及を避けた。 (引用終了) なんつうか、すごい理屈だ。こういうの「恨(ハン)」っていうんですかね。ただこの人なら特段奇異な発言でもないように思う。もともとそれが売りの政治家だし。 ヤロスワフ・カチンスキ首相は双子の兄レフが同国の大統領を務めていて、世界でも珍しい要職を占める兄弟政治家なのだが(ちゃんと選挙で選ばれている、念のため。あとこの二人、子供の頃は揃って名子役だったそうだ)、その登場時からその対独、対EU強硬姿勢は注目されていて、僕も日記に書いている。 今回ポーランドがゴねているのは、引用した記事にあるとおり委員会での票決の際の票の配分にあり、要するにポーランドは「俺の発言権をもっと大きくしろ」と主張しているに過ぎない。同じような内容のことをかつてこのブログに書いたなあと思って調べたら、なんと2003年の記事にそういうのがあった。なんかEUもあまり進歩してないな。 今の投票システムではポーランドはドイツとほぼ同等の発言力があるのだが、人口比に応じた改正によってドイツの半分になってしまうことを嫌っている。ポーランドは「中小国の発言権を保護するため」と主張しているのだが、自他共に小国をもって任じているデンマーク(19世紀までは結構大国だったのだが)やルクセンブルクはこのような主張はしていないし、カチンスキ首相のこの「歴史のif」発言に「何をバカな、そんな後ろ向きなこと言うな」という反応である。多くの国がひしめいて腐れ縁があるヨーロッパの寄り合い所帯で、そういうことを言ってるときりがないし。同じく東欧にありながらかつてナチス・ドイツと同盟していたハンガリーも、ポーランドのこの主張には冷淡である。 EU首脳会議にデビューしたフランスのサルコジ大統領が仲介に乗り出して、中小国の意見が反映されるシステムを考えようと提案したのだが、首脳会議に出席しているカチンスキ大統領(兄のほう)はこれを拒否して持論を堅持している。ポーランドの主張は、現在の投票システムを2020年まで維持すること、そして将来の票の割り振りを単純な人口比によるものではなく、平方根を用いて割り出す、というものである。人口比でいけばたとえばドイツ8票に対してポーランドが4票となるのだが、平方根を用いればたとえば人口8200万のドイツが√82で9票を得るのに対しポーランドは√38で6票を得る、といった具合である。 ポーランドは17世紀にはヨーロッパ最大の国であった一方、国が消える悲哀を何度も味わっているのだが、そのせいか反骨心が強い。しかし妙に強気というか、率直に言って夜郎自大なところもあった。独立を回復した第一次世界大戦直後には、巨大な領土を要求してリトアニアやソ連と紛争になった(このときはフランスの援助で有利な結果に終わった)。ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア侵略にも加担してその領土の一部を奪っている。 さらに1939年8月、今度はドイツのポーランド侵攻が確実視される中、ポーランドのベック外相はアメリカ大使と会談した際「ドイツは戦争など仕掛けてこない。仮に戦争になっても三週間後にはポーランド軍がベルリンに入城するだろう」と楽天的な見通しを述べてアメリカ大使を唖然とさせた。結果はその全く逆となった。 正確にはカチンスキ首相は「ドイツの侵略がなければポーランドの人口は6600万人になっていた」と発言している。現在のポーランドの人口の倍よりもやや少ないが、この数字に何か裏付けはあるのだろうか? ただドイツがポーランドに「んなアホな」と言い返せない面があるのも事実で、第二次世界大戦中のポーランド国内の死者は(戦中・戦後の混乱もあって正確な数字は把握できないのだが)およそ500万人にものぼり、これは人口2700万人だったポーランド人口の2割にもなり(国民の五人に一人)、国別で言えばポーランドは第二次世界大戦でもっとも惨禍が大きかった国といえる(第二位のソ連が人口の13%、ドイツは1割、日本は4%弱)。 犠牲者の内訳は軍人10万人、ポーランド系市民190万人、ナチスによるホロコーストに遭ったユダヤ人200~300万人である(戦前のポーランドの人口の一割がユダヤ人だった)。死者は戦闘行為によるもののみでなく、ドイツはポーランド人を奴隷化するためにその知識層を特に狙って絶滅収容所に送り込んでいる(またポーランド人数十万人が連行されドイツ国内の工場で強制労働させられている。また約10万人が志願兵としてドイツ軍に加わった)。もっとも、この数字の全部がドイツによるものではなくて、1939年にはソ連がポーランドの西半分を占領しているし、逆に終戦直後にはポーランドを追われたドイツ系住民30万人が犠牲になっているのだが。 カチンスキ兄弟の父親は1944年8月のワルシャワ蜂起(ドイツ占領軍に対する市民蜂起)に加わって重傷を負っているし、当時14歳の母親は負傷者の看護にあたって修羅場をくぐったという。戦後ドイツは腫れ物を触るようにポーランドを扱ってきたし、両国の間には公式には過去の大戦にからむ問題はないことになっているが、実際にはまだわだかまりもあるし、現にカチンスキ兄弟はそれに乗っている面もある(ポーランド国民の名誉のために書いておくと、カチンスキ兄弟の強硬姿勢に反して世論調査では9割以上がEUとの妥協を支持している)。ヨーロッパ議会のドイツ人議長が、夏に開かれる「追放ドイツ人」(かつてポーランドを追放されたドイツ系住民。財産返還訴訟を起こし、ドイツ・ポーランド間の「歴史認識問題」になっている)の大会に出席する予定であることも、今回のカチンスキ発言と関係するかもしれない。 かつてドイツ側はポーランドを過去を克服した「東のフランス(=ドイツの強固な同盟国)」として扱おうとしていたのだが、今やその幻想は捨てるべきだという論調も見られるようになった。割合良好なドイツ・ロシア関係においても、アメリカに協力的でミサイル防衛計画を推進し、バルト海パイプライン計画に反対するポーランドはむしろ足を引っ張る役回りであり、ロシアの国境がはるか東方に移動した現在、重要性も以前に比べ低くなったためである。 ところでこの票の割り当て問題、もし20xx年にトルコがEUに加盟したら、またぞろ再燃することはないのだろうか。 その頃にはトルコの人口は1億人に迫っていて(若年人口からみて明らか)、一方で最大の人口を抱えていたドイツは減少局面に転じるので、いきなり新顔のトルコがEU最大の国ということになる。そのとき旧EU側がいろいろ理屈を持ち出してトルコの票数を抑えにかかったら笑ってやるのだが。ちなみにポーランドはトルコのEU加盟には理解を示しているようだ。・・・・・・・ 僕はいろんな国がひしめいて喧々諤々やっている(戦争はダメだが)ヨーロッパが好きだ。 アジアでEUみたいなのが出来ればいいとは思わないし、中国一国よりも狭いヨーロッパ内での濃密な交流の歴史とひき比べたとき、出来るとも思えないが。 かつてド・ゴールは東西ドイツの統一に反対した(彼の存命中は実現しなかったが)。ある人が彼に「ドイツがそんなに嫌いなのか」と聞いた。「ドイツが嫌い?とんでもない。私はドイツが大好きだよ。だからたくさんあったほうがいい」
2007年06月22日
コメント(8)
(引用開始)地球温暖化で議論沸騰 IPCC海水面上昇予測「甘い」1月30日8時0分配信 産経新聞 地球温暖化の研究や予測を集約する国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第4次報告書の気候変動予測が来月2日、パリで発表されるが、専門家の間からは、報告書案は温暖化による南極やグリーンランドの氷床が急激に溶けていることを考慮しておらず、海水面上昇の予測が甘いとの批判が上がっている。 IPCCの報告書が出されるのは1990年、95年、2001年に続き今回が4回目。AP通信によると事前に関係者に配られた報告書案は今世紀末の海水面上昇を最大58センチと予測している。 これは、最大88センチとした前回の5分の3にすぎず、トンプソン米オハイオ州立大学教授は同通信に対し、「報告書はグリーンランドや南極大陸(の氷床融解)について考慮しておらず(予測は)もっと驚くべきものになると思う」と話した。02年には南極で約3200平方kmの氷床が1カ月余りで消失、グリーンランドでは1996年の倍の速さで氷床が解けているという。(杉浦美香)(引用終了) 世界最大の島であるグリーンランドはデンマークの自治領で、南北2500km、東西1000kmに及び、面積が216万平方キロと日本の5倍以上、デンマーク本土の50倍もある。ところが南端を除きほとんどが北極圏にあるため、海岸部を除く島の85%が氷床に覆われており(つまり日本ほどの面積は氷に覆われていない)、人口は5万6千しかない。北端は北極点から710kmしか離れておらず、流氷に覆われた北極海に面している。一番近い隣国はバフィン湾の対岸であるカナダと、デンマーク海峡を挟んだアイスランドになる。 「グリーンランド」は英語名だが、現地ではデンマーク語で「グレーンラン(緑の地)」、あるいは先住民カラーリトの言葉で「カラーリト・ヌナート(人間の地)」と呼ばれる。カラーリトというのは北極先住民イヌイト(いわゆるエスキモー)の一派でモンゴロイド人種であり、人口の9割を占める。自治権を得てからは地名表記がデンマーク語からカラーリト語に直されたが、首都ゴットホープ(人口1万4千人)もヌークと呼ばれている。 北極圏だけに寒い。メキシコ湾流(暖流)のおかげで流氷の来ない南西部(ツンドラ気候)でさえ年間平均気温は日中-0.4℃、夜は-10℃であり、氷雪気候の内陸部では-70℃に達する。12月と1月は全く太陽が照らず、乾燥しているため年間46日しか降水がない。内陸部の氷床は厚さ最大3000mにもなり、これが全て溶けると地球の海水面は6~7m上昇するという。 ただ氷に覆われていない地域では苔や灌木が生育し、「緑の地」というのは全くの嘘名ではない。陸地にはホッキョクグマだけでなくジャコウウシ、オコジョ、レミングといった珍獣が、海ではクジラやアザラシ、セイウチの他多様な魚類が住み、独特の動物相がある。 グリーンランドに初めて人類が住むようになったのは紀元前2500年頃で、グリーンランド西岸のその文化はサカク文化という。イヌイトの祖先にあたる彼らは、ベーリング海峡から海沿いに渡ってきたらしい。当時は割合温暖だったようだが、ジャコウウシやトナカイ、アザラシ狩りや簡単な漁労で生活し、中央に炉(燃料は獣脂など)を備えている平石を立て並べたテントに住み、蛇紋岩で作った石器や骨角器を使用していた。同じ頃、グリーンランド最北端にも人間が住むようになり、そちらは地名からインディペンデンス文化(I及びII)と呼ばれる。 紀元前1000年頃、気候が寒冷化し厳しくなると、人間もそれに対応を迫られる。それが前期ドーセット文化で、イグルー(主に移動時に使われる氷の住居)が発明され、またカルマク(石積みの半地下式住居)が建てられた(イヌイト神話にも反映されている)。彼らはフリント(火打石)の他、隕鉄から作った道具を使い、やはり海獣などの狩猟を生業としていた。 紀元後600年頃以降繰り返される温暖期には、カナダ北部からニューファウンドランドまで、数千キロを隔てた交易が行われている(後期ドーセット文化)。 気候の温暖化は同時に、北大西洋でのヴァイキングの活動を活発にさせた。ノルウェーのヴァイキングは870年頃にアイスランドに植民したが、アイスランドへの航路を外れたグンビョルン・ウルフソンが巨大な島影を見たのが、ヨーロッパ人によるグリーンランド発見であるという(グリーンランドの最高峰は彼の名に因む)。 982年、殺人罪を犯したノルウェー人「赤毛のエリーク」はアイスランドを追放されたが、偶然海流に乗って1500km離れたグリーンランド南西部に到達し、そこを「緑の地」と名付けた。およそ北極に似つかわしくないこの名前は、当時はより温暖だったので木が生えていたためとも、アイスランドで移住者を募るための虚偽宣伝ともいう。3年後に彼は移住希望者と共に25隻の船団でグリーンランドに渡り、無事に辿り着いた14隻の700人が入植したという。 彼の息子レイフは渡航先のノルウェーでキリスト教徒になり、1000年頃に宣教師を伴ってグリーンランドに戻った。こうして最初の教会が建てられたという。彼はアメリカ大陸(ヴィンランド)に入植を試みたことでも知られている。こうした記録は「サガ」と呼ばれる口承文学によるものだが、1076年にはドイツのハンブルク司教区の記録にもグリーンランドが言及されている。 1124年頃には教区が置かれ、1261年にはノルウェー王の、また1380年にはノルウェーを統合したデンマーク王の支配下に入ったが、3000km離れた遠隔地ゆえに現地人は実質的に自治を維持していた。グリーンランド入植地は人口数千、36の教会を数え、豚や牛を自給しており、ヨーロッパにセイウチの牙や魚介類を輸出し、逆に必需品である木材、鉄、そして贅沢品を輸入していた。 ところが1350年には西部の集落放棄が記録され、1408年の婚姻記録を最後に文献史料も絶え、グリーンランド入植者(ノース人)の消息は伝わらない。考古資料などから、遅くとも1550年頃にはノース人入植地は消滅したと見られる。その原因として14世紀の気候寒冷化(小氷期)、経済的不振による放棄、乱伐による環境破壊、先住民イヌイトによる襲撃、あるいは彼らとの混合などの説が挙げられている。特に最後の説は以前支持を得たが、最近のDNA分析は両者の混血が無かったことを示している。 ヴァイキングがグリーンランドに入植したのと同じ頃、アラスカにトゥーレ文化が発達する。カヤク(一人乗りカヌー)やウミヤク(最大20人乗りのボート)、そして精巧な銛の発明は、捕鯨を可能にした。鯨は捨てる所がないというが、その皮(コロ)は北極圏で不足しがちなヴィタミンCを豊富に含み、鯨油は暖房に使え、その巨大な肋骨で大きい住居を作ることが可能になる。また犬橇が発明され、冬季の移動が容易になった。 1000年頃までにドーセット文化の痕跡が希薄になる一方(このためヴァイキングが到達した時グリーンランドは無人島だったともいう)、1200年頃から新たにトゥーレ文化の遺物がグリーンランドに見られる。この頃アラスカ辺りから新たにイヌイトが移住したと考えられており、彼らが現在のカラーリトの直接の祖先となる。 上述のように14世紀から北半球は小氷期を迎えるが、自然環境が厳しくなる中グリーンランド北部は放棄され、南下したイヌイトとノース人との間で交流や摩擦があったことは想像出来る。 その後暫くグリーンランドはヨーロッパ人に忘れられていたが、17世紀初めからヨーロッパの捕鯨船が近海に出没するようになった。グリーンランドは捕鯨船の寄港地として注目されるようになり、年間1万人もの捕鯨船乗組員が上陸するようになる。彼らは先住民カラーリトとの接触はあったが、定住はしなかった。 1721年、ノルウェー人(ただし当時ノルウェーはデンマーク領)牧師ハンス・エゲデがグリーンランドに上陸、カラーリトへの宣教を開始した。交易基地も置かれ、1776年には王立グリーンランド交易会社が交易と宣教を独占するようになった。カラーリトの文化はヨーロッパの強い影響を受け始め(貨幣経済への依存や新しい伝染病の蔓延など)、また混血が進んでいくことになる。 19世紀にもオランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェーなどの捕鯨船が頻繁にグリーンランドに寄港した。1863年にノルウェーで捕鯨砲が発明され、捕鯨はより効率的かつ大規模になっていくが、同時に乱獲を招くことになった。ヨーロッパの捕鯨船の目的は鯨肉ではなく、鯨油やゼラチン、脂、鯨蝋、龍涎香で、特に鯨油は爆薬(ニトログリセリン)製造に重要だった。 ナポレオン戦争後の1814年にノルウェーはデンマーク支配下から離れたが(キール条約)、その属領であるグリーンランドはデンマーク領に留まっている。1862年にはグリーンランドで最初の地域議会が開かれ、1911年には郡議会が開設された。1925年からは郡政府に統治されたが、いずれもデンマーク政府の下部に置かれ、決定権はほとんど本国にあった。 1888年、ノルウェーの探検家フリチョフ・ナンセンはスキーでグリーンランドを横断、その内陸が氷床に覆われていることを報告した。またデンマークとカラーリト双方の血を引くクヌート・ラスムッセンは1912年から33年まで7回にわたる北極探検を行い、北極の地理やイヌイトの民俗を調査した。彼の報告はイヌイト文化に関する基本文献である。 第一次世界大戦後の1921年、デンマークはグリーンランド全土の領有を宣言したが、元々領有していたノルウェーは、1814年のキール条約は当時開拓済みだった西部にしか適用されないと抗議した。1930年にはノルウェーの漁民が東部の無人地帯に上陸して占拠、領有を宣言したが、ハーグ国際法廷がデンマーク側の主張を是としたためノルウェーは手を引いた。 第二次世界大戦中の1940年5月、デンマーク本国はナチス・ドイツに占領されてしまった。ドイツがグリーンランドを基地として通商破壊戦に使用することをアメリカは恐れたが、駐米デンマーク大使の一存で米軍のグリーンランド進駐が決まった。ドイツ軍は1942年に秘密裏に観測班をグリーンランドに上陸・越冬させ、北大西洋の気象情報を入手していたが、翌年デンマークのパトロール隊に発見され、観測基地を空襲されて撤収した。この時ドイツ軍に射殺された隊員が、グリーンランド唯一の大戦犠牲者となった。 大戦が終わってデンマークは解放されたが、今度はアメリカとソヴィエト連邦の間で東西冷戦が始まった。デンマークは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1951年にアメリカとグリーンランド共同防衛協定を締結した。ソ連が北極圏越しにアメリカ本土を攻撃する場合、グリーンランドはまさに最前線となるため、アメリカは飛行場やレーダー基地を置いた。 デンマークによる交易独占は1950年に解消され、1953年には植民地から海外郡に昇格しデンマーク国会に議席を得た。1955年にはグリーンランド省が設立され、住民の生活向上に努めてゆく。飛行機やヘリコプター、砕氷船などの利用は住民の生活レベルを向上させたが、同時にイヌイトの伝統的な狩猟生活が失われ、都市部への定住化が進み失業が問題化することになる。 デンマーク本国人と現地出身者には賃金差別が公然と行われていたので、1960年代からは住民の権利向上や自治権獲得運動が盛り上がった。1973年にデンマークがEC(ヨーロッパ共同体、のちEUに改編)に加盟すると、この運動はますます盛んになった。前年に行われたEC加盟を問う住民投票はグリーンランドに限れば反対が上回っていたが、アメリカやカナダとの経済関係を強めたグリーンランドにとって、ECの設定する関税や、近海で操業するEC国籍漁船の活動、EC企業の優先的地下資源探査は不利だったためである。 住民投票の結果を受け、1979年にグリーンランドは自治権を獲得した。更なる住民投票の結果、1985年にグリーンランドはデンマーク領でありながら独自にECを脱退した。EC加盟を希望する国が多い中、脱退したのはこれが唯一の例である。ただし現在もEUと協力関係にある。
2007年03月13日
コメント(2)
ヨーロッパ各国の犯罪に関する聞き取り調査についてのこんな記事を「シュピーゲル」電子版で見つけたので、紹介。 ちなみに僕自身はヨーロッパで犯罪らしい犯罪に遭遇したことはないのだが、同行のドイツ人がイタリアとトルコで車上荒らしに遭ってパスポートやカメラを盗まれたことがある。 では問題。EU加盟主要18ヶ国(2004年以前の加盟15ヶ国+ポーランド、ハンガリー、エストニア)中で、最も危ない国=犯罪発生率が高い国はどこでしょう? 僕にとっては意外といえば意外な国だったが、その国の様子を知っている人にとっては意外でもないのだろうか? 答え・・・アイルランド 。(色反転させて下さい) 人口に対する過去一年間に何らかの犯罪被害に遭った人(注・自己申告)の割合は、1位=アイルランド 22.1% 2位=イギリス 21% 3位=エストニア 20.2% ちなみにドイツは13.1%で9位。 非常に大雑把に言えば、犯罪被害者率は北ヨーロッパのほうが高いように見える。ドイツは前回調査よりも減少=治安が良くなっているようだ。 僕のイメージではイタリアが圧倒的に泥棒の多い国なんだが(済みません)、このリストでは12.6%でドイツよりも犯罪被害者の割合が少ないことになっている。これは泥棒が日常的過ぎて警察に届けないので事件化せず記録に残らないのか(あるいは盗られたことに気付かないのか)、それともイタリアの泥棒は外国人旅行客ばかり狙うので、全体の割合としてはこんなものなんだろうか。 あと過去の統計と比べると、スペインや東欧の治安が劇的に良くなっているのが分かる。 それでは部門別に見てみる。・自動車泥棒 1位=イギリス 2位=ポルトガル 3位=デンマーク ドイツ17位・車上盗 1位=エストニア 2位=イギリス 3位=アイルランド ドイツ17位・バイク泥棒 1位=イタリア 2位=イギリス 3位=スウェーデン ドイツ11位・自転車泥棒 1位=オランダ 2位=デンマーク 3位=フィンランド ドイツ7位・空き巣 1位=イタリア 2位=デンマーク 3位=エストニア ドイツ15位・窃盗全般 1位=アイルランド 2位=イギリス 3位=ギリシャ ドイツ12位・スリ 1位=ギリシャ 2位=エストニア 3位=アイルランド ドイツ14位・強盗 1位=アイルランド 2位=エストニア 3位=ギリシャ他 ドイツ16位・性犯罪 1位=アイルランド 2位=スウェーデン 3位=ドイツ ・脅迫 1位=イギリス 2位=アイルランド 3位=オランダ ドイツ9位・暴行 1位=アイルランド 2位=イギリス 3位=ベルギー ドイツ8位・嫌がらせ 1位=フランス 2位=デンマーク 3位=ルクセンブルク ドイツ8位・移民への嫌がらせ 1位=ベルギー 2位=ギリシャ 3位=デンマーク ドイツ9位・詐欺 1位=エストニア 2位=ギリシャ 3位=ハンガリー ドイツ7位・汚職 1位=ギリシャ(ダントツ!) 2位=ハンガリー 3位=ポーランド ドイツ9位・麻薬犯罪 1位=ギリシャ(ダントツ!) 2位=ルクセンブルク 3位=スペイン ドイツ14位※汚職は汚職官吏と接触があった人の割合、麻薬犯罪は家の近所で麻薬犯罪が起きた人の割合 多い犯罪の種類によってそのお国柄が分かるといえるかも知れないが、他の部門で顔を出さないフランスが「嫌がらせ」部門で一位というのは笑ってしまった。自転車泥棒はその国の地形にもよるのかな。 では同じようなデータ(過去一年以内に何らかの犯罪被害に遭った人の割合)を各国の首都別で見た場合、一番危ない都市はどこでしょう?? 答え・・・ロンドンで32%。(色反転させて下さい)ということは、ロンドン市民の3人に一人は、過去一年に何らかの犯罪(ほとんどは窃盗などだろうが)の被害にあったということか。 以下タリン(エストニア)30%、アムステルダム(オランダ)27%、ベルファスト(北アイルランド)26%、ダブリン(アイルランド)26%、コペンハーゲン24%、ニューヨーク(アメリカ)23%・・・(中略)・・・ベルリン(ドイツ)19%、パリ(フランス)18%、イスタンブル(トルコ)18%・・・(中略)・・・リスボン(ポルトガル)10%となる。 東京はどのくらいなんだろうか??欧州地域渡航情報(外務省海外安全ホームページ) ちなみに僕は日本では大学時代に自転車泥棒一回、窃盗一回、喝あげ(未遂)一回に遭ったことがある。 そのうち窃盗は僕が入浴中を狙ってやられたもので、居間で物影が動いているので素っ裸で風呂から出ると、イチローみたいな顔をした若いドロボーに出くわした。僕は咄嗟に洗面器で前を押さえたが、泥棒はそのままベランダから逃げてしまった(アパートの一階だった)。財布の中の数千円を盗られただけで済んだのは不幸中の幸いというべきか。
2007年02月07日
コメント(12)
(引用開始)<コソボ独立問題>大詰め迎える…国連特使の報告書提示で2月3日18時19分配信 毎日新聞 アハティサーリ国連事務総長特使が2日、セルビアのコソボ自治州の独立を事実上認める報告書を提示したことで98~99年のコソボ紛争以来の課題だったコソボ独立問題は大詰めを迎えた。今後はセルビア、コソボ双方に加え、コソボ独立に慎重姿勢を示す国連安保理常任理事国ロシアの動向がカギを握る。 (引用終了) コソヴォ(セルビア名コソヴォ・メトヒヤ、アルバニア名コソヴァ)は現在も建前上自治州としてセルビア共和国(旧ユーゴスラヴィア)に属しているが、実態は1999年以降セルビア支配下を離れて国連決議1244に基づく国連暫定統治下にあり、北大西洋条約機構(NATO)指揮下の国連平和維持軍が駐留し、通貨もユーロである。ドイツではコソヴォ産の安いワインをスーパーで見ることがある。 内陸にあって山と盆地からなるコソヴォの面積は1万平方キロ(岐阜県なみ)で、人口は難民が多く不安定ながら190万人(岡山県と同程度)と推定されている。住民の9割はアルバニア人であるが、4%程の少数派としてセルビア人もいる。ただセルビア全体で見ると逆にアルバニア人は少数派であり、コソヴォのアルバニア人がセルビアから分離独立しようとしたことが1999年のコソヴォ紛争に繋がった。アルバニア人にイスラム教徒が多いのに対し、スラヴ系のセルビア人はキリスト教セルビア正教徒であり、言語も大きく異なっている。 さらに面倒なことに、こうした民族分布と国境は合致しておらず、コソヴォの西隣にはアルバニア人の国がある。コソヴォのアルバニア人たちは当然、自分たちが形式上属するセルビアよりも、同族の住む隣国アルバニアに親近感を持つことになる。 こうしてヨーロッパの片隅にあるコソヴォは20世紀も末に激しい民族対立の舞台となったのだが、セルビア人側にも、アメリカをはじめとする強大なNATO軍を敵に回してでもこの地を手放したくない歴史的経緯があった。 「コソヴォ」という地名は、スラヴ系言語でクロウタドリ(ドイツ語でAmsel)を意味するKosが変化したといい、Kosov-という語頭をもつ地名は東欧からロシアにかけ点在する。民族対立は地名の起源論にまで及んでおり、アルバニア人からはイリリュア語で「高原」を意味するという説が提出されている。またセルビア語での名称「コソヴォ・メトヒヤ」の「メトヒヤ」(コソヴォ西部にあたる)は「教会の所有地」を意味するギリシャ語で、中世にセルビア正教会の領地が集中した歴史に由来する。アルバニア人は「メトヒヤ」という地名を嫌って使わない。 イリリュア人というのは、古代ギリシャやローマの史書に言及される古代民族で、アルバニア人は自らの祖先とみなしている。紀元前2世紀以降、この地はローマ帝国の支配下に組み込まれていったが、山がちな地形ゆえにローマ文明化があまり進まずイリリュア人の伝統が維持され、後世のアルバニア人へと繋がっていったというが、定かではない。 4世紀末にローマ帝国が東西分裂した際、この地は東ローマ(ビザンツ)帝国の領域に属した。ローマ帝国の弱体化に相俟って、6世紀にはコソヴォを含むバルカン半島全域に東方からスラヴ族が流入したが、これがセルビア人の祖先となった。セルビア人とアルバニア人のどちらが先にコソヴォに居たかという論争は不毛ではあるが、政治的には意味を持っている。 キリスト教化したスラヴ人の天地となったバルカン半島は、ビザンツ帝国の支配下にあったが、10世紀頃に現在のセルビア南西部(サンジャック)にセルビア人の君侯国が成立した。13世紀初頭、ネマニッチ家のシュテファン2世はハンガリーの援助でビザンツ帝国から自立して王を名乗ったが、これがセルビア王国の始まりである。同時に彼の弟サヴァは初代のセルビア大主教となった(セルビア正教の起源)。 セルビア王国は14世紀半ばのウロシュ4世シュテファン・ドゥシャンの時に最盛期を迎え、1345年に皇帝を名乗ってバルカン半島に覇を唱えた。コソヴォはこのセルビア王国の中心部となり、経済・交易・産業や政治の中心というばかりではなく、1346年に大主教から格上げされたセルビア総主教座はコソヴォのぺチに置かれ、セルビア人の精神的支柱となる。なおこの時代にアルバニア人の存在も記録されており、彼らは山岳の牧畜民だったようである。 ところがウロシュ4世の死後王国は分裂、折りしも小アジア(現在のトルコ)から勢力を拡大したオスマン帝国の侵略を受け、1389年に会戦した。この戦い自体はセルビア侯ラザルとオスマン皇帝ムラト1世の双方が死ぬというしまらない結果に終わったが、この戦いののちセルビアはオスマン帝国の属国となったことから、キリスト教と民族防衛の戦いとして後世のセルビア人に記憶され、その古戦場であるコソヴォは「民族の聖地」扱いされることになる。 1455年にセルビアはオスマン帝国の直轄地になった。オスマン帝国の北方への拡大に伴ってセルビア人はコソヴォから北に拡散したが、同時にアルバニア人も流入するようになった。アルバニア人は支配者であるトルコ人と同じイスラム教に改宗したため重用され、元来が牧畜民で移動的な生態であったことも手伝って、各地に移動したのである。 優勢だったオスマン帝国は1683年にウィーン包囲に失敗、オーストリアの反撃が始まった。オーストリア軍がコソヴォに迫るとセルビア人は解放軍としてこれを歓迎したが、オスマン帝国は1690年に撃退に成功した。オスマン帝国の復讐を恐れたセルビア人4万人がコソヴォからオーストリア領内に逃亡したといい、この頃アルバ二ア人がコソヴォの多数派になったと思われる。 オスマン帝国の衰退は続き、ロシアとの戦争に敗れた1878年にはセルビアの独立を許すことになったが、セルビア人にとって民族揺籃の地であるコソヴォは、なおオスマン帝国の領内に留まった。国境の移動に影響され、かつて南北交通の要衝だったコソヴォは鉄道建設ルートから外れてしまい、近代化から取り残されてゆくことになる。またセルビア領内のアルバニア人が追放されてコソヴォに移住したため、アルバニア系住民の割合が増大した。 1912年、セルビアなどバルカン諸国は同盟してオスマン帝国に宣戦し、バルカン半島に残存するその領土を分け取りにした。セルビアは念願のコソヴォを併合したが、その地の住民の多くは今やアルバニア人であり、更にややこしい事に、同時にアルバニアがオスマン帝国から独立していた。セルビア軍による虐殺やセルビア語教育の強制が行われたため、亡命するアルバニア人も多かった。 第一次世界大戦中の1915年にセルビアはオーストリア・ドイツ連合軍に占領されたが、コソヴォのアルバニア人はオーストリア軍を歓迎したため、1918年に大戦がオーストリアの敗北で終わると、戻ってきたセルビア軍による復讐が始まった。ハサン・プリシュティナらはアルバニア人抵抗運動を組織し、アルバニアやトルコに逃亡する者が相次いだ。「ユーゴスラヴィア」と改称したセルビアは、官吏をセルビア人で固め公用語をセルビア語のみとするセルビア化政策を採ったが、うまくいかなかった。 第二次世界大戦中の1941年、ユーゴスラヴィアはドイツとイタリアに分割占領された。ドイツは占領を円滑に行うためユーゴ内部の民族対立を利用した。コソヴォはアルバニア(当時はイタリア領)に統合されたが、1943年にイタリアが連合国に降伏するとドイツがコソヴォ占領を引き継いだ。ドイツはアルバニア人義勇兵からなるナチス親衛隊部隊を結成し、セルビア人やユダヤ人を迫害した。 一方でユーゴとアルバニアのパルチザンによる対独抵抗運動が活発化した。コソヴォのアルバニア人パルチザンはアルバニアのエンヴェル・ホッジャの指揮下で活動したが、そのためユーゴのパルチザンを率いるチトーとの間で紛争となった。ホッジャとチトーの協議の結果、コソヴォは戦前と同じくユーゴスラヴィアに属することが合意された。1944年、ユーゴスラヴィアはドイツの占領から解放され、社会主義国となる。 コソヴォは再びユーゴスラヴィア連邦内のセルビア共和国の一部とされ、アルバニア人の抵抗運動が再燃した。社会主義ユーゴスラヴィア政府は戦前の民族政策に回帰したため、亡命を希望するアルバニア人が跡を断たなかったが、アルバニアの国家指導者ホッジャはユーゴとの友好のためコソヴォ難民の受け入れを禁止したので、およそ30万人のアルバニア人がトルコに亡命した。 ユーゴスラヴィアのコソヴォ政策が変化したのは、1966年の中央政治局での保守派失脚以降で、1974年の新憲法でコソヴォはセルビア内の自治州としての地位を認められ、アルバニア語は公用語の一つとして学校での教育も認められるようになった。その一方で、ユーゴ内で最貧だったこの地域から流出するセルビア人も多かった。 1980年、チトー終身大統領が死に、また計画経済の行き詰まりが明らかになると、ユーゴスラヴィア連邦の各共和国では民族主義が台頭する。1987年にはセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア共和国大統領に選出され、1989年3月にセルビア議会はコソヴォの自治権を停止した。さらに同年6月、コソヴォを訪問したミロシェヴィッチはコソヴォの戦い600周年記念演説を行ってセルビア人の民族意識を煽り、コソヴォはセルビアの不可分の領土であると宣言した。この演説は、この後10年続く旧ユーゴ内戦の狼煙となった。 連邦を構成する各共和国が、セルビア人主導の連邦を嫌って次々と独立する中、コソヴォでも住民投票でセルビアからの独立支持派が圧倒的多数を占めた。イブラヒム・ルゴヴァ(のちコソヴォ暫定大統領)を指導者とする独立運動は、内戦に陥った旧ユーゴにあって平和的なものだった。 旧ユーゴで最も凄惨な内戦となったボスニア内戦は、アメリカなどの圧力で1995年に一応の終結を見たが、コソヴォ独立の先行きは見えず、首都プリシュティナでは学生デモが頻発した。さらに過激化したアルバニア人組織(コソヴォ解放軍UÇKなど)は、ボスニアからコソヴォに移住したセルビア人を襲撃したり、政府施設へのテロ攻撃を行った。これに対しセルビア政府も特殊部隊を投入、アルバニア系一般市民が虐殺される事件が起きる。 1998年には難民が23万人にのぼり、国連やEUなど国際社会が介入する事態になった。国連はコソヴォからのセルビア軍の撤収を要求する決議1199を行うがセルビア側は内政干渉として拒否、事態はさらに先鋭化した。翌年1月にNATOとミロシェヴィッチはフランスのランブイユで直接交渉を行ったが決裂した。コソヴォからの撤退とNATOによる進駐・治安維持は、セルビアにとって国土占領に他ならなかった。 国連による武力行使容認決議は、安保理常任理事国であるロシアと中国の反対で成立しなかったため、NATOは決議を経ないまま同年3月、人道的介入を理由にセルビアに対する空爆に踏み切った。空爆は6月にセルビア軍がコソヴォから撤退するまで続き、セルビア全土とコソヴォでおよそ1万人が死亡した。なおこの戦争は、NATOに属するドイツにとって第二次世界大戦後初の参戦であり、その是非を巡る議論が巻き起こった。 コソヴォは国連の暫定統治下に置かれ、NATOを中心とする国連軍(KFOR)が進駐している。しかし今や圧倒的多数派になったアルバニア人と少数派に転落したセルビア人の衝突は現在まで度々起きており、将来的にアルバニアとの統合が問題化する可能性もある。また経済的に旧ユーゴでも最貧地域(一人当たりGDP1500ドル)であることが示すように、破壊されたインフラの整備、国際援助や外資頼みの経済構造、莫大な貿易赤字、5割近い失業率、エネルギー供給の不足、頻発する汚職や組織犯罪、高い若年人口率とヨーロッパ最低の識字率などの問題が山積している。念願の独立を達成したとしても、その前途は多難であろう。
2007年02月02日
コメント(0)
あれ?もう3日か・・・。 遅れましたが、皆様明けましておめでとうございます。今年もこのブログを宜しくご愛顧下さい。・・・・・・・ ところで新年てなんで目出度いのだろうか?とひねくれ者の僕は考えてみる。 門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし とは一休宗純の句だが、彼は新年に髑髏のついた杖をついて歩き回り、新年に浮かれる人々を「ドン引き」させたという。まあこれは彼の批判精神から出た行為として、新年が目出度いのはやはり「皆さんそろってまた歳を重ねることが出来たのが嬉しい」ということに帰するのではないかと思う。昔は数え年だったので新年に皆揃って歳を取ったのだが、誕生日という風習が定着し、また核家族化の進んだ現在はその有り難味が薄れているかもしれない。・・・・・・・・ さて「めでたくもあり めでたくもなし」というニュースを羅列。(引用開始)EU ブルガリア、ルーマニアが加盟 27カ国体制に1月3日10時24分配信 毎日新聞 【ソフィア会川晴之】ブルガリアとルーマニアが1日、欧州連合(EU)に加盟し、EUは27カ国体制となった。両国では1日、記念式典やコンサートが開かれ、EU加盟と新年を同時に祝った。また、スロベニアが同日、単一通貨ユーロを導入し、ユーロ圏は13カ国となった。(中略) ブルガリアの首都ソフィアでは1日午後、広場で式典が開かれ、パルバノフ大統領が「今日は偉大な日だが、改革努力は続けなければならない」と司法改革や組織暴力追放などを誓った。同日夕開かれたコンサートではスタニシェフ首相が「夢がやっと実現した」と喜びを語り、オーケストラがブルガリアとルーマニアの作曲家が合同で作った曲を演奏し、加盟を祝った。 式典参加の市民には若者を中心に「EUのどこでも働けるようになる」「若者の未来が開ける」「孤立から脱し、大きなEU家族の一員になれる」など肯定的な意見が目立つ。一方、中高年からは「加盟は早すぎる」「物価が上がるのが心配」などと懸念する声も漏れた。(引用終了) これはブルガリア人やルーマニア人の多くは喜んでいるだろう。 ルーマニアのEU入りが正式に決まったとき、研究室仲間だったルーマニア人のEも喜んでいた。しかし一方でドイツ人のDは「ルーマニアなんかがEUに入るなんて無茶苦茶だな」と苦々しげに言っていた。半ばEに対するからかいのつもりだったんだろうけど、洒落でもないかもしれない。ちなみにEは奥さんはドイツ人、研究の基盤もほとんどドイツにある。 去年の夏、ハイデルベルクでなりゆきでS君の知り合いのブルガリア人のパーティーに参加したのだが、何人居るんだというくらいのブルガリア人が来ていた。ドイツの大学にはものすごい数のブルガリア人が留学している。「留学」というよりブルガリア人の若者のほとんどがドイツの大学に進学しているんじゃないかというくらいである。 上の記事に「EUのどこでも働けるようになる」「若者の未来が開ける」という希望的な観測が出ていたが、それは裏を返せばこの両国の空洞化ということでもある。目端の利く者はよりよい賃金が見込めるドイツでの職を求め、勉強できるやつはつぶしのきく西欧の大学に行こうとする。実際にブルガリアの人口は東欧革命の起きた1989年の980万人から、現在は730万人にまで減少している(人口の2割近く居たトルコ系住民の流出も大きいが)。 一方EU側からしても、旧ソ連圏やトルコと接する両国の組織犯罪の流入、そして一人当たりGDPがEU平均の3割しかない両国が開発補助金などの「金食い虫」になることが心配されている。 スロヴェニアのユーロ圏加入は納得ではある。あの国の街並みを見ているとドイツとほとんど変わらないし(実際、独立国或いはユーゴスラヴィアの一部であるよりも、オーストリア帝国の一部である時期のほうがはるかに長かった)、一人当たりのGDPはギリシャやポルトガル(共にユーロ国)と変わらない。 ただユーロ導入直後にドイツでは物価がかなり上がったのだが、ドイツに比べ7割くらいと安めだったスロヴェニアの物価も上がるんだろうな。あとユーロ高が止まらない。ユーロ移行時には1ユーロ=120円以下とドルとほぼ同等だったのだが、今や158円台である。日本の留学生や観光客にはユーロ圏は物価の高い国となったし、逆にユーロ圏の国際競争力低下にもなりかねない(ユーロ高のおかげで、今やドイツはアメリカを抜き世界最大の輸出国になっている)。 ユーロ紙幣はどの国も同じだが、硬貨は国によってデザインが違う。コレクションする楽しみが増えるかもしれない。去年のワールドカップのおかげで、ユーロ貨幣の混合(ドイツ国内でスペインなど他国のユーロ硬貨を使うこと)がだいぶ進んできたように思う。 ともあれこれでEUは面積432万平方キロ、人口4億9千万人、23の公用語を持つ一大政治・経済圏となった。ちなみに2007年前半の議長国は、人口・経済規模共に最大の加盟国ドイツである。 他にクロアチア、トルコ、マケドニアが加盟候補国となっているし、かつてNATOと戦争したセルビア、内戦で荒廃したボスニアやアルバ二アも加盟申請を検討中、また早期実現は困難としても希望している国は旧ソ連のウクライナ、グルジア、モルドヴァ、そして将来の加盟の可能性が云々されている国にはイスラエル・パレスチナ、北アフリカ諸国など、枚挙に暇がない。まあ現実に早期加盟できそうなのはクロアチアくらいだと思うが。 ところがそんな「入れて入れて」と希望者殺到のEUからかつて脱退した地域があると知って驚いた。それは「国」ではなく「地域」であるグリーンランドである。 グリーンランドはかつてデンマーク領だったが、1979年に自治権を獲得、独自の政府と議会を持った。名目上デンマーク女王を元首に戴いているが、イギリス女王を元首に戴くオーストラリアやカナダが独立国扱いされているのと同様に、実質的な独立国である。 デンマークは1973年にEC(EUの前身)に加盟したが、当時デンマーク領だったグリーンランドも自動的にECの一部となった。ところがその前年に行われた国民投票では、グリーンランドに限ってみれば賛成3905に対し反対9386と反対派が多数を占めた。グリーンランドは経済的にアメリカやカナダとの結びつきのほうが大きく(それが始まったのは、1940年のドイツ軍によるデンマーク占領と、アメリカによるグリーンランド保護領化からだった)、EUの関税・経済政策はむしろ地域経済を圧迫する。しかも冷戦でソ連に対する最前線だったグリーンランドは(地球儀を見るとその重要性が分かるでしょう)、安全保障でもアメリカの保護下にあった。本国デンマークは小国な上、2000kmも離れているのだから無理はない。 さて目出度く1979年に自治権を得たグリーンランドだが、早速EC脱退論が出た。ECの自国農業保護政策や関税は、食料の多くをアメリカやカナダからの輸入に依存するグリーンランドには迷惑この上ない。しかも優先特権のあるEC諸国の企業がグリーンランドの地下資源開発に入り込んだり、西ドイツの漁船がグリーンランドの領海で乱獲したりで住民の反感を買った(ノルウェーやアイスランドがEUに加盟しようとしないのも、この水産資源問題がある)。 1982年2月23日、グリーンランドでEC脱退を問う住民投票が行われ、脱退が決まった。1985年1月1日、グリーンランドはECから脱退したが、デンマーク領として今もEUとの協力関係は維持しており、関税などで優遇措置を受けている。 結局何が言いたいかというと、地域協力機構というのは深化が難しいし、いい事ばかりでなく克服すべき問題も多くあるということですな。
2007年01月03日
コメント(2)
(引用開始)<EU首脳会議>拡大政策転換し、機構改革に焦点12月15日19時0分配信 毎日新聞 欧州連合(EU)は14日から首脳会議を開き、来年1月にルーマニアとブルガリアがEUに加盟するのを機に、積極的な拡大策を打ち切り、EU内の機構改革に焦点を絞る方向で検討を始めた。トルコやクロアチアなどバルカン諸国がEU加盟候補国に挙がっているが、これらに対しEUは「厳しい加盟審査を行う」としている。(引用終了) うーむ。EU加盟を目指すトルコには厳しい先行きになりそうだ。 この記事には、もう一つの正式なEU加盟候補国であるマケドニアが出ていない。今日はそのマケドニア共和国について。 「マケドニア」というと、西アジアへの大遠征(紀元前334~23年)を敢行したアレクサンドロス大王の故国がまず思い出される。その地域は概ね現代のギリシャ共和国の最北部にあたる。 ところが地図を眺めてみると、現在もギリシャの北隣に「マケドニア」を名乗る小さな内陸国(面積2万5千平方キロ=関東地方とほぼ同じ、人口200万人=群馬県と同規模)があることに気付く。現代のマケドニアは1991年にユーゴスラヴィア連邦から独立した新しい国で、「マケドニア」を名乗る国家が出来たのはおよそ2000年ぶりのことだった。 その歳月が物語るように、古代マケドニア人と現代「マケドニア人」は自称と居住地域が重なるだけで、直接の繋がりはない。現代マケドニア人の言語はスラヴ系のブルガリア語とほぼ同じであり、現に隣国ブルガリアは「ブルガリア語の一方言」であるマケドニア人を1999年まで独立した民族と認めなかった。 現代マケドニア国家は歴史的呼称としての「マケドニア」の4割程度を占めるに過ぎない。それを示すように、国連や日本政府が承認している正式名称は「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」という説明的なものになっている。 アレクサンドロス大王はギリシャ人と思われがちだが、古代マケドニア人がギリシャ人に属するかどうかは当時から議論があった。現在の研究では古代マケドニア人も紀元前1200年頃に北方から移住したとされるギリシャ人の一派と考えられているが、古代の歴史家はフリュギア人・イリュリア人・トラキア人などからなる混成民族と記している。また古代ギリシャ人はマケドニア人を長らく同類と認めず、ギリシャ人のみに参加が許されていた古代オリンピックにマケドニア人が参加したのは紀元前5世紀後半である。 それまでペルシア帝国の属国で異民族とみなされていたマケドニアは、文化人や芸術家を招いてギリシャ化し、フィリッポス2世のとき俄かに興隆した。フィリッポスは富国強兵を推進し、紀元前338年にアテネなどの都市国家連合を破り全ギリシャの盟主となったが、2年後に暗殺された。彼は北方遠征も行ったが、このとき彼の版図に入ったのは現代のマケドニア共和国のほんの一部であり、その他の地域はトラキア人やイリュリア人の居住地だったと思われる。 その息子アレクサンドロス3世(大王)は、即位後まもなく北伐を行ってトラキア人を降し、後背を安定させた。彼は紀元前334年に東征に着手し、ペルシア帝国を滅ぼしてギリシャからインドに及ぶ大帝国を築いたが、紀元前323年に急死すると帝国は分裂した。マケドニアはアレクサンドロスの部将アンティゴノスの子孫が継承し、元の大きさに戻る。 地中海で興隆するローマ帝国に対し、マケドニアは三度の戦争を戦ったがいずれも敗れ、紀元前148年には完全にローマ帝国に併合され、ここに古代マケドニア王国は消滅した。「マケドニア」は単なる地域名称となる。 ローマ帝国が東西に分裂した際(395年)、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。キリスト教を国教とする東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれ、ラテン語ではなくギリシャ語を公用語とし、ギリシャ化が進む。一方で6世紀から7世紀にかけて東欧にスラヴ族が流入、マケドニアはスラヴ族最南端の居住地となった。これがスラヴ系である現代マケドニア人の直接の祖先となる。 さらに9世紀になると修道士キュリロス兄弟がスラヴ族にキリスト教(ギリシャ正教)を伝道した。スラヴ族には彼が考案したグラゴール文字が伝わったが、13世紀までに後に考案され彼の名にちなむキリル文字に替わり、現代マケドニア語はキリル文字で表記される。主教座の置かれた美しい湖畔の町オフリドには10世紀に建てられたビザンツ様式の大聖堂が残っており、世界遺産に指定されている。 東のブルガリア王国(第一次)は9世紀末にビザンツ帝国を破ってマケドニアを征服したが、11世紀初頭にマケドニアは再びビザンツ帝国に併合される。ヴァイキングや十字軍の攻撃でビザンツ帝国が衰退すると、ブルガリアが再びマケドニアを支配した(1230年)。 この第二次ブルガリア王国も外敵の攻撃を受けて衰退、13世紀末にマケドニアは北のセルビア王国の支配下となった。ところが14世紀になると小アジアからトルコ人のオスマン帝国が侵入、1389年のコソヴォの戦いでセルビアは敗北し、マケドニアを含むバルカン半島全域がオスマン帝国の支配を受けることになった。 イスラム教徒であるオスマン帝国の支配下では宗教的帰属に比べ民族出自は重視されなかったため、マケドニアの地にはキリスト教徒(ギリシャ正教)のスラヴ系・ギリシャ系住民、イスラム教徒のアルバニア人やトルコ人が混在するようになった。 19世紀に入って西欧諸国やロシアが興隆し、東欧にも民族主義が広まると、オスマン帝国の領内ではトルコ・イスラム支配に対する抵抗運動が起きるようになった。まず1829年にヨーロッパ諸国の支援を受けたギリシャがオスマン帝国から独立し、さらにルーマニア、セルビアがこれに続く。 ロシアはオスマン帝国支配下のスラヴ族・キリスト教徒解放(汎スラヴ主義)を掲げてオスマン帝国と戦争を続け、1878年の露土戦争で大勝した。その講和条約であるサン・ステファノ条約ではブルガリア独立が定められたが、その範囲はマケドニアをも含むものだった。かつてマケドニアはギリシャ正教のブルガリア総主教区に属していたため、ブルガリアの一部と見なされたのである。ところがバルカン半島でロシアの影響力が強くなりすぎることを嫌ったイギリスやドイツが介入、同年のベルリン会議の結果、マケドニアはブルガリアから切り離されてオスマン帝国の支配下に留められた。 マケドニアにはスラヴ族を中心に多民族が混在していたが、ブルガリアがこのスラヴ族はブルガリア人であると主張し自国への帰属を主張したのに対し、同じスラヴ系であるセルビアが対抗、さらにギリシャもギリシャ系住民の存在や歴史的帰属を主張する。この3国はそれぞれマケドニアに自国の言語を教える学校を設立して自国との繋がりを強化しようと図った。1903年には親ブルガリアの民族主義者がオスマン帝国に対して反乱を起こし独立を宣言したが鎮圧された(イリンデンの乱)。 1912年、ギリシャ、ブルガリア、セルビアは連合してオスマン帝国に戦争を仕掛けて大勝した(第一次バルカン戦争)。ところがオスマン帝国から奪った領土の山分けに際し、マケドニアの帰属を巡ってセルビアとブルガリアが対立し、翌年第二次バルカン戦争が起きる。ブルガリアは周辺諸国から袋叩きにあい、結局マケドニアはセルビア領となった。 1914年に始まった第一次世界大戦では、セルビア・ギリシャが連合国(英仏露側)に属したのに対し、ブルガリアは同盟国(ドイツ側)に属した。ブルガリアはドイツ軍と共にセルビアに侵攻してマケドニア「奪還」に成功したが、1918年に戦争は同盟国の敗北に終わる。勝者に列したセルビアはマケドニア人など南スラヴ族を合わせてユーゴスラヴィア王国を樹立するが、その内部では民族対立が止まなかった。 第二次世界大戦中の1941年、ナチス・ドイツはユーゴスラヴィアに侵攻して全土を占領したが、それに乗じたブルガリアは再びマケドニアに侵攻し併合する。しかしチトー率いる共産党パルチザンによりユーゴスラヴィアはドイツ軍の占領下から解放され(1944年)、戦後マケドニアはユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦に属する一共和国となった。同時にマケドニアのスラヴ系住民は初めて「マケドニア人」という独立した民族として扱われる。 しかしチトー大統領の死(1980年)や東西冷戦構造の崩壊は、戦後40年間抑えつけられていた民族主義の噴出を招いた。ユーゴでも共産党の一党独裁が崩壊し、主導的なセルビア人とその他の民族が対立、連邦内の各国は独立を宣言する。スロヴェニアやクロアチアに続いて1991年9月、マケドニアもユーゴからの独立を宣言した。 周辺諸国はマケドニアの独立を歓迎しなかった。ブルガリアやセルビアにとっては元来自国の一部である。アルバニアはマケドニア国民の四分の一を占めるアルバ二ア系住民の扱いを憂慮した(むしろ自国との統合を望んだ)。そして特に強硬だったのが、EU(ヨーロッパ連合)加盟国でもあるギリシャである。 ギリシャは「マケドニア」という国名にまず反対した。この新独立国の領域は古代マケドニア王国とほとんど重ならず、民族的にもスラヴ系で古代マケドニア人と関係がない。しかもこの名前はギリシャ北部の行政区域名でもあり、ギリシャ領に対する領土要求正当化に繋がる、というのがその言い分である。この国名問題は、マケドニアが「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」を暫定的に正式名称とすることで妥協を見た。 ギリシャがさらに反対したのは、独立マケドニアが制定した新国旗である。その国旗は赤地の中央に「ヴェルギナの星」(太陽)を配したものだったが、この「ヴェルギナの星」は1978年にギリシャ領内で発掘された古代マケドニア王家の墓にあった紋章であり、既にギリシャ領マケドニア州の旗(こっちは青地)に使用されていた。ギリシャは強硬に抗議し、マケドニアが1995年にデザインを変更するまでの18ヶ月間、経済制裁を行った。 外交問題が解決しても、国内問題が続く。隣国セルビアのコソヴォ自治州ではアルバ二ア系住民の分離独立要求を発端にNATO(北大西洋条約機構)を巻き込む紛争となり(1999年)、最大で25万人のアルバニア人難民がマケドニアに流入した。翌2000年、マケドニア国民の四分の一を占めるアルバ二ア系住民も、より大きい自治権を求め不穏になった。 1993年以来展開していた国連紛争予防部隊は、安保理での中国の拒否権発動(台湾と国交樹立したマケドニアに対する報復)により1999年に撤収していたため、NATO軍が展開した。欧米の仲介で2001年に政府とアルバ二ア人政党の間でオフリド枠組み合意が締結され、事態は一応の収拾を見た。現在治安は安定している。 独立直後に最大の貿易相手国・セルビアが旧ユーゴ内戦を理由に国連の経済制裁を受け、またギリシャから経済制裁を受けた事は、山がちの農業国(ワインが有名)で脆弱なマケドニア経済を直撃した。制裁解除後の1996年に経済成長はプラスに転じたが、一人当たりGDPは3000ドル弱と欧州で最低レベル、失業率は3割にも達する。2004年2月、大統領専用機が墜落してボリス・トライコフスキー大統領が死亡したが、その原因は財政悪化による整備不良だったといわれる。 同年マケドニアはEU加盟申請を行ったが、「対テロ戦争」のさなか同国諜報機関がアメリカCIAと協力してレバノン系ドイツ人を不法に拘留した(しかも人違い)ことが問題視された。しかし2005年に正式に加盟候補国の地位を与えられ、交渉開始を待っている。 この国は日本人に馴染みがないが、世界的著名人を生んでいる。 インドで貧民救済に生涯を捧げてノーベル平和賞を受賞し、1997年に亡くなった修道女マザー・テレサである。1910年生まれの彼女の本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュといい、オスマン帝国支配下にあったマケドニアの首都スコピエで、アルバニア系カトリック教徒の家庭に生まれた。 マケドニア人とアルバニア人は彼女の民族出自を巡って論争しているが、18歳でマケドニアを離れインドに骨を埋めたマザー・テレサに、こうした争いは詮の無い事だろう。
