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ドイツ留学中に書いていたこの日記(帰国後もしばらくこっちに書いていたが)、今は遺跡と化しているが、今週末から久しぶりにドイツ(イギリスも)へ行くことになったので記念カキコ。 むしろ本来の目的地はイギリスなのだが、せっかくなのでドイツへも寄ることに。寄るといいながらドイツにいる期間のほうが長い。 前にヨーロッパに行ったのは2011年の震災翌日からのスペインに行った際だが(中近東へは相変わらず毎年行っている)、ちょうどあの頃にシリアの内戦が始まったんだよな。翌年セルビアにも行ったが、あそこはあまりヨーロッパという感じはしなかった。 この5年で世界も日本もずいぶん様変わりした。欧州がどうなっているのか感じ取りたい。
2016年02月22日
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K君見てますか、最近こういうの買いました。日本に戻ったらやりませう。
2015年10月23日
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このブログを放置(遺跡化)して長いが、来年10月で楽天ブログに移転して10年になるようだ。あれからいろいろありました。 それ以前の大塚日記やライコスの頃(文章だけはどれかのパソコンに保存している)を入れると、僕のブログ歴は10年以上ということになるか。 時代はSNSでブログはオワコンな感じですが(楽天の自社ブログサービスへの仕打ちを見れば明らかですが)。
2012年12月14日
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あまり意味のない、最近買った本、入手した本の紹介。 【中古】afb【古本】坂の上の雲と日本人/関川夏央価格:290円(税込、送料別)
2011年12月12日
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2011年06月07日
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私も家族も無事です。 明日から二週間のスペイン旅行の予定でしたが、それどころではなくなりそうです。
2011年03月11日
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※「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。ここは遺跡です。 あまり意味の無い、最近買った本の紹介(楽天アフィリエイトに出て来るもののみ)。 お、検索すると洋書も出てくるようになったじゃないか。でも僕はここに出ている価格よりももっと安く買った。
2011年01月27日
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最近買った本、もらった本のリスト(日本語の本のみ)。買ったものはほとんどアマゾンで買っている。この中に僕が一部執筆した本が一冊含まれている。中世ローマ帝国価格:609円(税込、送料別)
2010年09月10日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先はこちら↓アルタクセルクセスの仮王宮 最近買った本の紹介。外国の本が表示できないのは仕方あるまい。買っている場所は漫画はブックオフ、外国の本や中古本(本屋で見つからない絶版本)はアマゾン(日本とドイツのアマゾン)が中心。新しい本はあまり買わなくなっているなあ。本屋さんが苦しいわけだ。
2010年05月05日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先は↓ですアルタクセルクセスの仮王宮 写真を試しにいくつかアップしてみる。Jugemだと写真登録の際自動的にブログの幅に合わせた大きさにしてくれるのだが、楽天は自分でいじらないといけないようだ。幅は400から500pxくらいが適当か。自動的に調整してもらえるなら楽天復帰もやぶさかではないのだが。
2010年03月04日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先は↓アルタクセルクセスの仮王宮です。 楽天はアフィリエイトがあるのがいいけど、ブログに画像を貼り付けたりするのが手間がかかって面倒ですね。 最近買った本、もらった本などの紹介。
2010年03月04日
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金曜はイスラムの休日(礼拝日)、土曜はユダヤ教の安息日のため、お休みしています。 イスラエル滞在の様子を書いている、移転先の新ブログはこちら↓アルタクセルクセスの仮王宮 ここで宣伝です。 石器時代からイスラム教登場までの中近東やシルクロード(西部)の歴史がヴィジュアル豊富に概観出来、お購めやすい価格になっております。 私も一部担当しました。市販される本の執筆は初めてです。
2009年08月14日
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王の王、世界の王、四方の王、大王フシャールシャーの息子アルタフシャサは告げる: 楽天が気に入らないので引っ越します。移転先は、 アルタクセルクセスの仮王宮です。「仮王宮」としているのは、王宮の「秘宝」である過去記事をまだここに残しているためです。データ移植どうしよう。 これからも楽天にログインして楽天リンクの皆さまのところにお邪魔するかと思いますが、新記事はもうここには書かないと思います。またスパムがひどいようならここのコメント欄と掲示板も閉鎖します。連絡は新ブログのほうにお願いします。 以前に比べ極端に短い記事になると思いますが、今後ともよろしくご愛顧下さい。
2008年12月15日
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楽天を見限ってブログ移転を模索中です。うざい広告のついているサブページを表示させないため、メインページ(ブログ部分)の部分のみしか表示されていません。 Leadcoreさんのお勧めに従い、JUGEMブログへの移転を計画中。というかすでにページは確保してありますが、まだ記事はありません。ここの過去記事を移すのが面倒なのでしばらくはこのページも保存しておきますが、そのうち突然無くなるかもしれません。 引っ越しの際は正式に告知します。なお楽天リンクの方々には移転報告にあがることはないので、お許し下さい。
2008年12月03日
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なんかページのサブの欄の一番上に勝手にPR欄が取り付けられてるんですけど・・・・。 気色の悪い西田敏行演じる猪八戒みたいな顔のおっさんの笑顔とか(競馬予想のページらしい)、FXがどうたらこうたらとかが入れ替わり立ち替わり表示されている。しかもどうしてこうろくでもないページばかりなんだ(僕は何が嫌いって賭け事と株が大嫌いである)。 「これを外したければ楽天の有料ページ使え」ってことかね。 もういい加減にしてくれ。引っ越しを真剣に考えよう。このページの過去日記を保存するだけでも大仕事だぞ、こりゃ・・・・。そういや保存機能も付いてなかったな、楽天日記には。 ブログを新規に始める皆さん、楽天は使わない方がいいみたいですよ。
2008年11月27日
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最近ブログがアルバム帳と化している件 というわけで写真の羅列と簡単なコメント。 とある洋館。1930年竣工 岡山名物(僕は見たことがない) 機織り機?いや、1930年代の○○機。 怪獣 「ジュラシックパーク」あるいは「ナイトミュージアム」 群れる「みつば虫」 マンモスだぁ! はじめ人間ギャートルズの家(マンモスの牙と骨で出来た家。ウクライナ出土) テポドン(うそ)
2008年11月09日
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最近読んだ本で面白かったものを紹介。日本語の本に限ってある。 それにしても小説全然読んでないな。何かお勧めのものありませんかね?1・自壊する帝国 佐藤優という人は一時ずいぶんマスコミに登場していたので知っていたが、この人の書いたものは初めて読んだ。しかしまあすげー面白いじゃないですか。翻訳家の米原万里(故人)とか元NHKの手嶋龍一の本を初めて読んだときの感激に似ている。そういえば手嶋氏と佐藤氏は書く内容も似ているが。僕は陰謀論は大嫌いだが、こうした確かな裏付けのある国際情勢ものは大好きである。 ムネオ疑惑でこの人が左遷されたとき「ムネオはどうでもいいがこの人はもったいない」という感想を僕はブログ(いまは無きライコス日記)に書いた。しかしそのおかげでこうしてこの人の書くものが読めるのだが、この人のこだわる「国家」である日本にとっていいことなのか悪いことなのか。 書かれていることは「ふむふむ」と頷くことばかりである。後輩にやはり外務省で専門官になった人がいるが、僕には語学力や筆力があってもとても務まりそうにないやと思うことしきりである。僕はものぐさで人付き合いが億劫だし(酒は好きだが)、こう言ってはなんだが人が好いのでうっかり騙されやすい。ソ連共産党に限らず、官僚(キャリア組)の世界というのは誰が言ったか伏魔殿のようなところだと思う。 佐藤氏はそうした世界で生きてきた人である。その書くことは傾聴に値し、全国民必読ではないかと思うくらいなのだが、そうした情報操作がなされる世界で生きてきた癖で、彼自身の書くものが情報操作の一環なんてことはないんだろうね?2.ノモンハンの夏 これまた半藤一利の本は初めて読んだ。僕は歴史をなりわい(といってもそれでは食えてないですが)にしているが、日本近代史には疎い方である。ただノモンハン事件については、大分以前に五味川純平「ノモンハン」を読んだことがあったので、大体の成り行きは知っている。 この本はヨーロッパで第二次世界大戦が勃発するのと同時期(1939年)に発生した、日本とソ連(正確にはその保護国である満州国とモンゴル)国境での武力衝突と、その政治・外交的背景を描いている。暴走する辻政信少佐ら日本軍の参謀将校、大戦を前に互いに疑心暗鬼の独裁者スターリンとヒトラー、ソ連軍の戦車に火炎瓶一本で立ち向かわされる日本兵の苦闘、無力な日本の政治、反英・親独に熱狂する日本国民・・・などなどが、時に筆者自身の義憤のこもった筆致で描かれる。半藤氏は文芸春秋の編集者だった当時に辻政信(なんと戦犯としての訴追を遁れたばかりか、戦後国会議員にまでなっている)に会っていたそうだ。へえ。 この当時のソ連もドイツも独裁国家で、責任(権力)が一か所に集まりすぎていた。対する日本はよく「軍国ファシズム」などといわれるものの、最前線で敢闘した軍人たちが敗戦の責任を負わされて更迭され自決を強いられる一方で、本当の責任者(権力者)が責任を取らされない、不思議な国だった。無責任体制という点では奇しくも上に挙げた佐藤氏が描く末期のソ連共産党に似ているかもしれない。今の日本は大丈夫なんでしょうね?? 惨めに敗北した日本のダメっぷりを描く点では五味川純平「ノモンハン」と共通するが、より大局的な観点から描かれている。さらに、五味川版の頃には公開されていなかったソ連側の資料が現在はあるので、独裁者による粛清におののきながら戦うソ連側にも目は向けられていて(死傷者の数ではソ連軍のほうが甚大だった)、日本に限らず息の詰まる時代だったことが想像できる。 