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今年の夏もイスラエルに来ています。 去年より滞在期間が半分になり、また観光に出かけることも少ないと思われますが、興味のある方は移転先のブログをご笑覧あれ。↓アルタクセルクセスの仮王宮 昨年の写真(エルサレム) ブログ記事に写真を貼り付けるのは、やはり楽天よりjugemの方が楽に思う。
2009年08月12日
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あれ?もう7月半ばか。早えな。 家でネットは出来るようになったんですが、一度書く習慣から離れるとブログというものはなかなか復帰できるものではないですな。最近はブログ界も飽和状態で、僕が「大塚日記」を始めた頃の「Web日記」というか、ほのぼの感とか隠れ家的な感じが全然しないですな。 ぼやぼやしてる間にあと半月でイスラエルに行くことになってるんですが、まあその前にせねばならぬことはいろいろあるし、行く前に映画「インディ・ジョーンズ」の新作くらいは見ておきたいですな。先に見た(と思われる)S君によれば「見るなら広い心をもって見てあげて下さい」ということですが、ダメ作なんだろか。・・・・・・・・ イスラエルというと、ちょっと前に物騒な記事があったので貼り付け。(引用開始)<イラン>ミサイル実験 高まる緊張…イスラエル射程圏 7月9日21時20分配信 毎日新聞 【テヘラン春日孝之】イラン革命防衛隊は9日、長距離弾道ミサイル「シャハブ3」を含む9発のミサイル発射実験を実施した。国営メディアが報じた。シャハブ3は射程2000キロでイスラエル全土を射程に収める。イラン核開発を巡り、イスラエルや米国による対イラン軍事攻撃論が再燃しており、これに対抗した形で、ペルシャ湾岸で軍事的緊張が高まっている。 ミサイル実験は、湾岸一帯で7日に開始した軍事演習の一環。防衛隊幹部は「イランを威嚇する敵にイランの(反撃の)意思と威信を示すものだ」と述べた。ペルシャ湾では4日、米英の艦船が軍事演習を始めていた。 今回の軍事緊張は、米紙が6月半ば、イスラエルがギリシャ上空で大規模な軍事演習を実施(6月初め)したと報じたことがきっかけだ。イランの核施設攻撃を想定し、戦闘機100機以上が参加したという。 これに対し、革命防衛隊のジャファリ最高司令官はイランが攻撃された場合、報復攻撃に加え、中東産の4割の原油の輸送ルートであるペルシャ湾のホルムズ海峡を封鎖すると発言。「そうなれば原油価格は劇的に上昇する」とけん制した。 当初、イランの最高指導者ハメネイ師の外交顧問、ベラヤティ元外相は「挑発的な発言は控えるべきだ」と国内の強硬論者に異例の警告をした。だが、イスラエルや米国との緊張は高まり、ハメネイ師の側近は8日、イランが攻撃された場合「最初の報復標的は(イスラエルの)テルアビブとペルシャ湾の米艦船だ。世界中の米国の利益も攻撃する」と発言した。 (引用終了) こういうニュースがあるとまた原油価格が高騰するだろうに・・・狙ってやってるでしょ?ねえ? イスラエルでの調査はやはりこういう情勢に左右されるのは仕方ないようで、2006年のレバノン戦争の際も急遽調査は中止になったそうだ。まあイランのブラフくらいじゃ中止にならないし、イスラエルも去年9月のシリア空襲みたいにこっそりとやって後から明らかになるのだろうけど。 シリアでは昨年9月から外国の考古学調査隊の行動や機材(特にGPS)の持込が異常に厳しく制限されているそうだが・・・・。「アラビアのロレンス」じゃあるまいし、グーグル・アースの時代に考古学者をスパイに使うかねえ?いや、使うかな・・・?。 トルコでも元軍人がクーデター未遂容疑で逮捕されたり、イスタンブルのアメリカ総領事館前で銃撃戦があったり、アララト山に登っていたドイツの登山家3人がPKK(クルド労働者党)に誘拐されたりと、決して100%安全ではないんだが。 そんな中でやや明るい?ニュース。(引用開始)地中海連合会議が初開催 対立国参加だけで大成功?7月12日22時18分配信 産経新聞 地中海周辺国と欧州連合(EU)の44カ国首脳らが一堂に会して、中東和平や地中海の汚染問題などを協議する初めての「地中海連合会議」が13日、パリで開かれる。会議にはシリアのアサド大統領とレバノンのスレイマン新大統領、パレスチナのアッバス自治政府議長とイスラエルのオルメルト首相ら、対立関係にある首脳も出席する。リビアの最高指導者、カダフィ大佐は欠席する。フランスのサルコジ大統領が大統領選の最中から、同会議の開催を提唱していた。 12日にはエリゼ宮(大統領府)で予備会議が開かれ、サルコジ大統領と共同議長を務めるムバラク大統領とのワーキングランチに次いで、アサド、スレイマン両大統領らとの会談が開かれる。 対立する国々が一堂に会しただけで「大成功」(エリゼ宮筋)としており、会議の常設化を目指し、事務局長職の人事や事務局の場所などについても協議するもようだ。 出席者全員は14日の仏革命記念日の軍事行進閲兵に招待されているが、野党・社会党らは人権問題をかかえるアサド大統領の出席には強く反対している。(パリ 山口昌子) 最終更新:7月12日22時18分(引用終了) すごいな、サルコジよく集めたもんだ。さすがはフランス。こういうのは中露の拒否権発動で対ジンバブエ制裁もままならない国連なんかよりよほど意味がありそうだ(あ、そういや今年のサミット日本だったけど、もう終わっちまったな)。最近全然読んでなかった田中宇さんがだいぶ前にイスラエルのEU加盟とか書いていて「んなアホな」と思ったが、サルコジはやる気なんだろうか。 しかしまあリスボン条約の批准も不透明な中で、大丈夫ですかね。EUが東方に拡大して重心がドイツ寄りになりすぎたのに対してバランスをとろうとしてるのだろうか。 しかしまあ、ヨーロッパも中東もダイナミズムがあって良いですな(中東はいかがなものかと思うが)。それに引き換え東アジアは・・・。竹島の教科書記述に配慮?国と国の約束だから拉致被害者を北韓に戻すべきだった?バカじゃねーの。オリンピック?何それ美味しいの?
2008年07月13日
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突然ですが、この夏イスラエルでの発掘に参加することになりました。滞在期間は8月丸ごとです。折りしもハマスとイスラエルの停戦が実現したそうで、めでたい限りですが(どちらかというとシリアに近いところにある遺跡なので、そういうのはあまり関係なさそうですが)。 シリアやトルコと違って、参加メンバーを事前に向こうの当局(考古局や秘密警察)に伝えなくてもいい、また渡航や滞在費用がすべて支給されるというので実現した次第です。今までのようなドイツ隊と違って日本隊、しかもかなり大所帯の発掘隊のようで、勝手がかなり違うようですが、まあ自分はどこに行ってもそこそこやれるとは思っているのですが。 シリアやトルコには何度も行ってますが、イスラエルに行くのは初めてで、国が国だけに心配もあるのですが、イスラエルは西アジアではもっとも考古学が盛んな国だけに、いろいろ見ておきたいと思います。僕は真言宗なので、(聖書考古学者のような)宗教心とかは全くないのですが。大学に入って最初に受けた授業はヘブライ語(イスラエルの公用語)でしたが、この歳になってようやく訪問が実現します。 イスラエルの入国スタンプがパスポートにあると、ほとんどのアラブ諸国、イラン、マレーシアなどへの入国を拒否されるのですが、今のパスポートは今年で切れるし、いろいろ手はあるようです。
2008年06月20日
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(引用開始)<タンカー被弾>日本船にロケット弾、穴開く イエメン沖4月21日15時53分配信 毎日新聞 日本郵船に21日午前入った連絡によると、同日午前10時40分(日本時間)ごろ、イエメン共和国アデン沖の東約440キロの海上で、同社の大型タンカー「高山」(岡村秀朗船長、15万53トン)が、小型の不審船1隻からロケット弾のような武器で発砲を受けた。左舷に穴が開き、油が漏れているが、乗組員にけがはなく、航行にも問題ないという。 同社や国土交通省によると、高山は今月4日午前2時40分(同)に韓国・ウルサン港を出港し、原油を積むためサウジアラビア・ヤンブー港に向けて航行中だった。武器はロケット弾とみられるという。船には当時、岡村船長を含めた日本人7人とフィリピン人16人の計23人が乗っていた。【窪田弘由記】(引用終了) 日本の報道であまり触れられてないけど、タンカー発信するSOSを受けて、近くにいたドイツ海軍のフリゲート艦「エムデン」が、救出のためヘリコプターを派遣して現場海域に向かわせたそうだ(記事)。ヘリが到着したときには海賊船は逃げていた後らしいけど。 この同じ日にこの海域で海賊がスペインの漁船を襲っていたそうで、ずいぶんと物騒な話だ。そうでも原油価格が上がっているのに。無政府状態のソマリアから来た海賊だと思う。海賊というと「冒険」のイメージだが、実際に襲われる身には恐ろしいものだ。 日本の自衛隊給油艦がインド洋に派遣されて「対テロ戦争」のためこの海域にいる軍艦に給油していることが「無駄遣い」「海上ガソリンスタンド」と批判され、去年だかには国会で政治問題化もしたが、こういう形で役には立っていると言えるのかな。当初の想定とは役に立ち方が違うし、まあ割高な投資だとは思う。 これも武力行使(への加担)といえばやはりそうなのかな??「軍艦なんかがいるからタンカーが襲われるんだ」という意見を披瀝する人もいるかもしれないが。
2008年04月22日
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うは、ぼやぼやしてたらもう今年も終わりじゃないか。日記もすっかりほったらかしにしてもう一ヶ月も空けてたし。 日記をほったらかしにしていた間の大きな出来事といえば、前の日曜にE君とTさんの結婚式に出席するためF市に行った。おめでたいことだ。結婚式は今年二度目の出席。いいもんだなあと思う反面、自分のは恥ずかしいのであまり大勢の前ではやりたくない気もする。10人くらいとの会を何回かもつというのはダメかな?・・・・・・ そういうおめでたい話題から一転、サダムが処刑された昨年の年末同様、大きなニュースが飛び込んできた。「今年最後の日記は今年もObituaryにしよう」と思っていた矢先だ。<パキスタン>ブット元首相が死亡 党集会場で自爆テロ12月27日22時43分配信 毎日新聞 【ニューデリー栗田慎一】パキスタンのイスラマバード近郊のラワルピンディで27日、来年1月8日の総選挙に向けた有力野党「パキスタン人民党」の集会の会場近くで自爆テロがあり、内務相筋によると同党総裁のベナジル・ブット元首相(54)が死亡した。総選挙を前に有力政治家のブット氏がテロの犠牲になったことで、パキスタン情勢は混迷を深めそうだ。 地元警察によると、人民党の集会終了直後、ブット氏が会場をあとにするため乗用車に乗り込んだところ、近くにいた男が自爆した。ブット氏は病院に運ばれたが、首や胸などを負傷しており、まもなく死亡した。ブット氏が銃撃を受けたとの情報もある。このほか近くにいた参加者ら少なくとも20人が死亡した。自爆は会場の入り口付近の路上であり、ブット氏を見送るため、多数の支持者でごったがえしていた。 ブット氏の死亡で、人民党はカリスマ的な指導者を失い、大きな打撃を受けることになった。またブット氏と総選挙後の協力協議を続けていたムシャラフ大統領も、選挙後の連立政権の枠組みの変更を迫られることになる。さらにムシャラフ大統領とブット氏の「連携」を望んでいた米国も、パキスタンの民主化計画を根本から練り直すことになりそうだ。 ブット氏は10月18日、8年半ぶりに南部カラチに帰国した直後のパレードでも自爆テロに遭い、支持者ら約140人が死亡している。ブット氏はこの時、防弾ガラスが施された車にいて、けがはなかった。(中略) ◇ブット氏略歴 ブット氏は1953年6月21日、アリ・ブット初代首相の長女としてカラチで生まれた。69~77年に米ハーバード大と英オックスフォード大に留学。77年の軍部のクーデターで自宅に軟禁され、その後、英国へ亡命。86年に帰国し反政府運動を展開した。88年11月、ハク大統領の死亡に伴う民政復帰選挙でブット氏率いるパキスタン人民党が勝利。同年12月に35歳でイスラム教国家初の首相に就任した。 90年8月、当時のカーン大統領に首相を解任された。93年に一時首相に復帰したが、96年に再び解任された。99年には汚職などで禁固刑の判決を受けたが、服役を拒否して出国。今年10月18日、8年半ぶりに帰国していた。 「イスラム世界初の女性首相」が、このような最期を迎えるとは・・・・。父親は軍部のクーデターの後刑死(ブット女史と同じラワルピンディに於いてだった)、兄二人はそれぞれ警察に射殺、妻に毒殺されるという悲劇的な最期を遂げ、本人も卑劣なテロの犠牲になった。「男子の本懐」などという言葉があるが、インドやパキスタンで政治家一族に生まれるというのは命がけなのか。 犯人はやりくちから見て原理主義勢力なのだろうが、もうパキスタンももたないかもしれんね。僕はムシャラフ大統領を割合買っていて、多少強権的でも「開発独裁」じゃないがあの国をいい方向に持っていくと思っていた(そういや先日韓国で「保守派」が大統領選挙に勝ったそうですな。こっちはあまり変わりはないと思うけど)。実際行っていたのかもしれないが、2001年を境にどんどん悪くなっている(これはパキスタンだけの話ではないが)。今は経済成長どころかもう死に体で朴政権の末期みたいだもんな・・・。 ブット元首相もシャリフ元首相も汚職で訴追されているが、今は「民主化勢力」の代表的存在となっている。一方のムシャラフ大統領は自身は清廉なようだがやり方が荒っぽい。台頭するイスラム過激派勢力は選挙そのものを否定する。日本以上の巨大な人口と核兵器をもつこの国がどうなるのかと思うと気が滅入る。 パキスタンにはかれこれ10年くらい前(当時はブットの政敵シャリフ首相の時代)にトルコに行く飛行機の乗り継ぎで寄っただけで、イスラマバードとカラチの空港しか知らないのだが、時間帯のせいもあったのか全体に薄暗い上、空港にいるのは男ばかりでひどく陰鬱な印象を持った。僕は既に同じイスラム教の国であるトルコやシリア、レバノンを知っていたのだが、それに比べてずいぶん印象が違うと思ったものだった。 パキスタン航空もスチュワーデスが少なくて男の機内乗務員が多く、しかも屈強で頭が天井にぶつかりそうな上見事な髭を蓄えていてレスラーのようだった(イメージとしてブルーザー・ブロディ)。機内では酒は出ないうえ、空港でも一升瓶(実は中身は酒じゃなくて発掘で出土した遺物の保存に使う接着剤みたいなのだったのだが)がリュックから覗いて見えると「見えないようにしまえ」と警官に叱責された。僕はイスラム教国でも規制が厳しくないところばかりに行っていたので、これは初めての経験だった。近くでは日本人旅行者と思しき若者が航空会社の職員に食い下がっている。たぶんダブルブッキングだったのだろう。 時間があったので空港の外に出ようと思えば出られたのだが、飛行機で使えれていた上第一印象が良くなかったので(というかトラブルが怖かったので)、何時間もまんじりともせずロビーでじっとしていた。だからパキスタンでは何も見ていないし何も食べていない。今からすれば残念なことだと思う。モエンジョ・ダロやハラッパが有名だが、貴重な遺跡が多く見所は多いのだが。 パキスタン航空はいわば割安の「各駅停車」のようもので、僕の乗った便はマニラ、バンコク、カラチ、アブダビ、アンマン、ダマスカス、イスタンブルと停まりつつ飛んだ。乗客の多くはバックパッカー、巡礼、アラブ諸国で働くタイやフィリピンの労働者だった。帰りには台風の影響で北京に急遽一泊というおまけつきだった。ユーラシア大陸を南回りで飛んでいて、結構利用機会はありそうなものだが、その後使ったことはない。やはり南回りは時間もかかるし疲れる。
2007年12月27日
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イランは行きたい行きたいと思いながら果たせずにいてまだ未知の国なのだが、今日はイランに関するニュースから二題。(引用開始)<イラン日本人誘拐>国境越え密輸団暗躍…南東部ルポ10月23日21時48分配信 毎日新聞 砂漠の大平原に一本道が延び、両側に険しい山脈が走る。イラン南東部シスタン・バルチスタン州のパキスタン国境地帯に入った。今月7日に横浜国立大4年、中村聡志さん(23)を誘拐した武装麻薬密輸団シャハバフシュの勢力圏だ。79年のイスラム革命以降、当局と密輸団の「戦争」が続き、双方で約5000人の死者が出た。街道は当局の統制下にあるが、荒涼とした大地は「無法地帯」だ。【ミルジャベ(イラン南東部パキスタン国境)春日孝之】(中略) 最後の検問を過ぎると、左手に鉄条網が走る。向こう側はパキスタン。簡単にくぐり抜けられそうだ。反麻薬の非政府組織(NGO)で活動する大学生、アリ・タジギさん(21)は「街道から外れると遮へい物はなく、国境線を自由に行き来できる」という。地元のバルチ人はパキスタンやアフガニスタンにかけて居住し、イランとパキスタンの二重国籍を持つ者も少なくない。 世界のアヘンの9割を生産するアフガン、パキスタンからも大量の麻薬がイランに入り、欧州に向かう。「密輸団が多いのは、その地理的条件が最大の理由だ」とタジギさんが説明する。タジギさんの治安当局者の親族も何人もが「殉教」した。NGO活動を始めた理由でもある。(中略) イランはイスラム教シーア派国家だが、バルチ人の大半はスンニ派だ。同州のスンニ派の最高権威、アブドル・ハミド師(60)は「盗賊は部族から外れた連中で、山中に住み着いている。犯罪は一般人とは関係ない」と強調した。一方で「(誘拐事件などに対応するには)今のイランでバルチ人の役割は小さすぎる」と語った。バルチ人もスンニ派もイランの圧倒的少数派だ。口調には、差別的な境遇にあり、協力する気になれないとのニュアンスもこもる。 「この州の一番の問題は治安だ。治安がよければ『投資』も『観光』もついてくるのに」。ナザリ次長が語った。 (引用終了) 誘拐された大学生は世界遺産の都市遺跡アルゲ・バムを見に行った際に誘拐されたそうだが、僕にはどうも彼の「自己責任」を問う気にはなれない(たとえば半ズボンで歩き回ってたとかいうのなら責められても仕方ないが、どうだったんだろ?)。同じ立場なら僕だって見に行ってたかもしれない。 一日も早い解放を祈る。 それはともかく、この記事の中にバルチ人というのが出てくる。彼らの言語はペルシア系ではあるが、イランの主要な民族であるペルシア人とは別であるという。イランというとペルシア人、シーア派支配の国と思いがちだが、公式統計はない(というか作れない?)ものの、ペルシア人の割合はせいぜい5割くらいだという。バルチ人は2%程度、スンニ派は8%くらいだそうだ。 「この州の一番の問題は治安だ。治安がよければ『投資』も『観光』もついてくるのに」という言葉は切実である。貧困だから治安が悪いのか、治安が悪いから貧困なのか。現地人同士の利害関係も絡んで簡単な問題ではないが(あっち立てればこっち立たずということはよくある)、現地人は後者だと思っているのではないか。アフガニスタンにも通じる話である。 次。(引用開始)<イラン大統領>突然帰国…アルメニア訪問10月23日20時18分配信 毎日新聞 【モスクワ大木俊治、テヘラン春日孝之】インタファクス通信によると、アルメニアのソゴモニャン大統領報道官は23日、同国を訪れていたイランのアフマディネジャド大統領が日程を短縮し、急きょ帰国したと明らかにした。タス通信によると、アルメニア大統領府は「イランで起きた不測の事態と、イラン大統領の国内での延期できない会合」が理由だと説明している。 イランでは核交渉最高責任者のラリジャニ最高安全保障委員会事務局長が20日に辞任し、後任事務局長にジャリリ外務次官が就任した。ジャリリ氏はアフマディネジャド大統領派で、ラリジャニ氏の辞任は核政策を巡る大統領との確執が原因とみられている。 こうした中、イラン核問題を巡りローマで23日、ソラナ欧州連合(EU)共通外交・安全保障上級代表とイラン側の会合があり、ラリジャニ、ジャリリ両氏が出席した。英BBC放送によると、イラン国会議員183人が22日にラリジャニ氏支持の署名をするなど、保守派内の亀裂が表面化しており、大統領の突然の帰国はこうした動きが背景にある可能性がある。 アフマディネジャド大統領は22日にアルメニアを訪れ、コチャリャン大統領と会談した。23日、オスマン・トルコ時代の虐殺犠牲者の祈念碑を訪れた後、アルメニア国会で演説する予定だったが、いずれもとりやめて帰国したという。 (引用終了) 某超大国の大統領閣下をはじめ、強硬な発言を続けているイランの大統領を独裁者のように思っているむきも多いだろうが、イラン国民の直接選挙で選出される大統領は実は行政府の長にすぎず、軍の統帥権も持っていない。大統領は最高国防会議の一員にすぎず、軍への命令権は最高指導者であるハメネイ師にある。この記事では突然の帰国を国内事情に求めているようであるし、まあ妥当なのかもしれない。先日イスラエルとフランスが、イラン核開発問題でより強硬な姿勢をとることで一致したと時報じられたし。 しかし僕が気になったのはキャンセルされた予定、つまり「オスマン・トルコ時代の虐殺犠牲者の祈念碑を訪れた後、アルメニア国会で演説する予定だった」のほうである。いくら国の釣り合いからしてアルメニアが「下手(したて)」の立場とはいえ、外交儀礼からすればこういうのはかなり失礼になる(アルメニア側の声明はイランのフォローをしながらも、何か不満のようなものを感じさせる)。急迫する国内事情とはよほどのことか、それとも別の理由があるのか。 アルメニアとイランは隣国であるが、アルメニアが世界最古のキリスト教国であるのに対して、イランはイスラム共和制の国と、一見対照的である。しかしこの両国は友好国であり、今年3月に両国を結ぶパイプラインが開通したりと経済的紐帯も強化されている。近年アルメニアの旧宗主国ロシアとイランが接近していることとも関係するのだろう。またイラン国内にはごく少数だがアルメニア人のコミュニティが古くからある(最近居心地が悪そうだが、ユダヤ人さえいる)。 アルメニアは1991年にソ連から独立した時に同じ旧ソ連の隣国アゼルバイジャンと激しい民族紛争というか戦争を繰り広げたが、このときイランが支援したのは同じイスラム教シーア派が多いアゼルバイジャンではなく、キリスト教国アルメニアのほうだった。単純に宗教対立の構図にならないのは、アゼルバイジャン人(アゼリ人)がイラン国民の四分の一にものぼることと無縁ではない。民族主義的なエリチベイ政権を増長させてアゼルバイジャン人の民族意識を高揚させることは、国内でのアゼリ人の分離独立の動きを助長しかねないためだった。なおこの戦争ではロシアもアルメニア支援に回り、周辺国でアゼルバイジャンを支援したのは民族的に同系統の国であるトルコだった。 ではトルコとイランは仲が悪いのかというと、表面上は悪くない。そもそも中央アジアにいたトルコ民族はイランを通って西アジアに拡散したので、トルコ文化は多くをペルシア(イラン)からの受けており、今もトルコ語の語彙にはペルシア語起源の言葉が非常に多い。かつて16世紀にイラクの支配をめぐって激しく争った(シーアとスンニの宗教抗争の面もあった)この両国の関係は、17世紀以降はおおむね良好で安定している。エリチベイが追放されて成立したアゼルバイジャンの現政権も、国の安定のためイランとの関係を重視している。さらに、これまた面倒だがトルコもイランも国内にクルド人という共通の少数民族を抱えていて、その独立の動きには神経質になっている。クルド人はイラン国民のおよそ7%であるとされる。 先日の日記に書いたことと関連するが、トルコから見れば、アフマディネジャド大統領がアルメニア人大虐殺の犠牲者の記念碑訪問を中止したことは好都合ではあろう。そのトルコはクルド人(PKK)に対する北イラク侵攻作戦を目前に控えているといわれ、また9月にイスラエル空軍がシリアの核施設?を爆撃した際に(知らぬこととはいえ)領空通過させた。イスラエルはすでに秘密裏にイランの核施設を攻撃する計画も立てていると報じられているが、その場合トルコの対応も焦点になる。先日のシリア空襲をイランは自国への脅威(「実際に爆撃出来るぞ」というメッセージ)とみなし、トルコの「言い訳」を注視していたらしい。 トルコではPKKが分離独立を主張して20年にわたりゲリラ戦(あるいはテロ)を続けているが、イラン国内でも分離主義者による独立が実際に起きたことがある。 第二世界大戦中、連合国によるソ連への補給路と油田確保のため、イギリス軍とソ連軍はイランに侵攻して占領した(1941年)。イランは親独的とみられていたためこれは一石三鳥だった。大戦の終結(1945年)後もソ連はイランに居座ろう図り、イランで影響力を確保するため(1917年にロシア革命が起きるまで、イラン北部はロシア帝国の勢力圏だった)、イラン国内の少数民族を支援して分離独立をあおったのだが、その際イランの北西部、トルコやイラクとの国境地帯に成立したのがアゼルバイジャン人民共和国とクルド人民共和国(マハバード共和国)だった。ただソ連軍が国連決議を受けてイランから撤退し、またイラン(中央)政府と手打ちして両国を「切った」ために、この両国は中央政府の攻撃を受けて一年ももたずに瓦解した。 これは東西冷戦の嚆矢となった危機の一つでもあるのだが(朝鮮半島のようにはならなかったが)、イランはソ連の露骨な野心の前に親米に傾斜し、またイギリスの肝いりでトルコやパキスタンと集団防衛体制であるCENTOを結成した。そのイランが今は世界一の反米国でロシアと接近というのは、歴史の転変を感じる。 このマハバード共和国というのは、「独自の国を持たない最大の民族」といわれるクルド人がもった歴史上二番目の国である。この共和国には、イラクのクルド人指導者であるムスタファ・バルザニ(現在のイラクのクルド自治区議長であるマスード・バルザニの父)も参加していたが、イラクのクルド人とイランのクルド人の間で対立が起きて足並みが揃わなかった。クルド人内部の抗争は今にいたるまで続いており、それを周辺諸国(トルコ、イラク、シリア、イラン)が利用する格好になっている。 では一番目は何かというと、1927年から30年にかけて、トルコ東部のアール県でクルド人が起こした「アララトの乱」(イラン国内のクルド人も参加した)の際に宣言された「アララト共和国」であるという。山岳にこもったこの反乱軍は、成立まもないトルコ共和国の治安部隊を何度か撃退した実績があるという(最後は鎮圧されてイランに逃げた)。ただしアララト共和国は認知した国が一つもなかったので、実在した国とはみなさない立場が多い(アララト山がアルメニア人の「心のふるさと」でもあることに留意)。 なお1979年のイラン革命の際、クルド人組織も反シャー(ペルシア皇帝)に立ち上がったが、シャーを追って政権を奪取した革命派はスンニ派が多いクルド人の自治を認めず、武力鎮圧している。イラクを拠点にイランに対して抗争を続けているクルド人武装勢力もあり、こちらはアメリカの支援を受けているとされる(記事)。アメリカがPKKをテロ組織指定する一方で、クルド人はまた利用されるのか。
2007年10月23日
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昨日いったん書いたけど、誤操作で消してしまったメモ。 まずはこのニュース。(引用開始)<米下院外交委>アルメニア人迫害…「大虐殺」認定決議10月11日13時10分配信 毎日新聞 米下院外交委は10日、第一次世界大戦期のオスマン・トルコによるアルメニア人迫害を「大虐殺」と認定する決議案を賛成27、反対21で可決した。両国間ではトルコから独立を目指すクルド人武装勢力への対応をめぐって摩擦が高じており、米政府はイラク戦争の遂行能力に深刻な打撃を与えかねないと危機感を強めている。 (引用終了) なんか日本がかかわる似たようなニュースをこの春だかに聞いたことがあるような・・・。アメリカ議会じゃこういう決議は結構頻繁に行われてるんだろうな。トルコに関わりがある僕とはいえ、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺は間違いなくあったと思うけど(この日記の過去記事)、インディアンを強制移住させたり大量虐殺したアメリカなどには言われたくないなあ、というのが正直なところ。 今の時期にどうしてこの決議?とは思うが、今年一月にイスタンブルでアルメニア系トルコ人の作家フラント・ディンク氏が暗殺されたことは関係するんだろうか。イラク駐留米軍の物資の7割がトルコ経由で輸送されているそうだが、民主党優勢のアメリカ議会ではトルコがつむじを曲げてそれに支障が起きても構わないということだろうか。 今年春の対日決議の時も背後に中国系市民の活動が報じられたが、この対トルコ決議案を提案したアダム・シフ議員(民主党)はその苗字(Schiff)が示すようにアルメニア系ではなくドイツ系ユダヤ人の子孫であるが、アメリカ国内にはアルメニア人が多く住んでいてロビー活動も活発であるという。 2000年の国勢調査では自分をアルメニア系と申告した国民は38万人と、割合はそれほど多くないが(参考:最大のドイツ系5000万人、ユダヤ系700万人、中国系350万人、韓国系140万人、日系人120万人、トルコ系16万人)、こうした自己申告以外を含むと最大140万人くらいになるという。最初にアメリカに移民したアルメニア人は早くも1618年までさかのぼるが、やはり大部分はオスマン帝国の迫害を逃れて来た19世紀末及び20世紀初頭のようだ。ただ移民としての規模は大きくなくとも、オスマン帝国ではユダヤ人と並んで経済活動の中心だっただけのことはあり、経済界でかなりの力があるらしい。アルメニア系の著名なアメリカ人というとテニスのアンドレ・アガシが挙げられるが、経済界では「ラス・ヴェガスの父」と呼ばれるカーク・カーコリアンがいる。 アルメニア人がとりわけ多いのがカリフォルニア州、特にハリウッド郡だそうだが、グレンデール市では住民の26%がアルメニア系であるという。ここはカリフォルニア州第29選挙区に属するのだが、言うまでもなくアダム・シフ議員の選出区である。 昨年10月にはフランス議会が「アルメニア人大虐殺否定禁止法」を可決している。まあ歴史の歪曲は良くないとは思うけど、禁止法まで作るべきかというと引いてしまうのだが。 実はフランスにもアルメニア系移民が多い。世界で一番アルメニア人が多いのはもちろん本国アルメニアだが(ナゴルノ・カラバフと合わせて450万人)、次はアルメニアの旧宗主国ロシア(113万人)、そして約50万人のフランスが3位になる。アルメニア系のフランス人というと結構ビッグ・ネームがあって、歌手のシャルル・アズナヴール、シルヴィ・バルタン(ブルガリア出身)、F1レーサーのアラン・プロスト(祖母がアルメニア難民)、さらにはエドゥアール・バラデュール(トルコのイズミル出身)と元首相さえもいる。なおフランス以下はイラン、アメリカ、グルジア、シリア、レバノン、アルゼンチン、ウクライナと続き、かつてアルメニア人の中心地だったトルコには、現在10万人以下しかいない。 アメリカもフランスも「民主主義の祖国」を自任しているが、最近の外交こそ路線の違いが目立ったものの、本質では似通った国なのかもしれない。アルジェリアという脛に傷を持つ身であることも同じだしな。まあそれでオスマン帝国の汚点が相殺されるわけでもないけど。・・・・・・・ 次のニュース。上のニュースと無関係のようで、実は少しは関連がある。(引用開始)<トルコ>国会がクルド系武装組織掃討の越境許可を承認 10月18日0時25分配信 毎日新聞 【エルサレム前田英司】トルコ国会は17日、同国からの分離独立を掲げるクルド系武装組織「クルド労働者党」(PKK)の掃討のため、潜伏拠点のあるイラク北部への軍隊の越境侵攻許可について採決し、賛成多数で承認した。 一方でイラクはトルコに対し、強行策の抑制を求めている。ロイター通信によると16日、トルコの首都アンカラを急きょ訪問したハシミ・イラク副大統領は、トルコのエルドアン首相、ギュル大統領と会談、越境侵攻に踏み切らないよう要請した。イラクのマリキ首相は危機管理委員会を設置して対応策を協議し、17日には政府高官による協議団を近くトルコに派遣する方針を発表した。 トルコは今のところ「国会承認が即、越境侵攻開始を意味しない。適切な時期に行動する」(エルドアン首相)と慎重姿勢を示しているが、これまでのイラク、米国のPKKへの対策に強い不満を抱いている。(以下略)(引用終了) 国際原油価格高騰(史上初の90ドル!)の原因とされるこのニュース。 EU加盟との絡みもあるのでイラクへの越境攻撃はすぐないとは思うが(いや、あるか??)、実際イタチごっこのようになっているのでトルコ側の言い分も分らないでもない。一時は沈静化するかと思われたPKK(Kongra-GEL)の活動は、2003年のイラク戦争の頃から再び活発化し始めている。 僕が行ってたトルコの村からも若者が徴兵されてジャンダルマ(軍警察)に入隊し、PKKの攻撃で重傷を負ったという話を聞かされた。シワスの警察署の入口の掲示板には、テロの非道さを宣伝する目的なのか、PKKのテロで吹き飛ばされた(?)生首の写真(無修正)が掲示してあってギョッとしたことがあったが・・・。PKKと軍・警察との抗争ではこの20年で一般市民も含めて3万人が犠牲になっているという。トルコ南東部で発掘していた考古学者にも、PKKの自動車爆弾で犠牲になった人がいる。まあトルコ政府も国内のクルド人にえげつないこと(強制移住や捜査と称した暴行)をしているという話も聞くんだが。 ただ今の時期にこうした作戦が叫ばれるというのは、一つにはイラク北部のクルド人自治区が近々独立宣言するのではないかとささやかれているので、クルド人独立国樹立に対する牽制もあるだろうし、最近イスラム主義への志向を強める政府に対して、政教分離の原則にこだわる軍部もしくは反EUの野党(MHP)が揺さぶりをかけているのかな? クルド人の側でも内情は複雑で、トルコ国内で活動するPKKは隣国シリアやイランの援助を受けていた。イラク国内のクルド人組織では、クルド愛国者同盟はイランから援助を受けて反サダム・フセイン政権のトルコ寄りで、イラク領内に逃げ込んでは自分の「縄張り」を荒らすPKKと対立していた。クルド愛国者同盟の指導者は現イラク大統領のジャラル・タラバニである。またそのクルド愛国社同盟が分離した元のクルド民主党の指導者マスード・バルザニは現在クルド自治区の議長だが、これはかつてタラバニとの抗争の際サダム政権の支援を仰いだりもして、どちらかというと反トルコ的な立場にある。トルコ軍が越境すれば反撃すると言明している。 PKKにはイラク領内というトルコ軍の手が届かない「聖域」があり、トルコ国内のクルド人の一定の支持があり、シリアやイランといった外部勢力の支援もあった。これはゲリラ戦には理想的な環境といえなくもない。ただしシリア現政権はクルドを切ってトルコとの融和路線に転じたのか、匿っていたPKKの頭目アブドゥラ・オジャランを追放し(のちトルコ治安当局に拘束され終身刑)、今回のトルコ越境作戦計画についてもアサド大統領が「当然の権利」と発言してイラクのタラバニ大統領から非難されているから、ややこしい。 実は現在クルド人が住んでいる地域の大部分はかつてのアルメニア人の分布と重なっている。オスマン帝国の体制が揺らぐ19世紀の末まではトルコ、アラブ、クルド、アルメニアなどさまざまな宗教・民族が共存していたわけである(イスラムもしくはトルコの支配という大前提下ではあるが)。・・・・・・・ トルコの隣国・シリアはアラブ人の国だが(アラブ人の中にもシーアとスンニの反目があるが)、少数民族としてクルド、アルメニア、トルコ人などがいる。アレッポにはアルメニア人街があって、ソ連崩壊直後には買い出しのロシア?人が引きも切らなかったし、クルド人(アラブ人には「愚直」とバカにされている)やトルコ人に会ったこともある。トルコ人にはトルコ語が通じたが、語彙がトルコ共和国のトルコ語と違うのか、少々通じにくかった。 そのシリアにも物騒なニュースがあるが、これまたトルコと無縁では済まない。(引用開始)イスラエルのシリア空爆、攻撃対象は建設中の原子炉=NYT10月14日15時3分配信 ロイター [ニューヨーク 13日 ロイター] イスラエルが9月に行ったシリアへの空爆は、イスラエルと米国の情報当局者らが建設中の原子炉と判断していた場所を攻撃対象としたものだった。13日付のニューヨーク・タイムズ紙が報じた。 機密報告書に接した米当局者らが匿名を条件に語ったところでは、この原子炉は、北朝鮮が核兵器用に利用した原子炉が明らかにモデルとなっており、イスラエルが1981年に爆破したイラクの原子炉に比べるとはるかに未完成の段階だったという。 また、ブッシュ政権当局者らの間では、イスラエルによるシリア空爆について意見が分かれ、一部には時期尚早との見方が出ていたもよう。ただ同紙によると、同空爆の可能性はブッシュ政権内で昨年の夏から議論されていた。 同紙は、空爆前の原子炉の完成度合いや、北朝鮮の関与の程度、原子炉が民生用のものだった可能性については明らかになっていないとしている。 (引用終了) このニュース、イスラエルとシリアの双方が情報統制していてなかなか詳細が伝わらないが、意図的リークによると思われる情報がぽつぽつ報じられている。 イスラエル軍機がレバノンのヒズボラ関連施設を爆撃することはよくあるのだが、このシリアの施設はシリア東部のデリゾールにあるという。となるとイスラエル機はかなりの長距離飛行(領空侵犯)をしないといけないわけだが、厳しい防空体制のある首都ダマスカス上空を飛ぶわけがない。となるとルートはヨルダン→イラクの砂漠地帯→シリア東部となる(この場合、イラクに駐留する米軍の諒解が必要になる)か、地中海→トルコ→シリア東部しかない。 ところがなんとトルコ領内でイスラエル軍のF-15戦闘機の追加燃料タンク(増槽)が発見されたというので、トルコでも問題になった(記事・記事)。一部にはトルコの軍部が政府に内緒でイスラエル空軍機の通過を認めたという説もあるらしい(記事)。 トルコ政府が「与り知らぬ」というならそうなのだろうが、軍部との関係で気になるところ。もともとトルコとイスラエルは軍事的にも協力関係にあるとはいえ、上にちょっと書いたように今世紀に入ってからトルコとシリアの関係は一見するとだいぶ良くなっているので、意外な感じがした。やはり知らなかったのか?