2006年12月18日
コメント(2)
久々の今日は、気になったニュース記事を引用するだけの手抜き日記。(引用開始)2050年に人口1000万人減=60歳が新生児の2倍に-独 【ベルリン7日時事】独連邦統計局は7日公表した人口予測で、日本と同様に少子高齢化が進むドイツの人口が、現在の約8240万人から2050年に約1000万人減少する見通しを明らかにした。移民の受け入れ数次第では、減少幅は約1300万人となる可能性もあるという。 統計局によると、人口減の主要原因は低い出生率。合計特殊出生率は約1.4人で、現在年間約68万5000人の出生数は50年に約50万人まで落ち込む見込み。これにより、総人口は6900万~7400万人に縮小するとしている。 一方、65歳の人の平均余命が50年までに約4.5歳延びるとみられるなど高齢化も進み、50年には60歳の人口が新生児のほぼ2倍になるとみている。人口構成の逆ピラミッド型への変化が加速する見通しが示されたことで、今後、年金受給開始年齢の引き上げなど社会保障制度の見直し議論が活発化しそうだ。 (時事通信) - 11月8日7時0分更新(引用終了) 高齢化社会や年金制度破綻の懸念は、日本だけでなく先進国共通の課題である。先日人口が3億人を突破したアメリカのような移民社会ならともかく、移民受け入れを制限する方向に向かっているヨーロッパの状況は日本により近い。昨年の総選挙でシューレーダー政権を退陣に追い込んだのも、結局は年金制度改革が大きかったし。 出生率こそ日本より若干高いとはいえ、僕の知り合い(当然高学歴の人が多い)も、子供がいる人はほとんどいないもんなあ(そういやトルコで一緒に働いたAのとこは9月に第一子が生まれると聞いたが、30歳で第一子というのは僕らの業界じゃ早いほうではないだろうか)。やはり安定した就職先がないとなかなか子供を作ろうという気にならないのは事実だし。 1999年頃の「シュピーゲル」誌に、「このまま移民受け入れ政策を続ける一方でドイツ人の出生率が今のままだったら、21世紀末にはドイツ人は絶滅する」なんていう脅かすような内容の記事があった(読んだときはなんだかナチスの人種論みたいでやな感じがしたが)。・・・・・・・・・・(引用開始)<欧州委>キプロス問題でトルコへの制裁を示唆 欧州連合の内閣である欧州委は8日、EU加盟交渉中のトルコに関する年次報告書を出し、12月までに同国がEU加盟国のキプロスに対する船舶などの入国禁止処置などの対立関係を解消しない場合、同月に開催されるEU首脳会議に対トルコ制裁を勧告する姿勢を示した。勧告で加盟交渉の一時中断などが決まる可能性がある。(毎日新聞) - 11月9日0時29分更新(引用終了) この記事ではキプロス問題がメインで扱われているが、人権状況の改善や少数民族政策でも改革が遅れている、とこの報告書では述べられているらしい。 うーん、EUがかさにかかってあんまりトルコをいじめると、イスラム主義や民族主義が却って勢いを増してしまうと思うんだが。そうでもムハンマドの諷刺画騒動とかでヨーロッパとの感情の行き違いがあるし。 キプロスといえば、1974年にトルコ軍のキプロス侵攻を決定した当時の首相だったビュレント・エジェヴィット元首相(1925年生まれ)がおととい81歳で亡くなった。 左派政治家として70年代には一歳年上のスレイマン・デミレル(のち大統領。こっちはまだ生きている)と交代で首相になってトルコ政局をリードしたが、70年代後半は国内対立(左右対立のほか、イスラム主義対世俗主義)を解消することが出来ず内戦寸前にまで治安が悪化、1980年のケナン・エヴレン将軍による軍部クーデターを招いて一時は投獄されたこともある。復権後、政局の混乱した1999年に高齢ながら再び首相に返り咲いた(なんだか村山富市元首相の首相就任を連想した)。しかし任期の末期はほとんど入院状態で党の分裂を招き、彼の「民主的左派党」は2002年の総選挙でエルドアン現首相率いる公正発展党(穏健的イスラム主義政党)に惨敗し全議席を失った。 政治活動の傍ら詩人として詩集を発表し、またエリオットやタゴールの訳詩でも知られ、インテリには人気のあった政治家だと思う。温和な老人に見えて、やることは結構強硬だった。 日本のメディアではよく「東アジアにもEUのような地域共同体を」という議論を目にする。しかし僕は東シナ海の距離(地理的な意味ではない)は、ヨーロッパとトルコくらい、あるいはそれ以上に離れていると思っている。 よく「日本も中国も漢字文化じゃないか、だから近い」という説も目にするが(この伝でいくと、漢字文化を追放した朝鮮半島はどうなるんだろうか?)、それをいうならトルコだってここ70年のこととはいえ西ヨーロッパと同じラテン文字を使っている(2007年1月にEU加盟が決まっているブルガリアなんてキリル文字ですぜ)。また外交関係の深さでいうと、トルコなんて1648年のウェストファリア条約にすら参加してるのに、日本と中国には正式な外交関係があったのは古代(倭の五王の時代)・中世(日本国王臣源義満)のごく短期間と、戦争を繰り返した近現代に限られている。日中関係が民間主導なのは今に始まったことではない。 トルコのEU加盟交渉の四苦八苦を見るにつけ、「東アジア共同体」の樹立がいかに困難かと思う(こう思うのも「オリエンタリズムだ」と言われればそうなんだろう)。第一東アジアに似たようなものが成立するとすればそれはロシア帝国が名前だけを変えていたソ連のようなものか、(否定的な意味での)「大東亜共栄圏」になってしまうんじゃないだろうか。 まあEUだってここ(国境開放や通貨統合)まで来るのに30年かかっているし、もちろん中国との友好は進めるべきだと思いますがね。今までのは国と国としてのレベルの話だし。(追記) アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官が辞任だって。 中間選挙での共和党大敗と関係するんだろうけど、アメリカ政府がイラク政策の失敗と、この選挙大敗の理由もそこにあると認めたということか。
2006年11月08日
コメント(2)
「スペインの歴史」連載の最終回。 本当はもっとスペインの芸術や文化(特に近年注目の映画など)、そしてスポーツについて書きたかったんだがあまりよく知らないし、その辺で読んだこと見たことを適当に文章にしただけなので、どうしても堅苦しい内容になってしまった。・・・・・・ 1936年7年、軍の一部が人民戦線政府に対して起こした反乱でスペイン内戦が始まった。反乱軍はフランコ将軍を首領(カウディージョ)として、年内には国土の西半分を制圧することに成功した。しかし軍の全てが反乱軍に投じたわけではなく(フランコの弟も政府軍に留まっている)、また内紛続きだった人民戦線政府が反ファシズムで結束したため、内戦は長期化の様相を呈する。 この内戦に国際社会の取った対応は様々だった。スペインに投資しているアメリカ、イギリス、フランスは政府側に好意的だったとはいえ共産勢力の台頭を嫌い、何よりこの内戦が欧州大戦に発展することを恐れ、不介入の姿勢をとる。ソヴィエト連邦は人民戦線政府を支持し、武器・資金援助を行った。また世界中の共産主義者や知識人(作家のアーネスト・ヘミングウェイやアンドレ・マルローなど)からなる国際義勇旅団が組織され、政府軍に投じる。 一方ファシズム政権の隣国ポルトガルは反乱軍を支持、また反共主義を標榜するナチス・ドイツとイタリアも、反乱軍に陸上・航空部隊を送って公然とこれを支援した。特に再軍備を進めるドイツにとって、この内戦は格好の兵器実地試験となった。1937年4月26日、ドイツ空軍の「コンドル軍団」はバスク地方の小都市ゲルニカを無差別爆撃し、一般市民の死者1600人に上った(但しこの数には2日後の地上戦の犠牲者も含まれている)。この惨禍に対して当時フランスにあった画家パブロ・ピカソは抗議の怒りを込めて大作「ゲルニカ」を描いている。 内戦は膠着状態が続いたが、反乱軍でファランヘ党と保守党が統合したのとは対照的に、政府内ではソ連の威を借りる共産党と他政党の間で内紛が発生、やがてそのソ連がドイツと接近して援助を控えると政府軍は劣勢となった。1939年3月に首都マドリードが陥落、内戦は反乱軍の勝利に終わった。米英仏などもフランコ政権を承認した。 3年に及ぶこの内戦での死者は双方による処刑も含めると60万人(当時のスペインの人口の2%)に上るといい、スペインに大きな傷跡を残した。この内戦を通じて迫り来る第二次世界大戦の陣営(独伊枢軸対連合国の構図)が固まることを思えば、1700~13年のスペイン継承戦争と共に、この内戦は欧州大戦の一部であったといっていい。 内戦の余燼の中で成立したフランコ独裁政権は、早速ドイツやイタリア(及び日本)と防共協定を締結したが、その半年後に第二次世界大戦が勃発する。翌年ドイツは電撃戦でフランスを降し、ドイツのヒトラー総統とフランコはフランス・スペイン国境の町アンダイで会見する。枢軸国(独伊)側での参戦を要求するヒトラーに対し、フランコは内戦の痛手を理由に言を左右にして応じなかったが、本音は地中海になお強力なイギリス軍があってイタリアを圧しており、かつドイツ空軍がイギリスを制圧出来ないのを見たためだった。 会見後ヒトラーは部下に向かってフランコを「小物」と罵倒したが、その「小物」の方が、むしろ生存戦略に長けた先見の明があったというべきだろう。翌年独ソ戦を開始しまたアメリカに宣戦した枢軸国は次第に劣勢となり、1943年にはイタリアが降伏、ドイツも1945年に破滅的な敗北を喫した。その間スペインは独ソ戦に義勇兵を送った以外は決して動かず、最後まで中立を維持した。 大戦は終わったが、かつて枢軸国と友好関係にあり、今もファシズム政権が続いているスペインは微妙な位置に立たされた。戦勝国(連合国)主体で結成された国際連合はスペイン非難決議を採択して締め出した。孤立するスペインは国内での自給自足経済を志向したためヨーロッパの最貧国に転落、国内では抵抗運動が徹底的に弾圧された。 こうした状況が変化したのが、戦勝国アメリカとソ連による東西冷戦だった。アメリカにとって、地中海西端を扼する戦略上の要衝、かつ反共国家であるスペインを取り込まない手は無い。1953年、スペインはアメリカと軍事・経済援助と引き換えに基地協定を締結し、そのアメリカの後押しで1955年には国連加盟を果たす。しかしフランコ独裁政権はなお続いていた。 1956年、北アフリカでモロッコが独立、スペイン領モロッコも併合された。時を同じくして、検閲制度に反対し言論の自由を要求する学生運動が活発化する。1958年にIMF(国際通貨基金)に加盟したスペインは翌年に経済を自由化、観光客(特にドイツから多い)や外資の誘致、そして外貨獲得のため西ドイツなどへの出稼ぎ労働者派遣に転じ、驚異的な経済成長を実現したが、同時に根強い民主化運動を招くこととなった。1966年には検閲が一部緩和されたが、信仰や家族といった伝統的価値を強調するフランコ政権はなお磐石だった。 しかしフランコが老衰するにつれ、その政権も動揺する。1969年、フランコは元国王アルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロスを後継者に指名して王党派取りこみを図る。さらに1970年には翼賛政党ファランヘ党を解散して「国民運動」に改組、1973年には政権奪取以来初めて首相ポストを置いてルイス・カレロ・ブランコを任命した。しかし民主化運動はおさまらず、さらにフランコの統一化政策に反対するカタルーニャやバスク地方の分離独立運動も活発化、ETA(「バスク祖国と自由」)によるテロが横行し、カレロ・ブランコ首相は就任半年で暗殺された。政府は1970年に廃止した死刑を復活してこれに応じた。 1975年11月20日、危篤状態だったフランコは82歳で死んだ。即座にフアン・カルロス(1世)が即位し、44年ぶりに王制が復活した。フランコは王を中心とした独裁体制維持を想定していたが、フアン・カルロスの下、スペインでは急速に民主化が進められていくことになる。戦前から40年近く続いたフランコ独裁政権はようやく終焉した。 翌1976年、フアン・カルロスの政府はまず西サハラを放棄(フランコの死の直前にモロッコが侵入し西サハラ紛争が始まっていた)、既に1968年に赤道ギニアが独立していたため、スペインの海外領土は全て失われた。7月には政治犯(共産党やETA)に対する大赦を発表、さらに左右両派によるテロが横行する中、12月に国民投票が行われ、スペインを議会制君主国とすることが定められた。翌年には「国民運動」が解散すると共に共産党を含む政党結社が解禁、1936年以降初の自由選挙が行われ、国民の88%の支持で新憲法が制定された。また極度の中央集権が改められ、地方分権も進められた。 こうした民主化に反対する軍部や治安警察の一部は1981年2月23日、議会に乱入して議員や新首相を人質に取りクーデターを画策したが、国王は軍最高司令官として民主化支持を断固表明、騒ぎは一晩で収まり、スペインの民主化は揺るがなかった。翌年スペインは北大西洋条約機構(NATO)に加盟、第12回サッカー・ワールドカップも開催され(優勝はイタリア。なおワールドカップ常連のスペインだが、現在に至るまで優勝経験が無い)、国際舞台への復帰を印象付けた。 1986年にはポルトガルと共にヨーロッパ共同体EC(のちヨーロッパ連合EUに改編)に加盟し、「孤立と貧困のスペイン」からの脱却を果たした。なおイギリスとはジブラルタル領有権を巡って対立し、1969年以来封鎖を続けていたが、EC加盟直前の1985年に解除している。その後もイギリスとの協議が続いているが、2002年の住民投票ではイギリス残留派が98%を占めている。 1992年にはセヴィージャ万博とバルセロナ・オリンピックという国際的な二大行事を成功させたことはもはや記憶に新しいだろう(万博に合わせて新幹線AVEも開業している)。なお故郷バルセロナへの五輪誘致に尽力し、財政破綻寸前の五輪を商業主義に転換、1980年から21年もの間国際オリンピック委員会会長の座に君臨したフアン・アントニオ・サマランチは、フランコ政権でスポーツ長官を務めていた。 1982年以来社会労働党のフェリペ・ゴンサレスが4期14年の長きにわたって首相の座にあったが、長期政権につきものの不正蓄財疑惑で1996年の選挙に敗北、中道右派国民党のホセ・マリア・アスナルが首相に就任した。アスナルはアメリカでスペイン語を母語とするヒスパニック系が増えていることに鑑み、アメリカや中南米諸国との友好を重視する。これには順調な経済成長が続いて国内総生産が世界第7位(当時)に踊り出たスペインの国際的地位向上の狙いもあった。 2003年初頭にそのアメリカが対イラク戦争に踏み切るとき、アスナルは国民の大部分の反対にも関わらずアメリカを全面支持、折しも国連安全保障理事会の非常任理事国だったこともあり、マデイラ諸島で米英首脳と会談を行ってアメリカ支持を鮮明にし、同じEUのフランスやドイツがイラク戦争に反対したのとは好対照をなした。当然イラクにも派兵している。 2004年3月11日、マドリード郊外の通勤列車で複数の爆弾テロが発生、死者191人の大惨事となった。事件直後アスナルはこのテロをETAによるものと決め付けたが、実際はイスラム過激派によるものと判明する。そのせいか2日後行われた総選挙では、事前の予測に反してイラクからの撤兵を公約に掲げた社会労働党が勝利し、ホセ・ルイス・サパテロが首相に就任した。サパテロは公約通りイラクからスペイン軍を撤兵させ、独仏などEU諸国との関係強化を目指している。70年代以降テロを繰り返してきたETAは2006年に再停戦を発表、政府は対話に乗り出した。 EU開発計画や補助金を活用し好調な経済成長を続けたスペインは、EU共通通貨ユーロ導入にも参加(2002年に流通開始)、2005年には国民投票でEU憲法を批准(ただしこの憲法はフランスやオランダでの否決で暗礁に乗り上げている)、独英仏伊に次ぐ人口や経済規模を擁することもあり、EU内で確固とした地歩を得ている(イタリアと共に独自の地中海政策をもち、大国主導外交に走りがちな英独仏へのブレーキ役でもある)。かつて農業中心だった経済構造はサーヴィス業中心に変化し、EU内でもっとも高かった失業率は近年改善されている(10%前後)。なおスペインはフランスに次ぎ世界第2位の外国人観光客受入国である。 かつて西ドイツやアメリカに移民を送り出してきたスペインだが、現在はアフリカや中東から流入する移民への対処に苦慮している。サパテロ政権はEUの要請により不法移民の取締りを強化すると共に、既にスペインに居る不法移民の滞在を合法化した。マドリード同時多発テロ事件は移民系のイスラム過激派がヨーロッパで起こした最初の大規模テロ事件だったこともあり、アフリカからのヨーロッパの窓口にあたるスペインの移民対策は今やEU全体の問題となっている。
2006年10月05日
コメント(2)
スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世が1700年に嗣子なく死んだ時、その後継者をめぐって国際紛争となった。共にスペイン王家と縁戚関係にあるフランス(ブルボン家)とオーストリア(ハプスブルク家)の双方が継承権を主張する。フランスの「太陽王」ルイ14世はヨーロッパでの覇権を確立すべく自分の孫フィリップを後継者に据えようとしたが、それに反対するイギリスやオーストリアが包囲網を形成した。ここにスペイン継承戦争が勃発するが、この戦争は1945年まで度々起こる欧州大戦の最初のものといっていい。 スペインは両陣営の戦乱の巷と化した。この間イギリスは海軍根拠地としてジブラルタルを占領し、1713年のユトレヒト講和条約で領有が認められた。双方痛み分けのこの戦争で結局王位はルイの孫フィリップが継承したが(フェリペ5世)、スペインの属領だったベルギーやイタリア南部はオーストリアに割譲された。 こうしてスペインでのブルボン朝による支配が始まった。ブルボン朝は進んだフランスの行政制度や重商主義をもちこみ、フランス人やイタリア人官僚によって近代国家への改革が進められる。汚職の追放、産業の振興、税制の一本化などであるが、教会勢力の排除は敬虔な国民の抵抗もあってなかなか実現しなかった。 フェリペの子カルロス3世の治世に改革はさらに進んだ。同族のフランス王家が繰り返す無益な対英戦争に度々巻きこまれ、また多くの改革が机上の空論に終わったものの、国家の独占していた中南米との貿易が自由化され、またフランス式の政教分離が進んで教会のもつ特権(10分の1税など)が廃止されイエズズ会が追放された(1767年)。彼の治世の末年(1788年)にはスペインの人口は1000万人を越えた。スペインの代名詞である闘牛が現在の形となり、大衆娯楽として定着したのもこの時代である。 1788年、カルロス4世が即位する。彼は無能な人物でその妃マリア・ルイサに牛耳られ、その愛人であるマヌエル・デ・ゴドイが先王の功臣を排除して実権を握った。折しも隣国フランスでは革命で王政が倒されたが、同族のブルボン家を戴くスペインは傍観するのみだった。1793年に元国王ルイ16世が処刑されるとスペインはフランスに宣戦したが、無能な戦争指導によって逆侵攻を許し、ゴドイの意向もあって実質的にフランスの属国となる条約を締結した。 1801年、ゴドイはイギリスと結ぶ隣国ポルトガルを攻撃したがイギリスに逆襲され、カリブ海のトリニダード島を割譲、中南米の植民地は不穏になりまた財政が逼迫した。ナポレオン・ボナパルトが皇帝となったフランスへの従属は続き、トラファルガー岬沖の海戦(1805年)ではスペイン・フランス連合艦隊がホレイシオ・ネルソン提督率いるイギリス艦隊と戦ったが、今や見掛け倒しのスペイン艦隊は無様に敗走する。 島国イギリスを封じこめるべくナポレオンは大陸封鎖令を出したが、イギリスに経済的に従属するポルトガルはこれを無視した。ナポレオンはフランス軍をスペインに進駐させてポルトガルを占領し(1807年)、その南半分の王にゴドイを据えようとした。翌年ついにアランフェスでゴドイに対する反乱が起きゴドイは亡命、カルロス4世は息子への譲位を強いられた。これを機にナポレオンはスペイン王家を呼び寄せて退位を迫り、ナポレオンの兄ジョゼフ(当時ナポリ王)がホセ1世としてスペイン王位に即いた。 フランスの横暴に憤激した国民はジョゼフの即位を認めず反乱を起こした。これに呼応してアーサー・ウェルズリー将軍率いるイギリス軍がポルトガルに上陸しフランス軍を攻撃する。業を煮やしたナポレオンは自ら30万の軍を率いスペインに侵攻してマドリードを奪還した。しかし教皇領を併合しローマ教皇を幽閉したナポレオンへのスペイン国民の反感は強く、各地でフランス軍に対する攻撃を続けた(「ゲリラ戦」の語源)。カルロス4世の宮廷画家だったフランシスコ・デ・ゴヤは、このゲリラ戦に取材した作品を多く描いている。 1812年になると反乱軍やイギリス軍は勢いづきマドリードを奪還、ジョゼフは逃亡した。ナポレオンがロシア遠征に失敗した後の1813年になるとフランス軍はスペインから一掃され、イギリス軍はフランスに逆侵攻する。この功によってウェルズリー将軍はウェリントン公爵の称号を授けられた。スペインはフランス支配から解放されたのである。 王位に復したフェルナンド7世(カルロス4世の子)だが、彼を迎えたコルテス(国民政府)が対仏闘争中に定めた憲法を認めず、逆にコルテスを解散させ絶対王政の反動政治を行った。1820年にはカディスで軍の反乱が起き、ラファエル・デル・リエゴ大佐ら自由派が国王に憲法を承認させたが、ブルボン朝が復活した隣国フランスの軍隊が介入して自由派は処刑され(1823年)、絶対王政が復活した。 一方ナポレオンによる占領や王政復古による混乱の間、中南米のスペイン植民地にあるクリオージョ(現地スペイン人)たちは次々と本国からの独立を宣言し、鎮圧に向かったスペイン軍も撃退された。既に1819年にはフロリダをアメリカ合衆国(1776年独立)に売却しており、中南米のスペインの植民地はキューバを除き全て失われた。絶対王政で一切の改革が封じられ、また植民地を失ったスペインは、同時期の西ヨーロッパで進んでいた産業革命に完全に乗り遅れることになる。 1833年にフェルナンドが死ぬと、王妃マリア・クリスティナの意向で娘のイサべル(2世)の王位継承が決められた。しかしヨーロッパ王家の相続はゲルマン人の昔から男系相続が原則であり、王弟のドン・カルロスが継ぐべきであった。保守派を主体とするカルロスの支持者(カルリスタ)はカタルーニャを拠点に反乱を起こし、自由派の支持を得たイサベルと摂政マリア・クリスティナに対する内戦となった(第1次カルリスタ戦争)。内戦は6年で終わりイサベルが1843年に正式に即位したものの、将軍によるクーデターが続発、1847年には第2次カルリスタ戦争が勃発し内政は安定しなかった。 1868年にはプリムとセラノの両将軍によるクーデターが発生し女王は亡命、コルテス(国民政府)はイタリア王子アメデオを国王に迎え立憲君主制の樹立を目指したが安定せず(この王位をめぐる争いが1870年の普仏戦争の遠因となる)、1872年に第三次カルリスタ戦争が勃発、匙を投げたアメデオが退位し、初めて共和制が宣言された。しかしこの共和国政府は全土を実効支配することは一度もなく、セラノ将軍のクーデターでコルテスは解散、共和制は1年で崩壊した。 1874年にイサベルの息子アルフォンソ(12世)が王位に迎えられて事態の収拾が図られ、内戦は終結した。新憲法が制定され、制限選挙が導入され言論の自由が保障されたが、教会(同時に大地主でもある)の影響力は依然強く、また保守派と自由派、それに社会主義者は激しく対立し、経済先進地域でもあるカタルーニャやバスクの分離独立運動が活発化、暗殺やストライキが頻発した。19世紀の100年間に産業革命の進んだ西ヨーロッパ各国の人口は2倍から3倍増しているが、スペインでは僅か6割増の1600万人に過ぎない。 1895年、スペインが中南米に唯一維持していた植民地・キューバで反乱が起きた。カリブ海対岸のアメリカではキューバ産砂糖の9割を輸入していたこともあり、この独立運動を支持する者が多かった。アメリカの新聞は発行部数拡大のため、住民の強制収容を行うスペイン当局の残虐ぶりを書きたてて、国民の反スペイン感情を煽った。 1898年、ハヴァナ港に入港していたアメリカ軍艦メイン号が爆沈するとアメリカの新聞はスペインの仕業と決め付け、アメリカ国内では戦争を望む声が強まった。アメリカ政府はキューバ独立などの要求が拒否されるとスペインに宣戦する。太平洋への進出を図っていたアメリカは海軍増強を進めており、旧式なスペイン海軍は敵ではなかった。数ヶ月で戦争はアメリカの圧勝に終わり、キューバの独立(=アメリカの保護国化)が認められる一方で、スペイン領のフィリピン、グアム島やプエルト・リコはアメリカの植民地になった。 スペインは北アフリカの飛び地や西サハラ、赤道ギニアを除いて海外領土を全て失った。この敗戦はスペイン国民に大きな衝撃を与え、芸術や文学界に自省的な「98年世代」と呼ばれるグループを形成する(作家ミゲル・デ・ウナムノや哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトなど)。内政では労働者や農民の不満が高まり、過激な社会主義思想が広まることになる。政府は国民の不満をそらすため海外進出に乗り出してフランスと共同で地中海対岸のモロッコを保護国化したりしたが(1905及び11年)、1909年にはバルセロナで無政府主義的な労働者蜂起が起きている。こうした不穏な国情を嫌ってアメリカに移住する国民も多かった。 一方でこの時代はスペイン(カタルーニャ)を代表するモデルニスモ(近代主義)の建築家アントニ・ガウディの活躍した時代でもあり、彼がバルセロナの聖家族教会の設計を引き継いだのは1883年のことである(現在も建設中)。またフラメンコ舞踊が大衆化したのも、カフェなどの外食産業が発達したこの時代のことであるといい、その歴史は存外浅い。 1914年に始まる第一次世界大戦ではスペインは中立を保ち、軍需資源を輸出して一時的な好景気に沸いたが、経済格差が大きく国民の多くはその恩恵に与れなかった。資本流入によるインフレーションといった社会不安やロシア革命の影響もあり、保守派(大地主、教会、軍部)と労働者・社会主義者との対立が激化し、1917年からの6年間で内閣が13回替わるという混迷ぶりだった。 1921年、モロッコ北部でのアブド・エル・カリムの反乱に対して、議会の承認なしに鎮圧に向かったスペイン軍がアヌアルで逆襲され1万人以上が戦死した。軍部の責任を問う声が高まり、政情はますます紛糾する。1923年、ミゲル・プリモ・デ・リヴェラ将軍がクーデターを起こし全権を掌握、国王アルフォンソ13世の承認を得て、1876年の憲法は停止された。治安回復で一定の支持を得た軍事政権(1925年、文民政権に移行しプリモ・デ・リヴェラは首相に就任)は道路・鉄道・水道建設や行政・税制改革を推進し、フランスと協力してモロッコ支配を回復した。 しかし暫定政権を標榜しながらも約束した総選挙をいつまで経っても行わず、また教会保護政策で知識人の、特権廃止で貴族層の、社会制度改革で財界の、そして軍制改革で軍部の支持を失い、プリモ・デ・リヴェラは1930年に辞任に追い込まれ、フランスに亡命した。軍部独裁を許した国王の責任も問われ、翌年の総選挙では共和派が勝利して第2共和制が宣言され、国王は国外に亡命した。 同年リベラルな共和国憲法が制定され、政教分離や婦人参政権、カタルーニャ、バスク両地方の自治などが定められた。しかし共和制に移行して社会問題が解決されたわけではなく、対立はさらに先鋭化、とりわけ頻発する急進社会主義者の活動は脆弱な連立政権を揺るがした。連立政権内の対立で改革は遅々として進まず、また反教会的な政策(教会財産の国有化など)は敬虔な貧農層の共和制への支持を失わせていく。1932年には早くも軍部のクーデターが起きるが失敗に終わった。 同年、保守派が結集してCEDA(スペイン独立右派連合)を結成、1933年の総選挙で中道右派が勝利したが、折からの世界経済恐慌の影響もあって左派勢力によるテロやストライキが頻発し、連立政権は幾度と無く窮地に立たされた。右派では1933年にファランヘ党が設立されており、鉱山労働者蜂起を武力鎮圧したフランシスコ・フランコ・バハモンデ将軍もその一人だった。 1936年2月の総選挙では、共和派・社会主義者・共産主義者からなる人民戦線(ソヴィエト連邦肝いりのコミンテルンによる反ファシズム統一戦線結成の呼びかけに応じたもの)が勝利した。右派は選挙不正を糾弾して暴力的な対立が激化、7月の保守派議員の暗殺事件をきっかけに軍部は各地で反乱を起こし、スペインは左右両派の内戦に突入していく。
2006年10月03日
コメント(8)
スペインやポルトガルはイスラム勢力との戦いで制海権を得るために、15世紀には大西洋上の島に支配を及ぼしていた。ポルトガルはさらに探検を進めてアフリカ航路を発見し(1487年に喜望峰に到達)、さらにその向こうのインドへの道を切り開き、アフリカでの黄金や奴隷交易、さらに当時ヴェネツィアやイスラム商人に独占されていたインド洋の香辛料交易に参入しようとしていた。カナリア諸島を領有したものの、スペインは一歩出遅れた。 ここにクリストフォロ・コロンボ(コロンブス)というイタリア人の航海家がいた。地球は丸いという学説を信じた彼はポルトガル王の許に赴き、大西洋を西に進めばインドに到達出来ると力説した。しかしアフリカ周りのインド航路(東進)が実現化しつつあった当時、ポルトガル王はコロンボに取り合わなかった。次いでコロンボはスペイン女王イサべルを訪ねた。アフリカ航路をポルトガルに独占されていたスペインにとって、コロンボの案は画期的である。 レコンキスタ完了直後の1492年8月、コロンボは3隻の船団でスペインを出航して西に向かい、61日後にカリブ海のサン・サルヴァドル島に上陸、さらにキューバやハイチを発見した。コロンボは原住民から得た珍奇な品を携えて帰還し、アジアに到達したと主張した。喜んだイサベルはコロンボを副王に任じてさらに三度の航海を支援したが、のちのアメリゴ・ヴェスプッチの航海によってインドではなく未知の「新大陸」であると分かり、彼の名に因み「アメリカ」と名づけられる。 この成功は同時に、インド航路を独占しようとしていたポルトガルとの紛争となった。世俗的なローマ教皇アレクサンデル6世(スペイン貴族ボルジア家の出身)は調停に乗り出し、1494年に大西洋上のポルトガル領アゾレス諸島の西方370レグア(西経46°)で両国が世界を分割するというトルデシジャス条約を締結させる。これによりポルトガルがブラジルを領有したのに対し、スペインは残りのアメリカ大陸の開拓を独占することになった。 スペインによる地理学上の発見は続き、1513年にバスコ・ニューネス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断してヨーロッパ人として初めて太平洋に到達、そして1519年に出航したフェルナン・デ・マガリャンイス(=マゼラン。彼自身はポルトガル人)のスペイン船団は2年かけてついに西回りでの世界周航に成功した。 アメリカ大陸にはモンゴロイド系の先住民が居て独自の文化をもち、特に中南米には都市や国家をもつ文明が栄えていたのだが、火器や騎兵をもち詭計に優れたスペイン兵の前には無力だった。コンキスタドールと呼ばれる冒険者によるアメリカ大陸の征服が続き、1521年には中米のアステカ帝国がエルナン・コルテスによって、1532年には南米のインカ帝国がフランシスコ・ピサロによって滅ぼされた。探検は北米にも及んだが、人口が希薄で荒漠なため放棄された。 スペインは中南米に副王を置いて直接支配し、その産物を収奪した。とりわけスペイン人が目の色を変えたのは豊かな金銀である。インディオと呼ばれた先住民はスペイン語を習わされキリスト教化されると共に奴隷化され、農園経営や銀の採掘(1546年に採掘の始まったポトシ銀山が有名)に従事させられた。「世界システム」とも呼ばれる、ヨーロッパを中心とした世界経済の一体化、あるいは中南米の従属経済の始まりである。 さらに悲惨なことにインディオにはスペイン人が持ちこんだ天然痘や結核などの病気に対する抵抗力がなく、人口は激減した(逆に梅毒は南米起源である)。労働力を補うため1510年以降アフリカから黒人が奴隷として連行され、特に南米で白人・モンゴロイド・黒人の人種混交が進むことになる。 南米からはジャガイモ、トマト、唐辛子、カボチャ、トウモロコシ、タバコなどの作物がもたらされ、貧しかったヨーロッパ人の食生活を大きく変えていく(逆にスペイン人はアメリカに麦や馬、羊、牛を持ち込んだ)。アメリカ先住民にとっては災厄以外の何物でもなかったろうが、世界史上画期的な出来事に違いない。 カスティージャとアラゴンの両王国統一で成立したスペインにとって、当面の敵は以前から西地中海をめぐって対立していたフランスだった。そのフランスの最大の敵はオーストリアやオランダを領有し、神聖ローマ(ドイツ)皇帝の地位をもつハプスブルク家である。両国接近のため、1496年にイサベルとフェルナンド2世の次女フアナはハプスブルク家の王子・フィリップ美公と政略結婚した。 ところがスペイン王家の子女が次々と夭折してフアナのみが残った。1504年にイサベルが死ぬとフアナはカスティージャ王位を継承し、フィリップが共同統治者となる。やがてフィリップが死にフアナが発狂したと宣言されると、ハプスブルク家とスペイン王家の領土は全て二人の長男であるカールが継承することになった。こうしてスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝・オーストリア王としてはカール5世)の下、スペイン、オランダ、イタリア南部、オーストリア、そして中南米などスペインの海外領土をもつハプスブルク家の巨大帝国が成立した。 ドイツ語が苦手でスペイン人という自覚があった彼にとっての敵は、バルカン半島への進出を続けるイスラム教のオスマン(トルコ)帝国、選挙で神聖ローマ皇帝の地位を争ったフランス、彼の即位の翌1517年に始まる宗教改革で成立したプロテスタント(新教)、そしてドイツ国内の新教派諸侯たちである。神聖ローマ皇帝かつスペイン王という、カトリック教会の擁護者としての宿命的な地位を一身に負う彼は、これらの敵との戦いを続けた。 彼のスペイン兵はオランダやイタリアでフランス軍と戦い、1525年にはパヴィアの戦いに大勝してフランス王を生け捕りにするなどして名声を得たが、オスマン帝国に対しては1529年にウィーンを包囲され、1538年にプレヴェザの海戦で敗れるなど守勢が続いた。 度々勝利を収めたものの、新教派の勢いはとどまる所を知らずドイツ諸侯の抵抗は続き、またフランスとも和戦を繰り返して得るところは少なかった。ドイツ人にもスペイン人にもよそ者扱いされたカルロスは、オーストリア王と神聖ローマ皇帝の地位を弟のフェルディナンドに分与して1556年に退位し、2年後にスペインで死んだ。 カルロスを継いでスペイン王となったのは、息子のフェリペ2世である。父と同じくスペイン王、ハプスブルク家、そしてカトリックの擁護者としての使命に燃えた彼は、まず首都を国土の中央にあるマドリードに遷し、自身は王宮・修道院・王家の廟所を兼ねた郊外のエスコリアル宮殿に起居した(宮殿にこもっていたため書類王と呼ばれる)。 彼の政策の柱は貴族を抑えた中央集権・絶対王政の確立、そしてカトリック擁護のための戦いである。後者の目的のため、彼の治世下のスペインでは異端審問や魔女狩りが盛んに行われ、イスラム教徒やユダヤ教徒に対する締め付けが一段と厳しくなった。1568年にはグラナダでモリスコ(イスラム教徒)の反乱を招いている。 こうした内なる敵の他、宿敵フランスとの対決が続き、同国内の内紛でカトリック派を支援して戦争を続けた。また地中海でのイスラム教のオスマン帝国との戦いも続き、オスマン帝国のキプロス島攻略に端を発したレパントの海戦(1571年)でオスマン帝国の艦隊を撃滅し、その攻勢を挫いた(この海戦にはのちに小説「ドン・キホーテ」を著わした作家ミゲル・デ・セルヴァンテスも従軍し、負傷している)。 1580年には王家が断絶した隣国ポルトガルの王位も兼ね、フェリペの領土はヨーロッパの他、彼の名に因んで名づけられたフィリピン(1564年領有)やインド洋沿岸の港湾都市、そして中南米と世界中に広がり、「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた。 日本に最初に到達したヨーロッパ人は、1543年に中国船で種子島に漂着したポルトガル人だったが(銃器が伝来)、東アジア海域に参入したスペイン人も、世界有数の銀産出国だった戦国時代の日本と多くの交渉を持った。 中でも日本に初めてキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルは著名だろう。彼はナヴァラ王国(1512年にスペインに併合)の出身でパリ大学に学び、そこで出会った同じバスク人のイグナチオ・デ・ロヨラと共にイエズス会を設立する(1534年)。当時ヨーロッパは宗教改革の最中で、危機感を持ったカトリック側でも改革運動が模索されており、イエズス会はその一つだった。海外布教のためザビエルはインドのポルトガル領に渡り、そこで日本のことを聞きつけ1549年に鹿児島に上陸した。彼の滞在は2年と長くなかったが、日本におけるキリスト教布教の基礎が確立された。 その後日本におけるキリスト教信者数は40万人に迫り、1584年と1615年には日本の大名の使節がマドリードを訪問したりしたが、日本を統一した豊臣政権や徳川幕府はスペインの領土的野心を疑ってキリスト教を弾圧し、オランダと結んだ徳川幕府は鎖国の手始めとして1624年にスペインと断交した。 フェリペ最大の敵となったのはイギリス(イングランド)である。イギリス女王メアリは政略結婚でフェリペの妃となりプロテスタントを弾圧したが、1558年に彼女が死んで異母妹のエリザベスが即位すると、フェリペの求婚を拒んだ彼女はイギリス国教会を中心とする反カトリック政策を始め、フランシス・ドレイクなどのイギリス艦船はスペインの交易船や植民地に対する海賊行為を続けた。 さらに痛手となったのが、1568年に始まるオランダの独立運動である。プロテスタントが広まった市民社会であるオランダに、フェリペはカトリック(異端審問)の絶対王政支配で臨んだのである。当時オランダやフランドル地方(ベルギー)はヨーロッパ金融業や織物産業の中心地で、その税収は中南米植民地で得られる銀の7倍に上っていた。 イギリスは果然オランダの独立運動を支援して英蘭両国の艦船によるスペイン商船や植民地への攻撃が続き、1581年にオランダは独立を宣言する。禍根を断つべく1588年、艦船130隻、陸兵2万7千からなるスペインの無敵艦隊(アルマダ)はイギリス遠征に向かったが、嵐による被害やイギリス艦隊との交戦で大打撃を受け、一敗地に塗れた。 中南米植民地から流入する大量の銀はスペインに富をもたらしていたが、同時に「価格革命」といわれる猛インフレーションも引き起こしていた。こうした中でフェリペは戦争を繰り返して放漫財政を続け、足りない分は重税や貨幣の改悪で補おうとしたが間に合わず、何度も国庫破産が宣告された。経済活動の中心だったユダヤ人やイスラム教徒への弾圧も経済の悪化に拍車をかけた。厳格なフェリペの個性とは裏腹に、貴族や官僚には拝金主義が広まって汚職がはびこった。 「陽の沈まぬ帝国」スペインの栄光は、既にフェリペの治世中に翳りが見えていたのである。1598年、フェリペは71歳でエスコリアル宮で薨じた。 1621年に即位したフェリペ2世の孫フェリペ4世は芸術を愛好・保護したが(宮廷画家としてディエゴ・ヴェラスケスがいた)、一方で戦争好きでもあった。 オーストリアと組んでハプスブルク家の世界帝国再興を目指した彼は、ドイツ三十年戦争に介入してオランダを攻撃したものの得るところ無く、1648年のウェストファリア講和条約でオランダの独立を認めさせられた。この間1640年にポルトガルとカタルーニャが分離独立(カタルーニャは1652年に再統合)、続くフランスとの戦争も1659年に敗北同然の和平に終わった。スペインの凋落は誰の目にも明らかとなり、ヨーロッパの覇権は「太陽王」ルイ14世のフランスに移る。 フェリペ4世の子カルロス2世は病弱で、その治世下にスペインの内政はますます悪化した。人口は570万人にまで減少、中南米での収奪や重税にもかかわらず国庫は破産状態で、官僚や兵士の給料は遅配が続き汚職がはびこった。国内では貨幣経済から物々交換に後退したところもあった。 1700年にカルロスは嗣子なく死去し、スペインにおけるハプスブルク家の支配は終焉した。芸術・文化が花開いたスペインの黄金時代の終焉でもあった。
2006年09月17日
コメント(2)
822年に即位した後ウマイヤ朝第4代のエミール(首長)、アブド・アッラフマン2世は、文化振興に力を注ぎ、アンダルシア地方はアッバース朝の都があるイラクと共に、イスラム文化の中心となった。文学や芸術を愛好した彼は、コルドバに音楽院を設立した。 スペインの伝統楽器の一つにギターがあるが、その起源は中東の弦楽器ウードにあるという(ただし「ギター」の語源はキタラという古代ギリシャの楽器にあり、地中海世界に広く分布する楽器である)。彼の治世下、領内のキリスト教徒が多くイスラムに改宗し、アラビア語がイベリア半島の文化語として定着した。キリスト教徒にとっても、既に読める者が少なくなっていた聖書がアラビア語に翻訳され、内容を理解できるようになった。彼の死後(852年)、キリスト教徒の内乱が頻発して王朝は一時的に衰退した。 912年、第8代エミールにアブド・アッラフマン3世が歳若くして即位する。彼は内乱で分裂した国をまとめ、北アフリカのファーティマ朝(シーア派)との対抗上929年にカリフ(イスラム教スンニ派の教主)を自称した。彼の治世は後ウマイヤ朝の絶頂期といわれ、イスラム文化が花開き都市が興隆した。首都コルドバは戸数11万、モスクの数600といわれ、人口は少なくとも30万、イスラム世界ではイラクのバグダードに次ぐ大都市であり(ヨーロッパ大陸最大の都市でもあった)、アルカサル宮殿を筆頭に壮麗な建築物で飾られていた。 宰相アビ・アミル・アル・マンスールは彼の後継者たちをよく輔弼してバルセロナやアストリアスなどのキリスト教国を征服したが、1002年の彼の死後、後ウマイヤ朝は再び内乱に陥って20以上の小首長国(タイファ首長国)に分裂、1031年に滅亡した。こうしたイスラム教国側の内紛により、キリスト教諸国の反撃を許すことになった(後述)。 1085年、キリスト教のカスティージャ王国に主要都市トレドを奪われると、危機感を抱いたイスラム首長は北アフリカのムラービト朝に援助を要請、イベリア半島の南半分はムラービト朝の支配下に入った。ムラービト朝ははるか南方、現在のモーリタニア(アフリカ)に興ったイスラム神秘主義教団に起源をもつ王朝で、厳格なイスラム教徒であったこともあり、領内のキリスト教徒やユダヤ教徒にはその支配を嫌ってキリスト教国に移住するものもあった。そうした者の中に古代ギリシャ・ローマ古典や聖書のアラビア語注釈に通じた者もおり(聖書注解学のアブラハム・イブン・エズラなど)、彼らの影響によって西ヨーロッパにいわゆる「12世紀ルネサンス」が興ったのはなんとも皮肉な結果であろう。 ムラービト朝は当初こそキリスト教徒を撃退したが、イベリア半島の在地首長との抗争を繰り返して弱体化、アラゴンやカスティージャといったキリスト教国の攻勢を受け、1147年に北アフリカのベルベル人王朝であるムワッヒド朝に倒された。やはりイスラム教団を母体とするムワッヒド朝もイベリア半島に支配を及ぼしてキリスト教徒と戦ったが、やがて当初の宗教的情熱は薄れ、求心力を失った王国は分裂し1269年に滅亡した。なおアリストテレス注解でヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えたムハンマド・イブン・ルシュド(アヴェロエス)はコルドバの出身で、ムワッヒド朝に宮廷医師として仕えていた。 1238年にナスル朝がムワッヒド朝から離反してグラナダに都したが、他のイスラム首長国はムワッヒド朝の混乱に乗じたキリスト教国に次々と征服され、ナスル朝はイベリア半島の南端に僅かにへばりついた格好でイスラム最後の牙城となった。ナスル朝は王国の存続のためカスティージャ王国に従属し、貢納を強いられた。巧みな外交で生き延びたナスル朝は、14世紀後半のムハンマド5世の時に最盛期を迎えた。彼はグラナダにあるアルハンブラ宮殿(その名に反し赤ではなく白い宮殿である)を現在残る姿に整備した。北アフリカのチュニス出身で、官僚として諸国を転々としたのち祖先の地アンダルシアに渡って彼の寵臣になったイブン・ハルドゥーンは、失脚ののち著述に専念して「歴史序説」を著し、イスラム世界最高の歴史家として知られる。 しかしナスル朝をとりまく情勢は徐々に悪化、1492年1月2日、最後の王ムハンマド12世はスペイン王国(カスティージャとアラゴンの連合王国)に降伏してグラナダを明け渡し、北アフリカに亡命した。1502年、スペインは領内のイスラム教徒に改宗令を出し、イベリア半島におけるキリスト教とイスラム教の共存状態は幕を閉じ、メスキータ(モスク)は教会に改修された。ムハンマドの預言以来拡大を続けたイスラム教にとっては初の失地であり、アル・アンダルス(アンダルシア)という地名は過去の栄光と哀しみを意味するものである。 イスラムは姿を消したが、その文化はスペインに濃厚にその姿を残している。例えばスペイン語で砂糖をアスーカル、米をアルーズと言うが、それぞれアラビア語(スッカル、ルッズ)に由来し、その栽培もアラブ人の到来と共にもたらされ、中世ヨーロッパでは唯一の生産地だった。スペインの名物料理として日本でもおなじみのパエージャ(パエリヤ)は、その材料である米もサフランもアラブ人が持ち込んだものであるし、その名前すらアラビア語起源(「残り物」を意味するバキーヤ)という説もある(ただし、「鍋」を意味するラテン語に起源するという説が一般的)。 「レコンキスタ」というスペイン語は、日本語で「再征服」あるいは「失地回復」と訳される。これは概ね8世紀から15世紀にかけて、キリスト教徒によるイベリア半島におけるイスラムとの戦いと定義され、十字軍と共に宗教あるいは文明の衝突として理解されている。しかし実際のところ、キリスト教徒側もイスラム教徒側もそれほど統一的に相手に対抗したわけではなく、同教徒を討つために異教徒と手を結ぶことは頻繁に行われた。 レコンキスタ最大の英雄とされ叙事詩に謳われた騎士エル・シド(ロドリゴ・ディアス)が良い例で、史実では1081年に主君であるカスティージャ王アルフォンソ6世に追放されたとき、彼はイスラム教徒であるサラゴサ侯アル・ムタミンの庇護を受けて傭兵隊長となり、キリスト教徒の軍隊と戦っている(のちにヴァレンシア領主としてムラービト朝の攻撃を防いだ)。レコンキスタが一連の連続する宗教戦争であるという見方は、ローマ教皇あるいはスペイン王家によって行われた政治宣伝を鵜呑みにしているというべきだろう。 レコンキスタの起点となったのはイベリア半島北端の山岳地帯で、西ゴート族の残党を名乗るアストリアス王国と、フランク王国のカール大帝による遠征の結果設置されたスペイン辺境伯領である。9世紀になると、アストリアス領内のサンティアゴ・デ・コンポステーラでキリスト教の聖人ヤコブの墓が見つかったと宣伝され(ヤコブが処刑されたのはパレスチナである)、キリスト教意識が高められた。なお聖ヤコブはレコンキスタの象徴としてスペインの守護聖人となり、同地も巡礼地となった。 アストリアス(914年に首都の名に因んだレオンと改名)の東部はイスラム軍の攻撃を防ぐため多くの城塞が築かれたが、それがカスティージャという地名の起こりとなる。のちレオン王国からブルゴスを都とするカスティージャ(1035年)とポルトガル(1139年)の両王国が分離する。一方スペイン辺境伯領にはナヴァラ、アラゴンなどの王国が成立した。 1008年に後ウマイヤ朝が分裂状態になると、それに付け込む格好でこれらの各王国は南方に版図を拡大した。カスティージャは1085年にトレドを奪取したが、文化都市トレドの占領により、アラビア語の知識(数学・化学・哲学)がユダヤ人などによってラテン語に翻訳され、その刺激が西欧における「12世紀ルネサンス」の契機となった。1208年にはパレンシアにイベリア半島で最初の大学が設立されている。 一方アラゴンは1118年にサラゴサを占領、さらに1137年にはカタルーニャ公国と統一して地中海に進出する。この拡大には同時期に始まった十字軍運動も影響しており、騎士団が結成されて「異教徒との聖戦」のためにフランスやドイツから多くの騎士が馳せ参じた(最近ニュースでよく聞くような話である)。 1185年にムワッヒド朝がカスティージャ軍に勝利すると、ローマ教皇インノケンティウス3世はキリスト教徒の結束を呼びかけた。これに応じた騎士がピレネー山脈を越えて参集し、また互いに抗争を続けていたイベリア半島のキリスト教国が連合した。1212年、ラス・ナヴァス・デ・トロサの戦いで連合軍はムワッヒド軍を撃破した。 1224年にムワッヒド朝で内紛が起きると、各国はそれぞれに攻勢を始め、アラゴンはヴァレンシアを征服(1238年)、1230年にレオンと統一したカスティージャはコルドバ(1236年)やセヴィージャ(1246年)といったアンダルシアの主要都市を攻略、1251年にはついにジブラルタルに達し、イスラム勢力はイベリア半島南端にナスル朝が僅かに残るのみとなった。ナスル朝はカスティージャの属国となり、宗教の異なる国家間の抗争状態は事実上終了した。キリスト教国内のイスラム教徒は都市の特別地区に移されて課税された他、奴隷にされる者もあった。 イスラム勢力には勝ったものの、人口の2割を奪ったペストの流行(1349年)もあって各国は疲弊した上、貴族の発言権が強かったカスティージャでは隣国アラゴンも巻きこむ内乱が発生してレコンキスタどころではなかった。アラゴンはさらなる活路を東方の地中海に求め、1235年にバレアレス諸島、1282年には「シチリアの晩鐘」事件(イタリア人の対仏反乱)に乗じてシチリア島を奪い、1326年にはジェノヴァとの抗争の末サルデーニャ島も支配下に収め、1442年にはナポリに上陸してイタリア南部を領有し、西地中海での制海権を確立した。一方カスティージャは北アフリカのマリーン朝による侵攻を撃退し(1340年)、英仏百年戦争のさなかのフランスと結んだりした。 こうした状態は、1474年にイサベルがカスティージャ女王に即位することで変化した。ポルトガル王子との結婚を拒んだ彼女は1469年に自ら選んだアラゴン王太子フェルナンドと結婚しており、フェルナンドはイサベルの共同統治者となった(1479年にはアラゴン王に即位)。これに反対するフランスやポルトガルの攻撃を撃退したのち、1479年に両国はこの夫妻の下での統合が宣言された。統一スペイン王国の誕生である(正確にはバスク人のナヴァラ王国を1512年に併合することで統一が完成)。 両王は統一のため中央集権的な法律や国家制度、そして教会(イサベルの摂政を務めたトレド司教ヒメネス・デ・シネロス枢機卿の影響)などの様々な改革に取り組んだが、その中でも1481年に異端審問の改革が行われて国家組織の一部となり、スペインはきわめて厳格なキリスト教国となり、ユダヤ人やイスラム教徒に対する風当たりが強くなった。もともと国家の成り立ちからして教会の影響が強かったが、新たな統一国家として団結するには敵を作ることは都合の良いことだったろう。 イベリア半島の最南端に残っているイスラム国家を滅ぼすことは、こうした政策の当然の帰結である。スペインは1482年にナスル朝への攻撃を開始、1492年1月、ナスル朝は滅亡した。ここに実質的には200年前に終わっていたレコンキスタの完了が宣言された。イスラム教国への攻撃は北アフリカにも及び、メリジャやオランなどを占領したが、このうちメリジャは現在もスペイン領である。こうした功績によって両王はローマ教皇アレクサンデル6世により「カトリック王」の称号を授けられた。 このキリスト教化の完成と共に、当時スペインに16万人住んでいたユダヤ人(マラーノ=豚と呼ばれていた)、またモリスコあるいはムーア人と呼ばれるイスラム教徒はスペイン国家によりキリスト教への改宗を迫られ、北アフリカやオスマン帝国(トルコ)、北イタリアに移住するものが相次いだ。