日独防共協定を結んでいた日本はドイツにあっさり裏切られ、ノモンハンでの戦いの最中に独ソ不可侵条約を結ばれてしまう。その二年後に日本はソ連と不可侵条約を結ぶが、その直後にドイツはソ連との条約を無視してソ連に侵攻する。挙句の果てに、1945年にソ連は日本との不可侵条約を破って侵攻し、日本人多数が犠牲になった。ドイツやソ連が悪辣すぎるとはいえ、日本外交は何をやっていたのだろうか。いや、今はどうなんだろう。 最後の「人は歴史から学ばないということを痛感させられる」という言葉が重い。 少々気になったのはドイツに関する記述で、駐日ドイツ大使の姓が「オットー」になっていたり(Ottだから最後の音は伸ばさないと思う)、マンシュタイン、ボック、ハルダーらの将軍の肩書が元帥になっていたり(前二者はノモンハンの翌1940年に元帥になったが、ヒトラー暗殺計画に加わったハルダーは元帥になっていない)などである。まあ些細なことです。3.琉球の王権とグスク 安里進 これはまあ僕の専門に近いかな。巨大グスク(城)や浦添ようどれ(王墓)の発掘調査・整備を手がかりに、考古資料を使いながら沖縄における国家形成・王権の発達を探った実証的な研究が、コンパクトにまとめられている。お買い得。 「おもろさうし」を研究した伊波普猷以来、琉球を統一したのは15世紀初頭の尚巴志で、それ以前は島内各地に豪族(按司)が戦国時代さながらに割拠していたというのが通説になっていたが、考古学調査を手がかりに、それ以前の13世紀には全島の統一的な王権が成立していたのではないかとする。しかもその背後には躍動する大陸(中国や朝鮮半島)との交易があるという。しいて日本の国家形成論(日本に統一的な国家が成立した時期をめぐり、「七・五・三論争」と呼ばれる)で例えるなら、3世紀に国家形成がなされたというようなものか。 島という限られた空間の中での国家形成モデルとその分析手法は、対象とする時代も地域も違うとはいえ、僕にもとても参考になる。しかも琉球王の遺骨を納めた石櫃を飾る彫刻の文様がイスラム起源だとは、なんとも刺激的ではないか。やはり13世紀は面白い。 沖縄行きたい。4.メロヴィング王朝史話 オーギュスタン・ティエリ これもまあ専門に近いと言えば近いが、研究書ではない。史書を基にした物語である。 しかしただの史書を読むのとは違い、登場人物が生き生きと描かれている、今日的な歴史叙述からすれば学問的ではないのかもしれないが、逆に人間の物語としての歴史の叙述としてははるかに面白いし、ある種の真実を衝いているのではないだろうか。この本を読んでいると、人間の行動に感情がナマなむき出しの時代という印象を受ける。時代性というものか。 メロヴィング朝(5世紀末~8世紀半ば)というのは現在のベルギーからフランス北部辺りを本拠地とした、初期中世の王朝である。ローマ帝国はよそから来た征服者であるから、フランスの地に成立した最初の地生えの国家であるといえ、この本が書かれた当時、つまり国民国家を目指していた当時(19世紀)のフランスでは一時もてはやされた。しかし困ったことに、メロヴィング家の起源はゲルマン系のフランク族であり、むしろ隣国のドイツに縁がある。困ったフランス人(ナポレオン3世)は、代わりにフランス地元の太祖・英雄として、ローマ人に抵抗したケルト(ガリア)人ウェルキンゲトリクスを持ち上げるようにのだが、それはまた別の話。 メロヴィング朝は日本でいえば大和朝廷(王権)の時代である。どちらも国家形成の時代であるといえる。メロヴィング朝がキリスト教を受け入れたのと同様、大和朝廷は仏教を国の礎にしようとした。メロヴィング朝がビザンツ帝国(さらにはその向こうのイスラム文明)を意識せざるを得なかったのと同様、日本は中国文明の影響下にあった。ユーラシアの東西両端に成立した国家であるこの両者を比較研究して、何か面白いことがいえないかと以前から企んでいるのだが、まだ果たせずにいる。・・・・・・・ とまあこんなところだが、国家とか、ロシア(ソ連)とか、微妙に共通するテーマがあるな。我ながら読書の幅が狭いことよ。
2008年11月06日
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学会発表した。出来は今一つ(二つ?)。 やはり原稿を用意して話さないと駄目か。パワーポイントに頼りすぎるのも敗因。 その後はたくさん酒を飲んだ。
2008年11月02日
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Oktoberfest im OktoberPatrouillenschiff mit HubschrauberFlugabwehrmaschinengewehr ZPU-2Panzerabwehrwaffe ручной противотанковый гранатомёт-7Sturmgewehr Автомат Калашникова образца 1974 года Ein Linienschiff (1930-1960)SchiffsdieselmotorGuan Yu-Schrein in China Town我が家 meine Wohnung (Wohnung der 60er Jahren)我が別荘 auch meine Wohnung (vorgeschichtliche Grubenhäuser)
2008年10月18日
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我ながら珍しいことに、自分のホームページで宣伝。 昨日から東京・池袋(サンシャインシティ・文化会館7階)の古代オリエント博物館で特別展が開催されています。この展覧会について詳しくはこちら↓ 古代エジプトの美展 日本各地を巡回している展覧会だそうですが、東京近辺在住のみなさま、ふるってご来場ください。 先に行われた「吉村作治のエジプト発掘展」は大盛況のうちに終わったが、こちらは対照的に落ち着いてこじんまりとした印象はあるものの、精巧な名品が数多く並んでいる。・・・・・・・ 果たして「日本文明」というのが存在するのかどうか分からないが、仮に弥生時代以降だとしてもおおよそ2000年、しかも長い年月でその相貌を大きく変えている。「日本史を研究するには室町時代以降だけで十分」と喝破したのは柳田国男だったか徳富蘇峰だったか、とにかくずいぶんと変化している。 それに引き換え古代エジプト文明は3000年の長きにわたり、頑固なまでにそのスタイルを維持し続けた。言い換えれば、彼らにとってその美術はすでに究極の域に達していて、何ら変更すべきことがなかったのかもしれない。変化のスピードが今よりゆっくりしていた古代のこととはいえ、それにしても3000年とは恐れ入る。 よく「中国四千年」というが、実際に連続性があるかは疑問もある。しかしエジプトでは確実に連続性が意識されていた。まあ現代のエジプトとはまったく違うのだが。 僕はエジプトが専門ではないのだが、過去にいくつか古代エジプト関係の日記を書いているので、その中で反響があったものをいくつかリンクで紹介しておく。↓ミイラで得る幸福な来世ブサイクなクレオパトラ? 「3000年前の美女」をめぐる争い ・・・・・・ びっくりする訃報が続いたので切り貼りメモ。(引用開始)三浦元社長 移送先ロスの留置場で自殺10月11日19時9分配信 毎日新聞 【ロサンゼルス吉富裕倫】米ロサンゼルスの日本総領事館によると、81年のロス銃撃事件で殺人と共謀の容疑でロス市警に逮捕された元輸入雑貨販売会社社長、三浦和義容疑者(61)=日本では無罪確定=が10日午後9時45分(日本時間11日午後1時45分)ごろ、市警本部の留置場の独房でTシャツ姿で首をつっているのを係官に発見された。搬送先の病院で死亡が確認された。(中略) 事件は、日本で03年に無罪が確定した元社長が発生から約27年後の今年2月、旅行先のサイパン滞在中、ロス市警が88年に取っていた逮捕状で逮捕され、米国で再び訴追手続きが進むという異例の展開を見せた。(中略) 元社長は一貫して無罪を主張。同じ事件で再び罪に問うことを禁じる「一事不再理」を主張し、サイパンで人身保護請求を申し立てたが、現地の地裁はこれを棄却。ロス郡地裁も9月、殺人容疑の逮捕状は無効としながら、殺人の共謀罪での訴追続行を認めた。 また、ロス郡地裁に求めていた逮捕状取り消しも実現せず、元社長は拒んでいたロス移送に同意した。(引用終了) 何も死んでしまうことはないだろうに・・・。(引用開始) ナチス称賛のオーストリア極右党首、ハイダー氏が交通事故死10月11日19時18分配信 読売新聞 【ウィーン=石黒穣】ナチスを称賛した発言などで知られる、オーストリアの極右政党・未来同盟党首イェルク・ハイダー氏が11日、交通事故で死亡した。 58歳だった。 警察によると、州知事を務める南部ケルンテン州で運転中の公用車が横転、頭や胸を強く打ち、病院で死亡が確認された。 1950年、北部の町でナチス青年組織出身の両親の下に生まれた。ウィーン大で法学博士を取得。86年に36歳で自由党党首に就任。排外主義を掲げ、ヒトラーの雇用政策礼賛など、親ナチス発言を連発した。 99年の総選挙で同党を躍進させ、国民党との連立政権を実現。欧州連合(EU)諸国は、自由党の政権入りに反発して交流制限などの制裁に踏み切り、ハイダー氏は党首を辞めた。(引用終了) これまた予想外の末路・・・・。オーストリアの暴れん坊がこういう形で世を去るとは思わなかった。
2008年10月11日
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イスラエルから戻って一週間が経つが、まだぼーっとした感じが残っている。日常がなじまないというか。 発掘現場は四六時中誰かと顔を合わせていなければならないし、またもちろん肉体的にも辛いものはあるのだが、その独特の生活リズムの中でしか感じられないこともまたある。 トルコに発掘に行っていた頃、一緒に行っていたドイツ人たちが「ここ(トルコの現場)には何か癒しのような効果がある」と言っていたのを思い出す。トルコのそこはものすごい田舎で道は牛糞だらけ、鶏や七面鳥が走り回り牧羊犬が吠え、人気(じんき)も荒い、一見およそ癒しとは言い難い場所ではあったが、おそらく日常とは違う生活リズムや時間の流れ方が心に何か作用するのだろう。まあ終わった後はへとへとだったし、一刻も早くドイツに戻りたいと思ったものだったが。 今回は1ヶ月しかなかったので、あっという間という感じだった。気候は暑さが一番厳しかったものの、発掘現場(僕は西アジアでは三ヶ国、四ヶ所の発掘を渡り歩いている)としては精神的にも楽なほうだったと思う。・・・・・・・・・ イスラエルの食べ物の思い出はあまりいいこと書かなかったけど、書き忘れてたけど女性はなかなか魅力的だった。全体的にヨーロッパ顔なのだが、微妙に中東系が混じっている感じで、どちらかというとラテンな感じなのかな?でもトルコやイタリアなんかとは違う。レバノンとかシリアでも金髪と黒髪が混在していたが、それともまた違っていた。これに最近増えているロシア系がまじったらなかなか強力になるんじゃないだろうか。 まあ普段いるキブツではほとんど太ったおばちゃんとかおばあさんしか見かけなかったのでアレなのだが、エルサレムやベングリオン空港では僕の眼をひく人が結構いた。そういう人の写真は撮ってないので悪しからず。 あとイスラエルは男女ともに徴兵制なので、軍服姿の女性を道端とかで結構見かける。軍人率がこれほど高い国も珍しいんじゃないだろうか。まあシリアの小学校の制服も暗緑色の戦闘服ですが。・・・・・・・・・・・ T大のK君の突然の訃報が入る。 これまであまり付き合いはなかったが、6月のワークショップ(ていうのかな)に参加してもらって親しく言葉を交わしたばかりだった。つい先日ガンであることが分かり、シリアでの発掘への参加をキャンセルしていたという。才ある若き人が亡くなることほどの不幸はない。合掌。 のうのうと生き残らせてもらっている自分は感謝しないと。いったい誰にすればいいのか分からないけど。