2007年10月21日
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(引用開始)<トルコ>大統領選巡り混乱 前倒し総選挙実施へ5月2日11時19分配信 毎日新聞 【エルサレム支局】トルコのエルドアン首相は1日、11月の総選挙を早ければ6月下旬に前倒しして実施する方針を表明した。憲法裁判所が同日、4月27日の大統領選第1回投票を無効と判断したためで、これに反発する首相は総選挙で信任を取り付け、大統領を議会ではなく直接選挙で選ぶよう憲法改正する構えだ。イスラム色の強い与党・公正発展党(AKP)と軍部を代表とする世俗主義派の対立で政局は一気に流動化した。 首相は会見で「2日の国会で議会を解散し総選挙を行うよう提案する。投票日は早ければ6月24日か7月1日になる」と表明。「これでトルコは正常化する」と述べた。首相はさらに、国会の投票で大統領が選出できなければ、憲法を改正し直接選挙で新大統領を決める考えを示した。 また、閣僚の一部からは総選挙と大統領選を同時に行う案も浮上している。 今回の大統領選には首相側近でAKP出身のギュル外相が立候補。憲法裁判所は1日、大統領選の第1回投票について、野党のボイコットで国会の出席議員が定数550の3分の2に達しなかったとして、選挙を無効とした。 「政教分離」を国是とするトルコでは02年11月の総選挙でAKPが政権をとるまで、歴代首相と大統領は世俗派から選出されていた。ところが、AKPが野党で世俗派の共和人民党(CHP)と調整せずにギュル外相を大統領候補に擁立したため、対立が激化。第1回投票はCHPなど野党側がボイコット。投票に参加した議員は361人にとどまった。そのため、野党側が同裁判所に選挙の無効を申し立てていた。 (引用終了) 説明がよくまとまっていい記事ですな。 事の起こりは今月で任期が切れる大統領(任期7年、再任なし)の後任人事を巡って、国会で圧倒的な多数を占めるAKPが決めた候補にある。最初はエルドアン首相が「んじゃ俺が」と乗り気になったのだが、「首相ならいいが、いくらなんでもイスラム主義のお前さんが大統領というのは認められん」と国民の一部がデモを始めたことにある。法曹界出身の現大統領みたいに、政界外から候補を連れてくれば良かったのだろうが(さすがに軍部出身はEUが嫌がるだろうけど)、エルドアンがそんなことする訳ないし、今回の判決を見ても世俗主義の法曹界とは反りが合わないようだ。 何といってもエルドアン首相はかつてイスラム法ばりの「姦通罪」を制定しようとして猛反対されたこともある人なので、世俗主義のインテリや女性運動家などにはエルドアン大統領誕生に強いアレルギー反応が起きた。大統領は実質的な権力はないが首相の任命権などを有する要職である(象徴的な意味合いの強いドイツ・イタリアの大統領と、実質的権力をもつフランス大統領の中間くらいか)。現に大統領は、イスラム回帰の気分やポピュリズムを背景に暴走しがちなエルドアン首相を押し留める役割を演じていた。その大統領にエルドアン本人がなったら、どうなってしまうのか。 そんじゃあというので、自分が大統領になることをあきらめたエルドアン首相が持ち出したのはアブドゥッラー・ギュル外相である。この人は前回の総選挙の際、刑事訴追のためエルドアンが立候補出来なかったためAKPの副代表として代わりに首相となり、翌年の補欠選挙でエルドアンが落下傘候補として国会に議席を得たため、エルドアンに禅譲して外相になった人物。 それでは同じことじゃと世俗派の反発は大きく、しかも野党は「うちと協議せずの候補擁立は許さん」と反発、さらにトルコの影の支配者と言われる軍部が露骨に介入をちらつかせ始めた(大統領の主宰する国家安全保障会議では、首相は統合参謀本部総長と同格で、陸海空及び憲兵隊司令官と並ぶ一員に過ぎない)。 まあこういう「数の横暴」というか混乱は2002年の総選挙の結果から予測は出来た。トルコ憲政史上、一党が国会の大多数を占めていたというのは1950年代以来絶えてなかったことである。与党が自分の推す候補を大統領に立てるのはいわば憲政の常道だが、日本で無理に喩えるなら、公明党の党首が大統領になろうとする事態を想定すれば、その反発が理解できるかもしれない。 実はトルコの国会には政党が二つしかない(訂正:離党などにより現在は野党は複数になっている)。与党のAKPと最大野党のCHP(共和人民党)だが、こうなったのには理由があって、前回2002年選挙から導入された「10%条項」である。ドイツには似たような「5%条項」というのがあるが、これはつまりある程度の得票率を得られない政党には議席を与えず、それにより小党乱立を防ぐ仕組みである。これによって選挙前の与党以下、得票率10%以下の政党は全議席を失ってしまった(また総投票数の46%が死票になった)。日本で言えば、トルコ式だと自民党と民主党しか議席が与えられないことになる。ドイツ式でやっても議席を得られるのはせいぜい公明党までだろう(日本は小選挙区比例代表並立制なので単純に比較できないが)。 ドイツの場合、小党乱立のどさくさの中でナチスが台頭して国会そのものを葬ってしまった経験から制定された制度だが、トルコの場合は小党が離合集散を繰り返し、政治家が個人的怨恨で動いたり、党利党略に走ってあまりに醜態をさらしたことが、国民の既成政党離れとイスラム色が強く福祉にも熱心な新生AKPへの支持に繋がった。可笑しいのは選挙実施前にこの「10%条項」制度を決めた既成政党がほとんど全て議席を失ってしまったことである。「自分の党は大丈夫」だと思っていたのだろうか。 エルドアン首相は野党の準備が出来ないうちに選挙に持ち込んで信任を得る心つもりなのだろうが、前回総選挙のような圧勝が出来るかどうか。また大統領を直接選挙に改めたり、参政権の下限年齢を変えるなど自党に有利なほうに持っていこうといろいろ画策しているようだが。 僕にいわせれば10%条項のような滅茶苦茶な制度をなくさない限り(せめて5%にしてはいかがか)、こういうことは繰り返されると思うんだが。あと現大統領は5月16日で任期が切れるのだが、大統領不在の状況でどうするつもりだろうか(国会議長が代行するのかな)。 大統領不在という状況は1980年の軍部によるクーデタ直前の世相に似ている気もする(まあEUとの事があるので軍部が動くことはないだろうが)。おかげでリラ為替相場や株価が大幅下落している。経済の世界ではトルコはアルゼンチンや南アフリカ、メキシコと並ぶ成長株で、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)に次ぐグループなんだそうだが。 以下にトルコの歴代大統領を記す。<初代>ムスタファ・ケマル・アタテュルク(在任1923~38年) 主な前歴:軍人(国民軍総司令官)、共和人民党党首 オスマン皇帝を追放し共和制樹立 共和人民党の一党独裁体制で改革を強力に断行<二代>ムスタファ・イスメット・イノニュ(在任1938~1950年) 主な前歴:軍人(参謀総長)、首相(共和人民党党首) アタチュルクの急死を受け就任 第二次世界大戦を中立で乗り切る 多党制への道を開くが総選挙に敗北し下野(のち首相)<三代>マフムート・ジェラール・バヤール(在任1950~60年) 主な前歴:首相(民主党党首) 選挙を経て選出された初の大統領 1952年、NATOに加盟 メンデレス首相の経済政策の失敗などによる国内不安 1960年、軍部のクーデタで逮捕され死刑判決を受けるが恩赦<四代>ジェマル・ギュルセル(在任1961~66年) 主な前歴:軍人(参謀総長) 1960年に軍部を率いクーデタを起こし、メンデレス政権を打倒 1961年 大統領に就任し民政移管 1962年 キューバ危機 ソ連への見返りに米軍はトルコからミサイルを引き揚げる 1966年 病気により職務停止(直後に死去)<五代>ジェヴデット・スナイ(在任1966~73年) 主な前歴:軍人(参謀総長) 1966年、前任者の職務停止を受け議会により指名される 1971年、軍部の圧力でデミレル首相が辞任、挙国一致内閣を組閣<六代>ファフリ・コルテュルク(在任1973~80年) 主な前歴:軍人(海軍)、駐ソ・駐西大使、上院議員 1973年、議会により選出。7年の任期を満了 1974年、キプロス侵攻 左右対立が激化、政府が収拾できず内戦寸前の状況に<七代>ケナン・エヴレン(在任1982~89年) 主な前歴:軍人(参謀総長) 1980年、軍部を率いクーデタを起こして全権掌握、戒厳令 1982年、大統領に就任し民政移管 1983年 北キプロス・トルコ共和国を樹立 国内クルド人の独立紛争が激化<八代>トゥルグト・オザル(在任1989~93年) 主な前歴:大学教授、世界銀行職員、首相(祖国党党首) 1989年、大統領に選出 1991年 湾岸戦争。アメリカに協力し空軍基地を提供 1993年、心臓発作のため急死<九代>スレイマン・デミレル(在任1993~2000年) 主な前歴:首相(公正党、正道党党首)在任5期 1993年、前任者の急死を受け、首相から大統領に選出 同時に初の女性首相(タンス・チルレル)誕生 1997年、軍部の圧力でイスラム系政党のエルバカン首相が辞任<十代>アフメット・ネジデット・セゼル(在任2000年~) 主な前歴:憲法裁判所主席判事 2000年、初の法曹界出身の大統領として選出 2002年、総選挙でAKPが圧勝 2003年 イラク戦争。トルコからの米軍のイラク侵入を認めず
2007年05月02日
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コメディ映画「Borat」のおかげか、最近カザフスタンの名を耳にするようになった。偽カザフ人レポーターのボラット・サグディエフ(実はユダヤ系イギリス人コメディアン)が「ご機嫌いかが」の意味の挨拶で使う「ヤクシェマシュ」は実はポーランド/チェコ語である。ただカザフ語と同系統(トルコ系言語)のウズベク語での「ヤフシミシズ」には似ていなくもない。 僕は今まで一度だけ本当の(笑)カザフスタン出身の人と会ったことがある。ドイツの語学学校のクラスメートだったが、奇妙なことにドイツ語を習う彼女の民族帰属は「ドイツ人」、そして母語はロシア語だった。旧ソヴィエト連邦に属するカザフスタンというと、中央アジアにあって中国と接しているし、僕自身がトルコで「カザフ人か?」と聞かれたことがあったので、てっきりモンゴロイド人種(カザフ人)ばかりの国と思っていたのだが、ロシア系も多いと後で知った。 かつてロシアには多くのドイツ人が移民しコミュニティもあったが、ドイツとソ連が戦った第二次世界大戦の時(1941年)に敵性国民としてソ連領中央アジアに強制移住させられている。彼女はその子孫だった。中央アジアで同様の運命を辿った高麗人(朝鮮系)や、同じく敗戦後5万8千人の兵士がカザフ国内に抑留された日本にも、彼女は好意的だった。 カザフスタンは1991年にソ連から独立したのだが、その際公務員は従来のロシア語に加えカザフ語が必須となったという。彼女と医師であるその夫はこの規定や独立後の混乱を嫌って祖先の地であるドイツに移住し、祖先が失った「母国語」を習っていたのだった。 カザフスタンはユーラシア大陸のほぼ中央にある内陸国で、東西2000km・南北1200km、面積は日本の7倍の271万平方kmもあり、世界第9位(内陸国では最大)の大きさである。カスピ海、アラル海(著しく縮小しているが)、バルハシ湖といった世界最大級の湖沼の幾つかがこの国にある(面している)。隣接する国は北のロシア、南のウズベキスタン・トルクメニスタン・キルギスタン、東の中国だが、このうち中国以外は全て旧ソ連に属した。 その広大な国土には1500万人弱(九州+沖縄とほぼ同じ)しか住んでいないが、それはこの国の国土の多くが砂漠やステップといった乾燥地域であることによる。国土の南端には天山山脈があり、広大なだけに風土は多様である。シベリアに隣接する北部では穀物生産も盛んだが、この国の富は何といっても石油や天然ガス、銅、金、銀、石炭、ウラン、クロム、マンガンといった多様な地下資源であり、輸出総額の8割を占める。そのため一人当たりGDPは3000ドル弱と中央アジア随一で、海外からの投資が増えており経済成長が見込まれている。 なお日本ではロシア語の「カザフスタン」が通称となっているが、公用語のカザフ語では「カザクスタン」である(ここではカザフスタンで統一する)。この国名は「カザフ(カザク)人の国」という意味であるが、冒頭に述べたように民族帰属はカザフ人だけでなくロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、ドイツ人など100以上もあり、国民の8割が共通語としてロシア語を話す。なおカザフ人は中国やモンゴルにも少数存在する。 カザフスタンには旧石器時代の遺跡が見つかっており、早くから人類が居たことが判明している。おそらく西アジアから農耕や牧畜が伝わり、紀元前2300年頃にアンドロノヴォ文化が出現した。タムガルの岩絵彫刻群(世界遺産)の最古のものはこの時代に属すると考えられている。この文化では馬の家畜化を示す世界最古の確実な証拠(馬車の副葬)が見られるが、続くカラスク文化ののち、この地は羊の牧畜に特化した遊牧が主になる。 文献史料に言及される最初の民族は「サカ」で、紀元前6世紀に西アジアを制覇したアケメネス朝ペルシア帝国の碑文に言及される。イッシク・クルガン(古墳)で発掘された被葬者の遺体を飾る膨大な黄金製品(黄金人間)は、サカの富強を示している。ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、サカの一派マッサゲタイ人は、紀元前529年に攻め込んできたアケメネス朝の太祖キュロス大王を戦死させたという。 その後も中国の史書(史記・漢書)に烏孫、康居、奄蔡(西洋史料にみるアラン人か)などの民族が言及されているが、いずれもイラン系の遊牧民と推測されている。彼らは比類なき騎馬戦士であり、また東西交渉の荷い手だった。 6世紀になって中国北方でトルコ系の突厥が台頭し、西方のエフタルを逐って中央アジアを支配した。突厥が衰えると中国(唐)の勢力が及んだが、751年に侵入したアラブ軍(イスラム教徒)と唐軍がタラス川で会戦、捕虜となった中国の職人により製紙法が西伝したという。766年以降、この地はカルルク、オウズ、キプチャク、キルギスなどトルコ系遊牧部族の天地となった。 9世紀後半にトルコ系のカラ・ハン朝が成立し、その支配下では遊牧民による積極的なイスラム教への集団改宗が行われ、また東西交易が盛んになりオアシス都市への集住が進んだ。カラ・ハン朝は内紛やセルジューク朝(オウズ族)との戦いで衰え、1132年に中国北方から西遷したカラ・キタイ(契丹人)によって滅亡、遺領はカラ・キタイ(西遼)とホラズム・シャー朝(トルコ系)に二分される。 突厥や契丹人のように、中世の北方ユーラシア遊牧民は東から西へ移住する傾向があるが、その最大のものはモンゴル族だった。モンゴル高原を統一したチンギス・カンは1218年にカラ・キタイを滅ぼし、さらに西進してシル河沿いのオトラルを皮切りにオアシス都市を次々に攻略した。ユーラシアの東西に及ぶモンゴルの支配下でこの地はチャガタイ・ウルスやジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)及びその後継政権の領土となった。 次いでチャガタイ・ハン国の部将から成り上がったティムールが中央アジア全域を征服したが、中国遠征の途上1405年にオトラルで病没した。彼が建てさせたホジャ・アフマド・ヤサヴィ(12世紀の神学者)の霊廟はドーム屋根の青いタイルが美しく、未完成ながら世界遺産に指定されている。 さて「カザフ(カザク)」とはトルコ系言語で「独立不羈の民」という意味があり、ロシア語の「コサック」と語源は同じである。1428年、ウズベク族(トルコ系)のアブル・ハイルがボラクを倒して中央アジアの覇権を握ったのだが、それに従わぬ者がボラクの子ジャニベク兄弟を指導者に仰いで1456年頃にウズベク族から分離し、北方に移動した。これがカザフ族の起源である。 1468年にはアブル・ハイルを倒して復仇を果たし、南下するカザフ・ハン国はウズベク・ハン国を脅かした。ただ「国」というより部族の寄せ集めであり、有能な指導者が死ぬたびに部族は分裂している。統一と分裂を繰り返したが、18世紀初頭にタウケが三つのジュズ(部族連合体)を統一し、シベリアを征服したロシア帝国の使者に面会、また初めて部族の成文法を作っている。 しかし1718年のタウケの死後再び部族は三つのジュズに分裂、折りしも東方のオイラト族(モンゴル系のジュンガル帝国)の攻撃を受け弱体化した。1728年に三ジュズは再統合したが劣勢は覆いがたく、1731年を皮切りに各ジュズがロシアと条約を結び、その保護下に入った。ロシアは砦を築いてその支配を固める一方、オイラトは中国の清朝に討伐されその藩国となった。無敵を誇った遊牧民の騎兵も火器には勝てなくなったのである。カザフ族も一時期名目上ロシアと清の双方に属した。 19世紀に入るとロシアは直接支配に乗り出し、ロシア人による入植が相次いだ。カザフ族(ロシア人は「コサック」との混用を避けるためか、誤って「キルギス人」と呼んでいた)の一部は対露反乱を起こすが失敗(1837年のケネサルの乱など)、1863年にはカザフスタン全域がロシアに併合された。 1906年にはトランス・アラル鉄道が開通、ロシア人は農耕に適った北部や西部に多く入植し、それにより伝統的なカザフ族の遊牧生活は失われていった。第一次世界大戦で疲弊した1916年には中央アジア全域で対露反乱が起きたが、鎮圧されている。 1917年にロシア革命が起きると、アラシュ・オルダと呼ばれる民族主義者グループがカザフ国家の独立を画策したが、1920年にボルシェヴィキ(共産党)軍に敗れて瓦解した。カザフはソヴィエト連邦ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国内の一部となり、1925年にはキルギスと分離してカザフ自治共和国とされ(キルギス人がカザフ人との混同を嫌ったため)、現在の国境が画定された。民族としての「カザフ人」はこのとき成立したといえる。1936年には共和国に昇格している。 ソ連の独裁者スターリンは農業の集団化や遊牧民の定住化を強引に推進したが、反対する遊牧民はその家畜を屠殺して抵抗した。その結果1934年までの5年間でカザフ人150万人が餓死・刑死し、家畜の8割が失われたという。一部のカザフ人は中国に逃げようとしたが多くは餓死した。さらに第二次世界大戦中にはスターリンによって「敵性国民」と看做されたソ連国内のドイツ人、チェチェン人、高麗人、ポーランド人などが中央アジアに強制移住させられた。カザフ人たちはこの不幸な新来者に自分たちの乏しい食料を分け与えたという。 辺境と看做されたカザフスタンへの移民は戦後も奨励され、1950年代にはカザフ系3割に対してロシア系4割と、国名に反してカザフ人が少数派に転落した。また中央アジアの北辺にいたカザフ人にはイスラム教の影響が割合少なかったため、カザフ人自身にもロシア語を日常的に使いロシア文化を受け容れる者が多くなった。カザフスタンは灌漑開発が進められて連邦の穀物供給地とされる一方、僻地を利用してバイコヌール宇宙基地やセミパラチンスク核実験場が置かれ、500回以上の核実験が行われている。 しかし1980年代になるとソ連の経済政策失敗は明白になった。改革を唱えて登場したミハイル・ゴルバチョフ連邦共産党書記長は、保守派と目されたカザフ共産党のディンムハメッド・クナーエフ第一書記を1986年に突如更迭した。カザフ人であるクナーエフがよそ者に替えられたことはカザフ人を刺激、暴動が起きて軍隊が鎮圧に出動する騒ぎになった。これに配慮して1989年にはカザフ人のヌルスルタン・ナザルバエフがカザフ共産党第一書記に任命された。連邦の箍が緩むや、カザフ国内でほぼ同数のロシア系住民とカザフ系住民が独立か否かを巡り対立するようになった。 1991年に大統領に選出されたナザルバエフは、ロシアに依存している経済を考慮して当初はゴルバチョフ支持で独立に消極的だったが、連邦の権威が失墜するやロシアや中央アジア諸国などの旧ソ連諸国と独立国家共同体を組織することを確認、その年末にソ連からの独立を宣言した。即座に首都アルマアタはカザフ語風にアルマトゥと改名され、カザフ語が公用語とされた。国外流出するロシア系住民の割合は独立以来年々減少しており、現在は3割以下になった(対するカザフ系は5割以上に回復)。 1992年にはロシアと友好協力条約を締結、経済協力や国境不変を確認し、カザフスタン国内の戦略核兵器の引き揚げ、ロシア軍の駐留継続、バイコヌール宇宙基地の租借などを定めた。以後もロシアや旧ソ連諸国との協調を強める一方、地下資源大国の強みを生かして中国(直通パイプラインが開通)、トルコ(カザフ人と民族系統が近い)、EU、アメリカ(カザフスタンへの援助額第一位)、日本(同第二位)などと全方位外交を展開している。 一方国内では独立以来ナザルバエフが大統領職にあり、メディア統制や野党への弾圧などの強権的手法や汚職が批判されているが、経済的な好況もあって内政は比較的安定し、原油の日産200万バレルも可能という地下資源の強みもあって欧米からの批判も形式的なものに留まっている。 1997年には北部の部族やロシア系住民の懐柔を目的として、首都を国土南端のアルマトゥから北寄りのアクモラに遷してアスタナと改名、黒川紀章氏の都市計画に基づいた活発な新首都建設が進められている。
2007年04月23日
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三日連続で日記書くのは久しぶりだ。 ちょっと気になるニュースなどを切り貼り。(引用開始)首都でテロ多発、160人死亡=中心部の市場で車爆弾-イラク4月19日0時0分配信 時事通信 【カイロ18日時事】イラクの首都バグダッド中心部のサドリヤ地区の市場近くで18日、自動車に仕掛けられた爆弾がさく裂、AFP通信によると、少なくとも115人が死亡、137人が負傷した。これを含め、首都各地で爆弾テロが発生、死者数は計160人に達した。 イラクのマリキ政権は駐留米軍と共に今年2月から首都での大規模な武装勢力掃討作戦を実施、その効果が上がっていると強調している。しかし、12日には厳戒下にある首都中心部の「グリーンゾーン」内にある国民議会の建物で爆弾テロを許すなど、一向にテロがやむ気配は見えず、楽観的見通しには大きな疑問符が付いている。 (引用終了) 昨日は人死にのニュースばかり扱ったが、書いた後に「そういやイラクじゃ毎日のように人がたくさん殺されている」とふと思ったものだった。こういう派手なのを挙げなくとも、殺人や事故で非業の死を遂げる人は世界中で一日何人いるやら分からない。 「人命は地球より重い」「人の命は全て平等」、けだし名言である。しかしニュースの扱いからしてそれは建前なんだなと感じる。当然といえば当然なんだろうけど、「死者160人」とか「戦死20000人」とかいう数字を何気なく書き付けてその数字の陰に潜む人それぞれの人生に対する想像力を失わないよう気をつけたいと思う。 それにしても、何のために、と思う。 少し前の記事から。(引用開始)<クルド議長>キルクーク領有発言でトルコが激しい反発4月15日18時57分配信 毎日新聞 【エルサレム前田英司】イラク北部の石油都市キルクークの領有を巡り、イラクのバルザニ・クルド地域政府議長が「トルコに干渉させない」と述べたことに、国内のクルド人分離独立を警戒するトルコが激しく反発している。クルド系武装勢力の掃討作戦を強化するトルコ軍の高官はイラク側への越境攻撃を示唆。クルド地域はイラク国内でも比較的平穏を保つ地域だけに、欧州連合(EU)は双方に「平和的、建設的に対処することを希望する」と呼びかけている。 バルザニ議長は今月5日、毎日新聞との単独会見で、キルクークについて「歴史的にも地理的にもクルディスタン(クルド人の土地)であることに論争の余地はない」と述べた。 AP通信によると、中東の衛星テレビ・アルアラビーヤが7日放送したインタビューで同議長は、キルクークの帰属について「トルコに干渉はさせない」としたうえで、「トルコが邪魔するなら我々も(クルド人が多く住むトルコ南東部の都市)ディヤルバクルの問題に干渉する」などと発言した。 イラク憲法はキルクークの帰属を、年内に実施する住民投票で決定するとしている。トルコは、この石油都市がクルド地域に属して多額の「オイルマネー」が流れ、クルド人による独立国家樹立の動きにつながることを懸念。連動してイラク北部に拠点があるとされるトルコのクルド系武装勢力が活動を強めることも警戒している。 トルコからの報道によると、同国のエルドアン首相は9日、バルザニ議長の発言について「言動には十分注意を払うべきだ。自らの言葉が衝突を誘引することになる」と非難し、バグダッドのイラク政府に抗議文書を送った。 トルコ軍のビュユクアヌト参謀総長は12日、「軍の観点からすればイラク北部での軍事行動は実行すべきだ」と、イラクに越境してクルド系武装勢力を制圧する可能性に言及した。ただ、トルコ国外での軍事行動には国会の承認が必要で、要請はまだしていないという。 バグダッドなどでテロ事件が頻発する一方、クルド地域は比較的「安全」とされ、イラクはトルコとの緊張拡大は避けたい状況だ。イラク駐留米軍報道官は「(推移を)慎重に見ていかなければならない」と語った。 ロイター通信によると、バルザニ・クルド地域政府首相は14日、同地域の首都アルビルで会見。「(キルクーク問題に)トルコが懸念を抱くなら、取り除く用意がある」と述べ、トルコとの直接対話にも応じる姿勢を示した。 (引用終了) イラクの宗派対立に加えて、中東全体の問題になりかねないのがクルド人の扱い。今やイラクのクルド自治区はイラクの中で最も安定しているということだが・・・。 EU加盟との兼ね合いがあるから、トルコ軍が実際にイラクに越境攻撃する可能性はあまりないとは思うが、イラクの今後を左右しかねない要素の一つではある。ビュユックアヌット参謀総長は強硬派で有名みたいだし。 そのトルコだが、ちょっと不穏なニュースを二つ。 (引用開始)トルコで出版社襲撃され3人死亡、当局が6人を拘束 (読売新聞 - 04月18日 22:22) 【カイロ=長谷川由紀】トルコの半国営アナトリア通信によると、同国東部マラティアで18日、出版社を狙った襲撃事件があり、少なくとも3人が死亡した。地元警察は事件に関連して6人を拘束した。 動機など詳細は不明だが、この出版社は、聖書やキリスト教関連の書籍を出版しており、これに反発する地元民族主義団体が抗議を繰り返していたことから、捜査当局は関連を調べている。 トルコでは今年1月、イスタンブールで、アルメニア系トルコ人ジャーナリスト、フラント・ディンク氏が、民族主義組織の依頼を受けたとされる少年に殺害される事件が起きている。 トルコは人口の99%がイスラム教徒。(引用終了) この犠牲者の中にドイツ人がいたというのでドイツでも大きく取り上げられているニュース。 犯人は犠牲者の腕と足を縛り、喉を掻き切って殺害したという。やり口から見てこれは民族主義というよりイスラム主義が絡んでいるように思う。逮捕された容疑者5人は19歳から20歳くらいの若者というから、一番操り易い年齢だろう。昨年には黒海沿岸のトラブゾンでやはりキリスト教の神父が若者に殺害される事件が起きている。まあ大きいニュースになっているというのは、まだまだ例外的な事件であるということなのだが。 マラティアには一度しか行ったことが無いが、ユーフラテス河上流にあって緑の多い良い町だったと記憶している。 上のイラクの記事もそうだが、宗教の名の下に人を殺すほどの悪はないと思う。 下の記事をあわせて読むと、ちょっとトルコが心配になってくる。(引用開始)<トルコ>首相の大統領選出馬に反対、アンカラで抗議集会4月14日18時59分配信 毎日新聞 5月に大統領選を控えたトルコの首都アンカラで14日、エルドアン首相の大統領選出馬に反対する大規模な抗議集会が開かれた。首相はイスラムの伝統を尊重した民主主義を掲げる「公正発展党」の出身。大統領に転身すれば、トルコが非宗教国家として掲げてきた政教分離が侵されるのではないかとの恐れが広がっている。 (引用終了) 今のトルコ国会は公正発展党(AKP)が総議席の三分の二の安定多数を保持しているから、エルドアン首相が立候補すれば大統領になれるのは確実である。 現職のアフメット・ネジデット・セゼル大統領は最高裁長官の出身だけに、トルコの国是である政教分離を厳格に守った人物である。エルドアン首相が就任して初めて何かの儀式に参列した際、夫人はイスラムの象徴と目されるスカーフを被って参加した。そのためセゼル大統領はその後のパーティーにエルドアン夫人を招かなかったというエピソードがあるくらい、徹底している。その後任にポピュリストの気があるエルドアン首相というのではなんとも皮肉ではないか。 今の状況を見ていると、トルコ現代史を連想せざるを得ない。共和制になってからトルコは世俗化と宗教への傾斜を交替的に繰り返し、行き詰るたびに世俗主義の守護者を自任する軍部がクーデタを起こすということが繰り返された。1960年のメンデレス政権崩壊、1970年と1980年の軍部クーデタなどである。1996年にはやはり軍部の圧力でイスラム主義のエルバカン首相が退陣に追い込まれている。 一方で世俗主義護持を掲げEU加盟を最優先する勢力、一方で極右民族主義者がおり、また国民全般ではイスラムへの回帰の気分が強まり、それを悪用してイスラム過激派が跋扈しようとする。1970年代にはこうした左右の対立が激化して内戦寸前になり(当時は隣国のソ連も関係する共産・社会主義という別のファクターもあったのだが)、そこに軍部が登場して戒厳令を敷いて対立を力ずくで抑え込んだ訳だが、この潮流は度々噴出している。 現在はイラク(クルド)やEUという外部のファクターが絡んでいるのでさらにややこしく(軍部も以前ほどの求心力が無いだろうし、そんなことすればEU加盟が消えるのは目に見えている)、僕にとってはなじみの深いこの国がちょっと心配ではある。
2007年04月18日
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(引用開始)<カダフィ大佐>核放棄後の対応で国際社会に不満3月3日17時36分配信 毎日新聞 【カイロ支局】リビアの最高指導者、カダフィ大佐は2日、同国の「直接民主制」を祝う式典が開かれた南西部サブハで英BBC放送と会見し、「リビアが戦争計画を断念すれば、米英両国は、核の平和利用を支援すると約束した。だが、実際は何もしてくれなかった」と語った。(中略) さらに「核開発計画を放棄したリビアに何の補償もなかったのだから、北朝鮮やイランのような国々は、リビアの例にならうつもりはないと言うだろう」とも述べた。 リビアが03年に核開発の放棄を表明して以降、国連と米国はリビアに対する経済制裁を解除。欧米各国はリビアとの外交関係を修復した。さらに、米国はリビアに対する「テロ支援国」指定も解除した。しかし、大佐は、リビアの原子力発電所建設に対する欧米諸国の協力が進まないことへのいら立ちを示したようだ。 (引用終了) リビアというと、一昔前のアメリカ映画ではテロリストの親玉として描かれていた。イスラム過激派がその地位に代わって久しいが、日本人には未だあまり好印象はないだろう。 だいぶ前の語学修行の時のリビア人の知り合いは、こうしたリビアのイメージに反して明るく知的で、自国の内政や教育制度を賞賛していたのを覚えている。リビアの石油施設に出稼ぎに行ったというトルコ人に会うことも多い。 現在のリビアの正式国名は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ」と訳される。アラビア語でジャマーヒリーヤは共和制の意だが、あえてそう訳さないのはこの国独特の政治体制にある。この名前の示すところは、イスラムに基づく社会主義・民族主義を国是とした直接民主主義による人民主権の実現とのことだが、2000年に中央議会が解散、地方議会や人民委員会に立法権や行政権を委譲している。 この国の指導者といえばムアンマル・アル・カダフィだが、1969年にクーデタで王政を倒して以来、実質的に国家指導者の地位にある。ただし彼自身は1979年に全ての公職を辞して「革命指導者」を名乗り、法的な元首は別にいる。カダフィは虚飾を嫌い、砂漠遊牧民の暮らしを好んでテントに起居しているという。その彼も後継者には自分の息子を考えているようだ。 リビアは面積は176万平方キロ(日本の4.6倍)もあるが、人口は日本の20分の1の560万人(兵庫県と同程度)しかない。これは国土の多くがリビア砂漠やサハラ砂漠に覆われ可耕地がわずか2.5%しかなく、雨の時のみに水が流れる涸れ川(ワディ)ばかりで川が一本もないことによる。 人口はこの30年で倍以上に増え増加率は年3%以上で、人口の半分が16歳以下という「若い」国である。人口の8割以上は狭いながらも肥沃な海岸部に集中するが、砂漠にも遊牧民が暮らしている。国民の大部分はアラブ人だが、遊牧民であるベルベル人などもいる。国民の97%はイスラム教徒(スンニ派)で、棄教することはほぼ国籍放棄を意味する。 砂漠ばかりの土地柄ではあるが、この国の地中には石油や天然ガスが豊富に埋蔵され、石油は日産160万バレルに上りイタリアやドイツに輸出している。この地下資源で得られる富のおかげでリビアはアフリカで最も豊かな国であり(一人当たりGDP4120ドル)、教育費などは無料という。 リビアは地中海南岸・アフリカ大陸北端にある国だが、東でエジプト及びスーダン、南でチャドとニジェール、西でチュニジア及びアルジェリアと接している。地中海を挟んだ対岸はマルタやイタリア、ギリシャであり、これらの国々とも海を越えた歴史的関係があった。 「リビア」という地名はそもそもエジプト西方の砂漠地帯を指していたが、古代ギリシャ人にとってはアフリカ大陸全体を示す言葉だった。この古代名が復活するのは、イタリアの植民地だった1934年になってからである。リビア国内ではエジプトに近い北東部のバルカ(キュレナイカ)、北西部のトリポリタニア、そして内陸のサハラ砂漠内にあたるフェザンといった地方がある。 今は果てしない砂の海となっているサハラ砂漠は、かつては緑に覆われ水の豊かな地域だった。それを示すのはリビア南西部アカクス山中に残る紀元前9000年頃に描かれた岩壁画で、顔料や線刻でキリンなどが描かれている。紀元前6000年頃には牛の牧畜が行われていたことも壁画から分かる。 しかし紀元前3000年頃からサハラ地域の乾燥化が始まった。画題は人間が主になるが、彼らも東のナイル河や南のニジェール川流域に移住を強いられた。さらに紀元前1000年以降は壁画(ギリシャ式の馬車が画題)を描くことさえ激減し、ラクダに乗る遊牧民が行き交うだけとなった。 砂漠を越えて来るリビアの遊牧民は、ナイル河沿いに栄えた古代エジプト文明にとってしばしば脅威となった。早くも紀元前2300年頃にその記録があり、特に紀元前1200年頃、エジプト王(ファラオ)ラムセス3世は国境でリビア人を撃退したことを碑文に記している。リビア人は常に外敵だったわけではなく、エジプト文明に加わる者もあり、紀元前950年頃ファラオに即位したシェションク1世はリビア系傭兵の出自だった。 紀元前7世紀、海路フェニキア人やギリシャ人が地中海岸に入植するようになる。キュレナイカにはキュレネ、バルカなどのギリシャ人都市が、トリポリタニアにはレプティス・マグナやサブラタなどのフェニキア人都市が建設された。特にキュレナイカはギリシャ本土への重要な穀物供給地となる。 トリポリタニアはフェニキア人都市国家カルタゴの、そしてキュレナイカは紀元前4世紀末にエジプトのプトレマイオス朝の支配下に入ったが、それぞれ紀元前146年、紀元前30年にローマ帝国に滅ぼされ、リビア全域がローマ帝国の版図に組み込まれた。ただし内陸のフェザンにいるベルベル人にはローマ帝国の威信は及ばなかった。 やがてローマ帝国は衰退期に入り、395年に東西分裂する。キュレナイカは東ローマ(ビザンツ)帝国の、トリポリタニアはゲルマン系のヴァンダル族の占める所となった(429年)。ヴァンダル族やベルベル人の略奪でリビアの諸都市は衰退した。 6世紀後半にはビザンツ帝国が地中海全域に版図を拡大しローマ帝国復活を思わせたが、アラブ人のイスラム教徒軍に攻撃され衰えた。アラブ軍は643年にキュレナイカ、647年にトリポリタニアを征服、さらに670年までに内陸のベルベル人をも屈服させ、以後リビア住民のイスラム化・アラブ化が進むことになる。 その後リビアはエジプトや北西アフリカのイスラム王朝の支配するところとなった。1146年にはシチリアのキリスト教徒軍がトリポリを攻撃している。リビアの住民の多くはアラブ系やベルベル系遊牧民であり、彼らはアフリカ内陸部と地中海との間での黒人奴隷や象牙、砂金の交易や、イスラム教の拡大を担った。海岸部は14世紀以降、コルスと呼ばれる海賊の巣窟となった。 地中海交易に依存するイタリアの都市国家やスペインはこの海賊に悩まされる。1509年、スペインは海賊鎮圧のためトリポリを攻略し、マルタ島のヨハネ騎士団に与えた。対抗するようにトルコのオスマン帝国も1517年にエジプトを征服してリビアの土侯を服属させ、1551年にトリポリを奪取して総督を置いた。こうしてオスマン帝国は三大陸にまたがる大帝国となった。 オスマン帝国の支配が緩んだ1711年、アフマド・カラマンルが総督を倒し自立する。カラマンル朝も地中海での海賊行為を続けたが、イギリスやフランス、それに新国家アメリカはこれを許さずリビアを攻撃した(米軍による初の海外戦闘)。海賊は覆滅され、重要な経済基盤を失ったカラマンル朝は1835年にオスマン帝国に再征服される。 一方1843年に設立されたイスラム教のセヌッシ教団は、オスマン帝国支配下のリビアで隠然たる勢力を持ち、反西洋運動の急先鋒となっていった。 1861年に国内統一を果たしたイタリアは、遅ればせながら西欧列強による世界分割に加わった。オスマン帝国の弱体化や、列強によるモロッコ紛争を見たイタリアは、地中海対岸のリビアを狙って1911年にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。イタリアは史上初めて航空機を戦争に使用して勝利し、翌年の講和でリビアを獲得した。 しかし内陸を拠点とするセヌッシ教団の抵抗は根強く、特にキュレナイカを拠点とするオマル・ムフタルはイタリアを悩ませた。イタリアのファシスト政権は抵抗を徹底的に弾圧し、1931年にオマルを捕らえて処刑、ようやく鎮圧できた。リビアにはイタリア人10万人が入植した。 第二次世界大戦でイタリアは地中海で連合国側のイギリスと激しく戦った。劣弱なイタリア軍はドイツ・アフリカ軍団の加勢を得たが、物量に勝るイギリスやアメリカには勝てず、1943年までに北アフリカから一掃された。 リビアは暫くイギリスの軍政下に置かれたが、国連決議に従い1951年にセヌッシ教団の指導者イドリースを国王とするリビア王国が建国される。1953年にはアラブ連合に加わった。だがリビアには従来通り英米軍が駐留していた。 ほとんど産業のないリビアは世界の最貧国の一つだったが、1958年に最初の油田が発見され、1961年に生産・輸出が始まった。しかし油田開発は英米企業に任され、富は一部の国民に独占された。その富裕層は欧米文化に傾倒し、国民の不満が高まった。 1969年、国王の外遊中にカダフィ大尉率いる将校団がクーデタを起こし、共和制が樹立された。エジプトのナセル大統領が主唱する汎アラブ主義の影響であり、増大する貧富の差や欧米文化の流入に対する反応でもある。翌年カダフィはイタリア植民者をリビアから追放し、英米軍を撤収させソ連に接近、外国企業が所有する油田や銀行を全て国有化した。 しかしカダフィの抱いたアラブ統一の理想は実現しなかった。その本家であるエジプトとの連合協議は失敗し、国境紛争すら起きる。その後もアラブ連合のチュニジアやモロッコと連合条約を結ぶが、リビアが外国人労働者を追放した1985年には一時チュニジアとの外交関係が断絶した。 一方南隣のチャドとは1973年の国境紛争を始めに戦闘を繰り返し、チャド内戦中にはその北部を占領した。1989年に和平条約を結び撤退、1994年にハーグ国際法廷がリビアを非とすると、国境係争地からも撤退した。 リビアは1980年代に反米・反イスラエル組織を支援し、欧米諸国との関係が急速に悪化する。1985年にベルリンで起きた爆弾テロ事件に関与したとして、翌年アメリカはリビアに対し経済制裁を開始、さらにカダフィ殺害を狙ってトリポリを空襲した。1988年にはイギリス上空でパンナム航空機が爆破される事件が起き、これもリビアが関与したとされた。 ソ連崩壊や湾岸戦争後の1992年、アメリカはパンナム機事件への関与を理由に国連安保理で対リビア制裁を発議した。後ろ盾を失い、またイラクを支持して孤立していたリビアはその議決を座視するよりなかった。石油輸出を制限されたリビア経済は苦境に陥り、カダフィは1994年にイスラム法を導入して体制の引き締めを図った。 1999年、リビアは孤立回避のため方向転換してパンナム機事件の容疑者をハーグ国際法廷に引渡し、国連は制裁を停止した。またイスラム過激派による欧米人誘拐事件の解決を仲介、さらに2001年にアメリカ同時多発テロの犯人を非難するなど(台頭する国内のイスラム原理主義組織への牽制でもある)、欧米への歩み寄り姿勢を明確にした。 イラク戦争があった2003年に国連の制裁を解除され、また米英両国との秘密交渉の結果、リビアは大量破壊兵器計画の廃棄を発表した。核実験停止条約を批准したことを受け、アメリカも経済制裁やテロ支援国家指定を解除、国交正常化した。 制裁を解除され経済開放に転じたリビアに対し、EU諸国が投資を行っており(日本企業も石油採掘権を落札)、原油高も手伝ってリビアは高成長を維持しており、またEUはアフリカからの不法移民対策での協力を模索している。一方で昨年12月のブルガリア人看護婦に対する死刑判決など、司法の不備や言論の制限といった人権状況を欧米諸国に批判されている。
2007年03月05日
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ネット上での国際政治解説といえば田中宇さんが有名だが、このところ「中東大戦が起きる!」「アメリカはイランを攻撃する!」と、なんだか煽りとしか思えないような記事を連発している。さらにイギリスの「サンデー・タイムズ」が「イスラエルがイラン空爆を計画」と報じたものだから、最新号もそれに乗った記事になっている。 イスラエルは昨年レバノンで苦戦しているし、アメリカにイランを攻撃する余裕なんてないと思うので(まあ口撃はするだろうし、ブッシュ政権を舐めちゃいけないが)、「んなアホ」なと思いつつ読んでいたのだが、ここに来てイスラエル紙「ハアレツ」が「イスラエルとシリアが秘密和平交渉でほぼ妥協」と報じているそうだ。 私はよく知らんのですが「ハアレツ」といやあイスラエルでも有力紙でタブロイド紙ではないよね?少なくとも田中さんの予測よりは信憑性がありそうだ。 「ハアレツ」が今日報じているところによると、シリアのバシャール・アル・アサド大統領が2004年1月にトルコに仲介を依頼、イスラエル・シリア双方の代表が2004年9月にヨーロッパ某国の首都で接触、その後2006年7月までの2年間で8回にわたって交渉が持たれたという。ちなみに最後の交渉は昨年のイスラエル軍によるレバノン侵攻以前に持たれたという。 交渉担当者としてシリア側からはファルーク・アル・シャラ副大統領(前外相)、ワリード・ムアッレム外相の補佐官が、イスラエル側からはアリエル・シャロン首相(当時)の補佐官やアロン・リール元外務次官が出席していた。ただし正式な和平条約ではなく政治的妥協のレベルであるとのこと。 ちなみにイスラエル首相府はこの交渉について「知らない」とコメントしている。 イスラエルとシリアの和平交渉は湾岸戦争(1991年)後に始められたが、7年前に決裂して以来公式には行われていない。最大の争点となったのは1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領されたゴラン高原の扱いで、シリア側が無条件の返還を求めているのに対し、イスラエル側は完全返還に難色を示すと共に安全の保障などを求め、双方が激しく対立している。 ゴラン高原は本来シリア領だったが、1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍が奇襲して占領、シリアの奇襲で始まった第四次中東戦争(1973年)でも戦場となり、現在も両者によって分断されている(国連による停戦監視団が駐留し、日本の自衛隊も参加している)。その間には鉄条網や地雷原がある。双方に分断されたアラブ人の家族がスピーカーを使ってお互いに遠くから挨拶する姿は「中東戦争の悲劇」としてよく報道されていると思う。 イスラエルが返還に難色を示しているのは、双方の相互不信もあるし、イスラエルがユダヤ人入植地を作っているのでそれを今さら退去させるのが難しいということもあるが、イスラエルにとっては貴重な水源地帯であるということが大きい。1967年以前の国境線はガリラヤ(キネレト)湖を折半するような形だったが、現在は湖全体がすっぽりとイスラエル支配地域に入っている。 ちなみに上のリンク先のページでも紹介されているが、この地域では2004年まで日本隊によるエン・ゲヴという遺跡の発掘が行われていたが、遺跡の中に第一次?中東戦争(1949年)のときの塹壕が残っているそうだ。この辺りは聖書やキリストとも所縁の地である。 さてそんな怨念の両国の妥協内容だが、イスラエルはゴラン高原の返還を認め、かつて占領していたシナイ半島同様段階的撤退を行う(ただしその期間についてイスラエル側は15年、シリア側は5年を主張し、合意できていない)。一方イスラエル側は返還の条件(見返り)として、ゴラン高原の大部分を含むガリラヤ湖沿岸地域の自然公園化とイスラエルの水利使用権や立ち入りを認めること、国境地帯は非武装化されるべきこと、シリアはイスラエルの生存権を認めていないパレスチナ人イスラム原理主義組織ハマス(現在のパレスチナ自治政府与党)への支援を停止すること、としている。 シリアはイランと共にハマスやヒズボラ(昨年のイスラエル軍によるレバノン侵攻の敵となったシーア派民兵組織)への支援を行っていることで知られているが、果たしてこの条件を飲むだろうか。ただシリアはかつて、トルコとの妥協のためにクルド人武装組織PKKへの支援をやめてダマスカスに匿っていたその首領アブドゥラ・オジャランを追い出したこともあり(オジャランは逃亡先のナイロビで何者かに拉致されてトルコに連行され、終身刑)、その結果現在トルコとシリアの関係は好転しつつあるというし、アサド政権の安定度(バアス党長老や軍部の掌握)によってはこうした思い切った妥協もあるのではないかと思う。 問題はクルド人はともかくシリアがアラブ同胞への援助を打ち切れるか(ただハマスはスンニ派系なので、シーア派に近いアサド政権にとってはやや疎遠だが)、イスラエル世論がゴラン高原返還を認めるかということである。この妥協はあくまで出先の交渉担当者同士の妥協であって、中東で数少ない議会制民主主義国であるイスラエルでは選挙を経ないとならない。ただシリアとの和平が実現すれば隣国で敵対が続くのはレバノンだけということになる(内部対立が激しいレバノンには親イスラエル派もいればヒズボラもいて、和平はさらに厄介そうだが)。あとはこの地域に影響力を持つアメリカやイランの態度も無視できないだろうけど。 これはあくまで新聞報道で、どれほど信憑性があるのか分からないが、和平への道へと進んでくれるのならばそれに越したことはない。ゴラン高原とかイスラエル・レバノン国境とか、旅行するんでも調査するんでもほんと迷惑なんですわ。つかイラクなんとかしてくれ。 あと中東の国は核兵器やミサイルを作るのにはそれほど長けてないのかもしれないが、どこかの擬制親族制儒教的共産主義国に比べれば、ちゃんと交渉というものを知っているんだなあと思う。何より国民の一割が飢えて死ぬということが起きないだけまともだろう(それを言っちゃあ昨年末に見せしめ処刑された元大統領を称揚することになるが)。(追記) 「Spiegel on Line」はやや遅れてイスラエルのシリア専門家であるエヤル・ツィッサー氏とのインタビューを掲載し、シャロン首相がシリアとの和平に懐疑的で乗り気ではなかったこと、この交渉に当たっている人物が公職になくどれほどの決定権があるのか不明なこと、シリアがパレスチナやレバノンの問題でイスラエルに歩み寄るとは考えにくいことなどを指摘して、「ハアレツ」の記事は和平に対する過剰な(現実的でない)期待を抱かせる、とする同氏の批判的な見通しを紹介している。 残念!