2006年09月12日
コメント(2)
今日研究室仲間のDが、新しい職場であるスペインに発った(はず)。ずいぶんお世話になりましたし、これからもお世話になります。 それを祝して(?)、ちゃちゃっと書いたスペインの歴史をアップ。気が向いたら続きを書く。・・・・・・・ スペイン(エスパーニャ)は面積50万平方キロ(日本の1.3倍)、人口4400万人(日本の約1/3)の、ヨーロッパ大陸西端の国である。 スペイン、ポルトガル両国があるイベリア半島は南北850km、東西1000km強で、3000m級の山が聳えるピレネー山脈によって北隣のフランスと画されている。またイベリア半島の南端にあって最も狭いところで幅14kmしかないジブラルタル海峡は、地中海と大西洋を隔てる要衝であり、対岸はもはやアフリカ大陸(モロッコ)になる。かつてフランス皇帝ナポレオンは「ピレネー以南はアフリカである」と喝破したと伝えられるが、その当否はともかく、スペインがその辿った歴史や環境によって地続きのフランスとは大きく異なる雰囲気の国であることは否めない。 スペインは緯度でいえば北海道中部から東京辺りまでになるのだが、北大西洋海流などの影響でかなり温暖な気候となっている。イベリア半島の中央部には山脈がいくつか走り、中央部のカスティージャ(カスティリア)地方は比較的乾燥した丘陵地帯であるのに対し、北部のガリシア及びバスク地方は降水量の多い大西洋気候、また地中海岸のカタルーニャ地方とアンダルシア地方は地中海性気候であり、それぞれ植生が異なっている。この気候の多様性が地方性やヴァリエーションの豊かなスペイン料理を生み出した。 スペインはイベリア半島本土の他、地中海に浮かぶバレアレス諸島、大西洋にあってモロッコ西方にあるカナリア諸島、そしてアフリカ大陸北岸のセウタ及びメリジャに飛び地を領有している(逆にジブラルタルは1704年以来イギリスの主権下にある)。これは15世紀以降に成立したスペイン海上帝国の名残りであるが、その最大の遺産はむしろ、現在スペイン語が中南米を中心に3億人以上の母語とされ、数え方によっては中国語や英語に次いで世界で三番目に巨大な人口を擁している事実だろう。 一方でスペイン本土の中では、フランスに接するバスク(エウスカディ)地方とカタルーニャ地方は独自の言語を保持し(特にバスク語はインド・ヨーロッパ語族ですらない孤立した言語である)、スペイン語(=カスティージャ語)と共にその地方で公用語となっている。先日(2006年6月)住民投票でカタルーニャ州のさらなる自治権拡大が決められ、また過激なバスク独立運動を続けてきたETA(「バスク祖国と自由」)は今年3月に無期限停戦を宣言、6月にスペイン政府はETAとの交渉を開始すると発表したばかりである。 スペインで最古の人類の痕跡は、1994年にグラン・ドリナ洞窟で見つかった85万年前の人骨で、西ヨーロッパでは最も古い。人類揺籃の地であるアフリカ大陸に近いことを思えば不思議ではない。後期旧石器時代の洞窟壁画も各地で発見されており、とりわけ約1万5千年前の野牛の絵が色鮮やかに残っているアルタミラ洞窟(スペイン北部)が著名であろう。 西アジアで始まった農耕・牧畜は、地中海沿岸部(カーディアル文化)を経由して紀元前4700年頃にイベリア半島に伝わった。紀元前4000年頃からは巨石墓文化(アルメリア文化)、そして紀元前2600年頃から鐘形土器文化(ロス・ミジャレス文化)が始まるが、これらの文化は西ヨーロッパと共通するものであり、北アフリカからドイツに至る広い地域を越えた文化交流が想定されている(イベリア半島を起源と考える説もある)。 紀元前2200年頃、やはり東方から地中海経由で冶金術が伝わって青銅器時代が始まるが(エル・アルガル文化)、伝統的な巨石墓が作られ続けた。 紀元前1000年頃、現在のレバノン海岸部にあった都市国家を原郷に持つフェニキア人たちは地中海全域に漕ぎ出した。彼らはアフリカ北岸(チュニジア)にカルタゴ市を建設し、さらに西方のイベリア半島南岸に至ってガディル(現在のカディス)やマラカ(現マラガ)などの植民市を建設した。銅や銀、錫といったイベリア半島の豊富な鉱物資源入手が彼らの目的であったろう。のちにギリシャ人もこの交易・植民競争に参入したが、鉱物資源の豊かな国として彼らに知られたタルテッソスはスペイン南部にあったとされる。 フェニキア人たちは様々な東方の文物をスペインにもたらしたが、その中で最大のものはオリーヴの栽培だろう。現在スペインは世界最大のオリーヴ生産国になっている。またブドウ栽培(ワイン醸造)やニワトリもフェニキア人がもたらしたようだが、こちらはそれぞれ現在世界4位・6位である(ちなみに最近日本でもスペイン原産のイベリコ豚が話題になっているようだが、養豚は世界4位)。さらにスペインの代名詞である闘牛すらもフェニキア人がもたらしたという説がある。ローマ時代の「ヒスパニア」という地名の転訛である「エスパーニャ」(スペイン)という国名の語源さえも、フェニキア語の「イシャパニム(イワダヌキの地)」に由来するという(バスク語起源説もある)。 一方フェニキア人たちが入植した頃には、既にイベリア人と呼ばれる原住民が居た。いうまでもなくイベリア半島の語源であるが、インド・ヨーロッパ語族に属しておらずアフリカ起源説さえある彼らは、現在のバスク人の祖先であるとも言われている。イベリア人はフェニキア人やギリシャ人に影響されながらも独自の文化を保持した(「エルチェの貴婦人」と呼ばれる石像はその傑作である)。また紀元前5世紀頃にはピレネー山脈を越えて北方からケルト人が流入してイベリア人と混合したらしく、ケルト語の碑文や地名が残されている。 紀元前7世紀以降、フェニキア本国がアッシリアやペルシアといった西アジアの大帝国に支配され独立を失うと、都市国家カルタゴは自立し、イタリア半島北部に居たエトルリア人と組んで西地中海の制海権を得た(紀元前540年)。しかしその後も、商売敵のギリシャ人との衝突を繰り返すことになる。 それに介入したのがイタリア半島の新興国家ローマである。ギリシャ人に味方したローマは紀元前261年に第一次ポエニ戦争で初めてカルタゴと激突し、勝利した。敗れたカルタゴが目を付けたのがイベリア半島南部の開拓で、その鉱物資源による収入でローマへの賠償金を前倒しで支払った。さらにイベリア半島支配の拠点として紀元前227年にカルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)を建設する。 カルタゴの復興を恐れたローマは紀元前218年に再び戦争を仕掛ける(第二次ポエニ戦争)。カルタゴの将軍ハンニバルはイベリア半島を拠点に戦備を整え、アフリカ象を引き連れてイタリアを転戦、ローマを苦しめたが、大スキピオ率いるローマ軍が紀元前206年までにイベリア半島南部を制圧するや戦局は逆転、再びローマの勝利に終わった。カルタゴは大スキピオの甥・小スキピオによって紀元前146年に滅ぼされた。 イベリア半島ではローマ帝国が領土拡張を目指してイベリア人・ケルト人と硬軟織り交ぜた和戦を繰り返したが、小スキピオは紀元前133年にケルト人の根拠地ヌマンティアを攻略した。その後も抗争は続いたが、紀元前19年までにイベリア半島はほぼローマ帝国の版図に組み入れられた。 ローマ人は盛んに都市や水道を建設し、その結果住民のローマ化が進み、のちにラテン語から現在のスペイン語が発達することになる(ただ半島北端の住民はローマ帝国に従属せず、彼らの子孫が現在のバスク人であるという)。ヒスパニアと呼ばれたイベリア半島は、その豊かな鉱物資源や農業生産でローマ帝国の中心地の一つとなり(ローマ人が愛好したガルム=魚醤の主要な産地でもあった)、ローマ帝国の最盛期(2世紀)を現出したいわゆる五賢帝のうち4人までがヒスパニアに出自をもち、また文人セネカもコルドバの出身である。 3世紀頃には住民の間にキリスト教が広まった。これもまた地中海起源の文化を象徴するものだろう。 さしものローマ帝国も数世紀を経て揺らぎ、分裂傾向になるが、4世紀末からそれに乗じてゲルマン系の諸部族が次々と帝国西部に移動して来る。いわゆる民族大移動であるが、スペインにやって来たのはバルト海沿岸に居たスエビ族、ポーランド辺りに居たヴァンダル族、そしてルーマニア辺りに居た西ゴート族である。スエビ族はスペイン北西部(ガリシア地方)に定着したが、409年に来住したヴァンダル族はすぐに後続の西ゴート族に追われ、アンダルシアという地方名にその名を残すのみである。 西ゴート族は初めトゥールーズ(フランス南部)に都し、王であるエウリッヒはゲルマン族で初めてラテン語による成文法を制定した(470年)。507年にフランク族に敗れるとピレネー山脈以北の領土を失い、トレドに遷都した。この王国は王と貴族の権力闘争で弱体化し、この内戦につけこむ形で551年にはイベリア半島南部を東ローマ(ビザンツ)帝国に一時的に奪われた。 こうした危機の中、西ゴート族は当初三位一体を認めないキリスト教アリウス派だったものを589年にローマ・カトリック派に転じ、ラテン系住民との融和が図られた。これ以降のスペイン史を通じ、キリスト教会は政治上無視できない要素となっていく。654年には西ゴート族とラテン系住民に共通の法が制定され、西ゴート族は先住のラテン系住民に同化され言語学上は姿を消していくことになる。現代の公用語であるスペイン語やカタルーニャ語はラテン語から発達した言語である。 7世紀にアラビア半島で興ったイスラム教は、一世紀足らずでイランから北アフリカまでを制覇した。北アフリカにあったウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードは西ゴート王国の内戦に乗じ、711年にアフリカ大陸との間の狭い海峡を渡ってイベリア半島に上陸した。かつてギリシャ人に「ヘラクレスの柱」と呼ばれていたその場所は、彼の名に因んでジェベル・アル・ターリク(ターリクの山)、訛ってジブラルタルと呼ばれるようになる。 アラブ軍は西ゴート軍を破って王国をその滅ぼし、718年までにウマイヤ朝はイベリア半島の大部分を征服したが、北西のガリシア地方では西ゴートの残党を率いたペラヨによる抵抗が続き、アストリアス王国が樹立された。 アラブ軍の北上は続き、732年にはピレネー山脈を越えてフランス南部にまで及んだ。北上するアラブ軍をフランク王国の宮宰カール・マルテルが撃退したのが世に名高いトゥール・ポアティエ間の戦いであるが、その後繰り返された攻防でフランク王国は概ねアラブ軍をピレネー山脈以南に撃退することに成功した。ウマイヤ朝はコルドバに総督を置いてイベリア半島を支配した。 750年、シーア派の反乱をきっかけにウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝がカリフ(イスラムの教主)の地位に就くが、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマン(1世)はシリアからスペインに逃れ、756年にコルドバを都とする後ウマイヤ朝として分離独立する。アッバース朝は討伐軍を派遣するが撃退された。これは祭政一致で統一されていたイスラム世界の分裂の始まりでもあった。 スペインでは後ウマイヤ朝に心服しない者も多く、サラゴサ総督イブン・アラービーもその一人で、当時西ヨーロッパに覇権を樹立していたフランク王国に救援を求めた。フランク王カール大帝は778年にピレネー山脈を越えてスペインに侵入したが、ロンスヴォーの戦いでウマイヤ軍に敗れた。この出来事に取材したのが、十字軍時代の11世紀に成立した叙事詩「ローランの歌」である。 四方に精力的な遠征を続けたカール大帝は、後ウマイヤ朝の内紛に乗じて803年にもスペインに遠征しているが、ピレネー山脈を越えるのは困難であり、バルセロナ周辺を領するスペイン辺境伯を置いてウマイヤ朝と講和した。このスペイン辺境伯領と上述のアストリアス王国こそが、キリスト教勢力のイスラム教勢力に対する戦い、いわゆるレコンキスタ(「再征服」)の出発点となっていく。(続く)
2006年08月28日
コメント(4)
(引用開始)サポーターは互いにエール 因縁の独・ポーランド戦【ドルトムント14日共同】第2次大戦でポーランドを侵略したドイツ。歴史問題が再燃し関係がぎくしゃくする中、サッカーのワールドカップ(W杯)で両国が14日(日本時間15日未明)、対戦する。因縁の対決を前に、両国のサポーターは「政治とスポーツは別」と互いにエールを送り、対戦を心待ちにしている。 歴史問題の再燃は、ドイツとロシアが昨年12月にポーランドを迂回(うかい)する天然ガスパイプラインに着工したのが発端。ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連がポーランドの分割占領を決めた1939年の「密約」にたとえ「頭越しの取引」と非難。ポーランドのマルチンキエウィチュ首相も最近、両国関係について「晴れの日もあれば嵐の日もある」と指摘した。 しかし、試合が行われるドルトムントの学生クリスチャン・シュラムさん(24)は「歴史問題は何十年も前のこと。W杯に水を差さないでほしい」と話す。観戦に来たポーランドの銀行員ダレク・ダブロフスキさん(32)も「スポーツと政治は別。両国民は友だちになるべきだ」と力説。 13日夜に同市中心部で開かれたW杯関連イベントでは、両国のサポーターが入り乱れて、深夜まで踊り続けた。 地元警察は、試合当日、1000人以上の警官を動員し警戒に当たるが、懸念された両国のフーリガンの衝突やネオナチのデモの兆候は今のところないと話している。 ドイツには隣国ポーランドからの移民も多い。ドイツ代表チームのフォワード、クローゼ、ポドルスキ両選手もポーランド移民。クリンスマン監督が「こちらにいてくれてよかった」と話すほど、チームにとってなくてはならない存在だ。(共同通信) - 6月14日18時50分更新(引用終了) うーん、いい話だ・・・。さすがは「誠実で理想的な戦後処理をした」(ほほう)と、歴史というものに厳密?な中国や韓国にも高く評価されるドイツらしい。日本もこうありたいもんですな。 そして試合は接戦の末ロスタイムでのニュヴィルのゴールでドイツが1-0で勝利!ドイツの底力を見せたいい試合でした。こちらも、日本もこうありたいもんですな。 ・・・と思っていたら、(引用開始)フーリガン300人拘束 ドイツ戦前に暴れる 14日夜、ドイツ―ポーランド戦が行われたドルトムント市内で逮捕されたドイツのフーリガン(AP=共同) 【ドルトムント15日共同】サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ-ポーランド戦が行われたドイツ西部ドルトムントで14日夜、試合直前にドイツのフーリガンが警官隊に瓶を投げ付けるなどして暴れ、約240人が拘束された。フーリガン数人が軽傷を負った。AP通信などが伝えた。 これに先立ち、地元警察は同日、ナイフを所持していたなどとして、ポーランドのフーリガンとみられる約60人を拘束しており、拘束者は計約300人になった。フーリガンが暴れて拘束されたのは今大会で初めて。(共同通信) - 6月15日10時17分更新独警察、W杯フーリガンら200人逮捕【ベルリン=黒沢潤】独西部ドルトムント警察は14日夜、W杯1次リーグA組のドイツ対ポーランドが行われた同市内の繁華街などで、両国のフーリガンら約200人を逮捕した。(中略) ドイツとポーランド両国は、フーリガンが数多くいることで知られ、昨年11月には両国の国境に近いドイツ北東部の森の中で約100人が衝突した。逮捕されたポーランド人の一人は「W杯での予行演習だ」と供述したことから、両国の警察当局は国境警備などを強化していた。(産経新聞) - 6月15日16時11分更新(引用終了) ありゃりゃ、起きちまったか。しかし「W杯の予行演習だ」という供述が笑える?し、「森の中で衝突」というのは模擬戦闘じゃあるまいしなんだか空恐ろしい。 まあ今回のドルトムントでの衝突にナショナリズムとか歴史問題とかの背景はなく、単にヨーロッパでもイギリスと並んで特にタチの悪いと言うドイツとポーランドのフーリガン同士がぶつかってしまったことのようだが。ポーランドは決勝リーグ出場がほぼ絶望、ドイツは開催国の意地を守ったということで特に昂ってしまったのだろうか。 まあ前回2002年のワールドカップのように、開催国(の一つ)の軍隊が大会期間中に隣国と武力衝突、なんて事態は今回はないけど。(トルコと韓国の代表は試合前に犠牲になった兵士のため黙祷したものだった。かの国の現政権からすると、このような事件はえらく昔のような気がするが) あの大会の時僕はドイツにいたが、見ていた当時は日本の共催国のファンの熱狂的な応援ぶりやその代表の激闘には素直に感動したものだった(変なジャッジが目立つなあとは思ったが)。今回も日本はちょっと水を開けられているようだけど。 ともあれ、あの大会は楽しかったねえ。今回はヨーロッパ勢の逆襲となりそうだけど。・・・・・・ ドイツ国内では各国の国旗の売り上げが1000倍に達し、元々需要の伸びが予想されたドイツ国旗はともかく、他の国の国旗が品薄になっているという。在留邦人の多いデュッセルドルフでは日の丸が品薄とのこと。 普段は国旗や国歌を歯牙にもかけないドイツの若者も、この時だけはにわか愛国者?になる。サッカーと政治は別、という建前はその通りなのだが、ワールドカップの魅力はやはりその辺にあるんじゃないだろうか。たとえ世界中の最高のクラブチームやそのタレントを集めたところで、このような騒ぎには決してならないだろう。 この「黒・赤・金」(ドイツ国旗)フィーバーに白ける人も多いようだし、もとよりサッカーに興味のない人(特に女性に多い)は早くワールドカップの馬鹿騒ぎが終わらないかと思っているようだけど。 (WM-Tippspiel)6/12 USA-Tschechien 0-3 × Italien-Ghana 2-0 ◎6/13 Suedkorea-Togo 2-1 × Frankreich-Schweiz 0-0 × Brasilien-Kroatien 1-0 ○6/14 Spanien-Ukraine 4-0 ○ Tunesien-Saudiarabien 2-2 × Deutschland-Polen 1-0 ◎6/15 Ecuador-Costa Rica 3-0 ○
2006年06月15日
コメント(6)
(引用開始)<モンテネグロ>独立賛成派、勝利 EUの承認条件を達成 【ウィーン会川晴之】連合国家セルビア・モンテネグロからの分離・独立の是非を問う国民投票を21日に実施したモンテネグロの選挙管理委員会は22日午前、賛成票が55.4%と独立に必要な「55%以上」の規定を上回ったと発表した。 欧州連合(EU)のソラナ共通外交・安保上級代表は同日午前の会見で「国民投票が整然と行われたことに祝意を表する。投票結果を尊重する」と述べ、独立を認める考えを示した。 また、選挙監視に当たった全欧安保協力機構(OSCE)も同日午後の会見で、選挙が公正に行われたと認定、最終開票結果を見守る考えを示した。選挙結果が確定すれば、旧ユーゴスラビアを形成した六つの共和国はすべて独立する形となる。(中略) 開票の結果、賛成は55.4%、反対は44.6%だった。国民投票の仲介に当たったEUは、独立承認の条件を「55%以上の賛成」としており、かろうじて達成した。ただ、結果が極めて小差だったことから、独立に反対したセルビア系住民やセルビアとの融和が今後のカギとなる。 セルビア・モンテネグロの国家としての継承権はセルビア共和国にあると両共和国の合意で決まっており、モンテネグロは国連をはじめとする国際機関への加盟申請作業に入る。また、在外の大使館や軍隊など両共和国が共有する国有財産の分割交渉を始める。(毎日新聞) - 5月22日22時33分更新(引用終了)・・・・・・ モンテネグロ共和国は面積1万3千平方キロ、人口62万人で、かつてユーゴスラヴィア連邦を形成し、今はセルビア共和国と国家連合している小国である。面積規模でも、またディナルアルプス山脈の中の山がちな地域という点でも福島県と似ているが、人口は150万人も少ない。このバルカン半島の「福島県」はアドリア海に面している。 連合相手のセルビアは、面積ははるかに大きい北海道ほどの大きさで人口もモンテネグロの15倍あり、東隣にあるが、南はアルバニア、西はクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴヴィナと国境を接しており、このうちクロアチアとボスニアは旧ユーゴスラヴィアに属した国である。首都は内陸にあるポドゴリッツァで、社会主義ユーゴスラヴィアの時代には大統領の名前をとって「チトーグラード」と呼ばれていた。 「モンテネグロ」というイタリア語の通称は他称で、かつて海岸部を支配したヴェネチア共和国の船乗りが、この国の松に覆われた山を見て「黒い山」と呼んだことによる。自称ではやはり「黒い山」を意味する「チュルナ・ゴーラ」という。 僕は何度かセルビアに行ったことはあるが(モンテネグロには無い)、それまで国内の車の多くが「ユーゴスラヴィア」を意味する「YU」の国籍表示ステッカー(多くの国が陸続きのヨーロッパではよく見かける)を貼っていたのが、2003年2月4日の連邦解消・国名変更の直後に行くと早速「SCG」(セルビア・チュルナ・ゴーラの頭文字)とあるステッカーが登場していたのを覚えている。 モンテネグロも旧ユーゴスラヴィアらしく多民族国家であり、国民のおよそ4割がモンテネグロ人、3割がセルビア人、その他スラヴ系のイスラム教徒1割、アルバニア人5%などとなっている。モンテネグロ人とセルビア人は言語も宗教(ギリシャ正教)もほとんど共通しており、モンテネグロ人を独立した民族と見なすかどうかは議論の分かれる所となっている。 むしろ多分に個々人の帰属意識あるいは政治的立場による所が大きい。最たる例は旧ユーゴ内戦の際セルビア民族主義の権化のように言われたスロボダン・ミロシェヴィッチ元連邦大統領であり、彼の両親はモンテネグロ人だが、彼自身は自分をセルビア人と思っていた。興味深いことに、母語を尋ねた国勢調査では、憲法で「セルビア語の西方方言」と規定されるモンテネグロ語が2割に過ぎないのに対し、セルビア語と答えた者は6割に達し、上の民族帰属意識調査に一致しない。 最近はモンテネグロ人は紀元前の先住民族イリリュア人に起源があるとする、スラヴ主義を前面に押し出してきたセルビア人とは別のアイデンティティを求める動きもあるが、起源がどうであれ実態としてセルビア人とほとんど違いはない。このことはセルビア人がモンテネグロにおいて、イスラム教徒の多いボスニアやアルバニア人、カトリックであるクロアチア人との間に経験したような凄惨な民族紛争に至らなかった大きな要因だろう。 395年、ローマ帝国が東西分裂した際、属州イリリュアに属していた現在のモンテネグロの地は、ほぼ東西ローマ帝国の境界上にあった。西ローマ帝国が分裂から100年もしないうちにゲルマン人の手に落ちて滅亡したのに対し、東ローマ(ビザンツ)帝国はその後1000年の命脈を保つことになるが、モンテネグロも1077年まで断続的ながらおおよそビザンツ帝国の支配下にあった。 7世紀には中央アジアからアヴァール族がバルカン半島に遷って来るが、その混乱に引き込まれるようにスラヴ族がバルカン半島に移住し、住民のスラヴ化が進んだ。主にビザンツ帝国からの宣教活動でこのスラヴ族はキリスト教徒になった。 1071年、ビザンツ帝国が小アジアで中央アジア起源のトルコ人王朝であるセルジューク朝に敗れ弱体化すると、バルカン半島のスラヴ人たちは自立を図り、豪族の勢力争いの末セルビア人のデュクリャ公国などが独立する。上の1077年というのはローマ教皇に王として認められた年であるが、バルカン半島は同時代に始まった十字軍と同様に、ローマ教皇(カトリック)とビザンツ帝国(ギリシャ正教)の微妙な競合関係に影響されていた。 1360年、セルビア王国の分裂によって、モンテネグロにはバルシッチ朝のもとツェタ公国が成立する。しかし小アジアから進出したトルコ人のオスマン帝国が1459年にセルビア王国を属国にすると、ツェタ公国もオスマン帝国の属国となった。だが山がちの難所で旨みの少ないこの地にオスマン帝国の直接支配が及ぶことはほとんど無く、イスラム教徒の支配を潔しとしないセルビア人が逃げ込んだ。この辺りがセルビアとモンテネグロを分かつ始まりになっているようだ。 1528年、ギリシャ正教のチェティニエ主教を形式的に戴くことでモンテネグロの氏族は連合し、モンテネグロ「国家」が成立する。「ヴラディカ」という称号を名乗った主教はオスマン帝国に対する抵抗運動の先頭に立った。この地位は1697年以降はペトロヴィッチ家のおじ・甥による世襲となった(聖職者は結婚が許されないため)。 オスマン帝国の支配体制が緩んだ18世紀半ばには、モンテネグロはほぼ独立状態にあった。一方コトル湾など沿岸部は上述のようにヴェネツィア共和国の支配下にあり、ヴェネツィアが1815年にオーストリアに併合されたのちは1918年までオーストリア支配下に置かれることになる。 1830年代以降、ペトロヴィッチ家のダニーロ2世は豪族同士の対立を押さえ込んで、モンテネグロに近代的意味での国家樹立に成功する。しかし反発も大きく、1860年にダニーロは暗殺された。その跡を継いだのが甥のニコラ1世で、専制統治によってモンテネグロの近代化に努め、ロシアに倣った軍の編成や法律を整備した。 1877年、バルカン半島のスラヴ民族解放を掲げるロシアとトルコ(オスマン帝国)の間で戦争が勃発すると、モンテネグロはロシア側に加担した。戦争はロシアの大勝に終わり、翌年モンテネグロはヨーロッパ列強から正式な独立を認められた。こうした経緯からモンテネグロは極めて親露的であり、1904年の日露戦争の際は日本への宣戦布告をロシアに打診している。 この時代、倍増した人口を養うだけの産業に欠けるモンテネグロから、アメリカなど外国へ移住する者も多かった。また隣国セルビアの影響でバルカン半島のスラヴ民族統合を主張する南(ユーゴ)スラヴ主義が台頭、モンテネグロの内政の不安定要因となった。1910年に即位50年を祝ったニコラ1世は王を名乗る。 1912年にバルカン諸国と連合したモンテネグロはトルコに戦争を仕掛け(バルカン戦争)、アルバニア北部のシュコダルを占領する。しかし親露的なモンテネグロの拡大とセルビアのアドリア海進出を嫌ったオーストリアは強硬に反対し、アルバニアの独立が決まった。この結果に威信を失った国王は、ロシアの圧力もあってセルビアとの国家連合樹立交渉を始める。 一方でこの戦争はオーストリア及びそれを支援するドイツと、ロシアとの間のバルカン半島をめぐる対立を決定的なものとした。そして1914年、第一次世界大戦が勃発する。セルビアとの連合を交渉中だったモンテネグロは即座に、セルビアを支援するロシアに味方し連合国側に参戦した。しかし1916年に独墺連合軍はセルビア全土を占領、ついでモンテネグロをも占領した。国王は亡命しこの占領は1918年の独墺敗戦まで続いた。 終戦後、国王派の反対をよそにモンテネグロ議会は戦勝国の列に加わったセルビアとの国家連合を決定、セルビア主導で樹立された連邦国家ユーゴスラヴィア(この国名は1929年以降)に参加することになった。 ユーゴスラヴィアがドイツとイタリアに占領された第二次世界大戦中(1941年)、イタリアはペトロヴィッチ家を復活させてモンテネグロを独立国としたが(イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の妃はニコラの娘)、イタリア・ドイツ敗北後にユーゴスラヴィアは共産党パルチザンによって解放されてチトー大統領率いるユーゴスラヴィア連邦が復活し、この独立モンテネグロ(実態は傀儡だが)は短命に終わった。 1980年のチトー大統領の死去、そして80年代末の東西冷戦構造の終結は、モザイク状の連邦国家であるユーゴスラヴィアにも影響を及ぼした。1991年にはスロヴェニア、クロアチア、マケドニアが連邦から独立、さらに翌年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナもこれに続いた。しかしモンテネグロは連邦に留まり、セルビアと新ユーゴスラヴィア連邦を形成した。旧ユーゴでの激しい民族紛争でもモンテネグロは一貫してセルビアを支持し、セルビアと共に国連による経済制裁を受ける。 一方で1991年にモンテネグロ首相に就任したミロ・ジュカノヴィッチは、連邦内にありながらセルビアと一定の距離を保とうとした。セルビアと同じディナールではなく、闇市場で流通していたドイツ・マルクを正式な国内通貨とし、2002年のユーロ導入後はユーロに切り替えており、セルビアのコソヴォ自治区と共に、ヨーロッパ連合(EU)の外にありながらユーロを正式通貨としている。なお2006年には1913年以来となる独自の切手発行も決まっている。 1999年、セルビア共和国コソヴォ自治区でアルバニア人とセルビア軍との衝突が激化し大量の難民が出ると、北大西洋条約機構(NATO)軍は人道的介入と称しセルビアを空爆したが、この問題への無関係を主張したモンテネグロも空爆対象となった。セルビア民族主義を煽っていた同国のミロシェヴィッチ政権は2000年に倒された。 2003年、EUからの圧力もあってモンテネグロはセルビアとのユーゴスラヴィア連邦を解消、国名をセルビア・モンテネグロとする緩やかな国家連合に移行した。この際モンテネグロは3年間独立を凍結する合意がなされ、それが明けた後の今回の国民投票となった。既にセルビア正教会とは別のモンテネグロ正教会が復活し、2004年には独自の国歌と国旗を復活させている。また2005年には旧ユーゴ内戦中にモンテネグロ兵がクロアチア攻撃に参加したことを謝罪し、同国に(多分に象徴的な意味合いだが)賠償金を支払った。 モンテネグロはボーキサイト鉱山などがあるものの産業に乏しく、国内総生産の15%はアドリア海での観光業によるものである。国連による経済制裁時代はイタリアなどとの闇交易による収入も大きく、ジュカノヴィッチ首相はじめ閣僚数名が人身売買や密売に関与した疑惑が噂されている。
2006年05月22日
コメント(6)
アルバニアはバルカン半島南西部にあり、面積2万8千平方キロ(青森・秋田・山形を合わせた程度)、人口は310万人の比較的小さい国である。国土の西側はアドリア海に面しており、その対岸はイタリアになる。一方国土の多くは山地であり、東はかつてユーゴスラヴィア連邦を構成していたセルビア・モンテネグロとマケドニア、南はギリシャと接している。 隣国セルビアのコソヴォ自治区やマケドニアには多くのアルバニア系住民がおり、記憶に新しいところでは1999年のコソヴォ紛争に代表される民族紛争の舞台となった。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族には属しているが、セルビア語など周辺のスラヴ語族と異なり独自のグループを形成する。また周辺諸国はギリシャ正教が多いのに対し、イスラム教徒が国民の7割を占めている。この独特な国は、いかにして形成されたのだろうか。 アルバニアの地が史料に登場するのは紀元前6世紀頃、ギリシャ人がアドリア海沿岸にアポロニア、エピダムノス(デュラキウム)などの植民都市を建設したときである。しかし内陸の山岳地帯には青銅器時代から先住のイリリュア人がおり、その独自の文化を保持していた。イリリュア人は海賊行為で共和制ローマの交易網を脅かしたが、紀元前229年にローマ軍はアポロニアなど沿岸部の征服に成功した。 ローマはアポロニアを拠点に南隣のギリシャ征服を進めて紀元前146年に完了し(同年宿敵カルタゴも征服)、地中海世界の覇権と共にヘレニズム文化の後継者たる地位を不動のものとした。アルバニアの地はローマ帝国支配下ではマケドニア州に編入されていた。なお「アルバニア」という国名は他称であり、自称ではその民族出自伝説に基づいた「鷲の国」を意味する「シュチペリア」というが(その国旗も赤地に黒の双頭の鷲をあしらっている)、石灰岩山地の多い同国に因んだ「白」を意味するラテン語の「アルブス」から「アルバニア」という国名が生まれたという。本来これは固有名詞ではなく、カスピ海西岸にもアルバニアと呼ばれる地域があった。 4世紀末からローマ帝国が衰亡し民族大移動の時代になると、バルカン半島にはゲルマン族やスラヴ族が続々と移動してきたのだが、その波は山がちなアルバニアの地には及ばなかったようで、イリリュア人以来の文化があまり変化せずに続いたらしく、冒頭に述べた独特のアルバニア語やその文化が形成された。さらに11世紀には北東から牧畜民ワラキア人が移住してきて混合したという。彼らは統一国家というものをもたず山地で隔された地域ごとに部族に分かれており、名目上はビザンツ(東ローマ)帝国(~12世紀)、ブルガリア王国(10世紀及び13世紀)、エピルス(13世紀)、セルビア王国(14世紀)、ヴェネツィア共和国(14世紀)など周辺国の支配を認めていたが、独立自尊の気風を保った。 そんなアルバニア人たちが初めて団結して立ち向かったのが、アナトリア(小アジア)を本拠にバルカン半島への進出を始めた、イスラム教徒にしてトルコ人の王朝・オスマン帝国の脅威だった。周囲が次々とオスマン帝国の支配に組み込まれていく中、アルバニア人たちは元オスマン帝国総督だったジェルジ・カストリオティの指導の下、25年にわたりオスマン帝国に頑強に抵抗した。彼はトルコ人に「イスケンデル・ベイ(アレクサンデル侯)」と呼ばれたが、これが訛った「スカンデルベグ(アルバニア語ではスカンデルベウ)」の名で知られ、今もアルバニアの国民的英雄とされている。彼の病死(1468年)後アルバニア人の抵抗は鈍り、オスマン帝国の支配を許すことになる。 オスマン帝国の支配はこののち実に450年続くことになるのだが、その間アルバニア人はオスマン帝国支配下のバルカン諸民族の中ではほとんど唯一、イスラム教に積極的に改宗して現在に続いている。オスマン帝国の官僚として取り立てられる者も多く、傭兵から成り上がってエジプト総督になり(1803年)、ついには王朝を樹立して西洋式近代化に努めた梟雄ムハンマド・アリなどは、その好例だろう。 オスマン帝国の支配体制が因循固陋なものになるにつれ農民への収奪が激しくなり、その領内では反乱が頻発する。18世紀から19世紀前半にかけて、アルバニア南北の山岳地帯で何度か独立が試みられ一定の成果を収めたが、結局オスマン帝国に降っている。 19世紀後半以降、バルカン半島に野心を持つロシアの支援で周辺諸国が次々とオスマン帝国から独立していく中、アルバニアはなおもオスマン帝国の支配下にあったが、1912年にエサド・パシャ率いる反乱が起き、内政が混乱していたオスマン帝国を揺さぶった。隣接するバルカン諸国(ブルガリア、セルビア、ギリシャ)は好機とみて連合してトルコに戦争を仕掛け、バルカン半島にあるその領土を分け取りにした(バルカン戦争)。同時期にリビアでオスマン帝国に勝利していたイタリアは、アドリア海の対岸にあたるアルバニアの領有を主張したものの、翌年締結されたブカレスト条約でアルバニアの独立が認められ、ドイツ貴族が招かれて形式的な君主となった。 息つく間もない翌1914年、バルカン半島情勢悪化によって第1次世界大戦が勃発する。1915年にドイツ・オーストリア連合軍はセルビアを攻撃してその全土を占領したが、セルビア軍はアルバニア山中を通ってアドリア海に脱出した。それを追った独墺連合軍はアルバニアに侵入してほぼ全土を占領する(1916年1月)。独立間も無いアルバニアにはなすすべも無く、1918年の独墺の敗北まで占領下にあった。 戦後の1921年、戦前に画定された独立アルバニアの国境が列強や周辺国によって確認された。アルバニア系住民が多いコソヴォ地方は戦勝国セルビア(ユーゴスラヴィア)領内に留まることになり、これがのちのちセルビアとの紛争の種になっていく。 独立したアルバニアはしかし、大戦中に国王が逃亡したこともあり内政は各地域の豪族による勢力争いで混乱を極め、統一国家の態をなさなかった。ようやく北部出身の豪族であるアフメッド・ゾグーが権力を掌握して1925年に大統領に就任し、1928年には王制を宣言する。首都は国土の中央にあるティラナに遷された。 しかし農業や牧畜以外ろくな産業もなかったアルバニアはたちまち財政が破綻し、1932年以降は隣国イタリアからの無利子借款で辛うじて存続する状態になった。もちろんこの援助は善意によるものではなく、ベニト・ムッソリーニ率いるファシスト党が支配するイタリアは、エチオピアを侵略して国際連盟から脱退するなど露骨な対外拡張を進めており、イタリアに経済的に従属したアルバニアは1939年4月に併合されてしまう。 ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは1940年に枢軸国として第2次世界大戦に参戦する。当初のドイツの華々しい軍事的成功に焦ったムッソリーニは、1940年10月、アルバニアを拠点に中立国・ギリシャに侵攻するが、撃退されてアルバニアの三分の一を逆占領される失態を演じた。翌年4月のドイツによる電撃戦でバルカン半島全域がドイツ・イタリアの支配下になり、国境が変更されコソヴォ地方はイタリア領アルバニアに編入された。しかし1943年に連合軍のイタリア本土上陸でファシスト政権が崩壊し、ドイツがバルカン半島の占領を引き継いだ。なおアルバニアに居たユダヤ人はアルバニア人たちの助けもあってナチスの迫害を免れ(コソヴォは除く)、戦争中にユダヤ人が増加したヨーロッパで唯一の地域となった。 1944年になってドイツ軍を逐ったソヴィエト連邦(ロシア)軍がバルカン半島に迫ると、本国との分断を恐れたドイツ軍は撤退した。その空白の中、雑多な対独抵抗組織のうち共産ゲリラを率いていたエンヴェル・ホッジャ大佐が戦勝国ソ連の承認・支援を得てアルバニアに臨時政府を樹立した。こうして戦後、東欧諸国に並んでアルバニアにも共産党の一党独裁体制が誕生することになる。 ホッジャ率いる人民戦線政府が支配するアルバニアは当初、大戦中ホッジャを支援した隣国・ユーゴスラヴィアの衛星国となっていた。しかし1948年にソ連の容喙を嫌ったユーゴスラヴィアが共産主義陣営からの独立路線をとり始めると、ホッジャはユーゴと絶ってソ連に接近し、ソ連も経済援助でこれに応えた。アルバニアは1955年にソ連が西側に対抗して設立した軍事同盟であるワルシャワ条約機構にも加盟している。 ところがソ連で独裁者ヨシフ・スターリンの死後に権力を掌握したニキータ・フルシチョフがスターリン批判を展開すると(1956年)、共産主義陣営内部のもう一つの大国を自負する中国との対立が起きる(その背景には中国による核開発もあった)。フルシチョフは1959年にアルバニアを訪問してその繋ぎ止めを図ったが、東欧諸国でスターリン主義者が失脚するのを見たホッジャは、自らの保身もあって1961年にソ連と断交、中国に接近してその援助を得ることになる。ソ連圏との間にあるユーゴスラヴィアが自立状態であればこそソ連との断絶も可能だったわけだが、ユーゴともソ連とも断交したこの頃から、アルバニアは鎖国状態になっていく。 中国の指導者・毛沢東の遊撃戦理論に影響されたホッジャは、ソ連を仮想敵として国内各地に60万もの地下壕を建設して武器を全土に分散配置し、また極度な自給自足経済を志向して、鎖国の中で極めて特異な防衛・支配体制を構築した。1967年には中国の文化大革命に影響されて「無神国家」を宣言し、イスラム教のモスクやキリスト教の教会は倉庫にされた(国内の宗教対立を抑え込む狙いもあった)。1968年にソ連がチェコスロヴァキアの改革運動(プラハの春)を阻止すべく軍事介入したときも、アルバニアは中国にならってソ連を「修正主義者」と非難し、ワルシャワ条約機構から正式に脱退した。しかし1976年に毛沢東が死んで中国でも毛沢東主義の見直しが始められるや、中国の援助も停止され、アルバニアはいよいよ完全に鎖国化する。 こうしてホッジャは1985年のその死(享年78歳)まで、40年にわたる独裁体制を維持することが出来たのである。こうした大国を手玉に取る外交や特異な支配体制は、北朝鮮のそれを連想させる。 ホッジャの死後、1982年から大統領職にあったラミズ・アリアが後継指導者になった。しかし1989年、共産主義陣営の盟主・ソ連の弱体化に伴い東欧諸国では共産党政権がドミノ倒しのように倒されていった。隣国ユーゴスラヴィアでも民族主義の高まりで分裂への動揺が起きる中、鎖国状態にあったアルバニアにもこの波は避けられず、翌年の末になって複数政党制が認められ、ようやく民主化が始まった。1991年には最初の自由選挙が実施されている。 しかし特異な体制だったアルバニアにとって、自由化への改革は大混乱の幕開けであった。窮迫したアルバニアの経済難民が老朽化した船に満載されて隣国イタリアに不法入国しようとする姿が連日報じられたりしたが、その最たるものが1997年のネズミ講騒動である。詐欺まがいのネズミ講での損失(なんと国民の半分が被害を受けた)と政府の対応の遅れに憤激した民衆が、ホッジャ時代の名残りで各地に集積されていた武器を手に蜂起、アルバニアは無政府状態に陥った。イタリアやトルコなど南欧諸国がOSCE(全欧安保機構)の枠組みで治安回復のため多国籍軍を編成し派兵、ようやく騒ぎは収まった。現在は経済成長が進んでいるとはいえ、なおも良好と言い難い(一人当たりGDP2120ドル、失業率14%)。 1998年にはセルビアからの分離とアルバニアとの統合を主張するコソヴォ自治区のアルバニア人組織の活動が活発化し、セルビア軍治安部隊による弾圧が激化した。大量のアルバニア系住民が難民化してアルバニアに逃げ込み、人道介入を名目としたNATO(北大西洋条約機構)による空爆でセルビア軍がコソヴォから撤退する翌年まで続いた。今は国連管理下に置かれているコソヴォをめぐる紛争は、現在も続いている。 アルバニアは鎖国を脱し各国と外交関係を樹立したが、NATOやEUへの加盟は議論にのぼっていない(NATOへの加盟は1992年にいったん拒絶された)。歴史的・文化的背景からトルコと親しく、友好条約を締結している。
2006年05月13日
コメント(4)
以前からぽつぽつ書きためているヨーロッパ各国史、今回はルーマニア。 ブログ日記というより、ネット上に保存する自分の為のメモである。・・・・・・ ルーマニアは面積23万平方キロ(日本の本州と同規模)、人口2200万人を数える、バルカン半島では最大の国である。東は黒海に面し、南の国境は平野部を貫流するドナウ河でブルガリアと接しているが、国土の中央を北から西にかけて大きくうねるようにカルパチア山脈とトランシルヴァニア山脈が走っている。プルート川でモルドヴァ共和国と接する北東部をモルダヴィア、ドナウ側の北岸にあたる南部をワラキア、中央山脈部の北西側でハンガリーやセルビアに接する地域をトランシルヴァニアと呼ぶ。 首都ブクレシュティ(ブカレスト、人口190万人)はワラキア地方のほぼ中央にある。国民の36%が農業に従事する農業国であるが、山地の多い国土は鉱物に恵まれ(油田やガス田もある)、鉱業も重要である。国民の9割弱はルーマニア系だが、トランシルヴァニアを中心にハンガリー系(6%)やドイツ系、そしてロマ(ジプシー)も居る。 僕はドイツでの留学先でルーマニア人と知り合ったが、「バルカンの中のラテン民族」と呼ばれるだけあって、彼も精力的で陽気な人である。 「ルーマニア」(原語ではローマニア)の国名のおこりは、ローマ人の末裔という意識に基づいている。すなわち現在のルーマニア西部にあたる地域は106年に皇帝トラヤヌスによってローマ帝国の属領ダキア州とされ、多くのローマ人が入植した。現代ルーマニア語は、周辺国ではスラヴ系言語がほとんどなのに対して、ラテン系言語に属する。 ただしローマ以前のルーマニアは無人もしくは非文明地帯というわけではなく、既に紀元前4000年頃から洗練された彩文土器をもつククテニ文化が栄えるなど、むしろヨーロッパでも最古の農耕文化の伝統があった。紀元前一千年紀には黒海沿岸に海路ギリシャ人が入植し、また先住民として勇武で知られたダキア人やケルト人、そして騎馬民族のトラキア人やスキタイ人などがおり(紀元前512年にはアケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオスの遠征を退けている)、彼らが新たな支配者のローマ人と混合したことは想像に難くない。 しかし頽勢に入ったローマ帝国は271年にダキア州を放棄し、その地はゲルマン系の西ゴート族の占めるところとなる。さらにその後もルーマニアの地にはフン族(5世紀)、ゲピド族(ゲルマン系、5世紀)、スラヴ族(6世紀)、アヴァール族(6世紀)、ブルガル族(トルコ系、7世紀)、マジャル族(ハンガリー人、9世紀)、ぺチェネグ族(10世紀)、クマン族(12世紀)、モンゴル軍(1242年)、タタール族(1285年)など、東方で地続きのユーラシア・ステップ地帯から騎馬民族などが次々とやって来た。 ローマ帝国がいち早く放棄したはずのダキアに集中的にローマ系住民が残るというのは奇妙な話で、実際のところラテン系言語を話す集団はルーマニアのみならずバルカン半島の各地に点在していた。現代のルーマニア人とローマ人を連続視するのは、民族伝説としてはともかく、言語を除いて根拠に乏しい。かつて民族紛争で対立したハンガリーなどでは、現代ルーマニア人は中世に移住して来た山岳牧畜民ワラキア人の子孫にすぎないと主張されたが、民族起源の詮索は詮のないことだろう。 ルーマニアの地に地生えの国家が形成されたのは、14世紀半ばにモルダヴィアとワラキアの両地方に公国が成立したときである。これらの地域は10世紀頃にビザンツ(東ローマ)帝国からの伝道によってキリスト教(ギリシア正教)に帰依していた。一方トランシルヴァニア地方は既に13世紀にハンガリーの支配下に入っており、カトリックのハンガリー系やドイツ系住民(ハンガリー王に招聘された)が多くなっていた。 しかし同時期に小アジアで勃興した、イスラム教徒のトルコ人王朝であるオスマン帝国は、その版図を急速に拡大していた。早くも1394年にワラキア公国はオスマン帝国の属国となった。ワラキア公国ではその後の15世紀後半、「串刺し公(ツェペシュ)」(捕らえたトルコ兵を串刺しにし晒した)のあだ名で知られ吸血鬼ドラキュラ伝説のモデルとされるヴラド3世がオスマン帝国に頑強に抵抗したが、すぐれた支配・軍事組織をもつオスマン帝国には敵すべくもなかった。同様にモルダヴィア公国でもシュテファン3世がトルコやリトアニア=ポーランドを相手に独立を維持したが、彼の死後1512年にオスマン帝国の属国となった。ハンガリーがオスマン帝国に敗れたのち1541年にはトランシルヴァニア地方もオスマン帝国の一州となる。 第二次ウィーン包囲(1683年)の失敗を機に、ハンガリー王位を兼ねるオーストリアはオスマン帝国に対して反撃に転じ、1699年のカルロヴィッツ条約でトランシルヴァニアを含むハンガリー領土はオーストリアの支配下に入った。しかしワラキアとモルダヴィアの両地方は依然としてオスマン帝国の支配下に置かれた。 19世紀に入ると、オスマン帝国の支配下にあるバルカン半島の諸民族の間に民族主義が広がり始め、その勧進元はバルカンに野心をもつロシアやイギリスといったヨーロッパの列強だった。1821年、ギリシャに続いてモルダヴィアやワラキアでオスマン帝国に対する叛乱が起きる。ギリシャはロシアや英仏の支援もあって独立を達成したが、両地方のほうは失敗に終わった。しかし1853年にキリスト教徒保護を名目にロシアが始めたクリミア戦争の講和条約で、モルダヴィアとワラキアはオスマン帝国内での自治を認められ、両地方を統合したルーマニア国家の樹立が1861年に宣言された。 新国家では教会財産が国有化されて農奴の解放や法整備などが進められ、国王には1866年にドイツのホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家からカロル(カール)1世が迎えられた。1878年にオスマン・トルコが再びロシアに敗北すると、ルーマニアは正式にオスマン帝国からの独立を列強に認められ(1881年)、ドイツ式軍隊の育成や鉄道の敷設、そして当時の新しいエネルギー資源だった石油の採掘が進められた。なおこの当時トランシルヴァニアはオーストリア=ハンガリー領だった。 バルカンを巡り激化したドイツ・オーストリアとロシアの対立は、ついには1914年の第1次世界大戦勃発に至る。ルーマニアは当初中立を宣言したが、隣国オーストリア=ハンガリーとはルーマニア系住民の住むトランシルヴァニア地方の領有を巡って対立していた。連合国(英仏露)は同地方を好餌にルーマニアの参戦を促し、1916年にルーマニアは連合国に加わった。ところが劣弱なルーマニア軍は独墺及びブルガリア同盟軍に圧倒され年末までにほとんど全土を占領されてしまい、さらに革命でロシアが連合国から脱落したのちの1918年5月に降伏同然の講和条約を締結した。 しかし幸運なことに、その半年後に今度はドイツ・オーストリアが連合国に降伏同然の停戦に応じた。軍事的に完敗しながら勝者の列に加わったルーマニアは、戦後の講和条約で「民族自決」の原則をたてに、ハンガリーからトランシルヴァニア地方を、ロシア(ソヴィエト連邦)からベッサラビア地方を得た。ルーマニアは居ながらにして従来の倍の領土(「大ルーマニア」)を手にし、またハンガリーでの共産革命や王政復古の動きに介入した。 内政では自由選挙などが導入されたが、農地改革の頓挫によって国民の大多数を占める農民の不満は収まらず、また国民の四分の一を占める少数民族(ハンガリー、ドイツ、ユダヤ、ウクライナ系など)の扱いにも苦慮した。政治の混迷の中、ファシズム政党の鉄衛団が組織され(劇作家イヨネスコや宗教学者エリアーデも、若い頃はその支持者だったという)、1938年には憲法が停止され国王カロル2世の独裁体制となる。 ナチス・ドイツの台頭と侵略によって第2次世界大戦が始まると(1939年)、ルーマニアは隣国・ソ連の圧力をかわすためにドイツに接近した。一方ドイツにとって、戦争を遂行する上でルーマニアのプロエシュティ油田はかけがえの無い資源だった。だがドイツはバルカンでの勢力均衡のため1940年8月に安全保障を条件にルーマニアを強要し、独ソ不可侵条約を結んでいるソ連にベッサラビアを、またハンガリーにトランシルヴァニアを割譲させた。カロル2世は退位に追い込まれるが、ルーマニアはドイツに頼るよりなかった。 翌年始まる独ソ戦にルーマニアはドイツの同盟国として参戦しオデッサなどを得たが、スターリングラードで包囲殲滅されて以降戦況は不利となった。1944年8月、ついにソ連軍はルーマニアとの国境に迫る。慌てたルーマニアでは親独派が逮捕され駐留ドイツ軍に撤兵を要求するが、ドイツは空襲でこれに答え、ルーマニアはドイツに宣戦布告しソ連と停戦した。翌年第2次世界大戦は終わったが、ルーマニアを含む東欧諸国は戦勝国ソ連の圧倒的影響下に入り、その支援する共産党が政権を握ることになる。ルーマニアはソ連へのベッサラビア(現在のモルドヴァ共和国)割譲を認め、賠償金を支払った。 戦後すぐの選挙では共産党主導の政党連合が圧勝し、選挙操作を疑う野党は弾圧された。1947年には国王ミハイが退位して人民共和国となり、翌年ゲオルゲ・ゲオルゲウ・ヂェイを書記長(のち首相、国家主席に就任)とする社会主義統一党が結成され、農業の集団化、産業の国有化、計画経済が行われた。しかし社会主義陣営内でスターリン批判(1956年)をきっかけにソ連と中国が対立すると、ルーマニアは中立の立場をとってソ連と距離を置き(この動きは北朝鮮と好一対である)、独自路線を推し進めることになる。この立場を可能にしたのは、同国のもつ石油資源の強みだったという。ルーマニアは西側、特にフランスに接近して外資を導入した。 1965年、ゲオルゲウ・ヂェイの死により党書記長に就任したニコラエ・チャウシェスクもこの路線を引き継いだ。1967年に国家評議会議長に就任した彼は翌年の「プラハの春」(チェコスロヴァキアでの改革運動)に対するソ連の軍事介入を非難する。この姿勢は西側諸国に好感をもたせ、1969年にはアメリカのニクソン大統領がルーマニアを訪問している。1974年には憲法改正で大統領に就任し、権力基盤を強固なものとした。 しかしその政治はやがて強圧的なものとなり、信教の自由が制限されて教会が破壊され、秘密警察による監視が行われるようになった。国内では物資が不足しているにも関わらず外貨獲得の為に輸出が奨励され、彼自身は「国民の館」と称する自分の宮殿の建設に莫大な費用を投じた。こうした事態は隠匿され、東側諸国のほとんどがボイコットした1984年のロサンゼルス五輪にも参加したルーマニアは、なお西側諸国に最も近かった。 東西冷戦でソ連が敗れたのが明白になった1989年、ソ連の影響下にあった東欧各国でドミノ倒しのように共産党政権が倒された。その波はやや遅れてルーマニアにも及び、かつての女子体操のスター、ナディア・コマネチが11月に亡命したのはその予兆ともいえた。12月には西部チミショアラでハンガリー系牧師に対する弾圧をきっかけにデモが発生、やがて首都ブカレストに飛び火し軍の一部が参加した騒乱となった。演説のため登壇したチャウシェスクに対し御用動員されたはずの群集が罵声を浴びせ、事態の急を悟った彼は国外に脱出しようとしたが捕らえられ、即決裁判によってエレナ夫人と共に銃殺された。一連の東欧変革の中で最初の流血となった。 翌年行われた自由選挙では国民救国戦線のイオン・イリエスクが大統領に選出された(断続的に2005年まで在任)。しかしそのイリエスクが元共産党幹部だったことが端的に示すように、自由経済への改革は遅々として進まなかった。外交では隣国との和解が進められたが、国内にはなおモルドヴァとの統合を目指し大ルーマニア実現を主張する勢力も存在する。 2004年にはNATOに加盟し、またEUへの2007年加盟が目指されているが、汚職や経済改革の遅れ(一人あたりGDPは2900ドルとヨーロッパで最低レベル)を指摘する厳しい意見もある。最近は基地供与などでアメリカにも接近している。