2008年09月09日
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もうすぐイスラエルを去る。ベングリオン空港からの空の旅である。周りは撤収作業、僕は荷づくりで忙しく、ブログなど悠長に書いている場合ではないのだが。 同室のY君(二人ともY君で、二人ともドイツのチュービンゲンに留学中)はThucydidesさんと共に昨日の夜去った。このキブツでの初日と最後の夜だけ4人部屋に一人でいたことになる。 以下、いつものようにスナップ。↓僕らの部屋の入口。ドアの付け根のところにある茶色い物体に注目。↓茶色い物体の拡大写真。この中にはユダヤ教の経典の一部が入っていて、イスラエルのほとんどすべての部屋(居室)の入口にはこれが付けられている。常にユダヤ教の教えを守る心がけのためだという。部屋に入るときこれを触ってから入る人も多い。取り付ける角度も厳密に定められているそうだ。↓昨日はシャバット(安息日)前夜なので、食堂の食事もやや豪華になる。ユダヤ教徒は集まって皆で歌を歌い、パンとブドウを分け合って神に感謝し、信仰を新たにする。 写真の中のスープに浮いているのはトウモロコシではなく、なんとかという固いクルトンのようなもの。イスラエルの「ふるさとの味」だそうだ。特に美味いとも思えないが。↓今日の昼食。休日の食事を賄ってくれるMさんは南米の出身なので、この日は中南米料理。南米にもユダヤ人は結構いるそうだ。↓キブツの中にある防空壕。治において乱を忘れず、とはこの国のためにある言葉か。まあいつが「治」なのか分からないが。・・・・・・・・・・というわけで、僕の一月にわたるイスラエル滞在はほぼ終わりである。僕が見られたのはほんのわずかで、奥の深いこの国のほんの表面である。考古学や発掘はもちろん、機会があればまた来てみたい国だ。
2008年08月30日
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今週は遺構や遺物の実測、調査記録の整理など、発掘調査の追い込みに充てられている。あと一週間足らずでイスラエルを去らねばならない。 僕は遺構実測班に加わって、発掘終了後も毎朝5時半から遺跡に出かけた。先日の日記で秋の気配なんて書いたがとんでもない、猛暑厳しく、疲れも溜まって発掘中よりもますますきつい。ある日など午前までお酒に付き合ったせいで暑さ・寝不足・二日酔いの三重苦で、遺跡に出たというのにへろへろだった。さすがにもう無理の利かない年齢である。 以下、遺跡でのスナップ。↓早朝、遺跡の北側の山の斜面をイノシシの家族が走っていた。残念ながら遠すぎるのでこんな写真しかない。イノシシも豚扱いなため、ユダヤ教徒もイスラム教徒も食べることはない。↓遺跡の航空写真を撮るため、チャーターしたセスナ機にカメラマンのNさんとO君、Yさんが乗っている。料金は1時間1200シェケル(4万円弱)とのこと。↓いいショットを撮るため、飛行機が遺跡上空を何度も旋回している。ヘリに比べて速すぎるため(その分安価)、シャッターチャンスが厳しいらしい。結構揺れてスリリングだそうだ。僕には無理。↓新聞社など5社が取材に訪れる。そのうちこの遺跡のことが新聞に載るかもしれません。テレビクルーの車には必ず「TV」と大書されている。カメラを構えている姿は銃砲を構える姿に似ているため、イスラエル兵に誤って撃たれないための措置だろうか。↓「蟻の目線」。発掘坑から頭を出したときの眺め。↓「西部戦線異状なし」。発掘坑のことを英語でトレンチ(trench)というが、元来の意味は「塹壕」である。Go over the top!↓「廃墟の人だかり」↓猛暑の中での実測作業。↓すべての作業を終えて遺跡を去る。以後は室内作業中心のため、しばしのお別れ。・・・・・・・・ イスラエル側スタッフが去るため、この日は盛大なお別れパーティー(バーベキュー)が行われたが、飲みすぎた僕は酔っ払って途中で寝込んでしまった。
2008年08月27日
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週明けから作業を再開。発掘は終了したが、出土した遺構の実測や測量、解釈などの作業が残っている。↓今日は朝から曇りがちで、昼過ぎまで曇っていた。ここに来て初めてのことだ。数滴雨も降ったらしい。↓遺跡の南側を流れる小川。緑に覆われた水のある部分と、枯れ草や岩山に覆われた水のない部分の対比が鮮やかである。小川の周囲には鮮やかな青色の羽をもつカワセミやキツネも住んでいる。このあたりの海抜は-20mくらいで、僕らが調査している遺跡の頂上との差は50m以上にもなる。・・・・・・・ 昨日の夜はキブツの食堂が休みだというので、調査団全員の食事としてピザが注文された。ところが配達されたピザを見てみると・・・・↓ 手前はオニオン付き、奥はプレーンだが、どれもこれも同じ色調である。 基本はチーズの上にオリーブで、違いはそれにオニオンかトマトか何も無しかというだけで、変わり映えがしない。どれを食べても同じ味で、すぐに飽きてしまう。こういう同じようなピザが20人以上の団員のために食堂に10枚以上並んでいた。壮観ではあるが見るだけでお腹いっぱい。しかも一切れがすごくでかく、三切れも食べれば飽きてしまった。 イスラエル生活の長かったThucyudidesさんに聞くと、この有様はたぶん予算の関係であって、イスラエルのピザにももっと色々種類はあるという。ただしコシェル(ユダヤ教の食べ物に関する戒律)の関係で、イカやエビといったシーフード・ピザはありえず、同じく肉と乳を一緒に食べてはいけないためピザに肉がのることはなく(ピザのチーズのせい)、代わりにツナやマッシュルームなどが載るのだという。 ずいぶんと難しいことだ。 今日の夜は近くにある「ベドウィン料理店」に招待される。キブツの鶏肉中心の代り映えしないメニューに飽きていたし、先日のエルサレムのエクスカーションではレバノン料理に行ったものの予算の関係で肉抜きだったので、今回は意気込んで行った。 店内はベドウィンのテントを模した内装で、多少のうらぶれ感はあるが、まあ期待できる。 まず前菜はやはり野菜中心のメニューである。シリアを思い出すじゃねえか。味もなかなか良い↓ さていよいよ次は肉か・・・と思っていたら、店の親父が「ティーとコーヒー、どっちがいいか」とかぬかす。あれれメインの肉は抜きですかそうですか。しかも自分で入れろってか。紅茶を飲んでみると、なんとまあティーバックのインスタントじゃねえか。トルコじゃありえねえぞ。 なんでも去年もこの店に来たが、その時は肉が焼きあがるまでえらく待たされたので、今回は(気を利かせて、あるいは予算の都合で)肉抜きのメニューにしたのだという。はれひれほれはれ。 今のところ、イスラエルで食べ物に関するいい思い出は多くない。
2008年08月24日
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試掘は終わったが、まだ測量のほうが終わっていなかった。 しかし先日来来訪しているKセンターのU教授が加わり、測量作業は驚くほど順調に進み、一日で終わってしまった。U教授は最近GIS(地形情報システム)を専門にされているので当たり前といえば当たり前だが、非常に助けられた。測量の成果を図にしてみると、なかなか感動的である。 全体の発掘作業のほうも今週で終わりである。水曜日の夜にボランティアの方々のための送別会が行われ、僕もかなり飲んだ。最終日である木曜日はやや二日酔い気味で現場に出て、僕らが発掘した遺構の実測にとりかかった。 発掘は終わりだが、来週も実測などの整理作業が残っている。↓写真撮影のため最後の清掃作業にかかっている。↓梯子で上からの写真を撮影。僕は怖くて登れない。 この日は遺跡で初めて赤とんぼをみかけた。トルコでは見かけたが、イスラエルにもいるのか。まだまだずいぶんと暑いが、もしかしたらもう秋の気配が迫っているのかもしれない。↓今年度の発掘作業の終了した遺跡を望む。
2008年08月21日
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僕が加わっている調査は二年計画のものだが、今年度は測量だけで済まそうかなと考えていた。 しかし実際の作業は草刈りが中心でモチベーションが下がり気味だったのだが、昨日団長が到着するや急きょ小さな発掘区を設定することになった。年代決定のためと、どのくらい深く壁が残っているのかの確認のためである。 地表面に露出しているローマ/ビザンツ時代に属すると思しき壁の跡を選び、それを包含するように発掘区を設定し、室内と思われる部分の掘り下げを始める。地表には崩落した大きい石がごろごろしているので、最初は力仕事である。 還暦の団長自ら大石を運び、つるはしを振っている。掘りたくてしょうがないのだろうか。若い頃は発掘現場でデストロイヤーと呼ばれたとのことだが、元気な姿に励まされる。我ながらなんと優等生的な日記。 ようやく週末であるが、もう来週には発掘が終わる。やはり3週間は短い。トルコじゃ2か月だったものな。↓初日の作業が終わった発掘区。まだ崩落した石の除去が終わっていないのであまり壁に見えない。
2008年08月14日
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今日調査団長であるR大のT先生(どうでもいいことだが、僕とは苗字が一文字違い)が到着した。僕の担当する調査にもいい影響が出ればと思う。↓調査風景↓僕が調査を担当する遺構。右は朝食休憩用のテント。 今日も遺跡の裾の発掘区から、独特な突起状の装飾を持つ祭儀用の土器(供献台??)が出土した。その突起が河童の皿の周りのひだに似ているので、僕はこの土器を「カッパ土器」と呼んでいるが、どうもこの地区にも祭祀関連の遺構があるらしい。 それほど大きくない遺跡なのに、ずいぶんあちこちに祭祀遺構があることだ。↓作業が終わって引き揚る参加者たち。 夜のミーティングで韓国の先生がフルートの腕前を披露。イスラエルの民謡?や日本の歌曲を演奏した。日本の曲にしみじみ聞き入ったのは久しぶりだ。・・・・・・・・ 朝一番で作業に取り掛かっていると、今日まで娘連れで参加しているイスラエル人ボランティアのおばちゃんに話しかけられた。彼女いわく、僕は彼女の知り合いに顔つきや立ち居振る舞い、着ているベストまでそっくりなのだという。しかも彼は今日二度目の結婚式を迎える云々。ほんまかいな。 なんでもその人はイスラエルからフランスに移住した人で、つまり僕はユダヤ系フランス人にそっくりさんがいるということになる。んなアホなと思うのだが、人種を越えて似ているのだ、写真を見せたいくらいだと彼女は力説する。僕は今髭を伸ばしているし、すさまじく日焼けしているのでそう見えるのだろうか。僕は多少濃い顔ではあるが取り立てて彫りが深いわけでも鼻が高いわけでもない。まあこの世に似ている人がいるのは面白いことではあるが。 彼女は今日発掘から去ったので、去り際に「僕の知らないフランスの兄弟によろしく」と言っておいた。↓遺跡で見たカエル。色がちょっと毒々しい。遺跡上は水気が少ないが、近くの小川から来たものか。
2008年08月13日