2007年01月16日
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中央アジアにあるトルクメニスタン共和国(原語では「テュルクメニスタン」)は、1991年にソヴィエト連邦から独立した、面積48万平方キロ(日本の1.3倍)、人口500万(福岡県と同じ)の内陸国である。世界最大の塩湖・カスピ海(ハザル海)に面し(東岸)、北の隣国カザフスタン、ウズベキスタンは同じ旧ソ連の国であるが、東南でアフガニスタン、南でイランとも国境を接している。 国土の8割はカラクム砂漠に覆われ、人口が集中するのはウズベキスタンとの国境にあたる北部のアム河沿いと、イランとの国境にあたる南部のコペト山脈北麓、そしてアフガニスタンから流れるムルガブ川沿いに点在するオアシスである。一見不毛な国土であるが、水を得れば豊かな実りが期待でき、また地下には天然ガスや石油が豊富に埋蔵されている。この国の輸出総額の実に8割を地下資源が占めている。 国民の8割は他の中央アジア諸国と同じくテュルク系に属するトルクメン人だが(注・トルコ人=トルコ共和国の国民と区別するため、中央アジアのトルコ系民族に対しては「テュルク」と原語に近い発音で表記する)、他に同じテュルク系のウズベク人や、スラヴ系のロシア人もいる。ただしかつて支配者として移住してきたロシア人に対する現政権の風当たりは強く、ロシア人は減少傾向にある。イランに近いせいか、トルクメン人は中央アジアのテュルク系諸族の中で最もモンゴロイド的形質が少ないように思える。 トルクメン語は中央アジアのテュルク系言語の中では特にトルコ語やアゼルバイジャン語に近い(だから僕にもなんとなく読める)。中央アジアのテュルク系民族の多くはかつて遊牧民だったが、トルクメニスタンの国旗はイスラム教のシンボルである緑地に三日月と五星、そして棹側に遊牧民の特産品である絨毯の文様をあしらった美しいものである。遊牧民の後裔を自負するこの国の特産品には、アレクサンドロス大王や漢の武帝も愛したという名馬アハル・テケもある。 コペト・ダー北麓のオアシス地帯では、アナウ、ナマズガ・テペ、ジェイトゥンといった、紀元前6000年頃以降の初期農耕集落の遺跡が発見されている。南方の西アジア(世界で最初に農耕が始まった地域)から農耕が伝わったと思われ、ここでは夏の増水を利用した原始的灌漑が行われていた。フタコブラクダが家畜化されたのもこの地域だった。 紀元前2000年頃には集住により都市が出現し、ゴヌル・テペ、アルトゥン・デぺ、ダシュリなど、城壁や塔が残る遺跡が見られる。2001年に文字らしきものが刻まれた印章が発見され、このオクサス文化をいわゆる四大文明に次ぐ「第五の文明」とする意見もある。またこの地がインド・ヨーロッパ語族(アーリア人=イラン人やインド人の祖)の原郷と主張する学者もいる。 東のアフガニスタンの特産品であるラピス・ラズリ(宝石)や錫(青銅器の原料)は古代文明が栄えた西アジア・エジプトで珍重されたが、その交易路はこの地も通っていたと思われ、これが後の「絹の道(シルク・ロード)」へと発展していく。 その東西交通の主役となったのは中央アジアの遊牧民だったが、紀元前6世紀に西アジアを制覇したアケメネス朝ペルシアの史料によれば、この地域には「サカ」と呼ばれる集団がおり、ペルシアに服属していた。ギリシャ人に「スキタイ」と呼ばれた黒海北岸の騎馬民族と同族のイラン系遊牧民であると考えられる。 紀元前330年にアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の東征により、この地にも都市を中心にヘレニズム文化が及んだが、間もなくイラン系遊牧民のパルティアが興り、この地を起点にイラン全土を支配する王朝となった。ニサの遺跡がパルティア最初の首都とされているが、今のところそれを思わせる遺構(王墓や王宮)は発見されていない。シルク・ロードの東西交易ではメルヴ(現メルゥ)などのオアシス都市が栄え、仏教やキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教も伝来している。 一時はシリアやイラクで西方のローマ帝国と激しく攻防したパルティアは、224年にササン朝ペルシアに代わられた。中央アジアもその影響下に置かれたが、やがてエフタル(白匈奴)や突厥といった東方遊牧民の活動で弱体化してゆく。 ササン朝は7世紀ににわかに興起したイスラム教徒のアラブ軍に敗れ、最後の王ヤズデギルト3世が651年にメルヴで殺され滅亡した。アラブ人の支配は中央アジアにも及び、住民のイスラム化が徐々に進んでいく。747年にアブ・ムスリムがメルヴで起こした反乱は、ウマイヤ家からアッバース家によるカリフ位(イスラム教スンニ派の教主)奪取のきっかけとなっている。しかしイスラム世界はアッバース朝の混乱と共に分裂、この地方には875年にサーマーン朝が分立した。 イスラム化の一方、中央アジアではテュルク化も進んでいた。上に触れた突厥は中国の北西にいたテュルク系遊牧民の一つであるが、騎馬に優れたテュルク人は時に傭兵、時に移民として西へと遷っていった。その中にトクズ・オグズ(中国史料の「九姓鉄勒」)と呼ばれる部族集団がおり、8世紀末にはアラブ史料にも初出するが、現在のトルクメニスタン人はこのオグズ族を自らの始祖と見なしている。 サーマーン朝は999年にテュルク系遊牧民の攻撃で滅亡したが、やがてそのテュルク系遊牧民の中からトゥグリル・ベクが現れ、他部族を従えてセルジューク朝を樹て、ついにはイランを通ってイスラム世界の中心バグダード(イラク)に入城した。次代のアルプ・アルスランは西進を続けてビザンツ帝国を破り(1071年)、小アジア(現トルコ共和国)のトルコ化や十字軍のきっかけとなったが、彼の死後王朝は次第に衰退し分裂した。 中央アジアはやはりテュルク系のホラズム・シャー朝の支配するところとなり、その都はトルクメニスタン北部のウルゲンチ(現在ウズベキスタンにある同名の都市とは別)に置かれた。しかし1219年に東方から侵入したチンギス・カン率いるモンゴル軍の攻撃を受け、ウルゲンチやメルヴを落とされ滅亡した。モンゴル軍は都市住民を大虐殺し灌漑水路を破壊したというが、モンゴル帝国支配下でむしろ東西交渉は活発化しており、疑問もある。 14世紀後半にはチンギスの後裔を名乗るチムールが中央アジアを統一し、トルクメニスタンを通って連年遠征を繰り返した。しかし1405年の彼の死後その王国は分裂してゆき、中央アジアはテュルク系遊牧民の部族割拠状態に戻る。 アム河沿いにはウズベク族のヒヴァ・ハン国が興ったが、その支配に従わない遊牧民は南方に移住した。彼らは名目上イランのサファヴィー朝に従いつつ、統一国家を持たず部族同士で抗争を続けていた。彼らはトルクメン族と呼ばれるようになり、その統一を謳った18世紀の詩人マフトゥムグル・プラギーは、現在では国民詩人と見なされている。 その頃既にシベリアを征服していたロシアは、19世紀以降中央アジアへの南下を始める。隊商を略奪してロシアの中央アジア開発・交易を妨げるトルクメン族に対し、ロシア軍は1869年にカスピ海東岸に上陸してクラスノヴォツク(現在テュルクメンバシュと改名)を建設し、「ザカスピ(カスピ海の向こう)」と呼ばれたトルクメニスタンへの進出を始めた。トルクメン族の反乱はミハイル・スコベレフ将軍率いるロシア軍によって1881年にギョク・デぺで鎮圧され、7000人が死亡、脱出した8000人も砂漠で遭難した。ロシアによる征服は1894年に完成する。 当時の中央アジアは、南下を続けるロシアと、インドを支配するイギリスとの「グレート・ゲーム」の場となっていた。アフガニスタンが両大国の緩衝国とされる一方、トルクメニスタンはロシアの最前線とされた。1879年にはザカスピ鉄道の建設が開始され、1897年に総督府があるタシケント(ウズベキスタン)まで開通した。またロシア人入植者のために1881年にアシュガバード(現在の首都)が建設されている。 ロシアは中央アジアを綿花供給地及びロシア製綿布や雑貨の独占市場とする一方、住民には本国の倍以上の税を課して収奪した。第一次世界大戦でロシア国内が不穏になった1916年、総督アレクセイ・クロパトキン(日露戦争の際のロシア軍総司令官)の強権支配に対しバスマチ運動が発生した。 1917年にロシア革命が起きると、ボルシェヴィキ(共産党)は当初バスマチと共闘したが、中央で権力を掌握すると鎮圧に転じ、反ボルシェヴィキの拠点となったアシュガバードは1918年に陥落、ボルシェヴィキによる中央アジア支配が確立した。1924年にトルクメン社会主義共和国はソヴィエト連邦内の一共和国とされ、現在の国境はこのとき画定されたものである。 ソ連支配下では、計画経済の名の下に引き続き中央による収奪が行われた。農業が集団化されると同時に、遊牧民に対する強制定住政策が進められた。伝統文化・宗教・民族主義が否定され、1911年に411あったモスク(イスラム教寺院)は30年間で5つにまで減少、文盲率はむしろ上がったといわれ、教育はロシア語中心になった。これに反抗するバスマチ運動は1936年までに鎮圧され、100万のトルクメン人がイランやアフガニスタンに逃亡した。 トルクメニスタンはソ連内で最も貧しい地域に留まっていたが、1950年代にアム河とカスピ海を結ぶ総長1300kmのカラクム運河が建設され、灌漑による大規模な綿花栽培が可能になった。また1960年代に当時としては中東最大の天然ガス田が発見されている。綿花と天然ガスは現在もトルクメニスタンの主要輸出品であるが、この開発は同時にアラル海の縮小、森林破壊など深刻な環境破壊をもたらすことになった。 しかしそのソ連は、冷戦や経済政策の失敗などで瓦解する。1991年10月、トルクメニスタンもソ連からの独立を宣言した。初代大統領には1985年以来トルクメン共産党第一書記の座にあったサパルムラト・ニヤゾフが就任した。 長年ロシア及びソ連の属国であったトルクメニスタンには、部族意識はあっても統一的な民族・国民意識が欠けていた。ニヤゾフはにわか独立国の指導者としてトルクメン民族意識や愛国心を創出する必要があった。ところがその手法として、彼は自己へのいびつな個人崇拝を推進した。彼は「テュルクメンバシュ(トルクメン人の頭領)」を名乗って事実上の終身大統領になり、トルクメン民族の歴史やイスラムの伝統、国民意識を説いた自著「ルーフナーマ(魂の書)」(2001年出版)の講読を国民の義務とした。 外交ではロシアと距離を置き、その影響を排除するため軍事同盟に属さず永世中立を宣言、1995年に国連総会で認められた。またその強みである天然ガス輸出を活用し、アフガニスタンからパキスタンに抜けるパイプライン計画でアメリカと、東方へのパイプラインで中国との関係強化に成功した(上海協力機構には非加盟)。更にニヤゾフは2005年に旧ソ連諸国で構成される独立国家共同体からの脱退の意向も示したが、ロシアはヨーロッパ向け輸出天然ガスの一部をトルクメニスタンに依存していたので、この離反を咎められなかった。その他綿花産業や天然ガス輸出でトルコとの結びつきを強め、また南の隣国イランとの経済関係も増大しているが、国内でのシーア派の布教禁止によりイランの影響力抑え込みを図っている。 天然ガスの富は、一人当たり2700ドル(購買力平価だと5700ドル)という中央アジアでは高レベルの国内総生産、そしてガス代・電気代の完全無料化という形で国民への人気取りにも貢献し、ニヤゾフ個人の気まぐれとも思える幾多の禁令、年金・社会保障の大幅カット(2006年)、反対派への弾圧といった強権政治にもかかわらず、トルクメニスタンの内政は比較的安定していた。 2006年12月、ニヤゾフは後継者を指名しないまま66歳で急死した。世界第3位ともいわれる天然ガス埋蔵量をもつ一方で、人権軽視・汚職国家と非難されているこの国の行方を、関係各国は固唾を飲んで見守っている。
2006年12月26日
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(引用開始)トルクメニスタンの独裁者、ニヤゾフ大統領急死12月21日22時58分配信 読売新聞 【モスクワ=緒方賢一】中央アジア・トルクメニスタンで、旧ソ連時代末期から20年以上にわたり独裁支配を続けたサパルムラト・ニヤゾフ大統領が21日未明(日本時間同日早朝)、死去した。66歳だった。 国営テレビが伝えた。糖尿病と心臓病を患っていた。強権指導者の突然死をめぐり様々な憶測が出ている。極端な個人崇拝に基づく統治が終焉を迎えたことで、後継体制が大きな焦点となった。 葬儀は24日に行われる予定で、ベルドイムハメドフ副首相が葬儀委員長を務める。憲法は国会議長が大統領の職務を2か月間代行すると規定する。しかし、インターファクス通信によると、アタエフ議長は21日、刑事事件の捜査対象となったため、同副首相が大統領代行に就任するという。刑事事件の内容は不明。(引用終了) 我ながら不明なことに、僕はこのニヤゾフという人を去年まで知らなかった。しかも彼が支配する中央アジアの旧ソ連国家の一つトルクメニスタンは、なんと「永世中立国」であるという(1995年の国連総会で決定)。 ところが日本人が「永世中立国」という言葉から連想するイメージとは裏腹に、この国はニヤゾフ大統領に対する異様な個人崇拝が行われ、人権無視が日常茶飯事であるという。「永世中立」というのは要するに旧宗主国であるロシアの影響力排除の方便にすぎず、最近は対米接近のため米軍駐留も検討されていたそうだ(徴兵制による軍も保持)。 日本でも対米従属から脱却したいと考える人の中にはすぐ国連主義を持ち出す人が居るが(民主党とか)、こういう国が国連に永世中立国と認められるんなら北朝鮮も・・・・なんてね。 ドイツのニュース記事を見ると「心臓発作」と書いてあったが、トルクメニスタン政府の発表では単に「心臓停止」と伝えられたという。そりゃ死んだら心臓は止まりますわな。首都のあちこちで半旗が掲げられ、政府系の23紙は全て休刊、また来年の新年祭の中止が発表されている。 憲法の規定で大統領代行になるはずの国会議長が捜査されたり、野党が「大統領は実は三日前に死んでいる」と発言したり(武田信玄じゃあるまいし)と、不可解なことが多い。既に後継をめぐる権力闘争が始まっているとみるべきだろう。ニヤゾフには一男一女があるが、北朝鮮やシリアのような世襲は行われないようだ。 豊富な天然ガスを産出し(その富は大統領周辺に流れているようである)、中国やロシアとの経済協力にも積極的なこの国の南隣はイランである。北朝鮮と同じく米中露の三勢力が接し、核開発問題でゆれるイランの隣国と、きな臭いことこのうえない。後継の政争にはこうした外国の意思も働くだろう。 サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフは1940年アシュガバート生まれ。父親は第二次世界大戦の対独戦争で戦死、母と二人の兄弟は1948年の大地震で死に、彼は孤児となった。学校を出て電気技師となった彼は共産党に入党して頭角を現し、ついに1985年にはトルクメン共産党第一書記となった。つまり彼は現在まで21年にわたりトルクメニスタンの指導者の地位にあったわけである。 ところが1991年にソ連が崩壊すると彼は民主党を設立して共産党を禁止、さらにソ連から独立したトルクメニスタンの大統領に98%の支持で選出された。1992年に大統領選挙(対立候補なし)で99.5%の得票で勝利した(この得票率でどういう選挙かは推して知るべし)。首相職はおかず、大統領による独裁体制を構築した。正式な任期は1997年までだったが二度延長し、1999年には国会(彼の与党と翼賛政党のみが政党として許可されている)によって終身大統領に指名された。ただし欧米の批判に配慮して昨年、2008年から10年に対立候補の立候補を許した大統領選挙を行う、と発表していた。 まあこのくらいなら中央アジアの旧ソ連諸国にはよくあることである。 しかし大きく違うところは、彼は自身を「テュルクメンバシュ」(トルクメン人の頭)と呼ばせ、個人崇拝を推進していた。彼は大統領であり、政府首班(首相)、軍最高司令官、与党党首、国家最高哲学者、国家最高詩人を一人で兼任していた。 トルクメニスタンには金ぴかの彼や彼の父母の像があちこちに立っているという。これくらいならまあ僕もトルコ(ケマル・アタチュルク)やシリア(アサド大統領)で見ているし、首都に高さ40mの金色に輝く金日成像が立つ北朝鮮の例もある。しかしトルクメニスタンでは都市や学校、空港、果ては隕石にまで「テュルクメンバシュ」という名前が付けられている。(ニヤゾフのために多少弁護するとすれば、オアシス遊牧民の「氏族制社会」と共産主義しか知らず、イスラム教や民族といった意識も低かった国民に対し、自立した国民や国家というまとまりを作り上げようとしたのだろうが・・・・。自立ではなくソ連という強力な他者によって解放され、伝統的な両班制度を否定しゼロからの国家建設を目指した北朝鮮が、国家=擬制的親族集団を目指して結局金日成に対する個人崇拝、親子継承に陥ったのと似ていなくもない) さらに甚だしいのは2001年に刊行された彼の著書「ルーフナーマ」(魂の書)で、全国民はこの本を読むことが義務付けられている。隣人愛や道徳について説いたこの本は学校でも教えられ、大人は毎週土曜日にこの本を読むことを義務付けられている。運転免許の取得や大学入試の科目にも、ルーフナーマに関する試験がある(運転免許の場合、試験を免除してもらうには200ドル課金される)。 また月の名前や曜日も、ニヤゾフにより名称が変更された。北朝鮮でも暦に関してはこうしたことはしてなかったと思うが。 1月→テュルクメンバシュ月(ニヤゾフの尊称。「バシュ(頭)」という語に掛けている) 2月→バイダク月(「国旗」の意) 3月→ノウルーズ月(春分の日にあたるイランの新年祭に因む) 4月→グルバンソルタン・エジェ月(彼の母の名。萌え出ずる緑と母性をイメージ) 5月→マフトゥム・クリ月(国民的作家の名) 6月→オグズ・ハン月(トルクメン人の伝説的始祖の名) 7月→ゴルクト月(オグズ・ハンと並ぶ歴史的英雄) 8月→アルプ・アルスラン月(ビザンツ帝国を破ったセルジュク朝の英主の名) 9月→ルーフナーマ月(ニヤゾフの著書の名。発刊日に因む) 10月→ガラシュスズルック月(「独立」の意。独立記念日に因む) 11月→スルタン・サンジャル月(アルプ・アルスランの孫) 12月→ビタラプ月(「中立」の意。トルクメニスタンが永世中立認定された1995年12月の国連総会を記念) 曜日は以下のとおり(「ギュン」はトルコ系言語で「日」の意) 月曜日→バシュ・ギュン(頭の日) 火曜日→ヤシュ・ギュン(若い日) 水曜日→ホシュ・ギュン(良い日) 木曜日→ソガプ・ギュン(祝福の日) 金曜日(変更されず。トルクメン語で「アンナ」=イスラムの聖日) 土曜日→ルーフ・ギュン(「魂の日」。この日に「ルフナーマ」を読むことが義務) 日曜日→デュンフ・ギュン(「安息日」) その他ニヤゾフは首都を除く全国の病院を閉鎖したり(「病人はちゃんとした医者の居る首都に行けばいい」という理由)、彼自身が糖尿病手術で禁煙を余儀なくされたため公共の場での喫煙を禁止したり、映画館、オペラ、バレエ、サーカス、図書館(「田舎の人はどうせ本を読まない」)、ケーブル放送、インターネットを禁止したりと気ままな政策は数限りない。笑い話で済むうちはいいが、この国で大統領を批判することは死を意味しかねない。 2003年にはイスラム教シーア派、バプティスト教会、プロテスタント、ユダヤ教の布教活動が禁止され、イスラム教スンニ派が国教とされている(イランでもこういう法律はない)。国民の一割を占めるロシア人は、2003年に国外退去するかトルクメニスタン国籍の取得を要求された(こうした国粋主義の反面、ニヤゾフ自身はロシア語で育ったためトルクメン語が不得意らしいのだが)。反体制派ジャーナリストが「消える」ことはよくある話で、2002年にニヤゾフの車列が銃撃された直後は反体制派が厳しく弾圧された。 2006年初頭には月70ユーロほどが支給されていた年金制度が改められ、女性は30歳、男性は25歳からトルクメンスタンに居住していた者のみが年金受給資格をもち、そうでない者は今まで受給していた年金の返還が要求されている。また成長した子供がある者やコルホーズ(ソ連時代の集団農場)で働いていた者は例外なく年金受給資格を失う。 北朝鮮と同じく一種の鎖国体制にあるため(外国からの援助も断ることが多い。なお最大援助国はアメリカ、日本、ドイツの順)、この国の多くは謎に包まれているが、この体制がどうなっていくか見ものではある。
2006年12月21日
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(引用開始)<アジア大会>開会式 豪華演出のショーで資金力示す2006年12月2日(土) 12時20分 毎日新聞 【ドーハ来住哲司】1日夜(日本時間2日未明)に当地のハリファ競技場で約4万人の観衆を集め約3時間半にわたって行われたアジア大会開会式。聖火台には、広島市をはじめ過去のアジア大会開催地や中東諸国など15カ国・地域の22都市を回った火がともり、15日間にわたり燃え続ける。開会式のアトラクションは、「カタールの歴史・文化を支えた砂漠と海の合体」と「平和のアピール」をテーマに繰り広げられた。 乾燥した中東地域には珍しく、強風と時折激しい雨が降り注ぐ中、アトラクションでは「男性が真珠を探しに、帆船で航海に出る」との設定の物語が演じられた。日本、インド、カンボジアなどアジア各地の民族舞踊や、64頭の馬にアラブの民族衣装を着た男たちが乗って走るパフォーマンスなどが披露された。バックスタンド側一面に設置した大型スクリーンを背景に、豪華な演出のショーは2時間近く続いた。(中略) イスラム圏の国・地域選手団の中には頭から衣をかぶった女性の姿も目立ち、信仰を保ちながらも競技スポーツへの参加を果たした女性が増えていることを印象づけた。(中略) 聖火リレーの最終点火者は、ハマド首長の息子のモハメド王子。アラブの古代天体観測用機器を模した巨大な円形の点火台に火をともすと、光線が飛び交い、競技場外にある高さ約320メートルのスポーツシティータワーの聖火台に火がついた。 華麗、壮大な演出は、オイルマネーによるカタールの潤沢な資金力をも印象づけた。 ○…聖火リレーの最終点火者は、カタールのハマド首長の息子で、馬術選手の18歳のモハメド王子。競技場内でカタールの有名選手たちがリレーした後、民族衣装を着て馬にまたがった王子がトーチを受け取り、スタンドにしつらえた23度のこう配のスロープを馬で駆け上がった。途中、雨でぬれた斜面に馬がバランスを崩しかけたが、何とか上り切り、点火台に火をつけた。(以下略)(引用終了) へえ、アジア大会ねえ・・・・。そんなのもあったなあ。すっかり忘れていた。 そういえば「ヨーロッパ大会」というの聞いたことがないが、一体となるのが自明のヨーロッパに比べ、他者(ヨーロッパ人)に創作された概念である「アジア」は、その一体感を得るためにはこういう大会も必要なんだろうか、と思ってしまう。旧ソ連の中央アジア諸国が加わったのに対し、「アジア」にあるグルジア、トルコ、アゼルバイジャン、アルメニア、イスラエル、キプロスは参加してないですね(イスラエルは「アラブ・ボイコット」が大きいが)。 つうか日本で「アジア」っていう場合、自明のこととしてせいぜいインドまで、下手すると東アジアのみになってしまうと思うんだが、アジアって元々今のトルコ、しかも地中海岸に限った地域名称だったんですよ。それについては過去に日記に書いたので、今回はパス。 代わってちょろちょろっと調べたカタールの歴史。・・・・・・・ カタール(原語であるアラビア語に忠実に発音すると「カタル」らしいのだが、なんだか病名みたいなのでここでは慣例に従う)はペルシア湾に面する面積1万平方キロ余(秋田県ほど)、人口80万余(福井県ほど)の国である。その国土はアラビア半島(サウジアラビア)から北側のペルシア湾に向かって突き出した南北180km、東西80km程の半島と小島で、海を挟んでバハレーンやアラブ首長国連邦と接している。この二国とはカタールを結ぶ長大な橋とリニア線の建設プロジェクトが進行中である。 国内最高点が110mという平坦な国土はほとんどが砂漠で、時に高さ40mに達する砂丘もある。こうした国土ゆえに農業にはほとんど期待できず、農地は国土の0.4%に過ぎない。陸地が不毛な反面、海は古来さまざまな富をもたらしてきた。珊瑚礁が広がる沿岸には多様な魚がいて漁業が盛んで(鯨やイルカ、ウミガメもいるが漁業の対象ではない)、長らくこの地の特産品であった真珠貝も生息している。 そしてカタールの富の最たるものが、現代人の生活に欠かせない石油と天然ガスである。鉱物資源が輸出総額の8割を占めており、日本が最大の輸出相手国となっている。石油は日産99万バレルで全世界シェアの1.2%に過ぎないとはいえ、この国に莫大な富をもたらしていることは間違いない。カタールの一人当たり国内総生産は4万ドル弱にも達し、社会福祉制度が完備しており教育費や医療費は無料である。人口30万の首都ドーハには現代的な建築物が立ち並び、400haの巨大人工島(ザ・パール)や巨大旅客機エアバスA380型機導入に備えた国際ハブ空港が建設中である。 地下資源産業に従事させるため、カタールはイランやパキスタン、バングラデシュ、インド、スーダンなどから多くの労働者を受け入れている。上に「カタールの人口80万余」と書いたが、そのうち70万人ほどは外国人労働者であり、「生粋の」カタール人(アラブ人)は総人口の15%ほどに過ぎない。公用語はアラビア語であるが、実際には人口の6割がペルシア語やウルドゥ語を母語としており、英語が共通語になっている。外国人労働者を除いて計算すれば、カタールはルクセンブルクを抜いて世界で最も豊かな国であると言われている。 石油に依存するカタールだが、「石油後」を見越して(ただしカタールの石油可採年数はあと40年あるそうだが)天然ガスの開発を進めると共に、金融業や教育研究、さらに観光誘致に莫大な投資をしている。観光の目玉は巨大建築物、ゴルフ、そして競馬、ラクダ競技、鷹狩といった砂漠遊牧民体験といったところだろうか。もっとも、イスラムの教えに則って厳しいインターネット規制があり、ヤフー・グループのサイトなどは見られないとのことだが。 豊富な資金を背景にスポーツ振興にも力を入れており、サッカー国内リーグに有名選手を招いたり、世界的な自転車競技大会を開催するなどしている。今回のアジア大会開催もその一環であるが、さらにオリンピック招致も目指す。日本ではサッカー日本代表の「ドーハの悲劇」(1993年)が有名ですね。 カタールには石器時代に狩猟採集民が住んでいたことが分かっているが、紀元前5000年頃から気候の乾燥化が進み、辺りは一面の砂漠となった。海岸や島嶼では、この地の特産品である真珠や貝紫を採取するために営まれた青銅器時代の集落や、インドと中近東を結ぶ交易船(ダウ船)が停泊した古代・中世港湾の遺跡がいくつか発見されているものの、そうした例外を除けば遺跡はほとんど見られず、長らくカタールは砂漠の遊牧民ベドウィンが時々立ち寄るのみの地となっていたらしい。 16世紀にインド洋交易に乱入したポルトガル人はペルシア湾岸に多くの要塞を築いているが、カタールには全く残されていないことからも、重要度が低かったことが窺える。なお628年にはイスラム教が及んでこの地の少ない住民もイスラム教徒になっている。 1760年頃、ベドウィンの一部族アル・サーニ氏がカタール北西部に移住し、同じくクウェート辺りから移ってきたベドウィンのアル・ハリーファ氏と抗争を繰り広げる。アル・ハリーファ氏が1783年にカタール沖の島・バハレーンを征服してカタール北部を支配したのに対し、カタール東岸にあり当時は一寒村に過ぎなかったドーハを根拠地とするアル・サーニ氏は、真珠採取の中心地ズバラをアル・ハリーファ氏から奪って勢力を拡大した。アル・サーニ氏は真珠利権を狙ったペルシア(カージャール朝)やオマーン、さらにはアラブ人海賊の攻撃も撃退した。この建国は1822年とされている。 1867年、カタールの支配を巡って再びアル・サーニ氏とアル・ハリーファ氏との間で衝突が起きた。アル・サーニ氏はバハレーン攻撃に失敗したものの、当時インド支配を確立しペルシア湾を重視し始めていたイギリスがこの抗争に介入する。アル・サーニ氏と保護協定を結んだイギリスの圧力によってアル・ハリーファ氏はカタール支配を放棄し、バハレーンの支配者として現在に至る。ここにアル・サーニ氏によるカタール統一が完成した。 イギリスのペルシア湾進出に対抗して、イラクを支配するオスマン(トルコ)帝国もそれまで半ば放置していたペルシア湾の経営に乗り出した。オスマン帝国はカタールに軍を送り、ドーハにも部隊が駐留した。オスマン帝国の容喙に対抗するため、アル・サーニ氏は当時アラビア半島に勢力を持っていたイスラム教ワッハーブ派(スンニ派の一派で、イスラム原理主義運動の先駆)に接近した。 オスマン帝国やワッハーブ派の影響力を排除するため、イギリスは1913年に再び介入した。第一次世界大戦の勃発によりイラクがイギリスとトルコの戦場となると、トルコ軍は1916年にカタールから撤退し、カタールはイギリスの保護領となった。イギリスがカタールに自治を認め防衛の援助をする代わりに、カタールは他の首長国との抗争が禁じられ外交一切はイギリスが行うと定められた。 不毛の地であるカタールは特産品である真珠の輸出に依存していたが、1920年代に日本で御木本幸吉が真珠の養殖に成功すると世界の真珠価格が大暴落、カタール経済は大打撃を受け、移住するものが相次いだ。この事態にカタールはやはりペルシア湾の特産品である石油に目をつけ、1935年にイギリスなど西欧資本の石油会社に採掘を許可、同社の調査により1939年にカタールでも良質な油田が発見された。石油の本格的輸出は第二次世界大戦後の1949年に始まり、カタールには莫大なオイル・マネーが流れ込むことになる。 イギリスはイラクやインドの独立を許したのちも、石油権益などの理由からカタールを保護領としていたが、1968 年にスエズ運河以東からの撤収を宣言、ペルシア湾岸の保護領を全て放棄した。これら旧保護領はアラブ首長国連合の設立を協議したが、カタールとバハレーンは参加を拒否し、同年9月3日を以って独立した。 1972年に父親を逐って首長(エミール)位についたハリーファ首長は、1974年に西欧企業の支配下にあったカタールの油田を完全国有化(中東では最初の例)して国家による産業振興に努める一方、絶対君主制はそのまま維持された。1981年にはイラン・イラク戦争で不安定化するペルシア湾岸情勢に対応して、サウジアラビアなどと共に湾岸協力会議を設立している。 1990年にイラクが湾岸協力会議の加盟国クウェートに侵攻すると、カタールはアメリカに協力してイラク包囲網に加わっている。以後カタールは親米路線をとり、アラブの宿敵とされていたイスラエルとも実利的な理由から接触、イスラエルはカタールに常駐の貿易代表部を置いている。1998年にはアメリカ中央軍司令部がカタールに移転したが、2003年のイラク戦争の際にもアメリカ軍の作戦司令部となっている。 1995年、絶対君主制を続けるハリーファ首長はクーデターにより息子のハマドに逐われた。ハマド首長は民主化を進め、2003年に憲法が制定され立憲君主制となり、男女共に参政権が認められた。もっとも、首長の権限は依然強いようである。1996年に設立され先日開局10周年を迎えた放送局「アル・ジャジーラ」は、アフガニスタンやイラクでの独自報道で世界的に注目されたが、首長の資金援助を受けている。 最近の事件としては、カタールに亡命していたチェチェン独立派の元大統領が2004年に爆殺される事件が起き、カタール当局がロシア人3人を逮捕したが、ロシア側の抗議により釈放されている。また今年10月チュニジア政府は、「アル・ジャジーラ」が同国反政府勢力の宣伝を垂れ流している、としてカタールとの外交関係を断絶した。
2006年12月03日
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(引用開始)<シリア>イラクと国交の完全回復で合意 26年ぶり 【カイロ高橋宗男】1980年に始まったイラン・イラク戦争を機に断交していたイラクとシリアが21日、国交の完全回復で合意した。イラク訪問中のムアレム・シリア外相とイラクのジバリ外相が合意文書に調印した。ロイター通信などが伝えた。 イラクからの報道によると、ムアレム外相はシリア国境からイラク国内への武装勢力の侵入を阻止するため、国境警備でイラク側と連携を強化する方針を表明した。両国は治安問題を協議する合同委員会の設置や通商関係の拡大などでも合意した。 国交回復により、イラク政府は国境管理などでのシリアの協力を国内の治安改善につなげたい考えだ。米国のイラク政策見直しを進める超党派組織「イラク検討グループ」はシリアなどとの対話の可能性を検討中とされ、シリアにはイラクとの復交を足場に対米関係改善に道を開く狙いがあるとみられる。 イラクの旧政権とシリアはともにアラブ社会主義政党「バース党」を政権政党としながらも、党の正統性をめぐって対立していた。イラン・イラク戦争でシリアがイランを支持したことなどを受け、イラクは80年10月、シリアとの国交断絶を発表した。両国の通商関係は97年に回復している。(毎日新聞) - 11月21日21時30分更新(引用終了) うーむ。これをきっかけにイラク情勢が好転していけばいいのだが。ただ今年の夏にはシリアの首都ダマスカスでもアメリカ大使館を狙った襲撃事件が起きたりしているし(シリア治安当局によって阻止された)、シリアが協力しても安全になるとは言い難いのかもしれないけど。 イラクでテロを起こしている武装勢力にはスンニ派のバアス党支持者が多いというが、この国交回復で何か影響はあるだろうか。 シリアのアサド政権、そしてかつてのイラクのフセイン政権は共に「バアス党」が政権与党である。「復興」を意味するバアス党は「団結・自由・社会主義」をスローガンとする世俗主義の政党で(イランのような聖職者指導体制の対極)、バアス党が支配するこの両国はアラブ諸国の中でも政教分離が特に進んでいる国だった(サダム・フセインはその政権末期には対米対決姿勢と政権維持のためイスラム主義に傾いていたが)。社会主義といってもマルクス・レーニン主義のイデオロギー・国際主義的体質とは無縁で、アラブ民族主義の色彩が強い。バアス党の支配のほか、軍国主義的傾向や国家指導者による親族縁者の過度の重用(シリアでは親子による権力継承が行われた)といった共通点がこの両国にはある。 1943年にバアス党を設立したのは、フランスのソルボンヌ大学で学んだシリア人ミシェル・アフラクで、シリアで文部大臣を務めたが1966年にバアス党左派のクーデターで国を追われ、やはりバアス党が政権を握っていた隣国イラクに逃げた(1989年にバグダッドで死去)。アフラクを匿ったイラクと、それを追放したシリアの間では、バアス党での正当性を巡って対立が起こる。 同じアラブ人の国であるはずの両国の対立が決定的になるのは1980年のイラン・イラク戦争で、シリアはアラブ諸国ではほとんど唯一、非アラブの国であるイランを支持した。シリアのアサド政権がシリアの少数派アラウィ派(シーア派に近い)出身者で固められスンニ派を弾圧したのに対し、イラクのフセイン政権はやはりイラクで少数派のスンニ派出身者で固められ、シーア派を弾圧していた。そしてイランを指導するのはシーア派の宗教指導者である。 そもそもフセインがイランに侵攻した理由の一つが、前年イランでシーア派信徒が起こしたイスラム革命にあり、自国への波及を恐れた面がある。アラブ民族主義とかイスラムの大義(バアス党は宗教色が薄いが)を標榜しながら、結局は権力者の政権維持の都合で対立した面が大きい。両国は国交を断絶して国境を遮断、1988年にイラン・イラク戦争が終結してもその状態が続く。 しかし湾岸戦争(1991年)でイラクが孤立し、イラクとイランが接近すると、シリアとイラクも国境を開放した。シリアはイラク戦争にも反対した。アサド(父)が死に、フセイン政権が倒された今、両国が仲違いする理由はない。 一方でこういうニュースも。(引用開始)<イラン>大統領がイラク、シリアに首脳会談呼びかけ 複数のイラク連邦議会議員は20日、イランのアフマディネジャド大統領がイラク大統領、シリア大統領にイラクの治安問題などを協議するため首脳会談開催を呼びかけたことを明らかにした。AP通信が伝えた。米国から敵視されるイランは、イラクへの関与を強めることで米国を揺さぶる狙いもあるとみられる。(毎日新聞) - 11月21日11時22分更新(引用終了) 今年の春に「シリアナ」という映画を見たのだが、この「シリアナ」というタイトルの意味が分からなかった。 聞くと「シリアナ」とは、「CIAが実際に使っていると言われる、イラン、イラク、シリアの三国がひとつの国家になるという事態を想定した架空の国のコードネーム」だという。 イランとイラクではシーア派が国民の多数、シリアではシーア派寄りの政権が支配している。やはりシーア派の多いレバノンでは、今年の夏の対イスラエル戦を戦い抜いたヒズボラ(神の党)が絶大な影響力を誇示しているが、その背後にはイランがいるとされる。アンチ・シーア派のフセイン政権が無くなった今、中東でのイランの影響力はますます大きくなっている。 アメリカが3000人近い犠牲者を出し多額の出費と大汗を掻いた結果が、アメリカがもっとも忌み嫌うであろうシリアナの樹立ということになればいかにも皮肉だが、ブッシュ政権は本当にこの程度の事態も事前に予測できなかったのだろうか。「安易なレジーム(政権)・チェンジは外交地図の予測できない地殻変動を起こす」ということの学費にしてはいささか高くつきすぎである。東アジア某国の場合は、周りが大国ばかりでイラクと様子が違うとはいえ、影響が無いとはいえないし。 まあこうなった以上シリアナの樹立を阻止するためにも、アメリカ(少なくともブッシュ政権の間)はむしろイラクに石に噛り付いてでも駐兵を続けると思う。イラクの事態そのものは今やアメリカどうこうでは済まなくなっているようだが。 そういえば去年トルコの発掘現場で、アメリカが2003年にやったこと(フセイン政権打倒)は、紀元前1531年(あるいは1595年)のヒッタイト王ムルシリ1世によるバビロン攻略みたいなもんだ、と先生たちと話し合ったっけな。 ヒッタイト帝国はアナトリア(トルコ)から長躯1200km離れたバビロン(バグダッドの南西)を攻略してバビロン第一王朝(「ハンムラビ法典」のハンムラビ王の子孫)を滅ぼしたが、維持することは難しく結局アナトリアに引き返した。ムルシリは帰国後義弟に殺され、ヒッタイト帝国は一時的な衰退期に入る。 権力の空白地帯となったメソポタミアを制したのは、イラン高原から降りてきたカッシート人で、そのメソポタミア支配は400年続いた。そのカッシートの王朝を紀元前1155年に倒したのもイラン南西部に居たエラム人で、彼らに略奪された「ハンムラビ法典」の石碑が1901年に発見されたのは、イラクのバビロンではなくエラムの都スーサ(イラン)に於いてである。(追記) 直後に入ったニュース。(引用開始)<レバノン>「暗殺連鎖」に不安 対シリアで情勢不安定化も レバノンからの報道によると、ベイルート近郊で21日、反シリア派のジュマイエル産業相(34)の車列が武装集団に銃撃され、同産業相が死亡した。事件は政権を主導する反シリア派と親シリア派が激しく対立する中で起きた。一般市民の間には「暗殺の連鎖」を懸念する声も広がり、情勢が一層不安定化する恐れが出ている。(毎日新聞) - 11月22日12時16分更新<米大統領>シリア、イランを非難 レバノン産業相暗殺で ブッシュ米大統領は21日、レバノンのジュマイエル産業相暗殺事件で声明を発表し、事件との関連には触れずにシリアとイランがレバノン情勢の不安定化を図っていると非難し、「レバノンの独立と民主主義」を守っていく方針を強調した。米国は、事件が民主的に成立したシニオラ政権の基盤を揺るがすことを警戒している。(毎日新聞) - 11月22日12時21分更新(引用終了)
2006年11月21日
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トルコ東部で遺跡調査をしていると、見慣れない丸っこい文字で書かれた碑文や、廃墟となったキリスト教会の跡を見ることがある。これらはかつてこの地に多く住んでいたアルメニア人が残したものである。しかし現在トルコ国内にいるアルメニア人はイスタンブルを中心に僅か6万人程度であるという。またシリア北部の街アレッポでは、アルメニア人街と呼ばれる地域を通ったことがある。当時経済が混乱していた旧ソ連からの買出し客が多く居た。 小学校の音楽の授業で耳にした、速く激しい旋律の「剣の舞」を作曲したアラム・ハチャトゥリアンもグルジア出身のアルメニア人だが、当時はソヴィエト連邦の一部だった。 アルメニア人と実際に会ったこともある。最初はドイツの語学学校でだが、温厚そうな丸顔の彼の国籍はアルメニアではなくイランだった。二人目もやはりドイツでだが、クールな殺し屋といった役柄が似合いそうな風貌の長身の男性である。彼は飲み会で先に帰るとき、一緒のテーブルに居た僕らの飲み代を黙って支払っていた。気障だがかっこいい奴だ、と思った。アルメニアからの留学生である彼は、第一次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺をアピールする団体に加わっていた。 美人が多いと日本でも評判になっているアルメニアの女性には、会ったことはない。 アルメニア共和国は面積3万平方キロ(中国地方とほぼ同じ)、人口300万弱(広島県よりやや多)で、旧ソ連内に15あった共和国の中では最小だった。国土の7割が標高1000m以上という山国で、西でトルコ、北でグルジア、東でアゼルバイジャン、南でイラン及びナヒチェワン(アゼルバイジャンの飛び地)と接している。これら隣国のうちグルジアとアゼルバイジャンが旧ソ連に属する。 アルメニア共和国は小国だが、歴史的呼称としての「アルメニア」と呼ばれる地域はもっと広く、現在のトルコ東部も含まれる。アルメニア人と呼ばれる人々はアルメニア共和国だけでなくトルコやシリア、イランにも居ることはその名残りといえるが、この分布はクルド人のそれと似ている。 アルメニアという国名は民族伝説の英雄アルマナケに由来するというが、アルメニア人は自身を「ハイ」、その国を「ハヤスタン」と呼んでいる。その言語はロシア語やペルシア(イラン)語、クルド語と同じインド・ヨーロッパ語族に属するが、独自な一派をなしている。 古いところでは紀元前2300年頃にメソポタミア(現イラク)のアッカド王ナラム・シンが残した碑文に「アルマニ」という山岳民族が、また現在のトルコ中部に居たヒッタイト人が残した紀元前1400年頃の粘土板文書には東方の「ハヤサ」という国が言及されるが、現在のアルメニア人との関係は分からない。 紀元前9世紀頃、アルメニアの地はウラルトゥ王国の支配下に入った(なおウラルトゥ語は印欧語族ではない)。トルコ東部のヴァン湖周辺を拠点とするウラルトゥは鉄器生産やダム建設で国力を伸ばし、西アジアの大帝国アッシリアの脅威となった。現在のアルメニアの首都イェレヴァンはウラルトゥの都城エレブニに起源をもつ。ウラルトゥは紀元前7世紀頃に北方の遊牧騎馬民族とアッシリアの挟撃にあって滅亡したが、その名はアララト山の名に残ったという。いうまでもなく「旧約聖書」でノアの箱舟が漂着したと記述される標高5165mの名峰で、アルメニアの象徴ともいうべき存在だが、現在はアルメニア国境から30km離れたトルコ領内にある。 その後アルメニアはメディア、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の帝国、セレウコス朝の支配を受けた。セレウコス朝が弱体化した紀元前190年頃、アルタシェス朝やソフェネ朝の下でアルメニアは独立した。紀元前1世紀、アルメニア王国はティグラネス2世の下で最盛期を迎え、その領土をカスピ海からシリアにまで拡大したが、地中海を制覇したローマ帝国に屈し、その宗主権を認めざるを得なくなった。 その後アルメニアはローマ帝国とイラン高原の強国アルサケス朝(パルティア)との狭間にあって双方の干渉が続き、アルサケス朝がアルメニア王位に就いた。3世紀にイラン高原でパルティアがササン朝に滅ぼされた後も、ローマ帝国とササン朝によるアルメニア争奪が続いた。 301年、トルダト3世は大主教グリゴルに帰依してキリスト教を国教とし、アルメニアは世界最初のキリスト教国となった。大国に振り回されるアルメニア人の苦難の歴史にあって、キリスト教はその精神的拠り所となっていく。405年には修道士メスロプ・マシュトツにより独自のアルメニア文字が考案され、現在まで使用されている。 387年にアルメニアはローマ帝国とササン朝の間で分割され、428年には王が退位させられササン朝に併合された。ササン朝はゾロアスター教を強制したがアルメニア人は頑強に抵抗し、キリスト教信仰を認めさせたという。6世紀にはビザンツ(東ローマ)帝国とササン朝の間でアルメニア争奪が続いたが、ビザンツ皇帝は自己を頂点とするギリシャ正教とアルメニア正教(キリストの神性を重視する単性説)との統一を強制しようとして、アルメニア人の反乱を招いている。 640年、アラブ人のイスラム教徒軍はビザンツ帝国を破ってアルメニアを占領した。イスラム教は宗教的にはビザンツ帝国より寛容だったのでアルメニア貴族たちはその支配を認めた。この時代、アルメニアでは哲学、文学、天文学や音楽が盛んになり、「建設者」と呼ばれた大主教ネルセス3世の下、現在世界遺産に登録されているエチミアヂン大聖堂やズヴァルトノツ大聖堂などが大改修された。 イスラム教カリフ(教主)のアッバース朝が衰退した885年、バグラト家のアショト1世はアルメニア王国の独立を達成した(ヴァスプラカン王国)。10世紀末のガギク1世のとき王国は最盛期を迎え、その都アニ(現在トルコ領内)は「1001の教会をもつ都」と呼ばれたが、間もなく内紛により衰退し、再びビザンツ帝国の属国となった。 折しも元来遊牧民だったトルコ人が中央アジアから西進しつつあり、ビザンツ帝国はトルコ人に対する最前線となるアルメニアの防御を強化すべく、宗教対立を抱えるアルメニア人の西方移住を進めた。しかしトルコ人の西進は止められず、1064年にアニが陥落、1071年にはマンツィケルトの戦いでビザンツ帝国は大敗し、アルメニアはトルコ人王朝の支配下に入った。 アルメニア人の一部は地中海沿岸のキリキア地方に小アルメニア王国を樹て(1080年)、十字軍と結んで独立を保ったが、1375年にエジプトのマムルーク朝に滅ぼされ、アルメニア人国家は20世紀まで姿を消すこととなる。 トルコ人の支配下でもアルメニア人は独自性を保ったが、1223年のモンゴル軍の侵入や1400年のティムールの遠征によって国土は疲弊した。トルコ人やクルド人(共にイスラム教徒)の移住によって、15世紀初めにはアルメニア人が少数派に転じた地域もあった。 1500年にはトルコ人のオスマン帝国(スンニ派)とイランのサファヴィー朝(シーア派)がアルメニアを東西に二分する。サファヴィー朝のアッバース1世は1604年に25万人のアルメニア人をイランに強制移住させており、イランには今もアルメニア人コロニーが残っている。一方オスマン帝国の領内では、アルメニア人はユダヤ人と並んで商業に活躍し、帝都イスタンブルには多くのアルメニア人が住みついた。 18世紀に西欧式近代化を行って興隆したロシア帝国は、19世紀に入るとキリスト教徒の守護者を自負して南下を進める。1828年、イラン支配下のアルメニア(現在のアルメニア共和国の領域)はロシアに割譲された。ロシア・トルコ戦争後の1878年にはオスマン帝国支配下のアルメニアも一部(カルス地方)がロシアに割譲された。 ロシアの南進に呼応するように、オスマン帝国内のアルメニア人には、ヨーロッパの民族主義や啓蒙思想に触れてアルメニア人意識に目覚める者が現れた。独自の文字・文学やキリスト教徒意識が民族意識を高め、トルコ人やクルド人に対する抵抗運動が起きた。しかしこれに対する反作用(トルコ民族主義・イスラム主義)としてアルメニア人に対する弾圧が強まり、1894~96年に最初の虐殺(推定犠牲者20万という)が起きた。多くのアルメニア人が欧米に移住するのはこの頃からである。 1914年に第一次世界大戦が起きると、ロシアは連合国に、オスマン帝国は同盟国に参加、ロシア軍がトルコ領内に進撃する。このことはトルコ領内のアルメニア人を微妙な立場に置くことになった。アルメニア人が同じキリスト教徒のロシアに通じることを恐れたオスマン帝国は、翌年4月24日に迫害を開始する。この戦争中に続いた迫害の結果、150万人のアルメニア人が組織的に虐殺され、また多数が移住・逃亡やイスラム教への改宗を強いられたとされる(虐殺についてトルコ側は認めていない)。 大戦中の1917年にロシア革命が起きると、アルメニア人は翌年5月にアルメニア共和国の独立を宣言した。さらに同年10月、トルコは連合国に降伏、戦勝国が定めた1920年のセーヴル条約では、およそ500年ぶりのアルメニア国家復活が認められた。ところがロシア革命後の内戦で共産党が勝利し、敗戦国トルコで国民会議が主導権を握ると、双方は講和してアルメニアを南北から挟撃、1920年11月にエレヴァンは共産党軍の手に落ちた。 翌年共産党とトルコはカルス条約を締結して、アルメニアに属したカルス地方のトルコへの割譲を定めた。1922年、共産党はソヴィエト連邦を建国し、アルメニアはザカフカス社会主義共和国の一部とされた。1936年にソ連は憲法を改正してアルメニアは共和国に格上げし、現在のアルメニア国境が画定される。 ソ連体制下のアルメニアでは化学工業が発達し、第二次世界大戦後にソ連が打ち上げた宇宙ロケットの部品の多くがアルメニアで生産されていた。温暖なアラクス川沿いの農業開発も推進され、とりわけ19世紀に生産が始まったアルメニアのブランデーは、その芳醇さと柔らかな喉ごしで世界的名声を得ている。 しかしソ連の計画経済は1980年代には完全にゆき詰まった。2万5千人が犠牲になった1988年12月7日のアルメニア大地震は、はしなくもそれを露呈した。元より貧弱だったインフラは完全に麻痺したうえ寒波が到来、重工業重視のあまり民生を軽視していたソ連政府は、初めて外国の援助を受け入れざるを得なくなった。 ソ連の弱体化が明白になると、抑えつけられていた民族主義が噴出した。隣国アゼルバイジャン領内のナゴルノ・カラバフ(アルツァフ)自治州は元来アルメニア人の多い地域だったが、1988年以降その支配をめぐってアルメニア人とアゼルバイジャン人は激しく衝突した。アゼルバイジャン人がトルコ系民族であることも、アルメニア人の敵愾心を増幅した。 1991年にソ連が崩壊すると、アルメニアとアゼルバイジャンはそれぞれ独立したが、両国の紛争は続いた。大統領に選出されたシリア出身のレヴォン・テル・ペトロシャンはアルメニア民族主義を鼓舞して国民の団結を図り、ロシアやイランの支援を受けたアルメニア軍はナゴルノ・カラバフと本国を結ぶ地域を占領した。数十万の難民を出したこの戦争は1994年に停戦したが、現在もなおアゼルバイジャン領の6分の1はアルメニア占領下にあり、両国に国交は無い。 1998年、テル・ペトロシャン大統領はアゼルバイジャンと妥協しようとしたため辞任に追いこまれた。後任は首相だったロベルト・コチャリャンだが、彼はナゴルノ・カラバフ出身である。2006年、憲法が改正され議会の権限が強化された。 隣国アゼルバイジャンと対立する上、トルコとは歴史問題や国境問題(アルメニアはカルス条約を認めていない)で国交が無い。北のグルジアはロシア(アルメニアの友好国)との国境が事実上塞がれている。こうした孤立環境はアルメニア経済を著しく圧迫し、アルメニアの一人あたりGDPは911ドルと低く、国民総生産の2割はロシアやアメリカ、フランスなどに数百万人いる在外アルメニア人からの送金によるという。民族意識の強さとは裏腹に、国外に移住する者も多い。 産業では宝石加工業が盛んで、イスラエルとの貿易量が大きい。
