アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2004年11月11日
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カテゴリ: 映画
 訃報が二つ。

 後継者はアッバス元首相だとのこと。アラファトの排除を主張していたイスラエル(アラファト殺害を何度も試みて失敗している)のシャロン政権やハマスにとっては奇貨のようだ。パレスチナ情勢の流動化を心配する声もあるが、むしろ一つのチャンスではないだろうか。今までの「法則」だと必ず和平ムードをぶち壊しにするテロが起きるんだが・・・。

 「レイプ・オブ・ナンキン」の著者で中国系米国人のアイリス・チャン(36歳)が車内で死んでいるのが発見された。鬱病だったそうで、自殺と見られている。
 日本軍の「南京大虐殺」を扱った「レイプ・オブ・ナンキン」はロンドンの戦争博物館に行ったときにお土産売り場で売られているのを手にとって見たが(この博物館では太平洋戦争中の日本軍の残虐行為も展示している)、正直言ってやはり気持ちのいいものではなかった。しかも中で使われている写真とかがねつ造のものが多いなどと後で聞き、嫌な気持ちになったものだ。
 僕は南京で日本軍による虐殺が全く無かったとは思っていない。しかし30万人死亡説というのは現実的ではないし、その数字が一人歩きして政治宣伝に利用されている現状は良くないと感じている。

 昨日起きた国籍不明潜水艦による日本領海侵犯事件は、やはり中国の原潜で間違い無いらしい。中国側は「聞いていない」「調査する」と言っているようだが、海軍の独走にしてもしらじらしい感じがする。こういうことがむしろ日本の軍縮に歯止めをかけると分かってやっているんだろうか。「何かの間違い」「事故」という意見も日本国内にはあるようだが、お人好しも甚だしい。
 アラファトやアイリス・チャンの死にはまことしやかな「陰謀」説もささやかれているようだが、このタイミングの良すぎる潜水艦事件も「反戦平和」団体(個人の場合はどう感じようが自由だが)にかかると「無かったこと」(まあ誰も死んでないし)もしくは「予算獲得のための防衛庁の陰謀」ということになるのだろうか。