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今日は発掘の中日(なかび)にあたる。ただしその後の整理作業もあるので、僕自身のイスラエル滞在はまだ中間に達していない。 作業でなかなかうまくいかないことも多く、また疲れが溜まって来ているのか、今日の午後は長い昼寝をしてしまった。とげの生えた野草が生い茂り、岩がごろごろしている場所を歩き回らねばならないため、遺跡でこけそうになって左足のくるぶしを痛めた。キブツの食堂で出される食事のメニューもやや単調に感じる。素麺食べたい。↓遺跡で迎える日の出。この方角にガリラヤ湖、さらにはゴラン高原がある。 今日は遺丘の裾に開けた発掘区から、鉄器時代初期(紀元前12~10世紀)頃のものと思われる土製の仮面が出土した(残念ながら写真は不掲載)。上半分が失われているが、刻文で顎鬚を表現するなど割合写実的で(実際の顔面よりはやや小さい)、しかも類例が希少な貴重な発見らしい。今年の発見の目玉になりそうだ。 別の地区からは後期青銅器時代の祭祀遺構(らしきもの)も出土していて、今年もなかなかの成果のようである。↓遺跡の近くを流れる小川に住むカメ。ミドリガメか。ギリシャやトルコに多いリクガメはここでは見かけない。
2008年08月12日
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9日(土曜日)も休日で(イスラエルの休日は日曜ではなく土曜日)、終日宿舎でごろごろしながら過ごした。 グルジアとロシアの戦争(と言っていいと思うが)は、やはりロシアが圧倒しているようだ。南オセチアはロシアがほぼ制圧したようだが、ロシアとしてはサアカシヴィリ政権が自壊するまで圧力をかけ続けるのだろうか。・・・・・・・・ 今日(10日・日曜日)は空に雲がかかって風もあり、割合気温が低かったように感じたが、正午近くになるとさすがに暑くなった。しかし風は相変わらず強く、発掘坑にかけてある日陰用の網がなびいている。 今日からトータルステーションを使った測量に取り掛かる。この機械は機能はどれも似たようなものだが、製造会社によって操作ボタンが随分違うので慣れなくてはならない。しかも僕は最近はドイツ製のドイツ語版の操作のみだったので、最初は慣れずに苦労した。しかし一緒に測量に従事するY君ともども、徐々に慣れていった。 技術上まだまだかなり課題があるが、まあなんとかなるでしょ、ははは、はあ・・・。↓遺跡に落ちていた牛?の頭蓋骨。骨だけでなく牛糞もたくさん落ちている。
2008年08月10日
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今日は一日快晴で暑い一日だった。現場から戻って初めて昼寝をしたくらい体力を消耗した。調査の方では、オリーブあるいは葡萄の圧搾関連遺構を見つけた。週明け(イスラエルの休日は土曜日)から測量に入る予定。 今は遺跡の周辺は荒れ地だが、ローマ時代あるいはビザンツ時代には果樹園が広がっていたのかもしれない。植物遺存体の専門家に土壌を見てもらいたいところ。 発掘終了後の帰路、車が故障して立ち往生した。ギヤの油がなくなってしまったらしい。遺跡への道は石がごろごろしているので腹をこすりまくりだし、いつ故障してもおかしくはないのだが。しかも韓国車は坂道に弱いときている。 遺跡に変な実がなっている。茎はとげだらけだが、実は食べられそうに見える。一説にはこの実は糖尿病にいいということなのだが、食べられるのだろうか?? 夜、ボランティアの学生さんたちと懇親会。
2008年08月07日
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「イスラエルに行く」と人にいうと返ってくる反応は「テロとか戦争とか大丈夫ですか?」というのが多いと思う。 実際僕もイスラエルに来るまではそんな感じだったが、いざ来てみると当然ながら毎日あちこちで爆発とかが起きているわけではなく、このキブツの近くにはパレスチナ人の住む村があって普通に暮らしている(制度上の差別や区別はあるのかもしれないし、彼らの内心までは知らないが)。中東でありながらかなり欧米風(最近はロシア系が激増しているそうだが)という以外はごく普通の国である。 ではイスラエルで一番身近な危険は何かというと、それは空き巣なのだそうだ(トルコでなら間違いなく「自動車事故」と答えるところだ)。実際この発掘隊も、昨年現場に全員が出払っているすきに窓から泥棒に入られ、パソコンやら何やら盗られたそうだ。キブツの中なら安全と思いきや、キブツには人の出入りが激しいので実際は泥棒も多いようだ。 というわけでこの発掘隊は戸締まりに敏感なうえ、最低一人は宿舎に留守番することになっている。昨日まではThucydidesさん(このブログの常連コメンテーター)が体調不良で宿舎に残っていたのだが、彼が回復して現場復帰したので、僕とY君に留守番の順番が回ってきた。 あまり調査がはかどっていないので一日のブランクは正直嬉しくはないが、まあ休養と思って長めに寝たり、息抜きをさせてもらった。・・・・・・・ 今日はT大関係のグループが到着。ボランティア参加者も含めるとこの隊は総勢50人近くになっている。ミーティング・作業室も人が溢れていて、僕もこの日記を自室で書いている。 これだけ大勢の人がいてまとまれているのは日本式の和の精神だからかな。僕が長年そのやり方を見てきたドイツ人なら、より身軽な精鋭主義を採るだろう。 T大関係者の人たちと朝食を食べていると、昨日の到着早々サッカーで足をねん挫して現場を休んでいる韓国の教授が起きてきた。来るなり僕ら全員に辛ラーメンを勧め始めた。正直欲しいと思ったが、朝っぱらからキムチ味もいかがなものかと思い躊躇していると、「遠慮しないで」と結局全員に一つずつ振舞われた。 まだ調査始まったばかりなのにこんな大盤振る舞いしてたらすぐなくなってしまうだろうにと思ったが、これも韓国人らしいのかな。韓国の学生は現場ではよく働くそうだが。
2008年08月06日
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現場が始まる。ここは宿舎から遺跡までの距離が遠いうえ、途中に川ありでこぼこ道ありの相当の悪路なので、朝4時55分には宿舎を出発する。 暑いには暑かったが、今日は風が吹いていて割合すごしやすかった。あとイスラエルでは発掘区の上に布を張って影を作るのが通例らしく(小さい発掘区を同時にたくさん掘るやり方だから出来るのかもしれないが)、発掘区の穴の中では少なくとも日陰にいることになる。 それでも相当暑いのでここの現場は午前11時半には作業を終了する。僕が行ってたトルコの発掘現場は昼休みを挟んで午後4時くらいまでやっていたのだからえらい違いだ。 さて僕はこの遺跡では遺跡の頂上にある巨大な建物の跡を測量することになっている。おそらくユダヤ教のシナゴーグかキリスト教の教会・修道院の跡のようなのだが、草がぼうぼう生えているうえ崩れた壁石がうずたかく積もっていて明確な壁面のラインが見えず、建物の特徴を示すような測量図を作るには課題が多い。今は人手も機材も限られているので果てさてどうしたものやら。事前に聞いていたのとずいぶん話が違うぢゃないか。 今日はとりあえず割合明快な壁面のラインが見えている部分で草を刈ったり石をどけたりした。明日も同じような作業が続く予定。考古「学者」というより土方である。
2008年08月03日
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というわけで、今イスラエルにいます。 イスラエルの空の玄関口、テルアビブのベングリオン空港というと、何十年か前に日本人が無辜の巡礼客(イスラエル人ですらない)を多数殺傷した場所として有名だが、僕が見る限り自動小銃を持った警備員とかはおらず(フランクフルト空港ではよく見かける)、ものものしさがなくて拍子抜けした。まあ飛行機のセキュリティチェックは相当なものでしたが。 空港から遺跡のある街に向かって高速道路?を走っていると、右側(東側)のほうに高さ3mくらいのコンクリートの壁がえんえんと続いている(ところどころ切れてはいたが)のが見えたが、あれが名高い分離壁なのだろうか?位置的にパレスチナ自治区とかがあったとは思えないのだが。 景色はトルコの海岸部とあまり変わらない。しかし暑い。相当暑い。室内でもクーラーがないとあつくて耐えられないのは、トルコと大きく違う。 発掘隊の宿舎はキブツ(イスラエルの農業入植者の共同体)に間借りしている。今日はキブツ設立60年(そういや今年はイスラエル建国60年でもある)のパーティーとかで、たくさんの外部者も来ていた。 まだ調査は始まっていないので何ともいえないが、少なくとも食事(キブツの共同食堂で食べさせてもらう)はトルコやシリアのほうが良さそうな印象を受けた。来て初日に断定してしまうのもあれだが、なんか味付けが大味な感じがする(傾向はトルコの食事に似ているが)。キブツだからかな? 今日は器材を倉庫から運び出したくらいで、特に仕事はなし。 この調査に参加するイスラエルの学生と少し話をしたが、彼は2006年夏に発掘に参加中に召集をうけ、レバノンでのヒズボラとの戦闘に従軍したそうだ。もっとも砲兵部隊(155mm砲)なので、一方的に敵地に砲弾を撃ち込むだけなのだが。女性にも徴兵制があるイスラエルは国民皆兵で、彼は予備役の軍曹だそうだ。 イスラエルの人みんな図体がでかいなあ。あと決してうまくはないが流暢に英語を話す。自己主張もなかなか強そうだ。これがサブラ(サボテン)気質というやつなんですかね。まだ初日で我ながら知ったようなことを書いているが。 イスラエルの猫はやせていて精悍に見える。
2008年08月01日
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道を歩いていたら、歩道の真ん中にカナブン(だと思う。コガネムシにしては大きいので)の幼虫がアスファルトの上に丸裸で転がっていた。どうやってここまで来たのだろうか。 まだ生きているようだったので、このままでは死ぬと思ったので拾い上げて、土のある近所の庭に放り込んでおいた。迷惑かな? 手の中で糞尿を垂れやがったので生きていたとは思うが、衰弱していないか心配だ。 しかしまあこういう芋虫を触るのは久しぶりだ。子供のころはカブトムシの幼虫とかを飼っていたので好きというか平気だったが、今は少々気持ちが悪い。日本のペットショップで外国のカブトムシを売っているのに驚いたが(逃げ出したりしたらえらいことになるんじゃないか??)、成虫はともかく幼虫は見ていて気持ちのいいものではないな。 それにしても、昆虫というのは大人と子供では形態も食べ物もぜんぜん違う(生物学では「変態」というそうですが。Hのヘンタイと同じだな)。カゲロウなんて霞を食ってるのかと思うけど、幼虫は陰険というか凶暴そのものだもんな。本当に不思議だ。 しかしまあ芋虫(甲虫類の幼虫)に生まれなくて良かったなあと思う。あれじゃ土から出たら移動もままならないだろうに。
2008年06月01日
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生活環境が変わってしばらくネットがしにくい状況なので、当面こちらのブログはお休みしています。 ちゃんと生きておりますのでご安心を。中国は大地震、ビルマはサイクロン、レバノンは内戦寸前で大変みたいですが。 移転したとかブログやめたわけじゃないのでしばらくお待ちください。
2008年05月13日