2006年10月24日
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最近日記が回想モードになりつつあるが(笑)、このニュースについて。(引用開始)トルコ古都で邦人ツアーバス横転、1人死亡・2人重体 【カイロ=柳沢亨之】アンカラの日本大使館などに入った連絡によると、トルコ中部コンヤの西約20キロの交差点で17日午後7時半(日本時間18日午前1時半)ごろ、日本人観光客24人と日本人添乗員1人を含む計27人を乗せたバス1台がスリップして横転した。(後略)(読売新聞) - 10月18日14時37分更新(引用終了) 日本人観光客がトルコで交通事故にあったというニュースは以前にも聞いたことがあるが、トルコへの日本からの観光客が激増しているという現在ならば、こういう悲しいニュースに接することがあるのも無理ないかもしれない。トルコ旅行というと睡眠薬泥棒とか強盗、クルド人分離主義者のテロとかを心配する人もいるだろうが、僕に言わせればテロや泥棒に遭うより交通事故に遭う確率の方がよほど高いからである。 作家の村上春樹は1988年にトルコを車で一周して「雨天炎天」という紀行を書いているが、その中でトルコ南東部の道路のデタラメぶりを記していたと思う。その後90年代にトルコでも高速道路網が整備され、道路事情そのものはだいぶ良くなっているのだが、トルコの経済成長に伴って自動車も爆発的に増えているし、トルコ人の運転マナーの滅茶苦茶ぶりは相変わらずなので、人口に対する交通事故発生率は世界でもトップクラスと言っていいのではないだろうか。 トルコという国は日本の倍の面積がある。その割には鉄道網が極めて貧弱で(トルコの山がちな地形のため、鉄道建設が困難)、移動・輸送手段はいきおい自動車が中心となる。 その道路はというと、主要路線では高速道路網がほぼ整備されたのだが(料金のせいかイスタンブル周辺を除いていつもガラガラだが)、支線や田舎に行くとどうしても道が悪い。しかもコンヤのある中央高原は夏は40℃近いカラカラの酷暑、冬は雪が積もる酷寒の地である。一日の中でも寒暖の差が激しいのでアスファルトがぼろぼろになって路面が穴だらけになったりする。もちろん修理はしているのだが追いつけるものではない(さすがに高速道路ではきちんと直している)。またコンヤ平野などはなだらかな丘陵地帯と岩山が繰り返すだけの荒涼とした単調な景色と真直ぐな道が続き、運転していて注意が散漫になりやすい。 そしてその道路を走っている車が様々である。今回事故を起こしたような高速バスはベンツや三菱の最新鋭のバスを導入していて、性能や整備に全く問題はない(乗り心地もサービスもいい)。しかし周りを走る自家用車やトラックは整備不良や老朽化した車が多く、坂道になるとトラックが黒煙を吐きながら気息奄々で這っている光景を目の当たりにする。しかも地方だと農道と兼用になっていたりするので、のろのろと走るトラクターや巨大な刈り入れ機、やたら停車するドルムシュ(近距離乗り合いバス)、馬車(最近は少ない)、そして羊・牛の大群や獰猛な牧羊犬、ロバなどが路上に現れる。様々な性能や速度の乗り物がそれぞれのペースで道を走ることになる。 そして最悪なのはトルコ人の運転マナーである。スピード狂なのはドイツ人と同じだが、決定的に違うのは運転が滅茶苦茶な人が多いこと。パッシングして煽るわ道を譲らないわ、二重追い越しなどもあったりする。速度超過しているからぶつかったら大惨事になる。またトラックは過積載が多く、夏の収穫の時期になるとジャガイモや小麦粉袋をうずたかく積み上げた老朽化したトラックが走り回る。都市やその周囲では交通警察が取り締まりもしているんだろうが、かなり恣意的でそれほど熱心とも思えない。警官の主要な収入源とさえ思えるセルビアでの速度違反取締りの熱心さとは、目的は同じでも熱心さがちょっと違う。 僕はもう10年くらいトルコと日本、あるいはトルコとドイツの間を行き来しており、訪問目的が目的だけに田舎に行くことも多い。今までに二回交通事故に遭遇したので、その顛末を書いておこうと思う。先に言っておくが、二度とも僕は無傷だった。 最初はアンカラからイスタンブルに向う高速バスでのこと。アンカラのバス・ターミナルを出てやや混み気味の高速道路に乗って少し走っていると、合流で車線変更した時に前を走っていたタンクローリーと接触した。スピードが出ていなかったので少し凹んだだけで済んだのだが、運転手のほうはそれで済まない。車を路肩に停めて双方の運転手が口論を始めた。バスの乗客も加勢して口論は白熱する。しかしバスの方はお客をイスタンブルに送り届けないといけないので、口論を打ち切って発車しようとした。するとタンクローリーの運転手が激怒してバスに飛びかかったり靴を投げ付けたりした。 狂乱する運転手を尻目にバスは発車したが、なんとタンクローリーの運転手は携帯電話で仲間を呼び、その車でバスを追跡し追い越し、窓を開けて何か悪態を叫び続けている。バスの乗客は何をされるかと恐々で半ばパニック状態になり、携帯電話で警察に電話しようとする。しかしバスの窓は電波を遮るらしくうまく繋がらない。「あいつらケモノみたいだ」と乗客は怯える。 さらに運悪く料金所があって止まらないといけなかったので、口論第2ラウンドが開始される。トルコ人(やアラブ人)のこと、喧嘩は先に手を出したら負けなので手は出さないが、口角泡を飛ばし、手がジェスチュアで激しく上下し、乗客や運転手の仲間も参戦しての激論になる。折よく白バイがいたのでそこでなんとか収まった。しかしバスは予定より2時間遅れて、真夜中にイスタンブルに着いた。 上の話はまだ笑い話で済むが、次はシワス県の田舎道でのこと。 久々の休日というので車で一時間半のところにある街(シワス)に、隊員全員でジープで出かけた。僕は後ろの荷台に座っていた。一台のドルムシュ(乗り合いバスのワゴン車)が凄まじいスピードで僕らのジープ(運転していたうちのドイツ人の先生もスピード狂なので、少なくとも100kmは出ていた)を追い越していく。道は小麦畑を貫通する対面通行の舗装道路(路面はあまりよくないが一応鋪装してある)。しかしこのくらいのスピードはトルコでは珍しいことではない。 次の瞬間、衝撃音と共に追い越したばかりのワゴン車が大きく回転した。僕らの車は危うく巻き込まれそうだったが車間距離があったので大丈夫だった。後部座席に座っている僕には何がなんだか分からない。車が停まると、先生や一緒に居たドイツ人の学生たちは真っ先にドルムシュに向って走っていく。僕は事故の犠牲者を見たくないので一瞬躊躇したが、周りがそうするので仕方なく付いて走っていく。ドイツ人には兵役経験者も多いので(兵役忌避しても病院勤務に回されることが多い)、こういうとき動きが妙に機敏である。周りを見るとトラクターが停まっており、側道から出てきたトラクターにこのワゴン車が猛スピードで激突したものと見えた。トラクターの運転手は座席から放り出されて路上に転がっていたようだ。 ワゴン車のドアが開いて血まみれの子供が飛び出して来て、「ババ(お父さん)!ババ!」と泣き叫んで車の窓を叩いている。僕は開いたドアから別の子供を引っぱりだして抱き上げ、道ばたに寝かせた。子供は外傷は見当たらず意識があり痛そうな表情だが、泣き声を出さない。泣けないくらい痛いのだろうか。さらにドアを覗き込むと、運転席と助手席の間になぜかお婆さんが逆さまになって挟まっている。衝突の衝撃で後部座席から一番前まで飛ばされたのだろう。後部座席の人がシートベルトなどするわけもない。 恐る恐る運転席のほうにまわって見ると、運転手は目を見開いたまま呼吸している様子がない。助手席の男は頭から大量の血を流している。一緒に居たドイツ人のM(兵役経験者)が運転手を引っぱりだし、心臓マッサージや人工呼吸を試みている。周りには近くの村から衝突音を聞いて集まってきたトルコ人や走りかかったトルコ人たちが口々に騒いで怒号している。口ばかり動いてあまり手が動いていないように見える。ワゴン車には9人が乗っていた。 こんな田舎だから救急車や警察が来る訳もない。軽傷者は村の診療所に運ばれたが、鼻や口から血を大量に流している人は僕らの乗っていたジープで街の救急病院に運ぶことになった。そうすると僕らの座る席が無くなったので、僕と学生数人が事故現場でジープの帰りを待つことになった。トルコが初めてのドイツ人学生は「こういう時ドイツでは、救急ヘリコプターが来るんだが、トルコにはそういうのはないのか?」と僕に聞く。「ない」と答える。日本にだってあまりないだろう。 事故から10分?くらいで村のジャンダルマ(憲兵隊)のジープがが到着して、将校らしい軍人が近寄り、僕らを事故に巻き込まれたと勘違いして「ゲチミシュ・オルスン(ひどい目に遭ったね)」と声をかける。「事故に遭ったのは僕らじゃない」と言って、事故状況を説明した。田舎での警察権は警察ではなく内務省配下の軍隊である憲兵隊にある。 僕らの乗っていたジープで運ばれた人は一命を取り留めたようだが、この事故で死者が一人か二人(両方の車の運転手か)出たと後で聞かされた。スピード狂のうちの先生はさすがにその後しばらくはスピードを抑え気味だった。 僕は小さい時一度車にはねられそうになったことはあるが(鼻血で済んだが、あとで父親に凄まじく叱られてそっちのほうが怖かった)、こうも凄まじい事故を目の当たりにしたのは初めての経験だった。その後は幸いにも車のトラブル(ギア故障やパンク)に悩まされても事故に遭ったことはない。 ツアーでトルコを旅行する時はバスに乗ることになるし、確かバスにはシートベルトも付いていないように思うが(普通車はシートベルト着用義務があります、念のため)、普通は自分で運転することはないだろうから旅行者は気のつけようがない。自分で運転する方はくれぐれも注意して欲しい。BRICSに次ぐ経済成長センターとして注目されているトルコでは、交通環境の改善が急務である。まあ来年1月のEU加盟が正式決定したブルガリアの方が、道路整備状況はトルコよりもはるかに悪いのだが。
2006年10月18日
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(引用開始) ノーベル文学賞はトルコのオルハン・パムク氏 【ストックホルム=本間圭一】スウェーデン・アカデミー(本部・ストックホルム)は12日、2006年のノーベル文学賞を・トルコの作家オルハン・パムク氏(54)に与えると発表した。 トルコ人の同賞受賞は初めて。同アカデミーは授賞理由として、「異文化の衝突と混合の新たな象徴を見いだした」と指摘した。賞金は1000万スウェーデン・クローナ(約1億6600万円)。授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれる。 パムク氏は、イスタンブール生まれ。82年にデビューし、17世紀のイスタンブールを舞台にした「白い城」(85年)で国外でも評価を高め、「黒き書」(90年)や「新しき人生」(96年)ではトルコの古い文化を描いた。西洋と非西洋の文化の違いを描いた「わたしの名は紅(あか)」(2000年)、イスラム原理主義と世俗主義との対立を示した「雪」(02年)は日本でも翻訳されている。(引用終了) 今年のノーベル文学賞には日本の村上春樹も候補に上がっていたが、同じく下馬評にあがっていたトルコの作家オルハン・パムックに決まった。トルコ人のノーベル賞受賞は初めてである(1963年に文学賞を受賞したG・セフェリスはイズミル生まれのギリシャ人だそうだが)。日本人の多くは「誰だそれ?」と思っているだろう。まあ先日ナチス親衛隊への所属を告白した同じノーベル文学賞のギュンター・グラス(ドイツ)だって日本での知名度は随分低いと思うんだが。 パムック氏は昨年も受賞候補審査に最後まで残っていたが、結局イギリスの劇作家ハロルド・ピンターに決まった経緯がある。それはパムック氏がまだ53歳と若過ぎる事(ノーベル文学賞は一作品ではなく作家の生涯を通じての創作活動に対して与えられる建前である)、そして何より、彼が祖国のトルコである刑事事件で公判中であり、ノーベル賞授与が政治問題化するおそれがあることが問題視された。まあイラク戦争を痛烈に批判したピンター氏への授賞だって十分政治的な気もするのだが。 それはさておき、実をいえば僕はパムック氏の作品を読んだ事もないし、その名前も去年になって初めて知った。昨年フランクフルトの図書見本市で平和賞を受賞したパムック氏への、ドイツ誌「シュピーゲル」のインタビューが掲載されていたからである。あと去年の9月に僕はトルコの首都アンカラに居たが、パムック氏も関わるトルコの「歴史認識問題」がちょっとした騒ぎになっていることをテレビのニュースで見た。イスタンブルで開かれた何かの写真展覧会にいわゆる右翼の男が乱入して暴れ回っている映像だった。 パムック氏の受賞はトルコにとっては喜ばしい事だとは思うのだが、素直に喜べない面もあるのではなかろうか。というのは、上に引用した新聞記事には載っていないが、パムック氏は第一次世界大戦中のオスマン(トルコ)帝国によるアルメニア人虐殺事件に関する発言でトルコ検察から「トルコ性への名誉毀損」という、いわば国家反逆罪と似たような罪で訴追されているためである(トルコ刑法301条に基づき、懲役3年を求刑)。 ちなみにその公判は手続きの不備を理由に今年一月起訴が取り下げられた(法務大臣判断による)。言論の自由が守られていることを示したいトルコ政府の意向による。この他パムック氏の発言に反対するトルコ民族主義者によるデモ行進や脅迫、マスコミでの攻撃も行なわれている。 第一次世界大戦中、オスマン帝国は自領内にいるアルメニア人を大量に虐殺したとされている。それについては過去の日記で書いたし、あるいはこちらのページを参照願いたいが、パムック氏は過去のインタビューで「三万人のクルド人と百万人のアルメニア人を我々は虐殺した。私のほかに誰もこのことについて言及する勇気はなかった」と発言、これが「トルコ性への名誉毀損」という罪に問われ起訴された。 現在のトルコ政府はオスマン帝国によるアルメニア人の追放・強制移住については認めているものの、アルメニアが主張するようなアルメニア人250万人の計画的虐殺については真っ向から否定している。隣接するトルコとアルメニアにはこの歴史認識問題があるため今も国交がない。またEUはトルコの加盟の条件としてこの「歴史問題」の解決を条件とする動きを見せており、トルコ側は反発している。なおパムック氏自身はEU側がトルコがキリスト教国ではない事を理由に加盟に消極的である事には反発する立場をとっている。 パムック氏は1952年、トルコのイスタンブル生まれ。祖父は鉄道技師で裕福な家庭であり、イスタンブルのニシャンタシ地区に住む大家族で育った。トルコの富裕な都市住民層の多くがそうであるように、彼の家族も西洋寄りのケマル主義(政教分離)の思想を持っていた。彼は少年時代に画家を志したが、祖父の書斎にあるマン、トルストイ、ドストエフスキー、カフカなどの作品に親しんでいた。イスタンブル工科大に入学し建築学を学んだが、途中でジャーナリズムに転じている。 23歳で作家を志し、1982年「ジェヴデットさんと息子たち」でデビュー。1982年から三年間、夫人の留学に同行してアメリカに住み、その間「黒い本」を発表。その後も故郷イスタンブルを拠点として「白い城」(オスマン時代を舞台としており、ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」の影響が見られる歴史物)、「私の名は赤」、「雪」(東部の僻地カルスを舞台として、民族対立や宗教と世俗主義の対立を描く)などの作品を発表している。 その作品は西洋と東洋(イスラム)の狭間でアイデンティティに苦しむトルコ社会を描いたものや内省的なものが多く、ブラックユーモアや警句、具体的な視角表現の一方で、イブン・アラービーやアル・ハラジといった初期イスラムの詩人やユヌス・エムレ、ルーミーやニザーミーのようなスーフィズム詩人の語り口が特徴であるという。その作品は35ヶ国語に訳され、100ヶ国以上で発売されている。 人権を重視する政治的立場でも知られており、イランのホメイニ師が「悪魔の詩」を発表したサルマン・ラシュディに死刑を宣告したときも、イスラム世界の作家としては最初にホメイニ氏のファトワ(宗教令)を非難した。またアメリカの行なう対テロ戦争に理解にも批判的である。ナショナリズムや過激派にも批判的で、トルコ当局に訴追される原因となったアルメニア人虐殺問題に関する発言は、2005年2月5日付のスイス誌「ターゲスアンツァイガー」とのインタビューで行なったもの。 この発言に対してトルコ民族主義者による攻撃が続き(ウスパルタ県ストチュラル郡では彼の著作を処分する条例が可決されたが、同地では彼の本が売られていなかった)、検察からも訴えられたが、アムネスティ・インターナショナルやEU、そしてドイツ国会などはこの裁判を非難した。反政府的立場がいわれるパムック氏だが、EU加盟を目指すトルコ政府にとって扱いにくい人物であるには違いない。(追記) トルコ政府はパムック氏の受賞を祝福する声明を出した。一方でパムック氏を起訴した検察官は「この授賞は政治的な理由によるもの」と非難している。 アルメニア作家協会やベルリン芸術アカデミーもそれぞれ「作家の道徳心と賞が結びついた」「反ナショナリズムや文明間の対話に対する栄誉」などとこの授賞を歓迎する声明を出している。やはり受賞が作家の政治姿勢と結び付けられているような論調だが、パムック氏の作品自体への評価を逆に下げはしないだろうか。
2006年10月12日
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(引用開始)<レバノン>イスラエル特殊部隊とヒズボラ交戦、双方に死者 イスラエル軍の特殊部隊が19日未明、レバノン東部の町ボダイでイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラの拠点を急襲しようとしたところ、武装勢力と交戦になり、ヒズボラ側の3人が死亡、イスラエル兵1人も死亡し、2人が負傷した。停戦が14日に発効して以来、表立った衝突は初めて。(毎日新聞) - 8月19日20時2分更新(引用終了) イスラエルとしては、予想外に装備に優れたヒズボラの戦闘力覆滅を果たせぬままいささか中途半端なところで攻撃を中止した格好なので、こういうことは起きるとは思っていたが。(引用開始)<レバノン>住宅被災の市民にヒズボラが支援活動 イスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが、イスラエル軍の攻撃で自宅を失った市民に対する支援活動を本格化させている。同組織の指導者ナスララ師は停戦が発効した14日に「1年間の住宅賃料と家具購入費の支給」を表明。既に一部で支払いが始まっており、ベイルートのヒズボラの拠点では18日、市民が登録作業を行った。(毎日新聞) - 8月19日0時23分更新 (引用終了) レバノンは前に書いたように様々なキリスト教・イスラム教の宗派から成り立つモザイク国家であるが(大部分は言語的にはアラブ人だが)、大雑把に言うと最も数の多いシーア派は南部や東部といった都市の少ない地域に分布しており、また都市部の貧困層を形成している(仕事を求めて都市に流入した)。反対にキリスト教徒(マロン派)やドルーズ派はかつての支配者オスマン帝国やフランスに重用されていただけに経済的な既得権益を得ており商売にも長けている。 さてイランの肝いりで創設されたヒズボラ(神の党)は、当然シーア派住民の支持を得ているわけだが、単に宗教的情熱で支持されているわけではなく、こうした「福祉」活動によって支持を拡大している(金はイランやシリアから出てるんだろうか)。これはパレスチナにおけるハマスと全く同じ構図である。例えばアメリカや日本といった「善意の」外部の人が入り込んで支援するのとは違い、よりきめ細やかで直接的な支援をする。 かつての十字軍の時代に組織された様々な騎士団が聖地エルサレムの護衛のほか、巡礼や病人の保護といった役割を負っていたのと好一対で、「イスラム原理主義」というと「爆弾を抱えた狂信集団」というイメージと裏腹の「優しい」面も持っている。まあこうした人気取りによって自爆テロ志願者を集めているというのもまた事実だが。・・・・・・・・ 日本のニュースソースにはないようだが、あるヴィデオ画像が公開されて波紋を広げている。 8月10日、ヒズボラが110発のロケット弾をイスラエルに撃ちこみ、一方イスラエル軍がレバノン領内深くに侵攻していたその日のこと。イスラエル国境から8km、レバノン南部の戦略上の要衝マルジャユンにもイスラエル軍の戦車が迫っていた。そこには350人のレバノン兵が駐屯していた。 レバノン軍は抵抗せずに白旗を掲げ、イスラエル兵を基地に招く。レバノン軍の指揮官アドナン・ダウード将軍は基地の応接室でイスラエルの指揮官に茶を振舞った。雰囲気はとても友好的で、とても「侵略者」イスラエル軍と「敗残し疲弊した」レバノン軍といった感じではない。 ダウード「このことを上司に報告しないといけないかね?」 イスラエル士官「いつものように報告すればいい」 ダウード「起きたことは全部報告することになってるんでね」 イスラエル士官「我々はブッシュ(大統領)に手紙を書いたよ。あんたも誰にでも手紙を書けばいい」 ダウード「じゃあ俺もブッシュに手紙を書かないとな」 その後ダウードは4時間にわたってイスラエル軍に駐屯地を案内し、引き渡した。 この「お茶による接待」と会話の様子はイスラエルの「チャンネル2」で放映され、さらにレバノンでもヒズボラ系放送局によって放映された。ヒズボラはこの将軍を「裏切り者」と非難した。ダウード将軍は国交の無いイスラエルの人間と接触したというので職を剥奪され逮捕されたという。 このビデオで分かるのは、どうも「レバノンの悲劇」という報道の一方で(空襲で一般市民が多数犠牲になったのは間違いないが)、レバノン軍にしてみれば「この戦いはイスラエルとヒズボラが勝手にやってること」という意識があることである。そもそもヒズボラはイランやシリアの支援で勝手にレバノンに国家内国家を形成して激しくイスラエルと戦っているが、自分たちは与り知らぬという態度である。ちなみにこのマルジャユンにはキリスト教系住民が多く、また近くにヒズボラ兵はいなかった。またイスラエル側は事前にレバノン諜報部の通報により、レバノン国軍は無抵抗であると知っていたようだ(ちなみに「アル・ジャジーラ」では全く逆に、ここで激戦が行われてイスラエル兵二人が死亡したと伝えている。どっちが本当なんだろう)。 ヒズボラの勢力が大きいのでレバノン軍はヒズボラに手が出せないが、シーア派はともかく、キリスト教徒やスンニ派のレバノン人には、ヒズボラの「聖戦」はいい迷惑くらいにしか思ってないのではないだろうか(このレバノン軍部隊が何派の人間で構成されていたのかは知らないが)。 まあこの不統一ぶりこそがレバノンを象徴しているとも言えるし、強い相手に対してはまるで戦争をやる気がないというのは、フェニキア人以来の知恵だろうか。 ところ変わってドイツのニュース。ドイツでもレバノン紛争は無縁ではないようだ。(引用開始)<ドイツ>7月末に列車爆弾テロ未遂 男2人の映像公開 【ベルリン斎藤義彦】ドイツ連邦警察は18日、独北部を走る列車の中で7月末、トランクに入った爆弾が2個発見されたが、不発に終わったと発表した。爆弾は爆発力が高く、警察は殺人未遂容疑で捜査している。トランクの中からはレバノンの電話番号が書かれたメモが見つかっており「独国内の容疑者がレバノン攻撃へのメッセージを発しようとした」との見方が出ている。 警察によると、爆弾は7月31日、独北部ハム行きとメンヒェングラードバッハ行きのローカル列車の中で発見された。それぞれ重さ25キロ。時限装置が起動したが、「何らかの技術的なミスで爆発しなかった」としている。 トランクの中からはレバノンの電話番号のメモのほかレバノン製のコーンスターチの袋、レバノン製ヨーグルトの名前が印刷された買い物袋が見つかった。ただ、買い物袋などは独国内でも入手できるため捜査当局は、独国内のグループがテロを行おうとしたとみている。 警察は独西部ケルン中央駅に設置された監視カメラに20~30歳代の男2人が爆弾入りのトランクを運んでいる映像を公開した。(毎日新聞) - 8月19日10時48分更新 (引用終了) 連邦犯罪捜査局(BKA)が犯人映像を公開して一日後の今日午前4時ごろ、北ドイツ・キール駅内のドネルケバブ店の前で容疑者のうち一名が警察によって逮捕された。 この毎日新聞の記事には書いてないが、防犯ビデオに写っていた男はドイツ代表のユニフォーム(ミヒャエル・バラックの背番号13)にジーパンをはいた中東系の若者だったのだが、この逮捕された男性も中東系でおそらくレバノン人、そして年齢は20代であろうとのこと。学生という情報もあるこの人物の家は現在家宅捜索されている。 事件の背景はまだ明らかではないが、仮にレバノン人だったとして、一体犯人たちはどういうつもりでドイツでテロを起こそうと考えたのだろうか。しかもローカル線の鈍行列車にである。イスラエルのレバノン攻撃に反対するテロだと考えられているが、ドイツの無関係の人を殺して(爆発していれば昨年のロンドンでのテロ並みの被害になったと想像される)何か得るものがあるのだろうか。 確かに歴史的経緯もあってドイツ政府はイスラエル非難に及び腰で「イスラエルに加担」していると連中には見えるのかもしれないが、ドイツの世論は圧倒的に「イスラエルはやりすぎ」とレバノンに同情的である。こんなテロを起こすとむしろドイツ世論すら敵に回しかねないと思うのだが、それとも「文明の衝突」でも狙ってわざとやってるんだろうか。 ドイツ国内にもレバノン人は多い。留学生もいれば、レバノン内戦の際に難民として移住してきた人も居る。911テロの容疑者の多くがドイツ留学組だったし、そして先日のイギリス航空機テロ未遂事件でもそうだが、テロの危険が自分たちの社会の奥深くに巣食っている、とヨーロッパ人たちは衝撃を受けていると思う。ショイブレ内相もさらなるテロ計画の可能性を警告しているが、中東系市民への風当たりが強くなったりするんだろうか。それではテロ犯の思うつぼだろうけど、非常に難しい時代になったものだ。
2006年08月19日
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レバノンにはだいぶ前にシリアから三日間だけ行ったことがあるが、当時レバノン北部は半ば隣国シリアによる占領下にあった。あちこちにアサド大統領の肖像を掲げたシリア軍の検問所があり、かつて「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルート(人口200万人)にはまだ内戦(1975~90年)の傷跡である弾痕やロケット弾による大穴が建物に生々しく残っており、僕らのお目当ての国立博物館も閉鎖中だった。 それでも当時のハリリ政権の主導する復興建設ラッシュ下にあって活気があり、欧米風の立ち居振る舞いで外国語を流暢に操るレバノン人たちが高層ビルの立ち並ぶ新市街を闊歩するかと思えば、半ば廃墟のベイルート郊外には出稼ぎのシリア人街(市場)があって人いきれに溢れていた。 レバノンはアラブ料理の本場としても著名であるが、僕らは海岸のレストランで珍しいエビ料理に舌鼓を打った。アラブ世界の伝説的女性歌手フェイルーズもレバノン出身で、「愛しのベイルート」という曲を残している。 僕らはその他ローマ時代の大神殿で有名なバアルベック(ヒエロポリス)と、「パピルス」の語源となった古代都市ビブロス(ジェベイル)に行ったのだが、バアルベックはイスラエル空軍の爆撃を受けた直後だった。それもそのはず、ここベカー高原は反イスラエル武装組織ヒズボラの拠点であり、あちこちにイスラム教シーア派の黒衣に身を包んだ宗教指導者の肖像が掲げてあった。一方ベイルートの北郊にあるキリスト教徒地区ジュニエでは、道端に聖母マリアと幼子イエスのイコンが祀られていた。 レバノン共和国は地中海の東端にある小国で、1万平方キロという岐阜県とほぼ同じ大きさの国土に、静岡県と同程度の400万人ほどが住んでいる。そのうち30万人ほどは南のパレスチナ(イスラエル)から逃げてきたパレスチナ人だが、後述する内政上の複雑さから、レバノン政府は彼らへの国籍付与を認めておらず、パレスチナへの帰還を主張している。北隣は同じアラブ人の国シリアだが、イスラエル・シリア共に中東の軍事大国である。 狭い国土ながらレバノンは地形の起伏に富んでおり、およそ200kmに及ぶ海岸線のすぐ背後に3000m級の山が並ぶレバノン山脈が迫っている。この山脈は万年雪を戴いており、その雪の白さ(ラバン)が「レバノン(ルブナン)」という国名の語源となったという。このレバノン山脈の中腹はかつて、この国を象徴し国旗にもあしらわれているレバノン杉に覆われていたのだが、現在は原生のものは数箇所しか残っていない。古代のフェニキア人が豊富なレバノン杉で大船を作って目の前に広がる青い地中海に漕ぎ出したのは、この地形を見れば不思議ではない。一方シリアとの国境地帯をなすベカー高原など内陸部は概ね厳しい乾燥地帯だが、灌漑水路によって豊かな農地に変えることも出来る。 レバノンの一人当たりGDPは5000ドル弱と、産油国を除けば中東で最も高い水準だが、この国はフェニキア人の昔から商業の国だった。古来様々な人々が行き交い、またこの複雑な地形ゆえに、この国には18もの宗派が混在している。イスラム教のシーア派、スンニ派、ドルーズ派、アラウィ派、キリスト教のマロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教、カトリックなどである。ただし言語は概ねアラビア語が話されている。 かつて交易の活力や利点となったこの多様性は、国民国家を運営する上ではむしろ障害となり、ついには激しい内戦を引き起こした。内戦が終結した現在も大統領はキリスト教、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から出すことが定められており、また国会の議席も宗派ごとに厳密に配分されている。 上述のように、古代のレバノンは海洋交易民族フェニキア人の本拠地であった。シドン、テュロス、ビブロスなどの都市国家を拠点にした彼らは、紀元前1000年前後には地中海全域に漕ぎ出し、カルタゴ(現チュニジア)やスペインに植民地を建設し、東西交易の主役となった。フェニキア人はギリシャ人やエトルリア人などに多大な文化的影響を与え、現在西洋で使われているアルファベット(アラビア文字もそうだが)の起源がフェニキア文字にあることはつとに知られている。伝説では「ヨーロッパ」という大陸名はテュロス王の娘エウロペに因んでいるとされることが、その影響の大きさを象徴している。なお「フェニキア」という地名は、その特産品の貝紫のギリシャ語名に因んでおり、紫に染めた絹織物は西方の支配者層の垂涎の品だった。 経済的には強力だったフェニキア人だが、後背地の小ささゆえに政治的には常に近隣の大帝国(アッシリア、バビロニア、ペルシア)の脅威を受け、むしろその支配下で特権を得た。しかしペルシア帝国が滅亡したのちの紀元前3世紀頃になると、海上交易の主導権をギリシャ人に奪われ、のちにローマ帝国に服属、またレバノン杉の乱伐による資源の枯渇もあって目立たなくなってゆく。それでもなお東方の特産品である絹や紙(パピルス)などの中継交易で栄え、「聖書(バイブル)」の語源もフェニキア都市ビブロス(ギリシャ語名)にある。 636年にヤルムークの戦いでイスラム教徒軍がビザンツ帝国を破ると、キリスト教徒が多かったレバノンもイスラム教の支配下に入った。しかしレバノンには中東の他地域に比べキリスト教徒が多く残ったうえ、1017年頃にはイスラム教ドルーズ派が成立した。当時のレバノンの支配者であるシーア派のファーティマ朝(エジプト)はドルーズ派を異端として弾圧したが、ドルーズ派はレバノン山中に立て篭もり抵抗を続けた。 ファーティマ朝は1071年にトルコ人のセルジューク朝にレバノンを奪われるが、まもなく1106年にはヨーロッパから十字軍が侵入、トリポリ公国を樹立した。1291年にエジプトのマムルーク朝によって十字軍最後の砦アッコンが陥落するまでのおよそ200年間、この地はキリスト教とイスラム教の抗争と交流の地となった。 1517年、トルコのオスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼし、レバノンは三大陸にまたがるオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国はドルーズ派を重用して自治権を与え、間接的にレバノンを支配した。一方で16世紀以降経済成長が始まったヨーロッパ諸国はレバノン商人との東方交易を重視し、17世紀初頭にはイタリアのトスカナ公国の援助でレバノンが自立の動きを見せることもあったが、すぐにオスマン帝国によって鎮撫されている。ヨーロッパとの交易ではキリスト教マロン派が活躍し、経済的実力をつけていった。 オスマン帝国の弱体化が明白になった19世紀初頭、エジプトはフランスの支援でオスマン帝国から自立し、レバノンやシリアを征服した。イギリスやロシアの介入によってオスマン帝国はレバノンを奪還したが(1841年)、同時にドルーズ派首長による間接統治を改め、中央から総督を派遣し直接統治に切り替えた。この体制はマロン派とドルーズ派との対立激化を招き、1860年に双方が衝突、一般市民への殺戮に発展した。騒然とした世情の中、アメリカやヨーロッパに移民する者も多かった。 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツと同盟してイギリスやフランスの連合軍と戦ったが、連合軍による海上封鎖やドイツ・トルコ軍の駐留によって飢饉や疫病が起き、当時のレバノンの人口の5人に1人が死んだという。アラブ民族主義が覚醒したこの戦争は連合国の勝利に終わり、国際連盟の裁定によって1920年にレバノンはシリアと共にフランスの委任統治領とされた。ドルーズ派の対仏反乱が起きたりしたが、フランスはマロン派の協力で統治した。 第二次世界大戦が起きてフランス本国がドイツ軍に占領されると、その植民地ではドイツ傀儡のヴィシー政権と自由フランスに分かれて争ったが、自由フランスはシリアとレバノン住民の協力を得るために独立を約束し、自由フランスが勝った後の1943年11月、レバノンの独立が宣言された。レバノンは1945年に設立された国際連合の原加盟国にもなっている。 しかし独立したレバノンは南隣のパレスチナに建国されたユダヤ人国家・イスラエルとの戦争に巻き込まれた上、各宗派の主導権争いが続き、内政が安定しなかった。1958年には親欧米派のキリスト教徒とアラブ民族主義者が衝突し、大統領がアメリカ軍の介入を要請してようやく事態を沈静化出来た。 一方で在外レバノン人の経済力やスイス銀行に倣ったレバノン銀行の存在、さらにキリスト教徒の欧米との繋がりもあって、レバノンは経済的な発展を享受して「中東のスイス」、そして首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれた時期もあった。 しかし1970年、ヨルダンを追われたPLO(パレスチナ解放機構)が本部をベイルートに移すと、レバノンはパレスチナ紛争に巻き込まれていくことになる(日本赤軍がレバノンのベカー高原で軍事訓練を受けたことはもう忘れられただろうか)。1973年には政府軍とパレスチナ民兵の間で交戦があり、パレスチナ人の存在は微妙なバランスに立っていたレバノン内部の勢力争いに影響し、ついに1975年にキリスト教徒とイスラム教徒の間で内戦が始まった。翌年にはシーア派を支援する隣国シリアが介入した。やがて国際平和維持軍が派遣されたものの、内戦は停戦破りを繰り返して一向に収まらず、1983年にはベイルートの国際平和維持軍駐屯地に対する爆弾テロでアメリカ兵230人、フランス兵58人が殺害され、両国は手を引いた。 一方レバノンを拠点としたPLOの攻撃に業を煮やしたイスラエルは、1982年にレバノンに侵攻(この間イスラエルの意を受けたキリスト教徒民兵によるパレスチナ人虐殺事件も起きている)、PLOをレバノンから追って1985年に撤退したが、越境攻撃を防ぐためイスラエルとの国境地帯のレバノン領の占領を続けた。PLOとは別に、1979年にイスラム革命が起きたイランの援助でシーア派民兵組織ヒズボラ(「神の党」)が創設され、イスラエルに対する攻撃を続け、やがて隠然たる勢力を持つに至る。 1987年、再び隣国シリアが軍事介入し、その軍事力で各民兵勢力を抑えつけ、1989年のタイフ合意及び1990年のシリア軍によるキリスト教民兵拠点の攻略によって内戦は一応の終結を見た。シリア軍の駐留はその後も続き、「兄弟国」と位置づけられたレバノンは実質的にシリアの影響下に置かれることになった。 20年ぶりに行われた1992年の総選挙では、ラフィーク・ハリリ(スンニ派)が首相に選出された。実業家としてサウジアラビアやフランスと強いコネを持っていたハリリは、外資を導入してレバノン復興政策を精力的に推し進め一定の成果を得たが、同時に多大な累積債務が問題になった。 一方で南部に拠点をもつヒズボラはイランやシリアの援助を受けてイスラエルに対する攻撃を続け、イスラエルは報復としてレバノン領内を空爆した。レバノン政府はシリア軍の後ろ盾で国土の大部分を実効支配していたに過ぎない。イスラエル軍は2000年にレバノン国境の占領地からも撤退したが、その跡にはすぐにヒズボラが入り込んでイスラエルへの攻撃を始めた。 ハリリは3期の長きにわたって首相の座にあった。しかしアメリカがイラク戦争(2003年)以来シリアへの圧力を強め、レバノンからのシリア軍の撤退やヒズボラの武装解除を求めた国連決議1559が可決されると、それへの対応や大統領の任期延長案を巡ってエミール・ラフード現大統領(キリスト教マロン派)と対立、2004年に辞任した。 シリア軍のレバノンからの撤退を主張したハリリは、2005年2月にベイルートで暗殺された。事件の背後にシリア情報機関が取り沙汰され、レバノンは反シリア派と親シリア派の双方のデモで騒然となった。しかしアメリカやフランスなどの圧力もあり、シリアは同年4月までにレバノンに駐留していた全軍を撤退させた。直後の総選挙でも反シリア派が勝利を収め、各勢力による円卓会議で脱シリアが模索されようとしていた。 2006年7月、ヒズボラによるイスラエル兵拉致をきっかけに、イスラエルはレバノン国内のヒズボラ拠点掃討を目指して大規模な軍事作戦を展開しているが、それは現在我々が目の当たりにしているところである。
2006年08月05日
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僕はトルコでグルジア人と働いたことがある。彼は著名な考古学者の父親と同名で、やはり同じ科学アカデミーに勤務していた。闊達で冗談好きな彼は完璧なドイツ語とロシア語を話し、酒と煙草を愛する(細かい仕事はそうでもなさそうだったが)。飲むと高名なグルジアのワインを自慢したり、稀にふと従軍体験やロシア人への嫌悪をこぼしたりした。 なぜか有効期限の切れたパスポートと一抱えの荷物を手に、仕事を終えてバスで故国に帰る彼の後ろ姿と、故国の家族と電話で話すときのグルジア語独特の発音が印象に残っている。そして彼の故国に興味を持ったのだが、グルジアは僕自身の専門にも関係するし、ニュースにも(主に不穏な話題で)度々登場し、この国への興味は尽きない。 グルジア共和国は面積7万平方キロ弱(日本の約5分の1)、人口500万弱で、黒海の東岸、コーカサス山脈の南側に位置し、旧ソヴィエト連邦を構成した一国である。北隣のロシア、東隣のアゼルバイジャン、そして南隣のアルメニアはいずれも旧ソ連構成国だが、南でトルコとも国境を接している。また国内には自立志向の強い南オセチア、アジャール、アブハジアといった自治共和国・州がある。 万年雪を戴くカフカス山脈は標高5068mのシュハラ山を最高峰とし、ロシアとの自然国境をなす。この峻険な山脈は同時に北方からの寒気を遮断してグルジアの気候を温暖なものとし、その雪融け水は山麓の2500もの渓谷を潤しつつクラ川に注ぎ、葡萄や柑橘類などの豊かな恵みを保証する。国土の87%が山地であるこの国は金や銅、マンガンといった希少鉱物に恵まれるが、主な産業は農業である。 ここまで「グルジア」という語を使ってきたが、これはロシア人による他称であり(西欧言語ではキリスト教守護聖人の名に懸けている)、グルジア人は自身を「カルトヴェリ」、その国を「サカルトヴェロ」と呼んでいる。グルジア語は周辺に多いインド・ヨーロッパ語族(ロシア語やペルシア語など)から独立したコーカサス語族に属し、いかにもこの山国らしい。ただしグルジア国内でのカルトヴェリの割合は8割程度で、その他にロシア人やアルメニア人などがいる。 グルジアはヨーロッパと西アジアの境界上に位置するが、この位置は両者を繋ぐ架け橋の役割を果たしてきた。 近年グルジア南部のドマニシで175万年前の人類化石が発見されたが、これは人類が発生したアフリカ大陸の外では最古の例であり、人類の進化や拡散の謎を解明する上で注目される。 農耕や冶金の開始といった文明史上の画期はいずれも西アジアに最古の起源を持つが、近隣のグルジアもその影響を受けた。逆にグルジア起源の遺物が西アジアに分布したり、紀元前1千年紀には北方の騎馬民族スキタイ人がグルジアを通って南下したりもした。 紀元前8世紀頃からはギリシャ人が船で黒海を行き来するが、彼らにとってこの遠い異郷は身近な存在だったようで、その神話に度々登場する。人類に火を与えたため主神ゼウスに罰せられたプロメテウスは、カフカス山中の岩に縛り付けられたという。また「黄金の毛皮」を求めるイアソンとコルキスの王女メディアの悲恋に彩られたアルゴー船の物語も有名であろう。 紀元前6世紀頃、グルジア西部にコルキス(コルへティ)王国が成立したが、この国は黄金や製鉄の富で知られ、「黄金の毛皮」はグルジアの枕詞になった。一方で西アジアからの文化的な影響は続き、紀元前4世紀頃にグルジア東部でもカルトリ(イベリア)王国が成立したが、これは西アジアのアケメネス朝ペルシアの弱体化や滅亡と関係するのだろう。 その後コルキスは小アジア北部のポントゥス王国に服属した。ポントゥスは勢力を拡大するローマ帝国に激しく抵抗したが、その将軍ポンペイウスに敗れ(紀元前63年)、コルキスもローマ帝国に服属する。一方カルトリはローマ帝国とイランのササン朝との係争地になった。 紀元後337年、カルトリ王国はキリスト教を国教とし、以来グルジアは熱心なキリスト教(グルジア正教)の国となっている。同じ頃独自のグルジア文字(アルファベット)が考案され、現在も使用されている。 395年に東西ローマ帝国が分裂したとき、コルキスは東ローマ帝国の属国となった。一方カルトリはササン朝の属国となったが、7世紀にアラブ人・イスラム教徒がササン朝を滅ぼした時、グルジアも征服された。こうした外部勢力の支配に対する抵抗運動の中で、文学作品や教会が精神的な拠り所となった。 975年にバグラト3世が東西グルジアを統一し、バグラト朝が成立する。とりわけ1184年に即位した女王タマルの時代が最盛期で、異教徒に信仰の自由が保障され、貴族による議会の決定や法治を重んじ、また死刑を廃止したという。この時代の教会建築や豪華な書物が各地に残されている。 しかしその直後の1221年、中央アジアからモンゴル軍が侵入、グルジアはモンゴル帝国の属国となり、さらに1386年にはモンゴルの後裔を名乗るティムールがやはり中央アジアから来襲、グルジアは疲弊した。16世紀に西部は小アジアのオスマン(トルコ)帝国に、東部はイラン(ペルシア)に服属し、グルジアは3つの王国、5つの公国に分裂した。 18世紀に入ってオスマン帝国やイランが弱体化する一方で、北方では近代化を進めていたロシアの勢力が興隆し、南下政策を推進していく。 ロシアはまず1783年、独立を保障する代わりに保護国とする条約を東グルジアと結ぶ。しかし1795年のペルシア軍によるグルジア侵攻をロシアは放置し、首都トビリシは破壊され2万人が奴隷化された。ロシアがペルシアに勝った後の1801年、ロシアはバグラト朝の王を退位させ東グルジアを併合した。オスマン帝国の宗主権下にあった西グルジア諸国も、1810年からの半世紀の間に次々とロシアに併合されていった。 ロシア支配下ではロシア化が推進されたが、同時に西欧式の啓蒙思想や民族主義も流入する。1832年にはバグラト朝復興の動きが起きたが鎮圧された。カフカス支配を強固なものとするため、ロシアはイギリス育ちのミハイル・ヴォロンツォフ伯を総督に任じ、トビリシに総督府を置いた彼の下、西洋式の劇場や図書館が建設され、産業が振興された。1866年には農奴が解放されている。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは連合国として戦ったが、戦争に疲弊して1917年に革命が起きた。ロシアが内戦に陥る中、翌年グルジアは独立を宣言し、敵だったドイツ軍が進駐した。この年大戦は終結したが、連合国もグルジアの独立を承認し、一時イギリス軍が上陸した。独立したグルジアは国際連盟にも加盟する。 ところがロシアでの内戦は、連合国の介入にもかかわらずボルシェヴィキ(共産党)軍が勝利した。1920年にボルシェヴィキはいったんグルジアの独立を承認したが、翌年2月にグルジアに侵攻して占領し併合、1922年に発足したソ連に編入された。このソ連政府で実権を握っていたのは、他ならぬグルジア人のヨシフ・ジュガシヴィリ、即ちスターリンであった。 ソ連政府の下、農業の集団化や産業の国有化が行われた。スターリンは独裁体制を確立し反対者を大量に粛清したが、内相としてその片腕となったのは、やはりグルジア出身のラウレンティ・ベリヤだった。 第二次世界大戦中の1941年、ソ連はナチス・ドイツ軍の侵攻を受けるが、後方のグルジアにあった軍需工場はソ連の勝利に大きな役割を果たした。現在グルジアの輸出品目の第一位は航空機だが、この時に由来するのだろうか。 スターリンは1953年に死去し、即座にベリヤは失脚した。その後権力を掌握したニキータ・フルシチョフは1956年に「スターリン批判」を展開する。トビリシでもスターリン像が撤去されたが、それに反対する民衆が軍に射殺される事件も起きている。 重工業を重視したフルシチョフの政策によりグルジアでも産業化が進んだが、同時に闇経済の成長や党官僚の腐敗をもたらした。その綱紀粛正を叫んで頭角を現したのがKGB出身のエドゥアルド・シェヴァルナゼで、1964年にはグルジア内相、1972年にはグルジア共産党第一書記になった。さらに1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し改革(ペレストロイカ)を始めると、シェヴァルナゼは連邦政府の外相に迎えられ、東西冷戦末期の国際舞台で活躍することになる。 その改革によってソ連の弱体化や東西冷戦での敗北が明らかになると、抑えつけられてきた民族主義が復活した。1989年、トビリシでグルジアの独立回復を求めるデモが発生し、軍により武力鎮圧される事件が起きる。翌年初の複数政党による選挙が行われると民族主義政党が6割の得票で圧勝、その指導者であるスヴィアド・ガムサフルディアがグルジア最高評議会議長に就任した。 1991年、ガムサフルディアは国民投票でグルジア独立の是非を問い、その結果を受けてソ連の承認もないまま一方的に独立を宣言し、また大統領に選出された。ソ連はこの年末に解体に至るのだが、ガムサフルディアは旧ソ連諸国で構成される独立国家共同体(CIS)への加盟も拒否した。 彼の強権的な政治運営に対する国内の反発も強く、この年末に反対派が議会を占拠、翌1992年初頭にガムサフルディアは国外逃亡した。これは独立グルジアの混迷のほんの序章にすぎなかった。 旧野党はモスクワからシェヴァルナゼを招き、彼は国家評議会議長に就任した。しかし就任早々、シェヴァルナゼは国内の分離独立の動きに直面する。まずグルジア北西端にあるアブハジア自治共和国が分離独立を画策、鎮圧のため派遣した軍は大敗し、20万人が難民化した。さらに北部の南オセチア自治州は北オセチア(ロシア連邦内)との合併を要求して分離を主張、ロシア軍を含む国連平和維持軍が出動する騒ぎになった。さらに南西端のアジャール自治共和国も実質的に独立状態になった。 一方この窮地につけこみガムサフルディアが舞い戻って反乱を起こすなど、混乱は続いた。シェヴァルナゼは人脈を活用してロシアとの友好関係維持を図り、CIS加盟やロシア軍のグルジア駐留権延長などによってロシアの支援を取り付け、この難局を乗り切った。幾度もの暗殺未遂事件を切り抜けた後、1995年にシェヴァルナゼは大統領に選出される。ソ連外相時代の経験から彼はアメリカやEU(特にドイツ)にも顔が利き、ロシアとのバランスを保ちつつ良好な関係の樹立を図った。シェヴァルナゼは1999年に再選された。 この微妙なグルジアの位置を揺るがせたのは、今やグルジアの最大援助国となったアメリカの世界戦略だった。グルジアはロシアを通さずにカスピ海の石油を西側に輸出できるパイプライン計画を認可してロシアの不興を買った。さらに2001年同時多発テロ以降の「対テロ戦争」の一環として、アメリカはグルジア軍育成のための軍事顧問団を派遣した。属国グルジアに米軍が入り込むことはロシアには許しがたかった。ロシアはグルジア内の分離独立の動きを支援する態度を見せ、ロシア軍のグルジアからの撤退を遅らせ、またロシアを悩ますチェチェン人ゲリラがグルジア内に根拠地を構えているとして越境攻撃を加えるなど、グルジアを圧迫した。 一方就任から10年になったシェヴァルナゼの周囲では、汚職が蔓延しつつあった。国内融和のため旧共産党系の人物を政権内に取り込んだのだが、彼らがその温床となったのである。 2003年11月、選挙での政府の不正を糾弾するデモが首都トビリシで発生、手にバラをもったその参加者は瞬く間に10万人に達し、欧米諸国が政府の不正を批判したこともこのデモを勢いづけた。ミハイル・サアカシヴィリ元内相率いるデモ隊は議会に乱入し新政権樹立を宣言する。アメリカやロシアが調停に乗り出すなど交渉が続いたが、結局シェヴァルナゼは亡命した。 翌年サアカシヴィリが大統領に選出された。アメリカ留学経験のある彼は親欧米路線を採り、エネルギー供給を依存するロシアから様々な圧迫を受け、経済的には独立以来の苦境が続いているが(一人当たりGNI830ドル)、アジャールでの主権を奪還したり、汚職追放や国営企業民営化などの成果を挙げつつある。