2006年05月12日
コメント(6)
久しぶりに二日連続の日記。といってもニュースの切り貼りだけだが。今日はロシア関連のニュース。(引用開始)<ガスプロム>独シュレーダー前政権、巨額債務保証を確約 【ベルリン斎藤義彦】北欧州天然ガス・パイプライン事業を担当するロシア政府系天然ガス企業「ガスプロム」に対して、ドイツのシュレーダー前政権が異例の巨額債務保証を確約していたことが発覚、独連邦議会が調査を始めた。前首相が3月末、パイプラインを建設する合弁会社の監査役に就任したことから、多額の報酬の見返りに前首相が「天下り先」に債務保証の便宜をはかったとの疑いも浮上している。 前政権は昨年10月、ドイツの銀行から融資を受けるガスプロムに対し、10億ユーロ(約1440億円)にのぼる債務保証を決めた。パイプライン建設計画はガスプロムとドイツの電力会社など3社の合同事業。形式的には民間事業だが、前首相の肝いりで始まった経緯から巨額債務保証が決まったとみられる。 一方、前首相は3月30日、パイプライン建設の合弁会社の監査役会会長に就任し、年25万ユーロ(約3600万円)の報酬を受け取る身となった。野党側は「首相の地位を悪用した」と非難し、市民団体からは「汚職」批判が出ている。 これに対して前首相は、「債務保証の決定には関与していない」と反論し、監査役への就任も「プーチン露大統領に頼まれただけだ」と疑惑を全面否定している。前首相は問題の合弁会社以外にも出版社の顧問に就任するなど、政界引退後、ビジネスへの執着ぶりが国内で話題になっている。 ガス・パイプラインは昨年12月着工。海底約1200キロを結び、年最大550億立方メートルの天然ガスを供給する。総工費57億ドル(約6300億円)で10年完成が目標。(毎日新聞) - 4月12日20時38分更新(引用終了) 日本の政治家は老害というか、ずるずると長く政治家を続けるイメージがあるが(まあ宮沢・中曽根大勲位のように小泉首相に停年を言い渡された例もあるが)、ドイツの政治家は結構引退が早いように思う。 そういや昨日SPD(社民党)のマティアス・プラチェック党首が健康上の理由(まだ52歳だが)で突如党首退任を発表したが(しかも後任は59歳のクルト・べック)、2009年の総選挙にはちゃっかり出ると表明して連立相手のCDU(キリスト教民主同盟)と摩擦の種になっている。 「早い引退」といってもちゃんと老後の備えはちゃんとしておくものなんだ、と昨年首相を退任したシュレーダー首相を見ていて思ったものだが、これはいけませんな。 このパイプラインは独露の間にあるポーランドやバルト三国の反対を押し切って建設が決まったもので、新しい独露枢軸の象徴ともいえるプロジェクトである。 次はロシアの周りの旧ソ連のうち「親露国」と「反露国」のニュース、まとめて三つ。(引用開始)親欧米国と“ワイン紛争” ロがグルジア産など禁輸 【モスクワ12日共同】ロシア政府はこのほど、親欧米路線を掲げる旧ソ連構成国のグルジアとモルドバ産のワインに有害物質が含まれているとして、両国からのワイン輸入を全面的に禁止した。両国は「他の輸出先では何の問題も起きていない。親欧米路線に対する報復だ」と反発。今年初めのロシア産天然ガス価格の値上げに続き、新たな摩擦が生じている。 “ワイン紛争”は、ロシア消費者保護局が3月末の検査で、両国産ワインの約半数から重金属や農薬などが検出されたと発表したのが発端。その後、両国の総ワイン輸出の70-85%を占めるロシア向け輸出が全面的にストップ。フランス産などに比べ廉価で人気があり、ロシア国内で販売されるワインの44%を占める両国産ワインは店頭から消えた。(共同通信) - 4月12日18時35分更新(引用終了) ガスの次はワインか....。ロシアはやりかたが即物的ですな。まあかつて「唯物史観」を信奉していた名残りか。「グルジアのワイン」と言うのはドイツで売っているのは見た事がないが、実際にグルジア人に聞いたところでは、田舎では各家庭でワインを醸造する程、ワイン作りが盛んな国なのだそうだ。 ドイツではトルコ、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、チリ、アルゼンチン、ポルトガル、ブルガリア、南アフリカ、アメリカなど様々な国のワインがスーパーで普通に売っている。変わったところだと1999年に民族紛争の舞台になったコソヴォのワインだろうか。あそこは今は実質EUの支配下にあるので(通貨もユーロ)、利点もあるのだろう。 次は対照的な二国の選挙結果のニュース。(引用開始)<ウクライナ>親欧米派3党が議会過半数確定 最高会議選 ウクライナ中央選管は10日、先月実施した最高会議選挙の最終集計を発表し、親欧米派3党が議会過半数を制したことが明らかになった。連立合意した3党からはティモシェンコ前首相の首相復帰が確実視されている。親ロシア派ヤヌコビッチ元首相が率いるウクライナ地域党は議席数で第1党になったが、野党にとどまる。(毎日新聞) - 4月11日14時4分更新<ベラルーシ>大統領3期目の就任式 ミンスクの共和国宮殿 【モスクワ杉尾直哉】ベラルーシ大統領選挙(3月19日実施)で当選したルカシェンコ大統領の3期目の就任式が8日、首都ミンスクの共和国宮殿で行われた。欧米諸国はルカシェンコ体制を「非民主的な抑圧体制」と批判しているが、大統領は就任演説で「我々はこれまで通りの独自の道を行く」と述べた。 就任式にはロシアなど一部の国を除き外国要人の招待客はなく、国際的な孤立感を印象付けた。一方、再選挙を求める野党最有力候補ミリンケビッチ氏は、チェルノブイリ原発事故20年に当たる今月26日に大規模な反政府集会を計画。引き続き混乱が予想されている。 今選挙について、欧米諸国は「独裁体制による不正選挙」と非難。欧州連合(EU)と米国は、ルカシェンコ氏を含むベラルーシ高官らに対し渡航制限などの制裁を行う姿勢を表明している。(毎日新聞) - 4月10日12時27分更新(引用終了) これにはとくにコメントはない。 ベラルーシとウクライナ、共にソ連時代にも国連で独自の議席を持っていた(つまりソ連は一国で三票持っていたことになる)。どちらも1991年の独立後も親露国だったのだが、ウクライナは2004年末の政変でグルジアと並んで親欧米路線に転じ、ロシアからいろいろと嫌がらせを受けている。 ちなみに「ベラルーシ」は「白いルーシ」、ウクライナは別名「小ロシア」だが、名前からしてロシアと近いと窺わせる。なぜ「白」かというと、「白」は西を指す言葉なのだそうだ(ウィキペディアで見た)。つまりは白虎=西、青龍=東・・・という中国のあれと共通しているのだろうか。「白=秋、西、虎」、「赤=夏、南、雀」、「青=春、東、龍」、「黒=冬、北、玄武(亀)」というあれである。そういやトルコの北には黒海、西にはアクデニズ(白海=地中海)、南には紅海がある。 「小ロシア」のほうは「狭い意味でのロシア」という意味だと思う。ロシアの本家本元はウクライナの方で、ロシアは巨大ではあっても元祖ではない。トルコの事を「小アジア」(本来「アジア」と言う言葉が指しているのは今のトルコあたりのみに限られていた)というのと同じ意味なのだと思う。 日本のニュースには出ていなかったが、ウクライナのティモシェンコ元首相をモデルにしたポルノ映画を製作したロシアの極右政治家アレクセイ・ミトロファノフ氏が、今日になって遺憾の意を議会で表明したそうだ。同じ党のジリノフスキー党首らに批判された事を受けての謝罪で、今後ウクライナのテレビに出演して元首相に遺憾の意を表明するとのこと。 この映画は昨年8月に製作されインターネット上に配信されていた、30分程度のその名もずばり「ユリア」というタイトルの作品で、ティモシェンコ元首相を連想させる髪型の女性とグルジアのサアカシヴィリ大統領を思わせる毛深い男性がモスクワで首脳会談するうちに恋に落ち、サウナやらヘリコプターの中やらで行為に及ぶ、という内容だった。ティモシェンコ元首相もサアカシヴィリ大統領も共に、ロシアにとってはウクライナとグルジアを離反させた憎むべき人物である。 ティモシェンコ元首相の美貌があればこそ、こういう映画を作ろうという発想も出てくるんだろうが(写真で主演女優を見たが、髪型以外はティモシェンコ元首相にあまり似ていなかった)、やっぱりロシアは即物的だ(?)。
2006年04月12日
コメント(10)
今どきなんだが、ムハンマド風刺画騒動の起点となったデンマークの歴史について以前書いていた一文をアップ。 ・・・・・・ デンマーク王国は、面積4万平方キロ(九州と同規模。ただしフェロー諸島及びグリーンランドを除く)、人口540万人の北欧の一国である。その国土はスカンディナヴィア半島に相対して突き出して北海とバルト海を隔すユラン(ユトランド)半島と100以上の大小の島々からなり、最高地点でも173mときわめて平坦である。1416年以来の首都ケベンハウン(コペンハーゲン)はシェラン島の東岸にあり、その対岸はスウェーデンになる。デンマークには一度行ったことがあり、海沿いに林立する風力発電の巨大な風車が印象に残っているが、この国は環境保護意識が強い。 日本では「人魚姫」に代表されるハンス・クリスティアン・アンナセン(「アンデルセン」はドイツ語読み)の童話、ロイヤル・コペンハーゲン(磁器)やダンスク(家具)といった工芸品、世界中で愛される玩具「レゴ」、「ドグマ95」に代表されるハリウッドとは対照的な作風の映画など、裕福そして平穏な小国というイメージがある。実際に一人あたりGDPは2万9千ドルと高い。 しかしその辿った歴史は、こんにちのイメージに反して平和な小国のそれではなかった。 氷河期の影響で土地の痩せたデンマークでは狩猟採集生活の旧石器・中石器時代が長く続き、エルテベレ貝塚などの遺跡がある。紀元前4000年頃、南方から農耕が伝わって新石器時代が始まり、巨石墓が建設された。紀元前2000年頃に始まる青銅器時代には、デンマークはヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア半島間の交易の掛け橋となり、北方からは琥珀や銅が、南方からは錫や地中海文明の文物が取引された。紀元前600年頃、やはり南方からの影響で鉄器時代が始まる。なおこうした石器・青銅器・鉄器という道具素材の発達によって先史時代を区分する考古学研究法は、デンマークでの出土遺物を元にデンマーク人学者クリスティアン・トムセンにより確立された(1836年)。 この頃のデンマークの住民は原ゲルマン人であると考えられている。彼らには泥炭湿地に供物として戦利品や人間を沈める習慣があったようで、そうした遺物が多く見つかっている。彼らが歴史に登場するのは紀元前113年、ユラン半島に住むキンブリ族とテウトニ族が新天地を求め南方に大挙移動したときからである。彼らは長駆ガリア(フランス)をさまよった末ローマ軍に撃破された。ローマ帝国が衰退した5世紀には、ユラン半島からユート族やアンゲル族といったゲルマン系諸族がイギリスに渡った。前近代は土地の痩せたデンマークでは農業生産が不安定であり、こうした移動の波は青銅器時代以来たびたび起きている。 デンマークに住む人々が再び歴史の表舞台に登場するのは8世紀末、デーン人の船団による北海沿岸襲撃からで、フランク王国のカール大帝を苦慮させた。なお「デンマーク」という国名はカール大帝がデーン人との境界にマルク(辺境伯領)を置いたことによるいわば他称に由来している。ドイツとの間にはその後も緊張が続き、デーン人によってダネヴィアケと呼ばれる土の長城が建設されている。 さらに9世紀になるとデーン人は外海に乗り出し、同族のノルウェー系やスウェーデン系と併せてノルマン人もしくはヴァイキングと通称される。最初は河川を遡行しての略奪に留まっていたが、838年にはイングランドに襲来、866年にはその北東部を支配下に収め、その地域はデーンローと呼ばれ、その支配は一世紀以上続く。デンマーク系ヴァイキングは844年にはポルトガル、859年には南仏、862年にはイタリアにも姿を現わした。896年にはフランス北部に定住し、フランス王からノルマンディ公の地位を与えられている。ヴァイキングは海賊・戦士というに留まらず、海の交易商人でもあり、ハイタブ(へゼビュー)などの交易都市が繁栄した。 イェリングに残るルーン文字碑文によれば、部族の寄せ集めだったデンマーク本国では、940年頃にゴーム老王がユラン半島を根拠地に統一国家としての体裁を整えたという(現存する欧州最古の王家)。この碑文を残した息子のハーラル青歯王は960年頃に洗礼を受けてキリスト教徒となった。ハーラルの孫クヌーズ大王はデーン人の遠征先イングランドで王に推戴され、1019年には弟の死によってデンマーク王を兼ねた。さらに1028年にはノルウェーをも征服、北海を囲む大国を作り上げた。彼の治世下、イングランドからの宣教活動でデンマークにキリスト教が広まった。 その後一世紀ほど王位を巡る内紛で衰退し海外領を失ったが、ヴァルデマー1世のときに再統一、ポメラニア(ドイツ)などバルト海沿岸を征服する。さらにヴァルデマー2世勝利王のとき、ノルウェーやエストニア、ラトヴィアを征服し再び大国となるが、1227年にのちにハンザ同盟の盟主となるリューベック市や北ドイツ諸侯の連合軍に敗れ、バルト海の制海権をドイツ人に奪われた。国内では1282年に貴族によって大憲章を認めさせられ、王の権力が制限された。その後も王位をめぐる貴族の争いは続いた。 ペストの流行(1350年)で貴族の多くが死んだことを奇禍として、ヴァルデマー4世復興王は王権を中興した。その後継者にはヴァルデマーの娘マルグレーテ(ノルウェー王妃)の息子が選出されノルウェー王も兼ねたが1387年に夭折、マルグレーテが両王位を継いだ。マルグレーテは隣国スウェーデンの反対派に要請されてその王を撃破、1397年にカルマル同盟を結成してスカンディナヴィア三国の王位を兼ね、デンマークは三たび北欧の大国にのし上がる。 シェイクスピアの悲劇「ハムレット」の舞台とされるクロンボー城は、海峡を通る交易船から通行税を徴集するためにこの頃に築かれた城である。 しかしスウェーデン国内には反デンマーク派貴族も多く、叛乱が相次ぎ治まらなかった。デンマークの弾圧に対してスウェーデンでは叛乱が起き、ついに1523年にカルマル同盟を離脱した。おりしもドイツでルターが宗教改革を始めた時期で、1527年にはデンマークにも及び、王位継承も絡んで混乱する。旧教側のトロンハイム司教によるノルウェー王擁立工作もあって1536年にデンマークとノルウェーは新教国となり、教会財産は没収された。 ハンザ同盟の衰退後、バルト海の覇権をめぐりデンマーク、スウェーデン、ポーランドの三国は争う(1563年からの北方七年戦争など)。1625年、デンマーク王クリスティアン4世はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公としてドイツ三十年戦争(1618~48年)に新教側で参戦、しかし旧教軍に敗れて1629年に敗北同様の講和をする。翌年それに代わって新教側で参戦し勇名を馳せたのがスウェーデン王グスタフ2世アドルフだったが、スウェーデンが興隆するのに対し、デンマークは衰退を始める。 1643年に両国は開戦したが、スウェーデンの近代軍隊に敗退しポメラニアを割譲、さらにポーランドと組んでスウェーデンに挑戦するが逆襲され、1658年のロスキレ条約でスカンディナヴィア半島南端部の領土を失った。1660年にフレデリク6世は貴族の権力を制限し絶対王制の樹立に成功するが国威は傾く一方で、1700年に始まる北方戦争ではロシアやポーランドと組んでスウェーデンに再度挑戦するも為すところ無く、結局ロシアのバルト海での覇権樹立を助けただけだった。 フランス革命(1789年)後の混乱で登場したフランス皇帝ナポレオンは、ヨーロッパ全土を戦乱に巻き込んだ。デンマークは当初中立を維持したがイギリス海軍の攻撃を受け、フランスとの同盟を余儀なくされる。しかしナポレオンは敗れ、敗戦国デンマークは1814年のキール条約により、400年続いたノルウェーの支配権をスウェーデンに譲らされた(ノルウェーに付属していたフェロー諸島、アイスランドやグリーンランドはデンマーク領に残る)。デンマークは小国に転落したのである。 うち続く戦争や敗北で国家財政は破綻し、気候の寒冷化による農業の不振もあってデンマークは苦境に陥った。1830年には自由派が政権を握り殖産興業に勤め、また1844年にはニコライ・グルントヴィによる国民社会教育運動が始まり、教育立国を目指した(アンデルセンや実存主義哲学の祖セーレン・キェルケゴールもこの時代の人)。1848年、フランス2月革命をきっかけにヨーロッパ各地に革命が飛び火するが、デンマークは翌年憲法を発布して選挙権や職業選択の自由を認め、立憲君主国となった。 民族主義運動でもあったこの革命に際し、デンマーク支配下にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国ではドイツ系住民が統一ドイツ国家への参加を求め不穏になりプロイセン(ドイツ)との戦争になるが、ドイツ側の混乱やロシア・イギリスの仲介もあり現状維持が定められた。しかし1863年、憲法改正で同地をデンマーク領に正式編入するや再びドイツ側が反発、翌年にプロイセン・オーストリア連合軍の攻撃を受けることになった。圧倒的な敵軍に対しデンマーク軍は勇戦したが、デュッペル堡塁が玉砕して敗北、同地をドイツ側に割譲させられた。 この敗戦で肥沃な同地方を失ったが、エンリコ・ダルガスらによるユラン半島での植林運動は農業を振興し(コーンビーフやチーズ、そしてビールは今もデンマークの主要輸出品である)、デンマークはヨーロッパでもっともリベラルで安定した農業国となった。19世紀の100年間でデンマークの人口は90万から250万とほぼ三倍増している。議会(フォルケシング)では農民党や自由派が優勢であり、農地改革が推進された。また1903年にはアイスランドに自治権を付与、1915年には社会民主党の躍進の中、普通選挙が導入された。 1914年に始まる第一次世界大戦ではデンマークは中立を維持したが、ドイツ海軍潜水艦の通商破壊戦で保有商船の2割を失った。1920年、敗北したドイツ領内のシュレスヴィヒ州北部(デンマーク系住民が多い)で国際連盟による住民投票が行われ、75%がデンマークへの帰属に賛成、デンマーク・ドイツ国境は南に移動した。 1931年にはグリーンランドの帰属を巡ってノルウェーと紛争になったが、ハーグ国際法廷の裁定によりデンマーク領とされた。国内では1920年に成立した社会民主党のトールワルド・シュタウニング内閣が22年に及ぶ長期政権を維持し安定しており、1930年代からは世界に先駆ける様々な福祉制度が導入された。 1939年、第二次世界大戦の勃発を前にナチス・ドイツは北欧諸国に不可侵条約締結を提案し、デンマークのみが応じた。しかし翌年4月9日、ノルウェー占領を企図したドイツはこの条約を無視して中立国デンマークに侵攻、デンマークはほとんど無抵抗で即日降伏した。ドイツ軍占領下でデンマーク政府や国王は亡命せずに統治を続け「模範占領国」と呼ばれたが、抵抗運動が激しくなるやドイツは軍政を始めた(1943年)。デンマーク国民はナチスのユダヤ人迫害に対抗してこれを匿っている。1945年、ドイツの無条件降伏によってデンマークは解放された。なおこの間、米英軍の占領下にあったアイスランドが1944年に独立している。 第二次世界大戦を教訓に、デンマークは集団安全保障体制である北大西洋条約機構(NATO)に加盟、また1952年に北欧諸国と北欧会議を結成している。しかし独自の平和政策追求(ノルディック・バランス)でアメリカなどとの軋轢もあった。1959年にイギリスが主導するヨーロッパ自由貿易協定(EFTA)に加盟したが、1973年にイギリスと共にヨーロッパ共同体(EC。のちEUに改編)に合流した。この間1948年にフェロー諸島、1979年にグリーンランドに自治権を付与している。 常に左派が政権を担ってきたデンマークだったが、1982年におよそ90年ぶりの保守政権となるポール・シュリューター内閣が成立した。ヨーロッパ統合拡大に対しても、国民投票で1992年にマーストリヒト条約批准を(翌年修正条約を批准)、2000年に統一通貨ユーロの導入を拒否するなど、保守的・独自主権維持的な色合いを強めており、2001年には移民受け入れ制限を唱えるアナース・フォー・ラスムセン率いる中道右派政権が成立した。経済はEUの農業保護政策により安定している。
2006年03月27日
コメント(6)
いやあ野球の日本代表はメキシコのおかげで首の皮一枚で勝ち残り、しかも今日の準決勝では韓国に雪辱を果たしてしまったじゃないか。まあなんというか素直に嬉しいですね。 決勝の相手はプロ選手の居ないキューバだそうだが、まあ何はともあれ頑張ってください。・・・・・ もう先週のニュースだが、元ユーゴスラヴィア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチ氏が戦犯法廷のあるハーグの獄中で急死した。 葬儀と彼についての詳しい記事を見つけたので、手抜きながら転載させてもらう。(引用開始)<ミロシェビッチ氏>故郷で追悼集会 50カ国の代表が参列 【ポジャレバツ(セルビア中部)会川晴之】スロボダン・ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領の追悼集会が18日午後(日本時間19日未明)、元大統領の生まれ故郷ポジャレバツで開かれた。セルビア社会党によると、元大統領と交流があったロシア共産党幹部や外交官など約50カ国から参列、支持者も数万人が集まった。その後、葬儀が行われるがタディッチ・セルビア大統領など政府関係者はすべての式典への出席を見送る。 故郷での追悼集会に先立ち、同日昼から首都ベオグラードの連邦議会前でお別れの会が開かれた。会場にはセルビア全土から中高年齢層を中心に熱烈な支持者数万人が集まり別れを惜しんだ。 元大統領が率いたセルビア社会党や極右民族主義政党のセルビア急進党は、10年間に及び大統領を務めた実績をたたえるために「国葬を実施すべきだ」と要求した。しかし元大統領が戦犯として公判中だったことなどを考慮して親西欧派の現政権は要求を拒否した。 お別れの会の後、遺体はベオグラードから車で約1時間のポジャレバツに移送された。追悼集会の後、社会党の関係者などによる葬儀が執り行われる。ひつぎは元大統領とミリヤナ夫人が「ファーストキス」をした菩提樹(ぼだいじゅ)の根元に埋葬される。 地元各社の報道によると、セルビア当局から職権乱用などで訴追され、モスクワに在住しているミリヤナ夫人など親族は葬儀に出席しなかった。司法当局は保証金や裁判所に出向くことなどを条件に同夫人の拘束を見送る判断を下したが、親族側は帰国を見送ったとみられる。 元大統領は旧ユーゴ紛争の責任者として、オランダ・ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷で人道に関する罪などに問われていた。結審を待たず11日に死去したため、20万人以上の死者を出した旧ユーゴ紛争の戦争責任は未確定なままに終わった。 ◇鋭い政治感覚…民族主義路線に ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領の生涯は、「民族の十字路」と呼ばれるバルカン地域での権力者の盛衰を象徴していた。その軌跡は、多民族共存の理想から民族自決権への傾斜に揺れ動いた旧ユーゴ連邦の歴史と重なる。 64年の生涯を閉じたミロシェビッチ氏は暗い幼少時代を過ごした。神学校教師の父と母は相次いで自殺した。だが、セルビア中部ポジャレバツで暮らした時の級友で、エリートの家系のミリヤナ夫人との出会いが、その後、出世コースを歩むきっかけになる。 第二次大戦後の旧ユーゴ連邦を率いたチトーは、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人など多民族の融和を重視。チトー時代には6共和国2自治州の分権化を進める法改正が行われたが、ベオグラード大学法学部学生だったミロシェビッチ氏は寮友に「これは正しくない」と語った。権力集中の意義を重視する気質は当時からあった。 大学卒業後、ベオグラード銀行勤務を経て、一党独裁の共産主義者同盟の幹部として昇進した。同氏は筋金入りの民族主義者とは言えない。チトー死去後の80年代後半、アルバニア系住民の多いコソボ自治州でセルビア人擁護の発言が共感を得たことを察知し、民族主義路線に転じた。鋭い政治感覚によるものだ。 セルビア共和国の指導者になったミロシェビッチ氏は89年、同共和国内のコソボ自治州の権限を縮小する憲法改正を行った。さらに旧ユーゴ連邦内でのセルビアの主導権拡大を画策した。その反動が91年以降の連邦解体につながり、今、モンテネグロとコソボも独立に向かっている。 90年代の民族紛争の流血の責任を問われ、旧ユーゴ国際戦犯法廷に拘置された同氏は、「セルビアは誰にも屈しない」と繰り返し言った。しかし、彼の弔いの場に民族主義が陥りがちな虚飾の影をセルビア人は見たのではないか。【町田幸彦】(毎日新聞) - 3月19日1時24分更新(引用終了) セルビア(旧ユーゴスラヴィア)には知り合いもいるし、実際何度か行ったことがあるので一方ならぬ興味はある。行ったといってもベオグラードとその付近をうろうろした程度だが。 ポジャレヴァツでの埋葬には、オーストリアの作家ペーター・ハントケが参列してセルビア語で弔辞を述べ、ドイツの保守系メディア(シュピーゲルなど)はそれを批判的に報じた。 ハントケは凄惨なボスニア内戦が終わったばかりの1996年2月、「南ドイツ新聞」に「ドナウ・サヴェ・モラヴァ・ドリナ川への冬の旅あるいはセルビアの正義」と題する一文を載せ、旅先のセルビア人たちと接した経験を紹介して、「民族」を越えた「ユーゴスラヴィア」という連邦国家への懐古を示すと共に、当時セルビア人を一方的に悪者と見るヨーロッパ(特にドイツ語圏)のメディアの見方を排してセルビアを擁護し、さらにはミロシェヴィッチ擁護ととれる意見を開陳した。これに対してドイツの保守系メディア、さらには人道主義や正義を掲げる左派からも激しく反発された。 ハントケは2004年にはオランダの獄中にあるミロシェヴィッチに面会しており、またこの葬儀に参列するなど、最後までミロシェヴィッチ擁護の姿勢を曲げなかった。これについて「シュピーゲル」は「死ぬまでミロシヴィッチに忠実だった」と批判するように報じている。同じようにミロシェヴィッチを「ヨーロッパの独善の犠牲者」とみなす擁護派の代表的な人物として、昨年のノーベル文学賞を受賞したイギリスの劇作家ハロルド・ピンターがいる。 1990年代当時、ボスニアでの「民族浄化」などが報じられたこともあってセルビア人はヨーロッパで完全に悪者扱いであり、さらにその指導者(厳密にはセルビア共和国の大統領であってボスニアのセルビア人勢力とは公式には関係ないのだが)であるミロシェヴィッチは激しく非難された。そのような時に必ず常套句として使われるのがナチスやヒトラーとの比較であり、ミロシェヴィッチは「バルカンのヒトラー」に擬せられたこともある。 この見方はドイツが戦後始めて戦争に参加した1999年のコソヴォ紛争の際も繰り返され、ユルゲン・ハーバーマスなどの反戦リベラルと目された哲学者たちも、そして大部分のドイツ世論も、「少数派であるアルバニア人(コソヴォでは多数派だが)への弾圧を続けるミロシェヴィッチの暴虐を止めさせるため」のドイツによるコソヴォ戦争参戦を肯定した。もっとも、このコソヴォ戦争と同じく国連の決議を経ずに開始されたという点(=正当性への疑問)で共通する、のちにアメリカが引き起こした「中東のヒトラー」(しかし陳腐な比喩ではある)であるイラクのサダム・フセインに対する戦い(2003年)の時は、ハーバーマスやドイツ世論は激しく反対するのだが。 しかしミロシェヴィッチが強権的だったというのは認めるにしても、良くも悪くもヒトラー程の「意志の人」ではなくただのオポチュニストであり(1989年6月28日のコソヴォでの演説もその権力掌握のためのものであって、民族主義が彼の信念というわけでもなかったようだ)、強権的という点ではドイツが肩をもっていたクロアチアのフラニヨ・トゥジマン大統領も変わりはなかった。ボスニアのセルビア人武装勢力が同国で引き起こしたムスリムやクロアチア人に対する強制収容所への投獄、虐殺、強姦などは、かつてナチスが行なったユダヤ人などに対するそれを連想させて、陸続きのヨーロッパ人を震撼させたが、その敵であるクロアチア側が全く品行方正だったかというととてもそうではなかった(国連の停戦監視ラインを突破しての攻撃など)。その点でハントケの主張に一理はあるにしても、その主張を受け入れる人は今も少ない。・・・・・・ ドイツは今も徴兵制なので(現在は19歳からの9ケ月)、学生の中にもかつて兵役に従事した人が時々いるのだが(進学者の多くは良心的兵役忌避をするので、学生には割合として多くない)、昨年聞いた話を紹介しておく。事実関係は確認していないので、彼の語ったままに書く。 彼は1998年頃に兵役に従事していた。体格がいいので降下猟兵(パラシュート兵)としての訓練を受けた。そしてNATO軍の一員として彼はセルビア北部に送られたのだという。そこで彼らドイツ兵はセルビア軍の攻撃を受けたという。時には銃剣などを使っての白兵戦にもなった、と彼は言った。銃剣で受けた傷口は縫合が難しく厄介なのだそうだ。 そのとき僕と一緒に聞いていた学生が聞いた。お前は人を殺した事があるのか?と。彼は「俺が撃った弾で死んだ人はたぶん居ただろう」と答えた。こうして双方に多数の死傷者が出たと言う。 彼は兵役を終えた後に職人の徒弟になったが、転じて大学に入った。大学でセルビアからの留学生に出会ったが、彼はかつてセルビア軍の兵士だった。「俺たちはかつては敵として向き合ったんだ」とおどけて言った。彼は今はドイツ連邦軍の海外派兵には反対であり、自分の従軍体験はろくでもないものだった、と言う。 僕はドイツ連邦軍で国外に派遣されるのは職業軍人だけだと思っていたので意外だったのだが、他にも兵役の時にソマリアに行ったという学生も居るようなのであったのかもしれない。 また1998年にNATOがセルビア領内に派兵したという話は聞いた事がないし、翌年のコソヴォ紛争でも地上軍が派遣されたという話は聞いていない。もしかしてボスニアでの平和維持軍と混同しているんじゃないか?と思いその辺りを質したのだが、年は1998年で(翌1999年にはもう彼は学生になっていた)、場所はコソヴォでもボスニアでもなかったという。ボスニアなら「敵」はセルビア人民兵だが、セルビア領内だったとしたら相手はセルビアの正規軍である。 また多くの戦死者が出たと言っていたが、もし彼の言うようにドイツ軍が多くの戦死者を出していたのならメディアが大騒ぎするはずなのでその辺も聞いてみたのだが、「報道されるわけがない」という答えだった。何やらそういうNATOの秘密作戦でもあったのだろうか??ネット上で関連記事を探してみたのだが全然見当たらないので疑わしい証言ともいえるのだが、話を聞いていた時に酔っ払っていたとはいえ、彼が嘘をついているとも思えない。ブログにこの話を書いていいかと聞くと、いいけど俺の名前は出さないでくれ、また他の学生にも言わないで、と言われた。 あまり腑に落ちない話だが、セルビア関連の備忘として書いておく。
2006年03月19日
コメント(7)
えと既にタビウサギさんからバトンを貰ってるんですが、手結川中マロさんからも貰ってしまった。どっちも面白いバトンなので是非答えたいのだが、もう暫くお時間をいただきたいです。・・・・・ トリノ冬季五輪、終わっちゃいましたねえ。競技はほとんど見て無かったんだが、やっぱり荒川静香の金メダルは大したものだと思う。 結局日本のメダルはこれ一個だったのに対して、ドイツはバイアスロンなどで荒稼ぎして11個の金メダルでメダル獲得競争の首位になった。得意競技が集中してるのってなんか可愛気無いなあ(笑)。そういや韓国と中国も大躍進だそうですね(一方ノルウェーは後退とか)。 その関連で次のニュース。(引用開始)荒川の金で「救われた思い」=選手団のスリム化に着手も-遅塚団長〔五輪〕 【トリノ26日時事】トリノ五輪日本選手団の遅塚研一団長(日本オリンピック委員会=JOC=常務理事)は26日、当地で総括の記者会見を行い、「フィギュア女子の荒川の金メダルをまず喜びたい。世界的に最も注目の高い種目でチャンピオンに輝いて画期的なことだと思う」と話した。荒川のおかげで選手団もメダルゼロの危機を免れ、同団長は「プレッシャーの中で見事な演技をして、選手団すべてが救われた思いがした」と、感謝の意も示した。 一方、「メダル5個」の目標に遠く及ばなかったことについては、「厳粛に受け止めている。数としては最低の結果。各競技団体は、徹底的に(敗因を)分析して、立て直しのための明確なビジョンを描いて欲しい」と述べた。 また、不振の打開策のひとつとして、選手団のスリム化にも言及。同団長は「(今回は)目いっぱいの派遣枠を認めた。しかし、戦う選手団に質を上げることを考えると、少し数を絞って連れて行くほうがいいと感じている」と話した。 このほか、冬季競技のナショナルトレーニングセンターについて、同団長は「かなり具体的なところまでいっている」と、早期実現に期待を寄せた。さらに、競技団体が強化のための自己資金確保に苦労していることに関して、「せっかく事業計画が認められても自己財源獲得に失敗して、補助金を返上した例もある。JOCとしてはマーケティングの充実を図り、競技団体が惨めな思いをしないよう努力したい」などと話した。(了)(時事通信) - 2月26日23時5分更新(引用終了) 選手団のスリム化云々されているが、えとですね、メダルが取れないなら五輪に出ちゃいけないんですかね?そりゃあ競技である以上メダルを目指すのは当然で、支援者の期待に応えるためにも一種の義務でさえあるのかもしれない。しかし「メダルが取れそうも無い競技は出さなくていい」というのは違和感をおぼえる。 投資した以上何らかの成果を求めたり、見返りを求めるのは当然かもしれないのだが、釈然としない言い種ではある。それよりもむしろ国策というか国威発揚の匂いを感じて好きになれない(否定はしないが)。それよりスリム化するなら選手よりも、トリノくんだりまで何しに行ってるのか分からない役員のほうだと思うのだが。 それと敗因分析が始まっているが、こんなにすぐに原因が分かってるなら何でもっと前から報じないんだろうか。競技前に無責任に「メダルメダル!」と騒ぎ立てておいて、そして直後に「力及ばなかったが頑張った」と感動の物語を仕立てておいて、競技後に後出しで冷徹な素振りで分析記事を出すのはなあ。まあお祭りだから仕方ないか。 なんか僕らの学問とこういうマイナースポーツって通じるものを感じるので、つい選手贔屓になってしまうんだが。まあスポーツには優勝とかで一挙にメジャーになれる機会もあるのだろうが、学問(文系)の金メダルってなんだろう。書いた本が大当たりとか、僕らだと貴重な遺物の大発見とかだろうか。どっちにしろ努力が基本にというのは変わり無いのだろうが。・・・・・・ 閉会式、何がなんだか分からないところもあったが、まずまず面白かった。 次のカナダの代表としてアヴリル・ラヴィーンが出て来たり、閉会式後にリッキー・マーティンが出て来て競技場全体がディスコみたいになったのは見ていて楽しそうだった。なんか妙にディスコに行きたくなったよ(というほど行った事がない。日本では皆無だったし)。 さてこの閉会式でもイタリアの国歌が歌われた。可愛い声の女の子が独唱していたのだが、果たしてその歌詞の内容はどういうものか気になった。 以前ドイツ国歌(東西ドイツ)の歌詞をこの日記で訳出したことがあるが、今度はイタリアをやってみよう。もちろんイタリア語は出来ないので、ドイツ語訳からの重訳になる。 「イタリア人の歌」(通称・イタリアの兄弟) イタリアの兄弟(同胞)たちよ イタリアは立ち上がった スキピオの兜で その頭を飾る ヴィクトリア(勝利の女神)はいずこ? 彼女に頭を垂れさせよ なぜならローマのしもべとして 神は彼女を創造し賜うたのだから (*繰り返し部) 隊列を組もう 死の覚悟は出来ている 死の覚悟は出来ている イタリアが呼んでいる! 隊列を組もう 死の覚悟は出来ている 死の覚悟は出来ている イタリアが呼んでいる! 昨日の閉会式で歌われたのはこの部分のみ。ワールドカップなどで歌われるのもこの部分(一番)のみのようだ。この部分だけでも例えば日本の君が代とは趣の違う内容だと感じる。しかし長い続きがある。 我らは数世紀の長きに渡り 虐げられ嘲笑われた 我らが国民ではなかったから 我らが分裂していたから いざ集わん 一つの旗、一つの希望の下に 団結しよう その時は来た(*繰り返し) 団結しよう、団結しよう 団結と愛 民衆への開かれた態度は 支配者たる者の道 誓おう 我らが国土を解放することを 神の下に団結すれば 誰が我らに打ち勝てよう?(*繰り返し) アルプスからシチリアまで 全ての地がレガノだ 全ての者がフェルッキオの 心と手をもつ イタリアの子らは バリラと名付けられる 全ての鐘の音は 晩課の鐘のごとくに響く(*繰り返し) い草のごとく 買われた剣は折れ曲がる オーストリアの鷹は 既にその翼を失えり イタリア人の血 ポーランド人の血を (鷹は)コサック(騎兵)によって吸っている しかしその心は焼け尽きようとしている(*繰り返し) この曲が作られたのはイタリア統一運動(リソルジメント)の時代の1847年、オーストリアの北イタリア支配に対してジェノヴァで蜂起した愛国者ゴッフレド・マメリにより戦闘歌として作詞された。二ケ月後にミケーレ・ノヴァーロにより節が付けられ、イタリア革命運動にあっという間に広まった。歌詞の内容はそれを色濃く反映している。 なお4番にはよく分からない固有名詞が多く出て来るが、これはイタリア史に取材したもので、「レガノ」というのが1176年にロンバルディア都市同盟がドイツ皇帝フリードリヒ1世(赤髭帝)を破った「レガノの戦い」を指す事は分かった。フリードリヒをハプスブルク家になぞらえた歌詞である。 しかし1861年に成立した統一イタリア国家の国歌にはサヴォイア王家のマルチア・レアーレ(王の行進曲)が採用され、第二次世界大戦後の1946年にイタリアが共和制になるまでそれが続いた。なお1922年から43年までのムッソリーニのファシスト政権の時代も同様で、ファシスト党歌が国歌と共に歌われている。 イタリアが共和国になった1946年、この「イタリア人の歌」が国歌となった。といっても法律で正式に制定されていた訳ではなく慣用的なものだった。歌詞の内容が内容だけに一部の国民(インテリ層)などにはこの歌を歌う事を拒否する者もいるそうで、その辺は「君が代」や現在のドイツ国歌に似ているかもしれない(そもそも「ドイツの歌」の一番と二番は歌われる事がないが)。 なおこのイタリア国歌が法的に正式に国歌とされたのはおよそ60年後、トリノ冬季五輪を目前にした昨年11月のことだったようだ。
2006年02月27日
コメント(14)
第二十回トリノ冬季五輪が始まって数日が経つ。 日本の「苦戦」が報じられているが、実力はもともとこんなものじゃないだろうか。そもそも冬季五輪がヨーロッパと北米のためのものだと思えば、ほとんどの競技の本選に選手を出している事自体、健闘しているんではないかと思える。 僕はそもそも冬季五輪にまるで興味が持てないし(自分でスキーやスノボーしてれば興味も違うかも)、変に盛り上げようとするメディアの馬鹿騒ぎには辟易する。ドイツは初日に金メダル二個を取っていたが、自国の選手を贔屓の引き倒しのように応援するのはどの国のメディアも同じ事のようだ。日本のメディアは度が過ぎるんじゃないかと思うが。つか「自分と同じ国の選手だから」といって無条件に応援する程、僕は人が好くない(サッカーだけは別だけど)。・・・・・・ オリンピックはあまり興味がないが、開催地のトリノという町には興味があるので備忘録を書く。イタリアには何度か行ったが、トリノの方に行った事はない。 トリノは観光名所としてはミラノやローマ、ヴェネツィアなどの町に人気が劣るが、調べてみると結構歴史のある町のようだ。 トリノはフランスとイタリアを劃すアルプス山脈の東側山麓にあり、標高は海抜240mだから高地にあると言う程でもない。北イタリアの肥沃なロンバルディア平原を流れるポー川のほとりにある。 トリノに最初に集落が営まれたのは紀元前一千年紀のことで、この地にいたケルト人やリグリア人が住んでいたようだ。この辺りのケルト人の一部族にタウリー族と言うのがいたようだが、「タウ」はケルト語で「山」を意味すると言われており、アルプス山麓にあるこの土地らしい部族名ではある。紀元前218年にはハンニバル率いるカルタゴ軍のアフリカ象部隊がフランス側からアルプスを越えてこの地に現われ、ローマに向かった。 逆に紀元前58年にはローマ軍を率いてガリア(フランス)征討に向かうユリウス・カエサルがここを通っただろう。ローマ軍はおそらくポー川とその支流ドラ川の合流点を望む地点に兵営を築いた(紀元前28年?)。ガリアとイタリア半島の本国を結ぶ途上の街道を固め、兵站基地とする意味があっただろう。 この兵舎はカストラ・タウリノルムと呼ばれた。この地にいたケルト人の部族名に因んだものだが、やがてこの「タウリノルム」が「トリノ」というイタリア語の現代名になる。この兵舎はローマ軍のそれに典型的な、方形プランをもち周囲に堀を穿って木の塀を巡らし、四ケ所に門を構えたものだったろう。内部には兵士や将校のテントが整然と並び、原住民の商人や労働者も出入りしていたはずだ。 この兵営はそのまま都市に発展し、ローマ帝国の全権を掌握したばかりの初代皇帝アウグストゥスを顕彰して「アウグスタ・タウリノルム」と改称される。町のプランは兵舎のそれを踏襲しておよそ1kmx1kmの正方形で、碁盤目状に整然と街路が並ぶ典型的なローマの植民都市だった。当時の人口はおよそ5000人程度だろうと推測される。 4世紀に衰微したローマ帝国はゴート族、ランゴバルド族(「長髭族」の意。「ロンバルディア」の語源)やフランク族といったゲルマン系諸族の侵入を許し、その都市の多くは廃絶してしまうのだが、トリノは断絶する事無く存続したらしく、ローマ時代の街路は現代の街並にもそのまま残っている。ローマ軍の兵営に起源をもつ都市はヨーロッパ各地に分布するが、その街路プランがそのまま残っている都市は多くない。 トリノを含む地域は13世紀末、サヴォイア大公国の支配下に入る。もともとアルプス山中の僻地の領主だったサヴォイア大公は徐々にその領土を広げて、分裂状態にあるイタリアの政治に大きな影響力をもつようになる。1404年にはトリノに大学が創設され、1563年にサヴォイア大公国の正式な首都と宣言され王宮(パラッツォ・レアーレ)が建設された。 16世紀のイタリアはフランスとスペイン=オーストリア(ハプスブルク家)という列強角逐の場となったが、大砲の出現と言う兵器の進歩に伴い、防衛のため市街(ローマ時代のそれを踏襲している)を囲む城壁の更に外側に堡塁が建設され、また市街西側の隅に五稜郭が付属して建設された。当時の人口はおよそ2万人だったと思われる。 1620年、大公カルロ・エマヌエレ1世は建築家カルロ・ディ・カステラモンテに市街の拡張を命じ、従来の市街の南側に堡塁で囲まれた新市街を設けた。これにより面積は100ヘクタール、人口2万5千に増える。格子状の街路という基本設計が踏襲された。1673年にはカルロ・エマヌエレ2世が建築家アマデオ・ディ・カステロモンテ(同姓カルロの子)に命じ第二次拡張計画を実行し、市街をさらに南東(ポー川の方向)に拡張させた。この拡張で市街は160ヘクタール、人口4万人になる。 ルイ14世の晩年に起きたスペイン継承戦争中の1706年、フランス軍はトリノを包囲したが、117日間の攻撃に堪えてフランス軍を撃退した。1714年、ヴィットリオ・アメデオ2世は建築家フィリッポ・ジュヴァッラに命じてトリノ市のさらなる拡張を命じ、市街は北西と南東の両側で拡張されついにポー川に達し、都市を守る堡塁は対岸にも及んだ。都市面積は180ヘクタール、人口は6万人に達した。 市街が拡大されたのみならず、グアリーノ・グアリーニにより聖骸布教会、サン・ロレンツォ教会、カリニャーノ宮などの華麗な建築物が街並を飾った。街路はルネサンス以来の流行(モデルはローマ時代にある)である整然とした碁盤目状に区画されていた。郊外にもジュヴァッラによってスペルガ教会(1718年)や大公の狩猟のための離宮であるストゥピニーイ宮(1729年着工)が建設され、市街と道路で結ばれた。 スペイン継承戦争の講和条約である1713年のユトレヒト条約でサヴォイア大公はシチリア島を得たが、1720年にサルディニア島と交換し、サルディニア王を名乗る。トリノ市街の拡張に続くかのように、サヴォイア大公のイタリア国内政治での地位はますます大きくなった。1797年にナポレオン率いるフランス軍に占領されフランスに併合されるという挫折を味わうが、この経験はむしろイタリア人の民族意識を高揚させるものとなり、ナポレオンの没落(1814年)後、トリノはイタリア統一運動(リソルジメント)の中心都市となる。フランスに隣接する事もあり、この地方はイタリアの中でも特に開明的な気分が強かった。 1848年の革命こそ失敗したが、1852年にサルディニア・ピエモント王国の宰相に就任したカミーヨ・カヴ-ルは巧みな外交(クリミア戦争派兵、プロンビエールの会見)でフランスの援助を得る事に成功し、1858年にオーストリアに勝利して北イタリアの覇権を握る。南イタリアを制圧したジュゼッペ・ガリバルディ率いる赤シャツ隊とも合流して、1861年3月にサヴォイア大公(サルディニア王)ヴィットリオ・エマヌエレ2世はイタリア王に即位し、一応の統一イタリア国家が誕生した。首都は暫定的にトリノに置かれた。当時のトリノの人口は25万である。 同時代の日本で言うと薩摩か長州の藩主が将軍に即位し、鹿児島か萩が日本の首都になったようなもので、天皇にあたるローマ教皇はこの統一イタリア国家への参加を拒否(当初ローマ教皇を元首、ローマを首都とする統一イタリア国家が構想され、宗教が政治や科学の上位にあることが主張した)、フランスを後ろ楯に教皇領はイタリア内の独立国の観を呈した。1865年にイタリア政府は教皇領への圧力のためにフィレンツェに遷され、統一イタリアの首都・トリノは僅か4年で終わった。なおフランスが普仏戦争で敗れた1870年にイタリアは教皇領を併合し、首都はローマに遷されている。教皇はヴァチカン市国という極小の国家を得るのみとなった。 現在映画博物館が入っているモーレ・アントレニアーナは、この短い首都時代に着工された建築物である。 トリノはイタリア北東部の工業都市として発展し、1899年にはフィアット(Fabbrica Italiana di Automobili Torinoの頭文字をとったもの)の工場が建設され、1906年にはやはり自動車会社であるランチアが設立されている(1969年にフィアットに買収される)。1902年には万国博覧会が開催されたが、この博覧会がいわゆる「アール・ヌーヴォー」の産声とも言われている。当時の人口は43万人だった。 第一次・第二次世界大戦でも大きな戦災を受けず、産業は成長を続け、人口は1960年に100万人に達したが、その後の経済不振や産業の移転もあって1975年の150万人を境に人口は減少傾向に転じた。現在の人口は90万人である。ただイタリア産業の中心地であることに変わりはなく、酒造のマティーニ、ラヴァッツァなどの本社はトリノにある。また時計のオリヴェッティ社の創設者アドリアーノ・オリヴェッティもこの町の出身である。イタリア国営放送やテレコム・イタリアの創業地でもあり(現在は移転)、イタリア国立映画館があるなど映画の町でもある。まあサッカーのユヴェントスの本拠地と言うほうが通りはいいだろうか。
2006年02月13日
コメント(4)
