アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2007年11月12日
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カテゴリ: ヨーロッパ・EU
 うは、ずいぶん間が空いたな。

 まずはこの記事。


<スロベニア>トゥルク氏が大統領に
11月12日19時19分配信 毎日新聞

 スロベニア大統領選の決選投票が11日あり、中道左派の野党が支持するダニロ・トゥルク元国連事務次長補(55)が当選を確実にした。中道右派のペテルレ元首相(59)を破った。任期は5年。

 選挙管理委員会の集計によると、得票率はトゥルク氏が約68%、ペテルレ氏が約32%。スロベニアでは今年1月の欧州単一通貨ユーロ導入後、物価上昇が続いており、トゥルク氏は、ヤンシャ現政権への批判票を集めた。【ウィーン支局】
(引用終了)


 僕はスロヴェニアという国は行ったこともあるし山の綺麗な好きな国ではあるが、その政治にまで取り立てて興味があるわけではない。まあ1991年の独立以来政情も安定しているしパキスタンやグルジアみたいなことも起きていないし、今年の1月からはユーロ圏に参加したEUの新規加盟国の中では優等生である。
 では何が気になったかというと、この当選した人の名前。日本語記事だと「トゥルク」と書いてあるが、 ドイツ語の記事 では「Türk」と書いてある。この記事書いた人はたぶんスロヴェニア語は出来ないだろうし僕も出来ないのだが、たぶんこれは「テュルク」と読むのが正しいのではないかと思う。トルコ語だとそんまんま「トルコ人」「トルコの」という意味になる。ただこの次期大統領がトルコ系だとはどこにも書いていないし、たぶん違うと思う。

 これで連想したのだが、何年か前、トルコで一緒に発掘に参加したドイツ人学生(ルール地方出身)に「トゥルクTurck」という苗字の人がいた。顔を見るとどう見てもドイツ人だし、近い先祖にトルコ人がいるという話も聞いていないという。すると僕の先生が一言「ドイツにも時々そういう苗字の人がいて、祖先が何かトルコと関係してるはずだ」という。先生の想像では、16・17世紀にオスマン帝国(トルコ)とオーストリアがバルカン半島で激しく戦った時の名残りではないかということだった。考えられる可能性は、トルコ人の捕虜あるいは亡命者がヨーロッパに土着した、あるいはトルコとの戦いで何か手柄を立ててそれを記念に苗字にした、という感じだったと思う。
 他にも18世紀、オーストリアはオスマン帝国との最前線を安定的に支配するために、ドイツ(特に南西部のシュヴァーベン地方)から農民を大量に募集して今のハンガリーやスロヴェニア、クロアチアに入植させた時期がある。地元のセルビア人などはトルコ側にもいて信用ができないから、支配階級と同じドイツ人を呼んで「ドイツ化」を図ったわけである。この人たちが(あったかどうか分らないが)「トルコのおかげでこんな所に入植した」という記念に「トルコ」を苗字にした、ということは考えられないだろうか、と思った。スロヴェニアのテュルクさんの場合、この説明が一番しっくり来るように思えるのだが。
 ドイツ・オーストリアの「Türk」姓で有名どころ(僕は知らない人だが)では、ナチスの高官にリヒャルト・テュルク、自由民主党(FDP)の政治家にユルゲン・テュルク、テレビ司会者にアンドレアス・テュルク、漫画家にクリスティアン・トゥルクなどと、結構見つかる。