2006年06月07日
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アゼルバイジャンという日本にほとんど馴染みのない国は、世界最大の湖(塩湖)カスピ海の西岸にあり、北はロシア、南はイラン、西はグルジア及びアルメニアと接している。このうちロシア、グルジア、アルメニアは旧ソヴィエト連邦の国だが、アゼルバイジャンも旧ソ連に属した一国である。 アゼルバイジャン共和国は面積8万6千平方キロ(北海道とほぼ同じ)、人口800万あまり(神奈川県と同規模)で、北はコーカサス山脈が東西に走って自然国境をなし、国内最高峰として標高4466mのバザルデュズ山を頂く一方、国土の中央を流れるクラ川は肥沃な渓谷を形成し、カスピ海沿岸平野とともに灌漑農耕が盛んである。一方隣国アルメニアに遮断されたかたちの飛び地であるナヒチェワン自治共和国は、アラクス川沿いの山がちな地域である。 人口110万人の首都バクーはカスピ海に突き出したアブシェロン半島の南岸にあたり、周辺には豊富な湖底油田・ガス田があり、歴史上、そして現在もなお熱い注目を浴びている。 「アゼルバイジャン」は、本来は現在のアゼルバイジャン共和国だけでなく、今のイラン北西部をも含むカスピ海南西岸の広い地域を指していた。その「アゼルバイジャン」という地名は古代の「アトロパテナ」という地名に由来するという。アトロパテナという地名は紀元前4世紀頃にこの地を支配していたアトロパテスという支配者の名に因んでいる。ギリシャ風の彼の名は本来古代ペルシア語で「火を守る者」を意味する「アタレパータ」といったらしい。アルメニア人が「アテル・パタカン」と訛って記録した地名がアラブ人に「アゼルバイジャン」と訛って伝わったという。 20万年前の石器が発見されたり、紀元前8世紀以降はスキタイやメディアなど古代史を彩る民族の活動が記録されたりしている、存外古い歴史を持つこの地域は、紀元前6世紀に西アジア全域を支配した大帝国・アケメネス朝ペルシアの支配下に入った。上述の「火を守る者」という名はすなわちアケメネス朝が奉じた拝火教(ゾロアスター教)に由来し(預言者ゾロアスターの子の名前)、またゾロアスターの生地と伝わる場所もあり、いかにもカスピ海底の天然ガスや石油に恵まれたこの地らしいといえる。上記アトロパテスはそのペルシア帝国の総督で、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王が東征して来たときに降伏し、のち自立したらしい。 その後この地域は西のローマ帝国と東のパルティア(イラン系王朝)の争奪の地となったが、3世紀にアゼルバイジャンの地は再び拝火教を奉じるイラン高原の支配者・ササン朝ペルシアの支配下に入った。ローマ人にこの地域は「アルバニア」と呼ばれ(バルカン半島に現在あるアルバニアとは無関係)、4世紀頃に西方からキリスト教も広まり、教会が残されている。 この「火を守る者」の地にイスラム教の支配が及んだのは、ササン朝がイスラム教徒軍によって滅ぼされた前後の643年のことである。当地のキリスト教徒王であるジェワンシールはビザンツ(東ローマ)帝国と結んで激しく抵抗するがそれもやがて潰え、以後住民のイスラムへの改宗が続き、現在はアゼルバイジャンの住民のほとんどがイスラム教徒になっている。 文化的にイランの強い影響を受け続けてきたアゼルバイジャンだが、既に5世紀には北方の騎馬民族であるフン族の、のちにハザール族やオグズ族(いずれもトルコ系)の侵入を受けていた。 11世紀に中央アジアの遊牧騎馬民族だったトルコ人(セルジューク朝)が傭兵や移民などとして移ってくると、住民のトルコ化が進んでいった。トルコ人はその後も西進を続けてアナトリア(小アジア)に入り、現在のトルコ共和国へと繋がっていくのだが、現代のトルコ語とアゼルバイジャン(アゼリ)語は非常に近い関係にある。現在アゼリ人が国民のおよそ9割を占めている。 そのトルコ人を追うように、1220年にはチンギス・カン配下のモンゴル軍が襲来してモンゴル帝国(のちイランを本拠とするフレグ・ウルス、いわゆるイル・ハン国)の一部となったり、1385年にはその後裔を称するチムールに征服されたりした。地生えの君侯国が外来・遊牧民系の大帝国の宗主権を認める状況の中、アゼルバイジャンにはイラン文化を基礎に、遊牧民文化の影響が色濃い文化が形成されていく(特に食文化に濃厚にある)。現在の首都バクーには、12~16世紀に地元君侯であるシルワン・シャーの支配下で建てられたモスクや廟、宮殿などが数多く残されている。 上述のように現在アゼルバイジャンの住民の多くがイスラム教徒であるのだが、西のトルコではスンニ派がほとんどであるのに対して、アゼルバイジャンでは多くがイランと同じシーア派である。これはイランのサファヴィー朝とトルコのオスマン帝国が激しく争った16世紀、シーア派教団に起源を持つサファヴィー朝が、スンニ派のオスマン帝国に対抗してクズルバシュ(赤帽)と呼ばれる宣教師を各地に派遣して住民を改宗させた結果である。三大陸にまたがる大帝国となったオスマン帝国も、このクズルバシュには手を焼いた(どこかで聞いた話ではある)。 火器の使用でサファヴィー朝の騎馬軍を破ったオスマン帝国は、1578年にはアゼルバイジャンにまで版図を拡大するが、およそ30年後にサファヴィー朝の英主アッバース1世に奪還された。この時ナヒチェワンでは、キリスト教徒であるアルメニア人に対する強制移住や都市破壊などが行なわれている。アゼルバイジャンは1728年に再びオスマン帝国の支配下に入るも、アフガニスタンの遊牧民を率いて暴風のようにイランを席巻したナーディール・シャーによって1736年に征服され、イランの王朝の支配下に戻った。ナーディール・シャーの横死(1747年)によるイランの混乱と、支配体制が因循と化したオスマン帝国の衰退という状況の中、アゼルバイジャンの諸侯は自立傾向になる。 ところが北では全く別の勢力が台頭しつつあった。既にシベリアを併呑していたロシアである。早くもピョートル大帝治世の1722年にはロシア軍がアゼルバイジャンに現われていた。 近代化を進めてオスマン帝国を凌ぐ実力をつけたロシアは南下政策を推進する。第6次ロシア・トルコ戦争を受けて1806年にアゼルバイジャンなどコーカサス地方の諸侯はロシアの保護下に入り、さらにロシアとイラン(カージャール朝)による戦争後の1828年に両者の間で締結されたトゥルクメンチャイ条約によって、アラクス川以北のアゼルバイジャンは正式にロシアに割譲された。 ロシア支配下のアゼルバイジャンでは、当時新しいエネルギーとして注目された石油がカスピ海で発見され1870年代以降開発が進んだ。20世紀初頭にロシアはアメリカと世界の石油生産を二分する産油国となり、バクーの油田は世界最大となった。これは第2次大戦後に中東の油田が開発されるまで続く。 1914年に第1次世界大戦が始まると、ロシアは連合国に、トルコは同盟国に参加し、両国は戦争状態になった。しかし1917年にロシアで革命が発生するとロシア軍は瓦解して連合国から離脱する。1918年5月、アゼルバイジャンはロシアからの独立を宣言すると共に大戦での中立を宣言したが、ボルシェヴィキ(共産党)軍の脅威を前にトルコに支援を依頼、1918年9月、バクーはトルコ軍に占領された。ところがその一月後にトルコは連合国に降伏した。 連合国が支援した反共軍の足並みが乱れる中、態勢を立て直したボルシェヴィキ軍は反撃し、1920年4月にバクーに入城、独立アゼルバイジャンは短命に終わった。1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立にあわせ、アゼルバイジャンはトランスコーカサス(ザカフカス)社会主義連邦共和国の一部とされた。 ソ連の一部として、1930年には農業の集団化、産業の国有化が進められた。さらに1936年、独裁者ヨシフ・スターリンによって憲法が改正された際、ザカフカス共和国はアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアの3国に分割された(三者が融和しなかったため)。この時恣意的に引かれた境界線が、半世紀後に深刻な民族紛争を招くことになる。 第二次世界大戦当時、ソ連の石油生産の75%はアゼルバイジャンに集中していた。ナチス・ドイツ軍は1942年にこの油田地帯を叩く作戦を始めるが、それがスターリングラードでの大敗に繋がり、ソ連の「大祖国戦争」での勝利をもたらした。 戦後シベリアで油田が発見されるものの、アゼルバイジャンの石油供給地としての地位は揺るがなかった。ただし計画経済体制の下、この豊かな資源は連邦に収奪され還元されることはなかったが。 1980年代末、東西冷戦での実質的な敗北と計画経済の行き詰まりが表面化しソ連の弱体化が明らかになると、ソ連を構成する諸国ではそれまで抑えつけられていた民族主義が高まった。アゼルバイジャンの中にはアルメニア系住民が多くを占めるナゴルノ・カラバフ(ダールーウ・カラバウ)自治州が存在するが、1988年にアゼルバイジャンからの離脱とアルメニアとの統合を叫んで民族対立となった。キリスト教徒であるアルメニア人は第1次世界大戦中にトルコ軍によって大量虐殺された経験があり、イスラム教徒かつトルコ人と同族のアゼルバイジャン人への敵愾心が、この対立をさらに凄惨なものとした。1990年にはソ連軍が出動して騒乱を鎮圧し(死者170人)、戒厳状態になる。 しかしそのソ連は1991年末に解体、アゼルバイジャンやアルメニアは独立した。ソ連というたがを失った両国の戦争は激化し、アルメニア側は「飛び地」のナゴルノ・カラバフと連絡すべく、本国との間のアゼルバイジャン領を占領してアゼルバイジャン人を追放、80万人が難民化した。戦争状態は1994年に両国が停戦することで一応終息したが、現在もナゴルノ・カラバフはじめアゼルバイジャン国土の15%はアルメニア支配下にあり、難民問題は解決しておらず、両国の間に国交は無い。 初代大統領が軍部のクーデターで追われた後の1993年、ヘイダル・アリエフがアゼルバイジャンの大統領に当選した。KGB出身の彼はアゼルバイジャン共産党で頭角を表わして同国第一書記となり、同じくKGB長官だったユーリー・アンドロポフがソ連共産党書記長になった1983年には連邦副首相にまで昇進したが、1985年にミハイル・ゴルバチョフが書記長になってペレストロイカ(改革)を始めるや左遷されたという経歴を持つ。大統領になったアリエフは自分に対する個人崇拝を進めると共に、カスピ海の石油資源を一族の私有物とするなど独裁体制を固めていった。独立後最初の議会選挙はようやく1995年に行われたが、野党への弾圧が不公正と批判された。 アリエフは1998年に再選され、実質的に終身大統領の地位を手に入れた。2002年、懸案であるナゴルノ・カラバフ問題でアルメニアと首脳会談するが、物別れに終わった。心臓に持病があった彼は息子のイルハム(石油公団副総裁ののち首相)を後継大統領に指名し、選挙(ただし不公正と批判された)で信任された直後の2003年末に療養先のアメリカで病死した。 アリエフはロシアやイランとの良好な関係維持を図る一方、言語表記をキリル文字からラテン文字に切り替えてロシアとの距離を保つと共に、ロシア領内を通さずにカスピ海の石油を輸出できるグルジア~トルコ・ルートのパイプライン建設を進めたり(2005年完成)、「対テロ戦争」への協力を名目にアメリカの軍事顧問団を受け入れたりするなど、兄弟国と認めるトルコを通じて西側に接近する姿勢も見せ、国家安泰と権力維持のための強かさを見せた。 強権的な内政に欧米諸国から批判もあるものの、国内総生産の2/3を占める石油生産(日産47万バレル)の強みもあり国情は比較的安定し、日産180万バレルも可能という将来性もあって二桁台の経済成長が続いている。ただし一人あたりGDPは900ドル弱と旧ソ連圏で最低レベルであり、これは資源のもたらす富が国民に還元されていないこと(汚職も世界最悪レベルという)、また多くの難民を抱えるという過去の内戦の悪影響もあるのだろう。
2006年05月14日
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長年の内戦からの復興を目指すアフガニスタンから、ちょっと気になるニュース。(引用開始)<米国>イスラム改宗者への死刑問題で、アフガンに介入 【ワシントン笠原敏彦】アフガニスタンでイスラム教からキリスト教に改宗した男性に対し死刑判決が予想される裁判が進み、ライス米国務長官は23日、カルザイ・アフガン大統領に電話で「善処」を求める異例の介入を行った。米軍がイスラム原理主義組織タリバンから解放したアフガンでの「信教の自由」を脅かす事態に、キリスト教保守派などから圧力が強まったためだ。 報道によると、アブドル・ラーマン被告(41)はパキスタン避難中の90年にキリスト教に改宗し、ドイツ在住を経て最近アフガンに帰国、家族の通告で逮捕された。タリバン政権崩壊(01年)後に制定された04年憲法は、イスラム教の原則を優先。同国のイスラム法では、キリスト教への改宗は極刑に当たるという。 国務省によると、事態を重くみたライス長官は22日夜に訪米中のアブドラ・アフガン外相と急きょ会談したほか、23日にはカルザイ大統領に直接電話して「最大限に強い言葉で問題を取り上げ、可能な限り迅速な好ましい解決を求めた」(マコーマック報道官)。 間接的な司法介入と批判されかねないが、マクレラン大統領報道官は「米国はアフガンに自由をもたらすために戦い、犠牲を払った」と理由を説明した。(毎日新聞) - 3月24日18時8分更新(引用終了) 日本のヤフーではこの記事しか見つけられなかったが、この件に関して動いたのはアメリカだけではない。このラーマン氏は避難先として長年ドイツに住んでいたというので、ドイツ政府もかなり派手に動いた。ここ数日ドイツのトップ・ニュース扱いのようで、イスラムへの違和感・不信感がますます助長されそうだ。 最初シュタインマイアー外相はアフガニスタン政府に対して警告を発し、ついには同国に国連治安維持軍(ISAF)として展開するドイツ連邦軍3000人(ISAF内では最大規模の兵力)の撤収さえもちらつかせた。アフガニスタン政府の方では「内政干渉」と反発もしたが、ドイツ側はメルケル首相がカルザイ大統領と電話会談するなどして事態への懸念をアピールした。 カルザイ大統領は今日になってカナダ首相との会談で「被告が死刑になる事はない」と表明したが、そもそも「イスラムから改宗した事で犯罪になる」というのはどういうことだろうか。この記事ではキリスト教保守派の政治的圧力を臭わせる記事になっているが、ドイツが問題にしているのはキリスト教云々より「信教の自由」ということである。まあキリスト教国のドイツがそれをいってもムスリム側の反発を招くだけというのも見えているが。 このラーマン被告はパキスタン避難中に難民キャンプでキリスト教系の支援団体に接してキリスト教に改宗したという。その後ドイツなどに住んでいたが、彼の娘を預かっているアフガニスタンの自分の両親の元に「帰国」した。ところが彼がキリスト教に改宗しているというので対立した親族が彼を告発し、二月に逮捕されたのだという。 この出来事はいろいろな面を持っている。まずはアメリカやドイツなどが表明する「信教の自由」の問題。そしてそのアメリカが愛してやまないという民主主義の原則である「司法の独立性」の問題。そしてそもそも現在のアフガンニスタン政府自体がアメリカなどによってターリバン政権が倒されて成立しており、アメリカなどの圧力に対してどれほど独立性をもっているのかという問題もある(この記事を読む限りは全くの傀儡というわけでもなさそうだ)。 キリスト教に改宗するのが犯罪なのか、それともイスラムを捨てる事自体が犯罪なのかは僕も知らないのだが、正直いってそういう法律には違和感を感じざるを得ない。まあムスリムにとって「イスラム」は日本語でいう「宗教」という枠組みを越えた、むしろ人倫とか道徳とか訳すべきより社会的・普遍的な価値を持っているのだろうから、これを単なる宗教抗争と理解すべきではないのかもしれないが。「宗教」というと僕を含む日本人にはなかなか理解しにくいが、彼らには「ムスリムである」というのは例えば「人を殺さない」などといった「人間として当然あるべき姿」くらいの意味を持っているのかもしれない。バランスを取るつもりで書いておくと、熱心なキリスト教徒にも、仏教徒の僕らに対して「キリスト教徒でないと正しい人間とは言えない」と真剣に語る人もいたりする。 そういやサッカー日本代表のフィリップ・トルシエ前監督がイスラムに改宗したなんていう記事もあった。僕もトルコでよく「イスラムに改宗しろ」と勧められ、「考えておくよ」なんて生返事してごまかす事が時々あるのだが、その割にイスラムに関する知識はまるで少ない(関心はある)。 アフガニスタンというと、ターリバンによってバーミヤンの大仏が爆破されてこの三月でちょうど五年になる。僕はその頃半ば冗談で「仏教国は多国籍軍を編成してターリバン政権を倒すべし」と言った事がある。もちろんそういう暴力は仏教の教えに反するところだろうし実現するわけもないのでこう言ったのだが、結局爆破は止められなかった。イランの著名な映画監督が「大仏は(アフガニスタンの人々を救えない)恥ずかしさで自ら崩れ落ちたのだ」なんて一文を書いていたが、なんと理屈をこねようが僕はあの出来事を許すわけにはいかない。いうまでもなく仏教徒という自覚よりも文化財保護云々と言う立場でそう思ったのだが。 その年の夏もトルコに行ったのだが、あるトルコの村人にこの出来事について意見を聞いた事がある。温厚で(その村にしては)知的でもあった彼は「イスラムの教えからすれば正しい事だった」と答えた。蒙昧な村人の意見と切り捨てる事も可能だろうが、政教分離を国是とするトルコでそのようだから、イスラムの教えの強さを感じざるを得なかった。 その会話からしばらくしてアメリカでの同時多発テロが起き、やがてそのテロの被害者である「キリスト教原理主義」と揶揄される国の攻撃でターリバン政権は崩壊した。僕は女性の教育を一切認めず、音楽も映画も禁止というターリバン政権は早晩倒されるべき政権だと思っていたので、そのこと自体はいい事だと思ったが(半年ばかり遅かったが)、アフガニスタンが再び戦乱の巷になる事には痛みを感じて、ドイツで誘われるまま反戦デモに加わった事もある。我ながら矛盾している。所詮はお気楽な遺跡愛好家と言われても仕方ない。 爆破された大仏の周辺では、日本の文化財研究所など各国機関により保存・修復のための調査が進んでいる。僕の知り合いもそこに参加しているし、機会があれば僕もお手伝いする事にやぶさかではない。(追記) その後間もなくアブドゥル・ラフマン氏は「証拠不十分」として釈放され、直後に受け入れを申し出たイタリアに亡命した。
2006年03月24日
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さっきのテレビ・ニュース(フジテレビ)を見ていた叔母が「あんた、○○先生が小泉首相とテレビに出とったよ」と僕の知っている人の名前を挙げた。特徴を聞くとそのようだった。小泉首相はトルコのエルドアン首相との会談の他、どうもアナトリア文明博物館に行ったらしいのだが、その案内でこの○○さんが同行したようだ(たまたまトルコに居たのだろうか)。まああの博物館を案内するならあの人以上の人は居ないだろうし。 明らかに本来はイスラエル・パレスチナ訪問のおまけのような扱いだった小泉トルコ訪問だけに、テレビニュースでの扱いは決して多くない。今は緊急治療室で寝ているシャロン首相と会談していれば、扱いはこんなに小さくなかっただろう。一昨年の春にエルドアン首相が訪日した時には僕も日本にいたのだが、折しもイラク人質事件と重なってしまったせいか、テレビや新聞のニュースでの扱いはほとんど無かった。まあその訪日すら報道されない国家元首も多くいるのだろうから、日本にとっての重要性からいえばこんなものかもしれない。残念なことだが。(引用開始)<小泉首相>トルコ首相と会談 中東和平の協力を確認 【アンカラ松尾良】小泉純一郎首相は10日午後(日本時間10日夜)、トルコ・アンカラの首相府でエルドアン首相と会談し、中東和平やイラクの安定で緊密な協力を確認した。小泉首相は会談後の記者会見で、イラクに派遣している自衛隊の撤退時期について「よく現地や国際社会の情勢を見極めて判断したい」と述べ、トルコと共同でイラクへの医療支援を検討することも明らかにした。 中東和平について小泉首相は記者会見で、「トルコはイスラエル、パレスチナと良好な関係を持ち、日本とは中東の安定に共通の利益を持ったパートナーだ」と表明。対イラクも含めた支援について「両国が協力できる分野を具体的に詰めたい」と述べた。エルドアン首相はイスラエルのシャロン首相の復帰が困難との見通しについて「イスラエルの政治が決める問題だ。選挙の結果を今予想するのは正しくない」と述べ、イラクについては「すべての民族、宗派が参加した政府の成立が必要だ」と強調した。 現職首相のトルコ訪問は1990年の海部俊樹首相(当時)以来で、小泉首相とエルドアン首相の会談は04年4月のエルドアン首相の来日時につづき2回目となる。(毎日新聞) - 1月11日2時2分更新(引用終了) この他会談では、前日明らかになったイランによる核開発再開問題なども話し合われたようだ。トルコにとってイランは隣国、一方イランにとって日本はドイツに次ぐ経済援助国だから(もう中国に抜かれたかもしれないが)、それぞれ影響するところは小さく無いはずなのだが。 小泉首相は明日イスタンブルに移り、日本の援助で作られるボスポラス海峡海底トンネルの工事現場を視察し、またイラン・イラク戦争中の1985年、イラクによる無差別ミサイル攻撃を目前にしてテヘラン在留邦人の救出に向かったトルコ航空の元機長と面会し、礼を述べる予定だそうだ。なかなか粋な演出じゃないか。 小泉首相も「トルコは無類の親日国だ」と言ったそうだが、それはまあ当たっていると思う。もちろんお互い遠く離れていて利害関係が少ない事や(よく「隣国は仲良くしよう」というが、実は隣国同士の外交ほど難しいものは無い)、無知などもあるとはいえ、これは身をもって感じている。「科学技術をもった経済大国」、「戦災(原爆!)からの復興」などの面で、トルコなど西アジアの人々は日本に好意を持っている。もちろん内心嫌っているアメリカに対抗する勢力としての期待もあるのだろう。 ことトルコに関して言えば、そういう「非米勢力」としてむしろ期待を抱くべき中国はあまり話題にならない。トルコ人が同族とみなす東トルキスタン(新彊ウイグル自治区)のウイグル族を中国共産党が支配していること、学校の歴史教育で「トルコ人は匈奴やモンゴルと同族」「万里の長城はトルコ人の南下を恐れて建設された」と教えられており、どこか中国を見下す感情が見受けられる事、そして今のところトルコに入ってくる中国製品の大部分が安価な粗悪品に限られていること(つかそんなものも輸入しないといけないトルコもどうかと思うが)、そして綿花・繊維生産などでむしろ中国製品の圧迫を感じていることも関係しているかもしれない。 まあトルコ人はブルース・リーやジャッキー・チェンを日本人と信じて疑わないなど、どうもごちゃごちゃにしているところがある。僕が「彼らは皆中国人だ」と言うと驚いて、「じゃあ日本にはどういう映画スターがいるんだ?」と聞き返されて返答に窮するのは毎度の事である。大部分の日本人にとってアラブ人・イラン人・トルコ人の区別がなく、どの国もアラビア語を話し、毎日5回の礼拝を忘れず、くねくねした文字を使う、と思っているのと好対照だろう。 ついでに。昨日「日本のメディアはアジア人民の感情を逆なでする報道を繰り返している」とかなんとかどこかの大国の外務省報道局長は言ったそうだが、「アジア」の語源はもともと今のトルコ限定の意味だった(だからトルコの地域の事を「小アジア」と言う)。インドもイランもトルコもアジアでしょう。言葉の使い方が間違ってますぜ。 まあヨーロッパ人がヨーロッパ以外の地続きの地域を「アジア」と一括りにしたように、中国政府にとってのアジアは自国の隣接国もしくはかつて清朝に朝貢した地域だけなのだろう。便利な言葉ではある。世界地理知識の無さはアメリカ人や大部分のヨーロッパ人も似たようなものだろうが(中国人一般の地理感覚についても興味があるところだ)、それは「自分が世界の中心」と思える人々の特権なのかもしれない。 そういう僕だってサハラ以南のアフリカはどこも同じと扱ってしまいがちなのだが。
2006年01月11日
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今日は中東関連のニュースを切り貼りするだけの手抜き日記。ただ気になるニュースが並んでいる。 北から順に、まずは9日から小泉首相の訪問が予定されているトルコから。小泉首相の中東歴訪はむしろイスラエルとパレスチナが主目的だったようだが、シャロン首相の急病(下記)でトルコだけになってしまった。政府としては目論見が外れたというべきか。 しかしまあ日本の首相がトルコを訪問するのは15年ぶりだそうで、僕としては嬉しいことではある。日本の出資で作られるイスタンブルでのボスポラス海峡海底トンネル着工式?などに出席の予定だそうだ。産油国でもないトルコは日本にとっての経済的な価値は二の次なのだろうが、ロシアとの接近、EU加盟交渉、イラクの平和維持など、トルコは地政学的にも重要であり続けるに違い無い。(引用開始)トルコ、3人目の子供が鳥インフルエンザで死亡[アンカラ 6日 ロイター] トルコの国営アナトリア通信は、同国東部の病院で治療を受けていた子供が鳥インフルエンザのため死亡したことを明らかにした。この家庭では、すでに2人の兄と姉が鳥インフルエンザで死亡している。 死亡したのは11歳の少女で、先週末には14歳の兄が、5日には15歳の姉が相次いで死亡した。 この家族はアルメニア国境付近の辺境部の住民。 現在、この家族の6歳の男の子も、鳥インフルエンザで治療を受けている。(ロイター) - 1月6日16時54分更新(引用終了) この家族が住んでいるのはドーウバヤジットと書いてあった。あの辺だと病院に行くのも大変だろうな。 去年9月、トルコからドイツ帰った直後にひどい風邪をひいて数日寝込んだのだが、その直後に「トルコでも鳥インフルエンザ発生」と報じられて、研究室仲間のドイツ人共々笑うに笑えなかった。確かにインフルエンザに罹ったのだろうが、その後ドイツで鳥インフルエンザの話は聞かないので僕のは違ったのだろう。 次は僕は最近すっかり足の遠のいたシリア。バッシャール・アル・アサド現大統領が父親の死でその後任に就任してからは行っていない。(以下引用)<ハリリ元首相暗殺>アサド大統領が恫喝 元副大統領が証言 【カイロ高橋宗男】シリアのハダム元副大統領は30日、中東の衛星テレビ「アルアラビーヤ」で、レバノンのハリリ元首相暗殺(05年2月)の数カ月前、アサド・シリア大統領が「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同首相を脅していたと証言した。ハダム氏は「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆した。 ハリリ元首相暗殺事件では、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリア側は報告書を「政治的」と批判し、事件への関与を否定しているが、ハダム氏の証言によりアサド政権はさらに窮地に追い込まれそうだ。(中略) ハダム氏はアサド大統領の父、故ハフェズ・アサド前大統領時代からの重鎮。84年から21年間にわたって副大統領を務め、昨年6月に辞任した。レバノン駐留シリア軍の撤退をめぐるシャラ外相との路線対立が辞任の背景にあるとされる。(毎日新聞) - 12月31日18時45分更新アサド政権転覆呼び掛け 元シリア副大統領 【カイロ7日共同】シリアのハダム元副大統領は6日付のアラブ紙アッシャルク・アルアウサトのインタビューで、「この体制は変革しようがなく、追い出すしかない」と主張、アサド大統領が率いる現体制の転覆を呼び掛けた。 元高官が政権打倒を目指し、積極的に反体制活動に関与する姿勢を鮮明にしたことで、アサド大統領はますます苦しい立場に追い込まれそうだ。 ハダム氏は「シリアの人々が政権を転覆する環境をつくろうとしている」と述べ、国内の反体制派と連携する考えを示した。また「わたしは国を救う政治的な計画を持っているが、大統領になる計画はない」と強調。一方で「変化は内部から来なければならない」と語り、外国の干渉は拒否した。(共同通信) - 1月7日8時52分更新(引用終了) 気になるのは二番目の政権転覆云々のニュースだが、これはアブド・アル・ハリーム・ハッダーム元副大統領が吹いただけで、具体的にすぐアサド政権が倒れるということは無いだろう。この元副大統領からして政権でのうのうとしていたのだし、そういう呼び掛けをしても反体制派にすれば「何をいまさら」だろうし、アサド大統領の属するアラウィ派にすれば裏切り者に過ぎないだろう。「1984年に副大統領就任」というと、アサド前大統領(故人・現大統領の父親)が弟のリファアト副大統領(現大統領の叔父。現在フランスに亡命中)と対立した事件の直後ということで、前大統領にとっては忠臣であり、ニ代目当主(現大統領)に厄介払いされた格好になる。 シリアの秘密警察は宿敵イスラエルと対峙するため中東でも冷酷非情で知られているそうだが(かつて外国人登録のために行った地方の秘密警察の庁舎はのんびりしたものだったけど)、国民の隅々まで監視網が行き届いている。フセイン政権があれほどの制裁下で結局アメリカによる侵攻まで続いたのと同様なものだろうし、北朝鮮も似たようなものなんだろう。(引用開始)<シャロン首相>和平政策めぐり、国内に垣間見られる分裂 【エルサレム澤田克己】ユダヤ教の安息日「シャバット」にあたる7日、イスラエル各地のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)には多くのユダヤ教徒が集まった。重度の脳卒中で危険な症状が続くシャロン首相の回復を祈る声も聞かれたが、首相が昨年強行した占領地・ガザ地区からの撤退に反対したユダヤ教原理主義者は「彼のためになど祈らない」と反発するなど、国民の間にも和平政策をめぐる同国内の分裂を垣間見られた。(中略) こうした声の背景には、首相が昨年、ガザ地区にあったユダヤ人入植地すべてを撤去し、撤退を強行したことがある。 イスラエルでは95年、和平へ向けて「オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)」をまとめたラビン首相がユダヤ教原理主義者の青年に暗殺された。最近も、シャロン首相暗殺が起こりうると考える人が世論調査で8割を超えるなど、原理主義者の動きに対する懸念が高まっていた。 シャロン首相は6日に新たな脳内出血を止める手術を受けた後、脳へのダメージを抑えるために人工的なこん睡状態に置かれている。現在も危険な症状が続いているが、病院側は特別なことがなければ、安息日の終わる7日日没まで病状に関する発表を行わない方針だ。(毎日新聞) - 1月7日19時23分更新(引用終了) 野党(リクード)党首時代に「岩のドーム」訪問を強行してパレスチナ側の反発を招く一方で強硬派のイメージで登場したシャロン首相だった。その頃は最初から日本を含む外国マスコミでは悪役イメージだった(僕もそういうイメージだった)。また「(自分の国防相時代に)レバノンでアラファト(PLO議長・故人)を殺しておけば良かった」と過激な発言をしてヨーロッパからも嫌われた人物である。 ところがそのアラファト(外国での抵抗者イメージとは裏腹に私服を肥やしていたというが)は今は亡く、またシャロンは独断専行とさえいわれる強力なリーダーシップでガザ地区撤退を実行に移し、今度は強硬派から「裏切り者」呼ばわりされ命を付けねらわれたり呪われたりする。イスラエルの政界も大変である。宿敵アラファトは度々の危機を乗り越えて意外にもベッドの上で死んだが、今度はシャロン首相が死の床(いささか不謹慎だが、77歳の年齢を考えると政治的には死者だろう)にあって、イランの大統領に「死んじまえ」と悪罵を浴びせかけられている。 イスラエルの政治は概ね軍人出身(国民皆兵だから当然とも言えるが)の果断な政治家がリードしてきた。エジプトと和平したメナヘム・ベギン(テロリスト出身ながらノーベル平和賞を受賞)、パレスチナと和解したイツハク・ラビンなどはそのいい例だろう。例外的なのは首相や外相を歴任しノーベル平和賞も受賞したシモン・ペレスだが、彼はそのソフト・イメージによる外国での人気とは裏腹に、国内では今一つ人気が無いようだ。果断さに欠けるからだろうか。 シャロンはこうした「中東戦争を知る世代」の最後の生き残りだったが、ベンヤミン・ネタニヤフやエフード・バラクという、軍歴はあっても戦争を指導した事が無い世代が首相になったり政界の主流になるにつれ、どうもカリスマ的な政治家が消えつつあるようだ。非常にかじ取りが難しいパレスチナとの和平にあって、国民を信服させつつ手強いネゴシエーターであるアラブ人との交渉に堪える政治家が「シャロン後」に居るだろうか。 次はイラク。 昨年11月に人道援助活動中にイラクで誘拐され、三週間後に解放(状況は未公表)されたドイツ人女性考古学者ズザンネ・オストホフさん(43歳)へのマスコミによる「バッシング」が行われているという。「ドイツ人は私を憎んでいると思う。誰も私に味方せず、私を無鉄砲にも地雷や爆弾の間でイラクをうろうろする正気でない人間のように扱っている」と彼女は「シュテルン」誌とのインタビューで述べた。また在イラクドイツ大使館の彼女への対応も批判している。 彼女は解放直後に「イラクにまた帰りたい」と述べたと報じられ、その発言がナイーヴだと批判されたが、それについては「そんな事は言っていない。私が望んだのは娘と会う事だけだった」と反論。また解放直後のテレビ局とのインタビューでぞんざいな対応をして視聴者の反感を買った事については「人質になっている間の睡眠不足と、服用した薬の作用によるものだった」と述べた。また彼女の家族もバッシングの対象になっているという。 日本でも二年程前にイラク人質事件があって、人質や家族への「バッシング」が話題になったことがあった。その時は「こういう現象が起きるのは日本だけだ」としたリ顔に述べる人もいたようだが、ドイツでも似たようなものらしい。ふらりとイラクに行った人たちと、イラク情勢に通じまた現地での人道支援活動を続けていた人とを同列に扱っては失礼にあたるだろうけど。 なお今日になってオストホフさんはドイツ連邦情報局(BND)のイラクにおける情報提供者だったとも報じられている(「ヴェルト」紙)。情報提供によりいくばくかの礼金を受け取っており、2005年5月にザルカウィ・グループから彼女に脅迫状が来たのを機にBND側から関係を打ち切ったが、その後もBND要員との接触は続いていたという。こういう報道もバッシングの一種になるのだろうか。
2006年01月07日
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来年のワールドカップの組み合わせ抽選会が行われ、日本はブラジル、クロアチア、オーストラリアと同組になった。まあちょうどいい対戦相手では無いだろうか。「順当にいけば」予選突破はブラジルとクロアチアだろうが、日本がどれだけ世界を驚かすことができるか。 一方ドイツは予選でポーランド、コスタ・リカ、エクアドルと対戦するが、開幕戦は6月9日にミュンヒェンでの対コスタ・リカ戦である。ドイツは比較的与し易い相手が当たったが、ポーランドとは因縁の対決になりそうだ。 クロアチアといえば、ユーゴ戦犯法廷に指名手配されていたアンテ・ゴトヴィナ元将軍が潜伏先のスペイン領カナリア諸島で逮捕された。オーストリアなどが主張するクロアチアのEU加盟に道が開けたわけだ。ゴトヴィナはセルビア人を虐殺した容疑がかけられているが、クロアチアでは国土を回復した「英雄」であり、首都ザグレブでは退役軍人が釈放を求めてデモをしているという。・・・・・・・ 強硬派で知られるイランのマフムード・アフマディネジャド大統領がまた物議を醸す発言をした。(引用開始)イスラエルは欧州移転を イラン大統領 【テヘラン9日共同】イランの保守強硬派のアハマディネジャド大統領は8日、イスラム諸国会議機構(OIC)特別首脳会議出席のため訪問したサウジアラビアのメッカで記者会見し「シオニスト(イスラエル)は、欧州に国家を建設できる」と述べ、イスラエルの欧州移転を主張した。国営イラン通信が伝えた。 また、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)について疑義を示した。 イランはパレスチナ人を支援し、イスラエルの存在を認めていない。大統領は10月、「イスラエルは地図上から抹消されるべきだ」と発言、国際社会から非難を浴びており、今回の発言もイスラエルを支持する欧米の反発を呼ぶのは確実だ。 大統領は「欧州の数カ国は(ナチス・ドイツの)ヒトラーが数百万人の無実のユダヤ人を殺したと主張し、反証を挙げる者を非難して監獄に送っている。こういった主張は受け入れられない」と強調した。(共同通信) - 12月9日9時45分更新(引用終了) 大統領は具体的には「もしヨーロッパがかつてユダヤ人を迫害したと思うのなら、イスラエルはドイツかオーストリアの一部を割譲して建国されるべきだ」と述べたという。またイスラエルが1948年に建国されたのも、ヨーロッパ人のユダヤ人迫害への罪悪感と同情からで、本来ヨーロッパの問題であるユダヤ人問題を中東に押し付けた、と主張しているようだ。 まあこの主張には一定の真実はあるかもしれないが(それについては後述)、やはりこういう発言はまずいだろう。まあイラン政権のこうした姿勢はイスラム革命を率いたホメイニ師以来のもので今に始まったことではないし、「悪の枢軸」と当のイランを呼ぶ某超大国の政権とレベルはさして変わらないのかも知れないが。 イランは核開発問題で欧米諸国、特に交渉相手であった英独仏の強い圧力にさらされているのもこうした発言の背景なのだろうが、洋の東西を問わずどこの国でもこうしたポピュリズム的な発言が増えているように感じる。あとは国家評議会を率いる現実派のハーシェミ・ラフサンジャニ元大統領との権力闘争の中、強硬発言でラフサンジャニなど聖職者では無くむしろ大衆の支持を得たいという考えもあるのだろう。 この発言に対する反発は当然大きく、フランスのシラク大統領との定期会談に臨んでいたドイツのメルケル首相は「受け入れ難い」とこの発言を厳しく非難、ドイツ外務省も大使の召還などを検討しているという。またドイツ・ユダヤ人協会はイランに対する制裁を要求している。国連のアナン事務総長(予算問題とかでこの人もぼろぼろだが)も「衝撃を受けた」と述べ、加盟各国に反セム主義との対決姿勢を呼び掛けた。 イスラエルは確かに欧州からのユダヤ難民が主体になって建国された国だったが、もともと中東にいたユダヤ人も多くいる。中東ではキリスト教に比べイスラム教(やオスマン帝国)が他宗教に比較的寛大だったこともあって欧州系のユダヤ人に比べて伝統的なユダヤ教が保持され、彼らは現在はむしろイスラエル内では保守派になっている。ちなみにイスラエルのモシェ・カツァヴ大統領はイラン出身で、なんとイランのハータミー前大統領とは同じ村の出身だそうだ。今もイランには千人単位だが従来通りユダヤ人が暮らしている。 最近はソ連崩壊後の混乱を嫌ったロシアからのユダヤ人移民が多数を占めるようになっており、その数はイスラエル人口の四分の一以上になっているのでは無いかと思う。もともとヨーロッパ系のユダヤ人にしても一番多かったのはポーランドからで、ドイツはユダヤ人難民の最大の「供給国」ではなかった(ちなみに世界でユダヤ人が最も多く住んでいるのはイスラエルでは無くアメリカ)。 まあホロコーストを行ったドイツ人が罪を償えという意味で「イスラエルをドイツ(とオーストリア)に」との発言なのだが、ドイツ語を聞きたくも無い、ドイツに居たく無いというユダヤ人にドイツの一部を与えて喜ぶだろうか。 中東諸国では「ホロコーストは嘘(ユダヤのプロパガンダ)」というのは結構根強い支持がある。僕自身もトルコで見聞したが、最近はインターネットなどで広まっているようだ。(続報) その後イラン国内でアハマディネジャド大統領の演説が放映され、その中で大統領は「ホロコーストは神話」と繰り返した。「欧米諸国では神の存在に疑問を呈しても攻撃されないが、ホロコーストの有無を論じるとシオニストの代弁者達に糾弾される。つまり欧米諸国ではホロコースト伝説は神以上の存在だ」と述べた。 ドイツ政府はテヘラン駐在大使を召還、また欧州議会のダニエル・コーン・ベンディット議員(緑の党)は「このような国は国際社会から孤立させられるべきである」として、来年ドイツで開催されるサッカーのワールドカップからのイラン代表(グループD)の追放を提案した。 またイスラエル首相府のラアナン・ギッシン報道官は「神は称うべきことに、我が国はテヘランの過激主義者の政府の企みを阻止する手段を持っている」と軍事的威圧を思わせる発言をし、また「『最終的解決』(ホロコースト計画のナチス側呼称)は二度と行われることは無いだろう。イスラエルは数千年前からユダヤ民族の故郷であり、それは永遠である」と付け加えた。 緑の党議員による「ワールドカップ云々」という発言はちょっといただけないが、モスクワ五輪とかもあったしなあ。 ちなみにイスラエルはアジア大陸にはあるが、カザフスタンやトルコと同様に、欧州サッカー協会に属している。以前はアジア・サッカー協会に属していたが、アラブ諸国のボイコットに遭いヨーロッパに属している。今回の予選でイスラエル代表は健闘したが後一歩及ばなかった。
2005年12月10日