先日の日記で書いた、「預言者ムハンマドの風刺画」騒動は激しくなる一方のようだ。「文明の衝突」というサミュエル・ハンティントンの本を思い出した。あれを読んだ時はトンでも本の部類と考えていたのだが、今となるとあながち笑えるものでもないかなと思える。 「世界多極化のためにアメリカはわざと失敗して反米国家を増やしている」とメルマガ最新号で説く田中宇さんじゃないが(笑)、わざと狙ってこういう状況を招いているのなら仕掛人(ロスチャイルド家?フリーメーソン??柳生影の軍団???)は大した悪党だし、さもなくばハンティントンはマルクス程度の説得力はあるという事になる。 「文明の衝突」という言葉はもう新聞に使われちゃったらしいので、その引用。とても詳しいしまとまっている。(引用開始)<ムハンマド風刺画>「文明の衝突」の様相 背景に国際化 【パリ福井聡】欧州紙がイスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)の風刺漫画を掲載した問題を巡り「預言者の冒とく」と反発するイスラム教徒と「表現の自由」を主張する欧州メディアの対立が鮮明化、「文明の衝突」に発展しそうな様相を見せている。事態を重く見たアナン国連事務総長が2日、報道機関に信仰尊重を呼びかけるなど、問題は国際社会に波紋を広げている。 デンマーク紙ユランズ・ポステンが昨年9月30日付紙面に導火線の付いた爆弾型ターバンを頭に巻いたムハンマドを描いた漫画を掲載したのが発端。今年1月10日、ノルウェー誌が転載した。テロリストを連想させる漫画がイスラム教徒の反発を招いた。 2月に入ってフランスなど欧州の新聞が漫画を転載、怒りの火に油を注ぐ形になった。ガザ地区では2日、武装グループが欧州連合(EU)代表部の敷地内に乱入し、謝罪を要求。ジャカルタでは3日、デンマーク大使館の入った建物前でイスラム教徒約150人が抗議、パキスタン上院は同日、非難決議を採択した。イスラム教国の一部ではデンマーク製品の不買運動も起きている。 背景には1500万人とも言われるイスラム教徒を抱える欧州の移民問題があり、特定の価値観を他者に押しつけられるかが問われている。在仏イスラム教評議会のブバクール議長は「風刺画は中傷だ。ムハンマドはテロリストの宗教でなく平和宗教の創設者だ」と批判。これに対し仏ルモンド紙など欧州メディアは「表現の自由」を主張して譲らず、文明、宗教上の価値観の違いから摩擦が生じている。(中略) 今回の問題では国際社会、欧州域内から異文化・異宗教の理解と尊重を求める声も出ている。EU議長国オーストリアのプラスニク外相は「欧州指導者は宗教への侮辱を非難する責任がある」と表明。(中略) ◇雇用や福祉も保証…欧州のいらだち反映 ▽山内昌之・東京大学教授(イスラム地域研究・国際関係史)の話 問題は北アフリカや中東などイスラム諸国の移民を大量に受け入れ、ある程度まで雇用や福祉も保証してきた欧州のいらだちを反映している。 欧州人からすれば、日常生活や儀礼を含めてイスラムの伝統的な価値観を可能な限り尊重してきたのに、移民たちは欧州社会の自由主義や個人尊重の価値観に無関心だという不満なのだろう。欧州で生きるには自他ともに寛容と批判の相互性を尊重すべきだ、と。各紙が「表現の自由」を合言葉に風刺画を転載したのは一方的な受益だけでなく、負担や価値観の共有を求める欧州の一般市民の内面をかなり映しているのではないか。 とはいえ、表現や批判の自由は他者の信仰という心の領域を侵すものであってはならない。テロをイスラムで正当化する者への批判は必要だが、ムハンマドという預言者をテロの元凶でもあるかのように示唆する風刺画は行き過ぎだろう。イスラムの国々には宗教と政治や教育が不可分の「政教一致」社会が多い。19世紀以降、政教分離の世俗国家の道を選んだ欧州とは思考と感覚が違うのだ。テロ批判という共通価値のためにも「異宗教・異文明の共存」を図る工夫と反省が必要だ。 パレスチナ解放機構(PLO)主流派ファタハの一部やシリアには政治的な劣勢を挽回するために問題を利用する動きがある。核問題で欧米の非難を浴びるイランは巻き返しの外交カードとして利用するだろう。問題が文明論としても複雑化することが危ぐされる。(以下略)(毎日新聞) - 2月3日23時0分更新(引用終了) この記事に加えて、ヨルダン川西岸ではドイツ人が一時誘拐され(すぐに解放)、「アル・アクサ殉教者旅団」が犯行声明を出している。またガザ地区のEU代表部は抗議を叫ぶ武装した集団に取り囲まれる騒ぎになった。いずれも山内先生の「この問題の政治利用」という動きに関連するのだろう。なんか昨年春の中国での反日騒ぎを思い出す。 ドイツでこの風刺画を転載したのは「ヴェルト」など保守系新聞だよね? ヨルダンの新聞にはヨーロッパ側に対抗した漫画が掲載された。場面はデンマーク国旗を掲げたデスクに腰掛ける新聞編集者。ハーケンクロイツとユダヤの星をイコールで結んだ漫画を見て、この編集者は「これは反セム主義だ」ボツにする。次いで黒人をアホ面に書いた漫画を見て「これは人種主義だ」とこれまたボツ。最後にターバンに爆弾を挿したり女を多く侍らせているムハンマドの漫画(ヨルダン紙の漫画だけに、ムハンマドの部分は白くなっている)は「これは表現の自由の範囲内」と採用されている・・・。 イランのアハマディネジャド大統領が主張する「イスラエルに対する欧米のダブルスタンダード」がここでも反論の根拠として挙げられている。・・・・・・ ヨーロッパとイスラムの衝突というと十字軍時代が連想されるが、その12世紀に生きたアラブ人(シリアのエミール)であるウサマ・イブン・ムンキード(1095~1188年)は、宗教的熱狂から西アジアに闖入したヨーロッパ人(イスラム教徒は「フランク人」と呼んだ)とイスラム教徒との接触について書き残している。 この時代は凄惨な殺戮が多いのだが、時にユーモラスな筆致で「文明の衝突」が記されていて微苦笑を誘う。「(聖地の)フランク人地域に来たばかりの者はいずれも、既に長年そこに暮らしイスラム教徒と共存している者に比べ、その行動は粗野だった。...テンプル騎士団に属する私の友人が居たアル・アクサ・モスクに赴いた時、彼は礼拝が出来るように私を一人にしてくれた。数日後またそこに行き『アラーは偉大なり』と言って礼拝しようとした。そこに一人のフランク人がやって来て私を押さえ付け、私の顔を東に向け、「礼拝はこうするもんだ」と叫んだ。すぐにテンプル騎士団の数名が飛んで来てその男を私から引き離し、向こうへ連れて行った。...その一人が私に謝りこう言った『彼はまだここに不馴れなんだ。フランク人の国から来てまだ数日しか経っていない。彼は東以外に向いて礼拝する人間を見た事がなかったんだ』」「私はマアラに浴場を開いた。...フランク人の騎士が入って来たが、彼は入浴の時に腰に布を巻いて秘部を隠す事を知らなかった(注・これは現在の中近東にある浴場でも同じ)。彼は私の腰布を取って放り投げてしまった。毛が剃ってある私の秘部(注・イスラム教徒は男女を問わず性器や腋下の体毛を剃る習慣がある)を見て彼は叫んだ。『サリム!』そう言って私に近寄り、私の秘部に手を向け叫んだ。『サリム!なんて素晴らしいんだ!お願いだ、俺にもやってくれ!』そう言って仰向けに寝転んだ。...私は剃ってやった。彼は己のその部分を触ってつるつるであることを確かめると『サリム!お願いだ、これを俺のダマにもやってくれ』と言った。ダマ(Dame, damme)とは彼らの言葉で女主人のことで、つまりは夫人のことである。彼は召し使いに命じた。『ダマにもここに来るように伝えろ』...彼女は仰向けに寝転がり、彼は私に言った。『俺にやってくれたのと同じ事を彼女にもやってくれ』。私は彼が横で見ている目の前でその毛を剃ってやった。そして彼は私に礼を言って報酬を呉れた。.....フランク人は嫉妬心も羞恥心もないが、勇気はある。その感情は(通常)羞恥心と全ての悪への忌避のみで成り立っているのだ」 現在のヨーロッパ人とイスラム教徒はこの時代とは比較にならない程の接触があり、互いについての知識もあるのではないかと思う。しかし相互理解どころか憎しみが増幅する(まあそれには過去の植民地支配とか移民先での不満とかもあるだろうけど)。人間本当に交流を深めれば(話し合えば)相互理解が出来るのだろうか、と疑問に思うのは悲しいものがあるが(「バカの壁」ってやつですかね)、そんなものだろうか。例えば誰かに煽られたり騙されたりしているにしても、あんまりではないか。
2006年02月03日
コメント(10)
いつの間にやらアクセス数が15万を越えている。別にアクセス数稼ぎにこだわっている訳では無いが、15万といえば大した積み重ねだと思う。訪問して下さる方々に感謝したい。 時々「何何について教えてください」という書き込みがあるが、僕のブログには特定分野を除いてグーグル検索やウィキペディアに書かれていること以上の深い内容は無いので、まずそっちで調べて下さい。まず自分で調べてみたのだが分からない、というのであれば喜んでヒント(答えでは無い)は出します。・・・・・ 今日は目についたニュースから二題。(引用開始)<風刺漫画>イスラム教預言者を冒とく 中東各地に波紋 デンマーク紙が昨年9月に掲載したイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した漫画が、アラブ諸国に波紋を広げている。デンマーク製品の不買運動に加え、大使の召還や大使館閉鎖など外交問題にも波及し始めた。風刺漫画は時限爆弾付きターバンを巻いたムハンマドを描いたもので、預言者をテロリスト扱いしたとも受け取れる。(毎日新聞) - 1月31日10時26分更新(引用終了) この風刺漫画を見てみたが、まあ確かにムハンマドに見えなくもない。あと女性数人を侍らせるというのもあった。はっきり言って出来のいい風刺漫画でも無いのだが、扱われた内容が内容だけに揉めている。 リビア、サウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ諸国はこの漫画の撤回と謝罪を求めたが、デンマーク政府は言論の自由を理由に拒否。するとこれらの国は大使を召還もしくは大使館を閉鎖するなど外交関係断絶という異常事態になっている。 アラブ諸国ではデンマーク製品不買運動も起きているという。デンマークの主要な輸出品というとコーンビーフ(日本でもデンマーク製が多いので御一見を)、ハムなどの豚肉、カールスバーグ(デンマーク語ではカールスベア)、トゥボルグ(同じくトゥボー)といったビールが真っ先に思いつく。どちらもイスラム教徒にとってはけしからぬものだから不買運動も関係ないだろうが、他にもチーズやバター、魚介類(これもあまりアラブ人は食べない)、ダンスクといった家具、ロイヤル・コペンハーゲンとして知られる高級磁器、ブロックおもちゃのレゴなんてのもある。意外なところではインシュリンなんかもそうらしいが、これを不買したら患者の生命にも関わるだろう。 この漫画にはしなくも現われているように「狂信的テロリスト」「抑圧された女性」なんていうのは残念ながら多くのヨーロッパ人がイスラム教に抱く典型的イメージだろう。ドイツの語学学校で知り合ったシリア人なんかもそれを気にしていた。 もちろんそれは差別や偏見、思い込みや無知もあるし、特に宗教に関連していえば、人の信じるものを軽んじるのはけしからんことである。だが、外交官を召還したりするのははっきり言って大人気ない(サウジの場合は単に宗教の問題のもみならず「国体護持」にも関わる問題なのだが)。そうして怒るだけで何かが解決したり、西欧とイスラムの和解が実現したりするのだろうかと思う(まあ和解する気があるかどうかも問題ですが)。ましてやオランダで起きた映画監督の殺害事件や、日本で起きた大学助教授殺害事件(ただし犯人未検挙。実は僕はその大学の出身です)などという暴力はどういう理屈だろうが許されない。 1994年のサッカー・ワールドカップの時、コカ・コーラ社が出場各国の国旗をコーラ缶にあしらい販売したのだが、サウジ大使館から抗議が来てデザインが変更された。というのはサウジの国旗にはコーランの一節が記されていて、それをゴミ箱にほり捨てられるようなコーラ缶にあしらうのはけしからん、という理屈である。そんな大事なモン国旗にあしらうなよ、と僕などは思ったのだが、彼らにはそれほど大切なものであるとも言える(アラブ人全員がそうというわけでは無い)。 一方のデンマークでは、一昨年コペンハーゲン(ケベンハウン)港にある人魚姫像にスカーフを被らせるいたずらがされた。当時行われたトルコとEU加盟交渉に関連して、イスラム教国であるトルコの加盟に反対してのいたずらだったわけだが、デンマークはEU諸国内でも特にこの傾向が強いみたいだ。僕が調査で行っていたトルコの村からも既に多くがデンマークに移民しているし、宿舎の地主なんてデンマークに住んでいる。コペンハーゲンに行った時はドイツに居る時ほどトルコ人は目立たなかったと思うのだが。・・・・・・ 次は沈没船をめぐる「第二次トラファルガー海戦」のお話。「シュピーゲル・オンライン」の1月28日付け記事。 イギリス領ジブラルタルの沖合いに「サセックス」という沈没船が沈んでいるという。この船はイギリス海軍に属していた軍艦で、1694年に嵐によって難破し、500人の乗員、80門の大砲とともに海の底に沈んだ。これだけならよくある話なのだが、サセックス号は10トンの金と100トンの銀を積んでいたと推測されているという(文献記録からだろうか)。その時価総額は40億ドルに上るという。 イギリス側はアメリカの探査会社に依頼して1998年から2001年にかけてジブラルタル周辺の捜索を行い、それらしき船体をジブラルタル沖の数百メートルの海底に発見した。しかしここで問題になった。この船がイギリスの所属であり、またジブラルタルがイギリス領である事からイギリスは当然自分の所有としたのだが、そもそもイギリスのジブラルタル領有権を認めていないスペイン側はこれに抗議した。 このアメリカの会社の潜水艇がサセックスの様子をさぐるため潜水しようとその海域に赴いたが、そこにスペイン海軍に属する小艦艇のアルマダ(艦隊)が出現してそれを取り囲み、結局探査は中断された。この企業はイギリスやアメリカの外務省に、スペイン側との交渉を要請し、安全が確保されるまでは調査を中断するそうだ。スペインの新聞は連日この話題をとりあげ、「エル・ムンド」紙は「第二次トラファルガー海戦」と報じている。 地中海と大西洋はイベリア半島で隔てられているが、ジブラルタル海峡というごく狭い海峡で細々と繋がっている。この海運・海軍の戦略上重要な場所は、古来争奪が繰り返されて来た。ギリシャ人はこの岩がちな海峡を「ヘラクレスの柱」と呼んだ。現在のジブラルタルは「ターリクの山」を意味するアラビア語のジェベル・アル・ターリクが訛ったものである。 イギリスがこの地を手に入れたのはスペイン継承戦争中の1704年だった。当時イギリスは既に地中海のメノルカ諸島やジブラルタルの対岸アフリカ側にあるタンジールを占領していたが、これらはのちにスペインに奪還され、ジブラルタルがイギリスの地中海・インド戦略上の要になった(のちにマルタ島やキプロス島、エジプトも領有しシーレーンを固める)。記事に出てくるトラファルガー岬も近くにあり、1805年にイギリス海軍がフランス・スペイン連合軍を撃破している。 スペインは今もこの領有を公式には認めておらず、返還を要求している(当のスペインも北アフリカに多くの飛び地を持っているのだが)。最近では2002年に英西共同統治を認めるかどうかで住民投票が行われたのだが、否決された(住民にとってはイギリス領である方がいいのだろうか)。今もジブラルタルはイギリスの自治植民地である。 スペインは数年前にもやはり近くの海域(地中海)でモロッコに占拠された小島の小部隊による奪還作戦を実行しているが(交戦はなし)、この海域の重要性は今も変わらない。今はむしろアフリカからの難民・不法入国者に対する防波堤という意味合いのほうが強くなっているが。 さてこのサセックス号はイギリス海軍の船だったが、沈没海域は英西双方が領有を主張している。なんだか竹島問題とか東アジアガス田問題を連想するが、こっちのほうが多少のロマンはある。ただサセックス号が積んでいた銀や金というのは、多くはイギリスの海賊船がカリブ海でスペイン船から奪ったものじゃないかと思えるし、そのスペイン人たちは中南米でインディオたちから金や銀を収奪していたのだから、イギリスとスペインが所有権を争うのはちゃんちゃらおかしいとも思えるのだが。 だいぶ前になるが、対馬沖で行われた日本海海戦で日本に撃沈されたロシアの軍艦ナヒーモフ号に金塊が積まれているというのでソ連(当時)と日本の間で多少の問題になったことがあると思うのだが、あれはどうなったのだろうか。タイタニック号にレアメタルが積まれていたという設定で米ソの競争を描いた「レイズ・ザ・タイタニック」という映画もあった。 僕の専門に近いところだと、エーゲ海やトルコの地中海岸には岩礁が多く航海も難しかった事もあり、多くの難破した沈没船が海底に眠っている。トルコではアンタルヤの近くのゲリドンヤ岬やウル・ブルン(ブルンは岬を意味するトルコ語)は航海の難所で、多くの沈没船が海底にあり、そのいくつかは実際に調査され遺物(積み荷)が引き上げられている。 引き上げられているのはワインが詰まっていた大瓶だとか銅や錫のインゴット(鋳塊。加工して道具にするための原料)といった、金銭的価値としてはやくたいもないものばかりで、こういう金銀財宝の話はあまり聞かないのだが、当時の交易や海運を研究する上で無類の良質の資料となっている。 紀元前1300年頃の沈没船が見つかったウル・ブルンでの水中考古学調査のページはhttp://ina.tamu.edu/ub_main.htmを参照のこと。ドイツではちょうどボッフムのドイツ鉱業博物館で特別展が開催されている(http://www.uluburun.de/)。 日本でも瀬戸内海や紀州沖、房総沖なんかには沈没船の存在が分かっていて、ごく僅かだが調査も行われている。財宝発見というのは聞かないが。
2006年01月31日
コメント(8)
フジモリ前大統領がチリで拘束されて日本とペルーの関係が悪化したり、イラクの隣国ヨルダンの首都アンマンで爆弾テロが起きたり(犠牲者の多くは結婚式の参加者だったようだが。またイタリアに対する抵抗運動を指揮したオマル・ムフタルを描いた「砂漠のライオン」や、預言者ムハンマドの半生を描いた異色の映画「ザ・メッセンジャー」を監督したシリアの映画監督が搬送先の病院で死亡している)、北朝鮮核開発をめぐる北京での6カ国協議が成果もなく閉幕したりと言う出来事があったが、やはり気になるのはフランスの暴動である。僕も行ったことのあるリヨンでは発電所が襲撃されて停電が起きたり、中心部で警官隊と若者が衝突する事態が起きて沈静化の先行きが見えない。 今回のフランス国内暴動で日本でも一挙に知名度を上げたのが、ニコラ・サルコジ内相だった。昨年訪問先の香港で、ライヴァルで親日家のシラク大統領へのあてつけとはいえ日本文化をこき下ろす発言をした頃から、僕にとって気になる人物ではあったのだが、「次期フランス大統領に最も近い男」と言うのでドイツでの注目度は以前からなかなか高かった。 サルコジ内相についてのうってつけの記事があったので、転載させていただく。(引用開始)<仏暴動>毒舌のサルコジ内相、裏目に 移民系の若者を「ごろつき」と呼んで、フランス各地で暴動を激化させてしまったと批判されるニコラ・サルコジ内相(50)。これまでも数々の発言で物議を醸しながらも人気を集めてきたが、今回は裏目に出たようだ。【パリ福井聡】 「香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所はうらぶれている」。04年1月、香港を訪問したサルコジ内相が食事会で同行記者団に向かって日本の都市を批判した。さらに、「太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。知的なスポーツではない」と相撲をこきおろした。 ライバル関係にあるシラク大統領が大の相撲ファンであることへの当てつけだったのは明白だ。今年7月の内務省の園遊会でも、仏革命前に錠前づくりを趣味とした国王ルイ16世を引き合いにして、「ベルサイユで錠前をいじるのは私の任務ではない」と発言。暗にシラク大統領が公約を掲げるばかりで実現できないことをやゆした。 サルコジ氏はパリ生まれのハンガリー移民2世。22歳で地元ヌイイ市会議員、仏最年少の28歳で同市長、33歳で国会議員となった。04年に与党・国民運動連合党首となり、次期大統領選(07年)をうかがう。 02年5月~04年3月の最初の内相時代に警察力を動員して不法移民対策を強化した。「移民2世だから逆に移民に厳しく対応しているのか」との批判に対して、「私は移民反対のルペン(極右・国民戦線)党首とは違う。この国には優秀な移民が必要だ」と反論した。 昨春の訪米時にも米国のパウエル前国務長官(元統合参謀本部議長)、ライス国務長官に言及して「仏には何人の黒人の将軍、外交官がいるのか」と語り、米国のように移民が成功できる社会を模索している側面も持つ。熟練労働者、起業家、研究者ら職業で移民の受け入れ枠の導入を提唱してきたのも、「移民の成功」を実現させる方策と考えているからだ。 政治スタイルは、どこにでも現場に現れて即断即行を身上とする。大衆と同じ言葉で語りかける気さくさもあり、これがサルコジ氏の人気の源泉だった。今年6月に発足したドビルパン内閣で内相に復帰した。 今回の暴動で若者の猛反発を招いた「ラカーユ(ごろつき)」という言葉は、郊外の移民系住民が使う俗語だ。「他の政治家と違って、郊外のことを知っている」と言いたかったために俗語を使ったとみられるが、裏目に出てしまった。今年6月には郊外の集合団地で殺害された少年の父親に「この地域を高圧掘削機で掃除する」と語って問題になったが、これも治安対策への熱意をストレートに出しすぎたためのようだ。 仏メディアでの登場も政治家の中では突出している。仏各紙は先月、サルコジ氏に政治担当の女性記者の愛人がいると報じた。仏メディアはこれまで、政治家の愛人問題があっても報じない慣例を守ってきただけに異例だが、サルコジ氏は現在離婚係争中のセシリア夫人とともに大衆紙などに頻繁に登場している。 ◇若者の多くが移民2世、3世 仏政府が行った99年の国勢調査などによると、外国生まれの移民は約431万人。アルジェリア、モロッコなどアフリカの仏旧植民地出身者が多い。仏政府は仏社会への統合を狙った同化政策を進め、うち156万人が仏国籍を取得している。今回、暴動に参加した若者の多くも移民2世、3世で仏国籍とみられるが、住宅探しや就職などで日常的に欧州系住民との差別を感じており、イスラム教徒を中心に自らのアイデンティティーを宗教や民族に求めようとする動きが出ているといわれる。(毎日新聞) - 11月11日13時51分更新(引用終了) サルコジ内相について簡潔にまとめてあって参考になる記事だった。 この記事の中にもあるが、「サルコジ」というフランス的でない苗字はハンガリー系のものである。今回の暴動の主体はアラブやアフリカ系の移民出身の青少年であると言われているが(ちなみにサッカーのフランス代表にはジダンはじめそういう社会出身の選手が多い)、彼自身も移民二世である。そういうこともあってか本来彼自身は移民受け入れ反対ではなく、むしろ統制的な移民の受け入れや社会進出を推進する立場である。つまりドイツが進めている技術・熟練労働者のグリーンカード取得緩和に似たような政策を唱える一方で、フランスで「治安悪化の原因」と槍玉にあがっている不法移民の取り締まりを強化すべし、という立場のようだ。これは「対話」を口にしながらも実際はこうした移民社会の存在を「無視」しているシラク大統領の消極策とは対照的であるという。 またサルコジ氏は、従来の政教分離のたてまえを放棄して、イスラム教をカトリックに次ぐフランス第二の宗教であることを事実上公認しイスラム評議会を設置する、イスラム教の国家統制下への積極取り込み策を提唱したこともあるが、これはあまり支持を得ていないようである。内心はともかく、彼は決して反イスラム一色というわけでもないようだ。ただしトルコのEU加盟には絶対反対の立場をとっている。外交や経済政策での主張を見る限り、ドイツの政治家でいえばショイブレ前CDU党首やメルケル現党首にやや近い立場だろう。 彼の本名はニコラス・ポール・ステファヌ・ド・ナジ・ボチャといい、1955年1月28日生まれの50歳。やたら長ったらしい名前は貴族の家系出身であるド・ヴィルパン首相と似ているが、サルコジ氏も上の記事にあるように、ブダペストから100kmのところに小さな城を持っていたハンガリーの下級貴族の家系である。 1944年にソ連軍が枢軸国ハンガリーに迫ると、サルコジ氏の父親ポールはオーストリア経由でドイツに逃亡した。フランス占領下のバーデン・バーデン(ドイツ)でフランス外人部隊の募集に応募、アルジェリアやインドシナで従軍しフランス国籍を得た。ギリシャ人女性と結婚した彼の次男がこのニコラス・サルコジ氏である。ちなみに長男は繊維販売業、三男は生物学者とのこと。なお父親は母親と離婚している。 1973年に大学入学資格を取得してパリ第10大学に入学し政治学と法学を専攻(フランスの政治家に多い官僚養成大学の出身ではない)。一方19歳で保守政党UDP(共和国民主連合)に入党、在学中の1977年に比例代表の末席に連なったことで故郷ニュイイー市(パリ近郊。生まれはパリ市)の市議会議員に当選した。1983年には28歳というフランス史上最年少でニュイイー市長に選出され、2002年までその職にあった(この辺はよく分からないが、フランスでは地方公共団体の首長と中央政府の職を兼任出来るようである。地方政治と中央がピラミッド状に直結しているらしい)。また1983年から1988年まではイル・ド・フランス県の県会議員も兼任している。1988年に国会の議席を獲得した。 サルコジ氏の名前が全国的に有名になったのは、1993年にニュイイー市の学校で起きた人質事件を交渉役として解決させた頃からであるようだ。既にその数カ月前から彼はバラデュール内閣の蔵相を兼任していた(ちなみにエドゥアール・バラデュール首相はトルコのイズミル出身で、アルメニア系移民だそうだ)。バラデュール内閣ではまた政府広報官も務めていた。1995年以降は保守政党RPR(共和国連合)の広報担当や幹事長、さらに臨時党首を務めている。 2002年、第二次ラファラン内閣で内相に就任して大臣に返り咲き、シラク政権が地方選挙に敗れた2004年3月からは蔵相兼経済産業相という要職を務めた。しかし2007年の大統領選挙出馬を見越して、在任8ヶ月で大臣を辞してUMP(国民運動連合)党首に就任した。しかし今年5月、フランスでの国民投票でEU憲法批准が否決されラファラン内閣が更迭されド・ヴィルパン内閣が成立すると、請われて内相に返り咲いていた。 続投を目指すシラク大統領とは同じ保守党内にありながら微妙な競合関係にあり、また政治一筋のサルコジとは対照的な官僚出身でシラク子飼いでもあるド・ヴィルパン首相とも距離をおいている。詩人でもあるド・ヴィルパンが格調高い、悪くいえば理想主義的で気取った語り口であるのに対して(シラクも似た傾向がある)、サルコジの売りはその率直で現実的な物言いにあり、またそれが彼の人気にも繋がっていたようだ。2004年3月の世論調査では、もっとも人気の高い政治家となっており、2007年の大統領選挙の最有力候補とされている。今回の騒ぎがこの流れをどう変えるだろうか。
2005年11月13日
コメント(8)
何日か前から報じられているフランス各地での暴動が激化して止む気配がない。(以下引用)<仏暴動>初めての死者 独、ベルギーにも飛び火 【パリ福井聡】フランス各都市で続発している暴動で、負傷していたパリ郊外に住む男性(61)が7日、死亡した。一連の暴動での死者は初めて。また、ベルリンとブリュッセルの中心部でも6日夜から7日未明にかけ、それぞれ車5台が放火された。独、ベルギーの治安当局はフランスの暴動に触発された可能性があるとみて、警戒を強めている。 現地からの報道によると、ベルリンでは7日未明、移民ら貧困層が集まる中心部で短時間に乗用車5台が放火された。ブリュッセルでは6日夜、周辺に移民が多く住む南駅周辺で車5台が放火された。 仏で死亡した男性は、4日、自宅近くで、燃えていたごみ箱の火を消そうとしていたところ、若者に殴られ、こん睡状態だった。 また、仏警察は7日、6~7日未明にかけて放火された車が1408台、逮捕者は395人と、先月末の暴動発生以来1日では最多になったと発表した。南部や北部の県で教会が放火された。 また、パリ南部のグリニーでは6日夜、若者たちが警官をビルに囲まれた空き地へと誘い、散弾銃で襲撃した。警官約30人が散弾銃の弾丸で負傷し、うち2人は首や足に重傷を負ったという。 仏警察の労働組合も「我々が直面しているのは第二次大戦以来なかった状況だ」との声明を出した。(毎日新聞) - 11月7日22時58分更新(引用終了) 隣国ベルギーやドイツにも飛び火しつつあるようだ。ドイツのは騒ぎに悪のりした便乗だろうが、多くの移民、特にイスラム教徒を抱えているという点ではベルギーもドイツもフランスと大差ない。フランスの事態は全くの他人事というわけでもないだろう。フランスのアラブ系・アフリカ系住民と、ドイツでマイノリティとしてはもっとも大きい勢力をもつトルコ系をいきなりひき比べることは出来ないかもしれないが。 地域統合、国家統合の新しい試みとして注目され、時として日本で奇妙に持ち上げられることも多いEUだが(「東アジア共同体」云々など)、その内情は傍から想像するほど磐石でも理想的でもないということだろう。特に移民社会であるフランスやドイツでは、この騒ぎを契機に従来の移民政策に対する見直しのようなものも進むかも知れない。今年のアメリカでのハリケーン災害の際、被災地がほとんど無法状態になったアメリカ社会の歪みや分裂をヨーロッパ人は冷笑しつつ批判したものだったが、あまりアメリカを笑えないのかもしれない。 前回のフランス大統領選挙で2割の得票を得たマリー・ル・ペンみたいなのが支持を伸ばしたりするのだろうか。フランス政府内部でも強硬派のサルコジ内相と、移民との対話を訴えるド・ヴィルパン首相やシラク大統領の間には微妙なズレがあるようだ。次期大統領の椅子を狙うサルコジ内相にとってこの暴動は自分への支持を集めるチャンスでもあるが(フランス国民の間では暴徒の強硬鎮圧を望む声が多いという)、一つ間違えると次期大統領どころか国民から総スカンを食らう恐れも無しとはしない(強硬策が連鎖反応を招いているという批判もある)。 一方ドイツで政権に就く予定のCDUはSPDや緑の党のような移民容認策ではなく、ドイツ語教育の義務化や厳格な政教分離(学校でのターバン・スカーフ着用の禁止など)を掲げるなどフランスに近い政策に転換すると思われる。特に内相に就任する予定のショイブレ氏などはサルコジ内相に近い立場と見られている。 パティターニさんが日記に書いていらっしゃるが、昨年の今頃、移民の受け入れがもっとも上手くいっていると言われていたオランダで、イスラム教を批判的に描いた映画を製作したテオ・ファン・ゴッホ氏が暗殺され、その後しばらく復讐として教会やモスクの焼き討ち事件が連鎖的に発生して衝撃を与えた。今年7月に発生したロンドンのテロののち、パキスタン系移民が猜疑の眼差しで見られている。また北アフリカのスペイン領には、大量のアフリカ難民がサハラ砂漠を越えフェンスを押し破ってヨーロッパになだれ込もうとして、スペイン当局に強制送還されるとということが続いている。 西欧諸国はかつて植民地をもった代償、「世界の中心」としてこうした「異質な」移民の受け入れをし、また「戦後ヨーロッパ的価値観の最たるもの」と主張する人権重視の立場からもそれを推進したのだが、これは本来排他的だったヨーロッパ社会には大変なストレスだったろうと想像する。昇り調子の時は良かったが、社会の高齢化が進み停滞社会となるといろいろと困難が発生するのは、文明の宿命とでもいうべきなのだろうか。偉大な統合の試みであるEUは、「鉄のカーテン」ならぬ「ユーロのカーテン」としてブロック化する徴候を常に孕んでいる。 まあ移動の自由も認めず自国民を収容所のような国家に閉じ込めるどっかの国に比べれば、ヨーロッパのこの騒ぎは自由が認められているがゆえの苦悩ではあるし、国連総会でEUが北朝鮮(あ、言っちゃった)非難決議を提出するのはごく当然のことではあるのだが。そんな国と「過去の清算」とやらの名義で大金を払って国交正常化する必要はあるんでしょうかね。例え人質を取られているとはいえ。
2005年11月07日
コメント(10)
ポーランドの新大統領が決まった。 ポーランドでは共産党の一党独裁崩壊(1989年)後、自主管理労組(共産国家では労働組合も党の管理下にあるわけね)「連帯」系のレフ・ワレサ氏が一期(5年)、そしてその急進改革路線で経済が一時的に悪化した影響で、旧共産党系のアレクサンデル・クワシニエフスキ氏が二期を務めていた。 今回の決選投票に進んだのはワルシャワ市長で右派政党のレフ・カチンスキ氏と中道リベラル「市民プラットフォーム」のドナルド・トゥスク党首の二人。顔つきはトゥスク氏が若くていかにも切れ者というイメージなのに対し、カチンスキ氏は丸顔で一見鈍重そうだが(双児の兄弟がいてやはり政治家である)、言うことはなかなか過激で強硬である。それを反映してか、トゥスク氏の支持層は西部の工業地帯や首都ワルシャワなど都市部であるのに対し、カチンスキ氏の支持基盤は東部の農村地帯と綺麗に分かれていた。 二人とも「連帯」の出身だが(まあかつてポーランドの労働者の半分の900万人が「連帯」に入っていたのだから当然か)、その政策はトゥスク氏が自由市場主義でそのため対独・対EU協調であるのに対し(かつてドイツ領だった西部のシュレジアやポメラニアではドイツ人とのビジネスが圧倒的に多い。トゥスク氏自身もドイツ語を話す)、カチンスキ氏は統制経済的で国益追求主義、そしてかつてポーランドを苦しめたドイツやロシアに対するハード・ライナーである。イラク戦争に対する姿勢も、トゥスク氏は独仏に倣いイラク占領から距離を起き即時撤兵、という主張だった。 事前の世論調査では、当初トゥスク氏が大幅にリードしていたが、カチンスキ陣営が三位候補(農民党)の取込みに成功し急追していた。選挙戦では、トゥスク氏の祖父が第二次世界大戦でドイツ国防軍に志願兵として参加していた事実が暴露されるなど、個人攻撃も行われていた(この話題はタブーだが、フランスやロシアなどでも対独協力者は非常に多く、こうしたドイツ占領下での志願兵は200万人に及ぶと思われる)。ポーランドでの最大の中傷は「泥棒、ホモセクシャル、ユダヤ人、秘密警察協力者、そして対独協力者」である。ホモセクシャルやユダヤ人中傷語というのは、いかにも圧倒的にカトリックの多いこの国らしいが、「対独協力者」というのは第二次世界大戦で国民の6人に一人が死んだその過去に根ざしている(韓国での「日帝協力者、事大主義者」という中傷が致命的なのと近いかもしれない)。 さて結果はどうだったか。 (以下引用)ポーランド大統領選、保守のカチンスキ氏が勝利宣言 【ワルシャワ=宮明敬】23日行われたポーランド大統領選の決選投票は即日開票され、中央選挙管理委員会などによると、愛国主義的で保守層に支持された右派政党「法と正義」を率いるレフ・カチンスキ・ワルシャワ市長(56)が、中道右派政党「市民プラットフォーム」のドナルド・トゥスク党首(48)を破り、勝利を確実にした。 カチンスキ市長は23日夜、「今日の結果は家族や支持者のお陰」と事実上の勝利宣言をし、トゥスク氏を支持した国民に融和を呼びかけた。 カチンスキ市長は選挙期間中、第2次大戦で破壊されたワルシャワ市の被害額を算定し、ドイツに補償を求める姿勢を見せていただけに、対独関係が悪化する懸念も出ている。 選挙管理委員会が24日未明に発表した開票率90%での最終途中開票結果によると、両者の得票率は54・47%対45・53%、9ポイントの差を付けており、同市長の勝利が確実となった。公式結果は24日午後2時(日本時間同日午後9時)に発表される予定。 同市長は、先月25日の総選挙で第1党となった「法と正義」の党首を務めるヤロスワフ・カチンスキ氏の双子の弟。 カチンスキ市長は対外的には「自国の利益第一」、内政では刑罰強化による治安の向上、弱者保護の経済運営を訴えている。23日夜には、退任するクワシニエフスキ大統領以上に「大統領権限を行使する」と明言しており、周辺諸国にとってもポーランドの内閣にとっても、“うるさ型”の大統領が誕生することになった。(読売新聞) - 10月24日12時56分更新(引用終了) 先日読んだ「フランクフルター・ルントシャウ」紙の記事に、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起や1944年のワルシャワ蜂起に参加したマレク・エーデルマン氏とのインタビュー記事が載っていた。 同氏はドイツの政権交代がドイツ・ポーランド関係に悪影響を及ぼすと懸念している。CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟)の真の実力者であるシュトイバーCSU党首(経済相に就任予定)がポーランドから追放された「追放ドイツ人」の集会に度々出席し、またこうした追放ドイツ人が同党の強固な支持基盤であるのは周知の事実である。こうした団体はポーランドに対して、終戦直後に着の身着のままで追放されり殺されたりしたドイツ系住民の遺族に対する補償を求める裁判を起こしているが、カチンスキ氏はそれに対抗して上の引用記事にあるようなドイツ軍によるワルシャワ破壊に対する補償を要求する姿勢を見せている。 エーデルマン氏はまた、最近ドイツ・ロシア間で締結された天然ガスのパイプライン建設計画をも批判する。このパイプラインはポーランドを素通りしてバルト海の海底を通ってロシアから直接ドイツにシベリアの天然ガスを供給すると言うものだが、こうしたポーランド外しは隣国である両国の友好関係を損ね、また独ソによるポーランド分割(1939年の独ソ不可侵条約の秘密条項)を連想させるものだ、と手厳しい。まあポーランドにしてみればパイプラインの使用料を徴集出来ないと言う実際的な意味もあるのだが。 同氏のドイツ批判は、日本や中国、韓国でお手本のように言われている「戦後ドイツの歴史認識」にも向かう。1970年、ポーランドを訪問した西ドイツのブラント首相はワルシャワ・ゲットー犠牲者の慰霊碑の前で跪いて謝罪し大きな感動を呼んだが、エーデルマン氏は「ブラントはポーランド人やユダヤ人のためにこのような行動をしたのではない。ドイツが反省しているということを世界にアピールするためのパフォーマンスに過ぎない。この行為は実はドイツ人のためのものだったのだ」と実に手厳しい。そして最近ポーランドの若者が過去のことを忘れがちなことの嘆き、「ドイツ人はヨーロッパの歴史の中でドイツが演じた役割をよく覚えておくべきだ。ドイツ人が作るべきは追放ドイツ人の慰霊碑では無く、ナチスの犠牲になった人々に対する慰霊碑だ」と訴える。 そして「今までのドイツとポーランドの関係は悪く無かった。しかしドイツが自分を犠牲者と位置付け、またポーランドから補償を要求するようなことを始めれば、カチンスキはドイツに対してワルシャワ破壊に対する補償を要求するだろう」と警告している。 「フランクフルター・ルントシャウ」はドイツでは間違い無く左派に位置付けられる新聞社だし(ちなみに「憲兵の祀られている靖国神社参拝はSSの墓に詣るようなもの」と比喩していた)、このエーデルマン氏は個人的経験もあって決してドイツに対して油断していないとはいえ、ドイツとポーランドの関係は決して理想的なものとは言い難いようだ。 ドイツもポーランドも共にEUに加盟し、この両国関係がいきなり先鋭化するとは思えないし、またエーデルマン氏の指摘にあるように、ポーランドの若者の間ではわだかまりはかなり薄らいでいるらしい。経済的な結びつきも最早断ち切れるものでは無い。しかし同じEU内にも関わらずポーランド人がドイツに労働のために移住することは暫定的に禁じられており、また安い労働力を求めてドイツ産業がポーランドに移転すると言うことは現実に起きている。 カチンスキ大統領の誕生が「歴史問題」を抱える両国関係にどう影響を与えるか、遠い東アジアの我々にも決して無関係な話題ではないかもしれない。
2005年10月24日
コメント(5)
今回の風邪はかなりしつこい。 ・・・・・・・・・ 僕は全然知らなかったのだが、最近相撲で琴欧州というブルガリア出身の力士が活躍しているらしい。史上最速の新入幕・三役昇進を果たし、今回の秋場所では優勝目前だとか。今回は彼の出身国ブルガリアの歴史について書いてみるか。 ブルガリアはこのところ毎年のように通過しているが、車窓から眺めるだけでゆっくり見物をしたことが無い。受けた印象は田園の多い農業国、そして都市部がすさんだ貧しい国、というものである。これはあながち間違いでもなく、農業が国内総生産の13%を占め、一人あたりGDPは3100ドルといい、これはいずれもヨーロッパではそれぞれ最高・最低水準である。 日本でブルガリアというと切っても切れないのはヨーグルトだが、「ヨーグルト」というのは本来トルコ語である(正確には「ヨールト」)。ブルガリアとヨーグルトが結び付けられたのはウクライナの生物学者イリヤ・メーチニコフ(ノーベル生理学賞受賞)が「ブルガリアに長寿が多いのはヨーグルトの常食による」と唱えたのがきっかけのようだ(ちなみに現在ブルガリア人の平均寿命は男69歳、女75歳で、とりわけ長くも無い)。日本でも学生時代の芥川龍之介が牛乳店を営む父親の為に「バルカン戦争(1912年)でブルガリア兵が勇戦したのはヨーグルトのおかげ」という宣伝コピーを作っているという。もっとも、、日本でヨーグルトが普及したのは戦後のことだろうが。 ヨーグルトはそもそもトルコ語、バルカン戦争もトルコとの戦争だが、ブルガリアは隣国トルコとの腐れ縁がある。 ブルガリアは面積11万平方キロ(日本の三分の一)、人口770万である。国土を東西に二つの山脈が走り、西の隣国セルビアとマケドニアの国境地帯は険しい山岳地帯だが、東は黒海に面し平野が広がる。北のルーマニアとはドナウ河で画されている。 トルコをヨーロッパと西アジアを結ぶ巨大な掛け橋と見立てた時、ブルガリアはヨーロッパ側の橋のたもとにあたる。西アジアは最古の文明発祥の地だが、その影響もあってブルガリアではヨーロッパでも最も早く高度な文化が発達した。紀元前4600年頃のヴァルナの黄金遺宝はその代表格だろう。青銅器時代には地中海(ギリシャ)や中央ヨーロッパとの交流を示す遺物も発見されているが、紀元前一千年紀には北方の騎馬民族の影響を受けたトラキア人の文化が栄えた。トラキア人は古墳を多く作り、黒海沿岸に入植したギリシャ人の影響を受けた豪華な副葬品を埋葬し、ギリシャの歴史家ヘロドトスをして「世界最大の民族」と言わしめている。 トラキア人は紀元前4世紀に南方のマケドニア(アレクサンドロス大王)によって征服されるが、これはマケドニアにとって全ギリシャ、ひいては西アジア征服の大きな原動力となった。アレクサンドロス王国の分裂、ケルト人の侵入を経て、紀元後45年にブルガリアはローマ帝国の支配下に入り、モエジア州に編入される。395年のローマ帝国東西分裂後は東ローマ(ビザンツ)帝国のトラキア州となった。 ローマ帝国が弱体化した5世紀頃からヨーロッパでは民族移動が活発になるが、ブルガリアにはスラヴ族が定住した。ところが679年頃、東方のステップ地域でハザール族の圧迫を受けたトルコ系遊牧民のブルガール族が、アスパルーフ・ハンに率いられ来住、現地のスラヴ族と手を組みビザンツ帝国に対抗、681年には独立を認めさせた。これをもってブルガリア建国の年としている(第一次ブルガリア王国)。支配階級であったブルガール族は少数だったためやがてスラヴ族に吸収され、民族・国名にその名を残すのみとなった。 ブルガリア王国は南方の文明国であるビザンツ帝国に殺到、その都コンスタンチノープルを包囲する(813年)ほどの強盛を誇った。ボリス1世治下の865年、キュリロス兄弟の伝道によりキリスト教に改宗した。キュリロスというとキリル文字の考案者として知られるが、ブルガリアは以来キリル文字を使用し、ギリシャ正教を奉じている。ボリスの息子シメオン1世のときに王国は全盛期を迎えるが、子の無い彼の死後王国は弱体化、1018年には「ブルガリア人殺し」と呼ばれたビザンツ皇帝バシレイオス2世により滅ぼされた。 ビザンツ帝国は12世紀半ばにノルマン人の侵入を受けて混乱するが、それに乗じてイワンとぺタール・アセンの兄弟はタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ。琴欧州の出身地)を拠点に独立する。これを第2次ブルガリア王国と呼ぶ。北方の遊牧民クマン族と結んでラテン帝国(第四回十字軍がビザンツ帝国を征服して建てた国)を攻撃し、マケドニアを征服した。イワン・アセン2世の治世下では独自の様式を持つ僧院が多く建設され、また1235年にはブルガリア総主教区が設けられ全盛期を迎える。しかし程なく北方から相次いで1242年にモンゴル軍、次いで1285年にタタール族の来襲を受け混乱、西方の新興国セルビアの攻勢もあって小国に分裂した。 南方からはさらに強大なオスマン帝国が迫っていた。イワン3世は1386年にオスマン帝国に服属するが、1389年にはセルビアと共にコソヴォでオスマン軍を迎え撃ち敗退する。ブルガリアは1396年にはオスマン帝国に完全に征服され、その一州とされた。500年に及ぶトルコ支配の始まりである。 イスラム教国であるオスマン帝国は住民にイスラムへの改宗を奨励したが、宗教に寛容な政策だったためキリスト教も残り、同じ市内にモスクと教会が混在するようになった。またキリスト教徒の子弟が徴集されてイェニチェリ(オスマン皇帝の親衛隊)とされた。17世紀以降は農民に対する収奪が激しくなり、オスマン帝国に対する反乱も度々起きたが成功しなかった。 18世紀に入るとオスマン帝国は衰退を始め、一方でロシアが興隆する。ロシアは南方への進出を飽く無く繰り返すようになる。その最終的な目的地はギリシャ正教の総本山であり1453年以来のオスマン帝国の首都であるコンスタンチノープル(イスタンブル)だったが、その途中にあるブルガリアはロシアにとって大いに利用価値があった。ロシアへの親近感を得るため汎スラヴ主義を鼓舞し、その南下運動をオスマン(トルコ)帝国支配下のスラヴ族解放戦争と位置付けた。 汎スラヴ主義に呼応して、オスマン帝国内では1875年にボスニア、ついで76年にブルガリアでも反乱が起きる。この反乱は失敗し1万5千人が虐殺されたが、この「トルコの暴虐」を口実として翌年ロシアはトルコに宣戦、大勝利を収めた。トルコとのサン・ステファノ条約によりブルガリアは自治公国とされ、事実上オスマン帝国からの独立を勝ち取った。しかしこの公国は北はドナウ河から南はエーゲ海、西はマケドニアを含むものであり(マケドニアはブルガリア総主教区に属するため)、また君主はロシア皇后の従兄弟アレクサンデル(ドイツのヘッセン・ダルムシュタット家出身)が選出されたこともあり、ドイツやイギリスなど西欧列強はこの「大ブルガリア」をロシアのバルカンへの影響力拡大として好まなかった。1878年のベルリン会議の結果、マケドニアやエーゲ海沿岸はブルガリア領から外された。 「失地」回復に燃えるブルガリアはロシアやセルビアの意に反して1885年に東ルメリア(現ブルガリア南部)を併合、セルビアと戦争になったがロシアの援助無しで単独でこれに勝利し、同年アレクサンデルを退位させ、やはりドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家からフェルディナントを君主として迎えた。宰相ステファン・スタンボロフは西欧化政策を取ったが、対露関係を重視したフェルディナントにより解任されている。 1908年に青年トルコ党革命が起きてオスマン帝国が混乱すると、フェルディナントはツァー(王)を名乗り、ブルガリアは名実ともにトルコから独立を果たした。 オスマン帝国の弱体化により、その領土の分割をめぐりバルカン情勢は西欧列強も巻き込んで一挙に緊張した。1911年にトルコがイタリアにあっけなく敗れたのを見るや、翌年ブルガリア、ギリシャ、セルビア、モンテネグロは同盟を結びトルコに戦争を仕掛けた(第一次バルカン戦争)。トルコは敗退しそのヨーロッパの領土は同盟諸国により分割されることになったが、今度はその分け前を巡りブルガリアとその他の諸国が対立した。1913年、マケドニア「回復」を目指すブルガリアはその軍事力を過信してセルビアに侵攻するが、トルコやルーマニアを含む周辺諸国の袋叩きにあい大敗した(第2次バルカン戦争)。 こうした混迷するバルカン情勢を受けて、1914年には第一次世界大戦が勃発する。ブルガリアは当初中立を維持したが、ドイツ・オーストリアにセルビア領マケドニアの割譲を約束され、1915年10月に同盟国側に参戦した。ドイツの軍事力もあって一時はルーマニアからドブルジャ地方を奪還し、セルビアからマケドニアを奪ったかに見えたが、1918年9月には連合軍がマケドニアを突破、ブルガリア軍は崩壊し降伏を余儀なくされ、国王フェルディナントは退位した。翌年のニュイイー講和条約でブルガリアはエーゲ海への出口であるトラキアをギリシャに、ドブルジャをルーマニアに割譲させられた。 1920年の第一回議会選挙では農民党が第一党になり、アレクサンダル・スタンボリスキが首相になったが、3年後にアレクサンダル・ツァンコフ率いる軍部のクーデターで殺害され、次いで発生した共産主義者の反乱は弾圧された。1934年には再び国政刷新を唱えるグループ「ズヴェノ」のゲオルギエフ大佐ら軍部のクーデターが起きるが、翌年国王ボリス3世が独裁権力を握る。 第二次世界大戦が勃発(1939年)するとブルガリアはしばらく中立を保っていたが、1941年にバルカンに戦火が及ぶと他のバルカン諸国に倣い日独伊三国軍事同盟に加盟、ドイツのユーゴスラヴィア(セルビア)侵攻作戦に参加し、再びマケドニアを奪った。しかしドイツは同年開始したソ連との戦争に敗れ、1944年にソ連軍がブルガリアに迫ると、ブルガリアでは共産党などによるクーデターが起き、新政権はキモン・ゲオルギエフを首班に指名して逆にドイツに宣戦布告した。 戦後の国民投票により王制は廃止され、9歳の国王シメオン2世は追放され、ブルガリアは人民共和国を名乗る。 1946年の総選挙では共産党が勝利、ソ連帰りのゲオルギ・ディミトロフが首相に就任した。同時に野党に対する苛酷な粛清が始まった。1947年には新憲法が制定され、産業の国有化、農業の集団化など社会主義政策が推進された。1950年に首相に就任したヴルコ・チェルベンコフは政敵を次々に粛清し「小スターリン」と呼ばれたが(中央政治委員40人のうち17人が処刑された)、1953年にスターリンが死ぬと首相・第一書記の座をトドル・ジフコフに譲った。以後実に35年の長きにわたりジフコフは独裁的な権力を維持することになる。ジフコフは親ソ路線を堅持し、ブルガリアは「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれることになった。 ジフコフは1971年には憲法を改正して国家主席に就任した。しかし計画経済が行き詰まる中、1978年には党内反対派を粛清し三万人を党から除名、1982年からは西側の技術を導入し、さらに1984年には自由化を謳った経済改革を行った。しかし急激な改革は却って債務の増加を招いた。一方1984年には国民の一割を占めるトルコ系住民にブルガリア名を強制し騒乱も起きた。 1989年、一連の東欧変革に刺激されて世情が騒然となり、トルコ系住民30万人が国外に脱出する騒ぎになる。11月にジフコフは突如辞任した。自由化を求めるデモが続く中、1990年1月には野党との「円卓会議」が開催され、共産党の一党独裁は放棄され、6月には総選挙が行われ、11月には国名がブルガリア共和国と改められた。 経済改革は効果をなかなか現わさず、社会党(旧共産党)が政権に復帰する事態も起きた。2001年の選挙では元国王であるシメオン・サクスコブルクゴーツキの率いる「シメオン2世国民運動」が勝利し、首相に就任して注目を集めた。 ブルガリアは2004年にNATOに加盟し、また2007年のEU加盟が予定されているが、経済改革の遅れや高い失業率、絶えない汚職を問題視する声もあり、前途は楽ではない。
2005年09月23日
コメント(14)
今日は一日家に居て部屋の片付けなどをしていた。気温のほうはやや暑さが和らいでいるようだ。 日本の暑さも大変なようだが、ヨーロッパの多くの地域が熱波に見まわれているようだ。フランス、イタリア、アルバニアなどでは気温が38℃に達し、お年寄りを中心にサッカー試合中の少年なども含め、20人以上が暑さのため亡くなったという。最近では2003年の夏が大変な暑さだったが、今年も4万人が暑さの為に亡くなる恐れがあるとして欧州各国の厚生省は警戒を強めている。またポルトガルでは旱魃のため深刻な水不足になっているとのこと。ドイツは今のところ水不足の心配は無いそうだ。 夏の盛りにイタリア南部(バリ)に行ったことがあるが、ものすごい暑さだった。車に乗っていたのだが窓側の腕が真っ赤に焼けた。暑いので窓を開けると熱風が吹きこんでくるので窓を閉めていないといけない。当然車内はものすごい暑さになるがその車は冷房がほとんど効かなかった。トルコでもあそこまでの暑さはあまり経験したことが無い。 ヨーロッパ(特にアルプス以北)の家は冬の寒さ対策を第一に考えているので、暑さにはそれほど対策がなされていないのではないだろうか(イタリアなどは暑さも考えているだろうが)。ドイツで扇風機などほとんど見たことが無い。「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなるところにも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」とは兼好法師「徒然草」第55段の言だが、日本とヨーロッパはその点対照的なようだ。日本の住居の冬の寒さはヨーロッパ人には耐えがたいものかもしれない。兼好の頃(14世紀初頭)は世界的な寒冷期で、日本でも桜が咲くのは4月末だったらしいのだが、それでも夏の暑さは厳しかったらしい。これはやはり湿気によるものだろうか。・・・・・・・・・・ 今年は日露戦争の日本海海戦で日本海軍がロシア海軍相手に完勝して100周年(1905年)だが、そのちょうど100年前にはトラファルガーの海戦でやはりイギリス海軍がフランス・スペイン連合軍相手に大勝利を収めている。 今日はイギリスのポーツマスでこのトラファルガー海戦の200周年記念式典が行われ、エリザベス女王も参列して観艦式が行われた。この式典にはイギリスのほかアメリカ、フランス、スペイン、ドイツ、オーストラリア、日本など50ヶ国あまりから200隻以上の新旧の軍艦が参加し、25万人以上の見物客が集まったという。 トラファルガーの海戦は1805年10月21日に行われたのだが、200周年式典はなぜ今日だったのだろう。そういや先々週ロンドンに居たとき、ネルソンを主人公にしたBBCのテレビドラマの予告編を見た。 トラファルガーはスペイン南西部にある岬の名前である。1805年当時、ヨーロッパの大陸部分では皇帝ナポレオン率いるフランスが破竹の勢いで覇権を確立しつつあった。陸上ではフランスは無敵の勢いだったが、しかし制海権はイギリス側にあり、ブレストやツーロンなどのフランス軍港はイギリス海軍の封鎖下にあった。 イギリス側の有能な提督の一人がホレイシオ・ネルソンであり、牧師の息子に生まれ12歳から海軍でのキャリアを積んでいた彼は、既にアブ・キール湾(エジプト沖)の海戦でフランス海軍に勝利を収め武名を挙げていた。フランスとの度重なる海戦で彼は何度も負傷しており、銃弾の破片で右目の視力を失い、また肘に銃弾を受けて右腕を切断していた。木造船による当時の海戦は大砲こそ使っていたものの、帰趨を決めたのは軍艦同士の接舷攻撃であり、時に敵艦に切り込んでの甲板上で凄まじい銃撃戦や白兵戦になった。 1805年、フランス側はピエール・ド・ヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊を西インド諸島(カリブ海)に派遣してフランス領ハイチとの連絡を確保し、さらにイギリスの封鎖下にあるブレスト軍港(ブルターニュ半島の先端)にある艦隊を解放してこれと合流し、英仏海峡の制海権を確保してフランス軍のイギリス上陸を支援する計画だった。この艦隊は西インド諸島に出撃したものの、ネルソン率いるイギリス艦隊に追い回され、ブレスト軍港の解放にも失敗しさしたる成果も無くスペインのカディス軍港に逃げ戻っていた。 ナポレオンはヴィルヌーヴを更迭し代わりの提督を派遣したが、それを聞いたヴィルヌーヴは汚名を挽回すべく艦隊を率いてカディス軍港を出撃した。海上封鎖中のネルソン艦隊はすぐにそれを捕捉し、10月21日早朝に両軍は接近した。フランス・スペイン艦隊の主力(隊列)艦33隻に対してイギリス側は27隻と数で劣っていたが、大砲の速射性ではイギリス側が優っていた。ネルソンは二列縦隊でフランス艦隊の隊列の中央に突っ込み(日本海海戦の日本側のT字戦法の逆である)、フランス艦隊を分断し撹乱させる戦法を取った。またイギリス側は積極的にフランス軍艦に対して接近戦を挑んだ。ネルソンは「イギリスは各員がその義務を尽くすことを期待する」という意味の旗を掲げて戦闘に臨んだ。 この海戦の結果、フランス・スペイン連合艦隊は22隻が捕獲され(スペイン海軍の残り11隻は逃走しカディスに逃げ込んだ)、死者4408人を出して司令官ヴィルヌーヴも捕虜になった。イギリス側は船の損害ゼロ、死者は449人だった。イギリス側死者の中には司令官のネルソンも居た。ネルソンは旗艦ヴィクトリー号(全長71m、重量2162トン、砲104門)で指揮を執っていたが、午後2時頃フランス軍艦レドウダブルとの接近戦に際して狙撃され左肩と脊椎に命中、レドウダブル号からの切り込み隊とヴィクトリー号の乗組員が甲板上で激闘を繰り広げる中、午後4時半に絶命した。その最後の言葉は「私は満足している。神は称うべきかな、私は義務を果たした」だったと言われている。享年47歳。 ナポレオン戦争はその後10年続くが、この敗戦でフランスはイギリスへの上陸への意志を失ってしまい、ネルソンは島国イギリスを救うと共にその海上帝国としての地位を不動のものとした。 ネルソンの遺体は聖ポール寺院に埋葬され、ロンドンには戦勝を記念してトラファルガー広場が設けられ今もネルソンの像が南方(フランス)を睥睨している。ダブリンにも記念碑があったが、1966年にIRAによって爆破された。戦死した際に彼が着ていた軍服(銃弾の穴もある)はグリニッジの国立海事博物館に、彼に致命傷を負わせた銃弾はウィンザー城に展示されている。またネルソンの遺髪は1905年に日本海海戦を祝賀して日本に贈られ(当時日本とイギリスは同盟国だった)、現在も江田島にある海上自衛隊教育参考館で見ることが出来る。ネルソンの旗艦ヴィクトリー号はポーツマス港に保存されている。