 夕方映画を見に行く。今日の日記のタイトルにある「戦争の霧」というドキュメンタリー映画で(エロール・モリス監督)、今年のアカデミー賞ドキュメンタリー映画賞を受賞したそうだ。ケネディ・ジョンソン両政権でアメリカの国防長官を務めたロバート・ストレンジ・マクナマラ(1916年生まれ)のインタビューのような回顧録である。副題は「マクナマラの11の教訓」である。
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「ウィキペディア」にはマクナマラに関する詳しい記述 があるが、ここにも要約して書き出しておく。
 マクナマラは1916年サンフランシスコ生まれ。2歳の時の第1次世界大戦の戦勝パレードを覚えているという。カリフォルニア大学バークレー校で政治学・経済学を修め、さらにハーヴァード大学で経済学修士(MBA)を取得し(余談だが、ブッシュ現大統領はアメリカ史上初のMBA学位をもつ大統領だそうだ。世界中から「アホ」呼ばわりされる彼でも取れる程度の学位なのか、彼は「アホ」じゃないのか・・・?)、1940年には母校で教鞭を取る。翌年、日本の真珠湾攻撃を受けてアメリカは第2次世界大戦に参戦する。
 マクナマラは数値解析を将校たちに講義していたが、1943年には陸軍航空隊に入隊、ドイツや日本に対する戦略爆撃の解析・立案に携わる。特に日本全土の都市を火の海にしたカーチス・ル・メイ将軍の下では(ル・メイはのちのキューバ危機でも攻撃を主張した強硬・好戦派だった。また航空自衛隊の育成に尽力したというので日本政府から叙勲されている)、爆撃機の損害を減らすためにB29による高高度からの焼夷弾による無差別爆撃を立案した。
 戦後除隊し自動車メーカーのフォード社に入社、経営を立て直した。今は当たり前になっているシートベルトを導入したのも彼だそうだ。1960年にはフォード家以外では初のフォード社社長に就任する。ところが社長就任後5週間で、成立したばかりの民主党のジョン・F・ケネディ政権に国防長官として招聘される。
 マクナマラは核戦略とその抑止効果を重視、またフォード社のやり手社長出身らしく効率化を推し進めコンピューターを導入、「人間コンピュータ」「歩くIBM」などという陰口を叩かれた。ケネディ政権下の最大の出来事といえば1962年のキューバ危機であるが、すんでの所で核戦争の危機を回避した。
 当時共産化を防ぐためにアメリカは南ベトナムに軍需顧問団を派遣していたが、マクナマラの進言にも関わらず、南ベトナムでの軍事クーデタもあってケネディはベトナムに深入りする姿勢を見せた。1963年にケネディが暗殺されると副大統領のリンドン・ジョンソンが昇格、マクナマラは留任した。
 ジョンソンは1964年のトンキン湾事件を契機に北爆と米軍の大量派兵に踏み切り、泥沼のベトナム戦争に突入する。ベトナムへの深入りを警告したマクナマラの意見はジョンソンに握りつぶされ、盛り上がる反戦運動の中マクナマラは「殺人鬼」「ファシスト」などとマスコミに攻撃された。1968年、北爆の停止と戦争の「ベトナム化」(米軍の撤退とそれに代わる南ベトナム軍の育成)を進言したマクナマラとジョンソンの対立は決定的となり、マクナマラは国防長官を辞任した。
 辞任後マクナマラは世界銀行総裁に転出、開発と貧困との戦いに尽力した。1973年に米軍が完全撤退し、1975年に北が南を制圧して終結したベトナム戦争については、一切口をつぐんでジョンソン批判もしなかった。88歳の現在も存命で、この映画に出演を承諾したのは、あきらかに現ブッシュ政権のアメリカ一国主義やイラク戦争への警告の意図があったのだろう。アメリカ大統領一人の決断・命令で、死ななくてもいい数万人が死地に追いやられるのである。

 日本人としてやりきれなかったのはやはり第2次世界大戦の頃の回想だろうか。ル・メイやマクナマラは一晩で10万人の東京市民を殺害するような無差別爆撃が非人道的で戦争犯罪にあたると知りながら、殺人ではなく「敵である日本の力を弱めるために」、能率や効果を重視してそれに踏み切った。ベトナムでも枯葉剤を撒き、第二次世界大戦でドイツに投下された数倍の爆弾をベトナムに投下した。彼が重視した「データ(事実)」は数字の羅列であり、その裏にある一人一人の人生ではなかった。
(これに比べれば、「誤爆」が多いうえ住民感情を逆撫でするような粗放な手法で決して褒められたものでは無いが、少なくとも今イラクに駐留するアメリカ軍は市民に対する無差別殺戮はしていないだろう。ついでに書いておくと、「戦争になったらまず子供が犠牲になる」という意見をよく目にするが、それは20世紀前半の世界大戦の頃の話であるし、また内戦下のほうが市民の犠牲が甚だしい。今アメリカ軍がイラクから撤退したら、その「子供が犠牲になる」内戦が起きる恐れが大きすぎる。またアフガニスタンの例を挙げて「ターリバン政権の頃のほうが、爆弾が降って来る今よりもましだ」という意見も目にしたが、映画も音楽も禁止され公開処刑が日常的な恐怖政治下での戦争の無い状態と、戦争やテロの危険があるにして自由にものが言える状態と、どちらがいいだろう?「究極の選択」である)
 マクナマラは映画の中でベトナム戦争への自分の責任については明言を避けているし、ジョンソンを批判することもしなかった。「盛り上がるベトナム反戦運動はあなたの考えを変えましたか?」という質問については「否。ああいうのは戦争中にはよくあることだ」と答えている(この辺が「冷酷な人間コンピューター」と言われた所以かもしれないが)。





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最終更新日  2005年09月12日 22時15分02秒
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