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ブログを書くどころか、自分のブログさえも見てなかったんだが・・・・、なんかスパムがすごいことになってるな。 一時期収まってきたと思ったら、また激化している。本当にいたちごっこだ。トラックバックはもうやめたほうがいいな。 スパム消そうと思って管理画面を開くと、妙に重い。僕のパソコンのせいか、それともまた何か新しいのがつけられたのか。 ヘッセン州議会選挙、大阪府知事選挙、セルビア大統領選挙の結果について何か書こうと思ったけど、また後で。
2008年02月05日
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皆様明けましておめでとうございます。新年の御慶申し入れます(←江戸時代風の言い回し)。今年も宜しくのほどを。 あんまり書いてもしょうがないのだが、初夢のことなど。今年の初夢は例のごとく断片的にしか覚えていないのだが、変なものだった。まあ僕の見る夢は自分が産婦人科に行ったり親子連れのニホンザルが家に住んでいたり、豪華客船で別の夫婦と合同結婚式(新婦は登場せず)といったものなど、妙なのが多いのだが。 今年の初夢は何やら僕が日本海軍の技術者と言い合いをしている夢だった。相手はいかにも官僚といった感じの人だが、軍服は着てないので軍人ではないのだろう(それでなぜ旧海軍の人と分かったのかは不明だが、少なくとも昔の日本人だった)。周りには確かモンペ姿の女性がたくさんいて困った顔をしている。最近太平洋戦争についての本とか映画を見たわけでもないのだが。 話しても仕方ないので初夢の話はこれだけ。・・・・・・・ マントゥのことを書いたが、もう一つ食べたいトルコ料理があった。 「クル・ファスリエ」という料理で、日本語にすると「白インゲン豆のトマト煮込み」ということになる。これはマントゥ以上にどちらかといえば家庭向きの料理で、トルコの「お袋の味」にあたるらしい。こっちのほうが作り方も簡単そうなので(豆を水に戻すのに一晩かかるが)、こちらも作ってみるか。簡単とはいうが日本で言えば味噌汁ようなものだから、その実味付けに如実に慣れや上手い下手が反映される。 どういう料理かは漫画「トルコで私も考えた」の二巻か一巻に出てきたと思う。いわく、食べ残して水を足せば足すほど豆がふやけて増えていき、なかなか減らない魔法の料理。腹持ちもいいし温まるし、今の時期にはちょうどいいかもしれない。 作り方や外見は例のごとくこちらのページなど。こちらのページは重宝するなあ。 しかしあれだな、こういうトルコ料理でさえも、ちょっと検索すれば作り方を書いた日本語のページがいくらでもヒットするのだから・・・・。便利といえば便利だが、情報の値段が安い時代になったものだと思う。 ざっと調べたが白インゲン豆は原産地は中南米で、旧大陸に広まったのは16世紀以降のこと。「トルコのお袋の味」といっても非常に長い伝統というのでもないようだ(まあトマトも南米原産だしね)。トルコ語でファスリエというのもイタリア語かスペイン語の訛りのようだし。 ただ西アジアで長らく豆食が食事の大きなウェイトを占めていたのは間違いないようで、そういえば僕もほんの少し関係するけどこういうニュースがあった。(引用開始)最古の豆 シリア北西部の新石器時代遺跡で発見(毎日新聞2006年5月21日付記事)シリア北西部の新石器時代の遺跡から、世界最古と見られるソラマメとヒヨコマメが大量に見つかった。総合地球環境学研究所(地球研、京都市)の丹野研一・上級研究員(考古植物学)らが確認した。 見つかったのはシリア第2の都市、アレッポから約70キロ離れたテル・エル・ケルク遺跡。約1万500年前~約8000年前の遺跡で、筑波大調査団(団長・常木晃教授)が97年から発掘を続けている。地球研の有村誠・研究推進員(西アジア考古学)が一部の調査区を発掘。掘り出した土1067リットルの中から、丹野研究員が炭化したソラマメ437点とヒヨコマメ138点を見つけた。いずれも約1万500年前の先土器新石器時代中期前半の地層に含まれていた。 ソラマメはヨルダンの約1万1000年前の遺跡から5点の出土例があるが、数が少なく、出土地層が後世に荒らされて年代の真偽が不確実。ヒヨコマメも今回の遺跡と、同時代のトルコの遺跡で1点が出ているだけ。今回は出土数が多く、地層も荒らされていないため、年代が確実な例としては共に世界最古になる。 (引用終了) 調査でシリアに滞在していたとき、地元の人と一緒に家庭料理を食べていたのだが、ほとんど毎日のように何らかのかたちでマメ料理があった。そのとき一緒にいたWさん(日本人)は出される食事を毎日写真で記録していて「穀物や家畜ほど重視されてなかったけど、マメの考古学研究は重要ですよ」と力説していた。その意見に目と腹で納得したものだった。 西アジア原産といわれるのは上の記事にあるヒヨコマメ、レンズマメ、ソラマメである。日本でおなじみの大豆や小豆は中国原産。実は僕があまり好きじゃないグリーンピース(エンドウマメ)も西アジア原産だそうだ。 豆腐というと日本料理の代名詞みたいになっているが(江戸時代は米、大根と共に三白とされ主要食材)、実は今では原料はほとんど外国産となって久しい。昔は田んぼの脇で作っていたと聞いたことがあるが、今やエタノールの原料にもなるし完全に工業作物になりつつある。マメは体にもいいし、もっと食べたほうがいいんだろうねえ。 そういやイギリスのホテルでやはり白い豆のトマト煮込みが朝食に毎日出たけど、あれはあまり美味いとは思わなかったな・・。
2008年01月02日
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あれれ、今年ももう終わっちゃうのか。 最近は一年が過ぎるのが早いことよ。・・・・・・・ 最近トルコ料理を食べてないなと思ったら、急に食べたくなってきた。食べに行ってもいいのだが、せっかくだから自分で作ってみようと思い立つ。 とはいえ過去に作ったことがあるトルコ料理は、焼くだけ(でもないんだが)のシシケバブを除けば「マントゥ」くらいなのだった。なんといえばいいんですかね、トルコ風ラビオリ、あるいは水餃子とでも言うべきか。ラビオリや水餃子と違うのはソースがトマトあるいは醤油ではなくヨーグルトで、唐辛子ににんにく味が利いていて、薬味にミントを散らすことか。 トルコ料理の本を片手に何度か作り、一度はパーティーで出したのだが、日本人にはあまり好評ではなかった。しかしドイツ人には割合受けて、一人は残ったものを最後まで平らげてしまった。肉料理にヨーグルトソースというのが日本人には異様に思えるのだろうか。 本当は小麦粉から皮を作るのが正しく、皆でわいわい言いながらひき肉を小さな皮(2cm四方くらいに切るので餃子よりだいぶ小さい)で包むのだが、結構面倒なので市販の餃子の皮で代用したこともある。特に問題はないがやはり粉をこねて作るほうが美味しいと思う。暖かいまま食べてもいいが、冷めてから出すのが多いようだ。 どういう外見か、あるいは作り方はたとえばこちらのページやこちらのページをご覧いただくとして、気になったのはその名前。最初に食べたのはトルコのシワス(発掘隊の宿舎)でだったが、すぐに連想したのは中国語の「マントウ(饅頭)」である。トルコ人は中世に数百年かけて中央アジアから西アジアへと移動したので、中国語起源であっても不思議ではないのだが、あれだけ距離も時代も離れていて、料理の名前がそんなに変わらないものだろうかと思っていた。 というわけでウィキペディアを見てみると、やはり中国語の「マントウ」が起源ということらしい。それは驚かなかったのだが、驚いたのは同名・同様の料理の分布で、東はアフガニスタン、カザフスタンから西はギリシア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナまで分布しているらしい。トルコだけじゃないんだ。これはトルコ民族の移動およびオスマン帝国の広がりと軌を一にしているのだろう。トルコ遊牧民の騎兵が野営地ですぐに食べられるようにした軍用食だとか言う説明がされているが、「ほうとう」じゃあるまいし、遊牧民の食事なんてみんな軍用食みたいなもんだろう。名将武田信玄が愛した味 甲州名物甲州名物 ほうとう純生 みそ付き(2‐3人前)半生麺 レシピ&味噌つきお取り寄せマップ スパゲッティの起源はラーメンという説があるが、それと同じである。ちなみに小麦は中国原産ではなく西アジア原産で、中国に伝播したのはおよそ2千年前(最近4千年前まで遡らせる説が提出されているが)、日常的に食べられるようになったのは唐代だったと思う。中国の饅頭(マントウ)は三国時代(3世紀)に始まったと一般に言われているが(日本に来たのは13・14世紀)、マントゥはモンゴルの征西が行われた13世紀以降に西方に広がったということらしい。 トルコでは主に中部、東部で食べられており、地域ごとに違いもあるらしく、クルシェヒルやアクサライでは調理法もずいぶん違うようだ(シワスでしか食べたことないが)。シワスでは包んだ生肉のマントゥをオーブンで少し火を通してから茹でていたが、上に紹介したページの作り方だと塩茹でするだけのようで、地域と言うより家庭によっても違うのかもしれない。 自由にアレンジしたほうが「世界食」であるマントゥらしいのだろう。 ・・・・・・ 今年はオーストラリアの大旱魃の影響もあって世界的に小麦の価格が上昇した。「貧乏人は麦を食え」と言われたのは昔の話、今は「貧乏人は米を食え」なのだろうか。地球が温暖化したら従来の麦産地が打撃を受ける一方、生産量世界4位のロシアでの穀物生産が上昇し、ますますロシアの力が大きくなってくるだろう。中国・インド(生産量世界1・2位でもある)での需要増で国際価格が下がることは望めないんじゃないかと思うが。オーストラリアは実は生産量世界7位で、ドイツやトルコとあまり変わらんのね(反面人口が少ないので輸出に回せる分が大きい)。 今年は何かの大変動の始めの年として記憶されるかもしれない。でもまあ、そういうのって往々にして後になって気が付かれるものなんだろうけど。少なくとも「ねじれ国会」なんてのは大きな変化かな。続くかどうか分からんし、「政治ブログ」なんて判定されたくないのでこれ以上書かないけど。 ともあれ、皆様良いお年をお迎えください。来年がさらに良い年でありますように。
2007年12月31日
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このところ長らくブログほったらかしにしてたから知らなかったのだが、楽天日記は検閲を始めたのだろうか。それに気が付かれた方の日記へのリンクを貼り付けておく。オレンジを時計仕掛けする「現代」(シャルドネさんの日記)ALWAYS 三丁目の夕日 (コメント欄)(alex99さんの日記) お二人とも今日気が付かれたということは、「自動検閲」が始まったのは今日からなんだろうか。ずっとブログほったらかしにしていたので気がつかなかったけど、何か事前通知があったのかな?あとどの言葉が禁止なのか方針さえ明示しないというのも嫌らしいじゃないか。 まああからさまに汚い言葉とか、差別用語なんかが入ってるというなら分からないでもないし、迷惑トラックバックやスパムコメント防止のためならまあいいかなと思うけど、なんかやり方がおかしくないか。それとも他のブログサービスではもうやっていて、特段驚くべきことでもないのだろうか。 インターネットの世界というのは自由なようでいて、実際は簡単に意識操作や情報統制が出来る可能性もあるということか。中国じゃそういうのがあると聞いたことあるけど(「天安門事件」とか打ち込むとなんたらかんたら)、楽天でもそういうのが出来たのかね。大学生のリポートがやたらウィキペディアに似た内容になるとかいうのは聞いたことあるけど(ウィキペディア日本語版の歴史分野はまだまだ全然ダメですがね)。 上に述べた理由もあるので、ワード規制そのものは理解できるが、正当な理由のある基準を公開しない限り言論統制と言われても仕方ないわな。それとも基準を公開しちゃうとスパム業者が対応しちゃうからダメだとでもいうのだろうか。んなわけねえだろ。人権擁護法案とかそういうのに備えての措置ですかね。 タダで間借りしておいて文句言うなってか。 あと日記をアップするときに押すボタンが「公開する」「下書き保存」って、なんだこれ。前はこうじゃなかったような。 「ネット上に日記を公開することは自己責任ですよー」と言いたいのかな。これも書く気を削がせるねえ。・・・・・・・・ 最近あちこちのブログで見かける「ブログの気分を解析」MyBooというサービスがあるそうだ。というわけで自分も早速やってみると・・・、アルタクセルクセスの王宮 悲しい気持ち がブログににじみ出てます。話題に関しては 政治 について多く書かれているみたいです。「悲しい気持ち」 判定ワード 虐殺、 パキスタン、 首相、 大統領、 存在、 選挙、 日本人...「政治」 判定ワード 政治、 福田、 パキスタン、 自民、 内閣、 首相、 参院... はあ、そうですか。まあここのところの記事内容からすればそうかもしれんね。でも本当に最近の傾向しか分析しないみたいだなこれ。 あと「政治ブログ」って自分のブログの説明で一番言われたくない属性なんだけどね。本当に悲しい気持ちになりますわ。