2005年06月28日
コメント(4)
今日は時々激しい雨が降る曇り空の天気だった。涼しい。 妹が見合い話を断ったという。経済・社会的には(そして人柄的にも)悪くない相手だったらしいのだが、毛が薄すぎるのと背が低すぎるのが難だったとか。それとも(家族には言わないが)別に意中の人でもいるのだろうか。僕がこうしてふらふらしているので口を挟む立場にないが、本人が乗り気じゃないのだから(お見合いしてみないと分からないとはいえ)、無理強いも出来まいなあ。こうして少子化・晩婚化が進むのか。 EU関連のニュースを手短に。 昨日スイスで国民投票が行われ、EU域内の自由移動を定めたシェンゲン協定への加盟と、難民情報の共有を目指すダブリン協定への参加が賛成多数で決定した。なお非EU加盟国のシェンゲン協定加盟はアイスランド、ノルウェーに続き三ヶ国め。 これによりスイスと隣接するEU諸国(ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア)の間の国境での入国審査が2007年に撤廃されることになる。といっても税関自体は残されるのでトラックなどへのチェックは続くみたいだし、一般入国者(車)のチェックは既にほとんど無くなっていた。僕は2000年と2001年にドイツからスイスに車で行った事があるが、その頃から既にドイツ・ナンバーの車はノーチェックで国境を越えていた。 全ての隣国がEUになってしまった現在、スイスがシェンゲン協定に加盟するのは自然ななりゆきだろう。またニュースで知ったのだが現在のスイス政府はEU加盟を目指しているという。ただ右派の国民党など加盟反対勢力も根強い。 この日の国民投票では同性婚が異性婚と民法上同等の権利(相続など)をもつことも賛成多数で決められた。これはヨーロッパでは初めてのことだそうだ。直接の関連は無いが、今日教皇ベネディクト16世はこうした同性婚を認める動きを「世界を混沌・無秩序に導くもの」として厳しく批判するコメントを出したようだ。 イギリスでは今日、予定されていたEU憲法批准の是非を問う国民投票を無期限凍結する、とジャック・ストロー外相が下院で言明した。EU加盟全25ヶ国の批准がないとEU憲法は発効しないのに、フランスとオランダの国民投票で否が表明された現状で投票を行うのは無意味と判断したとのこと。 これに対しEU議長国(今年前半)であるルクセンブルクのジャン・クロード・ユンカー首相は「EU憲法の批准手続きが死んだわけではない」と発言。EUのホセ・バローゾ委員長は「イギリスの決定は決定的なものではない」、またドイツのヨシュカ・フィッシャー外相も「これは終了ではなく(一時的な)中断に過ぎない」と述べている。ポルトガルとポーランドは予定通り国民投票の実施を行うことを発表、一方でデンマークは9月27日に予定していた国民投票について「6月16・17日の緊急EU首脳会談の後に実施か中止かを決める」と後退姿勢を示している。 この辺の姿勢は、EUを牽引する独仏枢軸と一定の距離を保ちつつ、EU内での地位確保を続けるイギリスらしいと言えるかもしれない。イギリスは共通通貨ユーロにも加盟していないが、今やユーロ圏の経済状況が軒並みガタガタ(高失業率・低成長)になりつつあるのに対して(イタリアの閣僚がユーロ脱退を主張したり、一連のEU憲法拒否によるユーロ安のせいかユーロ廃止論も取り沙汰される始末)、イギリス経済は堅調な伸びと低失業率を実現している(バブルといわれた不動産高騰も安定した)。今年の選挙で、あれだけイラク戦争参戦で批判を浴びた労働党ブレア政権が横綱相撲だったのは、この辺も関係するのだろう。EUには積極的に関わっているので「栄光ある孤立」と言うほどでもないが。もっともイギリスのマスコミや国民はEU憲法にはさしたる興味も無さそうだが。 かつて「英国病」という言葉があった。一方現在では、パティターニさんの日記で拝見したのだが、先日国民投票でEU憲法批准を拒否したオランダでは「日本病 Japaniteis」という言葉があるという。日本がイギリスに見習うべきところはあるのだろうか。
2005年06月06日
コメント(4)
6月になった。早いのう。今日は晴れてはいるが気温は20℃以下だった。 さてEU憲法の批准手続き、ドイツの隣国オランダでも国民投票が行われ(投票率64%。しかし平日にするのは何でだろうか?)、開票速報では63%が反対、37%が賛成と予想以上の大差で否決された。この明確な結果では再投票も覚束ない。投票率30%以上ならば投票結果を受け入れるとしていた議会も、この結果を受け入れざるを得なくなった。なお議会では8割がEU憲法案に賛成で、秋に議決の予定。国民投票で批准の是非を決めたフランス、国会議決だけで決めたドイツと違い、オランダでは国民投票と国会議決の両方が行われる。ちなみにオランダで国民投票が行われたのは200年ぶり以上だという。 分析ではEU憲法案の内容そのものに対する批判というよりも、ユーロ導入以降物価が上がったこと(これはドイツに居ても非常に感じる。2割は上がったような気分だ)、経済が振るわないこと、東欧の安い労働力流入への不安、そしてトルコのEU加盟反対などの感情が重なったものだという。また支持率が19%というヤン・ペーター・バルケンエンデ内閣(キリスト教民主同盟)への不満もあったらしい。そもそもEU憲法の内容は(僕もそうだが)一般にはあまり知られていないと思う。 オランダ語は昔ちょっと齧ったが(入門を買ってぱらぱらめくっただけだが)、ドイツ語に似ているので(文法的にはドイツ語と英語の中間くらいだろうか)、字面を見ればなんとなく理解は出来る。ただ話しているのを聞いても全然理解できないが。 オランダ語で「いいえ」を「ネーNee」というみたいだが、正しくは「ナインNein」というドイツでも、日常会話では「ネーNö」を使うことは多い。僕もすっかり真似して知り合いとかには「ネー」ということの方が多いのだが、ドイツ語の方言によってはオランダ語に近そうだ(そもそも言語学的にはオランダ語はドイツ語の方言だというし)。 オランダというだけで全然関係無い話。 この春の帰国時に「地球日本史」(上巻のみ。扶桑社文庫)というのを買った。産経新聞に連載されたものを文庫化したもので、西尾幹二が責任編集だという。一国史としての日本史ではなく、世界史の文脈で捉えようというものらしい。執筆陣は川勝平太、速見融、大石慎三郎、岡田英弘、芳賀徹、角山栄などの面々である。江戸時代を日本の近代化成功の土壌としてむしろ肯定的に評価し、また日本を「極東の小さな島国」などではなく、ヨーロッパと並んで「長期の16世紀」に勃興した一大勢力と評価している。この本の内容は大体どこかで(各執筆者の著書の中などで)既に目にした内容だったが、読みやすくまとまっていて面白い。 それはともかく、この本の中の一章に芳賀徹「パクス・トクガワーナ」というのがある。そこに松尾芭蕉(1644~94年)の句が紹介されている。 かびたんもつくばはせけり君が春 阿蘭陀も花に来にけり馬が鞍 前者は1678年、後者はその翌年の作だそうだ。毎年春、長崎のオランダ商館長は江戸に参府して将軍に拝謁し、交易許可の礼を述べるのが慣例だったが(東洋貿易の利を独占するオランダはその権益を守るためにひたすら下手に出ていたようだ)、江戸に出たばかりの若い芭蕉はこの光景に感動したのと、自分の住む江戸を自慢するつもりでこの句を詠んだのだそうだ。 カピタン(ドイツ語だとカピテン)の江戸参府は江戸市民にとっていわば年中行事のようなもので、「阿蘭陀渡る」という季語があったそうだ。まるで渡り鳥か何かみたいで面白い。 芭蕉よりややのちに江戸を訪れたのがドイツ人エンゲルベルト・ケンプファー(1651~1716年。日本ではケンペルと表記されることが多い)で、長崎オランダ商館付きの医師として1690年に来日、長崎商館長ファン・ボイテンハイムの江戸参府(1691・92年)に同行して詳細な日本誌を残し、1692年に離日している。その著書でケンプファーは日本の鎖国を賞賛し、五代将軍・徳川綱吉を名君と称えているそうだ(これはイマニュエル・カントの「永久平和の為に」にも影響を与えているとのこと)。 オランダ商館といえば150年ほどのちにやはりドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(ジーボルト、1796~1866年。ヴュルツブルク出身)がやはりオランダ商館の医師として来日し(1823年)、日本に関する優れた地誌を残している。ドイツ人はそういうオタク的興味が強いのだろうか。また高橋景保事件を起こして追放されるなど日本での知名度はむしろケンプファーより上だが、ヨーロッパに与えたインパクトはケンプファーの著書のほうが大きかったようで、シーボルトは出島に建立した碑文でケンプファーに対して賛辞を述べている。 ケンプファーは1651年レムゴ(ノルトライン・ヴェストファーレン州)生まれ。牧師の次男だった。30年戦争直後の荒廃したドイツにあってハーメルン、リューネブルク、リューベックなどの学校を転々としたのちクラカウ(現ポーランド領)、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)の大学で哲学や医学、博物学を学ぶ。 1681年にスウェーデンのウプサラにあるアカデミーに移り、3年後スウェーデン使節の書記官としてペルシア(イラン)を訪問、首都イスファハンやアケメネス朝の遺跡ペルセポリスを訪れ、遺跡や楔形文字のスケッチを残している(おお、僕にも関係あるのか)。その後オランダ領のインド、ジャワに渡り、長崎商館長を務めたジャワ総督ヨハンネス・カンプホイスの知遇を得て日本に渡った。 ジャワを経由して1693年にオランダに帰還、博士論文を書き上げて翌年故郷に戻っている。その後地元領主の侍医や開業医を務め、1700年に49歳で遅い結婚をしたが(新婦は16歳)、三人の子供は夭折、結婚生活もうまくいかずに離婚、かつての溌剌さを失ったまま1716年に死去した。彼の遺稿をイギリス人ハンス・スローンが買い取り編集して1727年に「日本の歴史」(英語)として出版、ヨーロッパにおける日本研究の貴重な資料となった。 漂白の人生という点ではなんとなく芭蕉に近いものを感じる。ケンプファーが参加した1692年の「オランダ渡り」のときは芭蕉は江戸に居たはずだ。まあケンプファーは若い頃、芭蕉は晩年旅に生きたという違いがあるけど。あと激越な民族主義を経験した19・20世紀を経た現在はともかく、オランダとドイツというのは近かったのだろう。
2005年06月01日
コメント(4)
今日は時々晴れ間が覗いたが比較的涼しい一日だった。もう5月も終わりか。 もうすぐ10万ヒットが近い。楽天日記に移ってから2年近くになるが、去年の今頃2万ヒットだったことを思うと増えたものだ。まあ10万のうちかなりの部分(半分以上?)は自動巡回やアフィリエイト目的の足跡付けだけが目的の訪問者だったのだろが、それでも大した数だ。カウンターなど所詮は目安で、まあヒット数稼ぎが目的ではないので、10万ヒットの方に何か出るわけではないですが。 ライコス日記の時には1年半でおよそ2万ほどのヒットがあった(こっちは自動巡回は無かっただろう)。ブログそのものを始めたのは2001年7月で、今は無い「大塚日記」で日記を書いていた友人の真似で気軽に始めたのだが、こんなに続くとは思わなかった。大塚がその年10月に吸収されてライコスに移り、ライコスが楽天に吸収されて2003年に楽天に来た(楽天への移転の手続きがうまくいかず、ライコスまでの日記は個人的バックアップしかない)。 楽天に移ってからは平均すると一日160回ほどの訪問があったようだが、一番多いときは一日で5000回くらいの訪問があった(在留外国人の日独での権利比較について書いた日記が、人気個人ニュースサイトで紹介されたため)。あの時は驚いた。夏場はほとんど更新しないので訪問者も少なく(ちなみに日記記入率は69%)、ばらつきがかなり多い。ここ数日は大体500くらいで推移している。半ば自分の勉強(専門外のことが多い)・雑学のメモ帳代わりに書いている日記なので読みづらいだろうに、これだけの訪問者があることに感謝したい。 他の方の日記(ブログ)から学ぶことも多い。ここからもお気に入り登録している七詩さん、shaquillさん、mihriさん、10号館さん、eugene9999さん、eba3515さん、だーれんさんのブログはライコス日記の頃から読ませていただいている。楽天に来てからその輪が大きくなったし、現実の知り合いでブログをする人も増えている。楽天でお気に入り登録してくださっている方もかなりの数に登るが、こちらからの楽天お気に入り登録は「広く情報を共有してもらいたい内容の日記」(雑学・学術・海外事情・ニュース)及び「コメントをよく下さる方・更新を頻繁にしている方の日記」に限っているので、つい失礼してしまっている。お気に入り登録して下さっている方の日記には更新の度に訪れるようにしてはいるが。 この春からはなんと妹までブログを始めた。わざわざ知らせてくれたので知ったのだが、僕は自分のブログをあまり家族とかには見てもらいたいとは思わない。別にこのブログにはプライベートの突っ込んだこととか書いてはいないのだが。ともかくブログは有力な情報媒体となりつつあると実感している。 えーと、今日のニュース。 国民投票でのEU憲法条約否決を受け、フランスのジャック・シラク大統領はジャン・ピエール・ラファラン首相を更迭し、ドミニク・ド・ヴィルパン内相を後継首相に指名した。大統領権限の強いフランスはドイツや日本とはえらく違う。シラク大統領自身に辞任する気はないらしい。ラファラン前首相は丸顔で人は良さそうなのだが、どうも田舎者イメージであまり支持されていなかったらしい。一方イラク戦争(2003年)前の国連安保理で外相としてアメリカを向こうにまわして弁舌を振るったド・ヴィルパン新首相に好感を持った人も多いだろう。そのド・ヴィルパンがオテル・マティニョン(首相府)の主になった。 フランスはアメリカ主導のイラク戦争に際して武力行使に反対し、当時日本ではフランスをドイツと共にあたかも平和の使徒のように思った人も多いだろうが、同じ人たちがおそらく1995年(シラク政権誕生直後)のフランス核実験の時には「フランス製ブランド品不買運動」を唱えていたのだろうと思うと、国際政治というのは面白い(古代史が専門の僕が現代に興味があってブログに書くのはこの辺にも理由があるのだが)。クビになったラファラン首相はEUの中国への武器輸出解禁を積極的に働きかけていたが、ドイツもフランスも自分の都合・利益のためなら味方を替えるのを厭わない国である。むしろそれが当たり前なのだろうけど。僕などは以前は嫌いだったが、最近はむしろそういうフランスを小気味良く思っているのだが。 この新政権には2007年の次期大統領選挙の有力候補とされるニコラス・サルコジUMP(国民運動)党首・元内相が内相として入閣することになった。同じ保守党内のライバルであるサルコジ氏を煙たく思っていた三選を狙うシラク大統領だったが、さすがにまずいと思ったのだろうか。それともサルコジ氏の共倒れを狙ったものか。双方どろどろした思惑がありそうだ。ちなみにこのサルコジ元内相、かつて訪問先の香港で「日本の文化は中国のそれに比べて陰気で詰まらない」と、中国のご機嫌取りの為とはいえ第三者の日本をこきおろした人である。若手のサルコジ氏はフランスでは支持があるそうだが、この人に比べればもうろくしていても親日派で相撲の大ファン、執務室に縄文土器を飾っているというシラク大統領のほうが好感が持てる。 ド・ヴィルパン内相の経歴をウィキペディアやニュースから拾ってみる。フランス語には慣れていないのだが(発音も出来ない)、字面を追えば大体の内容は理解できる。 ドミニク・マリ・フランソワ・ルネ・ガルーゾー・ド・ヴィルパンは1953年11月14日、フランス領モロッコ(当時)のラバト生まれ。この長ったらしい名前が示すように貴族の家系だそうだ。父親グザヴィエは外交官ののち元老院議員(息子の外相就任時には元老院外交・国防委員長)、また祖父もブルターニュ銀行総裁を務めるなどの名門とのこと。 そのせいか知らないが彼はワインに造詣が深く、また詩人として詩集を2冊発表している(1986年「亡命者の言葉」、1988年「老人の権利」)。また2001年には「100日天下または犠牲の精神」という長大なナポレオン晩年の評伝を著している。フランス皇帝ナポレオン(1世)を尊敬しており、また政治信条としてはド・ゴール主義者に属す。つまりは「強いフランス」が好きなんですな。最近著にはエッセイ集「鮫とカモメ」、「ヨーロッパ人」など。身長は192cmで、マラソン走者でもあるそうだ。 外交官の父親の任地であるヴェネズエラの首都カラカスで成長し、パリの名門政治学院(IEP)に学び、官僚養成機関である国立行政学院(ENA)に入学している。在学中の1977年にシラク首相(現大統領)の率いる保守系右派政党RPRに入党。1980年に同学院を卒業して外務省に入省してアフリカ局に配属され、エリート外交官としての道を歩み始める。1984年一等書記官としてワシントンの在米フランス大使館に勤務、その後二等領事としてワシントン、ニューデリーに勤務、ニューデリーで筆頭領事となった。1992年に外務省アフリカ局長、1993年にアラン・ジュぺ外相(バラデュール内閣)の下で外務事務次官に就任する。 1995年にシラク大統領が当選しジュぺ外相が首相に就任すると、ド・ヴィルパンは大統領府(エリゼー宮)の官房長官に抜擢されシラク大統領の側近となった。シラク大統領の腹心として安定多数の樹立を目指した1997年の解散・総選挙に関わり、結果的に大敗して社会党政権(ジョスパン首相)の樹立を許した。このため与党の国会議員から総スカンをくらい、また自身が政治家でもあるシラク大統領のベルナドット夫人には特に嫌われ、その風貌や自殺的な解散総選挙を遂行したことから「ネロ」というあだ名をつけられ(ローマ皇帝ネロがローマ市に放火してそれを口実にキリスト教徒を弾圧した故事による)、無視されるなどしていじめられた。 2002年にシラク大統領が再選すると、大統領は腹心のド・ヴィルパン官房長官をラファラン内閣の外相に据えた。上記のようにイラク戦争直前の国連外交においてアメリカによる武力行使に反対して(「戦争というオプションは先験的にもっとも手っ取り早い解決とされるが、戦争の勝利ののちには平和が樹立されるべきことを忘れてはなるまい」)、知名度を高めた。その他彼の発言として知られるのは「『対テロ戦争』という言葉は適当ではない。戦争には規則に則って始められ、どのように終わらせるべきかという国際的な認知と説明が必要だが、この言葉にはその両方が欠けている」などだろうか。2004年にサルコジ内相が2007年の大統領選挙出馬を念頭に与党UMP党首に就任するため辞職すると、その後任として内相に転じていた。 懐刀であるド・ヴィルパン氏の首相就任はいわばシラク大統領の「伝家の宝刀」という訳だが、選挙を経ないでただ大統領の任命によって成立したド・ヴィルパン内閣の先行きは厳しそうだ。「シュピーゲル」はこういう成り行きで首相になったド・ヴィルパン氏を、彼が尊敬し伝記まで書いたナポレオンのエルバ島脱出と政権奪還(1815年)になぞらえ、「他のEU諸国は、彼(ド・ヴィルパン)がワーテルローの敗戦で終わらないことを望むばかりだ」と皮肉っている。 (追記) イラク戦争直前の国連安保理におけるド・ヴィルパン演説(2003年2月14日)はこちらで日本語の全訳を読むことが出来る。末尾の「フランスは、歴史に照らして、そして人類の前で、公正でなくなったことはない」というのが凄いですね。言い切ってるし。アルジェリア人やヴェトナム人はよほど寛容ということなのだろうか。
2005年05月31日
コメント(2)
今日も曇っている。ウィークデイはまずまずの天気なのに、週末の天気が崩れるということが続いている。先週のような雨ざあざあではないが。というわけで家に居る。 恒例のユーロヴィジョン音楽祭がウクライナのキエフで開催された(前回優勝者を出した国で開催される)。優勝はギリシャのヘレナ・パパリゾウの「マイ・ナンバー・ワン」で、前回のウクライナ(ルスラナ)、前々回のトルコ(セルタブ・エレネル)に続いて東方優位が鮮明だった。残念ながらうちにはテレビが無いのでこの様子は見られなかったのだが、写真を見る限りこのギリシャの歌手も浅黒い肌に露出の大きい服で、なんとなくオリエント志向な気がする。トルコ出身のセルタブはもちろん、去年のウクライナの歌手も完全にオリエントイメージだったように思うし。ギリシャ代表の優勝は踊りと衣装で稼いだ面があると指摘されている。 ちなみに今年の2位はマルタ、3位はルーマニアだった。マルタの歌手は最近の大勢(へそだしルック、派手な振りつけや演出のアップテンポな曲)に対してステージに立つだけでバラードを歌って観客を魅了したそうだ。こういうのを聞くとホッとする。あとドイツ代表のグレイシア(22歳)は4ポイントしか獲得できず、前年以上の惨敗(本選参加国中最下位)だったようだ。ドイツ代表をポップスやディスコ音楽で出すのはそろそろ再考したほうがいいんじゃないか。って他に無いのか。 ドイツ北西部のノルトライン・ヴェストファーレン州での州議会選挙が始まった。ルール工業地帯を抱えるこの州はドイツ最大の人口を抱え、有権者も1300万人にもなる。過去30年以上SPD(社民党)が政権を維持してきたが、連邦政府でのSPD・シュレーダー政権の不人気のあおりもあって苦戦している。 事前のアンケートでは野党CDU(キリスト教民主同盟)が7ポイントリードしており、地方選で惨敗続きのSPDはまたも敗北が予想されている。先日行われたSPDのペール・シュタインブリュック州首相とCDU候補のユルゲン・リュトガース候補とのテレビ討論会でSPDがやや支持を回復したようだが。シュタインブリュク首相は丸顔でタヌキを連想させるなあ。 ともあれ、労働者階級が多くSPDの牙城だったこの州でも敗北するとなると、与党には大打撃になる。SPD内部にはシュレーダー首相・ミュンテフェリング党首の退陣や連邦政府の連立組替え(CDUとの「大連立」)を公言する人も出てきているが、首相は辞めやしないだろう。日本もそうだが、この状況(構造不況?)で誰もが満足するような政治運営は誰がやっても難しいのではないか、と傍から見ていて思う。シュレーダー首相が功績として認められているのは外交面(EU拡大とイラク戦争不参加)くらいじゃないだろうか。(以下引用) アゼルバイジャン、カザフでも野党集会【モスクワ=五十嵐弘一】インターファクス通信などによると、旧ソ連・アゼルバイジャンの首都バクーで21日、野党勢力が公正な選挙の実施などを要求する集会を開催、45人が当局に逮捕された。 また、カザフスタン南部のアルマトイでは22日、野党が言論の自由を求める集会を開いたほか、モスクワでも同日、露民主派野党「ヤブロコ」などが同様の集会を開き約1500人が参加した。グルジア、ウクライナ、キルギスと続いた政変で、旧ソ連圏の野党勢力が勢いづいていることがうかがわれる。 アゼルバイジャンの集会には数千人が参加し、今年11月に予定される同国議会選の公正な運営などをアリエフ政権に求めた。同国での本格的な野党集会は約1年半ぶり。 2003年10月、野党が大統領選の結果を不正だと主張し抗議デモを行った際には、治安部隊が強制排除し死者3人を出したが、21日の集会では警察側は実力行使しなかった。ウズベキスタンのカリモフ政権によるアンジジャン暴動弾圧が多数の犠牲者を出し、国際的非難を招いていることを考慮したものと見られる。 アゼルバイジャンやカザフスタンでは、政権の腐敗などを批判した新聞が発禁処分となるなど、政権による言論統制が続いている。(読売新聞) - 5月22日19時22分更新(引用終了) アゼルバイジャン、カザフスタンについては過去の日記に書いたので繰り返さないが、中央アジアの国の政体はどこも似たり寄ったりである(「永世中立国」トルクメニスタンの個人崇拝は際立っているが)。アゼルバイジャンとカザフスタンの政権は親米姿勢を見せることで生き残りを図ろうとしているようだが。特にアゼルバイジャンのアリエフ政権は大統領一族による石油権益の私物化、親子による大統領継承など甚だしい。 トルクメニスタンとかを見ていると、結局北朝鮮みたいに「鎖国」するのが政権維持の秘訣なのだろうか。 今ラジオでニュースを聞いていたら、僕の住むマールブルクで28歳のパレスチナ人男性(無国籍)が逮捕されたという。二人の仲間と共謀して93万ユーロの生命保険金を略取して国際テロ組織アルカイダの資金源にしようとしたのがその容疑だという。多分大学に留学生として来ていたのだろう。まさか僕と同じ寮じゃないだろうね。こっちに来てからアルカイダ系組織に勧誘されたのだろうか。 にわかに身近な話になったが、僕もお世話というか嫌な目にあったここの市役所外国人局の外国人、とりわけ中東系の人への風当たりがますます強くなりそうだ。(追記) このパレスチナ人は医学部の学生でイスマイルという名前だそうだ。逮捕された場所はやはり僕の住む寮だったらしい。パトカーとか来てたっけな? 夕方に激しい雷雨になった。 さらに追記; NRW州議会選挙での大敗(まだ開票中だが)を受けて、シュレーダー首相は2006年の総選挙の今年秋の前倒し実施を発表した。SPDの支持が史上最低に落ち込んでいるときの総選挙実施は「政治的自殺」という声もあるが、責任問題をめぐって党内の内紛と分裂を防ぐ、首相候補指名での党内紛争(メルケル、シュトイバー、ヴルフ・・・)が予想されるCDUの準備が整わぬうちに選挙に持ちこもうという狙いもあると思われる。 CDUでは前回2002年の選挙で代表として選挙戦を戦ったシュトイバー・バイエルン州首相(CSU党首)が「首相候補にならない」と宣言しているようで、党内で反対が無く順当にいけばアンゲラ・メルケルCDU党首が首相候補になる。もし選挙で順当にCDUが勝てば、ドイツ史上初の女性首相誕生となる。ただし彼女の実力については疑問の声も多いし、CDUに代わっても劇的にドイツ経済が良くなるとは思えない。外交では多少対米協調に転じるかもしれないが。
2005年05月22日
コメント(0)
聖霊降臨祭で休日の今日は、どうやら天気が好転したようだ。夕方K君たちとイタリア料理を食べに行く予定。 ついでにその店の近くにある、先週郊外で見つけた防御教会(Wehrhafte Kirche、塔を持ち周囲の壁に銃眼を備えた教会)をもう一度見ておきたい。先週日曜の日記に書いたので繰り返さないが、集落の中心にある高い塔をもつ教会は、農村共同体の有事の際の防衛施設に早代わりした(都市の場合は初めから城壁で囲まれているが)。 先日本屋でこの周辺の防御教会に関する研究書をみつけた。あまり厚くなく小さい本だが25ユーロする。ぱらぱらめくってみたがやはりそのような教会はその起源は多くが13世紀のようだ。人口が急増した13世紀は都市が盛んに建設されただけでなく、開墾が進んで新村が増えている。先週行った集落も史料に見える最初の言及が1232年というから、おそらく13世紀初頭に開墾されて出来た集落なのだろう。もっともヨーロッパはその次の14世紀に気候の悪化(寒冷化)と東方起源のペストの大流行で人口が激減するのだが。 日本なんかだと一向一揆は寺院を中心にしていたと思うが(石山本願寺などは城といってもいいようだが)、ヨーロッパほど高い塔は無い(せいぜい鐘楼くらいか)。大和や河内にある環濠集落や寺内町など(平野、富田林、貝塚など)はヨーロッパに近いだろうか?(ただこれは集落全体が防御されているので、むしろ都市といったほうが良さそうだ)。銃眼こそ無いが、壁に囲まれた寺院が権力者の戦争の防御拠点にされること自体は日本でもよく行われていて、14世紀の南北朝の戦乱を描いた「太平記」には京都の東寺や岩清水八幡宮で攻防戦があったように記憶している。戦国時代にも織田信長関連だけで見ても、京都の本国寺や本能寺は実際に戦場になっている。徳川家康が帰依した京都の知恩院(浄土宗)などは高い石垣があるが、あれは城壁の無い京都にあって有事を想定したものだとよく言われている。 最近のイラクでは武装勢力がモスクにこもって米軍に攻撃されるということが起きているが、モスクはエザン(礼拝の呼びかけ)のための塔があるとはいえ、開かれた構造で戦闘を予期した作りにはなっていないように思うが、どうだろうか(もっとも、スペインのコルドバにはローマのカステルを模倣した「城塞モスク」というのがあるそうだが)。キャラヴァンサライ(隊商宿)などは盗賊の襲撃に備えているだけにそのまま砦になりそうだが、メドレセ(イスラムの神学校もしくは修道院のようなもの)はキャラヴァンサライと構造が同じだし、うーむ。 えらく脱線したが、今日は聖霊降臨祭で休日である。ところが「この日を休日にするのはやめよう」という議論が経済界を中心に起きている。ドイツ人は休み過ぎだ、休日を減らせば景気振興にもなる、というのがその理由(だいぶ緩和されたとはいえドイツには「閉店法」があるので、日本と違い休日には商店は休まなければならない。だから休日が多いと売上げが落ちる)。同じ理由で政府はドイツ統一記念日(10月3日)も休日から外そうとして猛反発をくらい取り下げた経緯がある。 ドイツでは「熱心なカトリックの多いイタリアでさえこの日は休日ではない」とこの日を休日から外すことを正当化する意見もある。同じくカトリック国のフランスは今年からこの日を休日から外した。「団結の日」と名づけて、高齢者扶養の財源確保(税収増)の為にこの日も働こう、と政府は呼びかけた。ところが労働組合などがこの休日削減に猛反発、フランスでは今日ゼネストが起きて実質休日状態だという。難しいもんですな。 ウズベキスタンのことが気になって、長澤和俊「シルクロード」(講談社学術文庫)をぱらぱらめくっていたら、今回のウズベキスタン騒擾の発端となったアンディジャンが出てくる。清代(18世紀半ば)の記録にはこうある。「・・・アンディジャンの人は、いながら金貸しをして利息をとり、或いは商品を積んでキャラバンを編成し、風雪や危険をものともせず、何年たっても利益を得なければ帰国しない。内地の人はみな彼らを安集延回子(アンディジャンのイスラム教徒)と呼ぶ。(中略)私が思うに、アンディジャンやカシミールは、皆西域商賈の故郷であり、吝嗇で性急であり、その習いは染まって性をなしている・・・」 アンディジャンがあるフェルガナ盆地は当時ウズベク族のホーカンド・ハン国の支配下にあった。ホーカンド・ハン国は清に朝貢する一方、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国といった中央アジアのオアシス国家や北方の遊牧民カザフ族を通じ、シベリアに進出したロシアとも交易していた。中国からの輸出品は茶、絹織物、陶磁器、アヘンで、ホーカンド・ハン国からは馬、毛皮、さらにロシア製の小銃、刃物やヨーロッパの商品などが輸入された。当時イギリスはインドを支配下におきつつあったが、まだまだ内陸ルート(いわゆるシルク・ロード)も重要だったようだ。 イギリスがインドを完全に支配下に置いた19世紀半ば、ロシアも対抗して中央アジアの保護国化を進め、ホーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されてしまう。東西交易を牛耳りたい内陸帝国のロシアと海上帝国のイギリスが緩衝地帯のアフガニスタンをめぐって争ったのは(1879年にアフガニスタンと英領インド=パキスタンの国境画定)、当然の帰結だったのだろう。その構図は基本的には現代もあまり変わらないように思う(イギリスがアメリカに代わったが)。ロシアに続くソ連支配下でウズベキスタンは綿花供給のためのモノカルチャー経済(大規模な灌漑農耕)を強いられ、交易というよりむしろ農業中心の「貧困」地帯になってしまったのは、中国人に「吝嗇で性急」と言われた過去を思えば何とも皮肉な話ではある。 ついでにウズベク、カザフ、キルギス、ウイグルについて。これはいずれもトルコ系民族であるが、明確に分かれたのは案外新しい。ウイグルに関しては唐の時代から東西交易に活躍しているが(それを追ったのはやはりトルコ系のキルギス族だが)、名前は同じでも現在との連続性があるのかどうかは僕には分からない。 14世紀にサマルカンドに都して中央アジアを大統一したティムール(1336~1405年)ののち、その帝国は四分五裂する。1451年にその曾孫アブ・サイードは北方のウズベク族の力を借りて帝国を再統一したが、かえってウズベク族の台頭を招くことになった。同じ頃、ウズベク族はアブル・ハイル・ハンの下に初めて統一され南下を始める。 ところがアブル・ハイル・ハンの支配に不満を持つものは北東に逃れチュー川のほとりで遊牧生活を営んだ。こうした反逆者はトルコ系言語で「カザーフ」(冒険者)と呼ばれたが、これが今のカザフ族の起こりだという。ちなみにロシアの「コサック」もこのカザーフと語源は同一である。 さてウズベク人国家はその後モンゴル人の襲撃で四分五裂したが、孫のシャイバーニー・ハンは再統一に成功、ティムール朝をも倒して今のウズベキスタン全土を支配した。シャイバーニーは1511年にペルシア(イラン)の新王朝サファヴィー朝と戦い戦死、その隙に乗じてティムール五世の孫バーブル(当時アフガニスタンを領有)は中央アジアを回復しようとしたが却ってウズベク族に撃退され、南方のインドに転進した。これがムガール帝国(1526~1858年)であるが、ムガールとはティムールの出自であるモンゴルの訛りであり、要するに「モンゴル帝国」である。この出来事が現在のウズベキスタン及びインド亜大陸のイスラム教国・パキスタンの基礎となっている。パキスタンの公用語はウルドゥ語だが、これはトルコ語で「軍隊・陣営」を意味するオルドゥのことだろう(いかにも征服王朝の言語らしい)。その後ウズベク族がホーカンド、ブハラ、ヒヴァの3ハン国を建てたのは上記の通り。 一方今の新彊北部、ジュンガル盆地にはモンゴル人のチャガタイ・ハン国があったが、西方から上記のカザフ族やキルギス族の圧迫を受け、多くはそれに合流したが、一部が南方のタリム盆地に逃れて定住したが、これが現在のウイグル族の祖であるという。こうしてみるとモンゴルとトルコを分けるものはきわめて曖昧だし、「なんとか族」といっても単に首長がそう言い出したらそうなるだけで、構成員はかなり出入りが激しいようだ。むしろこうした部族がヨーロッパ式に民族に置きかえられ、ロシアやソ連の分割支配(「Divide et impera.」)に利用されたのだろう。
2005年05月16日
コメント(4)
この週末は月曜が聖霊降臨祭(Pfingsten)で休日なので連休になる。 だが天気はあいにくで、昨日は一日中雨が降り続いていた。最近(4月からだが)週末は家に居ないでなるべく外出するように心がけているのだが、この天気では外出する気になれない。明日(月曜)は曇ってはいるが雨は降らなさそうなので、旧市街を散歩でもするか(古い建物の写真とか撮りたいし)。月曜は博物館が休みなので(しかも明日は休日で本屋も閉まっている)、僕は外出してもあまり面白くないのだが。 中央アジア・ウズベキスタンの暴動騒ぎは思ったよりひどい事態になっているらしい。(引用開始)<ウズベキスタン>死者300人の情報も 暴動拡大の様相 【モスクワ杉尾直哉】中央アジア・ウズベキスタン東部のアンディジャンで起きた大規模な反政府暴動で、治安部隊の武力制圧で死者数百人が出たとみられる事態を受け、カリモフ大統領は14日、首都タシケントで会見し「誰も発砲を命じなかった」と釈明した。非合法イスラム原理主義組織「ヒズブアッタハリル」(イスラム解放党)の扇動と断定、民主化デモだとの見方を否定した。 ウズベクの民間ニュースサイトは、14日朝に市内で新たな銃撃戦があったと伝えた。また、13日の暴動では約300人が死亡したとの情報があり、舞台となった州政府庁舎前では、14日に銃撃で死亡した住民の遺族を含む1万人規模の抗議集会が開かれているとみられる。 さらに、同じフェルガナ地方の東部カラスでは反カリモフ政権派の住民が市長を拘束、住民側が権力を掌握したとの情報が流れるなど、反政府暴動は各地に広がりそうな様相を示している。 一方、アンディジャンから約30キロにある隣国キルギス国境検問所に避難の市民3000~5000人が殺到し、国境を越えているとの報道もあり、周辺諸国を巻き込んだ混乱に発展しつつある。 カリモフ大統領は会見で、アンディジャンでの暴動は「約3人が主導し、携帯電話でアフガニスタンの人物と通話していた」と述べ、アフガンのテロ組織との関連を示唆した。(以下略)(毎日新聞) - 5月14日23時29分更新(引用終了) ウズベキスタンも一連の「なんとかスタン」の国で、かつてのソ連の一共和国で住民の多くはトルコ系、そしてイスラム教国である。大統領のイスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ氏は例に漏れず1991年の独立以来大統領の任にある(この「なんとかヴィッチ」と父親の名前をミドルネームにするのはロシア支配の名残だろうか。アゼルバイジャンでは「~(父親の名前)オウル」とトルコ語で表現していたが)。 似たようなキルギスタンのアカエフ大統領は3月の暴動でほぼ流血騒ぎのないまま追放されたが、ウズベキスタンでは流血の騒ぎになっている。カリモフ大統領はこの暴動をイスラム原理主義勢力の扇動と断定し武力鎮圧を肯定し、またロシアも早々とカリモフ大統領支持を打ち出している。キルギスタンのときはどうもロシアはアカエフ大統領に引導を渡していたらしいのだが、こうも対照的な対応を見せるのは、相手がイスラム原理主義勢力とみているからだろうか。しかしアルジェリアやここ中央アジア、そしてイラクなんかもそうだろうが、民主主義的に「民意に基いた」選挙をするとアメリカやロシアの望まないイスラム色の強い候補が勝っちゃうんだよな。まあこの暴動はカリモフ大統領が断定するほど単純なものでもなさそうだが。 この暴動もキルギスタン騒擾と同じくフェルガナ地方(中国の古籍に見える「大宛国」)に端を発しているのも注目したいところ。豊かなオアシス農耕地帯だったフェルガナは今ではキルギスタン、ウズベキスタンに分割され、産業化から取り残された低所所得地域になって原理主義者の拠点になっているようだ。僕の知り合いたちはウズベキスタンで発掘調査をしていたが、何年か前には治安が悪化したというので渡航延期勧告が出て調査を中止したこともあった。 次は一番強権政治がひどいというトルクメニスタンあたりか?産油国アゼルバイジャンも親子による権力継承が行われ(一応選挙はあったが)個人崇拝まがいのことが行われているが、親米的なのでしばらくは安泰だろう。その他旧ソ連ではアメリカはベラルーシのルカシェンコ政権を倒したくてしかたないようだが。追記:「トルクメンバシ(トルコ人の頭)」ことニヤゾフ大統領が「終身大統領」(ただし70歳になる2010年での退任を予告している)を勤めるトルクメニスタンは、民族主義を巧みに利用した政策や実質的な鎖国もあって国情は比較的安定しているらしい、またトルクメニスタンは「永世中立国」だそうだ。 もう一つ、気に入ったニュースが先立ってあったので貼りつけておく。(引用開始)<プーチン大統領>「バルトは大国の小銭」ソ連併合を正当化【モスクワ杉尾直哉】ソ連の対独戦勝利について、バルト3国が「ナチに代わるソ連支配の始まりだった」と反発している問題で、ロシアのプーチン大統領は10日、「当時、弱小国・弱小民族は、(大国の)密約で使われた小銭だった」と語り、独ソ不可侵条約(39年)の秘密議定書で、バルト3国のソ連併合が決まった歴史を正当化した。プーチン大統領は「残念ながら、それが当時の現実だった。欧州各国による植民地支配、米国の奴隷労働と同じだ」と語った。発言は、バルト3国や欧米の反発を強めそうだ。(毎日新聞) - 5月11日19時53分更新(引用終了) これを見たときは微苦笑を禁じえなかった。あまりに正論すぎるのだが、こりゃあバルト三国も怒るでしょう。なんかよその国の話と思えないような・・・。 リトアニアのアダムクス大統領、ラトヴィアのフレイベルガ大統領は共にソ連支配を嫌ってそれぞれアメリカ、カナダに亡命している。あまつさえアダムクス大統領は対ソ闘争に参加してドイツ軍の撤退と共にドイツ経由で渡米している。彼にとってはナチスはソ連よりましだったのかもしれない(上に見るとおり独ソは本来同じ穴のムジナだったが)。 この経歴といい、このプーチン大統領の発言といい、アダムクス大統領が先日モスクワで開かれた対独戦勝記念日への参加を拒否したのも頷ける(フレイベルガ大統領は参列。エストニアのアルノルト・リューテル大統領も参加拒否)。そういえば先日ポーランドで行われた世論調査では「ロシアとドイツどちらに親しみを感じるか」という問いに対し、圧倒的にドイツのほうが評価が高かったという(まあこれには直近の戦後やEU加盟が影響しているのだろう)。ロシアに対してやはり恐怖感があるようだ。 気が向いたらウズベキスタンについて追記します。
2005年05月15日
コメント(4)
今日はまずまずの天気だった。僕はというと長時間の飛行の疲れのせいか微かな頭痛を伴い身体がだるく、結局一日中家に居た。「エコノミー症候群」というのがあるが、いささか心配である。 今日は新教皇ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿)についてニュースを拾ってみる。新教皇は今日行われた最初の説教で、前教皇が続けていた他宗教との対話を呼びかけると共に、キリスト教の統一こそが最重要とする見解を示した。 まずはドイツ出身の教皇について。過去ドイツ出身の教皇は7人居たという。ただしベネディクト16世の前のハドリアヌス6世は厳密にはオランダのユトレヒト出身で、当時オランダはドイツ帝国の一部とされていたので「ドイツ人」扱いされている(オランダ人は怒るだろうが、まあオランダ語はそもそもドイツ語の一派のようなものらしいのだが)。 最初の「ドイツ人」教皇はグレゴリウス5世(在位996~999年)で、俗名をブルンといった彼は24歳のとき、996年にローマを占領した従兄弟にあたるザクセン朝のドイツ皇帝オットー3世によって教皇の地位に据えられた。グレゴリウスによってオットーは神聖ローマ皇帝の冠を授けられている。いわば世俗権力であるドイツ皇帝の傀儡であり、反皇帝派の叛乱にあってローマを逃亡したりもしている。ローマに舞い戻るもマラリアで在位3年にして病死した。 およそ50年後、ローマを支配するドイツ皇帝(フランケン朝)ハインリッヒ3世(在位1039~56年)はドイツ人を次々と教皇に据え、それは4代に及んだ。最初は1046年に即位したクレメンス2世で、ザクセン貴族からバンベルク(ドイツ)司教になった彼はドイツ皇帝ハインリッヒ3世によって教皇に据えられた(当時はコンクラーヴェは存在しない)。クレメンス2世はローマの貴族を抑え教皇庁の汚職を防ごうとしたが(地位の金銭による売買の禁止、聖職者の婚姻禁止など)、即位の翌年鉛を盛られて毒殺された。その墓は故郷バンベルクにある。次のダマスス2世はフランケン貴族の出身、マラリアに罹り在位23日で死去した。 続くレオ9世はエルザス(アルザス)貴族の出身(俗名ブルーノ)でトゥール司教から教皇に指名され、各地を巡幸し教会制度を改革して汚職撲滅を目指した。彼の在位の末期である1054年、カトリックと東方教会(ギリシャ正教)との断絶が決定的となり、キリスト教は東西に分裂する。同じ年、南イタリアのノルマン人(ヴァイキング)討伐に従軍した彼は捕虜となった。 次いで1055年にシュヴァーベン貴族出身のヴィクトル2世が即位する。2年間の彼の任期中にハインリッヒ3世が死去する。その後を継いだハインリッヒ4世(在位1056~1106年)はのちにローマ教皇と叙任権闘争を繰り広げる人物だが(1077年1月の「カノッサの屈辱」事件で有名)、この時はまだ幼く母が摂政を務め貴族や聖職者の権力が増大、皇帝権力は一時的に衰えた。ヴィクトルに続くシュテファン9世(在位1057~58年)はロートリンゲン(ロレーヌ)地方の出身で(現在の国名でいえばフランスになるので、彼をドイツ人教皇に含めない場合もある)、8ヶ月在任した彼を以って「ドイツ人教皇」の時代は幕を閉じた。(シュテファンの次ぎのニコラウス2世もロートリンゲンの出身でドイツ系と見れなくも無いが、対立教皇ベネディクト10世が居たことなどもありこの元記事には名が挙がっていなかった。それまで世俗権力によって操作されていた教皇の地位を枢機卿の互選で選ぶ方式に定めたのがこのニコラウス2世である) ドイツ人ルターが宗教改革を始めた16世紀初頭、オランダ・ユトレヒト出身のハドリアヌス6世が教皇になっている(在位1522~23年)。ルター派の攻勢に対して彼は為すところがなく、その故国オランダやドイツの大部分は新教(プロテスタント)になってしまった。 新教皇に選出されラッツィンガー枢機卿は教皇名として「ベネディクト」という名前を選んだが(教皇の名前は自ら選べるとのこと)、「16世」ということから分かるように過去には多くのベネディクトという名前の教皇が居た。turkuvazさんからトルコの新聞に載っていた情報をいただいたが、聖ベネディクトはヨーロッパの守護聖人であり(その真偽のほどは知らないが)、「イスラム教国トルコのEU加盟に反対する新教皇の決意の表れ」とトルコでは見ているらしい。 それとは別に、「Spiegel Online」では、ラッツィンガー枢機卿がどのベネディクトを想定してこの名を選んだかが推測されている。それによればやはり前のベネディクトであるベネディクト15世ではないかということである。イタリア人でジャコモ・デッラ・キエーザという俗名をもつこの教皇は1854年生まれ、1887年に教皇庁に入り、1907年にボローニャ大司教、1914年に枢機卿に任命された。同年前教皇ピウス10世の死によって教皇に選出された。 彼の即位の数週間前に第1次世界大戦が勃発、中立政策を堅持して人道支援や和平交渉に奔走した彼は「平和教皇」とあだ名された。終戦後は戦勝国が敗戦国を過酷に扱わないよう主張している。彼は前教皇まで続いた魔女狩りを廃止して教会組織を近代化、またイギリス・フランスにヴァチカンの独立を認めさせた(正式に独立国家となるのはイタリアとの1929年のラテラン条約による)。政教分離を掲げる仲の悪かったフランスとの接近のために、1920年にジャンヌ・ダルクを聖人に列したことでも知られる。 一方ベネディクト14世ではないかする学者もおり、こちらは1740年から58年にかけて在位した教皇である。フランスの思想家ヴォルテールと文通して教会の近代化を図った教皇として知られ、そのためイエズス会と対立もしている。またコペルニクスの地動説に対する破門を解いている。 ベネディクト16世ことラッツィンガー枢機卿は厳密な保守派として知られリベラル派には受けが悪いが、同じ名前をもつこの二人の教皇のような治績を挙げられるだろうか。 ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿はドイツのバイエルン地方の人口2000人あまりの村の出身である。1997年に彼はこの村の名誉村民の称号を受けており、彼の教皇即位で村はお祭り騒ぎだそうだ。彼の兄ゲオルクは弟が教皇としての激務で健康を害さないか心配しているという(自分の親戚が教皇というのはどういう気分だろう?)。 第2次世界大戦中ヒトラー・ユーゲントに入って対空砲部隊での補助任務に従事したあと、彼はミュンヘン大学などで神学を学び大学教授資格を得ている。1966年に教授として着任したチュービンゲン大学で彼を待っていたのは、激しい学生運動だった(その当時の学生世代としてシュレーダー首相やフィッシャー外相、そしてチュービンゲン大で学んだケーラー大統領などが居る)。当時は進歩的な神学者として知られたラッツィンガーは左翼学生の罵声に耐えられなかったという。またさらにラディカルな神学を唱えていた同僚のハンス・キュンク教授との対立もあった(キュンクは教皇の無謬性を否定して1979年にカトリックの説教資格を剥奪されている)。1969年にラッツィンガーはレーゲンスブルク大学に転任、1977年にミュンヘン・フライジング大司教に任命され、さらに同年枢機卿に任命されてこんにちへのキャリアを積んでいった。 キュンクを始めリベラル派の神学者たちは新教皇の選出に失望感を表明し、彼が保守性を破ることは無いとみており、それはこのチュービンゲン大学教授当時の苦い経験が基になっていると指摘する。ラッツィンガーの視点からすれば、現実世界と教会の接近は、カオスと相対主義を招くだけであるのだという。新教皇にとって祖国であるドイツは、懐かしさとほろ苦い感情の混じった地であるのかもしれない。ドイツでは新教皇をドイツ人であるというより「教皇庁の人」とする見方が多いようだ。
2005年04月20日
コメント(19)