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戦後の混乱が続くイラクで、初めてドイツ人が誘拐された。(引用開始)<イラク>武装グループがドイツ人女性考古学者を誘拐 ドイツ政府の発表などによると、イラクで医薬品を運ぶ人道支援事業にあたっていた女性考古学者、スザンネ・オストホフ(43)さんが誘拐されたことが29日わかった。ドイツ人が誘拐されたのは初めて。犯人グループはドイツがイラク政府に協力しないよう要求、聞き入れられない場合は殺害すると明言している。(毎日新聞) - 11月29日20時48分更新(引用終了) 憎むべきことに、またもや善意の人が誘拐された。 しかも考古学者となればまったく他人事とは思えない。僕はこのバイエルン出身の女性とは面識はないが・・・。ドイツのネット上の記事では彼女を「考古学者」というより、イラク人に薬品を運ぶ援助団体に属していた、と報じられている。43歳の彼女には娘が一人いる。 彼女は長年イラクで生活し(研究と人道援助のため?)、ドイツには時々帰ってくるだけだったという。イラク戦争終結(2003年)後にはヨルダン経由でいち早くイラクに薬品を運搬した最初のドイツ人となった。10月にザルカウィ・グループから脅迫を受け、アメリカ軍の保護でバグダッドに戻ったこともあったというが、先週金曜日にイラク北部のニニヴェ(古代のアッシリア帝国の旧都で遺跡がある)で運転手とともに誘拐されたらしく、犯行グループが送りつけたヴィデオには目隠しされた彼女と運転手が跪かされ、周りを武装した覆面の民兵?が取り囲んでいる様子が映し出されている。 犯人グループはドイツ政府に対し、新生イラク政府への協力停止を要求、さもなくば人質を殺害するとしている。メルケル首相は誘拐を非難するとともに、ドイツ政府はただちに対策室を設置しアメリカに救出の協力を要請、対応に追われているが、身代金要求とは別に、最悪の事態を想定する悲観的な見方もある。犯人グループについては、フセイン政権に忠誠を誓う残党グループではないかという見方もある。 ドイツ政府はアメリカ独走によるイラク戦争に反対したのだが、ドイツ人が誘拐されたのは初めてのことである(既に昨年、外交官を警護していた内務省要員がバグダッド近郊で襲撃され殺害される事件は起きているが)。もはや見境もないようだし、理屈と膏薬はどこにでも付くというが、犯人の勝手な理屈である。何がレジスタンスだ。 この誘拐事件はドイツによるイラク復興協力にも影響を及ぼしているらしい。ドイツ考古学研究所は古代遺跡バビロン(古代バビロニア王国の都の遺跡)の保存修復のため専門家を派遣する準備を進めていたが、この件もあって延期になるようだ。なおドイツ考古学研究所はバグダッドにも支部を持っていたが、2003年のイラク戦争以降は要員を引き上げ閉鎖されている。オストホフさんはこのプロジェクトのメンバーではないが、イラク入国前にドイツ外務省から警告を受けていた。 聖書にも登場する古代遺跡バビロン(「バベルの塔」)は、110年前にドイツ人考古学者ロベルト・コルデヴァイによって発掘されて以来、調査が続いていたが、湾岸戦争(1990年)以降停止していた。サダム・フセイン政権時代には発掘と共に観光開発も進められ、地下駐車場やレストラン、さらには大統領宮殿の建設によって遺跡の破壊が危惧されていた。2003年のイラク戦争後はアメリカ軍やポーランド軍が駐留、軍用車両の通行などで遺跡がダメージを受けている、とユネスコなどは危惧しており、ドイツ人考古学者の派遣はそれに応えてのものである。 なおバビロンのもっとも重要な遺構の一つであるイシュタル門は発掘後ばらばらの欠片のままベルリンに移送され、現在はペルガモン博物館で復元された姿を見ることができる(一部はイスタンブル考古学博物館にもある。当時イラクはオスマン帝国の領内だったため)。現地でも復元されているが、オリジナルと違い青い釉が掛かっておらず、また一回り小さいようである。なお現地での復元に用いられたレンガには「サダム・フセインがこの都を修復した」と刻まれているようだが、これはイラク(メソポタミア)の支配者およびイスラエルとの対決者(バビロニア王ネブカドネザルはイスラエル人を屈服させ強制移住させた「バビロン捕囚」の王として聖書に登場する)として古代バビロニアの帝王と自己を同一視した表れとされる。ブリューゲルの絵画(ウィーン美術史美術館蔵)などでおなじみの、高さ90mあったという「バベルの塔」のほうは基礎部のみが残っており(紀元前4世紀にバビロンに都したアレクサンドロス大王が再建のために地均ししたが、彼の急死で工事が中断した)、現存していない。(追記) オストホフさんは12月19日に無事解放された。
2005年11月30日
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日本シリーズはロッテの四連勝、元ダイエーの井口が居る大リーグのワールドシリーズもホワイトソックスの四連勝であっけなく終わってしまった。ロッテは31年ぶり、ホワイトソックスはなんと88年ぶりだそうだ。88年前と言うと1917年、ロシア革命の年だそうだ。すげー。 ヴァレンタイン監督はやはり名将なんだろうか。しかし阪神はいいとこなし、タイガース・ファン(というより星野ファン?)のうちの家族は怒りの余りスポーツニュースがそれに触れるとテレビを消してしまう。阪神もソフトバンクもちょっと可哀想だったな。まあロッテが強いのは確かだと思うが。 知らなかったのだがアジア・シリーズと言うのが今年からあるみたいで、ロッテには頑張って欲しいですね。僕は以前韓国のプロ野球に興味があって、日韓野球を見に行ったこともある。中日に来た宣銅烈が現役の頃だから、だいぶ前だが。・・・・・・ 西アジアの政治状況がどうも芳しく無い(まあいつものことだが)。今日は関連ニュースの切り貼り。 まずは核開発をめぐり欧米と対立を深めるイランから。(引用開始)<イラン大統領>イスラエルを「地図から抹消」発言 イラン大統領が26日、イスラエルを「(地図上の)恥ずべきシミ」と表現、「地図から抹消される」と発言し、国際社会の反発を招いている。イランはデモなどでも「イスラエルに死を」とのスローガンが一般的に使われているが、大統領自身がこれほど直接的に表現するのは異例で、国内からも戸惑いの声が上がっている。(毎日新聞) - 10月28日11時24分更新<イスラエル>イランの国連追放を要求 大統領発言で アフマディネジャド・イラン大統領のイスラエル抹消発言に対し、シャロン・イスラエル首相は27日、イランの国連追放要求を示すなど、激しい非難で応酬した。イランの核開発に神経をとがらすイスラエルは、大統領発言をテコに国際社会に対する反イラン・キャンペーンを加速する構えだ。(毎日新聞) - 10月28日11時32分更新(引用終了) うーん、こりゃまずいでしょう、やっぱり。まあ「ホメイニ時代から続いている」と言えばそれまでだが。 「地図のシミ」ねえ。アラブ諸国やイランなんかはイスラエルを「十字軍国家」とみて、かつての十字軍国家がそうであったようにいつかはイスラム教徒によって滅ぼされるべきものと見ている。下に出てくるシリアのアサド大統領の執務室には十字軍を破ったアイユーブ朝のサラディンの肖像画が飾ってあると言うし、イラクのフセイン元大統領は在任中にサラディンと同郷(ティクリート出身)と言うことをことさら強調していた(もっともサラディンはクルド人だと聞くが)。 そういえば1948年にパレスチナ分割を定めた国連決議の際は、イランはどっちにまわったのだろうか?革命前のイランはイスラエルと国交があったと言うし、ユダヤ人もかなりイランにいたそうだが。 次はイランと並んでアメリカの「標的」とされているシリア。(引用開始)<国連調査委>レバノン元首相暗殺にシリア関与の報告書 今年2月に起きたレバノンのハリリ元首相暗殺事件を調べていた国連の独立調査委員会は20日、レバノンに強い影響力を持つシリア治安当局上層部の関与を指摘する報告書を安保理に提出した。報告書は、シリア当局者が虚偽情報を示し、調査をミスリードしようとしたと批判。調査継続の必要性を強調している。(毎日新聞) - 10月21日11時36分更新<国連安保理>31日に外相会合か シリアの暗殺事件関与で マコーマック米国務省報道官は24日、国連報告書がハリリ元レバノン首相暗殺事件へのシリアの関与を指摘したことを受け、新たな対シリア決議案を検討するための安保理外相会合を31日に開くことで調整している、と明かした。また、米政府は事件の容疑者が特定された場合、国際法廷で裁くことも視野に入れ始めた模様だ。(毎日新聞) - 10月25日13時49分更新(引用終了) 対シリア制裁決議案では米仏が珍しく?足並みを揃えている。イランの核開発にせよこのシリア制裁にせよ、ロシアや中国が拒否権を発動して実質的な制裁決議は出来ないかも知れないが。 このハリリ元レバノン首相暗殺事件が起きた時、僕はとっさにイスラエルを連想した。シリアなんかでは今でもイスラエルが黒幕だと皆が信じているらしく、またアメリカ大使館の前でデモが起きているらしい。まあこういうことを書いたらイスラエルに失礼だが、暗殺作戦の前歴はあるし、どうもハリリを殺してシリアが得るものが少なすぎるように、いやむしろ失うものが多すぎるようで(実際レバノン支配を失ったのだが)、あまりに筋書きがうまく出来過ぎていると思ったからだ。 同じようなことは「あの」田中宇さんも書いてますね(まああの人は陰謀論好きだしねえ...)。暗殺の黒幕の一人と言うカナアン内相の「自殺」事件なんかは、アサド政権をめぐる抗争なんかも絡んでいるようだが、ともかく国連報告書が出てしまってはまずいだろうなあ。 いきなりアメリカがイランやシリアを攻撃することは無いだろうが、今後もこの地域に関わって行く以上、イラクみたいに何年も立ち入りできなくなると言うのは非常に困る。
2005年10月28日
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(9月10日 記)・9月2日 金曜日 休日のため皆でシワスに行く。 9月4日はトルコ共和国建国の父ケマル・アタチュルクが主宰したシワス会議(1919年)の記念日でそのお祭りがあるので、市街中心部の広場には特設ステージが設けられ、周辺には無数の赤いトルコ国旗や巨大なアタチュルクの肖像が掲げられていた。一見するとかつてのナチス時代や現代の北朝鮮を彷彿とさせる光景ではある。トルコ人の愛国主義は甚だしい。 シワスといえば、地元のサッカーチームであるシワススポルは今年悲願の一部リーグ(スペルリーグ)昇格を果たし、なかなか好調なようだ。ドイツからテクニカルトレーナーを招聘するなどして補強にも熱心なようで、シワス市民も熱狂的に応援している。もっとも、なぜかイスタンブルのチームであるフェネルバフチェのファンもかなり多いのだが、これは日本中に巨人ファンや阪神ファンがいるのと同じだろうか。 この日はエルダールに連れられてトルコ人学生と共にハマムに行く。ハマムというのはトルコ式の公衆浴場のこと、つまりトルコ風呂である。僕の小さいときは日本では「トルコ風呂」なんて恥ずかしくて口に出来なかったものだ(トルコへの偏見払拭に尽力した在日トルコ人の運動もあって、今は「石鹸の国」なんて名前に変えられているが)。本当のトルコ風呂ではもちろんいかがわしいサービスなどは一切無い。まず入り口からして男女別々だし、背中を流してくれる三助も男風呂では屈強なおじさん、女風呂ではごついおばさんがやっている。 トルコや中近東のこうした浴場文化は、むしろローマ帝国以来のものであり、ローマ文明の正当な後継者が現在のヨーロッパなどではなく(中世ヨーロッパ人は風呂を嫌った)、中東文明であるという証左の1つとなる。もっとも、ローマ時代の浴場は混浴だったらしいけど。こうした公衆浴場文化で比較可能なのは、辛うじて日本の江戸時代の銭湯かもしれない(こちらも混浴だった)。フィンランドのサウナはいつ頃始まったんでしょうね。 僕らが行ったのはメフメット・アリ・ベイ・ハマムというところで、16世紀に設立された古いハマムである。現在の建物は19世紀末のもののようで、博物館員であるエルダールがその修復作業を手がけたので彼のなじみのハマムらしい。 入り口を入るとホールになっていて、いくつかの小部屋に繋がっている、この小部屋は風呂を浴びた後に休息するための個室である。この個室の中で服を脱ぎ、腰に布を巻いて(トルコ人は決して人前で全裸にはならない)、浴室に進む。 浴室もいくつかの部屋に分かれている。内部は暖かく猛烈な湿気で、あっというまに汗が吹き出てくる。最初はサウナのような小部屋に入りじっくりと汗を流し、その後中央ホールに出て中央の大理石造りの台の上に寝そべってさらに汗を流す。そこで三助が登場する(三助はオプションで、自分で身体を洗っても良い)。 椎名誠のエッセイ「イスタンブールでなまず釣り」(実際にはイスタンブルではないのだが)には、彼がイスタンブルのハマムでプロレスラーのように屈強な三助にもみくちゃにされてヘロヘロになる様子が面白おかしく描かれるが、ここのハマムはそれほどではなかった。垢すり布のようなもので足や手、背中にお湯をかけつつこすっていくが、恐ろしい量の垢が出る。指の太さくらいの垢の塊がいくつも出来る。僕らは発掘で埃まみれになっていただけに垢の量も格別かもしれない。さらに石鹸で頭をごしごしと洗われ、頭からお湯をかけられて終了である。 風呂から上がったら、湯冷めしないよう身体中にタオルを巻いてさっきの個室に戻り、お茶を飲みながら好きなだけゴロゴロしていればよい。三助サービスやお茶の代金込みでおよそ10新トルコ・リラ(=800円強)くらいの値段だった。タオルや風呂桶などは持参しなくても向こうで用意してくれる。 僕らは宿舎で毎日冷たいシャワーで我慢していたから、ハマムは格別の場所だった。トルコ人は旅立ちや人生の節目など、折に触れてハマムに赴いて垢を落とし、さっぱり心機一転して事に臨む。普段は日本人ほど風呂に入らないけど(まあヨーロッパ人だって風呂にはそれほど入らないが)。
2005年09月02日
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今日は昼間に吹雪になったが雪は積もらなかった。 昨日のレバノンのハリリ前首相爆殺事件を受けて、アメリカは安保理にレバノン情勢を提議すると共に、シリアを黒幕と断定し大使を召還する措置を取った。アメリカは何か情報を掴んでいるのかもしれないが、こうトントン拍子となるとますます爆殺はシリアがやったのでは無い、と思いたくなる。 レバノン当局は容疑者一名を拘束したそうだが、イスラエルの手先とかアルカイダ系と発表されるのだろうか。 昨日の日記でイスラム教の「スンニ派とシーア派がライバル関係にある」とさらりと書いたが、実のところ僕はいわゆる中東(ただし先史・古代)を研究対象にし毎年赴いているにもかかわらず、イスラム教(イスラームと発音するのが本当は正しいようだが、慣例に従いイスラムで統一する)には全く詳しくない。信者でもないので教義や信仰に疎いのは仕方ないにしても、歴史的経緯くらいは知っておくべきではないかと我ながら思う。 というわけで、シーアとスンニの抗争史について、本で読んだことを手短にまとめることにする。手元に本が多くないので、講談社新書「イスラームの世界史」全三巻、岡倉徹志「イスラム世界のこれが常識」(PHP研究所)くらいである。 「スンニ」はアラビア語で「慣行」、「シーア」は「党派」のような意味がある。だから「シーア派」というのはいわば「派派」と言っているのと同じで「頭痛が痛い」式の誤りになる。まあ「アラー」は「神」という意味だから、「アラーの神」という日本での言い回しも全く正しくない(そもそも唯一神だし)。「シーア」というのは「シーア・アリー」つまり「アリー派」の略号に過ぎない。 では「シーア・アリー」とは何か。これはなんとイスラム教初期にまでさかのぼる。 イスラム教を始めアラビア半島をほぼ支配下におさめた預言者ムハンマドが632年に死んだとき、ウンマ(信徒の共同体)はその代表を決めることを迫られた。ムハンマドは後継者を指名せずに逝ったからである。 当時ウンマには三つの派閥があり、ムハンマドと共にメッカからメディナに移住(622年)した最古参層、メディナでムハンマドに援助した層、そして当初ムハンマドに反対しのちにムハンマドのメッカ征服によって改宗したメッカの有力者クライシュ族の一門ウマイヤ家があった。結局伝統に従い、最古参層でムハンマドの妻アーイシャの父親であるアブー・バクルが選ばれた。 アブー・バクルは初代の「ハリーファ・ラスール・アッラー」、つまり「神の使徒の代理人」と呼ばれ、世俗指導面での後継者とされた。この「ハリーファ」が訛って「カリフ」と呼ばれるようになる。2代目はその親友ウマル(在位634年~644年)、3代目は有力者ウマイヤ家から選ばれたウスマーンだった。ウスマーンはウマイヤ家の一門を重用しすぎたため古参層に恨まれ、656年に暗殺された。 ウスマーンの死後、ムハンマドの従兄弟で娘婿(ムハンマドの娘ファーティマの婿)でもあるアリーがカリフに選出された。ところがシリア総督でウマイヤ家一門のムアーウィヤやムハンマドの未亡人アーイシャはアリーに反対し、既に中東の大部分を支配していたイスラム教徒同士の内戦になった。カリフが神ではなく人間の互選によって選ばれることに不満を持ったアリーの支持者の一部(ハワーリジュ派)はアリーとムアーウィヤ双方に刺客を送り、アリーの暗殺のみに成功した(661年2月)。生き延びたムアーウィヤはカリフとしてイスラム世界の単独支配に成功し、ダマスカスを都としてウマイヤ朝を開く。 この内戦の際アリーを支持していた人々は「シーア・アリー」(アリー派)と呼ばれていたが、これが「シーア」の起こりである。彼らはムアーウィヤをカリフとは認めなかった。680年にムアーウィヤが死んだ際、ムアーウィヤは息子のヤジードを後継カリフに指名したが、当然アリーの支持者はこれに反対し、生き残っていたアリーの次男フセインを担ぎ出したが、旧暦1月10日にイラクのカルバラーでヤジードの軍に包囲殲滅され殺された。シーアはこの日をアーシュラーと呼び、自傷してフセインの殉教を今も悼む。 シーアは預言者ムハンマドと血の繋がりのあるアリーとその子孫に一種の超能力的神聖性を認め、最高指導者(イマーム)と崇めた。それ以外は「ただの人」であり、イスラムの指導者たりえないとする。一方ムハンマドの慣行(スンナ)と聖典コーランのみを崇めるべきとする人々はシーアを神ではなく人間を崇拝するものと批判し、スンニ派と呼ばれる。 世襲のウマイヤ朝支配下でもシーアは生き続けた。ウマイヤ朝が衰退した8世紀半ば、やはりムハンマドの親戚にあたるアッバース家は中東では辺境にあたる北東イランに宣教師を派遣してシーアを扇動して叛乱を起こさせ、それに乗じてウマイヤ朝を滅ぼした(750年)。ウマイヤ家の一人はスペインに逃れて後ウマイヤ朝を興し、イスラム世界は分裂する。 シーアの支持でカリフ位についたアッバース家だったが、一転してスンニの立場をとりカリフ位をアッバース家の世襲とし、またアラブ人の特権を廃してイスラム教徒であれば出自に関係無く取り立てたので、この時代の中東はイスラム教に改宗するものが増えた。しかしバグダードを首都としたアッバース朝の栄華は長く続かず、9世紀に入ると内紛によって分裂し、実権はイラン人やトルコ人の軍閥が握り、宗教的権威のみの存在となる(日本の天皇の存在に近い)。 イランではイスラム以前から独自の宗教や文明が栄え、また民族的にもセム系のアラブ人と異なるペルシア系(インド・ヨーロッパ語族で、現代は使う文字こそアラビア文字だが言語的にはドイツ語やロシア語により近い)の後裔ということもあり、イスラム体制下にありながら独自の信仰を希求する傾向があった。それがシーアへの支持へと繋がる面があったようだ。特に独特な聖人信仰は12世紀以降広く受け入れられた。イラン北東部マシュハドにある聖地イマームザーデ廟などはその最たるものだろう。 874年にアリーの子孫で12代目のイマーム・ムハンマド(5歳)が礼拝後に姿を消すと、その支持者はムハンマドは死んだのではなく隠れただけであり、いつか救世主(マフディ)となって戻ってくるという教義の「十二イマーム派」を始めた。シーア派でもっとも大多数を占める十二イマーム派は今も救世主の到来を待っている。 シーアの中にはその他、穏健派であるザンジ派、アッバース朝に対する叛乱を続けたイスマイル派などがある。イスマイル派は10世紀初めにはエジプトでファーティマ朝を興すほどの力を持った。またイスマイル派のさらに分派であるニザール派はシリアからイランにかけての山城を根拠として「暗殺教団」として恐れられた。 シーア軍閥の1つに北イランを本拠とするブワイフ朝があり、946年にバグダードに入城する。ここにスンニのカリフを権威として認めつつも実権はシーア政権が握るという共存関係が成立、スンニ派のカリフの都であるバグダードでシーアの宗教行事であるアーシュラーが行われた。現在イラクにシーア派が多いのはこの頃から始まったようである。 1055年、トルコ人が中央アジアからバグダードに入城、スンニ派政権が復活した。トルコ人の新興軍事政権の下で古い文明の民であるイラン人官僚が重用され、イラン人はその民族意識を昂揚させてイスマイル派の活動も活発化し、スンニ政権下にも関わらずシーアへの傾斜は強まっていく。 1258年、中央アジアから今度はモンゴル軍が侵入しバグダードを攻略、アッバース朝の第38代カリフは殺されてしまった。アッバース朝の一族はエジプトに逃れてカリフを名乗り、また16世紀にエジプトがオスマン(トルコ)帝国に攻略されるとオスマン帝国の皇帝がそれを引き継いで自らカリフを名乗るが、事実上イスラム世界・スンニ派を束ねるカリフは居なくなったも同然だった。シーアはこれを「不信心者のスンニに対して神の遣わした罰」だとしている。 なお1924年、オスマン帝国を引き継いだトルコ共和国は、カリフを名乗っていた元皇帝の弟を国外追放し、カリフ制廃止を宣言している。今のサウジアラビア王家の祖であるイブン・サウードはこれを受けて自らカリフを名乗っているが、サウジ以外で認めているものはいないだろう。 一方1501年に、神秘主義教団の長だったイスマイルはイラン高原を統一、サファヴィー朝を興してシーアを国教としてスンニを弾圧すると共に、オスマン帝国の領内に宣教師(クズルバシュ)を送ってシーアへの教化を図った。オスマン帝国とサファヴィー朝はイラクを巡って激しく戦ったが、シーアとスンニの争いという構図でもあった。イランでのシーアの圧倒的優位はこの時代に定まった。 現在の国名でいうとアゼルバイジャン、イラン、イラク、レバノンはシーアが多数派、その他の国ではスンニが多数派になっている。レバノン、シリアやイラクのようにシーアとスンニの主導権争いが深刻な政争や弾圧に発展したところもある。1987年には聖地メッカでサウジ治安部隊とイラン人巡礼団が衝突する流血の惨事が起きた。 シーアが多数を占めるイランでは1979年に革命が起き、聖職者に政治を委託する「ヴェラヤティ・ファーギー」理論に基く政権運営が行われている。これは「中世への回帰」などではなく、近代的エリート層を生み出せなかったイラン社会の苦渋の選択とする評価もある。
2005年02月15日
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今日も曇りの一日だった。以前に比べても生暖かい日が多いし、ドイツの温暖化は進んでいるらしい。 イスラエル訪問中のドイツのホルスト・ケーラー大統領は昨日イスラエル国会(クネセト)で演説し、時々涙で声を詰まらせながらユダヤ人への謝罪の念を表明すると共に、ドイツ民主主義の極右勢力との対決姿勢を強調した。注目された演説は結局ドイツ語で行われ一部議員は抗議の意をこめて退席したが、大統領は演説の最初をヘブライ語で行うなど配慮を見せた。 さて20世紀の民族殺戮(ジェノサイド)というとナチスによるユダヤ人「最終的解決」が圧倒的に有名だが、時期的に先立ち規模において追随するのはオスマン(トルコ)帝国によるアルメニア人虐殺事件である(日本軍を挙げたがる人もいるでしょうが)。今日グルジア首相の不審死(一酸化炭素中毒?)のニュースを見ていたら、たまたまアルメニア関連のニュースを見かけたので、まずその紹介。(引用開始) 親露アルメニア、イラク派兵 対米協調に活路? 46人小規模部隊【モスクワ=内藤泰朗】ロシア南方に広がるカフカス地方で唯一の親露国アルメニアは、年明けに四十六人の小規模部隊をイラクに派遣するが、これによりロシアを除いた旧ソ連諸国の対米協調が一段と明確になってきた。イラク派兵に慎重なロシア、欧州との差には、旧ソ連圏におけるロシアの影響後退と、対米協調で活路を見いだそうとするこれら諸国の思惑を示すものといえる。(中略) アルメニアが、強固な関係を維持するロシアとの間には、親米路線を歩み、すでにイラクに派兵するグルジアとアゼルバイジャンが横たわる。しかし、ロシアが「テロとの戦い」を理由にグルジアとの国境を事実上、封鎖したため、同国経由の対露貿易主要ルートも閉鎖されて経済関係が後退。カスピ海の石油を欧州に運ぶ石油パイプラインのルートからもはずれたことで、アルメニアの疎外感は募っていた。 同国経済の20%以上は、欧米在住の在外アルメニア人たちからの仕送りによるとされる。ここにきて対米協調を打ち出した背景には、周辺国の親米化が進む中、孤立化をこれ以上深められない国内事情が絡んでおり、ロシアに頼れぬアルメニアの苦渋の選択だった。(後略)(産経新聞) - 12月30日2時34分更新(引用終了) アルメニアはコーカサス山脈の南側にある面積3万平方キロ(甲信越地方と同規模)、人口380万(静岡県と同程度)の山がちな小国である(地震も多い)。旧ソ連の共和国の一つで、共和国格としては最小の国だった。同じ旧ソ連の共和国で東の隣国・アゼルバイジャン(トルコ系)とは、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡る民族紛争で実質的に交戦状態にあったが、今は停戦中である。 国民の多くはアルメニア人で、その言語はインド・ヨーロッパ語族に属するものの独立性が強く、グルジアなどと同様に独自のアルファベットをもち、また古くからのキリスト教(アルメニア正教)国である。アルメニアの有名人というと「剣の舞」で日本の小学生にもおなじみのソ連の作曲家アラム・ハチャトゥリアン、ソ連副首相だったアナスタス・ミコヤンなどが居る。他にも指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン、テニス選手のアンドレ・アガシはアルメニア系だそうだ。 今でこそ小国だが、かつてアルメニア人は現在のトルコ東部に広く分布していた(現在ではシリアにアルメニア人のコミュニティが残っている)。例えば1880年のシワス県(トルコ中部)での人口統計によれば、県の人口75万のうち3分の1はアルメニア人で、最大の民族集団を形成していた(「トルコ人」はシーア派、スンニ派、アラウィ派などに分かれていた)。宗教的に寛容なオスマン帝国の支配下でアルメニア人とトルコ人、クルド人は共存していた。アルメニア人はその商才を生かしてユダヤ人と並んでオスマン帝国の経済を牛耳っていた。 ところが19世紀末に民族主義思想が中東にも及ぶと、キリスト教徒たるアルメニア人は自治権拡大を目指す運動を始めた。これはトルコ領に野心のあったロシアが背後にあったことは間違い無いだろう(同じやり方でロシアはオスマン帝国支配下でキリスト教徒・スラヴ族の多いバルカン半島への影響力を強めた)。一方イスラム教徒側の反発も大きくなり、1894年に最初の反アルメニア暴動が首都イスタンブルで発生、数万人が殺害されたという。さらに2年後にはアルメニア人革命勢力による武力蜂起事件をきっかけにまたも暴動が発生し多数が犠牲になった。アルメニア人のうち富裕な者は西欧諸国やアメリカに移民するものが多くなった。 第一次世界大戦(1914年~)ではオスマン帝国はドイツ側に参加、コーカサス方面でロシア軍の攻勢を受けた。ロシアはオスマン帝国領内のアルメニア人を扇動し、反政府運動を促しまたロシア軍に投じる者もあった(オーストリア軍内のチェコ人と同じ行動である)。1915年4月、オスマン帝国の実権を握っていたエンヴェル・パシャ、タラート・パシャら青年トルコ党政権はアルメニア人への対処を決定、トルコ東部でアルメニア人成人男性の多くが捕縛されて殺害され、女子供は追放された。同月英仏を中心とする連合軍が首都近くのガリポリ(ゲリボル)に上陸し、またコーカサス戦線でロシア軍が大攻勢に出たことでこの虐殺はエスカレートし、1921年までに最低で60万、最高で200万(アルメニア側の主張)のアルメニア人が組織的に殺害されたという。 トルコでは1918年の敗戦と共にエンヴェル、タラートらは失脚し、革命中だったロシアに亡命し、エンヴェルは戦死、タラートはアルメニア人に暗殺された。ムスタファ・ケマル率いるトルコ大国民会議(のちのトルコ共和国)の軍隊はトルコ人やクルド人への報復に出るアルメニア人勢力を排除しつつコーカサス方面に進撃、ロシア革命で成立したソ連政府と1921年にカルス条約を締結して講和し、トルコ・ソ連国境を画定した(第2次世界大戦の末期、スターリンはこの条約の無効を言い出して中立国トルコに東部領土の割譲を迫る)。ソ連の一共和国となったアルメニア領は、現在の小さな範囲に制限され、またこの時までにトルコ領内にアルメニア人コミュニティはほとんどなくなった。 アルメニア人はこの虐殺を決して忘れず、在米・在欧アルメニア人団体は強力なロビー活動を行い欧米の政府にアルメニア問題への注意を喚起している。またアルメニア人組織によるトルコ外交官の暗殺も相次いだ。またアルメニア憲法はカルス条約を認めておらず、現在のトルコ東部領土はアルメニアに属すると主張している。 一方トルコ政府は、殺されたのはロシアに通じたアルメニア人のみで正当な軍事行動であったこと、また現共和国政府(1923年に成立)はオスマン帝国(実権を握っていたエンヴェルやタラート)の罪とは関係が無いことを理由に、問題の存在や謝罪一切を拒否している。アルメニア人ロビーの活動はキプロスやクルド人問題で孤立しがちなトルコの反発も招き、主張は平行線を辿ったままである。トルコ・シンパの人が書いた本ではアルメニア人の存在は「スルー」されている一方で、アルメニア・シンパの書物ではトルコ人の罪が一方的に書かれている。 僕は毎年トルコ中部のシワスに調査に赴いているが、あちこちでアルメニア教会の跡、十字架が彫られた石碑、独特のアルメニア文字が彫られた墓碑などを見ることが出来る。ただしトルコではアルメニア人の話題はタブーで、その歴史に関する書物などはほとんど出ておらず、むしろアルメニア共和国でのほうが多い。 昨年の夏、舗装道路も無い隠れ里のようなアクチェカレというシワス県内の村に行ったが(遺跡を見るため)、そこでは20世紀の始めまでアルメニア人とトルコ人が共存し、村人の話では虐殺事件も起きなかったという。今はアルメニア人は居ないというが、どこに行ってしまったのだろうか。タブーとはいえアルメニア人の記憶はトルコに残されている。 僕の知り合いの博物館員は、トルコ東部のエルズルムでローマ時代の古墳を発掘していたら、20世紀初頭の数十の遺体を掘り当ててしまったと教えてくれた。そのうち一人は白い花嫁衣裳を着たまま埋められており、結婚式の参加者がまとめて殺されたのだろうということだった。ただこの大量の遺体はトルコ人のもので、アルメニア人に殺されたのだと彼は説明していたが・・・。アルメニア側も報復に出たし、勇猛で知られたクルド人がトルコ人の手先となってアルメニア人狩りに従事したともいい、クルド人とアルメニア人のかつての分布域がほぼ重なることもあってクルド人独立運動と絡んだ非常に複雑な問題である。 ドイツに留学したばかりの頃、首都エレヴァン出身のアルメニア人留学生と知り合った。長身で彫りの深い顔立ちの美男、しかも物腰が優雅で話していてとても怜悧・沈毅な印象を受けた。その彼はトルコによるアルメニア人虐殺を訴える運動に参加しており、虐殺開始記念日とされる4月24日には学食でビラを配っていた。僕はドイツとトルコという二大「虐殺民族」と縁が深いわけだが・・・。 冒頭の引用したニュースに戻るが、チェチェン・ゲリラ対策のためロシアがグルジアとの国境を封鎖したあおりでアルメニア経済は大打撃を受けた。今やアルメニアの最大貿易相手国はグルジア、そして皮肉なことに、西の隣国で「仇敵」であるトルコになりつつあるという(なお両国に正式な国交は無い)。エレヴァンの市場にはグルジア経由で入ってきたトルコ製品が目立つようになったらしい。 今日「Süddeutsche Zeitung」を読んでいたら、トルコが今までのタブーを破って、アルメニア人の歴史学者をトルコでの討論会に招待するという。これもトルコのEU加盟に向けた動きの1つなのだろう。 「民族和解」への道のりは遠そうだが。
2005年02月03日
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今日はイランに関係するニュース二題を貼り付け。(引用開始) ペルシャ湾が本物…「アラビア湾」併記にイランが反発 イラン南部とアラビア半島を隔てる海域について、イランが歴史的国名にちなむ「ペルシャ湾」という名称を定着させようと躍起になっている。 地理分野で国際的に権威のある「ナショナルジオグラフィック協会」(本部・ワシントン)が最新版の世界地図で、「ペルシャ湾」と、アラブ諸国の呼び名の「アラビア湾」とを併記したことが発端で、アラブ人に対する優越意識が強いイランの民族感情を逆なでした形だ。 イラン国防軍需省の施設で7日まで、ペルシャ湾の名称の正当性を訴える特別展が開かれた。会場には「ペルシャ湾」の表記が歴史的、国際的に認知されていることを示すため、内外で発行された古地図や文献など70点以上が並べられた。(中略) ナショナルジオグラフィック協会が問題の地図を出版したのは昨秋。この中で、これまでペルシャ湾としてきた同海域を「ペルシャ湾(アラビア湾)」として2つの名称で表記した。 イラン政府は同協会にアラビア湾の表記の削除を求めるとともに、同協会が発行する月刊誌の輸入を禁じ、同協会関係者へのビザ発給も停止した。国民の反発も強まり、同協会に表記訂正を求めるネット上の署名運動には10万人以上が参加したとされる。 こうした動きを受け、同協会は先月30日、アラビア湾の併記をやめ、「ペルシャ湾という名称が歴史的にも一般的にも広く受け入れられた名称だが、アラビア湾と呼ばれることもある」との注釈を付けると発表した。 イラン地理協会のモハマド・ファヒミ氏は、アラブ人が10世紀に作った地図も「ペルシャ湾」と表記していると指摘し、「アラビア湾という名称は地理上の用語ではなく、アラブ民族主義が高まった1960年代にアラブ諸国が使い始めた政治用語だ」と説明する。 ペルシャ湾についてイランは従来、アラブ諸国が独自の名称を使うことを問題視してこなかったが、「今回は国際的に影響力のある団体がペルシャとアラブを同列に表記したためイラン人のプライドが傷ついた」(イラン人記者)との見方が出ている。(テヘラン 緒方賢一)(読売新聞) - 1月11日0時27分更新(引用終了) ・・・なんか東アジアのどこかでも似たような話がありましたね。「こちらのほうが文化が古い」という意地からこういう主張は出てくるのだろうけど、イランの主張は東アジア某国の主張に比べればまあ説得力はあるように思う。日本でもドイツでも、ほとんどの地図は「ペルシア湾」と表記しているし。「アラビア湾」と書いてるのはおそらくアラブ・シンパの団体(石油会社とか)が作った地図だけではないだろうか。 アケメネス朝、ササン朝やアルサケス朝といったイランの王朝はペルシア湾全体を支配下に置いてきたし、イランがイスラム化してからも、ペルシア湾岸でのイランの影響力は大きいものがあった。元来砂漠の遊牧民だったアラブ人に対してペルシアは幾多の王朝を経験しており、アラブ人(のちにはトルコ人も)は政治・経済・文化のあらゆる面でイランの多大な影響を受けている(イラクの首都がペルシア語起源の「バグダード」と呼ばれたりするのは一例)。シーア派が特にイランで特に多いのも、こうした歴史的経緯が絡んでいるのは間違い無い。 ペルシア湾に浮かぶ小さな島国バハレーンは1521年にポルトガルに征服されるが、元来イランの影響が大きく、イラク同様シーア派が国民の7割以上を占める。1782年にイランのカージャール朝はバハレーンを支配下に置くが、アラブ系のアル・ハリーファ家はその支配から脱し、やがてイギリスの保護下に入ってこんにちのバハレーン王家になった。イスラム革命が起きる1979年までイランはバハレーンの領有権を主張していたようで、30年くらい前のイラン製の地図を見たらバハレーンも入っていた。今もバハレーンにはイラン系が1割弱ほどいるようだ。 さて名前の問題だが、ドイツや日本では「ペルシア湾」がほぼ一般的である。では昔はどうだったのだろうか。 紀元前のメソポタミア文明の頃はペルシア湾は「下の海」と呼ばれていた。では「上の海」はどこかというと地中海である。北西から南東に流れているユーフラテス河の流れに則った呼称らしい。その伝でいくと大阪の人には瀬戸内海が「下の海」、琵琶湖は「上の海」(湖)ということになる。(注・Thucydidesさんの指摘により修正) ギリシャ人やローマ人は「紅海」(エリュトラー海)と呼んでいた。ただしこれはむしろインド洋の総称で(ペルシア湾がインド洋と繋がっているという地理的知識が既にあった)、今ではエジプトとアラビア半島の間の海域のみにその名前を残している。(後で調べたが、2世紀の地理学者プトレマイオスの世界図にはちゃんと「Sinus Persicus」、つまり「ペルシア湾」と出ている。なお「アラビア湾」もあって、これは現在の紅海にあたる) トルコでは「バスラ湾」(バスラ・キョルフェジ)と呼んでいるようだ。バスラはいうまでもなくイラク南部にあるイラク第二の都市だが、実際はペルシア湾に面していない。ただオスマン帝国の時代はイラク南部全体がバスラ州と呼ばれていたし、それに則れば湾頭にある大都市の名前を取った名称はごく妥当ともいえる(東京湾だってそうだしね)。もし折衷案を出すとすればこれも良いのではないだろうか。イランは納得しないだろうけど。(引用開始) <訃報>加藤卓男さん87歳=人間国宝、陶芸家 古代ペルシャ陶器「三彩」「ラスター彩」「青釉」を現代によみがえらせた国の重要無形文化財(人間国宝)、加藤卓男(かとう・たくお)さんが11日午前11時45分、岐阜県多治見市の病院で死去した。87歳だった。(中略) 江戸末期の徳川家御用窯で、美濃焼の名窯「幸兵衛窯」五代目の長男。幼いころから父の手ほどきを受け、多治見工業学校(現多治見工高)を卒業。1938年に徴兵され広島で被爆し、終戦後帰郷したが、後遺症の白血病で10年近く療養を強いられた。 陶芸家としての出発は遅く、56年に39歳で日展に初入選。61年、フィンランド工芸美術学校に留学中、中東各地の古窯跡を訪ねペルシャ陶器と出合った。その後、世界で初めて幻の「ラスター彩」の復元に成功。50代後半からラスター彩作品を次々に発表し、不動の地位を築いた。 78年に、故福田赳夫元首相が中東を訪問した際、イランのパーレビ国王へ贈った「ラスター彩鶏冠壷」を制作。宮内庁の委嘱で88年に日本最古の施釉陶器「正倉院三彩鼓胴」(奈良三彩)を8年がかりで復元した。 ペルシャ陶器と奈良三彩の研究は、西アジアと日本を結ぶ日本陶磁史に大きく貢献した。95年に日本国宝に。日本工芸会参与、日本新工芸家連盟顧問。美濃陶芸協会名誉会長、日本オリエント学会員、紫綬褒章受章。(中略)■幻の古代ペルシャ陶器を追求 巨星落つ――400年以上も前に消えた「幻の古代ペルシャ陶器」をよみがえらせる仕事に情熱を傾けてきた人間国宝の加藤卓男さんが11日、亡くなった。桃山陶の織部や志野の名門に居ながら、異色のペルシャ陶器を追求する生き方は、伝統を重んじる陶芸界に新風を吹き込み、革新的な役割を果たしてきた。美濃焼文化の支柱が、また1人消えた。 「再現不可能。それなら自分が」。加藤さんはペルシャ陶器の再現のために、1965年以降16回も中東の砂漠に通った。四十数カ所の古窯などの発掘、研究を繰り返してきた。20年間に1800回以上焼成。三彩の復元、技の錬磨という実績が買われ、80年に宮内庁から正倉院三彩の復元を委嘱された。 「復元の仕事は非常に厳しい。出来上がりの寸法まで同じでないとだめ。まさに神業」と話し、土探し、釉薬(ゆうやく)作りに何度も奈良の山奥や正倉院に通った。三彩鼓胴は7年間に96個、二彩鉢は40回焼いて88年3月と翌年3月にそれぞれを納めた。 三彩の技法で人間国宝に認定された時「美濃陶芸全体にいただいたもの」と、美濃焼を愛する気持ちを表現した。ペルシャ陶器の復元を模索する63年、美濃陶芸協会を設立し、初代会長に就任。後進に道を譲った後も、名誉会長として活躍するなど、最後まで美濃焼を愛し続けた。(以下略)(毎日新聞) - 1月11日16時34分更新(引用終了) シルクロードを通じた東西交渉史は日本でも人気の分野の1つだが、その重要な交易品の1つに陶磁器があった。奥州藤原氏の首都平泉(岩手県)からはペルシア陶器(緑釉)の破片が出土しているし、大宰府の鴻臚館(古代の迎賓館・福岡県)からも青釉陶器片が出土していると最近知った。 さすがにアラブ人やペルシア人が日本まで来たとは思えないが(ただし遅くとも9世紀には日本の存在は既に中東に知られていた)、その文物は確実に日本に来ていたのである(まあローマ帝国やペルシアのガラスが古墳から出土したりしているから来ること自体は新しいことでもないのだが)。 品物としての陶器だけではなく、陶器の製作技術もアジアの東西を行き来している。特に中国陶器と中東(イスラーム)陶器の技術交流は盛んだったようで(ただし中東は化学知識にこそ優れていたものの、最後まで中国の技巧に追いつくことは無かった)、東大及び青山学院大学教授だった三上次男(1907~87年)はアジア貿易陶磁研究の先鞭をつけた(中公文庫「ペルシアの陶器」はその成果を分かりやすくまとめたもの)。 ヨーロッパでは16世紀くらいまで土器のような土色剥き出しの焼き物ばかりが作られていたのとは、鮮やかな対照をなしている。 上の記事に出てくる「三彩」(緑・褐色・茶色の三色の釉薬がかかっている)は7世紀の中国(唐)で作られ始め(「唐三彩」と通称される)、最初は王侯貴族の墓に副葬する焼き物として作られたが(ラクダや人物像が比較的著名ですね)、のちに実用品の容器としても作られるようになった。日本には717年に派遣された第9回遣唐使に参加した玉生(ガラス職人)が持ちかえったものらしい(国立歴史民俗博物館カタログ「陶磁器の文化史」1998年より)。日本では普通「奈良三彩」と呼ばれる。中国のものに比べ色がややくすんで見える。また同時代の朝鮮半島でも作られ、こちらは「新羅三彩」と呼ばれる。 この三彩はやや遅れて中近東にも波及し、9世紀から10世紀にかけて、バグダードを首都とするアッバース朝の時代に盛んに作られている。技巧は率直に言って東アジアのものに比べてかなり劣る。少し遅れてイラン北東部(ホーラサ―ン地方)でも作られたが、こちらはインド洋の海上交易ではなく内陸交易で伝播したものと思われ、モデルは唐三彩ではなく中国北方のキタイ(契丹)人の王朝である遼の三彩が伝わったという説が有力になっている。 一方「ラスター彩」は中東独特の陶器である。ラスターとは英語で「光沢」という意味で、僕も破片を手に取ったことがあるが、この陶器の釉はキラキラと輝いており光の加減によって七色に変化し実に美しい(惜しむらくはイスラム陶器らしく絵柄がやや稚拙で器形がいささか鈍重なことか。画面でお見せ出来ないのが残念)。9世紀にイラクで作られ始め、のちその生産中心地はエジプトやシリア・イランに移った。 その釉は錫を含んでいるといい、呈色剤として硫化銅や硝酸銀を混ぜた鉄分を多く含む粘土で白色陶器の上に色付けをして二度焼きしている。ただその製法は秘密とされていたうえ、ヨーロッパ人の支配でインド洋交易が変質する18世紀以降作られなくなり、現代の中東ではもはや忘れ去られてしまい「幻の陶器」と呼ばれていた(近代にヨーロッパで似たものは製作されたが)。 加藤氏は苦心惨憺の末ラスター彩を再現することにほぼ成功したのである。細野不二彦の漫画「ギャラリーフェイク」(「ビッグコミックスピリッツ」に連載)で、主人公のフジタがアラブ人に脅迫されて「幻の陶器」ラスター彩を再現する、という話があったが、そんな簡単に出来るものではない。 加藤氏の業績は、「技の日本」を象徴する汎アジア的・世界的な偉業だったといえるだろう。ご冥福をお祈りします。
2005年01月11日