 そこでグーグルの登場だが、Türkという苗字について検索すると、こういう ページ を見つけた。世界各地にいる「トルコ」(Turk, Turck, Türkなど)という苗字の人を集めているサイトだという。このサイトではすでに2万2千の「トルコ」という苗字の家族が登録されているとのこと。そんなにいるのか。
 このページにはヨーロッパにおける「トルコ」姓の起源について 説明 していて、それによればヨーロッパ最初の「テュルク」さんは、なんとトルコ人とヨーロッパ人が最初に接触した十字軍の時代にまで遡れるのだという。これは予想していなかった。第一次十字軍のとき、セルジューク朝側のエミール(将軍)の一人、ハイレッティン・サラディン(史上に有名なサラディンとは別人)という人物がトゥールーズ伯レイモン4世なる十字軍の騎士の捕虜となった。ハイレッティンはレイモンの故郷フランスに送られ、騎士の身分と「アルヌルフ・ド・トゥルク」という名前を与えられた。その子孫は「ル・トゥルク」あるいは「ド・トゥルク」という姓を代々名乗って一族が増えていったとのこと。
 このトゥルク氏が再び歴史に出てくるのは、オスマン帝国とオーストリアが激しく争った16世紀で、この時代フランスはオーストリアを挟み撃ちするためにトルコに使節を送って友好関係を結んだのだが、それは残念ながら関係ない。当時の国王フランソワ1世がレジナルド・ル・トゥルクなる人物をニーム(現在のベルギー)の市長に任命したとのこと。この人は1554年に亡くなり、ヴィクトルとユーゴー(二人合わせるとヴィクトル・ユーゴーだな。笑)という二人の息子が残った。ヴィクトルの家系はラングドック地方にいたが断絶し、ユーゴーはフランス北西部のロシェルというところで技術者をして1601年に亡くなり、その子孫はアルザスやロレーヌ地方にいたという。
 ではドイツの「テュルク」さんはというと、16世紀以前にその名前はなく、17世紀後半にフランスからユグノー(フランスのプロテスタント)が祖国での宗教的圧迫を避けて大量にドイツやスイスに移住した頃に登場するのだとのこと。

 このページの説明は大体こんな感じだったが、とすると問題のスロヴェニアのテュルクさんはフランスからドイツを経由してスロヴェニアに来たユグノーの子孫なのだろうか。ただスロヴェニアでは16・17世紀にオーストリアによってプロテスタントが弾圧され(フランスと同じですな)、ほとんどカトリックしか残っていないので、ちょっと考えにくいのだが。あと世界中に居るヨーロッパ系の「テュルク」さんの先祖を全部ハイレッティン・サラディン、あるいはフランスのテュルク家の子孫に帰していいものだろうか。
 オスマン帝国からヨーロッパに亡命したトルコの貴人でもっとも有名なのはおそらくメフメット2世の王子 ジェム だと思う。兄との相続争いに敗れた彼はイタリアに送られそこで幽閉された。この話は塩野七生の「チェーザレ・ボルジア、あるいはなんとかかんとか」に出てきたと思う。

 ジェム以外にもトルコから亡命してきた人とかいると思うんだが(逆にロシアによる弾圧を逃れてポーランド人がトルコに逃げたりしている)、彼らが「トルコ人」と呼ばれてその通称を苗字にしたとなると面白いんだが。 カールスルーエ でバーデン辺境伯がオーストリアの将軍として参加したオスマン帝国との戦いで奪った戦利品の武器とかを展示していたが、トルコというのは敵とはいえヨーロッパに割合身近な存在だったのではないだろうか。むしろ19.20世紀に民族主義を経験して(もちろんオスマン帝国の領土がヨーロッパから縮小していったことが大きいが)距離が遠くなったように想像するのだが。


 さて当選した テュルク ?さんだが、国際法を学んでスロヴェニアの国連大使となり、アナン事務総長に見出されて平和のために働いてきた人である。あんまり昔の戦争の話とかはふさわしくないか。リュブリャーナ大学教授をしていた彼は左派の推薦する無党派候補として立候補し、一次投票では二位だったのだが、今回の決選投票で逆転当選を決めた。
 と、ここまで書いてきて英語版の「ウィキペディア」を見たら、「お父さんがトルコ人の子孫」と書いてあるじゃないか。本当かな??他の言語版には書いてないし(スロヴァニア語読めないけど、字面を見る限りそういう記述はなさそうだが・・・・)、子孫としてもそんな最近の祖先に「トルコ人」がいたのだろうか。





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最終更新日  2007年11月13日 05時20分11秒
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