今日はKarferitag(聖金曜日)で休日である。復活祭(次の日曜日)直前の金曜日をこう呼ぶらしい。以前は肉食を控えて精進する日だったようで、今読んでいるピープス(17世紀のイギリス人)の日記にも、この日は肉を避け魚を食べたとある。 そもそも復活祭自体が春分の日後最初の満月のあとの日曜日という日程で毎年日付が変動するのだが(昨年は4月11日、今年は3月27日)、キリストは一体いつ処刑されたというんだ(とりあえず13日の金曜日らしいけど)。このあたりでの復活祭はクリスマスやカーニヴァルと同じく、キリスト教化する以前のゲルマン人の祭礼がキリスト教に仮託されたものらしい。ドイツじゃ卵やウサギがシンボルになっているし。日付に関してはユダヤ教の「過越しの祭」と関連するようだ。多分関係無いけどイランじゃ春分の日がノールーズ(新年)ですね。 今日は曇りがちで気温もあまり上がらなかった。・・・・・・・・ サッカーの日本代表、イランに負けたそうですね。ドイツでもテレビ中継されていたそうだが(へえ)、うちにはテレビが無いので見れなかった。次のバハレーンも強敵であるしホームとはいえ油断できない。ワールドカップ・ドイツ大会への道はさすがに険しそうだ。 愛知万博開幕のニュースも報じられている。前回の万博はドイツのハノーファーで惨憺たる大失敗に終わったのだが、愛知万博のほうは大丈夫だろうか。・・・・・・・・ 世界で一番小さい国というとローマ市内にあるヴァチカン市国だが(面積0.44平方キロで日本の皇居より小さい)、その国家元首であるローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(82歳)は御不例が続き今年の復活祭の行事を欠席している。 では二番目に小さい国はどこかというとフランスとイタリアの間にある都市国家モナコ公国で、面積は1.97平方キロしかない(南北2.5km、東西最大で1kmで千代田区よりも小さく、京都市上京区とほぼ同じ)。そのモナコの国家元首である81歳のレーニエ(3世)侯のほうは今日になって、主治医団から危篤であると発表された。肺炎にともなう多臓器不全で回復は難しいかもしれないという。1949年からモナコ侯の地位にあるレーニエ公は1956年にアメリカの人気女優だったグレース・ケリーと結婚して一男二女をもうけ(グレース妃は1982年に交通事故死)、現在長男で47歳のアルベール侯子が摂政を務めているという。 ヨーロッパにはこういう小さな国がいくつかあるのだが、モナコの来歴を調べてみる。 「モナコ」という国名はイタリア語で「修道士」という意味がある(ギリシャ語の「モナホス=隠者」に由来。英語ではMonk)。同じようにドイツ南部の都市ミュンヘンはドイツ語で修道士を意味するMönchから派生した地名だが、これはミュンヘンが修道院の所領だったことに由来する。ちなみにイタリア語ではミュンヘンも「モナコ」と呼んでいるので紛らわしい。なおモナコという国名は紀元前6世紀にこの地に住んでいたリグリア人のモノイコス(ギリシャ語で「孤立した」という意味がある)という部族名に由来するという異説もある。 モナコ国内には30万年前の旧石器時代の洞窟遺跡があり、既にその頃から人が住んでいた。モナコを含むニース(地方)という地名は、現在のトルコにあったギリシャ人都市ニケーア(現代名イズニク)に由来し(ニケーアからの植民者が同じ名前の植民都市を建設した)、良港にめぐまれたモナコにギリシャ人が上陸して、原住民であるリグリア人と交易していたのだろう。紀元前2世紀末ににローマ帝国の支配下に入り、8世紀にはシチリアを根拠にしたイスラム教徒(アラブ人)もこの地に進出している。アラブ人は9世紀にもこの地方を支配下に収めたが、975年にプロヴァンス大公に奪還されている。 1191年、ドイツ国王であるホーヘンシュタウフェン朝のハインリッヒ6世はイタリア遠征を開始する。諸侯の分裂状態のドイツを統一する上で重要な「神聖ローマ皇帝」という称号を名乗るには、ローマ教皇にローマで戴冠してもらう建前であり、そのためのイタリア遠征だった。ハインリッヒは北イタリアの都市国家ジェノヴァからモナコを奪い、港に要塞を築いた。1215年にはジェノヴァも反撃してモナコに砦を築いている。 当時イタリアもいくつかの都市国家や諸侯国に分裂していたが、このドイツの進出に対してイタリア人は皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれて争っていた。都市国家ジェノヴァの内部でもこの派閥争いが持ちこまれ、1296年に教皇派の有力貴族であるグリマルディ家はジェノヴァを追われプロヴァンスに逃げた。翌年グリマルディ家がプロヴァンスでの叛乱を鎮圧してその地を占拠、プロヴァンス及びジェノヴァから自立しモナコ侯を名乗ったのが現在のモナコ侯グリマルディ家の始まりである。この占拠の立役者になったのは修道士だったフランチェスコ(フランソワ)・グリマルディで、修道士に変装した兵士を率いて城に潜入し、まんまと奪取した。フランチェスコの兄レーニエが家祖となる。 グリマルディ家は1301年にいったんモナコを失うが、1331年に回復している。その後も隣国ジェノヴァ共和国との争いが続くが、イタリアに介入したフランスはモナコ侯国を支持して1489年にはその主権を承認している。1641年にはフランスの保護下に入った。長らく戦国時代の様相を呈していたイタリア情勢がモナコを生んだとも言える。 1789年に起きたフランス革命では王侯が否定されその累はモナコにも及び、1793年にフランス共和制下の一県として併合されグリマルディ家は逮捕・幽閉された。ナポレオン戦争を経てフランスが敗れたのちの1814年にグリマルディ家は旧領に復し、今度は隣国のサルディニア・ピエモント王国の保護下に入った。 19世紀に入ってイタリア民族主義が盛り上がる中、サルディニア王国はフランスの支援を得てイタリア統一事業に乗り出すが、見返りとしてニースをフランスに割譲した。サルディニアは1861年にイタリア統一に成功するが、その際ニースに続きモナコ侯国もサルディニアから離れ、フランス保護下で1489年の協定を尊重されて独立を認められた。1911年にはアルベール1世によって憲法が発布され立憲君主国となっている。 第1次世界大戦後の1918年、フランスとモナコは改めて友好条約を結び、1.グリマルディ家が途絶えた場合モナコはフランスに併合される(2002年にこの項目は削除されたようで、フランスはグリマルディ家が断絶してもモナコの主権を保障するとのこと)、2.モナコ侯の即位継承はフランスの承認を必要とする、3.フランスはモナコの外交を担当しまた防衛の義務を負う、などの条項が定められた。そのためモナコは軍隊を保持しておらず(警察権は保持)、宮殿の衛兵もフランス軍から提供されている。第2次世界大戦中にフランスがドイツに敗れると、モナコはイタリア及びドイツの占領下に置かれた。 1949年に即位した現在のレーニエ3世は1962年により民主的な憲法を発布し、絶対君主制を改め、一院制の国会と首相職を置いた。レーニエ3世は1954年に雑誌の対談で知り合ったアメリカの人気女優グレース・ケリーと2年後に結婚したが(グレイシア・パトリシア妃)、この結婚は観光立国を国是とするモナコに大きな利益をもたらしたという。 狭隘な都市国家で産業に期待できないモナコは観光業や金融を力を入れており(そのため度々マネーロンダリングの舞台となっている)、モナコというとモンテ・カルロにあるカジノと、市街地をコースとするF1グランプリで有名だが、前者はシャルル(イタリア語でカルロ)3世によって1861年に建設され、後者は1929年以降開催されている(レーニエ侯自身が自動車マニアで博物館も持っているが、その自動車で妃が事故死したのはなんとも皮肉なことだ)。現在の人口は3万2千人だが、うちモナコ国籍を有するものは6千人程度で、残りはフランス人・イタリア人で占められる。 モナコは1993年に国連に加盟、また外交権を保持するフランスのEC・EU加盟に伴い、実質的にEU内にある(加盟国としては扱われていない)。モナコ通貨の発行権は関税同盟を結んでいるフランスが保持しているのでモナコの通貨は現在ユーロだが、郵便切手及び2002年から流通の始まったユーロ硬貨に限っては独自のデザインのものを発行しており、収集家の注目を集めている。
2005年03月25日
コメント(11)
今日も快晴で気温も上がった。 島根県議会の「竹島の日」条例可決に対し韓国で猛抗議というニュースがあったが、お腹一杯でここで書くのも不毛なのでスルー。 今日EU外相会議は、明日から予定されていたクロアチアとのEU加盟交渉を無期延期することを発表した。旧ユーゴスラヴィア連邦から独立して14年が経つクロアチアは、2007年にブルガリア、ルーマニアと共にEU同時加盟が見こまれていたのだが、怪しくなってきた。EU側は「クロアチアが国連のユーゴ戦犯法廷に協力的でない」ことを交渉中止の理由に挙げている。 具体的には、セルビア人150人以上を虐殺した責任を問われ起訴されているアンテ・ゴトヴィナ元将軍の国連戦犯法廷への逮捕及び引渡しにクロアチアが協力していない、というものである。1992年から3年続いた内戦ではクロアチア領内のセルビア人武装勢力が国土の一部を占拠してセルビアとの統合を主張したが、クロアチアは1995年夏に国連の停戦ラインを突破して大反攻に出て国土をほぼ回復した経緯がある。逃亡潜伏中のゴトヴィナはその反攻作戦の司令官であり、クロアチアでは英雄とみなされている。 EU新加盟国やEFTA諸国の歴史を書いてきたので、今日はクロアチアの歴史でも書いてみるか。 クロアチアはここ数年、陸路で通過している。ドイツ人や日本人は国境ではほとんどノーチェックだが、係官や警官の態度が尊大なのでいいイメージは持っていない(まあブルガリアやセルビアのそれよりはましだったが)。車窓から見たその国土は平坦で森が多く、高速道路などのインフラは結構整っている印象がある。ドイツを中心とするEUがかなりの援助を行ったらしい。クロアチアの一人あたりGDPは4500ドルだが、これは旧ユーゴ諸国ではスロヴェニア(1万ドル)に次いで高い数値である。失業率は15%と高い。 クロアチアは位置的には西がイタリア、東はセルビア・ボスニアになる。アドリア海に面しており、ヨーロッパ、特に旧共産圏ではその海岸は人気の保養地だった。中でも中世都市の面影を残すドブロヴニク(旧称ラグーサ)は有名だが、アニメ映画「魔女の宅急便」で主人公キキが下宿する街のモデルになったという説もある。 またネクタイは本来クロアチアの風俗で、フランスのルイ14世に仕えたクロアチア傭兵の風俗が西欧で定着したものだという。フランス語でネクタイのことを「クラヴァット」というが、クロアチア人の自称は「フルヴァトHrvat」である。最近では1998年のサッカー・ワールドカップで3位に躍進、ダヴォール・シューケルが大会得点王に輝いたことも記憶に新しい。日本では「K-1のミルコ・クロコップの母国」と言ったほうが通じるかもしれない。 面積5万6千平方キロ、九州のおよそ1.5倍の面積があるクロアチアの国土は、「く」の字のような不自然な形をしている。「く」の上半分にあたるのがスラヴォニア地方、下半分をダルマティア地方(ダルメシアン犬の原産地)というが、前者が僕も見たように平坦であるのに対して、海岸部のダルマティアは山がちである。この国土に450万人が暮らし、国民の9割はクロアチア人、5%がセルビア人、1%が「モスレム人」であるが、この三者は民族として扱われているものの、スラヴ語族に属するその言葉はほとんど差異が無い。彼らを分けるのは結局宗教でしかない。 クロアチアとボスニアの国境はおおむね1699年にオスマン(トルコ)帝国とオーストリア王国の間で画定された国境に重なるが、要するに現クロアチア国境のほとんどは他国の支配下で定められたということである。ボスニアに多いモスレム人は、500年に及ぶオスマン帝国の支配下でイスラムに改宗したスラヴ系住民である。 一方20世紀に激しく反目したクロアチアとセルビアの国境は、395年のローマ帝国東西分割の際に画定された国境と重なっている。ローマ皇帝テオドシウスは二人の息子に分割相続させるために帝国を東西に二分したのだが、この線より西側はのちにローマ教皇を戴くカトリック教会の影響下に入ってラテン文字の使用が続き、東側は東ローマ(ビザンツ)帝国の奉ずるギリシャ正教の影響を受け、9世紀以降キリル文字が使われるようになった。この地に居たスラヴ人はこの東西境界に影響され、クロアチア人とセルビア人という別々の民族としての道を歩むことになる。テオドシウスも、自分の遺言がまさか1600年後に深刻な民族紛争に繋がるとは思わなかっただろう。 クロアチア人、セルビア人の祖先となったスラヴ族がバルカン半島に移住してくるのは6世紀頃のことだという。クロアチア人、セルビア人、スロヴェニア人などは南(ユーゴ)スラヴ人と総称される。640年にはクロアチア人がアヴァール族を撃退した記録がある。またクロアチア人はスラヴ族の中ではもっとも早い6世紀頃にキリスト教に接していたといい、ダルマティア地方はドブロヴニクのような良港に恵まれ、アドリア海の海上交通が発達していたことも関係するのだろう。 925年、ダルマティア侯トミスラフは、マジャル人(今のハンガリー人の祖)の侵入を撃退してクロアチア王を名乗り、ローマ教皇にも認められた。これがクロアチア国家の始まりであるという。彼の死後クロアチアは衰退し、マジャル人の国ハンガリーと、アドリア海支配を目指すヴェネツィア、そしてビザンツ帝国による角逐の場となった。クロアチア諸侯はヴェネツィア派とハンガリー派に分かれて主導権争いを続けた。 ギリシャ正教の本山であるビザンツ帝国の影響力を排除するため、925年のスプリット公会議で礼拝でのスラヴ語使用を禁止されたにも関わらず、1060年にクロアチアは公式にギリシャ正教からカトリックに転じた。1074年に即位したデメトリウス・ズヴォニミルはハンガリー王女と政略結婚してビザンツ帝国の脅威を排除し、ローマ教皇から公認されて権威を強化した。彼が1089年に暗殺されると、ハンガリーはクロアチア介入を本格化、ヴェネツィア派諸侯は排除され、1102年にハンガリー王とクロアチア貴族は協約を結び、ハンガリー王がクロアチア王を兼ねた。大幅な自治を認められたものの、こののち800年間、クロアチアはハンガリーの一部として扱われることになる。 バルカン半島に進出したオスマン帝国は1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、国王は戦死して王位は縁戚のオーストリア王ハプスブルク家に相続され、ハンガリー本土やダルマティアはオスマン帝国の支配下になった。17世紀末にオーストリアは反撃に転じ、1699年のカルロヴィッツ条約でクロアチア全土がオーストリアに割譲され、現在のクロアチア・ボスニア国境が画定された。オーストリアとハンガリーの二重支配下でクロアチアはドイツ文化圏に属することになった。クロアチアの首都ザグレブはドイツ語名ではアグラムという。 フランス皇帝ナポレオンは1809年にオーストリアからダルマティアを割譲された。フランスの支配は4年しか続かなかったが、その革命思想はクロアチア人のナショナリズムを覚醒させた。支配者ハンガリーに反発したクロアチア議会は1847年にクロアチア語を公用語と決議する。翌年にハンガリーが宗主国のオーストリアに対して叛乱を起こすと、クロアチア人はオーストリアに付いてハンガリー鎮圧に加わった。1866年にオーストリアが普墺戦争に敗れると、国内宥和(アウスグライヒ)のため形式上ハンガリーの独立を認めてオーストリア・ハンガリー二重帝国となった。ハンガリーは1102年の協定を名目として「クロアチア人」の存在を認め、クロアチア自治政府の組織を許可した。 一方オスマン帝国支配下にあったセルビア人は1817年に叛乱を起こして鎮圧され、以後クロアチアに移住するセルビア人が多かった。1878年のベルリン会議でセルビアは独立を認められ、またボスニアはオーストリアの勢力圏内に入った。ザグレブ司教だったクロアチア人ヨシプ・ストロスマイヤーはロシアの唱える汎スラヴ主義に共感し、セルビア人、クロアチア人など南スラヴ族の宗教宗派を超えた統合を目指す「ユーゴスラヴ」思想を提唱した。このユーゴスラヴ思想が広まってクロアチア自治政府の政権を取るに至り、スラヴ主義の高まりやセルビアの拡大志向に脅威を感じたハンガリー政府は、1912年にクロアチア自治政府の憲法を停止した。 一方1908年にオーストリアがセルビア人の多いボスニアを正式併合したことは、セルビア人を刺激し、1914年のセルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺事件、第1次世界大戦へと繋がることになる。 1918年10月にオーストリアが敗北すると、クロアチア議会はオーストリア・ハンガリーからの独立を宣言、勝者である連合国に属したセルビアに救援を求めた。同年12月、セルビア王アレクサンデル1世は「セルビア・クロアチア・スロヴェニア連合王国」の建国を宣言する。しかし中央集権・大セルビア主義を志向するセルビア人と、ユーゴスラヴ主義・分権志向のクロアチア人は建国当初から対立した。1929年にアレクサンデル国王は民族対立を解消するため国名を「ユーゴスラヴィア」に改称、国王独裁の強権政治を始めるが、クロアチア人抵抗組織ウスタシャの活動激化を招き、彼自身も1934年に外遊先のマルセイユでクロアチア人に暗殺された。 1939年に勃発した第2次世界大戦では、ユーゴスラヴィアは当初ドイツ・イタリア枢軸に接近し、1941年には日独伊三国軍事同盟に加盟した。ところがその直後に親ソ派の軍部のクーデタが発生、ナチス・ドイツは即座にユーゴに侵攻し、10日あまりで制圧した。ドイツとイタリアはクロアチア人とセルビア人の対立を利用し、クロアチアに独立を認め、ボスニアを与えた。クロアチア傀儡政権を率いたのはウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチで、ウスタシャはセルビア人やユダヤ人、イスラム教徒、シンティ・ロマ(ジプシー)に対する苛酷な弾圧を行った。 一方独伊に対する抵抗運動も活発化し、クロアチア人チトーことヨシプ・ブロズ率いる共産主義パルチザンが主導権を握り、ドイツの敗色が濃厚になった1944年9月にはソ連軍の到着以前にベオグラードを自力で解放した。チトー元帥率いる共産政府は1945年に王制を廃止、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の樹立を宣言し、クロアチアは再びユーゴスラヴィア内の一共和国となった。ユーゴスラヴィアは1948年にソ連の干渉からも脱して西側諸国の援助を受け入れ、独自の社会主義路線を歩み始める。 しかしセルビア人とクロアチア人の対立感情が消えたわけではなかった。1971年、セルビア主導の中央集権に反対する学生ストライキやクロアチア人の民族主義運動が激化、翌年にはクロアチア人分離主義者による爆弾テロやハイジャックも相次いだ。1980年にカリスマだったチトーが死去、連邦は求心力を失って1988年には連邦内で大幅な自治を求めるスロヴェニア・クロアチアと中央集権を主張するセルビアが対立、分裂傾向が明白になった。 1990年のクロアチア共和国選挙で、かつてのパルチザン将軍フラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党が勝利する。1991年5月29日、国民投票の結果を受けてクロアチアはユーゴ連邦からの独立を宣言した。翌年トゥジマンが初代大統領に就任する。 クロアチア国内のセルビア系住民はクロアチアからの分離独立を宣言、1992年には隣国ボスニアも巻きこんだ激しい内戦になり、セルビア人民兵がクロアチアの6分の1を占拠、世界遺産にもなっているドブロヴニクに砲撃を加える事態になった。ドイツに引きずられる形でEU(当時はEC)はクロアチアの独立を承認、クロアチアは体制を整えて1995年夏に反攻に出て国土をほぼ完全に制圧した。その年12月、旧ユーゴ内戦は終結した。クロアチアは翌年セルビアとの国交を回復している。 トゥジマンは強権的・民族主義的な政治運営で国際的に孤立したが、在任中の1999年12月に死去した。スティエパン・メシッチ元首相が第2代大統領に就任し、EU加盟を目指す政策に転換、2003年にはセルビアの首都ベオグラードを訪問して互いに謝罪する共同宣言を行った。メシッチは今年1月に再選され、2007年のEU加盟を目指している。
2005年03月16日
コメント(0)
今日は一転してどんよりした曇り空で小雨が降るという、ここでは典型的な冬景色だった。気も滅入るね。 日本でも報じられているようだが、ドイツ連邦議会が新しい「集会法」を可決した。これは最近目立つネオナチの取締り、および今年5月8日のドイツ降伏60周年に予想される騒ぎを念頭にしたもので、ユダヤ人ホロコースト犠牲者の記念碑など、ナチスの犯罪行為に関する歴史的意味のある場所(記念碑のほか収容所跡、ルドルフ・ヘス副総統の墓地など)でのネオナチの集会を禁止しやすくし、またナチス正当化・賛美行為及び大衆扇動に対し刑罰を強化(罰金もしくは3年以下の懲役)したものとなっている。 当初シリー内相とツィプリース法相(ともに社民党)の提出した法案は連立党内協議で多少修正されたが、自由民主党(FDP)はこの法案はなお集会と言論の自由を定めた連邦基本法に抵触する恐れがあるとして賛成しなかった。法案は社民党・緑の党、キリスト教民主同盟(CDU)の賛成多数で可決された。 一方、この法案の立案者であるオットー・シリー内相は、ここ数日トルコのある新聞にヒトラーに擬されておかんむりだそうだ。この新聞はイスラム原理主義系のトルコ語タブロイド新聞「ヴァキトVakit」(「時代」)紙で、本国のほかトルコ人の多いドイツ国内でも売られていたのだが、2004年末に「ホロコーストは無かった。ガス室などは嘘っぱちでシオニストの音楽みたいなものだ」と書いたため、2月にドイツ国内での販売が禁止され、在ドイツ法人も解散させられた。この措置に対してトルコで発行が続けられているVakit紙側は連日トップで、シリー内相の写真に鉤十字や腕章を配したり、「第2のナチス時代到来」と書きたててシリー内相を揶揄している。 ネオナチまがいの紙面内容に対して発禁処分にしたのにこれでは叶わないだろうが(ドイツも大変ですね)、シリー内相はドイツ国内のイスラム過激派に対する圧力を強めているのでもともと受けは悪い。シリー内相はこの揶揄が受け入れがたいとして、トルコのアブドゥルカーディル・アクス内相に書簡を送り善処を求めているという。まあタブロイド紙に噛み付くのもなんだが、Vakitという新聞は見かけた記憶が無い。トルコで「クオリティ・ペーパー」と呼べる全国紙は老舗の「ジュムフリエット」の他は「ラディカル」、それに「ポリティカ」くらいではないだろうか。 ロシア周辺のニュースが相次いでいるのでまとめて貼り付け。(引用開始) モルドバ総選挙 親欧米の与党・共産党勝利 露さらに孤立化 「不正」イメージづくりに躍起【モスクワ=内藤泰朗】旧ソ連構成国のモルドバで6日、総選挙(一院制、定数一〇一)が行われ、親欧米・反ロシアの姿勢を鮮明にしたウォロニン大統領(63)率いる与党・共産党が政権を維持することが確実な情勢となった。(中略) ウォロニン大統領は当初、親露路線をとり、欧米諸国は欧州唯一の共産政権の強権政治に批判的だった。 しかし、大統領は選挙直前に、ロシア系住民が多い東部のドニエストル地域でロシアが独立を扇動しているなどとして反露に転向。欧州連合(EU)加盟を公約に挙げ、ウクライナのユシチェンコ大統領やグルジアに接近するなど親欧米派に変身し、野党の追撃から逃げ切った。 モルドバでは、主要三党がいずれも、欧州への統合を掲げており、ロシア離れが加速するのは避けられない。(後略)(産経新聞) - 3月8日2時50分更新 ロシア連邦加盟も視野=「ソ連」温存-モルドバ・ドニエストル地方【ティラスポリ(モルドバ)10日時事】モルドバからの分離独立を進める東部のドニエストル地方で、多くのロシア系住民がロシア政府から国内旅券を取得し、ロシア国民になっていることが分かった。既に数千人に発給されているもようで、将来、同地方がロシア連邦に編入される布石となる可能性がある。 ロシアのプーチン政権はグルジアからの分離を目指すアブハジア自治共和国や南オセチア自治州、ロシア系住民の多いウクライナのクリミア自治共和国でも旅券を発給しているもようだ。(後略)(時事通信) - 3月10日15時1分更新(引用終了) 今週ウクライナのユーシェンコ大統領が訪独したが、ヨーロッパ志向を強める姿勢を打ち出し、ドイツもEU加盟はまだ絵空事と思いつつも歓迎の姿勢を示している。モルドヴァにとって西側の隣国ルーマニアも再来年のEU加盟がほぼ決まっており、モルドヴァとしてはロシアの飛び地になるより周りに合わせたいのだろう。 一方ロシアから離れて久しいバルト三国はというと、(引用開始) 第二次大戦戦勝60周年記念行事 エストニア・リトアニア不参加 バルト諸国 旧ソ連占領の始まり 露は反発「前向きでない」【モスクワ=内藤泰朗】旧ソ連構成国であるバルト海沿岸のエストニアとリトアニアの両国大統領は七日、ロシアのプーチン政権が五月九日に日本を含む世界各国の首脳を招き、盛大に祝う予定だった第二次大戦戦勝六十周年記念行事への参加を見合わせると発表した。旧ソ連主体の歴史観を共有できないというのがその理由だが、メンツをつぶされたロシア側は強く反発している。(中略) これに対し、同じバルト諸国、ラトビアのビケフレイベルガ大統領は記念行事には参加を表明しつつも、「バルト諸国にとって五月九日は、独立喪失の日だ」と述べ、同日がナチス・ドイツからの解放の日である一方で、五十年間にも及んだ旧ソ連による占領の始まりとの見方を示した。 バルト諸国の指導者たちは、こうした認識をロシア側が共有し、旧ソ連の独裁者スターリンの時代に犯した数々の過ちに対し謝罪を求めていたが、ロシア側が拒否したとして今回の判断に至ったと説明した。 ロシアからは「関係改善の機会を逸した」「前向きな対応ではない」など反発の声が政界などから早くも出ている。 ロシアとエストニアは、記念日の翌五月十日に首脳会談を行い、六十五年に及ぶ両国の領土問題に終止符を打つ方向で準備を進めていたが、今回の声明で「領土問題を解決する機会は当面やってこないだろう」との警告も聞かれる。 日本も、対ロシアでは、未解決の北方領土を抱えており、プーチン大統領の訪日問題とも絡んで今後、同行事参加問題では難しい対応を迫られるものとみられる。 行事には、ブッシュ米大統領らが参加を表明。ロシアは、同行事を世界が全体主義に勝利した日と位置づけ、その中心となった同国の偉大さをたたえ、愛国心の高揚と国民の団結につなげたい意向だった。(産経新聞) - 3月9日3時4分更新(引用終了) まあリトアニアのヴァルダス・アダムクス大統領自身が、対ソ闘争に参加して退却するドイツ軍と共にドイツに亡命し、戦後アメリカに渡ってアメリカ市民権を取得した人だからなあ・・・。エストニアは領土問題だけでなく、2割を越すロシア系住民の問題もある。 この行事には日本も招待されているが、どうするんでしょうね。行ってみるのも1つの手ではないかと思うけど。 ロシアといえば先日チェチェン独立派(のうち穏健派)のアスラン・マスハドフ司令官を殺害したと発表したが、これは戦果というよりむしろロシアにとってマイナスだったという意見が多い。チェチェン独立派側は徹底抗戦を宣言し、強硬派によるますますの泥沼化が懸念されている。 一方チェチェン情勢にも深く関わるグルジアでは、(引用開始) 年内撤退なければ露軍基地封鎖を…グルジア国会が決議【モスクワ=五十嵐弘一】旧ソ連・グルジア国会は10日、国内に残るロシア軍基地2か所について、露側が今年5月15日までに年内撤退に合意しなければ、実質的封鎖措置をとるよう政府に求める決議を満場一致で可決した。 ロシア政府は激しく反発しており、両国間の緊張は一層高まりそうだ。(中略) 露軍基地の存在は、ロシアにとって旧ソ連での影響力維持という象徴的意義を持つが、軍事的機能は乏しい。露政府はまた、親米のサアカシビリ政権が露軍撤退後に米軍駐留を認めることも恐れている。こうした露側の態度は、グルジア側には、ずるずると引き延ばしているだけの不まじめなものと映り、同国内での対露強硬論台頭を助長した。 グルジアは、分離独立を宣言しているアブハジヤ自治共和国、南オセチヤ自治州をロシアが支援しているとみており、たとえ露軍撤退問題で合意しても、両国関係安定化の見通しはほとんどない。(読売新聞) - 3月12日0時28分更新(引用終了) 周辺国への影響力低下が続くロシアの活路は、この2国(及びシリア)か?(引用開始)[テヘラン 27日 ロイター] イランとロシアは27日、イラン南部にあるブシェール原発について、核燃料供給と使用済み燃料返還協定に調印した。調印により、イランは国内初の原発の来年稼動に向け道が開かれる。 (中略) 石油輸出国機構(OPEC)第2位の産油国であるイランは、核兵器開発疑惑を否定しているが、核開発でロシアから強力な支援を受け入れ、ロシアはイランの核開発で大きな役割りを担うことになる。 ロシアのルミャンツェフ原子力庁長官は、国営イラン・テレビに対し「核燃料協定調印は両国関係にとって非常に重要な出来事である。近い将来、ロシアの専門家をブシェールに派遣する」と述べた。 協定では、すべての使用済み核燃料はロシアに返還されるとされており、ロシア側は、米国が抱いている使用済み核燃料の核兵器転用懸念を解消できるとしている。(ロイター) - 2月28日7時57分更新 北朝鮮の核宣言、ロシアに事前通報=連絡なかった中国は激怒-韓国紙【ソウル9日時事】韓国紙・中央日報は9日、北朝鮮が核兵器製造と6カ国協議の参加無期限中断を宣言した2月10日の外務省声明の発表に先立ち、ロシアに外交チャンネルを通じて内容を通報していたと報じた。しかし、中国には連絡せず、後になって事情を知った同国指導部は北朝鮮の態度に激怒したという。中朝関係に詳しい中国消息筋の話として伝えた。 (時事通信) - 3月9日11時1分更新(引用終了) こうしたロシアの現状をロシア国民はどう見ているかというと、(引用開始) 過半数がペレストロイカを酷評=ゴルバチョフ登場20周年で調査-ロシア【モスクワ11日時事】旧ソ連のゴルバチョフ元大統領が1985年に開始したペレストロイカ(再編)を、ロシア国民の56%が失敗とみなしていることが、世論調査会社レバダセンターの調査で11日分かった。支持したのは22%だった。 ゴルバチョフ政権発足20周年に際して行われた調査によると、48%が「ゴルバチョフ以前の路線を続けていた方が生活状態はよかった」と回答。36%が「ペレストロイカがなければ、超大国の座にとどまれた」と答えた。 調査はロシア国内の128カ所で1600人を対象に行われた。(時事通信) - 3月12日1時1分更新(引用終了) ドイツや日本ではゴルバチョフ氏の評価は高いがロシアでは散々みたいですね。 最後にちょっとだけロシアに明るい?話題。(引用開始) サンクトでG8首脳会議 ロシアが来年、初の主催【モスクワ1日共同】ロシアは1日までに、来年夏に初めて議長国として主催する主要国(G8)首脳会議を、プーチン大統領の故郷サンクトペテルブルクで開くことを決めた。複数の関係筋が明らかにした。 ピョートル大帝が18世紀に「欧州への窓」として建設したロシア第二の都市を舞台に、民主主義と市場経済を共通価値観とするG8の一員として存在感を誇示する狙い。 だが、欧米ではプーチン政権下の民主化後退に批判が強く、米国ではロシアをG8から排除する議論も出ている。 先の米ロ首脳会談で、民主主義の尊重と、世界貿易機関(WTO)加盟による世界市場への統合を掲げたプーチン大統領は、内政課題である地方や財界、メディアの統制強化と、対外向けの民主化演出の均衡に神経を使うことになりそうだ。(共同通信) - 3月1日6時20分更新(引用終了) ロシアもこの先大変そうだ。対露最大投資国・貿易相手国であるドイツにとっても目が離せないだろう。
2005年03月11日
コメント(0)
今日は図書室で文献探しなどをした。なかなか成果あり。 夕方K君と軽く飲む。我ながら情けない(?)ことに、今年最初のビールだった(ワインとかは家でちょくちょく飲んでいたが)。ドイツに住んでいるというのに。 脈絡の無い雑記。 ジャン・マリ・ル・ペンというとフランス極右の大物で、2002年の大統領選挙の際には現職のジャック・シラク氏との決選投票にまで残り、しかも18%もの得票があって周辺国を驚かせた人物である。 そのル・ペンが7日付の極右紙とのインタビューで「第2次世界大戦中のドイツによるフランス占領はそれほどひどいものではなかった」と発言して物議を醸しているようだ。ル・ペンによれば「ドイツ軍の占領はそれほど非人道的ではなく、ちょっとした過ちはあったが55万平方キロもの面積では起きうることで驚くにはあたらない」と述べたという。 これに対してドミニク・ペルベン法相は今日になって捜査の開始を指示(容疑は国家反逆罪か??)、訴追を予定している。在仏ユダヤ人団体もこの発言に反発、ナチス・ドイツが7万6千の在仏ユダヤ人を連行しそのうち2500人しか戻らなかったことを挙げて、この発言は容認できないとしている。 僕は極右というのは国家主義・民族主義というか、自国万歳!という立場だと思ったのだが、フランスの極右はフランスを破ったナチスやその傀儡だったヴィシー政権を擁護するのだろうか?そういやドイツ軍にはかなりの数のフランス人義勇兵が加わっていたそうだが(最近それを扱った歴史雑誌を見た。フランス人ばかりでなく、100万のロシア人はじめヨーロッパじゅうから参加があったようだ)、ドイツが敗れるや対独レジスタンスの活動ばかりが宣伝されるようになった。 アメリカはイラクでの大量破壊兵器捜索をやめたようだ。結局見つからず(まあ無いとは思ってたけどさ)、「イラク戦争の大義」がますます糾弾されることになるのだろう。結果論からいえば、恐怖政治でテロを抑えていたフセイン政権を、「対テロ戦争」を行うアメリカが自ら倒してテロリストをイラクに吸い寄せることになったのだが。 そのイラク戦争(2003年3月~4月)の前後、ドイツでもデモが頻繁に行われたが、その参加者の多くが「Pace」と書かれた七色の旗を持っていた。この旗は一時はあちこちの家の窓にも飾られていたが、去年の後半あたりからめっきり減ってしまった。 僕はこの「Pace」というのは何語だろうと気になっていたのだが、ちょっと調べるとすぐ分かり、まあ予想通りイタリア語だった(ラテン語だとPaxだし)。「パーチェ」と読むらしい。しかしなぜドイツの反戦運動にイタリア語なのだろう?という疑問は残った。 ちょっと調べると、この旗はイタリアの非暴力主義団体が1961年に使い始めたもので、当時は文字ではなくハトのマークがあしらわれていたそうだ。その後同性愛容認運動の活動家が使っていたが、イラク戦争の反戦運動の際、イタリアでこの旗を窓に掲げて反戦の意を示すのが流行り(それとも誰かの指示なのだろうか?)、それがヨーロッパ周辺国に広まったらしい。それでイタリア語なのか。イタリアというとファッションの発信地の1つだが、こういうのも発信してるのね。ちなみに僕はイラク戦争には反対だったが、アメリカが「やる気」なのは分かっていたのでデモとかには参加しなかった。むやみに人の多い所って好きじゃないし(そういう問題じゃないか)。 ファッションと同じで流行り廃りがあるようで、ドイツではめっきり見かけなくなったが、日本でもこの旗を見かけることはあるのだろうか(反戦デモのニュースとかで見かけたような)。まあ日本でも非暴力を訴えるこの旗を掲げて、武力で威嚇している東アジアの国々に対しても訴えかけて欲しいものだ。イスラエルとかでも見かけるのだろうか。 今日ドイツ各地(ヘッセン州含む)でイスラム過激派の一斉捜索が行われ(家宅捜索やモスクの捜索)、22人(うち5人が女性)が逮捕された。国籍はアラブ諸国のようだ。これら容疑者はテロ行為に関係する過激派団体やアル・カイダとの繋がりがあるとのこと。この捜索で偽造パスポートや偽造書類、「聖戦(ジハード)」を呼びかけるビラなどが押収されている。 「対テロ戦争」は、イラク占領に参加していないドイツにとって日本以上に深刻な話題のようだ。
2005年01月12日
コメント(2)
いやあ寒い日が続いている。窓から見える家の屋根は雪だか霜だか知らないが白くなっている。 夏にトルコで買ったベルトがもう壊れた。2000万トルコ・リラ(1500円くらい?)もしたのに。単に僕の出ている腹のせいなのか知らないが、金具が壊れた。 そういやこの桁違いのトルコリラももうすぐデノミでゼロが6つ減る。 今日は日記というよりまたも関心に淫した日記。第2次世界大戦中のバルカン半島諸国の動向について。 こういうのを書いているとただの「戦史オタク」と思われるかもしれないがさにあらず、2007年にEUに加盟する予定のルーマニア、ブルガリアも含めれば、EUに入る国は押しなべてドイツ側(枢軸国)にたって参戦したという経緯がある(ギリシャは例外だがそれは後述)。世界大戦の火種となったバルカン諸国をめぐる基本的な国際環境は、当時も今もそう変わっていないのかもしれない。 1918年に第1次世界大戦が終結すると、バルカン半島の国境線は大きく変更された。オーストリア帝国が解体され、戦勝国に身を置いたセルビアとルーマニアがその領土を拡大した。「民族自決」を謳ったこの国境変更は、「ヨーロッパの火薬庫」に新たな火種を生み出した。 敗戦国となったハンガリー(オーストリア帝国の一部)は領土が3分の1になり、しかも300万人のハンガリー系住民がこの両国(セルビアのバナト=ボイボディナ及び、ルーマニアのトアランシルヴァニア地方)に少数民族として取り残されることになり、周辺国との紛争の種となった。 一方セルビア主導で南スラヴ系民族を糾合して成立したユーゴスラヴィアは、早くも正教のセルビア人とカトリックのクロアチア人・スロヴァニア人の内紛が激しくなった。国境紛争も多く、ブルガリアはユーゴスラヴィアの構成国であるマケドニア人はブルガリア人と同じである、としてマケドニアを巡りユーゴスラヴィアと対立、またイタリアとはフィウメ(イストリア)を巡る領土問題が続いた。 オーストリア(とオスマン帝国)の覇権が崩壊した結果、バルカン半島の中小国はヨーロッパ列強の間で厳しい安全保障問題に直面せざるを得なくなった。脅威と思われたのは、第1次世界大戦でバルカンを軍事的に席巻したドイツ、そして不気味な(議会制民主主義を認めないという点で)ボルシェヴィズム国家・ソ連(ロシア)である。バルカン諸国は互いに協商を結んで大国に対抗しようとする一方、フランスやイタリアといった西側列強と結んでその国家の安全を確保しようともがいた。 また「国家の危機」が叫ばれ、1930年代にはバルカン諸国では軒並みファシズムふうの独裁政権が誕生した。ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアのような国王による独裁、ギリシャ、ブルガリアでの軍事政権である。特にユーゴスラヴィア(セルビア)のアレクサンデル国王は独裁でクロアチア人とセルビア人の国内対立を押さえ込もうとしたが、1934年に外遊先のマルセイユでクロアチア人に暗殺された。曲がりなりにも民主的な政体だったのはハンガリーくらいだった。 イタリアとドイツではファシズム政権が誕生、露骨な拡張政策を始める。バルカンでの手始めはイタリア(ムッソリーニ政権)によるアルバニア併合(1939年)で、イタリアの経済援助(債務)に依存していたアルバニアはイタリアとの同君連合を強制された。 一方ドイツのヒトラー総統は、来るべき戦争(第二次世界大戦)を遂行するうえで不可欠の石油を産出するハンガリーとルーマニアを重視した。1939年にチェコスロヴァキアを解体し併合した際、ハンガリーにスロヴァキア南部(ハンガリー人が多い)を与えている。ソ連と手を結んだドイツはポーランドに侵攻し両国で分割(1939年9月)、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まった。1940年6月のフランス敗北を機にイタリアも枢軸国側に参戦する。 1940年6月、「冬戦争」でフィンランドに勝利してカレリア地方を奪ったソ連は、かつてロシア領だったベッサラビア(現在のモルドヴァ)をルーマニアに要求した。ソ連産の石油に依存しソ連との関係を壊したくないドイツはルーマニアを説得し、その結果ベッサラビアはソ連に割譲された。ソ連は8月にはバルト三国も併合する。ルーマニアの受難は続き、ドイツが主導した8月のウィーン会議ではハンガリー系住民の多いトランシルヴァニア(ジーベンビュルゲン)をハンガリーに、ドブルジャをブルガリアに割譲させられた。国王カロル2世は退位し、イオン・アントネスク元帥が国家元首となったが、ドイツはこの割譲の見返りとしてルーマニアの安全を約束した。 バルカンに対するソ連の露骨な野心はドイツやバルカン諸国の不信を招いた。ドイツは当初こそソ連の日独伊三国軍事同盟加盟を模索してリッベントロープ外相をモスクワに派遣したが(1940年11月)、ソ連による戦勝後勢力圏の要求が、ドイツが提示したイギリス植民地のインドやイランにとどまらずトルコやブルガリアなどバルカン半島にも及ぶことを知り、ソ連を味方につけるのをやめ、ヒトラー従来の主張だったドイツ「生存圏」の東方拡大政策に転じた。その結果、ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアが1940年11月に、ブルガリアとユーゴスラヴィアが1941年3月に日独伊三国軍事同盟に加盟した。 一方、イタリアのムッソリーニはヒトラーの了承も得ないまま、1940年10月にギリシャに対して侵略を始めていた。これはムッソリーニの個人的野望である「新ローマ帝国」の建設と、ポーランドやフランスを短期間で占領したヒトラーの軍事的成功に対抗してのものだった。しかし無計画のままアルバニアから侵攻したイタリア軍はギリシャ軍に連戦連敗、アルバニアの3分の1を逆占領される体たらくだった。ギリシャはヒトラーに密使を送り、ドイツがギリシャの安全を保障するならば停戦に応じても良いと表明したが、ヒトラーは三国同盟の手前これを退け、ギリシャは連合国側に立つことになった。 1941年3月25日、ユーゴスラヴィアは三国同盟に加盟したが、2日後にこれに反対する軍部のクーデタが起きて政権が崩壊する。軍部には汎スラヴ主義からロシアに親近感をもつ者が多く、また連合国寄りの姿勢をもっていた。新政権は4月5日にソ連と友好条約を締結した。 既にソ連との戦争を決意していたヒトラーはこれを許さず、4月にバルカンでドイツに従わないユーゴルラヴィアとギリシャに対する侵攻作戦を行った。ユーゴに対するそれは「懲罰」作戦と呼ばれた。この作戦にはイタリア、ハンガリー、ブルガリアも参戦した。ユーゴスラヴィアは作戦開始後11日で降伏、ギリシャは頑強に抵抗したがやはり4月末までにはクレタ島を除く全土を占領された。 ユーゴスラヴィア国王ペーテル2世、ギリシャ国王ゲオルギオス2世はイギリスに逃亡した。ドイツはユーゴスラヴィアを解体、スロヴァニアとセルビアをドイツの軍政下に置きボイボディナをハンガリーに割譲、コソヴォをアルバニア(イタリア領)に割譲、マケドニアは従来から領有を主張していたブルガリアの一部とされた。一方クロアチアとモンテネグロの独立を認められたが、モンテネグロは実質的にイタリア領アルバニアに併合された。 クロアチアではイタリアのスポレト公アイモネを国王に据え、アンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア人ファシスト運動「ウスタシャ」が政権を担当した。クロアチアが国家としての独立を失って既に1000年近く経っていたのだが、その領土はボスニア・ヘルツェゴヴィナを含む大きなものとなった。ウスタシャはドイツに協力してセルビア人への弾圧を行った(なおドイツに対するパルチザン闘争を率いたチトーことヨシプ・ブロズもクロアチア人である)。セルビアとクロアチアの対立感情は決定的なものとなり、20世紀も末のボスニア内戦で再現されることになる。 1941年6月にドイツの奇襲で始まった独ソ戦には、ルーマニアやハンガリーも派兵した。ルーマニアは見返りにオデッサを含むウクライナ西部を与えられたが、戦況は次第に枢軸国側に非となり、1944年8月にはソ連軍がバルカンを窺う情勢となった。 ルーマニアではアントネスクが逮捕されてサンタネスク将軍が政権を掌握し、ソ連軍への抵抗をやめドイツ軍に撤退を要求した。ドイツはブカレストを空襲してこれに応え、ルーマニアはドイツに宣戦布告しソ連側に寝返った。8月末までにソ連軍はルーマニア全土を占領した。 ブルガリアは対ユーゴスラヴィア戦に参戦しただけで軍事行動はほとんど無かったが、9月にソ連はブルガリアに宣戦布告、恐れたブルガリアはドイツに宣戦布告してゲオルギエフらは政権首脳を逮捕、親ソ政権が誕生し無抵抗でソ連軍に占領された。 ギリシャでは孤立を恐れたドイツ軍が10月に撤退を開始した。その後の空白で王党派と共産主義者の間で内戦となったが、イギリス軍が上陸して両者を調停した。戦勝国イギリスとソ連の了解により、戦後ギリシャはバルカン半島で唯一共産圏に入らず、1981年にいち早くEUに加盟することになる。 ユーゴスラヴィアではチトー率いるパルチザンが10月にベオグラードを自力で解放、駐留してきたソ連軍も1945年3月までには撤収した。チトーは再統一されたユーゴスラヴィアの首相、のちに大統領としてソ連の干渉を受けない独自の共産主義路線を進めたが、それはこの自力での解放と米英ソによるヤルタ会談での勢力圏の取り決めがあったからだろう。しかし冷戦地代には最も親西側といわれたユーゴが、EUに入るのがむしろ一番遅れているというのは(スロヴェニアを除く)、何とも皮肉である。 1944年10月にはソ連軍はハンガリーにも迫ったが、ハンガリーは極秘裏にソ連との停戦交渉を進めた。それが明らかになるとドイツは摂政のホルティ提督を連れ去り、サーラシ・フェレンツに政権を樹立させて対ソ戦を継続させた。一方ダールノキ・ミクロ―シュ将軍率いる対抗政権は12月にドイツに宣戦布告した。ブダペストは独ソの争奪戦の舞台となり、1945年1月までには全土がソ連軍に占領された。戦後のハンガリーは隣国のハンガリー系住民に配慮して善隣外交を国策としている。 こうしてバルカン全土がソ連の制圧するところとなり、戦後の東西冷戦下ではその多くがソ連の衛星国とされた。ソ連がベッサラビアを併合してモルドヴァ共和国とし、またイタリア領フィウメ(現りーエカ)をユーゴスラヴィアが得た他は、大戦前との国境線の変更は無かった。 さて冒頭に少し触れたが、現在のバルカン諸国とEU・ドイツとの関係は奇妙なほど第2次世界大戦中のナチスのバルカン政策と符合している。スロヴェニア・クロアチアの独立をいち早く認めたのはドイツで、EUもそれに引きずられて両国を早々と国家承認しユーゴスラヴィアの解体を決定付けた。さらに1999年にはユーゴスラヴィアに対して、コソヴォでの人権問題を理由に戦争までしている。これも一種の「懲罰」作戦ではある。そういえばこの戦争の際、セルビアは「ロシア連邦に加盟する」と表明してロシアを困惑させたことがあった。 バルカン半島でEUに早々と加盟が認められたのはハンガリーとスロヴェニアだが、2007年にはルーマニアとブルガリア、さらにクロアチアも加盟交渉開始が決定された。マケドニアも加盟申請している。手段こそ違え、かつてナチス・ドイツがバルカンで行った政策が実現しているように見える。
2004年12月21日
コメント(4)
(以下引用)<EU>トルコ加盟交渉開始 巨大イスラム国家受け入れに道 欧州連合(EU)は17日、来年10月からの加盟交渉開始でトルコと大筋合意した。トルコと対立するキプロス承認問題では、トルコが交渉開始前にキプロスと関税同盟を結ぶことを宣言、事実上の承認の用意を示唆する方向で妥協が図られる見込みとなった。加盟までには10年以上かかると予想されるが、キリスト教国家とイスラム教国家が、民主主義や市場経済を基本理念とする共同体の一員としていかに平和共存を図るか、EUは新たな歴史の実験に踏み出すことになる。【ブリュッセル小松浩、福原直樹】(以下省略)(毎日新聞) - 12月18日1時10分更新(引用終了) 曲がりなりにもトルコのEU加盟交渉が始まることになった。加盟実現には10年から15年以上かかるとされ、転変激しい国際政治では「まあ、そのうちね」というのに近いようなものだが、トルコにとってはヨーロッパへの接近をしばらくは決定付けられたといえるだろう。今年加盟した中欧10ヶ国の状況如何によってはEUのさらなる拡大に足止めがかかることも無しとはしないが。 今回の交渉でもっとももめたのはトルコによるEU加盟国・キプロス共和国(ギリシャ系)の国家承認と関税同盟調印だった。キプロスは即時承認・調印を求めたが、結局交渉開始の来年10月3日までに行うということで落ち着いたようだ。北キプロスに傀儡政権(北キプロス・トルコ共和国)を樹立し大軍を駐留させているトルコの出方が注目されるが、現政権がEU加盟を大目標とし国会で与党が絶対多数を制している以上、障害とはならないだろう(最大の既得権益をもつ軍部に対する説得が問題か)。 トルコとしては極大な国内経済格差の是正も求められていくだろう。西部の都市部はヨーロッパとの差がほとんどなくなっているが、その繁栄は都市部のスラムやクルド人の多い東部の農村地帯を見れば虚栄に過ぎないことが分かる。トルコがEUに加盟した場合、こうした貧困層のヨーロッパ大量移住が懸念されるが、今年の10ヶ国加盟時と同様に、加盟後しばらくは移住制限が施行されるのは間違いない。 思えばトルコ人はモンゴル高原に起源をもつアルタイ語族の民族である(だからトルコの歴史教科書の記述は中央アジアのトルコ民族史、具体的にいうとオルホン碑文やキュル・テキン碑文から始まっていた)。8世紀に突厥国家が崩壊したのち、徐々に中央アジアのオアシス地帯に浸透した。さらには奴隷傭兵(マムルーク)として中近東に大量移住、さらに集団で移住してついには中東の覇権を握った。1071年のマラズギルトの戦いでアナトリア(小アジア)への浸透を開始、現在のトルコ共和国の礎となった。14世紀以降のオスマン帝国の時代にはバルカン半島にも進出しオーストリアを攻撃してフランスと結ぶなど、ヨーロッパとの関わりも大きくなり、オスマン帝国の弱体化が第1次世界大戦の遠因になった。 トルコ人はこのようにおよそ500年かけてユーラシアを半周したわけだが、その動きはまだ止まっておらず、ドイツを始めとしてヨーロッパ各地への移住は続いている。より良い居住地を求め移住するのはかつての遊牧民の本性だろうか。EUに加盟したらその西進が再開されるのか。「オスマン帝国の脅威」と同様、ヨーロッパにとってはもっとも恐るべき事態である。 トルコのEU加盟の障害はトルコ内ばかりではない。それを象徴する出来事もあった。(以下引用) 【ロンドン=飯塚恵子】コペンハーゲンからの報道によると、デンマークの観光名所「人魚姫」の像に、イスラム教徒の女性がかぶる黒いブルカがかぶせられているのが16日、見つかった。 ブルカにはデンマーク語で「欧州連合(EU)にトルコ?」と書かれたたすきが掛けられており、トルコの加盟問題を話し合うEU首脳会議が同日ブリュッセルで始まったのに合わせ、トルコ加盟に反対する者が行った仕業らしい。 「人魚姫」の像は日本人観光客に特に人気があり、AFP通信によると、日本人観光客グループはこの日、ブルカをかぶった像の前で記念撮影したり、棒を使ってブルカをはずしたりした。一連の出来事は、像の周りに集まっていた通信社や地元テレビが撮影し、世界に配信した。(読売新聞) - 12月17日16時17分更新(引用終了) デンマークはEU内でも特に保守的で、現政権も保守系で移民制限に向かっている。日本人観光客には「御伽話の国」というばかりではなく、こうしたデンマークの一面も知っておいてもらいたいものだ。コペンハーゲンに行ったことがあるが、人魚姫の像は意外に小さく波打ち際に何の気なしにぽつんと建てられている。像の対岸は軍港になっていて、軍艦がよく停泊している。 デンマークにもトルコ人は多くおり、僕が毎年訪れているトルコの村からもたくさんのトルコ人が移住している(親戚の招待を名目とした一時移住が多い)。そういえば発掘隊宿舎の地主はコペンハーゲン在住で、毎年夏休みにトルコに帰省している。 ちなみにトルコでは髪の毛を隠すスカーフをした女性は多いが、顔まで隠すブルカを被った女性を見たことは僕は一度も無い。(以下引用)クロアチアのEU加盟交渉、05年4月に開始=声明草案[ブリュッセル 17日 ロイター] 欧州連合(EU)は、クロアチアのEU加盟について、2005年4月から交渉に入る見通し。ただ、クロアチアが戦犯裁判をめぐって国連に全面協力することが条件とされている。 欧州連合(EU)首脳会議の声明草案で明らかにされた。 また、ブルガリアとルーマニアのEU加盟については2005年4月に調印され、両国は2007年に加盟できることになる。(ロイター) - 12月17日18時9分更新(引用終了) トルコのほかルーマニア、ブルガリア、クロアチアとの加盟交渉も今回の議題となった。この記事の報じているとおり、ルーマニアとブルガリアの2007年加盟は規定路線となっており、クロアチアもトルコよりも先に早期加盟することだろう。 ルーマニア・ブルガリア両国は官憲の汚職、クロアチアはボスニア内戦での戦争犯罪やフラニヨ・トゥジマン初代大統領(故人)以来の強権的政治運営が問題視されているが、ドイツ系カトリックの文化的影響が大きかったルーマニアとクロアチアの加盟に対するヨーロッパ側の拒否感はほとんどないだろう。 問題はこれらバルカン諸国加盟後に、EUがさらに拡大を目指すかということである。トルコとは別にマケドニア、モルドヴァ、セルビア・モンテネグロ、ウクライナなどが将来のEU加盟を表明しており(加盟申請しているのはこのうちマケドニアのみだが)、またEUは北アフリカ諸国やイスラエル・パレスチナとの関係強化を目指す案をもっている。 ロシアによるウクライナやセルビアなどへの「汎スラヴ主義」(=ギリシャ正教圏への影響力強化)による巻き返しも無しとはしない。トルコのEU加盟実現は、現在揺れているウクライナの政局なども影響してくるのだろう。今月6日にロシアのプーチン大統領はロシア大統領として初めてトルコを公式訪問し、石油・天然ガス(トルコの天然ガス消費の6割はロシア産)や軍事面(NATO加盟国で最初のロシア製戦車購入国で、ロシア製ヘリコプターKa‐52の購入も決定)でのより緊密な協力を謳った協定に調印したが、トルコが「ロシア・カード」を使ってEU側に揺さぶりをかける局面も増えることだろう。EUにとって、トルコは嫌だがロシアはもっと怖い。
2004年12月17日
コメント(14)