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今日は特に無いのでごく簡単なイラクの通史をアップ。「西アジア専攻」といいながら、ヨーロッパのことばかり書いていたので。 イラクは面積43万平方キロ(日本の1.2倍)、人口2500万の国である。 「イラク」とはアラビア語で「崖」、転じて谷底・低地という意味がある。7世紀にアラビア半島から北上してきたアラブ人たちは、ネフド砂漠や絶壁を越えてティグリス・ユーフラテスの両河の流域に達したが、標高の高いアラビア半島から来た彼らにしてみれば、イラクの沖積平野は巨大な「谷底」に見えたのだろう(一方イラクの東側には険しいザグロス山脈が聳える)。古代ギリシャ人にこの地域はメソポタミア(河の間の地)と呼ばれていた。その指す領域はほぼ同じなので、ここでは「イラク」で統一する。 ティグリス・ユーフラテス河というと大河のように聞こえるが、意外にもユーフラテス河の実際の水量は信濃川よりやや多い程度であるという(水量が大きすぎるとむしろ治水が難しく利用しにくい)。ティグリス河はその倍の水量がある(エジプトのナイル河はさらにその倍)。2003年に倒されたフセイン政権は、この両河の水資源を巡って上流でダムを建設するシリアやトルコと対立したが、水が文明の死命を制するのは古代からで、特に降水量が少なくこの両河への依存度が高いイラクでは尚更のことだろう。 アフリカで発生した人類は、北上して中東を通ってユーラシア各地に拡散したらしい。イラク北部のシャニダール洞窟では中期旧石器時代(6万年前)に属するネアンデルタール人の骨が出土しているが、その周りには赤土が掛けられ花が供えられていたことが分かっており、「人類最古の埋葬儀礼」として著名である。 紀元前7000年頃、シリアやパレスチナにやや遅れて北イラクの山岳縁辺地帯でも農耕が始まる(ハッスナ及びハラフ文化)。この地域では年間降水量が年間200mm(麦の栽培に必要最低限の降水量)を越えており、天水農耕が可能だった。やがてこの農民たちは徐々に南方の沖積平野に進出した。この地域で雨は頼りにならないが(バグダードの年間降水量は100~200mmだが、年によるばらつきが非常に大きい)、土地は肥沃であり用水路で水を引きさえすれば、集中的な農業経営が可能で豊かな実りが期待できた(サマッラ文化)。さらに農民はイラク南部の低地・低湿地にも進出(ウバイド文化)、その農業生産力はむしろ北方のそれを凌駕するようになる。 しかし砂漠ならぬ土漠とでもいうべき南イラクには石材も木材もなく、粘土と羊毛、小麦以外の資源の多くを外部に依存せざるを得なかった。農業の余剰生産、そして交易に依存する経済が、この地に世界最古の都市、政治・宗教組織、階層的社会、国家、つまりは文明を生み出すことになった(ウルク期)。「歴史はシュメールに始まる」という言葉があるが、世界最古の文字(楔形文字)もイラク南部で発明された(ついでながらビールもそうだ)。この文字は物資の数量管理の必要性から生まれたと見られており、商業を重視する中東の伝統の偉大な産物と言えるだろう。紀元前3000年頃には南イラクの都市国家ウルクを中心とする交易網は中東全体に広がっていた。ちなみにウルクは現在自衛隊が駐屯するサマワの近郊にあり、ドイツ隊による発掘が続いていた。 イラク南部ではウル、ウルク、キシュ、ラガシュ、イシンなど多くの都市国家が分立していた。これらの都市は、収穫量が播種量のときに100倍という豊かな穀物生産に頼っていた。洪水伝説など、この当時の文学は聖書にも大きな影響を与えている。しかし乾燥した気候での灌漑用水による連作は塩害を引き起こして農業生産に深刻な影響を与え、それも関係するのかイラクの覇権は徐々に北方、さらには外部勢力へと移っていく。 紀元前2330年頃にアッカド王サルゴン、紀元前1800年頃のバビロン王ハンムラビ(「目には目を」の法典で有名)といったイラク中部の都市国家によりイラク統一が行われて領域国家が出現するが、肥沃なイラクは周辺民族にすれば羨望の的であり、しかも平野が多く守りにくい地形的な欠点がある。バビロンは北方のヒッタイト人により攻略され、その後はカッシートやミタンニといった北方の外来民族の支配を受けるようになる。イラク史の大部分を占める、外部勢力による支配の嚆矢である。 紀元前1千年紀前半には世界最初の帝国とも言うべき、北イラクを本拠とするアッシリア、さらにバビロニア(ユダヤ人をバビロンに捕囚したネブカドネツァル2世)が中東に覇を唱えたこともあったが、紀元前538年にはイラン高原の騎馬民族ペルシア人に征服される。以後およそ2000年以上にわたり、イラクは征服王朝による大帝国の一部とされることが繰り返される。 200年間中東全域を支配した大帝国ペルシア(アケメネス朝)は、さらに遠隔・辺境の地にあったマケドニア(ギリシャ北部)のアレクサンドロス大王により征服される。アレクサンドロスはその首都バビロンで紀元前323年7月に33歳の若さで急死し、メソポタミアはその部将セレウコスの領するところとなる。 イラン高原に本拠を持つアルサケス朝(パルティア)は紀元前141年にセレウコス朝からイラクを奪い、イラクは再びイラン起源の王朝の支配下に入る。パルティアは地中海の覇者ローマ帝国とユーフラテス河を挟んで度々戦争し、115年にはトラヤヌス帝に奪われたこともあったが、概ねイラクを支配下に置いていた。3世紀始めにパルティアに代わったササン朝ペルシアもイラク支配を維持し、西方のローマ帝国(のちビザンツ帝国)と和戦を繰り返している。 外部王朝の支配下にあるとはいえ、イラクでは東西文化の接点・シルクロードの幹線として、ハトラやクテシフォンなどの都市が栄えた。 634年、ハーリド率いるイスラム教徒軍はイラクを攻略、642年にはササン朝を滅ぼしてイラクやイランはイスラム教徒の支配下に入り、住民にはイスラム教に改宗する者が多かった(ただし現在もキリスト教徒が居る)。661年、中東全域を制覇したイスラム教徒の内部で抗争が起き、預言者ムハンマドの娘婿アリーやその息子でカルバラ(イラク中部)で殉教したフセインを正当な指導者とするシーア派と、多数派のスンニ(「慣行」)派に分裂する。スンニ派はムハンマドと血縁の無いのウマイヤ家のムアーウィヤをカリフ(ハリーファ=教主)として支持し、イラクはウマイヤ朝の支配下に入る。ただナジャフにアリーやフセインの廟があるイラクではシーア派が多く、現在イラク国民の6割以上がシーア派に属している。 750年にシーア派叛徒の助けでウマイヤ朝を倒したアッバース朝は、一転してカリフを名乗り、762年にティグリス河のほとりに新都を建設する。「マディーナ・アッサラーム」(平安京)と呼ばれたこの都市は、文化的影響力の強かったペルシア語で「バグダード」(神の与えたもの)とのちに呼ばれるようになり、以来イラクの中心都市となった。農作物の改良で農業生産も再び向上し、中国の長安と並ぶ世界最大の都市となったバグダードは、8世紀末のハールーン・アル・ラシードの治世に最盛期を迎え、「千一夜物語」の世界が反映するように世界中の情報が流れ込み、イスラム世界の政治・経済・文芸の中心として栄えた。 9世紀にアッバース朝は小首長国に分裂、中央アジア出身の傭兵だったトルコ系軍人が中東の政治・軍事的実権を握り(文化・経済面ではイラン系が活躍)、イラン系のブワイフ朝(945年以降イラクを支配)を逐って、トルコ系のセルジューク朝が1055年にバグダードに入城、アッバース朝のカリフは宗教的権威しか持たなくなった(日本の天皇と将軍の関係に近い)。さらに1258年に来襲したフレグ率いるモンゴル軍にバグダードは攻略され、カリフも殺害されてしまう。この時代イラクの人口は半減したといい、モンゴル軍がバグダードを略奪し農業用水も破壊したためと説明されるが、これはむしろ塩害や気候変動による農業生産の低下が原因であると思われる。 モンゴルのフレグ・ウルス(「イルハン国」)ののち、イラクは中央アジアのチムール朝などといったモンゴル=トルコ系王朝の支配を受けるが、やがてイランのサファヴィー朝とトルコのオスマン帝国による争奪の場となり、1534年にスレイマン大帝に征服され北方のオスマン帝国の支配下に入った(1638年にオスマン帝国の支配が確定)。オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れる1918年までそのイラク支配は続く。アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国であるオスマン帝国の地方属州(モスル・バグダード・バスラの各州)として、イラクやバグダードの地位は低下した。 第一次世界大戦中の1917年にイギリス軍はイラクを占領、戦後はそのまま国際連盟のイギリス委任統治領とされた。イギリスはオスマン帝国に対して共闘したアラビア半島の名家ハーシム家のフセインを国王に据えて、1932年にイラクを独立させ、他動的ながらもイラク地生えの国家が復活した。しかしイギリスはイラクに空軍基地を設け、第二次世界大戦中にも親ドイツ派のクーデタ(1941年)を鎮圧するなど、自動車・飛行機の普及で需要が高まった石油資源のあるイラクは、イギリスの属国という地位に甘んじた。 ナセルによるエジプト革命(1952年)でスエズ運河を失ったイギリスの中東政策が破綻する中、1958年にイラクでもナセルの影響を受けた軍部の革命が起きて親英派の国王は殺害され、イラクは共和制国家となる。その後は軍部がクーデタを起こして軍人大統領が追放・殺害されるということが繰り返される。 1968年、汎アラブ社会主義を唱えるバアス党がクーデタで政権を奪取、アフマド・ハサン・アル・バクルが大統領になる。1972年に西欧企業の管理下にあった油田を国有化し、石油はイラクの輸出額の実に9割以上を占めることになる。アラブ主義の高揚は一方で、人口の1割を占めるクルド人(北部に集中)の抵抗とそれに対する弾圧(強制移住)を招いた。1988年にイラク軍がクルド人一般市民に対して毒ガスを使用したハラブジャ事件は、クルド問題を改めて世界に訴えた。 1979年にアル・バクルに政権を禅譲させて大統領になったスンニ派出身のサッダーム・フセインは、折しも隣国イランで起きていたシーア派のイスラム革命に危機感をもち、翌年イランに侵攻する。伝統的にイラクの友好国だったソ連、シリアを除くアラブ諸国のほとんどや、イスラム革命を忌避するアメリカなど西側諸国までもがイラクを支援し(1981年、フランスの協力で原子炉が建設されたが、フセインが核兵器をもつことを危惧したイスラエルによる空爆で破壊された)、8年に及ぶ不毛なイラン・イラク戦争が続いた。この戦争は国連の仲介で1988年に停戦となったが、イラクには多大な外債と100万人規模にまで拡大した軍隊が残された。 フセインは中東で群を抜くこの兵力を利用して、1990年8月に隣国クウェートに侵攻し併合を宣言する(クウェートはかつてオスマン帝国のバスラ州の一部だったが、1961年にイギリスが分離独立させた)。アラブ諸国も含む国際社会はこれを非難し、アメリカ主導の多国籍軍は国連決議に基いて翌年1月に開戦、圧倒的な軍事技術の前に敗れたイラク軍はクウェートから撤退した。国連による経済制裁はこの湾岸戦争後も実に12年続きイラク経済を圧迫したが、シーア派やクルド人の叛乱を鎮圧したフセイン体制は揺るがなかった。フセイン大統領は自らを古代バビロニアの王と同列に扱うなどして「イラク国家」意識を宣伝する一方、湾岸戦争後はイスラム意識を前面に押し出してアラブ諸国の共感を得ようとした。 2003年3月、対テロ戦争を名目とした米英連合軍は宣戦布告無くイラクに侵攻、3週間ほどでイラク全土を制圧し、その在任期間中のほとんどが戦争状態だったフセイン政権は崩壊、フセインは降伏宣言無しに身を隠したが12月に逮捕された。一方アメリカ指導下の暫定政権が発足したが、密告による支配体制だったフセイン政権という「たが」を失ったイラクでは武装勢力が跋扈、アメリカ軍や一般市民に対するテロ攻撃が相次ぎ治安が極度に悪化しており、イラク国家再建の前途は多難である。
2004年11月27日
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今日は雨がざあざあ降った一日だった。 日本では台風23号の被害がすごいらしいですね(死者22人)。犠牲者の方は痛ましい限りです。僕の故郷も直撃したこの台風の被害についてはドイツでもかなり大きく報じられていた。新製品(流行)や地震以外に関する日本のニュースがラジオで報じられることは滅多に無い。 ここからリンクしているTakochan happyさんも書かれていたが、この台風23号の国際名称は「Tokage」(蜥蜴)なんだそうである。というわけでドイツでも「トカゲ」と報じられていた。 今日ドイツ北部(ハンブルクなど)で地震があったそうだ。体感地震自体がドイツでは非常に珍しい(どういう仕組みで起きるんだろうか?)。マグニチュード4.5、震源は二ーダーザクセン州ノイキルヒェン付近、震源の深さ10kmと推測されているそうだ。地震による被害は報告されていない。この地域でマグニチュード4以上の地震が発生したのは1977年6月2日以来との事。 もちろん僕はドイツで地震を体験したことは無い。時々大地震が起きるトルコでもない(2万人近くが死亡した1999年の大地震のときは、トルコ国内でも違う地域に居た)。僕が体験した地震の最大のものは、震度4といったところだろうか。 ドイツには「地震・台風・火事・親父」という言葉は無いだろうな。 レバノンのニュースを貼り付け。(以下引用) レバノンのハリリ首相辞任【カイロ=加納洋人】レバノンのハリリ首相は二十日、ラフード大統領と会談し、辞表を提出した。ハリリ氏は新たな組閣には応じない考えを示し、大統領は辞表を受理した。 同国の政治評論家ジョージ・ナシーフ氏は、ドバイの衛星テレビ局アルアラビーヤに対し、シリア軍のレバノン撤退を求めた国連安全保障理事会決議をめぐり、柔軟な対応を主張する首相と、親シリア色がより強い大統領の間に対立があったとの見方を示した。 レバノン国会は九月、ラフード大統領の任期を三年間延長する憲法改正案を可決したが、これをシリアの意向だと受け止めた閣僚四人が辞任するなど、政局は流動化していた。 一九九一年に終結した内戦で疲弊したレバノンの再建をめぐり、ペルシャ湾岸諸国の投資を呼び込むなどの手腕を発揮してきたハリリ首相の辞任で、レバノン復興・再開発に影響が出る可能性もある。(産経新聞) - 10月21日2時21分更新(引用終了) 地中海の東端にあるレバノンは、岐阜県ほどの大きさ(1万平方キロ)の国に400万人が暮らしている。険しいレバノン山脈が海に迫っていて海岸の平野は猫の額ほどだが、その代わり良港に恵まれ、古代から交易が盛んだった(フェニキア人が有名ですね)。旧宗主国フランス(1946年独立)の影響を受けた首都ベイルートは「中東のパリ」と言われた時代もあった。 人の交流が盛んだったためか、この小国にはキリスト教(ギリシャ正教、マロン派、カトリック、アルメニア正教)、イスラム教(スンニ派、シーア派、アラウィ派、ドルーズ派)など様々な宗教がひしめいていた。かつては共存していたものが、1975年に激しい内戦が勃発、隣国イスラエルやシリア、アメリカなども巻き込んだこの内戦で、首都ベイルートは廃墟と化した。 1989年、タイフ合意(国民和解憲章)で一応の和平が成立。反対する勢力も翌年(湾岸危機の最中)までにシリア軍によって鎮圧され内戦は終結した。テロリストの侵入防止を名目にレバノン南部の国境地帯を占領していたイスラエル軍は2000年に撤退したが、シリアは現在も3万5千の軍を北部に駐屯させている。もとよりシリアとレバノンはフランス統治下で分割されたもので(イラクとクウェートの関係に似ている)、シリアには「自分の縄張り」もしくは「弟分」のような意識がある。なおシリアのアサド政権は建前はアラブ民族主義のバース党ながら、実際にはシーア派に近い立場にある(アラウィ派)。 内戦こそ終結したが、レバノンの政局は各宗派のあやういバランスの上に成り立っている。大統領はキリスト教徒、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から出すことが決められ、各派の均衡維持を目指している。 20年ぶりに行われた1992年の選挙を受けて首相となったラフィーク・ハリリは実業家の出身で、湾岸諸国やフランスと強いコネがあり、首相就任と同時に外資を積極的に導入して内戦で疲弊したレバノンの復興を推し進めた。レバノンは驚異的な経済成長を成し遂げたが、同時に対外債務が累積し問題となっている。 ハリリ首相は1998年にいったんその職をホッスに譲ったが、ホッスが選挙で落選したために2000年に再任していた。上の新聞記事を読む限り、大統領のエミール・ラフード(キリスト教徒の軍人出身)とはシリアとの関係をめぐって反りが合わなかったようだ。 「シリア軍の撤退を求めた国連安保理決議」というのはアメリカによるシリア締め付け策の1つだろう。シリアはイランと共に反イスラエル武装組織ヒズボラを支援しているが、その基地はレバノン東部のベカー高原にある(日本赤軍が軍事訓練を受けた場所としても知られる)。 レバノンには1996年に行ったことがある。シリアから足を伸ばしての、たった三日の旅行だった。 僕らが滞在していたシリアの村からは、ベイルートに行くミニバスが運行していた。多くのシリア人が、西側商品の流入するレバノンに買い物や出稼ぎに行っているだった。僕らは村人のバスに便乗してレバノンに入った。ベイルートまで5時間くらいの道のりで、1000円くらいだったように思う。 レバノンに入ると、検問所が何ヶ所もあったが、それは全部シリア軍の検問所だった。シリアのアサド大統領の肖像画を掲げているのでそうと分かる。 ベイルートは旧市街には内戦の跡が著しく、壁に大穴(ロケット弾)のあいたビルや弾痕だらけの廃墟となったビル街が並んでいた。しかしハリリ首相の肝いりで開発された新市街では、ピカピカの高層ビルが次々と建設されていた。やはり弾痕だらけの国立博物館はまだ閉鎖されていて(現在は開館)、前にはベレー帽のレバノン軍の兵士が自動小銃を構えて立っていた。廃墟や兵士の写真撮影は厳禁である。 郊外の廃墟にはシリア人バザールのようなものが出来ていて、群がるような数のシリア人とレバノン人が盛んに商売していた。1992年頃からシリアでもバナナが買えるようになったみたいだが、レバノン経由で流れてきたのだろう。 ベイルートでは小エビの入ったスープが美味かった。海産物だけでなく、由来レバノンはアラブ料理の本場といわれている(ついでに現代アラブ歌謡曲の故郷でもあり、伝説的な女性歌手フェイルーズはレバノンの出身)。そういやビブロス(古代都市遺跡で有名だが、現地名ジュベイル。「ビブロス」はギリシャ語で「本」を意味するが、ジュバイルから輸入されたエジプトの「パピルス」が語源となった。「紙」や「聖書」の語源でもある)では海水浴もした。アラブの女性はパジャマのようなのを着て海水浴するのだが、さすがはレバノンだけあってビキニ姿の女性も居た レバノンではその他、ベカー高原にあるバールベックに行った。その数日前にイスラエルが付近のヒズボラのキャンプを空爆したばかりだったらしい。道端には誰か知らないが黒服のシーア派指導者の肖像が掲げられて、いかにもという雰囲気だった。バールベックには現存するうちでは最大のローマ時代の神殿がある。 レバノンでは道端でよく小さなイコン(キリストやマリアの肖像)を収めた祠を見かけた。日本のお地蔵さんのようなものだろうか。これはもちろんキリスト教徒のものだが(正教?)、同じようなものはギリシャでも見た。こういう土俗信仰のようなのは中東の他の国でもドイツでも見かけない。 この秋からかつての同僚のH(ドイツ人)がベイルートにあるアメリカ大学の教授として赴任しているのだが、久しぶりにシリアやレバノンにも行きたいものだ。
2004年10月20日
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今日はどんより曇ってかなり肌寒かった。ドイツの冬らしい天気ではある。 足掛け2年に及ぶ寮の改装工事が今日終了したらしい。竣工式が行われたみたいだが、僕はその時は大学に行っていた。 今年の夏の現場で体力の衰えを自覚したので、健康の為に最近家から大学まで歩いて通うようにしている。山の上にある寮から市街の中心にある大学まで片道およそ30分弱の道のりになる。 こんなニュースがあるので貼り付けておく。(以下引用)クラプトンさん速度違反 216キロで走行【ディジョン(フランス東部)14日AP=共同】英国のロックギタリスト、エリック・クラプトンさんが14日までに、フランス国内の高速道路で、愛車ポルシェで制限速度を86キロオーバーする時速216キロで走行、スピード違反で運転免許証を没収された。 違反をしたのは12日で、現場はパリの東約300キロのディジョン近く。フランス警察当局は、クラプトンさんに同国内での運転停止を命じ、750ユーロ(約10万円)の罰金を徴収した。 免許証は英国発行で、英国内での運転は今後も可能だが、免許証は外交ルートで取り戻す必要があるという。(共同通信) - 10月14日23時41分更新(引用終了) ・・・、スピード出したいならフランスじゃなくてドイツに来れば良かったのにねえ。ドイツのアウトバーンなら216km以上出している車が時々居る(速度無制限?)。僕も友人M氏の車で時速200kmを体験したことがある。それにしてもクラプトンまだまだ若いですな。 この手のニュースでいつも連想するのは、日本の常磐高速でフェラーリで時速300km出して走っていたという人物の話である。常磐高速だから出来たのだろう。フェラーリ・マニアのこの人は走行の様子をビデオに収めてフェラーリ・ファンに販売していて、そこから足がついてお縄になった。 以下は主として自分のためのメモなので、読んでも退屈です。 今年の夏もトルコの辺鄙な村に居たが、たまの休日には県都であるシワスSivasに出た。標高1200mの高原、クズルウルマック(赤い川)のほとりに立つ人口25万のこの都市は、現在は埃っぽいトルコの一地方都市で、この地方の中心都市として賑わう街中には無味乾燥、いやむしろ醜悪なコンクリートのビルが立ち並んでいる。 それに埋もれるかのように古いモスクやメドレセ(イスラム神学校)の跡がぽつぽつ残っている。観光客もごく少数居るが、正直言って旅行先としてさほど魅力的ではない。似たようなモスクや神学校は他の町でも見ることが出来るし、わざわざ一日割いてこの町を訪れる奇特な観光客はそういない。何より博物館が面白くない。展示は民俗資料と1919年9月4日のシワス会議(後述)に関するものばかりで、安くない入場料を払って見る価値は全く無い(僕らが発掘で掘り出した遺物は全て地下の倉庫に死蔵され、展示されていない)。 町の中心にはチフテ・ミナーレ・メドレセ(「対の尖塔」の意。1271年築造。前面ファサードのみが残る)、シファイェ・メドレセ(1217年築造。今はオープン・カフェと商店街になっている)、ブルジイェ・メドレセ(1271年築造。これも今は喫茶)などが固まっている。少し離れた城跡の小高い丘には何も残っていないし、登っても町の景観はちっとも良くない。城跡の側にあるギョク・メドレセ(ギョクとは天空の意。1271年築造)は素晴らしい彫刻や青いタイルが残っていて見る価値はあるのだが、もう10年以上遅々として進まない修復作業が続いている。 他にウル・ジャミイ(ジャミイとはトルコ語でモスクの意、1197年築造)とか古いハマム(公衆浴場)とか、イノニュ博物館(トルコ共和国第2代大統領イスメット・イノニュが少年時代を過ごした家)もあるが、わざわざそれらを見に行く人はいない。 とまあシワスは魅力に今いち欠ける街なのだが、歴史的には結構重要な都市だった。アナトリア(小アジア)からイラン(またはその逆)に抜ける街道を扼し、またその東西街道から南方のシリア・イラクへ抜ける分岐点でもあった。アジア・ハイウェーはこのシワスを基点としているということだ。 シワスの城跡や市内にある遺跡の発掘では、シワスには既に4000年前の青銅器時代から集落があったことが分かっている。しかしシワスが歴史資料に登場するのはローマ時代になってからで、現在の「シワス」という名前はローマ時代のセバスティアSebastiaという名前が訛ったものである。この名前の由来には諸説あり、ヘレニズム時代(紀元前4~1世紀)にこの辺りや黒海沿岸を治めていたポントス王国の王妃の名前に因んでいるという。またカエサルとの三頭政治で有名なローマの将軍ポンペイウス(紀元前48年没)は、今のシワスの地にメガロポリスという都市を建設したともいう。ただしローマ時代の建物は全く残っていない。ちなみにカエサルが「来た、見た、勝った(veni,vidi,vici)」という名文句を残した古戦場(紀元前47年)であるゼラはシワスのやや北にあたる。 ローマ帝国の東西分裂(375年)後、シワスは東ローマ(ビザンツ)帝国の版図に入った。東ローマ帝国の最盛期を現出したユスティニアヌス(在位527~565年)は、宿敵ササン朝ペルシア(イラン)に対する最前線であるシワスに城壁を築いたという。この辺りの住民は4世紀頃までにはキリスト教化し、またアルメニア系住民が多かった。658年にシワスは一時イスラム教徒軍に奪われるが、ビザンツ帝国はこれを奪還した。 10世紀になると、中央アジアからのトルコ人の移動が活発になる。トルコ人の脅威を恐れたアルメニア人のヴァスプラカン(現在のヴァン)王セネケリムは1021年にビザンツ皇帝に領国交換を願い出てシワスに遷都したという(アルメニア人に関する記述はトルコで出版された本にはほとんど出てこない)。 その危惧は現実となり、1060年にはトルコ人王朝であるセルジューク朝のスルタン、トゥグリル・べクがシワスに襲来している。1071年のマラズギルトの戦いでセルジューク朝はビザンツ軍を大破し、これを機にトルコ人のアナトリア移住が始まり、シワスにはセルジューク朝の部将であるダニシュメントが封ぜられた。ダニシュメント朝はセルジューク朝に反抗したため1178年に滅ぼされた。 ルーム(アナトリア)・セルジューク朝下でシワスは黄金時代を迎える。イゼッティン・ケイカウス1世はシワスに滞在することが多く、シファイェ・メドレセを建設し、1220年に没するとそこに葬られた。当時シワスの人口は12万を数え、これは同時代のパリやヴェネツィアを越える規模である。 この当時、西からは十字軍、東からはモンゴル帝国の脅威が迫っていた。1224年にアラエッディン・ケイクバド(ケイカウスの子)はモンゴル軍の襲来に備えシワスの城壁を修復している。ただしこの城壁修復の労役が住民の反感を買い、1240年にシワスの住民はグヤセッディン・ケイホスロウ2世(ケイクバドの子)に対し反乱を起こし、シワスは破壊された。 3年後、モンゴル軍はキョシェダーの戦いでケイホスロウを破り、中央アナトリアはモンゴル帝国(イル・ハン国)の支配下に入った。モンゴル支配下では交易が発達し、イタリアの都市国家ジェノヴァの公館がシワスに置かれたという。14世紀初めにアナトリアを訪れたアラブ人旅行家イブン・バットゥータは、中央アナトリア最大の都市としてシワスを挙げている。 モンゴル帝国の瓦解後、アナトリアには政治的真空が発生し、多くの君侯国が分立した。シワスはエレトナ朝、それを簒奪したイスラーム法官ブルハンエッディン・アフメットの根拠地となった。当時アナトリア西部ではオスマン帝国、中央アジアではモンゴル系のチムール帝国、イラン西部ではアクコユンル(白羊)朝が勢力を伸ばしており、それらの勢力に囲まれたブルハンエッディンは襲来に備えシワスの城壁を修復、また町の周囲に水濠をめぐらしたという。当時シワスは城壁で囲まれ7つの城門があったというが、19世紀末には撤去され現在は跡形も無い。 1398年にブルハンエッディンがアクコユンル朝に敗死すると、シワスは自らオスマン帝国の支配下に入った。ところが1400年にチムール(1336~1405年)が18万の軍勢を率いて来襲、4千の守備兵は18日間持ちこたえたがついに降伏、チムールは市民を虐殺し投降した城兵を生き埋めにしたと伝わる。さらにチムールは1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を滅亡寸前にまで粉砕した。 しかしオスマン帝国はすぐに息を吹き返し、1410年頃にはシワスはオスマン帝国の支配下に復している。メフメット2世は1473年にアクコユンル朝を撃破してアナトリア東部支配を確立した。 400年以上続くオスマン帝国支配下では、様々な民族・宗教が共存していた。1880年頃の統計によればシワス県(注・シワス市ではない)の人口は75万人、うち「トルコ人」19万、クズルバシュ(シーア派イスラム教徒)12万、クルド人5万、チェルケス人4万、チェチェン人など3万、アルメニア人26万、ギリシャ人4万などとなっている。 固陋な制度のオスマン帝国は19世紀に入ると次第に弱体化、1914年に始まる第1次世界大戦ではドイツ側で参戦し敗北した。この間1915年にはロシアに通じたアルメニア人に対する大虐殺・強制移住が起きたという。現在シワス県に「アルメニア人」は存在せず、教会跡や墓石のみが残されている。 1918年に敗北したトルコは、戦勝国(英仏伊希)やアルメニア人・クルド人により分割される危機に瀕した。ムスタファ・ケマル・パシャはトルコ人の抵抗運動を糾合、1919年6月のエルズルム会議に続いて、同年9月4日から12日までシワスで会議を開き、抵抗運動の一本化と主導権を握ることに成功した。アンカラに国民会議と首都を置いたケマル・パシャは、1922年までに全ての占領軍を撤退させまたアルメニア人・クルド人の独立運動を鎮圧、1923年にトルコ共和国を建国し初代大統領に就任した。 シワスは中央アナトリアの交通上(鉄道線路)の要衝として今に至っており、農業以外ではセメント産業などが盛んである。1982年には大学も設置された。またシワス県はトルコではコンヤ県に次いで二番目に大きな県となっている。
2004年10月14日
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このところドイツは快晴が続いている。町を歩いていても清々しい。「日本晴れ」を思い出させる。 ポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダが74歳で死去。といっても、僕は哲学とか「~主義」というものにはてんで疎いので詳しくは知らないが(ただし考古学にもこういうなんとか主義はおおきな影響を与えているらしい。イギリスの考古学者イアン・ホッダーなどはポスト構造主義に属するのだろうか)。ただデリダは「全てのイデオロギーはフィクションである」と喝破したので(「脱構築」)、大学紛争に敗れた(夢破れた)元左翼知識人には絶大な支持があったようだ。 今日は今年のトルコ滞在について。読んでいて訳が分からないことがあるかもしれませんがご容赦を。 今年の調査隊は男の大学院生ばかり5人(ドイツ人3人、日本人二人)で構成されていた(プラス発掘隊長である先生の夫妻の計7人)。全員3シーズン以上ここで働いたことのあるヴェテランで(平均年齢がいつになく高かった)、そういう意味では「少数精鋭」だったのだが、残念ながら決して和気藹々といった雰囲気ではなかった。 もとより発掘調査は集団生活で好むと好まざるとに関わらず同じ顔ぶれと朝から晩まで顔を突き合わさなくてはならず、どこの国の調査隊でも人間関係は難しいものだが、ドイツ人は自らを恃むところが強いので、出来る人・自負のある人ほど互いに感情のすれ違いが出てくる。しかも顔で笑って背中でアッカンべーするようなところがある(陰口も大好きだ)。こういう集団生活の場合、日本人は和を重視するが(そのために気を使わないといけないが)、ドイツ人は容赦無い。 予定が狂ったり、人数が少ないためか一人あたりの雑用も多く、最後の3週間は全く休日が無かった。皆はいらいらするし、僕などは疲れのせいか最後の1週間になって10年に一度あるかないかの嘔吐を伴うすさまじい下痢に見まわれて寝こんでしまった。我ながら年齢的にもう無理が利かなくなってきたようだ。正直言って今年ほどつらい年も無かった。日本人のK君が一緒に参加していて、ドイツ人の理解できない日本語で遠慮無く本音を吐き出すことが出来たのが救いだったろう。 今年の査察官(文化省から派遣されて発掘を監視する。大抵は博物館の職員が任命される)はアンカラから来た若い女性だった。トルコ人女性にしては感情の起伏がなく、その点では幸運だった。しかし査察官というと今まではいつもおっさんばかりだったのだが、自分と同年輩の女性が査察官としてやってきたのは初めての経験だった。 今年はその他、シワス博物館の職員が個人の資格で調査に参加した。彼はお喋りで快活なのだが、どうもヨーロッパ人に対して含むところがあるらしく(昨日のシュリーマンの話ではないが、ヨーロッパに文化的にも「支配」されているという観念がある)、最終日などは酔っ払ってかなり放言しまくっていた。ドイツ人学生があまりトルコ語を勉強しようとしないのも気に入らないようだった(トルコの重要な遺跡の多くはドイツ隊が発掘しドイツ語で報告しているので、トルコ語が出来なくてもドイツ語が出来ればトルコの考古学はそこそこ出来てしまう)。その逆に僕ら日本人(二人ともトルコ語が曲がりなりにも出来る)には非常に好意をもっているようだった。 今年は2年前に続きドイツ人のAと同室になった。彼は温厚でまた勤勉であり、とてもいい奴なのだが、1つ非常に困ることがあった。体臭(特に足)がきついのである。僕もずぼらなほうで人のことはあまり言えないのだが、彼のは息が詰まりそうで耐えかねるものがあった。よくよく観察していると、現場で汗をかいているにもかかわらず彼は数日に一度しか風呂(シャワー)に入っていないのである。しかも同じ服(下着)を何日も続けて着ている。 彼はドイツでも田舎の出身なので、ほかのドイツ人に「ドイツの田舎ではあまり風呂に入らないのか?」と念の為に聞いてみたが、「そんな事は無い」という答えが返ってきた。現に他のドイツ人たち(都市部の出身)は現場が終わったらすぐに風呂に入っているし、体臭にも気を使っているようだった。Aは新婚だが、今ごろ夫人に「風呂に入りなさい」と叱られているだろうか。それとも体臭とか気にしない奥さんなのかな。 今年の調査は去年手をつけた厩(うまや)の遺構と北西の城門(中東の都市は城壁で囲まれている)、アクロポリス北端の集落址で行われた。最後になってシワス県庁からブルドーザーを借りることが出来たので、北西門の外側にあるダム(都市の周りの環濠のため)が発掘された。まあ僕は発掘隊長ではないので、現場でやっている仕事といえばひたすら図面を書くことや測量なんですがね。 厩(うまや)遺構は北東門のすぐ内側にあり、「キャラヴァン・サライ(隊商宿)」とか「ポニーホーフ」と通称されている長さ30mほどの建物で、中庭の三方を囲む形で回廊状に列柱が並び、回廊には大きな石で敷石が施されている。本当は厩かどうか分からないのだが、イスラエルでは似たような遺構が「厩」と報告されているし(事実かどうかはなお議論が続いている)、ここでは実際にウマ科動物(大きさ的にはポニーだが)の上半身の骨格が地面に横たわる形で出土した。ウマのほかにも牛の角とかが出ているのがやや気になるが。 ヒッタイト帝国(紀元前1700~1200年頃)は「鉄と戦車を使い中近東を席巻した」とよく言われている。鉄のほうはともかく、戦車(装甲や砲を施した現代の戦車ではなく、馬車くらいの意味)のほうはエジプト側の記録(壁画など)などから事実だったと思われ、紀元前1275年?にはシリアの支配を巡ってヒッタイト(ムワタリ2世)とエジプト(ラムセス2世)はカデシュで戦車戦を繰り広げている。もし上の遺構が本当に厩だとしたらヒッタイトでは初めての例で、ヒッタイト帝国の実像を示す貴重な例となる。 ダムのほうは底辺の幅10m(水圧に耐えるため断面は台形)、長さ30m、高さ4mにもなる巨大なもので、幅1mくらいの丁寧に割った大石を隙間無く積んで作られている。当時は工具も稚拙(青銅器時代なので鉄はほとんど無い。ただし鑿や鋸といった青銅製工具は存在している)、機械力など無い時代であるからその苦労は大変だったろうと感心する。今のトルコ人(というか現代人全般)に同じ方法で同じものを作れといっても出来ないのではなかろうか。冗談ではなく。
2004年10月09日
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今日も今年のトルコ滞在について書こうと思ったが、気力が萎えたので後日に後回し。代わりに目に付いたニュースの貼り付け。(以下引用) Schäuble: Türkische Reformen sind "Show"Berlin (AFP) - Der CDU-Politiker Wolfgang Schäuble hat die Türkei verdächtigt, die Krise um ihre jüngste Strafrechtsreform inszeniert zu haben. "Da sollen wir dann glauben, dass dies eine nachhaltige Entscheidung ist. Das ist eine Show", sagte der stellvertretende Unions-Fraktionsvorsitzende. Es sei berechtigt zu fragen, wie gro゚ der Unterschied zwischen der sehr kritisch formulierten Empfehlung der Kommission zur Verhandlungsaufnahme und einer von der Unions-Spitze geforderten "privilegierten Partnerschaft" mit der Türkei sei, sagte Schäuble im ZDF. Schäuble forderte, die Verhandlungen mit der Türkei nicht so zu führen, "dass wir nur vor der Alternative stehen, entweder wir erzielen ein gutes Ergebnis oder die Verhandlungen scheitern." Die Verhandlungen sollten statt dessen ergebnisoffen gef・rt werden und die privilegierte Partnerschaft als Alternative weiter im Auge behalten werden. Der CDU-Außenpolitiker machte seine generellen Vorbehalte gegen die Mitgliedschaft der Türkei in der EU deutlich: "Wenn wir über die Grenzen des europäischen Kontinents hinausgehen, dann wird es schwer, überhaupt Grenzen zu finden."(引用終了) かいつまんで要約すると、ドイツの有力政治家であるヴォルフガング・ショイブレ氏(保守系野党・キリスト教民主同盟の幹事長代理)が「EU加盟に向けたトルコの改革はショウに過ぎない」、つまり「見せかけだ」と発言したわけである。 いくらCDU(キリスト教民主同盟)がトルコのEU加盟に反対だとは言え、他国の内政に対してこんな失礼な発言も無いのではなかろうか。ましてやショイブレ氏は今年の大統領選出の際、一時は候補として名が挙がった人である。ドイツの大統領がこんなことを発言していたら、波紋は大きかっただろう。 ヨーロッパ人にはヨーロッパ外の制度や政治に対して、「遅れている」「劣っている」という抜きがたい偏見がある。 確かにトルコの政治・行政システムは無茶苦茶なところもあるのは認めるが(露骨な縁故主義や融通が利きすぎるところ、逆にガチガチの官僚根性など)、EU加盟に向けて努力(少なくとも上のほうでは。末端が変わったかどうかはこれからである)している国にそんな言い方はないでしょう。トルコはイスラエルと並んで曲がりなりにも議会制民主主義の国だし(その選挙制度も問題になっているのだが)、中東ではかなり「まとも」な方だと思うのだが。 これは一般のドイツ人だけではなく、残念ながら「親土派」「知土派」ともいうべき学者(僕の見聞き出来る範囲では考古学者)でもそうである。彼らは基本的にトルコの官憲を全く信用していない。確かにトルコ文化省の朝令暮改振り(昨年文化省は観光省と統合して混乱がますます大きくなった)や博物館職員の怠慢・気まぐれにはいつも振りまわされる身ではあるのだが。ただ「悪法も法」である。 19世紀末、ドイツの素人考古学者シュリーマンがトルコ(オスマン帝国)政府との協定を無視して、自らがトロイアで発掘した「プリアモス王の黄金」をひそかにドイツに持ち出したのは有名な話だが(今は数奇な運命の末モスクワにある)、それにはシュリーマンの友人だった欧米外交官たちの勧めもあったようだ。いわく、「あなたは発見した財宝を、トルコ人たちが博物館と称するイスタンブルにあるあのばかげた箱に収めるつもりですか」 基本的にヨーロッパ人のスタンスはこれと今も変わっていないのではないかと思うことがしばしばある。さすがに学者による文化財の海外への持ち出しはないが、今でも中東での発掘にはその国の文化省の代表として「査察官」が派遣される。外国(トルコでは外国隊のみではなくトルコ隊にもつく)の発掘隊が、出土品を隠したり持ち出したりしないか監視する役目である。 トルコ側にも、ヨーロッパ人の高飛車な態度に対する根強い反感がある(これは肌で感じた)。日本人がトルコで人気があるのは、一つにはこうした露骨な偏見が無いからかもしれない。もっとも、日本人がいいように利用される一方で、「高飛車な」欧米人のほうがトルコや中東諸国の中枢に入りこんで自分の希望通りに振舞うことがままあるのも事実だが。 トルコのEU加盟への道はまだまだ険しそうだ。ギリシア(1982年にEU加盟)政界のネポティズムや(パパンドレウ家とカラマンリス家の間のみでの政権交代)、ブルガリア(2007年EU加盟予定)官憲の腐敗ぶりが槍玉に上がることはあまり無いのにねえ・・・。
2004年10月08日
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今日も休養のつもりで一日ごろごろ過ごした。正直なところ1週間ほど日本に帰ってゆっくりしたい気分ではある。 今日は今年のトルコ滞在について。 僕らが毎年夏季に調査のため滞在しているところは、トルコ中央部にあるシワス県アルトゥンヤイラ郡バシュオレンという村である。最寄りの大都市であるシワスまで車で1時間ちょっと、アルトゥンヤイラも人口3000人ほどの小集落に過ぎない。幹線道路から外れているので、まあ辺鄙なところである。 村の人口は出入りが激しいのでよく分からないが、70戸くらいということから推察しておよそ300人くらいではないかと思う。人口の出入りが激しいというのは、こんな田舎ではやってられないというので出て行く人が多いのと(県都であるシワスやイスタンブル、果てはヨーロッパなど)、農閑期でありまた積雪に閉ざされる冬には出稼ぎなどで人口が一時的に激減することである(標高1600mの高原にあるので冬の積雪が多く、1mを超える)。基本的には農村なのだが、農業だけでは現金収入が少ないので冬にはボドルムやアンカラの建設現場に出稼ぎに行く人が多い。夏は里帰りなどで一時的に人口が増える。どこの田舎でもそうだが、若者は街に出ることしか考えていない。他の国と違うのは、トルコの若者はヨーロッパ(ドイツ・フランス・デンマーク)での一攫千金を夢見ていることだろう。 周辺は小麦畑が広がっているのだが、畑の他には木(緑)が極端に少なく石灰岩の不毛な岩山が多いので、日本人には荒地にしか見えない。小麦のほかには牛や羊、鶏や鵞鳥、七面鳥などを飼って生活の足しにしている。村には中近東では7000年以上の伝統がある泥煉瓦造りの家が多く、また冬場の燃料として牛糞を使っているので一見石器時代そのままの村のように見える。全ての家に電線が通って電話もあり、また衛星放送やインターネットをする家庭もあるので村人は意外に外界の情報に詳しかったりする。農業も機械化されていて見た目ほどには遅れた村ではない。 周辺の水に恵まれた村では、砂糖の原料となり現金収入が見込める甜菜(てんさい)栽培が流行っているのだが、バシュオレンは水に恵まれないので甜菜栽培はほとんど行われていない。以前は綿花栽培が現金作物として流行っていたのだが、最近は中国製の安い木綿に押されてトルコの綿花栽培は衰退しつつあるそうだ。 水が少なく木も少ないせいか、バシュオレン村は特に人気(じんき)が荒いことで知られている。村人同士の窃盗事件や刃傷沙汰がよく起きている。犬まで気が荒く、この辺りの名産であるカンガルという品種の大きな牧羊犬が、通りかかる自動車に襲い掛かったりする。もっとも、余所者である僕らには村人は悪くない。 こんな辺鄙な村だが、ここ数年大きな変化が起きている。石油パイプラインが村のすぐ横を通ることが決まり、その建設工事が(トルコにしては)急ピッチで進められている。この石油パイプラインはアゼルバイジャンのバクー沖にあるカスピ海油田からグルジアのトビリシを経由してトルコに入り、トルコ東部を斜めに縦断して地中海の積み出し港であるジェイハンに至るという長大なものである。このパイプラインはロシアを経由しないというのでアメリカの期待が大きく、トルコにとってはその戦略的重要性を高める重要な国家プロジェクトである。 パイプライン用地は幅20mほどの帯が延々と続く。ここに地下3mほどの深さに直径1mほどの鋼鉄製パイプを埋設するのである。パイプは一本10mほどで、繋ぎ目が溶接される。僕は地面に埋設してから溶接するのかと思っていたが、先に溶接してから埋設するようだ。去年は全く見るべきものが無かったのが、今年は既に溶接・埋設を待つパイプラインが平原や山を横切って地平線の彼方まで続いていた。 パイプライン用地にかかった畑の地主には見舞い金が支給され、そのお金で多くの村人が家を新築しようとしていた。昔ながらの泥煉瓦の家ではなく焼成レンガの家が急増することだろう。また去年と異なり建設現場に村人が多く雇用されており、村の貴重な現金収入にもなっている(おかげでこっちの発掘現場は熟練労働者の多くをパイプライン建設現場に取られてしまった)。 パイプラインのみならず、村の近くにはトルコ国内で6箇所設置される石油汲み上げのためのポンプ・ステーションの1つが建設される。遠めに見ると巨大な何かの秘密基地のようで、時々ヘリコプターが巡回に来ていた。 かつて発掘現場で一緒に働いていた村人の身の上に災難があった。昨年徴兵され(兵役は19歳からの1年半)東部に送られた村の若者の一人は、クルド人ゲリラの攻撃で銃弾6発を受け、軍の病院で寝たきり状態だという。しばらく鳴りを潜めていたクルド人ゲリラ組織PKKの分派が活動を強めている。イラク戦争の影響だろうか。 トルコ系少数民族の住む北イラクに対するトルコの関心も大きく、またクルド人の動向には非常に敏感になっている(新聞記事は連日イラクの話題だった。またアメリカ軍の爆撃の犠牲になったイラクの子供の写真が連日一面を飾り、反米感情を煽っていた)。トルコの現政権はイラクへの深入りを避けるため、アメリカの要請しているイラクへのトルコ軍派兵を拒否しているが、トルコ国民の一部にはPKK根絶のため北イラクに進駐すべきという声もある。しかしそんなことをしたらクルド人の反発でイラクの混乱はますます大きくなるだろうし、イランやシリアといったイラクの周辺国が黙っていないだろう。 8月24日には知り合いの村人の一人が交通事故で死んだ。運転していたトラックの車輪が外れて道路脇に転落したのだそうだ。道路の未整備と車の整備不良が重なった事故だったのだろう。今のトルコを象徴するような事故だった。 この辺の道路は一応舗装されているのだが、アスファルトが悪質なのか工事が手抜きなのか、すぐに道路は穴だらけになってしまう。40℃に達する夏の暑さでアスファルトが溶けてしまい、どんなに頑張っても道路がすぐにボコボコになるという事情もあるのだが。 今年は村人の結婚式に参加したのだが、宗教的に熱心、かつ最近身内に不幸があった家というのでかなり地味な結婚式だった。お酒が一切無く、参加者にお茶のほかにタバコと飴が配られたのにはびっくりした(トルコの結婚式の多くはアルコールが出る)。男女はもちろん別々の部屋で宴会(談笑)する。都会の結婚式はまた様子が違うのだろうが、僕は田舎の結婚式しか知らない。 結婚式は木曜に始まり、花嫁が花婿の家に迎えられる日曜までの4日間続くのだが(新郎新婦が対面するのはこの最終日)、その間両家には楽団(といっても2~3人)が来て景気のいい曲を演奏し、それにあわせて参列者が輪になって踊る(Halay)。僕も躍らされた。その間景気付けなのか魔除けなのか、ピストルや自動小銃が空に向けて飽くことなく発射される。 かなり閉鎖的な社会なので、数代さかのぼれば村全体が親戚ということになってしまう。日本ではほとんど見られなくなったイトコ婚(儒教やキリスト教社会ではタブーだが、遊牧民社会では多い)も行われている。 今年は9月初めに数日強烈な寒気が来たが、全般に例年になく暑い夏だった。9月に入っても雨がほとんど降らなかった。来年の小麦の出来が心配である。 今日はEU委員会がトルコとのEU加盟をめぐる交渉を開始する勧告を行った、トルコにとっては歴史的な日になった。エルドアン政権の様々な改革が一応の評価を受けているらしい。ドイツの野党CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟)は失望の意を表明しているが、政府与党は歓迎する声明を出している。「シュピーゲル」誌のアンケートではドイツ国民の51%がトルコのEU加盟に賛成だそうだ(反対44%)。 反対の理由として挙げられているのは「トルコは法治国家ではない」、「トルコはキリスト教国ではなくイスラム教国である」(注・トルコはイスラム教国では例外的に国教を定めていない。ただ人口の99%はイスラム教徒である)、「中東の紛争にヨーロッパが巻き込まれることになる」、「女性が抑圧されている」などだった。またトルコがEU加盟すれば間違い無く人口でEU内最大の国となり(現人口は7000万だが、加盟時期には9000万人に増えていることが予測される)、経済力の脆弱さにもかかわらず現最大国であるドイツ(人口8000万)同様の相当な発言権を与えなくてはならなくなることも危惧されている。 トルコのEU加盟は実現しても早くとも2015年ということだが、2015年にトルコがどうなっているのか、正直言って想像もつかない。その頃バシュオレン村はどうなっているのだろう。過疎がますます進んで半ば廃村になっているだろうか。
2004年10月06日
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Kyou Zatsuyou de Sivas ni kite imasu. Sakki Kutsu (95000000 Turkish Lira) to Belt (22500000 TL) wo kaimashita. Doitsu ni modoru noha okuresou desu. Osoraku 10gatsu Shojun ni zurekomi sou desu. Koko Suujitsu ha Natsu ga modotte kita kano youna Youki desu. Hakkutsu-Genba no hou ha mada owatte imasen. Seiri-sagyou no Koto wo kangaeru to madamada Shigoto ha oosou desu. Senshuu no Kinyou ha Kyuujitsu-Henjou de Genba ni dete imashita. Inaka ni iru node Toruko ga dounatte iru noka sae shirimasen. Kinou ha Dokoka de Terror ga atta mitai desuga... Irak-Sensou no Eikyou ka Kurd-jin Terrorist no Katsudou ga Kappatsu ni natte iru mitai desune. Nihon no Pro-Yakyuu no Hou ha Rakuten ga Sannyuu wo Hyoumei shita soudesune. Rakuten'tte sugoi Kigyou desuna. Kyou ha Sensei (german) no Otomo de Sivas ni kiteiru no desuga, Ima Sensei wo matteiru Tokoro desu. Senshuu no Mokuyou ha Sivas no Vali (Ken-chiji = Kenrei. Chuuou-seifu ni Ninmei sareru) ga Iseki wo Houmon shimashita. Bokura no Iseki wo Kankou-Meisho no Sukunai Sivas-ken no Medama to kangaete iru youdesu. Chinami ni Iseki no Namae ha 'Kuşaklı' to iimasu. Iseki no Chikaku deha, Azerbaycan (Baku) kara Chichuu-kai (Ceyhan) he nukeru Oil-pipeline no Kensetsu ga susunde imasu. Kouji-genba niha, Nihon-jin Gijutsusha mo iru soudesu.