2007年12月28日
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ここずいぶん書いてないと思ったけど、それもでまだ三週間経ってないのか。 パソコンが壊れたりしてごたごたしてるうちにネット意欲が低下して、ここもほったらかしになってましたが、ぼちぼち復活します。新マシンも購入して復活準備中です。
2007年07月14日
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既に某所に書いたが、この週末はK君夫妻の結婚披露パーティーに呼ばれる。 30人ほどの参加者の半分は知り合いのこじんまりしたパーティーで、旧交を温める。このところ鬱々として楽しまざる日を送っているので、この日の二次会・三次会、そして翌日の四次会・五次会(?)は掛け値なしに楽しかった。 友人代表として挨拶させられたわけだが、僕はこの二人が出会ったその瞬間にも立ち会っていたわけだから、確かに僕以上にこの任に相応しい人物はいないだろう(まあそのパーティーに呼んだ人こそそうなんだが)。むしろ僕が二人にとってお邪魔虫になることもあったかもしれないが。ともあれそういう立場からしても、これからも様々な困難はあるだろうけど(他人のこと心配できる身分じゃないが)、お二人には末永くお幸せにと言いたい。 僕の挨拶はグダグダだったが、パーティー最後での新婦の父親の挨拶が印象的だった。世間一般の挨拶からすると外れたものかもしれないが、よそ者に娘をとられる父親としての率直さと学者らしい直截さだろう。とてもかっこ良かった。 僕もいずれ娘の父親を悔しがらせる身になるのだが(だろうね?)、他人様の父親の言葉とはいえ他人事とも思えず、心に沁みる挨拶だった。翻って、将来この種の場でこういう挨拶をするべき父親の居ない妹がちょっと可哀相にさえ思えた。
2007年03月18日
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iskenderさんからバトンが回ってきたので回答しておこう。最近バトンなんて来てなかったけど、久しぶりやね。 ただ「タイトルに次に回す人の名前を書いて驚かす」というルールには賛同できないので、ちょっくら改変。 一応、次に回したい人(というか僕の知る内でバトンやってくれそうな人、あるいは過去に僕に回してきた人。笑)の名を挙げておくと、 タビウサギさん、笛吹きさん、☆かよさん、みさき116さん、パティターニさん(最近お忙しそうですが) もちろん、やってみたい方がいらっしゃったら、ご自由にどうぞ。・・・・・・・・【ルール】 1.バトンを回す5人の方々を日記タイトルに書いて驚かせて下さい 2.回ってきた質問には、素直に等身大の自分で答えましょうw 3.やらない子はお仕置きです!!w 4.ルールは必ず掲載しておいて下さい。 ★お名前は? artaxerxes(アルタクセルクセス)「覚えられない」と不評だし、そろそろ変えようかな・・・。★おいくつですか? 永遠の20代(みそじですが)(※僕としては、個人情報に関わる設問は良くないと思う)★ご職業は? 永遠の学生(洒落にならん)★資格は持ってる? 運転免許★今、なやみが何かありますか? 早く人間になりたーい★あなたの性格を一言で言うと? 図太い小心者★誰かに似ていると言われた事ある? 動物だとイノシシ、クマ有名人だと貴乃花、丸山茂樹(どっちも全然似てないと思う)★動物占いの動物は何だった? ひつじだったかな?つうか動物占い知らない人には愚問ですな。これ流行ったのだいぶ前だよね?★社交的?人見知りしちゃう? かなり人見知りする★人の話はしっかり耳を傾ける? 興味のあることには耳を傾けるが、興味の無いことは馬耳東風★ギャンブルは好き?嫌い 嫌い。パチンコに行ったこともない。でも自分の人生大バクチ・・・★好きな食べ物飲み物、嫌いな食べ物飲み物 好きな食べ物 大抵の食べ物は好きだが、味にうるさいよ好きな飲み物 ビール、ウィスキー、コーヒー嫌いな食べ物 脂肉、タイ料理に入ってるパクチー嫌いな飲み物 嫌いというか焼酎を飲むと調子が悪くなる★彼氏・彼女にするならこんな人が理想(5つ) 1.思いやりのある人。動物好きはなお良し2.当意即妙な人(機知に富んだ人・空気読める人)3.丈夫そうな人(体格とかの意味だけでなく)4. 自信はあるが謙虚な人5.出来れば酒が飲める人 ★親友と呼べるお友達は何人いる? 定義にもよるが、5人くらいにしときますか★彼氏・彼女と喧嘩をした時、自分から謝れますか? 謝ってばかりである★バトンを回してきたあの人の正直この人の事は○○である。 たくましい人だと思うつうかこのバトン作った人、文章力大丈夫か?「w」とかつける文章も好きではないんだが。★何人家族ですか? 母と妹一人★ペットは何を飼ってる? 実家には猫(去勢オス)が三匹。家族そろって猫好き★これの為なら1食抜ける!! 映画とか本、研究活動ただ発掘は食事抜きでは出来ません★趣味特技 特技は実測・測量趣味は読書と映画、旅行(どこでも行き先は決まってるが)、ドライブ★好きなブランド BMW。って、こういうのはブランドとはいわないか?衣服などのブランドには全く関心も知識もありません・・・★今行きたい場所 日本とポルトガルの間にあるユーラシアの国全て特にヨーロッパと西アジアの全ての国★もし自由に使える10万円あったら何に使う? 本を買う★将来の夢 何らかの形で人・社会の役に立つ人★その夢の為に何かしていることは? 勉強してます・・・
2007年02月04日
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いじる度に使い勝手の悪くなる楽天広場だが、今度こそ本当に愛想が尽きた。 なんだこの管理画面は?新着コメントが探しにくい。もし何日も放っておいているうちにコメントが山積したら(最近はコメントもほとんど来なくなったので杞憂ではあるが)、どこにどう返答すればいいのやら。コメント一覧を見ればいいのだが、自分のまで表示されて探しにくいことこのうえない。あと「お気に入りページ」の表示がすごく減っている。巡回するのに不便なことこの上ない。変更以前のほうがはるかに良かった。 どうも楽天は「ミクシィ」のようなSNSへの転換を図っているんだろうけど、ここを既に使っているユーザーはそんな機能は求めてないっつーの(そういう人はもうミクシィやってるって)。ライコス合併による強制引越しのときに僕が楽天に留まったのは、「簡単にホームページ(ブログのみでなく、掲示板やリンク集、フリーページを備えている)を作れる」ということに尽きる。だからこうして、ブログの使い勝手がいいサービスが他にもたくさんあるにも関わらず、今もここに残っているわけだが。 昨年末の日記で書いたが、ブログサービスもそろそろ飽和状態なんかね。ミクシィのほうもかつての勢いは無さそうだし。最近あちこちのブログを見ていると、使い捨てとかあからさまな宣伝目的(宗教・政治・商品などの世論操作)のものが目立つ。 それはともかく、使いにくいのは嫌なのでとりあえずどっか他所のブログに移って、ここは「アルタクセルクセスの離宮」あるいは「アルタクセルクセスの王宮址」「アルタクセルクセス王宮遺跡」「アルタクセルクセスの迷宮」とでもするか。発掘するといろいろ出てくるのね。完全消去しないのは、かなりの量が溜まってきたのでここのデータを移すのが面倒だからだけど。 まあ楽天のほうでも「順次改善する」と言ってるので、しばらく様子を見るか。我ながら無料で借りといて傲慢だなあ(苦笑)。
2007年01月18日
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(引用開始)<訃報>安藤百福さん 飢えからの解放決意…破産乗り越え1月6日1時16分配信 毎日新聞 「食足世平(しょくそくせへい)」。世界中で年間857億食が消費される即席めんを創造した安藤百福(ももふく)さんは、自身が作ったこの四字熟語を好んだ。直訳すれば、「食が足りて初めて世の中は泰平になる」だが、安藤さんが込めたのは、「食を通じて世の中の役に立つ」という決意だった。(中略) 安藤さんは敗戦で、集荷・問屋会社などの事業の大半が灰塵に帰したが、「戦後復興にはまず飢えから解放だ。食からすべての建設は始まる」と決意、食品事業を起こす。事業は順調だったが、懇願されて理事長に就いた信用組合が倒産し全財産を失なった。46歳だった。 「今となっては、あの空白の時間が新事業のために必要だった」と安藤さんは語っていたが、家内労働で細々と営まれていたラーメンの大規模工場生産という前代未聞のアイデアは、この時期に醸成された。 2年後の58年8月25日、世界初の即席めん「チキンラーメン」は1袋35円で売り出された。うどん玉1個6円の時代。流通関係者の評判は芳しくなかったが、「お湯をかけて2分間」とうたって有名百貨店で実施した試食キャンペーンが女性たちから支持された。「即席めんは主婦の解放に役立った」。 経営者としての安藤さんが尊んだのは独創性だった。他の追随を許さない独創を支えたのは好奇心と観察眼だ。今や即席めんの代名詞にもなっているカップヌードルは、スーパーの担当者がチキンラーメンを二つ折りに紙コップに入れて試食したのをヒントに開発された。 01年には宇宙食ラーメンの開発に着手。宇宙飛行士、野口聡一さんが05年に搭乗した米国スペースシャトル「ディスカバリー」に持ち込まれた。「対立する国の人とも、同じ宇宙空間でラーメンを食べられるなんて夢がある」と喜んでいた。 「商品はあくまでオリジナルでなければ成功しない。他人がやっているからでは決して成功しない」と安藤さんは力説した。(以下略) (引用終了) 僕はごく普通の日本人男性の例に漏れず、インスタントラーメンが大好きである。中でも素朴な「チキンラーメン」と「カップヌードル」が好きである。 有り難いことに今やドイツでもデンマークでもイギリスでも(トルコでは売ってたかな??)、スーパーやガソリンスタンドの売店で普通に「カップヌードル」が売られている時代となった。インスタント麺は今や世界の味となった。日清の「カップヌードル」や「出前一丁」には、元祖の日本では売っていないエビ味や牛肉味、唐辛子味、海鮮味、鶏肉味、ブロッコリー味、トマト味なんてのも売っていて(香港とかで作っているんだろうか?)