今日もしつこくウクライナ情勢について。日本ではそれほど重要でも無いだろうし、大きく報道されていないとは思うのだが。 「政府の情報機関に毒を盛られた」という野党ユシチェンコ氏の「使用前・使用後」の写真がネット・ニュース上で並べて掲載されていたが、確かにすごい変貌ぶりだ。せっかくの男前が、ほとんどミイラじゃん。選挙運動のストレスとか、政府与党側が主張するように「悪い寿司にでもあたったんだろう」というレベルでは無い。 ここに来て「ロシア側」からも反撃が始まっている。ウクライナはロシアにエネルギー供給のほとんどを頼っているそうで(バルト三国など旧ソ連の国はほとんどそうで、べラルーシは実際制裁されたそうだ)、ロシア側は天然ガスなどのエネルギー供給停止をちらつかせているそうだ。もっとも、ロシアのエネルギーのお得意様は与党支持者の多い東部工業地帯に集中しているそうだが。 これはドイツにとっては他人事ではなく、ドイツで使用されている石油(カザフスタンやロシア産)や天然ガス(シベリア産)の多くはウクライナを通って輸入されている。EUがウクライナ情勢に干渉じみた関心を示しているのは当然なのだろう。(まるわ太郎さんのページがとても参考になりました。初めてトラックバック機能というのを使ってみたが、うまくいっただろうか?) さらに気になるニュース。(引用開始) ウクライナ、住民投票決議を採択 親露派東部17州 独立の是非問う【キエフ=内藤泰朗】ウクライナ大統領選で、議会から「選挙無効」の決議を突きつけられた親露派与党候補、ヤヌコビッチ首相(54)は二十八日、地盤である東部ルガンスク州セベロドネツク市で東部など十七州の代表者らと集会を開き、地域連合の結成とウクライナからの独立の是非を問う住民投票の実施を求める決議を採択した。クチマ政権は同日、安保会議を開いて事態への対応策を協議し、同国が東西分断の危機に直面しているとの認識から、与野党両陣営の政治対話を急ぐ方針を決めた。(以下省略)(産経新聞) - 11月29日2時52分更新(引用終了) このヤヌコビッチ首相って、一応ウクライナ人なんですよね?「分離独立を問う」とは、まるでロシア人みたいだ。実際ウクライナの人口の2割ほどにあたるロシア系は東部に多いみたいだし、ウクライナの工業が集中している東部がヤヌコビッチ支持というのは、ロシアとの関係を重視してのことだろう。単なる民主主義とかの問題では済まないようだ。 先日来繰り返しているポーランドとの関係で言うと、この地域はポーランド領からロシア領になった時期が早かった(1667年)。ウクライナ・コサックというのがロシアの南方・東方進出の尖兵になったのだが、ロシアへの帰属意識も強いのだろう。 ロシア(もしくは親露)系の分離独立というと、ウクライナの西隣のモルドヴァ共和国を思い出す。そんな国あったっけ?と仰る方、地図帳(ただし1992年以降のもの)を開いてみてください。ウクライナとルーマニアの間にギョウザみたいな形をした国があるのに気付かれたでしょうか。 モルドヴァ共和国は旧ソ連の一国で、1991年にソ連崩壊と共に独立している。面積は3万平方キロ、人口は400万人ちょっと、一人あたりGDPは1800ドル(ただし資料により開きが大きい)で、「ヨーロッパの最貧国」である。住民の多くは隣国ルーマニアと同じラテン系のモルドヴァ人である。「モルドヴァ人」というが、言語にほとんど差が無く実際はルーマニア人と言っても差し支えない。 なんでこんな独立国があるかというと、やはりロシアが絡んでくる。かつてルーマニアやウクライナの一部はオスマン帝国(トルコ)の支配下にあったが、コサックを尖兵に南下を続けるロシアは1812年(ナポレオンの時代)に露土戦争の結果、モルドヴァ(ベッサラビア地方ともいう)をオスマン帝国から割譲された。ルーマニアはそのままオスマン帝国の支配下に留まり、1878年に独立を達成している。 第1次世界大戦中の1917年にロシア革命が起きてロシアが混乱すると、当時流行の「民族自決」の建前からルーマニアはルーマニア人の多いモルドヴァをロシアから奪った。ルーマニアは戦勝国である連合国側に属していたので、この領有は列強に認められ、モルドヴァはルーマニアの一部になる。 ところがロシアがソビエト連邦になり、1939年にナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結ぶと、ソ連はポーランド東部やバルト三国に続いてモルドヴァの奪還も目指した。ドイツはイギリスとの戦争(第2次世界大戦)遂行上不可欠な石油をルーマニアとソ連の両方から輸入していたが、この両国が紛争して石油供給が不安定になることを恐れ、ルーマニアを説得してソ連軍のモルドヴァ進駐を認めさせた(1940年8月)。 ドイツはイギリス植民地のインドやイランをソ連勢力圏と認めることで同盟強化を図ったのだが(1940年11月。ナチスとソ連は同じ穴の狢だったわけだ)、ソ連はブルガリアやトルコをも要求し、またこのルーマニアへの露骨な侵略はドイツのヒトラー総統をしてソ連への不信感を決定的にさせ、翌年6月の対ソ侵攻を決意させた。ルーマニアは日独伊三国同盟に参加してドイツの対ソ戦争に加わり、モルドヴァに加えてウクライナ西部を得たが、ドイツの敗色濃厚になるとソ連側に寝返った。1947年のパリ講和会議でソ連のモルドヴァ領有を承認させられた。 ソ連はモルドヴァを連邦12番目の共和国とし(モルダヴィア社会主義共和国)、ロシア人を多数入植させる一方、「モルドヴァ語はルーマニア語とは関係ない」としてラテン文字からキリル文字への切り替えを強制、モルドヴァ人のルーマニアへの帰属意識を弾圧した。 ところが1991年にソ連が崩壊すると、モルドヴァは独立国となってしまった。ソ連全体では多数派だったロシア系住民はモルドヴァでは13%を占めるに過ぎない(ウクライナ人もほぼ同数)。独立直後の国民投票ではルーマニアへの再併合は否決されたが、国民の6割以上を占めるルーマニア系は当然西側志向になった。 ロシア系住民は東部で「沿ドニエストル川共和国」という国内国家の独立を宣言し、1991年12月には武力衝突に発展し、駐留ロシア軍が介入する事態になった。現在もこの地域には中央政府の支配は行き届いておらず、また独立後13年経った今もロシア軍が駐留し両者の衝突(というよりルーマニア系に対して)に睨みをきかせている。モルドヴァはウクライナ同様ソ連時代の名残りでエネルギー供給のほとんどをロシアに頼っていて、ロシアに強く出られないのが実情である。 モルドヴァと同族関係にあるルーマニアでは、今日大統領選挙と議会選挙が行われたが、得票過半数に達する候補が居らず2週間後に旧共産党系候補(ナスターセ首相)と親西側候補(バセスク・ブカレスト市長)の間で決選投票が行われるようだ。ルーマニアには「大ルーマニア党」というモルドヴァとの統合を主張する政党もあり、先の大統領選挙ではこの党のトゥードル候補に3割の得票があったが、今回はダメだったようだ。 この人は過去のチャウシェスク政権の治安機関(セキュリタテ)への協力が云々されているが、それを言ったらイリエスク現大統領なんて中央政治局員だし、1989年の革命はチャウシェスク大統領を生け贄にした権力闘争だったという説もあるそうで(実はウィキペディアを読んで初めて知った。「マスターキートン」という漫画でも、最終巻でルーマニア共産党残党の話が出てました)、未だに「公務員の腐敗がやまない」というのを聞くとそれも納得という気もする。ウクライナの民主化云々と言う割に、こういう国を(2007年に)EUに入れてもいいんでしょうかね。公正な選挙が行われればそれでいいのかな。 ウクライナ・ルーマニア・モルドヴァの動きに目が離せそうに無い。
2004年11月28日
コメント(6)
僕は以前は寒さに強いと思っていたのだが、加齢のせいか最近寒さに弱くなったような気がする。こう寒いと外に出るのも億劫になる。 ウクライナでは野党側が未明に「革命政権」を作ると発表してクチマ大統領に政権委譲を求める声明を出し、随分性急だなと思ったが(まあユシチェンコ氏は9月に政府に毒殺されかかったということですが)、夕方にはEUとロシアの仲介でクチマ大統領を含めた三者会談が行われているらしい。放送局や軍人にも野党側に寝返る者がが出てきているといい、予想以上に与党・政府側に厳しい状況のようだ。僕は選挙のやり直しで落ち着くのではないかと思うが、甘いかな。 ワレサ前ポーランド大統領に続き、クワシニエフスキ現大統領やリトアニアのアダムクス大統領も調停のためキエフ入りしているという。まるでリトアニア・ポーランドのルブリン連合(1569年)復活を見るようだ。わくわく。ベラルーシの今後も含めて、東欧情勢は袋小路の中東情勢なんかよりもはるかに流動的で目が離せない。 1つだけ気になるニュースを貼り付け。(引用開始) 中央アジア各国指導者、「ヤヌコビッチ氏当選」を祝福[タシケント 26日 ロイター] 旧ソ連の中央アジア各国首脳は26日、ウクライナ大統領選の当選者とされた親ロシア派のヤヌコビッチ首相を祝福する姿勢を相次いで表明した。 ウズベキスタンのカリモフ大統領は、ヤヌコビッチ氏が大統領として国内外で活躍することに期待感を示した。 キルギスのアカエフ大統領は同氏への書簡で、両国の関係強化を呼びかけた。 タジキスタンのラフモノフ大統領も祝福の書簡を送る意向という。 トルクメニスタンに独裁体制を敷いているニヤゾフ大統領は、今のところ何もコメントしていない。 ソ連消滅に伴う独立後に中央アジア各国で行われた選挙のうち、西側から完全に民主的と判断されたものは1つもない。中央アジア各国の指導者は、憲法改正や国民投票で自身の任期を延長している。(ロイター) - 11月26日21時0分更新(引用終了) わははは。中央アジアの指導者たちとしては同じ事をやっているだけに、与党のヤヌコビッチ首相を支持するほかないだろうな。 ここに名前の挙がっている各国指導者に加えて、カザフスタンのヌールスルタン・ナザルバエフ大統領(元ソ連中央政治局員)は、旧共産党系出身でその支配体制を引き継いで、ソ連が解体し各国が独立した1992年以来政権の座にあり続けている。選挙不正は言うに及ばず、国家財産の私物化という共通点もある。昨年亡くなったアゼルバイジャンのハイダル・アリエフ大統領(元ソ連第一副首相)も同じような特徴を持ち、息子が大統領になっている(昨年12月13日の日記に書いた)。 今週の「シュピーゲル」にはカザフスタンについての長い記事がある(本当は「中国の赤い艦隊におののく日本」という記事を読むために買ったのだが、違う記事ばかり紹介している)。13年にわたり大統領の座にあるナザルバエフ大統領や選挙での不正、そして石油に沸くカザフスタンについての記事である。 ユーラシアのへそといえる位置にあり、中央アジア最大の国(人口ではウズベキスタン)であるカザフスタンは、アゼルバイジャン同様カスピ海の海底に埋蔵される石油や天然ガスが各国の熱い視線を浴びている。昨年の輸出総額116億ドルのうち49.3%が石油及びガス、21.6%が鉄鉱石、石炭、鉛、チタン、金などの鉱物資源である。特に石油は急ピッチで開発が進んでおりまもなく世界10位に入るという。 そのため従来から影響力のあるロシアに加え(カザフスタンの人口の3割はロシア系)、経済の急成長によるエネルギー不足に悩む隣国・中国、そしてアメリカによる地政学的な綱引きの対象になっている。中国に通じるパイプライン及びアゼルバイジャン経由でトルコの地中海岸に抜けるパイプラインは2005年完成予定だそうだ。経済は石油バブルの様相を呈し、昨年の経済成長は9%、1997年に遷都された人口40万の新首都アスタナ(旧アクモラ)では、黒川紀章氏が設計したピカピカの高層ビルが、サウジアラビアのゼネコンであるビン・ラディン・グループ(あのビン・ラディンの親戚)によって建設されているという(旧首都アルマトイ=アルマアタは地震が多く、国境に近すぎてキルギスタンのイスラム原理主義者の活動が活発だというので忌避された)。 一方で汚職や不正が横行し、ある調査では対象145ヶ国中122位(ジンバブエやウズベキスタン並)、アムネスティは当局の不当逮捕を非難し、選挙では有力候補の立候補禁止など、不正が取り沙汰されている。メディアは大統領の娘であるダリガ・ナザルバエワの支配下にあり、国会の議席は大統領の与党オタン(祖国)党と彼女の翼賛政党で議席の7割を占めている。 付近のアフガニスタンでの「対テロ戦争」では米軍機の領空通過を認め、またイラク復興に工兵を派遣するなど対米接近する一方、北朝鮮に戦闘機を売却しアメリカの逆鱗に触れている。現在ニューヨークではナザルバエフ大統領に贈賄したアメリカの銀行家に対する裁判が進んでおり(アメリカの法律ではアメリカ人の海外での汚職を罰することが出来る)、判決如何によってはナザルバエフ大統領のアメリカ入国禁止や大統領個人の在米資産の凍結などがあるという。 今度の日曜日はルーマニアでも大統領選挙(1989年の革命以来ほぼ大統領職にあったイオン・イリエスクの後任)が予定されている。 有力なのはアドリアン・ナスターセ首相(テレビ番組にギターを抱えて登場する洒落者だそうだ。さすがラテンの国)、トラヤン・バスエスク・ブカレスト市長(豪快な笑いと庶民性が売り)、コルネリウ・ヴァディム・トゥードル・大ルーマニア党党首(前回の大統領選挙では3割の得票があった)あたりだそうだ。トゥードル候補に関しては、チャウシェスク政権時代に治安維持機関に情報提供した疑惑が取り沙汰されている。 ルーマニアは2007年にEUに加盟するとみられているが(EU全加盟国の承認と国民投票が必要)、汚職や不正が減る傾向に無く、EUに警告を受けている。イリエスク現大統領は中央アジアの大統領と同じくルーマニア共産党中央政治局の出身で、彼が推すナスターセ候補も共産党系だが、こちらの大統領選挙は波乱無く終わるのだろうか。
2004年11月26日
コメント(7)
今日も寒かった。ついにZucchero(イタリアのおっさん歌手)のCDを買ってしまった。まずベスト盤から。この人はクラプトンなど外国アーティストとのコラボレーションも多い。 それを買った電気店で、迷彩服で坊主頭の一等兵がコンピュータ・ゲームのソフトを念入りに選んでいるのを見た。いや、兵士がゲームするなとはいわないし、徴兵制のあるドイツでは日常生活で休暇中・移動中の制服姿の兵士を見るのはごく普通のことだが、戦争のシューティング・ゲームとかされるとやはり何か考えてしまう。まあこういのは軍隊経験のない(射撃したことはある)僕のたわ言なのだろうが。 大統領選後の混乱の続くウクライナ情勢は尖鋭化している。ドイツのシュレーダー首相は昨日ロシアのプーチン大統領に電話して「ウクライナには民主的な政権が必要だ」と釘をさしたが、今日ハーグを訪問したプーチン大統領は与党候補支持の姿勢を崩していない。 一方ポーランドのワレサ元大統領は早くもキエフ入りして調停を試みている。「調停」というが、「私も80年代に同じ事をした」と演説するなど、どうも野党支持の発言が目立ち、どちらかというと火に油を注ぎに行っているように見える。ウクライナがかつて400年にわたってポーランド領だったことを考えると、なかなか意味深である。「中欧の大国ポーランド」の復活か(笑)。ポーランド・ファンの僕としては気になるところである。 もともとロシアとウクライナは同根の民族だが、モンゴル支配が長く「目の青いモンゴル人」といわれるロシア人が強権的・強力なリーダーシップを志向するのに対し、国会(セイム)制度による貴族の共和制(それが亡国の原因になったが)だったポーランドの支配を受けていたウクライナは、違った政治的志向があるようだ。また宗教は一応正教だが、西部はポーランド支配下でカトリックとの融合が進んでいる。ウクライナ内でも地域差があるらしい。 今回のこの騒ぎを民主主義とか自由とかいう観点のみで見ていると、見落とすものが多すぎる。EUが単に民主主義を尊重しているだけならかつてのイラクやシリアやイラン、何より立法議会すら存在しないサウジアラビアなど、先に非難されるべき国はいくらでもある(あえて東アジアの国名は挙げませんが)。今年5月のポーランドのEU加盟が早くも効果を及ぼしているということだし(ポーランドやバルト三国が入れるんなら俺も、とウクライナに希望を持たせた)、EUにしてみれば「民主主義」を武器にヒトラーやナポレオンのような戦争なしでその勢力圏を東方に拡大出来るのだから、こんな美味しいことは無い。 ああ、日本もこの手で・・・、いやそれは言わない事に。それにしても、歴史とは国家や民族の根幹だとつくづく思う。おとといの日記で書いたがウクライナ国家なんてこの100年足らずのものだし、実際に独立していたのはこの13年だけである。 それにしても、やはりここで連想されるのがイラクである。アラビア語で「崖・谷」を意味する「イラク」というのは地方名はあってもそんな国は1932年まで無かったし、その国境は第1次世界大戦の戦勝国であるイギリスとフランスが勝手に画定したものである(しかも国王はアラビア半島からイギリスが連れて来た)。 イラクという国家はウクライナと違い一体的な歴史的経験を欠いている。今のイラクの領域を中心として領土としていたのは紀元前2300年頃のアッカド王国が最後で、のちのアッシリアにしろバビロニアにしろアッバース朝にしろ、イラクは(外部の)大帝国の一部かもしくは小首長国による分裂状態のどちらかしか経験していない。「かつてポーランド支配下だった東スラヴ系住民」という定義の出来るウクライナ人のほうがまだ一体感がある。 フセイン元大統領が「クウェートはイラクの一部」というのにも根拠無しとはしないし(それを言っちゃあイラク全土がトルコ領になってもおかしくないのだが)、イラク人に国家とか民族というアイデンティティは希薄なのだろう。あるのはシーア派、スンニ派といった宗派、もしくは「アラブ人」という国際政治上はもはや実態の無い漠然とした理念だけである(あれだけの人口を一つにまとめている中国は、是非はともかくすごい)。「イラク国民」の成立を目指したフセイン政権はスンニ派の私政党に堕してしまったうえ汎アラブ主義のバース党の理念ともかけ離れてしまった。今更言うまでも無いが、「外国」のテロリストが入り込む今のイラクの混迷の原因の大きな要素だろう。 乾燥した厳しい環境に起因する人口密度の希薄さ(と限られた可住地への集中)と本来他者に寛容なイスラム教の性質が、移動的・流動的な社会を成立させ、ヨーロッパふうの国民国家形成の障害になったのは仕方ない。それにしても、近代以降、中東の支配者たちが私利私欲に走って公というものを省みず、外国勢力の意のままに堕して四分五裂しているのは、同じ古い文明の国である中国と比べて「情けない」としかいいようがない。「誇り高いアラブ人」などと言うが、どこに誇るべきものがあるのか。 今日スーダン政府はドイツ大使を呼んで「スーダン国民の安全と保護はスーダン政府の役割であり、主権の侵害である」と述べ、最悪の人権蹂躙が続いているといわれる西部ダルフールでの難民支援・停戦監視活動にドイツ連邦軍が参加することに抗議した。ドイツはイラクでは消極的だが、スーダン問題では旧宗主国のイギリスと共に随分積極的である。スーダン政府は駐独大使を召還するなど、対独関係が冷え切っている。 先週ドイツ政府はダルフールに駐屯するAU(アフリカ連合)軍に対する後方支援に参加することを決定し、ドイツ連邦軍の輸送機2機、兵員が最大200人参加してAU軍をダルフールに輸送することになっている。10月末に既にナイジェリア、ルアンダの兵士600人が現地入りしており、最終的には3300人にまで増員される予定。 前の日曜日にケルン市で行われたイスラム教徒による反テロデモに対し、批判や疑問が起きている。このデモはトルコ・イスラム協会という団体が主催して二万五千人が参加したが、他の在独トルコ人団体やイスラム教団体が「あのデモはアンカラの指示で行われたもの」と非難しているという。つまりEU加盟を目指し「民主主義とイスラム教の共存が可能」とするトルコ政府が、宣伝の為に在独トルコ人に指示して行われたのだ、という。 いやあ、テロに反対しイスラムの平和性を訴えるならばどこが主催していようが別にいいとは思うんですが・・・。この説の真偽はともかく、デモ行進には常にこういう「特定勢力の意図」の有無をよく見極めてから参加しないといけないということですかね。 僕はアメリカによるアフガニスタン空爆反対デモとか、大学の授業料導入反対デモなど、ドイツに来てからしかデモ行進に参加したことが無いけど。
2004年11月25日
コメント(8)
12月の頭に日本から大学の後輩が遊び(フランスでの学会のついで)に来ることになった。日本では彼の部屋に随分泊めてもらったのでこちらも恩返ししないといけないが、まず部屋をかなり片付けないとまずい。 しかしこれだけ本があるといくら片付けても狭いのは致し方ない。今ここにあるのと同じくらいの本を日本に置いてきているから、日本に戻ったとき家がどういう風になるのか見当もつかない。それにしてもドイツの本は日本に比べ重厚で始末に悪い。 アメリカに次いで大統領の決選投票が終わったばかりのウクライナ情勢が緊迫している。(以下引用) 親ロシア派の首相当確=野党は不正非難、緊張高まる-ウクライナ大統領選決選投票【キエフ22日時事】21日行われたウクライナ大統領選の決選投票は、22日午後までの中央選管の集計で、与党が推す親ロシア派のヤヌコビッチ首相(54)の当選が確実になった。野党指導者で親欧米派のユシチェンコ元首相は「大掛かりな不正があった」と非難、大規模な大衆抗議行動を組織し、徹底抗戦する構えを示した。(中略)情勢は流動的で、首都キエフでは緊張が高まっている。 欧州安保協力機構(OSCE)の選挙監視団は22日、決選投票は選挙の国際的基準に到達していないと指摘。ブッシュ米大統領の名代として選挙を監視したルーガー米上院議員(共和)も「政権が主導した大規模な不正があった」と批判した。 中央選管によれば、開票率99.38%の段階で、ヤヌコビッチ首相の得票は49.42%。ユシチェンコ氏は46.70%。大接戦だった開票は、終盤に入って首相のリードがやや広がり、当選を確実にした。暫定投票率は80.22%。 これに対し、ユシチェンコ陣営はキエフの独立広場で集会を開き、約5万人が参加。同氏は演説で、選挙不正をただすため、議会の特別会議招集や大衆の抗議行動を求めた。側近は選挙不正に抵抗する全国ストの実施を呼び掛けた。(時事通信) - 11月23日1時1分更新 ウクライナに選挙の検証要求=「深刻な懸念ある」-EU外相理【ブリュッセル22日時事】欧州連合(EU)外相理事会は22日、ウクライナ大統領選決選投票の結果に「深刻な懸念がある」として、同国当局に結果の見直しを含めて選挙全般を検証するよう求めた。 議長国オランダのボット外相は記者会見し、「(選挙は)EUが期待していた国際的な基準に達していない」と懸念を表明。ソラナ共通外交・安全保障上級代表も「ウクライナの運命はこの問題をどう処理するかにかかっている」と指摘した。(時事通信) - 11月23日1時1分更新 ウクライナ大統領選緊迫 野党候補一方的就任宣誓 支持者ら議会に乱入【モスクワ=内藤泰朗】ウクライナ大統領選挙で親露派の与党候補、ヤヌコビッチ首相(54)が当選確実となったことに反発する野党候補、ユシチェンコ元首相(50)は二十三日、首都キエフの議会で野党議員が見守る中、一方的に大統領就任を宣誓。さらに支持者らが議会に乱入し、建物を実力で占拠して政権側に選挙結果の見直しを迫る構えをみせている。与党にてこ入れするロシアに対し、欧米は大規模な不正があったとしており、情勢はさらに緊迫してきた。 キエフからの報道によると、ユシチェンコ氏のシンボルカラーのオレンジ色のリボンや旗を持った支持者たち数万人が取り囲んだ議会では、野党系議員だけが集まって審議が行われ、同氏は聖書を手に「大統領宣誓」を行った。しかし、中央選管への不信任などの決議を採択するのに必要な議員数(二百二十六議席)には満たず、結論を出せないまま閉会した。 同氏は二十二日夜、決選投票では全国で一万一千件の不正が行われ、第一回投票の五倍にふくらんだと政権側の選挙違反を糾弾。二十三日には、「ウクライナは内戦に直面している」と強く警告した。女性野党指導者のティモシェンコ氏も「二十三日の緊急議会で民衆の声が無視されれば、道路や空港を封鎖し、大統領府に押しかける」と実力行使に訴える姿勢を強調しており、野党支持者らが議会乱入に続いて、さらなる実力行使に出る可能性もある。 キエフのほか、リボフ、イワノフランコフスカなど西部の六市議会も二十三日までに、ユシチェンコ氏を「大統領」と宣言するなど選挙結果を拒否する決議を採択、政権側と対決姿勢を示している。これに対し、内務省など治安当局は二十二日夜、「不法行為を早急に終わらせる用意がある」と警告したが、キエフ警察当局は二十三日、野党支持者のデモに不介入の姿勢を示した。 選挙監視団を送り込んだ欧州連合(EU)は選挙のやり直しを求めたほか、米国のエレリ国務省副報道官も「(選挙には)深刻な欠陥がある」とし、大規模な不正が確認されれば、制裁措置を含む対策を検討すると示唆した。これに対し、ロシアのプーチン大統領は二十二日、訪問先のブラジルからヤヌコビッチ首相に電話で選挙の勝利を祝福した。 ウクライナの欧米傾斜を警戒するプーチン政権は、世論操作や資金提供などあらゆる手を尽くしてヤヌコビッチ首相を応援。犯罪歴もある不人気な同首相は、「当選確実」にまでこぎ着けた。しかし、こうしたロシアの露骨なまでの介入は、対露関係をめぐり国内の地域で温度差があるウクライナで混乱の増長を招く結果をもたらしている。(産経新聞) - 11月24日3時1分更新(引用終了) ドイツのフィッシャー外相も駐独ウクライナ大使を呼んで選挙結果の検証を要求している。 ちょうど1年前、同じ旧ソ連のグルジアでも議会選挙をめぐる混乱が起き、選挙結果に不満・疑念をもつ民衆デモでシェワルナゼ大統領が国を追われ、アメリカ留学経験のあるサアカシヴィリ大統領が誕生している。僕はそれについて「ジョージの国が大変だ」と題して日記に書いている。グルジアと今回のウクライナのケースは非常によく似ている。 「国際ニュース解説」の田中宇さんなどは既にそれについて書いていて、グルジアの混乱の際ウクライナ大統領選挙での今回の混乱を予言していた(彼にしては珍しく予想が当たったというべきか)。彼はグルジアの件は「アメリカの陰謀」のように分析していたが、アメリカがそこまで積極的かどうかはとにかく、アメリカやEUの意向に沿って親西側政権が誕生したのは事実である。 今回はしかし、ロシアにとっては「脇腹」のような国でもあるし、人口が5000万近く資源に恵まれた中堅国のウクライナに親米政権が出来ることを許す(手放す)とは考えにくい。今回の混乱はかなり長期化するのではないだろうか。今のところ「警察が不介入」というのはグルジアと同じパターンだが。 また次は同様に2001年の大統領選挙がEUに批判されたルカシェンコ大統領のベラルーシに飛び火するというのも容易に想像がつく。ロシアの「前線」(ハンティントンのいう「マージナル・ライン」)はどんどん東方に押しやられている。ヨーロッパで失敗したら太平洋への進出を目指す(もしくはその逆)のが、ロシアの運動律だが・・・・。 ウクライナはロシアに極めて近いスラヴ族の国である。いや、本来はむしろロシアがウクライナの分家というべきらしい。最近はトルコ製品がウクライナにも大量に輸出されるようになったようで、ウクライナ語の表記を時々見かける。隣に並べて書かれたロシア語とは微妙に異なるようだが、同じキリル文字だしロシア語の素養が無いと区別できないだろう(方言程度の差なのだろうか)。ちなみに今日の日記のタイトルは「ウィキペディア」に載っていたウクライナ共和国の標語で、「自由・調和・善良」という意味だそうだ。 「ウクライナ」という国は1919年のウクライナ社会主義共和国の誕生まで存在しなかった(それ以前には、ロシア革命に乗じたドイツ軍占領下の1918年にブレスト・リトウスク条約でドイツなど同盟国によりウクライナの独立が承認されている)。もちろんロシアと未分化だった9世紀のキエフ公国などをウクライナの祖とすれば無いとは言えないが。その後はモンゴルやリトアニア・ポーランドの支配を受け、ロシアの支配下に収まったのは18世紀と案外新しい。モンゴル(タタール)支配を長く受けたロシアとポーランドの支配下にあったウクライナはその間に分化した。 このキエフ公国にしろ建国したのはスウェーデン系のヴァイキングだし、ウクライナ社会主義共和国も、ロシア革命(1917年)と占領軍であるドイツの敗戦後の真空状態で連合軍の介入や白系との内戦後に成立したものだ。第一ウクライナ社会主義共和国からして、間もなく1922年にベラルーシと共にソ連の構成国となっている(ベラルーシと共に国連で独自の一票を持っていた)。第2次世界大戦中はドイツ軍の占領下にあり(700万人が死亡)、ウクライナ人はソ連軍の重要な一角をなす一方で多くのウクライナ人がドイツ軍に投じている。豊かなウクライナがロシアと西欧(特にドイツ)との綱引きの舞台になるのは宿命か。 あ、外務省ページのウクライナの基礎データで、一人当たりGNI(国民総所得)が970ドルとあるけど、あれはどう考えてもミスじゃないか?一人当たり5200ドルというGDP(国内総生産)とこのGNIって、そんなに開くものなのだろうか。 僕にとってはウクライナといえば紀元前の遊牧騎馬民族スキタイの故地で、ウクライナの博物館から出展された遺物を何度見たことか。グルジアもそうだが、僕らが気軽に行けるような国になってくれれば僕としてはそれでいい。
2004年11月23日
コメント(4)
イラクの人質殺害のニュースは勇み足だったようだ。アメリカ頼みの政府のイラクでの情報収集能力を批判する声もあるが、丸腰の日本の外交官にそれを要求するのは酷というものだろう。 ただ駐留アメリカ軍のお粗末には開いた口が塞がらない。デジタル化していてもダメなものはダメらしい。イラク統治がうまくいかないわけだ。そうでなくとも嘘の情報ばっかりだし。 昨日テロリストを非難する文章を書いたが、テロは暴力の連鎖を招くだけで決して勝利を収めない。しかし史上には稀にテロを手段(目的ではない)に勝利を収めた例がある。アイルランドの対英独立戦争(1919~21年)である。その指導者は、マイケル・コリンズという青年だった。 僕は映画「マイケル・コリンズ」(1997年、ニール・ジョーダン監督)を見るまでこの名前を知らなかったが、彼は史上稀に見る成功を収めた「テロリスト」ということらしい。彼を敬愛するアイルランドの人々はコリンズをテロリスト呼ばわりされることに反発するだろうが、コリンズの対英闘争の手法はテロリズムそのもので、毛沢東やチェ・ゲバラもその影響を受けたという。この映画が公開されたとき、イギリスは「テロリスト崇拝」だとして強く反発した。 アイルランドは12世紀以来、長いイギリス支配に甘んじていた。イギリスは英国国教会(一応プロテスタント?)をアイルランド人に強制しようとしたが、敬虔なカトリック(国民投票で離婚が導入されたのは1995年になってから)のアイルランド人は拒否した。イギリスはカトリックに対して過酷な弾圧・重税を加え、権利を制限した。1845~51年には不作で800万の人口のうち100万人が餓死、100万人がアメリカに移民し、人口が激減している。長い支配の結果アイルランドの「イギリス化」も進み、住民の大部分がゲール語ではなく英語を話すようになった。北アイルランド(アルスター)にはイギリス人が多く移住しカトリックと混在する。 1848年に反英過激派秘密結社であるIRB(アイルランド共和同盟)が設立された。一方で19世紀後半の汎ヨーロッパ的な民族運動の中、アイルランドでも文芸復興運動が起き(イェーツなど)、経済的にイギリスに依存していたアイルランド人たちの多くは、平和的手段で自治(独立ではない)を望むようになる。1907年にはアーサー・グリフィスによってシン・フェーン(「我ら自身」)党が結成される。 1874年にはイギリス国会でアイルランド政党が進出、曲折の末1912年にイギリス下院でアイルランド自治法が可決される。しかしプロテスタント住民の多いアルスター地方を巡って紛糾する。ところが1914年8月、第一次世界大戦が勃発し、20万のアイルランド人がドイツとの戦いのためイギリス軍に志願(アイルランド人は徴兵を免除されていた)、内戦は回避された。 マイケル・コリンズは1890年にアイルランド南部コーク近郊の富農に生まれた。15歳で渡英し、郵便局、投資会社で働いた。ロンドンではゲール語連盟に加わってゲール語を学習、IRBに参加する(それだけ多くのアイルランド人がイギリスに居た訳である)。上記の映画ではリーアム・ニーソンがコリンズを演じているが、実際はもっと丸顔で童臭が抜けなかった。性格は快活・温和だったという。 イギリスは第一次世界大戦を理由にアイルランド自治法の施行を延期、これに不満をもつアイルランド義勇軍(IRBのメンバーが中心)は敵国ドイツの協力を取りつけ、1916年のイースター(復活祭)を期して武装蜂起を計画する。コリンズもダブリンに舞い戻った。ところが武器を輸送したドイツの輸送船がアイルランド沖合いで撃沈され、武装不十分なまま一日遅れで蜂起(4月24日)、1500人の男女がダブリン中央郵便局を占拠しアイルランド共和国独立を宣言するが、ドイツへの通敵、ましてや一般市民を巻き添えにした市街戦は市民の支持を得られず、圧倒的な駐留イギリス軍(その兵士の多くはアイルランド人)によって5日間で鎮圧された。投降した首謀者15人が即決軍事裁判で銃殺されたが、まだ若く無名だったコリンズは投獄された。この即決軍事裁判は蜂起には批判的だった一般市民を、反英に変えることになる。 コリンズは1916年末に出所、まだ26歳ながらIRBの最高評議会員となり、また政治組織シン・フェーン党に加入して政界入りする。巧みな演説・パフォーマンスで民衆の支持を集め、また党財務担当として、厳格で巧みな金銭管理能力を発揮した。 1917年、イースター蜂起の指導者の一人だったイーモン・デ・ヴァレラが出所(コリンズよりも8歳年長の彼は、スペイン系の父・アイルランド系の母を持ちアメリカ国籍を保持しており、アメリカの抗議で死刑を免れた)、シン・フェーン党の党首に迎えられる。秘密武闘組織であるアイルランド義勇軍も再編成され、デ・ヴァレラが議長、コリンズは組織局長となる。1918年、アイルランドでの徴兵制導入をめぐり共和派とイギリス当局が対立、デ・ヴァレラ始めシン・フェーン党員の多くが投獄されるが、コリンズは巧みに逃亡した。 1918年11月、第一次世界大戦は終結したが、イギリス政府はアイルランド自治法を反古にした。イースター蜂起への過酷な報復、徴兵制、そしてこの約束反古もあって、1918年12月の総選挙では独立派のシン・フェーン党が106議席中73議席を獲得し躍進する。コリンズはお尋ね者ながら遊説に活躍、独立運動を盛り上げた。 当選議員の多くが獄中にあったシン・フェーン党はイギリス議会への登院を拒否、1919年1月には獄中にあるデ・ヴァレラを首班とする地下臨時政府・国民評議会(ドール・エレン)が組織されアイルランド共和国独立を宣言、コリンズは財務大臣に就任、またアイルランド義勇軍(のちアイルランド共和国軍=IRAと改称)のトップに就任し、軍事・諜報部門を統括する。イギリスは当然この宣言を無視する。 コリンズ最初の「テロ活動」は、獄中にあった議長デ・ヴァレラの救出で、イギリス本土の刑務所を襲撃しデ・ヴァレラをまんまと脱獄させる。デ・ヴァレラは、アイルランド系住民が多いアメリカに独立を援助・承認してもらおうと、現実主義のコリンズらの反対を押し切って出発する。しかし民族自決を国際社会に訴えていたアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンはプロテスタント・親英で、デ・ヴァレラに面会しようとさえせず、代表団を送りこんだヴェルサイユ講和会議でも相手にされなかった。 アメリカの干渉が無いと知ったイギリスは独立派の弾圧を開始、IRAも警官殺害で応じ、「独立戦争」が開始される。IRAのメンバー2000人に対しイギリス駐留軍は6万(最大10万)、正面切って戦う愚を避け、テロ活動・都市ゲリラ戦を開始した。アイルランド全土で政府要人の暗殺、小部隊への待ち伏せ攻撃、焼き討ちが行われ、イギリスにとっては「犯罪行為の多発」として対処するしかなかった。 コリンズは一般市民を巻き込まないこと、作戦範囲はあくまでアイルランド内とし敵地であるイギリスでのテロ活動を行わないこと、また勝手なテロ行為を禁じ、徹底統制した。一方敵を捕捉出来ないイギリス軍は無関係な市民にその矛先を向け、穏健派アイルランド人の憎しみをも買うことになった。 コリンズは情報を重視するが、警察・税関・郵便局の職員の多くはアイルランド人であり、内通者を得てイギリス側の情報を収集することは簡単で、内通者の手引きで大胆にもコリンズ自らダブリン警察本部に乗り込んだ。またアイルランド側のイギリス内通者を摘発し、警察のアイルランド人刑事にも容赦無く(事前に一度だけ警告の手紙を送った)、白昼堂々路上で殺害した。この間コリンズ自身は指名手配中であるにも関わらず(1万ポンドの賞金が掛けられていた)、背広姿で自転車に乗ってダブリン市内を行き来し、情報収集や指示連絡にあたっている。彼自身が銃を取ることは無かったらしい。 業を煮やしたイギリスは、イギリス本土から「ブラック・アンド・タンズ」(カーキ色の軍服と黒いベルトからこの名がある)というほとんどならず者同然の特殊部隊を派遣する。アイルランド人に民族差別的な憎悪をもっていたブラック・アンド・タンズは一般市民への報復も辞さず、親英派市民すらも反英に駆り立てていった。 イギリスはさらに秘密特捜班「カイロ・ギャング」を派遣するが、情報戦で優位に立つコリンズに太刀打ちできず、名前と住所を調べられた上1920年11月21日に自宅や路上で一斉に暗殺された。即日報復のためブラック・アンド・タンズはラグビーの試合が行われていた競技場に乱入して無差別に発砲、12人が死亡し60人が負傷する事態となった。この暴挙はイギリス国内からも非難された。 1920年12月、国民評議会議長のデ・ヴァレラはアメリカ訪問から帰国する。アメリカ政府の支持は得られなかったが、アイルランド系の多い世論を味方につけて資金調達にも成功した。1921年の総選挙でシン・フェーンが大勝したこともあり(ただし北アイルランドではアルスター統一党が勝利)、イギリスは武力鎮圧をあきらめ交渉のテーブルにつくことを考え始める。 デ・ヴァレラはIRAのテロ組織というイメージ払拭と、独立交渉でより優位に立つため、コリンズの反対を押し切ってダブリンにあるカスタム・ハウス(税関庁舎)に正規戦による攻撃を命じるが、これは死者・逮捕120人を出す大失敗に終わる。しかし直後の6月29日にイギリス側が臨時政府に休戦を申し入れ、IRAの勝利が確定した。 コリンズはイギリス政府との交渉団の団長に任命され(お門違いの軍事部門の長だった彼が任命されたのは、デ・ヴァレラによる意趣という説もある)、30歳という若さを軽く見られないため口髭を伸ばして渡英する。相手はロイド・ジョージ首相、ウィンストン・チャーチル植民地相といった強面ばかり、戦闘再開をも辞さない姿勢のイギリス側と妥協し、コリンズは北アイルランドの分離(「北アイルランド問題」の起源)、イギリス王への忠誠という条項を含む条約に調印して1921年12月帰国した。ここに「アイルランド自由国」が誕生し、アイルランドは一応の独立を達成した。 この条約内容に首班デ・ヴァレラらが反発、議会の議決ではコリンズやグリフィスら条約承認派が僅差で勝ったが、デ・ヴァレラら反対派は議会をボイコットする。1922年4月にはデ・ヴァレラを支持する一部のIRAメンバー(現在テロ行為を繰り返すIRAはこの流れを汲む)がダブリン市内のフォー・コーツ(裁判所)を占拠する。 6月の国民投票で条約は承認され、最初の総選挙でも条約承認派が勝利、グリフィスを首班、コリンズを軍最高司令官とするアイルランド自由国が正式に誕生する。これに対しデ・ヴァレラ一派は要所を武力で占拠してアイルランドは無政府状態に陥り、イギリスの干渉を避けるためコリンズはやむなく討伐を決意、独立したばかりのアイルランドは内戦に陥った。 内戦中の1922年8月22日、故郷コークを訪問したコリンズは帰路デ・ヴァレラ派の待ち伏せ攻撃に遭い、頭を撃ち抜かれて即死した。享年31歳。婚約者は居たが、独身のままでの死だった。ダブリンで行われた彼の葬儀には50万人が参列したという。 1923年、デ・ヴァレラ派の呼びかけにより内戦は終結。出獄したデ・ヴァレラはフィアナ・フェール党を率いて1932年の総選挙で勝利して首相に就任、1938年に共和制を宣言、第二次世界大戦中も徹底的な中立政策を取り(そのためイギリスはアイルランド侵攻を計画した)、1959年まで断続的にその任にあった。1959年から1973年まで第三代大統領として在任、「独立の父」と敬愛されつつ1975年に93歳の長寿を保って死去した 一見この経緯に似ている現在イラク(イラクだけではないが)で続発するテロ行為は、アイルランドのような成功を収め得ない。内外で無関係の一般市民や外国人を標的にする思いつきの殺戮、様々な宗派・国籍の者が入り乱れた統一した政治・軍事組織の欠如、また好意的な国際環境も殆ど無い。「レジスタンス」などではなく、ただの「愉快犯」と断じる所以である。(コリンズの行為の善悪は措く) まあ自爆テロはこの世での勝利など求めていないのだろうが。
2004年10月30日
コメント(8)
「不死身の男」ヤーセル・アラファトPLO議長が意識不明になったというので、「予定稿」を準備しようと思ったが、持ちなおしてフランスに療養に向かうという。しかし政治的にはもう終わりだろう。 身辺雑記は特に無いので、今日も書き溜めていたEU非加盟国の歴史に関する文章をアップ。ノルウェー、アイスランドに続き今日はスイスである。 スイスはヨーロッパの内陸に位置し、周囲はドイツ・フランス・イタリアという大国に囲まれている。スイスというと「永世中立国」や高級腕時計、国土の6割を占めるアルプス山脈で有名だが、東海・甲信地方の面積(4万平方キロ)に、群馬から岐阜にかけての内陸県総計と同程度の人口(736万人)が暮らすこの小国が、戦乱の続いたヨーロッパで独立を保ち、かつEUにも加盟しないのはなぜだろうか。 スイスの人とは、以前語学学校に通っていたドイツのフライブルク(スイスに近い)で知り合ったことがある。ドイツ語学校だけにスイス人口の63%を占めるドイツ系ではなく(もっとも、スイスのドイツ語は強烈な訛りで有名だが)、同19%弱のフランス系、7%のイタリア系の人ばかりだった。スイス南部のテッシン(ティッチーノ)州から来たイタリア系が多いので理由を聞いたら、スイスにはイタリア系のための大学が無いので進学にはドイツ語が必須なのだ、という答えが返ってきた。なぜスイスでドイツ語をやらないのか分からないが、ドイツのほうが安い物価とかも関係しているのだろうか。スイスの一人あたりGDPは37000ドルと世界最高水準である。 スイスは山岳地帯(4000m級の山が40ある)、しかも1万年前まで氷河に覆われていた痩せた土地とはいえ、ヨーロッパ大陸の地理的中心ということで、古代文化と無縁ではない。青銅器時代の墳丘墓文化、火葬墓文化、鉄器時代のハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化などの分布域の中核に位置している。最後の二者はケルト人の文化とされているが、スイスにはケルト人の中でも武勇に優れたヘルウェティー族が居た。 紀元前58年にヘルウェティー族はユリウス・カエサルに敗れローマ帝国に服属するが、その名前はヘルウェティアというスイスの雅名に今も残っている。ケルト人はローマ化しラテン語を話すようになったが、現在スイスに0.6%いるというレート・ロマンシュ語はその名残りであるという。 4世紀にローマ帝国が衰亡し民族大移動の時代になると、スイスにはゲルマン系のアレマン族やブルグンド族が移住し、スイスの多くはゲルマン化された(現在のドイツ系の祖)。西ヨーロッパを統一したゲルマン系のフランク王国は、兄弟分割相続によって分裂するが(880年のリべモン条約など)、その際の境界線が現在のドイツ語・フランス語・イタリア語分布の境界となる。東西フランク王国の間にはブルグンド王国という小国が出来たが、その東部国境がほぼ現在のスイス内での独仏語境界になっている。 ドイツにブルグンド、イタリアを加えた領域は「神聖ローマ帝国」に組み入れられるが、帝国とは名ばかりで地方分権が甚だしく、特にイタリア征服に狂奔し本国ドイツを顧みなかったシュタウフェン朝時代(12~13世紀)ののち、完全な選挙王制になり選出された皇帝・王の権力は形骸化する。実力をつけるため諸侯は帝国内での自領の拡大に狂奔するが、その一つにスイス北部に所領をもつハプスブルク家もあった。ハプスブルク家は1282年にオーストリアを領国化し強大化、ドイツ国王の地位を窺うようになる。 当時山岳地帯のスイスでは、小規模な自治組織が分立していた。領国支配を固めたいハプスブルク家に対してウリ、シュヴィツなどの農民は叛乱を起こした。フリードリッヒ・シラーの戯曲(とジョアッキーノ・ロッシーニの歌劇)であまりに有名な弓の名手ヴィルヘルム・テル伝説(息子の頭の上に乗せたリンゴを射抜く逸話)はこの時代に取材したものだが、「ハプスブルク家の圧制」と共に、史実ではないらしい。 1291年、上記2州にウンターヴァルデンを加えた「森林3州」は「誓約同盟」を結成、これがスイス国家の起源であり、国名はシュヴィツ州に因んでいる。ドイツ国王の地位をハプスブルク家と選挙で争っていたドイツ諸侯はこの独立を支持する。いわばドイツの政治情勢がその辺境に位置するスイス国家を生んだといえる。 ハプスブルク家は討伐のため騎士軍を差し向けるが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦いでスイス農民歩兵はこの騎士軍を撃退した。のちのち長槍や槍斧で武装し密集隊形で戦うスイス歩兵は、騎兵に対抗出来る強力な傭兵として重宝された(日本でも同時代に足軽が登場している)。ローマ教皇の護衛兵は現在も形式上スイス傭兵だが、むしろ山岳地帯で牧畜以外にろくな産業の無かったスイスでは、傭兵になるしか食い扶持が無かったともいえる。少し後の話だが、18世紀初頭のスペイン継承戦争では、5万のスイス兵が両陣営に雇われ相い戦ったという。 これらの州では貴族・市民・農民による共和体制が敷かれていた。独自性の強い州の集合体で国家としてのまとまりは極めて緩やかだったが、ハプスブルク家との独立戦争の中で結束を強め、またベルン、チューリッヒなど新加盟する州もあり拡大した。1499年にハプスブルク家はスイスに一応の独立を認める。 独立したスイスはその地理的条件を向上させるため南方(イタリア・ミラノ)への拡大を目指すが、1515年にフランスに敗北、以後スイスは膨張政策を捨て専守防衛に徹するようになる。スイスが中立を保ったドイツ三十年戦争後のウェストファリア条約(1648年)で、スイスの独立は各国に承認された。 映画「第三の男」でオーソン・ウェルズ演じるハリーは「スイス500年の平和は何を生んだ?鳩時計だけだ」と言うが、スイスの歴史は決して平和なものではなかった。 ドイツ三十年戦争は宗教戦争の一面があったが、そのきっかけは16世紀の宗教改革にある。ドイツのマルティン・ルターに影響され、チューリッヒを拠点にウルリッヒ・ツヴィングリ、ジュネーヴを拠点にジャン・カルヴァンが活動する。ツヴィングリはスイス内のカトリック(旧教)州に対して攻撃を加えたが、1531年に戦死している。一方カルヴァンの教えは主にフランスに広まったが、国王の弾圧を受け、17世紀に新教徒(ユグノー)の多くがスイスに亡命した。その中には職人が多くおり、のちに時計などの精密機械工業で名を馳せるスイスの産業の基礎となった。贅沢を禁じたカルヴァンの教えのせいで宝飾加工業が打撃を受け、その職人が時計職人に転職したという逸話もある。 1789年のフランス革命(この革命に思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーはジュネーヴの出身だが、当時はスイス領ではない)後に成立したナポレオン政権は、隣接するスイスに介入、統一行動の取れなかった誓約同盟は敗北し、フランスの傀儡政権(ヘルウェティア共和国)が誕生した。これはスイス初の中央集権国家だった。ナポレオン没落後、1815年のウィーン会議で列強はスイスの独立と中立を認める条約を結んだ。大国間の勢力均衡、山国であるスイスへの低い関心などが、「永世中立国」スイスを生み出す一因となった。この時フランス語圏の州(ジュネーヴなど)も新たに誓約同盟に参加し、現在の国境がほぼ確定する。 間もなくカトリックが多く保守的、かつ独自性の強いルツェルン州などと、プロテスタントが多くリベラルで連邦志向の強い州の対立が激化、1847年にルツェルンなど7州は独自の連邦を結成するが、間もなく他の諸州に鎮圧された。連邦首都はベルンに置かれることになり、翌年アメリカをモデルにした新憲法が制定されたが、その中では連邦が外交・軍事・鉄道・造幣・関税を、各州が宗教・教育・司法などの権利を保持することが定められ、依然国家連合の性格が強かった。 1874年に連邦憲法が定められ、より集権的になった。首相職を置かず議会から選出された7人の閣僚の合議制とし、そのうちの一人が持ちまわりで大統領職を兼務すること、重要な国事は直接住民投票で決めることなど、スイス独特の民主主義制度が定められた。 19世紀の100年間で、スイスの人口は170万から330万とほぼ倍増した。1859年には国民が傭兵として働くことが禁止された。自由の国のスイスには、エンゲルスやレーニンのような社会主義者も多く亡命している。 1914年に始まる第一次世界大戦では、スイスは中立を保った。戦後1920年に結成された国際連盟はスイスのジュネーヴに本部が置かれた。第一次世界大戦でスイスは人道支援に尽力し、1864年にアンリ・デュナンによって設立された国際赤十字の本部がジュネーヴに置かれたことも関係しているのだろう。しかしこの国際連盟にはアメリカが参加せず、具体的な制裁手段を欠くために1939年までに63ヶ国のうち14ヶ国が脱退(日本・ドイツ・イタリアや南米諸国)、2ヶ国がドイツ・イタリアにより併合され消滅、1ヶ国(フィンランドを侵略したソ連)が除名されて瓦解、第二次世界大戦を防止することが出来なかった(1946年総会で解散)。 1939年から1945年の第二次世界大戦では、スイスは四方を枢軸国(ドイツ・イタリア)占領下に置かれるが、大軍(スイスは国民皆兵)を動員して武装中立を貫いた。またユダヤ人などナチス・ドイツの弾圧を避けスイスに逃げ込む人も多かった。しかしナチス・ドイツがユダヤ人から没収した資産をスイス銀行が預かったり、ドイツ軍の武器を積んだ列車の領内通過を許すなど、後になってスイスの中立違反を指弾する声も出た(1998年、1億2千万ドルがスイス銀行からユダヤ人遺族に支払われた)。 1945年に戦勝国主導で新たに国際連合が結成されるが、スイスは国際連盟の瓦解を目の当たりにしているだけに参加しようとしなかった(1986年の国民投票でも否決)。スイスが国連に参加したのは、国民投票で可決されたのちの2002年のことで、190番めの加盟国となった。ただスイスは以前から国際協調に熱心で、ジュネーヴには上記国際赤十字の他、世界郵便協会(1874年)、国連難民高等弁務官事務所、UNESCO(国連教育科学文化機関)、さらにWTO(世界貿易機関)などが置かれている。 精密機械・化学工業、金融業、そしてアルプス観光業などでスイスは世界有数の豊かな国になった(日本と違い中小企業が多い)。欧米の各界著名人が晩年をスイスの保養地で過ごすことはよく知られている(俳優ではチャールズ・チャップリンやオードリー・ヘップバーンなど)。貿易は2003年で50億ドルの黒字となっている。失業率は4%以下で(2001年のスイス航空破綻に伴う大量解雇はあったが)、これはヨーロッパでは例の無い低さである。 1950年代から外国人労働者を受け入れたが、外国人の不法入国も増大し、外国人排斥や入国管理の強化・制限を訴える政党が選挙で勝利を収めるようになった。1991年に極右による難民一時収容所襲撃が増加し、1994年には人種差別を禁ずる法律が制定されている。あと意外なことだがスイスで婦人参政権が認められたのは1971年以降で、最後の州が導入したのは1990年になってからである。1999年にはルート・ドライフス内相が持ちまわり順で大統領職を兼ね、史上初の女性大統領となった。 スイスは1960年に経済協力機構であるEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)に加盟、1992年に世界銀行や世界通貨基金に加盟したが、軍事同盟・政治協力機構などには一切加わらず武装中立主義を貫いている。1989年の国民投票では軍備放棄案が否決された。 EU(欧州連合)加盟の議論も度々出ているが、2001年の国民投票で否決された。金以上に安定している通貨スイス・フラン、低い関税、高い物価・賃金水準に貯蓄率(日本並み)などの経済的要因は、EU加盟による不利こそあれ利点は少ない。2000年には国民投票でEUとの経済関係拡大が決定されたものの、周辺諸国全てがEU及びNATO(北大西洋条約機構)に加盟した今後も、スイスがEUに加盟する可能性は低いと見られている。
2004年10月28日
コメント(2)
全89件 (89件中 1-50件目)