2004年09月20日
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Kinou Kinba no Kabusemono ga toreta node, Kyou ha Sivas no Haisha(Diş Hekimi) ni ikimashita. Toreta Kabusemono wo tsukeru dake datta node, Sugu ni owarimashita. Chotto Shigoto ga arappoi Hoka ha, Nihon no Haisha to hobo onaji deshita (Setsubi-tou ga yaya Hinjaku desuga). Doitsu no Haisha ni itta Koto ha arimasen ga (chotto kowai node), Setsubi-igai ha nitayou na Mono deshou ka. Kyou ha Asagata Ame ga furimashita. Iyoio mijikai Aki to kibishii Fuyu no Tourai desu. Hakkutsu no hou ha Raishuu Ippai de Shuuryou shimasu. Kotoshi ha Shoukibo de mijikakatta desune.
2004年09月10日
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Kyou ha Kyuujitsu de Sivas ni kite imasu. Ashita ha Kemal Atatürk ni yoru Sivas-Kokumin-Kaigi(1919.9.4) no Kinennbi de, Machi ha Omatsuri no Junbi de nigiwatte imasu. Kotoshi no Natsu ha hontou ni atsui desu. Shikashi Kyou ha yaya suzushiku narimashita. Hyoukou 1600m no Tokoro nanode(Sivas ha 1200m kurai), Fuyu ga kuru nomo hayai desu. Senshuu no Kyuujitsu ha, Nengan no Divriği he ikimashita. Sekai-isan ni Touroku sarete iru, 13-Seiki no Mosque, Medrese(Islam no Gakkou) ya Shiro ga arimasu. Sivas-ken Saidai no Kankou-Meisho desu. Tokoroga, Shashin de miru noto Jissai toha Oochigai de, Kekkou chiisai shi, Machi(Jinkou 10000) mo heboi noga Igai deshita. Koutsuu no Ben ga warui node, Nihon-jin ha mada amari kiteinai mitai desune. Onaji Hi ni, 'Akçekale' to iu Iseki ni ikimashita ga, Kochira ha Guide-book nimo dete imasen. Shiro-ato to Gankutsu-bo(Achaemenid??), soreto Hellenism-Jidai no Hibun(Greek to Aramaean) ga arimasu. Kakure-sato no youna Mura de, Douro mo Hosou sarete imasenga, subarashii Iseki deshita. Kotoshi no Hakkutsu niha Masukomi no Shuzai ga yoku kimasu. Turkey no TV ya Shinbun de nando ka Shoukai saremashita. Boku no Shashin mo Shinbun ni deta soudesu. Kyou no 'Hürriyet'-shi(Chuuou-Anatolia ban) nimo, Bokura no Hakkutsu ga dete imasu. Kotoshi no Medama ha Kyuusha to mirareru Tatemono no Hakken desukane. Uma no Zenshin-Kokkaku ga Shutsudo shite imasu. Hittite-Teikoku ha Sensha de shirarete iru dakeni(B.C.1285 nen no 'Kadesh no Tatakai' ga Yuumei), Kichou na Hakken to iemasu. Olympic mo itsuno manika owatte shimaimashiyta. Nihon ha ganbatta mitai desune. Soredeha Minasama Gokigenyou. Hoşça kalın.
2004年09月03日
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Buji ni Turkey ni tsukimashita. Ima Sivas no Internet-Cafe ni imasu. Fudan no Shucchou-saki ha Sivas desuga, Gakkai de Eskişehir to iu Machi ni ikimashita. Namae ha 'furui-Machi' desu ga, Jissai ha Modern na Machi deshita. Tsuide ni Shuto no Ankara ni yorimashita. Boku ha Tokai-sodachi nanode, yappari Toshi ga iyi desune. Ankara no Metro ha Doitsu-sei de pikapika desu. Fudan iru Tokoro ha Hantai ni Inaka(Jinkou 300-Nin) desu. Ankara ya Eskişehir wo miruto, Turkey mo EU ni haittemo okashikunai to omoimasu ga, Toshi no Hinmin ya Inaka wo miteiruto, Yahari Jiki-shousou kana, to omoimasu. Nihon deha Taifuu ga kita soudesu ga, Istanbul mo Ooame de Kouzui desu. Ankara ya Sivas niha Eikyou ha arimasen. Soredeha Minasama Gokigenyou. Görüsürüz.
2004年08月21日
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今日も暑いな。寝苦しい夜が続いている。こう湿度が高いとやってられない。この点ではトルコ内陸部の気候が待ち遠しいくらいである。 ドイツ政権与党のSPD(社民党)はもうガタガタである。支出削減のための失業対策の法改正(HartzIV)を巡ってかつての支持層である労働組合に攻撃され(昨日は東ドイツを中心に4万人の「月曜デモ」があった)、党内ではかつての党首であるオスカル・ラフォンテーヌ元蔵相の「口撃」が続き、ラフォンテーヌを党から追放しろという議論まで起きている。 ところが野党のCDU(キリスト教民主同盟)やFDP(自由民主党)もピリッとしない。シュトイバーCSU(CDUのバイエルン版)党首(バイエルン州首相)が「メルケルCDU党首とヴェスターヴェレFDP党首がドイツの将来を担うなんて想像できない」などと発言し内紛を招いている。そういや我らがローラント・コッホ(ヘッセン州首相、CDU)はどうしてるんでしょうかね。彼がドイツの首相になったらいよいよドイツは終わりという気がするが。 日本で小泉首相に代わる人材が見当たらないのと同じようだ(民主党??)。 このところ趣味というか自分の関心に淫した日記が続くが、ご容赦を。本当はドイツ生活体験記ももっと書きたいんですがね・・。 今日は第2次世界大戦中の中近東(西アジア)についてのメモ。 第一次世界大戦(1914~1918年)で400年間中東に君臨したオスマン帝国が崩壊、その領土の多くは戦勝国であるイギリスとフランスに分割された。フランスはシリアとレバノンを国際連盟の委任統治領として獲得、イギリスは同様にパレスチナ、ヨルダン、イラクを獲得した。アラブ民族主義運動を巧妙に利用した結果だった。 シリアでは1925年にドルーズ教徒による対仏叛乱が起きているが、鎮圧されている。 一方イギリス支配下のパレスチナにはヨーロッパからのユダヤ人移民が次々に入植し、こんにちまで続くパレスチナ紛争が始まった。 1912年にイタリア植民地となっていたリビアでも、オマル・アル・ムフタールの叛乱が起きているが、住民の強制移住などを行ったイタリア軍は1931年9月にオマルを捕らえて処刑、鎮圧している。 中東では民族主義による独立国も誕生した。敗戦で国土分割の危機にさらされたトルコは、ムスタファ・ケマルの指揮の下ギリシャ軍を撃退し連合国を撤兵させ、1923年にトルコ共和国として独立した(敗戦国の勝利というのは稀有の例だろう)。アタチュルク(「トルコ人の父」)の名を奉られたケマルは大統領に就任、カリフ制の廃止と国教の廃止、ヨーロッパ式憲法や民法の制定(政教分離)、婦人参政権、文字改革(ラテン文字化)など大胆な西洋化・近代化政策を次々と断行した。 イランでは軍人レザー・ハンが1925年にカージャール朝を廃してシャー・パフレヴィーとして即位、パフレヴィ―朝(~1979年)を開き、トルコに倣い近代化政策を強行した(遊牧民の定住化、イギリス資本による油田開発など)。 アラビア半島ではメッカ太守・へジャズ王フセイン(トルコのカリフ制廃止に伴い、1924年にカリフとなる)と、ワッハーブ派のネジド太守アブド・エル・アジズ・イブン・サウードが戦い、1926年に統一に成功したサウードが1932年にサウジアラビアを建国した。 またイギリスは1930年にイラクの独立(国王は上記フセインの息子ファイサル。「アラビアのロレンス」との共闘で知られる)、1936年にエジプトの独立を認めたが、両国内にはイギリス軍が駐屯し実質的にイギリス支配下に置かれた。この両国では特に反英感情が高まっていた。 ナチス・ドイツなどファシズムの台頭とドイツ・イタリアの拡張政策はヨーロッパ情勢を不安定にし、1939年9月には第二次世界大戦が勃発する。イギリス・フランスは連合国となったが、この両国に支配される中東は否応無くこの戦乱に巻きこまれることになった。 1940年6月、ドイツ軍は電撃戦によりフランスを僅か一月半で降伏させた。フランスには親独派のヴィシー政権が成立したが、世界中のフランス海外植民地はそれぞれの対応を迫られた。シリア・レバノンでは本国のヴィシー政権に忠誠を誓う部隊と、イギリスに逃れた「自由フランス」政府に属する部隊が衝突、戦闘を有利に進めるため自由フランス側のキャトルー将軍はシリア人に将来の独立を約束し、1941年4月にはシリア、12月にはレバノンが自治権を獲得した。 フランスの敗北に乗じてドイツ側に参戦したイタリアは、リビアとエチオピア(1935年に併合)に40万の兵力を置き、南北からイギリス勢力圏であるエジプトとスーダンの攻略を狙った。これは「新ローマ帝国」の再現である、と高らかに宣言された(同じ理由で中立国ギリシャにも侵攻し、撃退されている)。 ところが10分の1に過ぎないイギリス中東軍にイタリア軍は押しまくられ、1941年4月にはエチオピアの首都アジスアベバが陥落、5月にはイタリア軍司令官アオスタ公は降伏した。1943年初頭にはリビアをイギリスに逆占領され、ムッソリーニの「新ローマ帝国」の夢は潰えた。 1941年4月、イラクで高まる反英感情からラシード・アリ・アル・ガイラーニはクーデタを起こし政権を掌握した。ガイラーニはイギリス支配からの解放者としてナチス・ドイツに期待した。既にバルカン半島全域を支配下においていたドイツは、鉄道を使いイラクに武器を送ろうとしたが、途中にある中立国トルコがこの列車の通過を拒否した(鉄道網の未整備が理由)。イギリスはすかさずインドから部隊を送りペルシャ湾に上陸させ、イラクの親独政権はわずか2ヶ月で崩壊した(余談だが、あのサダム・フセインは若い頃ヒトラーの政権奪取を研究したといい、今でもナチスは中東の一部では決して「悪者」ではない)。 イギリスはこれを機会に油田のある中東の親独政権一掃を決意、フランス領であるシリアに侵攻して自由フランス軍を助け、8月にはソ連と共同で中立国であるイランに侵攻した。「侵略」というとドイツや日本の枢軸国ばかりが指弾されるが、いかに戦争中とはいえ連合国側であるイギリスも中立侵犯しているのである。イラン北部はソ連、南部はイギリスの占領下に置かれ、レザー・シャーは息子のモハメッドに譲位した(1979年のイラン革命で追放されたのはこのモハメッドである)。 イギリス統治下のパレスチナでは、アラブ人による圧力から、イギリスはユダヤ人の新たな入植や土地購入を制限した。これに対してユダヤ人は「イルグン(組織)」を創設、イギリス治安部隊やアラブ人に対するテロ活動を行った(その中にはのちにノーベル平和賞を受賞するメナヘム・ベギン首相もいた)。 一方でユダヤ人を迫害するナチス・ドイツへの反感から、志願兵としてイギリス軍に投じるユダヤ人も多かった。概ねアラブ人は反英親独、ユダヤ人は反独といってよいだろう。ナチスの迫害を逃れたユダヤ人はパレスチナを目指し、イギリスによる制限にも関わらず、1940年~45年に5万4千人のユダヤ人が入植した。 イスラエルのユダヤ人の一部(イツハク・シャミル元首相など)には、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人虐殺)の責任の一端はアメリカにある、という観念があるそうだ。アメリカがドイツをイギリスに代わる中東の支配勢力と認めてドイツが中東を支配していれば、ヒトラーはユダヤ人のパレスチナ移住を許可しホロコーストは起きなかったはずだ、という理屈である。 トルコは開戦当初から中立を宣言していた。トルコは当初ソ連に接近しようとしたが、トルコ領に野心のあるソ連は相手にしなかった。トルコは次いでイギリス・フランスに接近、相互援助条約を締結する。この条約は地中海に戦火が拡大した場合にトルコの英仏側での参戦を定めていたが、ソ連の介入を招く恐れがある場合はトルコ側に参戦の義務は無い、という複雑なものだった。この条項が、1940年6月にイタリアが参戦した際にトルコが中立を維持する口実となった。トルコは総動員体制で兵力100万を動員し、武装中立を続けた。 フランスの降伏により単独で独伊と戦うことになったイギリスは、トルコにバルカン半島での参戦を求めたが、トルコは自重して動かなかった。やがて1941年4月にはドイツ軍がバルカン半島全域を制圧、トルコはドイツの脅威に直接さらされることになった。上記のイラクでの反英クーデタの際、ドイツはイラクへの軍事援助物資のトルコ領内通過を要求したが、イギリスに配慮したトルコはこれを退けた。この決定が無ければ、イラクやイランがドイツ側で参戦していた可能性もあっただろう。 トルコは1941年6月に独土不可侵条約を締結し一応の安全保障を得た(4日後にドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻しているが)。独ソ戦の開始により、ソ連とイギリス双方によるトルコへの参戦要求が強まった。1943年にはカサブランカ会談を済ませたイギリスのチャーチル首相がトルコを訪問、1943年10月にはモスクワで米英ソ外相会議が開かれたが、ソ連はトルコに対する参戦要求は「提案」ではなく「命令」とすべしと主張した。 一ヶ月後のカイロ会談でもトルコへの参戦要求が議題になり、トルコのイノニュ大統領(1938年のアタチュルクの死後に就任)が招かれたが、チャーチルの強硬な要求に対してイノニュは軍備の不備を理由に即時参戦を拒否したが、将来の参戦を原則承認した。 一方ドイツによるトルコ参戦工作も行われた。ドイツはフォン・パーペン元首相(ヒトラーの前任者)という大物をトルコ大使として首都アンカラに送りこみ、またトルコ国内の反ソ連感情を煽った。ソ連による中央アジアやコーカサスのトルコ系住民・イスラム教徒の弾圧・支配、またソ連の侵略を受けていたフィンランドに対する同情心は、トルコ国内のトゥラン主義(トルコ主義)を盛り上がらせた。当初独ソ戦はドイツに有利に展開したので、ドイツ側で参戦すべしという世論が高まった。しかしトルコ政府は動こうとしなかった。 1944年、ソ連はドイツに占領された領土をほぼ回復、ドイツの敗色が濃厚となった。イスタンブルで反ソ反共デモが起きる中、トルコ政府は4月にはドイツへのクロム鉱禁輸、6月に親独派の外相を解任、8月にはドイツと断交し、連合国寄りの姿勢を明確にする。9月にはソ連軍がバルカン半島全域を制圧しトルコ・ブルガリア国境に迫ったが、イギリス軍のギリシャ上陸(10月)はソ連のトルコ侵入を牽制した。 連合国は、1945年3月までに対独・対日宣戦しない国は新たに創設する国際連合への加盟を認めないと宣言したので、1945年2月23日、トルコはドイツと日本に対して宣戦布告した(三日後にはエジプトが対独・対日宣戦している)。 1945年5月、ドイツの降伏で第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は終結する。しかしトルコにとっての危機はこれからだった。同年3月、ソ連はトルコとの中立条約の破棄を予告、6月にはトルコ東部領土の割譲やボスポラス海峡でのソ連海軍基地の設置を要求した。ソ連の横暴な「勝てば官軍」ぶりにトルコ側は硬化し、急速に米英への依存を深めることになるが(1952年にNATO加盟。ソ連はスターリン死後の1953年にこの要求を取り下げた)、それは「冷戦」という次なる戦争の話になる。
2004年08月10日
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今日国連の安全保障理事会は、西部ダルフール地方で内戦の続くスーダンに対し、黒人住民に対する虐殺などを続けているアラブ系民兵組織の即時武装解除などを含む30日以内の解決・状況改善を求める決議案を、国連憲章第41条に基づき採択した。安保理理事国の中国とパキスタンは棄権した。スーダン政府はこの決議に反発する声明を出している。 決議案の提案国アメリカは当初、「制裁」という文言を盛り込んだより厳しい調子の決議案を提案していたのだが、中国やロシア、さらにイスラム教国の強い反対に遭い、決議では結局、1ヶ月経っても状況が改善されない場合の対応は「制裁」から「その他の処置」という表現に改められた。 スーダン西部のダルフール地方は、チャドや中央アフリカとの国境地帯にあたり、北部は砂漠、南部はステップ地帯である。住民の多くは黒人住民だが、2001年秋頃から政府の支援を受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィードと黒人中心の反政府組織スーダン解放軍(SLA)との間で戦闘が続いている。 ジャンジャウィードは一般黒人住民に対する組織的虐殺を続けており、既に5万人が殺害されたという推計もある。またアラブ民兵により黒人女性に対する強姦が組織的に行われているという情報もある(被害者女性が社会的背景から情報提供に応じないので、実態は不明)。このような「民族浄化」は10年前のルワンダ内戦や、ボスニア内戦を思い起こさせる。 ダルフール地方では100万人が難民化し疫病や飢饉の恐れもあり、一部は隣国チャドにも流れ込んでいる。ジャンジャウィードは越境してチャド軍とも交戦している。チャドのイドリス・デビ大統領はダルフールの住民と同じ黒人部族ザガワ族の出身だが、スーダン政府の支援で政権奪取に成功した過去があり、対応に苦慮している。 アフリカ連合(AU)は内戦当事者の調停を申し出ているがうまく行っていない。またスーダン政府は外国の難民への人道援助受け入れに消極的で、ジャンジャウィード民兵の無法な活動を黙認し外国からの取り締まり要請も無視し続けている。 アフリカ連合は7月末にもダルフールでの難民支援と治安維持のため300人程度の部隊を派兵することにしていたが、兵站(基地設営・輸送)上の理由から8月第1週に延期されている。オランダやフランスも輸送機や部隊を送る意向を示している。 このダルフール問題では、ドイツはフィッシャー外相を中心として制裁を要求する相当強硬な姿勢を採っており、スーダン政府に名指しで批判され、また駐独外交官を召喚されている。ダルフールでの人権蹂躙は看過できないという立場でフランスやアメリカとも共同歩調を取っており、イギリスなどは軍事介入の可能性さえも示唆している。 一方、中国はスーダンの石油資源にかなりの投資をしており、またスーダンにとって最大の輸入(工業製品・機械など)相手国となっていることもあり、国連による経済制裁に強硬に反対している。ロシアやイスラム教諸国も中国と協調して制裁に反対している。 まるでかつてのコソヴォ紛争(1999年)の際の対立図式が再現されているようだ(コソヴォの際は国連決議抜きで西側NATO諸国はユーゴスラヴィア空爆に踏み切ったのだが)。国内で民族紛争による内戦や人権問題を抱える中国やロシアは、この手の制裁決議案にはことごとく反対する姿勢をとっている(「内政不干渉の原則」というやつである)。特に今回のケースは中国にとっては資源開発という自己の国益上無視できないものなのだろう。 国連は平和・人権という人類の崇高な理想の実現のための機関ではなく、所詮は国益同士のぶつかりあいの調整期間に過ぎない。民主党の岡田党首は昨日だかのアメリカでの講演で、国連決議に基く自衛隊の海外武力行使に賛成する意見を開陳したそうだが、国連決議において拒否権をもつ安保理常任理事国(米英仏中露)が一致することはほとんどないだろう。 過去の日記に何度も書いた一例を挙げておくと、少数派のアルバニア系住民をめぐり内戦の危機にあったマケドニアに対して国連は平和維持軍を派遣していたが、1999年に安保理常任理事国・中国の拒否権発動で平和維持軍駐留が延長されず撤退、緊張が一気に高まった。中国が拒否権を発動したした理由は、マケドニアが台湾と国交を結んだからだった。のちにマケドニアは台湾と断交し、国連の平和維持活動は再開された。 イラク戦争ではアメリカの独走・独善ぶりが目立ったが、国連でごり押しするのはアメリカだけではない。自国の国益のためなら他国の国民の命や安全など(ましてや「人道上の配慮」など)二の次、というのが残念ながら多くの国の本音だろう。 以下はスーダンについての備忘。 スーダンはアフリカ東部にあり、エジプトとエチオピアに挟まれた広大な国である。面積は250万平方キロ(日本の7倍)でアフリカ最大の面積がある。北部はほとんど砂漠でナイル側流域以外は不毛の地だが、南部にはステップやサバナが広がっている。国内には原油や鉱物資源、さらに農地にも恵まれており経済的な潜在力は高いのだが、長年の内戦で経済状況は悪く、一人あたりGDPは430ドルで、これは日本の50分の1以下である。人口は3700万人で、人口の4割以上が15歳以下という「若い国」で、人口が急増している。人口の4割がアラブ系、残りが黒人である。 そもそも「スーダン」という国名は「黒人の地」(ビラード・エッ・スーダン)というアラビア語から採られている(本来はサハラ砂漠以南全てを指す言葉だった)。 この地は古代はヌビアと呼ばれエジプト文明と並ぶ古代文明が栄えたが、7世紀以降交易目的でアラブ人が多く入植し、またその過程でイスラム教が広く普及した。ただし南部にはエチオピアと同じくキリスト教徒の黒人住民が多い。 支配階級である「白人」であるアラブ人は、伝統的に黒人を蔑視しており、黒人を捕らえて奴隷としていた(黒人が他部族の黒人を捕らえ、アラブ人に売った。アラブ人はそれを欧米に輸出した)。19世紀初頭にスーダンはエジプト副王ムハンマド・アリーによって征服された。アラブ系住民はヨーロッパやアメリカへの黒人奴隷輸出を行い、スーダン南部は人口が激減した。 そのエジプトがイギリスの保護領になるとスーダンもイギリス支配に組み込まれた。1881年にはマフディーの乱という大規模な対英(=対エジプト)叛乱が起き首都ハルトゥームを占拠したが、1898年にキッチナー卿率いるイギリス軍に鎮圧された(この事件は映画「サハラに舞う羽根」に描かれている)。 1956年にスーダンはイギリスから独立を達成した。しかし中央政府のイスラム教徒と南部黒人キリスト教徒の対立は収まらず、既に独立前の1955年から内戦が起きている。1972年に南部は部分的自治を獲得したが、1983年からは中央政府のシャリーア(イスラム民法)導入に反発した南部キリスト教系反政府組織が内戦を再開している。 中央政権では軍部独裁政権が続いており、1958~64年のアブード政権、1969年~85年のジャーファール・ヌメイリ政権、1989年から現在まで続くオマル・アル・バシール政権と、軍部クーデタで成立した政権が交代している。 バシール中将はイスラム原理主義を掲げ、シャリーアの導入などを行った。1996年に行われた国民議会総選挙で大統領に就任したが、国民議会議長で原理主義の指導者だったハッサン・アル・トゥラービーとの権力争いから1999年に国家非常事態令を発令、翌年野党がボイコットした総選挙で大統領に再選されている。トゥラービーを排除したことによりイスラム原理主義色は薄れ、2002年には南部反政府組織と停戦に合意、また国内の人権状況改善に努力していると見られていた。 国際的にはアメリカの世界貿易センタービルでのテロ事件(1993年)やエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件(1995年)などに関与したとされ、また国際テロ組織アル・カイダとの関係も取り沙汰された。1996年から国連による制裁を受け、1998年にはケニアのアメリカ大使館爆破事件をきっかけにアメリカにミサイル攻撃を受けている(その日はクリントン大統領自身の性的スキャンダルに関する宣誓証言の前日だった)。2001年9月のアメリカ国内同時多発テロ事件に際してはアメリカに協力して対テロ姿勢を打ち出し、国連制裁を解除されている(ただし今もアメリカにより「テロ支援国家」に指定されている)。
2004年07月30日
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昨日の夜はむしむしして不快指数が高かった。夜にも激しいにわか雨と雷が来た。 今日も晴れていると思ったら、突然激しい雷雨になった。気温は20℃台前半で暑くは無いが、湿度が高い。 今日はイスラエルとパレスチナに関するニュースを。(引用開始)[ラマラ(ヨルダン川西岸) 18日 ロイター] パレスチナ自治政府のクレイ首相は17日、ガザ地区の混乱を受けて辞表を提出した。 ただ、アラファト議長は辞表受理を拒否した。 首相は辞表提出の際、自治政府の改革を求める武装勢力が、フランス人救援活動家4人や警察署長らを相次いで拉致した事件を挙げ、ガザ地区が空前の混沌状態にあることを指摘した。 議長は同地区の治安機関の改革を命じ、現在12に上る治安部隊を3組織に統合すると表明。 首相は、19日の閣議まで辞任を保留する意向を示した。 イスラエルのシャロン首相が来年、軍とユダヤ人入植者を撤退させるとの期待感から、ガザ地区では主導権争いが噴出しており、自治政府の改革を求める声は一層高まっている。(ロイター)[7月18日15時6分更新]【エルサレム18日共同】ガザ地区南部のパレスチナ自治区ラファで18日夜、武装グループが情報機関の建物を急襲し双方が銃撃戦を展開、病院当局者によるとロイター通信の記者を含む12人が負傷した。 パレスチナ筋によると、武装グループはパレスチナ解放機構(PLO)主流派ファタハの武装組織「アルアクサ殉教者旅団」。パレスチナ自治政府のアラファト議長が自分のいとこ、ムーサ・アラファト氏をガザ地区の治安組織長官に起用したことに抗議した犯行とみられる。 ガザ地区では17日夜から18日未明にかけても、南部ハンユニスでムーサ氏起用に抗議するデモがあり、情報機関の建物が放火されたばかり。 ラファでの衝突では、武装グループが建物を取り囲む一方、近くの住民も石や空き瓶を投げるなどして抗議に加わったという。(共同通信)(引用終了) イスラエルのガザ地区からの撤退方針はあちこちに影響を及ぼしている。ガザ地区をパレスチナ側に丸投げすることで、ヤーセル・アラファト率いるパレスチナ自治政府の統治能力の無さを内外に見せ付けるのがイスラエルの目的と聞いたが、その通りになりつつある。アハマド・クレイア首相には愛想を尽かされて辞任を言い渡され、お膝元からも反旗を翻され、アラファト議長の権威も地に落ちつつあるようだ。 「パレスチナがまとまれないのは、イスラエルが後ろで陰謀しているからだ」とパレスチナ支援者は言うだろうが、権力・財産に固執し露骨なネポティズム(親類縁者による権力独占)に走るアラファト議長のやり方は、実際のところもはや支持を失っているようだ。 かといって「代わり」が居ないのが現状となっている。アラファト議長ももう75歳、数度にわたるイスラエルの攻撃や交通事故(彼は相当なスピード狂だそうだ)もかいくぐってきた「不死身の男」にしてノーベル平和賞受賞者の彼だが、「アラファト後」がそろそろ考えられなければならなくなって来たようだ。 日本の方でまだ報じられていないようなので、ラジオで聞いたニュースを聞き書きしておくが、イスラエルのアリエル・シャロン首相はアメリカのユダヤ人団体の代表との会談で、フランスに住むユダヤ人にイスラエルへの移住を呼びかけたという。 シャロン首相によれば、フランスでの反ユダヤ主義は近年にかつて無いレベルに達しており、フランス政府が将来民族差別的な政策をとるかもしれないこと、その背景にはフランス人口の10%を占めるまでに至ったイスラム教徒人口の増大があることなどを挙げたうえで、ユダヤ人同胞にいざという場合のイスラエルへの移住を呼びかけたという。これに対しフランス外務省は「この発言は受け入れがたく、首相の説明を求める」と抗議しているという。 かつてユダヤ人を迫害した前歴のあるヨーロッパ諸国(そのもっとも甚だしいものはドイツ)に対して、イスラエルは度々「反セム(ユダヤ)主義」という言葉を切り札に、イスラエルへの批判を牽制してきた。実際ドイツはナチスの過去もあってイスラエルには強い態度に出られない。しかしEUとしては既にイスラエルのパレスチナ人に対する政策で度々激しい抗議を行っている。 シャロン首相の発言は親アラブ・イスラム政策に傾くフランスに対する牽制のつもりもあるのだろうが、いたずらに被害者の立場を強調するのは、「お前が言うか」と思われて却って反感を買うだけのように思えるのだが。
2004年07月18日
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今日は私的には大事な日なのだが、ぼんやり過ごしてしまった。 小泉首相が北朝鮮の金正日総書記と会談した際、金正日は「我々のミサイルは日本に向いていない」と言ったとか。うそこけ。じゃあ一体どこ向いてるんだ??アメリカ本土を攻撃出来るというはったりのつもりだろうか。まさか中国やロシアじゃないよね。 それはともかく、小泉首相は「リビアに倣って核開発を放棄して国際社会に復帰しろ」と言ったらしいのだが、それに対して金正日は「我々はリビアとは違う」と言ったそうだ。リビアのようにアメリカに屈する腰抜けじゃないぞ、という意味か、それともリビアを取り巻く環境と北朝鮮をとりまく環境は違う、という意味か。 リビアは80年代にはアメリカにとってもっとも憎むべき敵だったのに、昨年来大量破壊兵器廃棄を宣言してアメリカに接近する姿勢を打ち出し、孤立を回避していることはこの日記でも触れているので、詳しく書かない。 1986年にアメリカはリビアを限定空爆しているが、これが今のブッシュ政権だったらさらに侵攻してリビアを占領しただろうか?当時はソ連がリビアの後ろ盾として居たから、やはりそれはなかったと思う(まあリビアがイラクに比べ国際的影響力の小さい国という違いもあるだろうけど)。 湾岸危機(1990年)以降、昨年の戦争で終局を迎えたフセイン政権の失敗は、やはり「後ろ盾」が居らず、アメリカが独走して攻撃してもそれをおし留めるだけの同盟国が無かったことだろう(もとよりクウェート侵攻によってアラブ世界の中でもイラクは孤立していた)。ありていに言えば、例えば中近東に大国(まあフセイン政権はクウェートを併合して自らがその位置に付こうとしたのだが)が存在して、イラクがその国に従属・同盟していれば、アメリカの独走(イラク戦争)は起きえなかっただろう。中東外のロシアは弱すぎ、中国は遠すぎた。 中東の「地域大国」というと、人口でいけばトルコ、イラン、エジプト(それぞれ7千万弱)、富と宗教的権威(メッカの守護者)でいえばサウジアラビアだろうが、トルコとイランはアラブ人の国ではないし、サウジアラビアは石油があるという以外は軍事的にも全く微力である。要するに中東には「大国」は存在しないし、地域統合の核となるべき突出した「地域大国」も無い(今の中東諸国の国境線は英仏などかつての西欧列強が引いたものだが、こういう状況となることを図ってやったとすれば、憎むべきながら恐るべき深謀である)。 昨日は2ヶ月延期されたアラブ連合首脳国会議が開かれたが、アラブ主義の論客として知られるサウジのアブドラ皇太子は国内世論に配慮してか欠席、件のリビアのカダフィ大佐はムーサ事務局長(エジプト外相)の演説中に勝手に退席(この人は相変わらずだ)、さらにイラクへのテロリスト潜入取り締まりを巡って親米国ヨルダンと反米国シリアが対立、アラブ諸国の不一致を印象付けてしまった。採択された共同宣言は美辞麗句は並んでいても何の現実味も拘束力も無い玉虫色のものである。 僕はアメリカが前例の無いああいう思いきった行動(昨年のイラク戦争)に出たのだから、アラブ側にも統一行動に向けた何らかのレスポンス(国家レベルにとどまらず、民間レベルでも)が出てくると踏んでいたのだが、今のところ現状維持で何の変化も無い。さらに予想外だったのは、イラク情勢の泥沼化とアメリカの目に余る不手際だった(田中宇氏は「意図的だろう」とのことだが)。 これからも中東(アラブ)諸国はアメリカやイスラエルのいいようにされるのだろう。 北朝鮮がリビアと違うのは、やはり隣国が中国・ロシアという、アメリカも遠慮する大国であり、それに従属する姿勢を見せているということだろう。大国に囲まれているという状況は普通ならば小国が独立を維持する上で桎梏なのだが、北朝鮮はこれらをしたたかに手玉にとっており、「現状維持・勢力均衡」を図るにはうってつけの状況になっている。 あ、北朝鮮とリビアのさらに大きな違いを思い出した。独裁政権による人権侵害はともかくとして、リビアで国民が飢えて大量に死ぬという話を僕は聞いたことが無い。国民を食わせられない政府はやはり存在するべきではない。delenda est Carthago (Marcus Porcius Cato Censorius)「カルタゴは滅ぼされねばならぬ」(大カトー)
2004年05月24日
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イラクでのテロ攻撃はもはや日常茶飯事の感があるが、なんと隣国シリアでもテロ攻撃が起きたらしい。 27日夜、シリアの首都ダマスカス西部の大使館街で爆発音が数回し(国連施設が攻撃されたという情報もある)、ロケット弾などで武装したグループと政府治安部隊の間で銃撃戦になった模様である。武装グループの性格や攻撃の目的などははっきりしていない。 シリアは昨年3月のイラク戦争では、安保理理事国の中でも強硬にアメリカによる武力行使に反対した。またシリアから「義勇兵」がイラクに入りこんで反米運動に従事しているというので、イラク戦争後、アメリカに最後通牒のような脅しまでかけられている。実際シリアに逃げ込もうとした一団(亡命するフセイン大統領の車列と誤認されていた)を米軍が攻撃し、巻き添えでシリア国境警備隊に死者が出る事態まで起きていた。 ここまで書くと、シリアは一見反米路線のようでもあり、今回のダマスカスでのテロ攻撃は反米運動の一環とは考えにくい。またシリアは以前からアメリカに「テロ支援国家」に指定されている。レバノンを拠点に反イスラエル闘争を続ける「ヒズボラ」をイランと共に支援しているとされている。というわけで、シリアはテロを起こすほうではあっても起こされるほうではないと思いがちである。 実際、シリア国内でもっとも最近にテロ事件が起きたのは1997年1月だったかにダマスカスでバスに爆弾が仕掛けられた事件くらいだったと記憶する(その後しばらくバス・ターミナルのチェックが厳しくなったものだ)。 シリアのバッシャール・アサド政権は昨年までのイラクと同じバース党政府で(誤解されがちだが、一党独裁ではない)、アラブ民族主義・社会主義を掲げ、政教分離を国是としている。イラクとは全く逆に、国内にはスンニ派が圧倒的多数なのだが政権中枢はごく少数のシーア派(というよりアラウィ派)が独占しており、スンニ派民衆の不満が潜在的にある。フセイン政権下のイラク同様、強力な秘密警察(ムハバラート)によって反政府の動きを厳しく押さえ込んでいる。 イラクではイラン・イラク戦争中(1980~1988年)にはクルド人、湾岸戦争直後(1991年)にシーア派による反乱が起きたが、それぞれイラン、アメリカに梯子を外された形になって結局フセイン政権の厳しい弾圧を受けた。同じように、シリアでも大規模な反乱が起きたことがある。 1982年のムスリム同胞団(スン二派系)によるハマでの反乱がそれで、ハマの市街に立てこもる彼らに対し、シリア政府(当時の大統領はハーフェズ・アサド大統領で、現大統領の父親)は戦車や航空機を使い市民もろとも攻撃、一説には二万人の死傷者が出たとされている。外ではヒズボラ(シーア派系)を支援しながら、内のイスラム原理主義運動に対しては容赦無い弾圧を加えたのである。 イラク戦争を機に、シリアもしくはヨルダン(あとイランも?)経由でイラクに入り込んで反米闘争を繰り広げようとするイスラム教徒(原理主義者?)が増えているということだが、そんな中の跳ねっ返りが、スンニ派系のイスラム原理主義には厳しい態度をとるシリア政府に牙をむいたものだろうか。イラク情勢の混沌が長引けば、周辺諸国にも影響を及ぼしかねない(シリアの南隣り・ヨルダンでも、大規模なテロが計画されていたのが未然に防がれたというニュースが流れたばかりだった)。 イラクをどうすればいいのかは、僕も正直言って分からなくなってきている。イラク人に全部任せて、軍閥割拠のアフガン化、もしくは強権的な第二のフセイン政権、もしくはイランのような宗教者による集団指導体制が出てくるのを待つべきなのだろうか(最後のが一番穏当そうである)。(4月28日追記) 未だにこの事件の背景は明らかではないが、やはりイスラム原理主義者の犯行と見られているようだ。ただし、クルド人グループによる可能性もあるという。これは意外だった。 イラクやトルコに比べれば、シリア国内のクルド人は微々たるもので、クルド人の分離独立運動など聞いたことが無かった。シリアはトルコ国内のクルド独立運動を支援し、PKK(クルド労働者党)のオジャラン党首を匿っていたこともある。むしろシリアはクルド人に支持されているほうだと思っていたのだが(ちなみにアラブ人はクルド人を「馬鹿正直」とコケにするが、クルド人のこの性格が傭兵などとして優れているため、中近東では重宝された。著名なところでは「イスラム世界の英雄」サラディンもクルド人である)。 ところが今年三月、シリア北東部で政府治安部隊とクルド人の間で衝突があり14人が死亡する事件が起きていたという。これは初耳だったが、もしかしたらイラク情勢の混沌がこんなところにも出て来ているのだろうか。イラクのクルド人との連携を警戒したシリア政府によるクルド人への締め付けに反抗しての衝突だったのかもしれない。
2004年04月27日
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いよいよ日本滞在も終わりである。月曜にドイツに戻る。 この週末はというと、土曜は姫路に行き、城下町の痕跡を辿って歩き回った。姫路城は日本でもっとも残りのよい城郭で、世界遺産にも登録されているが、城そのものだけで無く周りの城下町も比較的良く残っている。 城門や土塁で囲まれた姫路の城下町は、中世ヨーロッパの囲郭都市を彷佛とさせる(もっとも、姫路城が築かれたのは17世紀初頭で、同時代のヨーロッパ都市はもはや城壁では無く大砲を意識した堡塁や堀で囲まれていたが)。中国語で都市のことを「城」と言うように(例えば「筑波研究学園都市」は「筑波科学城」)、ユーラシアの大部分では都市とは城壁で囲まれたものである。日本でそうした都市が出現するのは16世紀末から17世紀初頭のわずか30年くらいに集中しており、現在の日本の都市の大部分もそうした城下町に起源を持っている。 日曜は昨年も行った岡山県総社市の鬼ノ城に行って来た。7世紀後半の山城で(築城の時代的背景などは、左側にある昨年の日記=考古学・歴史日記03年を参照して下さい)、来年開催される岡山国体を期して、城門や土塁など一部建築物の復元工事が進んでいる。 新しいスポットであるし、かなりの暖かさで山歩きにいい季節のせいか、観光客で賑わっていた。 この週末、残る邦人二人も解放され、イラクの邦人人質事件は一応の解決を見た。しかしこの事件は議論を呼ばずにはおかないだろう。 僕なりの意見というか感想を書いておくと、ジャーナリスト(例え偏向していても)が、「真実」を報道するために「危険地域」であるイラクに行きたがるのはやむを得ないと思う。ボランティアもまた然り。僕は止めはしない(喜捨の習慣をもつイラク人が、ボランティアの個人個人に対してどれだけ感謝するのかという疑問は残る。彼らが感謝する相手はただ神のみで、人間に対して感謝するのは神に対する不遜では無いのか?)。 しかし、政府の勧告を拒否して渡航する以上、もはや自分達が危険にさらされるといって政府の政策責任(自衛隊派遣)云々を騒ぎ立てるのはみっともないのではないだろうか。だから、拘束された人やその家族たちが自衛隊撤退を主張するのは、個人の主張としては良いとしても、その根拠として自分達の体験を利用すれば嫌悪を覚える。 もとより、自衛隊がイラクに行っていようがいまいが、彼らが危険にさらされた可能性は非常に大きかっただろう。イラク戦争に反対したはずのドイツの内務省職員は殺害され(アメリカ兵と間違われたのが原因のようだが)、フランスのジャーナリストは拘束されている。 米英主脳がイラク政権移譲の国連主導を認めたというニュースも報じられている。今さら国連にとってはむしろ有り難迷惑ではないかという気もする。スペインやポーランド軍の撤退を思いとどまらせる効果くらいはあるかもしれない。一方ドイツは国連主導になろうが派兵はありえない、と早々に明言している(アフガニスタンとコソヴォで手一杯なのだろうか)。 民主党の菅代表は、「イラク復興は国連主導で独仏や近隣アラブ諸国も参加して」と主張しているが、それでも治安が劇的に改善することはないのではなかろうか。だいいち独仏は日本と協力しての文化面での復興に既に参加している。 アメリカ軍の代わりに、アフリカでの例を参考に、近隣アラブ諸国軍による駐留と治安維持というアイデアもあるかもしれないが、現状(国境線)維持が望ましい近隣アラブ諸国にとって、大きすぎるイラクへの深入りは避けたいところだろう。ましてや他民族の国家であるトルコやイランのイラクへの介入は中東全域に地殻変動を起こす可能性が高く、国の一つ二つは吹き飛ぶ局面まで出て来るかも知れない。 アメリカが今の状態で撤退すれば、イラクはほったらかしになり、新しい政府(おそらく旧フセイン政権かアフガニスタンのタリバン政権のような統治形態)が内戦の流血の末樹立されるまで、世界は指をくわえて見ているしか無い、ということになろう。今のところ、「国連主導」で、アメリカのゴリ押しを排しつつどこまで出来るかが鍵になる。 次の更新はおそらくドイツに着いてからの明後日になります。
2004年04月18日
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イラクのニュースは目が離せない。犯人が設定した期限が明日の夜に迫っているが、表立っては動きは無い。 親フセイン政権のスンニ派部族の武装集団の犯行という見方も出ているらしい。それが本当なら、人質解放の目もあるのでは無かろうか。 掲示板の方に書いたが、僕は自衛隊を今ここで撤退させても(この先は知らないが)、失うものばかりで得るものは何もない(人質の生命すら)、と考えている。 AP通信が放映した、「日本人など外国人30人を拘束した」と主張する、「アフマド・ヤシン旅団」を名乗る武装集団の映像、あれなんだか嘘っぽいなあ。日本人を誘拐した武装集団もそうだが、名前の付け方がまったく場当たり的に思える。現地の血の気の多いだけであまり性根の座っていない跳ねっ返りの若者がやっているだけのようにも思える。 しかし少なくともイラク情勢が極めて悪化していると言うのは間違い無い。 ドイツのニュースをインターネットで見ていると、ドイツ人二人がここ数日行方不明になっており、どうやら殺害されたらしいと報じられている。 この二人は在イラクのドイツ利益代表部(大使館準備室)付の警備担当武官二名で、内務省国境守備隊所属の特殊部隊(対テロ専門部隊)であるGSG9の隊員だそうだ。日本人が拉致されたのと同じ7日にアンマンからバグダッドに向かう路上で乗っているジープがロケット攻撃を受け、それ以来行方不明になっているが、誘拐された形跡は無く、ロケット弾の直撃で死亡したと考えられるとのこと。 アラブ人から見ればアメリカ人もドイツ人も区別は付くまい。外部から入って来たテロリストのみならず現地人さえもが、通りかかる外国人は片端から攻撃・拉致しているのだろう。
2004年04月10日
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