、それを舌で実感できる。 あと僕は韓国の「辛ラーメン」をはじめとして色々な国のインスタント麺を食べるのが好きなのだが、これも元をただせば日清食品の発明にかかるものだろう。 僕がこの安藤百福という名前を知ったのは、石毛直道著「文化麺類学事始」という本でだった。食に関する文化人類学を研究する石毛氏が、巻末で安藤氏と対談していた。 日本からヨーロッパまで、ユーラシア東西の麺食を実地調査したこの本は実に面白かった。 今や世界中で当たり前となった麺食は、おそらく中国に起源を持ち、それが四方に伝播したと思われるのだが、東アジアとイタリア(スパゲッティ)との間には、西アジアという麺食のない「ミッシング・リンク」があるという(「実は西アジアにも麺食があった」という研究を、僕も会ったことのあるオスマン帝国史研究者がしていた)。ところが麺食と不可分の小麦の粉食はそもそもその西アジアが起源で、それが中国に伝播したのは唐代であるというから、東西文化交渉研究は面白い。 その他この本には、ローマ時代には既にラザニアの原型があったこと、世界で最も多くインスタント麺を消費しているのは韓国人で、一人当たり一日一食以上を消費しているということ(今は違うかも知れない)、20世紀初頭までイタリア人は出来立ての生スパゲッティを手づかみで食べていたことなど、いろいろと面白いことが載っている。麺食いには是非お奨めの一冊。この本で知ったネパールのラーメン?を実際に食べる機会もあったが、あまり美味しいと思えなかった。・・・・・・・ 話がずれたが、安藤氏である。この人、僕の母方の祖父と同い年だったのか。しかも戦前の若い頃、大阪でメリヤスの販売をしていたり、戦後に発明絡みの事業をしたというのも祖父と同じである。それで祖父のことを急に思い出した次第。 祖父の従軍体験はだいぶ前にこの日記に書いたが(この日記もずいぶん長く続けていることよ)、ちょっと祖父のことを記しておきたい。 祖父は1910年、香川県の小豆島生まれである。父親(つまり僕の曽祖父)は7歳の時に死んでいる。結構由緒のある家なので貧乏ではなかったようだ。姫路の工業学校を卒業した後、大阪に出てメリヤスの商売を始めた。 時代は満州事変、日中戦争へと突き進んでいたが、若くして祖父の商売は大成功、大阪の箕面のほうにぶっとい大黒柱をもつ屋敷を持ったという。祖父は人がよく嘘がつけない性格で、事業の共同出資人に資金を持ち逃げされたこともあったというが。あと当時としては長身のうえ目つきが鋭く、芸者にもてて祖母が嫉妬した、とは母の言。お見合いで岡山の旧家の娘で女学校出の祖母と結婚したのは20代の半ばだった。 ところが安藤氏と同じく、戦争で人生が変わる。祖父はうまく徴兵逃れをしていたが、1944年に徴兵されヴェトナムに送られてしまった。留守と子供たちを守る祖母は大阪の屋敷を売り払って岡山の親類の家に引っ越した。そのとき母が胎内にいた。結局大阪の屋敷は焼けてしまったと聞く。 戦争から戻った祖父は、戦後しばらくは岡山でいろいろ商売をしていた。後楽園の外苑で関東煮(おでんのこと)の屋台もしていたそうだ。しかし昔取った杵柄、家庭用の手編み機を発明して特許を取り、製作・販売する事業を興した。それまで編み機というと工場用の大きいやつしかなかったのだが、それを小型化したわけですな。最近はまるで見なくなったけど、衣類は手作りが当たり前だった当時は、結構売れたのだろうと思う。 ところが大企業であるB社やR社がそれを真似たやつを大々的に売り出してしまったので、祖父はそれら大企業を相手に裁判を起こし、最高裁判所まで争った。祖父は途中で弁護士を雇うのをやめて、六法全書をひきつつ自分で訴状やら裁判資料やらを書いていた。字が汚いので清書したり図面を作ったりするのは祖母の仕事だったが。僕は祖父の晩年しか知らないわけだが、東京での裁判の準備をする祖父の姿を覚えている。その頃には本業の手編み機製作・販売のほうはとうにやめていた。裁判は結局金銭による和解で終わった。 僕は7歳のときに父が死んで母方の実家に居候になったので、祖父が遊び相手になった。僕にとっての祖父は、やたら背が高く、色黒で目つきが鋭く、方言のきつい早口な人(僕が東京から移ってきたこともあり、時々何を言ってるのか分からなかった)、いつもステテコ・股引で歩き回っていて、浜で拾った海草を家で干して食べようとする変人、そして車で海や山、川へ連れて行ってくれ、一緒にフリチンで泳ぐ、ワイルドな遊び仲間だった。 祖父は本来理系人間だったが、歴史も好きでよく本を読んでいた。僕が歴史に興味を持ち始めたのは祖父の最晩年だが、それを知った祖父は僕に「竹中半兵衛はどこにおったか知っとるか」と聞いてきた。生まれの地(美濃菩提山城)を聞いているのか何を聞いているのか分からないので口ごもっていると、「姫路じゃ」と答えを言ってしまった。それが僕と祖父の最後の会話になった。 ヘビースモーカーだった祖父は部屋の壁が黄ばむほど吸っていたのだが(吸っていたのは「エコー」)、肺気腫になって片肺を潰し、肺ガンになって喫煙を止められてもやめなかった。祖父はいつもスポーツ刈にしていたのだが、死んで家に戻ってきた祖父は入院生活で髪の毛が伸びていた上、死に顔が妙に柔和に見えて、別人のように感じたことを覚えている。・・・・・・・ 祖父は安藤氏と違って、その事業は大企業に成長することはなかった(その気もなかったのだろう)。日本の戦後高度経済成長を支えたのは大企業や国の統制経済的施策の役割が大きかったとは思うが、こうした市井のアイデアマンや、僕の父方の祖父のような小さな町工場の実直な職人たちなくして、それは叶わなかったは間違いない。 公的資金注入で復活し空前の利益をあげていながらそれを顧客に還元しようとしない最近の銀行や(ドイツじゃキャッシュコーナーの24時間営業や手数料ゼロは常識ですぜ)、規制や天下りにあぐらをかいてきた官僚(総じていえば日本の官僚はよくやっていると思うが)、そしてホリエモンや村上なんとかのようなマネーゲームの「時代の寵児」を見ると、その思いを強くする。 安藤氏のご冥福をお祈りします。
2007年01月06日
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ハノーファーへの道のりを調べているときに、グーグルの「グーグル・マップ」というのを見てみた。 道路地図としてはもっといいものがあるように思うのだが、驚いたのは衛星写真のほうである。すごい精度とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。道調べもそっちのけで遺跡の写真を探してしまった。 ものは試しに、以下のリンクを貼り付けてみる。 僕が毎年夏に発掘に参加していた遺跡(トルコ)。個々の建築物のプランまで分かる。 今僕が座って居る場所。 その他遺跡を列挙。百舌鳥古墳群(日本)ボアズキョイ=ハットゥッシャ(トルコ)テル・マルディーフ=エブラ(シリア)ギザのピラミッド群(エジプト) 写真精度の高い地域はまだ限られているようだが、ヨーロッパの大部分は大丈夫のようだ。研究に使えるかどうかはともかく、眺めているだけでも楽しい。
2006年07月13日
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この日は午後に町の夏祭りを少しだけ覗く。途中ものすごい夕立になったので、研究室に避難。 いよいよワールドカップも今日の決勝戦で最後になる。結局2002年の日韓大会と今回のドイツ大会をドイツで経験したことになるが(98年のフランス大会の時も数日だがドイツに来ていた)、次は4年後の南アフリカか。ずいぶん先のことのように思える。日本代表にとっては全く不満の残る大会になった。一方で昨日の三位決定戦を仕切った上川主審はドイツでも極めて高い評価を受けたようだ。 それはともかく、もうドイツの試合じゃないからクナイペ(居酒屋)でテレビ観戦する人は少ないだろう、とたかをくくって遅めに町に出たら、旧市街の飲み屋の多くは満席になっていた。ところが折りよくたまたま通りかかった店の中に知り合いの顔を発見し、その横に座らせてもらう。彼らはいい席で見られるようにわざわざ予約していたそうだ。 さすがにドイツの試合があるときのような、試合前のあの興奮というか緊張はもう町にない。飲み屋の客の多くはフランスを応援しているようだった。 試合開始直後、フランスのアンリが倒れてしばらく動けなくなり、荒れ模様の予感がする。するとゴール前のファウルでフランスがPKを得て、ジダンが見事に決めてフランスが先制。ちなみに僕の予想はフランス勝利である。ところがその後イタリアがコーナーキックから得点し同点に追いつき、帰趨が分からなくなる。右に左にめまぐるしく動いて、出てきたご飯を食べる暇も無い。 ところが後半は、飛ばしすぎでだれたのか動きが悪くなる。特にイタリアはトッティを下ろしたこともあるが、全く点が取れそうな気配が無い。一方のフランスも優勢に攻めまくるが点が取れない。どうしてドメネク監督は選手を替えようとしないのか分からない。そうこうするうちに正規の試合時間が終わり、延長に入る。 延長の後半、なんとジダンが頭突きでレッドカード退場となる。彼にとっては最後のワールドカップだというのに何とも格好のつかない幕切れとなった(しかも翌日、この大会のMVPに選出されるという皮肉)。また試合自体への興味も著しく削がれてしまった。 試合は結局PK戦となり、堅守のGKブフォンを擁するイタリアが制し(というよりトレセゲが外したというべきか)、優勝した。店内は全然盛り上がらずシンとしている。試合終了と同時に客の多くはさっさと店を出て行ってしまった。 テレビでは喜ぶイタリア選手たちを映していたが(ズボンを脱いでいた選手がいたが、あれは何だったんだ。イエローカードもんだ)、表彰式には退場したジダンの姿は無く、なんともしまらない結果のように感じてしまった。イタリアの優勝は4回目だそうだが、そのうち二回はムッソリーニのファシスト政権の時代だから(審判も露骨にイタリアびいきだったそうだが)、なんとも昔のように感じる。 外に出ると、イタリア人たちが車で練り歩く(走る)のは見たが、せいぜい数台くらいで、昨日のような混乱は全く無かった。2年前にEMでギリシャが優勝したときのほうが騒ぎは大きかったように思うので、ドイツにいるイタリア人の数を考えても意外だった。 ともあれ、2006年ワールドカップ・ドイツ大会は終わった。 あちこちの窓に掲げられていたドイツ国旗も少なくなったが、一部の車はまだ窓に小旗を付けて走っている。メリハリなく、なんとなく始まってなんとなく終わっているのは(ベルリンではドイツ代表を迎えての式典があり大変な盛り上がりだったそうだが)、ドイツのお祭りらしい。
2006年07月09日
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ドイツ負けたあ(泣)。 この日は午後9時の試合開始に合わせて、午後8時前に研究室に集合、旧市街のクナイペ(居酒屋)に場所をとった。時間帯のせいか、アルゼンチンとの試合の時より客の数は少ない。サッカー中継はたいていこの店で見ているのだが、ここのおやじさん(ちょっとロイ・シャイダー似)がなんとかつて考古学を専攻していたという。学生時分のうちの先生を知っているそうだ。 途中の街中はいつもの通りドイツ国旗と代表ユニフォームを身に纏い、顔や腕にペインティングした若者で溢れている。今までと違うのは割合サッカーに興味がなったはずの女性ファンが多いこと。道行く車は多くが窓にドイツ国旗の小旗を付けている。これがWM期間中のトレンドになった。 一方ドイツにはイタリア人が多く住んでいるのだが、イタリア料理店(トルコ人のケバブ屋に押され気味とはいえ)も大きなイタリア国旗を掲げている。イタリア人はほとんど町の風景の一部と化しているのでドイツのファンとの揉め事も皆無のようだ。この店内はドイツのファン一色で、イタリア人たちはイタリア料理店などで固まって見ているのだろうか。 試合は無得点のまま進み、フラストレーションが溜まるものになった。イタリア選手の巧みなシミュレーション(倒されたフリをする)の度にドイツのファンから罵声が飛ぶ。それにしてもドイツが点を取れそうにない。後ろに座って騒いでいる若者たちがやかましい。 このままPK戦にもつれ込むのかと思ったら、延長の終了ぎりぎりになってイタリアがゴール!そして隙を突いたデル・ピエロの追加点でトドメ。万事休す。店内はがっくりと沈んでしまった。試合終了と同時に客の多くは店を出ていってしまった。あまり熱烈にドイツ代表を応援する素振りを見せなかった僕の連れもさすがに悔しそうだった。僕としても、ここまで来たら決勝に進んで欲しかった。三位決定戦でもう一度試合をするとはいえ。 バスを待つ時間があったので店内に残っていると、店のおやじさんが僕らにビールを一杯ずつサービスしてくれた。話題はドイツ代表についての批評。クリンスマン(監督)は決して前評判の高くなかったチームを率いて良くやったと思う、とここでも代表に対してはプラス評価。今まで給仕をしていたウェイトレスが実はイタリア人で、仕事が終わった後「イタリア」と書かれたシャツを着てイタリア国歌を鼻で歌いながら現れたのには笑ってしまった。 家路について道を行くと、さすがに路上で騒いでいる人はあまり多くない。悪酔いした若者が騒いでいる程度だったが、これは時間帯や試合終了から時間が経っていたこと、そして何より負けてしまったことも関係するんだろう。
2006年07月04日
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この日は朝からなにやら腹が痛い。差し込むような痛みがあり、定期的に繰り返す。時間の経過と共に収まってきたが、ちょっと気色が悪い。何より体に力が入らない。 以前賞味期限の切れたビールを気づかずに飲んだら似たような目にあったが、昨日飲んだビールは特に古くはなかった。何か悪いものでも食べたのだろうか。・・・・・・・ 午後、久々の古本屋に行く。そこでは半年前に買おうとしてその時はやめた本があって、それを見に行くのが目的だった。その本はちゃんとあって、その他にも内容も値段も手ごろな「これは」という本がいくつかあったので(「ハザール族」「文献史料からみたヒッタイトの建築」「古代シリアの歴史と文化」といった類の本)、元の位置から動かして棚の分かりやすいところに置いておいた。 しめしめと思いつつ他の本を物色していると、はげ頭で小太りのおじさんがやってきて考古学のコーナーを物色している。と思ったら僕が分けて置いておいた購入候補の本を手に取り、閲覧のためにおいてあるソファに座って読み始めた。「それ俺んだよ」と言うわけにも行かず横目で見ていると、まさかと思ったら彼はその本を全て手にレジに向かい、全部買って行ってしまった。 つうか買いたい本が僕とまったく同じ、一冊も違わず重なるとは(一冊くらい置いていけ~)、あなた同業者ですか??というわけで半年間購入を考えていた本も消えてしまい、そこでは何も買わなかった。・・・・・・・ 今日はドイツ代表がスウェーデンと試合する日である。街中にはドイツ国旗を担いでいたりドイツ代表のユニフォームを着ている人が大勢いる。歩いている人の半分くらいはその手の人じゃないかと思うくらいで、もちろん道行く車の多くがドイツ国旗を掲げている。どっちを見ても黒・赤・黄の三色で溢れている。統制こそ取れていないのでナ○スの時代とは似ても似つかないが、この国旗への熱狂振り(「ぷちナショナリズム」ってやつですかね)に眉をひそめる識者もドイツに居るにはいるらしい。 上記のとおり体調がすぐれなかったので、家に戻っ普通のテレビで試合の中継を見る。いきなりポドルスキが二点決めて試合の流れが決まってしまった。日本と引き分けたドイツ代表はいったい何だったんだろう。 試合終了後は勝利のパレードである。クラクションを鳴らして半ば箱乗りした人々がドイツ国旗をうち振るいながら町中を走り回る(挙句の果てにバスや市電の運転手までそうしていた)。広場ではドイツ国旗をうち振るう群集が雄たけびを上げて歓喜している。文字通り視界がドイツ国旗で埋め尽くされている。 2002年のWM日韓大会の時は、準優勝に終わった決勝戦の後こそこういう騒ぎをしていたが、それ以外のときはこういう光景はほとんど目にしなかった(まあ日本とドイツとの時差の関係もあったんだろうけど)。快進撃を続けたトルコ系市民のみが試合後にそういう騒ぎをしていたが、それに触発されたのだろうか?2004年のEM(ヨーロッパ選手権)の時はここまでではないがこういう傾向になりつつあったのを覚えている(優勝したギリシャ系市民がパレードていたのに出くわした)。 ナショナリズムとかそういうのではなくて、「楽しければそれでいい」という意識がドイツ人にも広まったのだろうか。シュツットガルトで悪名高いイングランドのフーリガンとドイツ人の間で乱闘騒ぎがあった以外はどこでも平和裏にこうした騒ぎが行われたようだから(スウェーデンのサポーターとも問題はなかったようだし)、排外的なものではないようだ。 今日はかなりの数の警官が出動して交通整理をしていたが、車も人もその指示にはよく従っていた。勝ってもないのに渋谷で馬鹿騒ぎした日本の「サポーター」(僕は実はこういう連中にこの言葉を使うのがすごく嫌なんだが)に比べれば、周りへの騒がしさでは比較にならないが、はるかにましということになる。 その後の試合でアルゼンチンが延長の末メキシコを撃破。ドイツは優勝候補の一角というアルゼンチンに勝てるだろうか。
2006年06月25日
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ドイツのメルケル首相(キリスト教民主同盟)が昨年11月の就任後初めて二日間の予定で中国を訪問する。同行するのはグロス経済相、ティーフェンゼー交通相に財界人など40人と大規模なものである。前任者のシュレーダー首相(社民党)は大の中国びいきで、在任中6度の公式訪問とほとんど毎年で親中派ぶりを印象づけたのだが、政権交代によって誕生したメルケル政権が対中外交を少しでも変えるのかが気になるところ。シュレーダー前首相は経済一本槍だったが(同じ社民党でもティアーゼ前国会議長はチベットを訪問したりしたものだが)、メルケル首相はドイツの協力で上海に作られたリニア線を視察するほか、市民団体代表や長年獄中にあったカトリック司教との対面を予定するなど、多少違ったところを見せる予定らしい。 首相は月曜日に胡錦濤国家主席、温家宝首相らと会談する予定だが、問題は従来と同じく経済(ダンピング、著作権侵害、リニア鉄道技術などドイツ製品の売り込み)と人権問題が主となる。今回はそれに加えてドイツも深く関わっているイランの核開発問題(なんか中国がウランを提供していたそうですが)も議題になる予定。シュレーダー政権時代は常に出ていた、天安門事件以来続くEUによる対中武器禁輸の解禁問題は、今回は事前の話題にも出ていないようだ。また野党「緑の党」は首相に対し、深刻な中国における環境破壊について言及し、ドイツの環境保護技術の提供を提案すべきだと要求している。ドイツのインテリは規定事実の中国の経済成長やビジネスチャンスよりも、むしろ環境保護のほうに関心が移っている傾向にあるようだ(折しも昨日、環境破壊を伴った三峡ダム竣工のニュースが報じられたが)。 つうか首相、日本には行ってくれないんですかね?え?話すことは特にない?・・・・・ ようやく本題。 今日歯を磨いているとき、歯磨き糊かうがい薬のおまけでついていた試供品の歯垢マーカーを使ってみた。歯ブラシで歯の全面に広く延ばすと歯垢が付いている部分が赤くなり、丁寧に磨くべき場所が分かりやすくなるというアレである。 僕は歯を一度磨いた後にやってみたのだが、思いのほか歯垢が残っていなかったのでむしろ驚いた。というのは以前(日本で)歯医者に行った時に、歯科助手だかの人に「歯の磨き方がなっとらん」とお叱りを受けたからである。もとより僕の歯はかなり歯並びが悪くでこぼこで、歯と歯の間に歯垢が溜まりやすいときている。7年ほど前に生まれて初めて出来た虫歯(治療済み)も歯と歯の間に出来たのである。 さて歯垢を確認して歯を磨き直したのはいいのだが、このマーカーがなんと歯茎の部分はなかなか落ちてくれない。おかげで口の中は真っ赤っかで、まるでドラキュラである。もっと具体的な例で言うと映画「インタビュー・ウィズ・バンパイヤ」(ニール・ジョーダン監督)に出て来る吸血鬼役のトム・クルーズそっくりである(顔は似てませんが)。あるいは、やはりミュージカル映画「南太平洋」に出て来る、四六時中なんかの葉っぱを噛んで口中が真っ赤になって居る「ブラディー・メリー」みたいだ。これではみっともなくて外出出来んぞい。 僕は小さい頃は虫歯が一本も無いのが自慢だった。クラスでも一人か二人しかいなかったように思う。体質もあるだろうが、親にあまり甘いものを与えられなかったのと(その反動で今は甘いもの好きだが)、歯磨きをちゃんとした(磨き方は雑にしても)ことも与っているのだろう。そういう訳で大人になって油断していると、上に書いた通り虫歯になってしまった。 しかし虫歯よりも僕が恐れているのは歯槽のう漏とか歯周病である。うちの母は歯はよく残っているのだが、歯周病のせいか歯茎がちびてしまい、歯と歯の間が隙間だらけになって見るも無惨な状況になっている(歯の間に食べかすが溜まりやすい)。だから歯間ブラシを使うなど、今は歯を磨くのにものすごく時間がかかっている。もっと悪いと、いくら歯が良くとも根元の歯茎が悪いとすぽすぽと抜けてしまう訳で、これは怖い。 一方既に故人の父はもっと歯が悪く、30代後半?で早くも入れ歯を使っていた。子供の頃の栄養環境とかも関係するのだろうが、ああも歯が悪かったらガンにならなくとも長生き出来なかっただろうと思う。 動物の年齢は歯を見れば分かるのだが、だから年齢の「齢」の字は歯偏になっている。また歯が悪いと長生き出来ないのも当然の理で、食べ物も摂れなくなるんだから自然界では死んで当然である。 人間の年齢も歯を見ればある程度は分かるらしく、古人骨の鑑定なんかは歯を見て年齢を推測する。年寄りは当然歯冠部が摩滅している訳であるが、これは長年の使用ということもあるが、昔は麦をひく石臼の粉が小麦粉に混じっていたのだから、歯が擦り減るのも現代人よりも早かった(米食圏ではちょっと違うのかもしれないが)。あと歯の特徴で親族関係なんかも分かるのだが(古墳に埋葬された複数の人骨の親族関係から家族制度までをも探った田中良之「古墳時代親族構造の研究」が代表的)、これは僕の理解の範疇を越えている。 僕は昨年のトルコでの発掘で墓地群にあたってしまい、全部で150くらいの完全なお墓(といっても穴を掘って埋めただけの質素なものだが)が出てきて、暑い現場で嫌という程人骨と睨めっこした(骨は掘りにくいんですわ、これが)。時代はヘレニズムかローマ時代で、今からおよそ2000年程前のものだが、石灰質土壌のため人骨の残りはとても良かった(日本の酸性土壌では、カルシウムの塊のような貝塚を除けば、歯しか残らないことが多いのだが)。それを見た限りでは、皆歯はよく残っていて、ひどい虫歯というのは見当たらなかっった。僕は専門家では無いのでいい加減な観察しか出来ないが、専門家が見れば当時の民衆の衛生や栄養環境を知る上でとても面白い資料になるんじゃないかと思う(似た例として、筑波大学のハドソン助教授は琉球の近世古人骨の研究から、当時の衛生・栄養環境、ひいては薩摩による琉球侵略以降の社会変化の復元に取り組んでいる)。あと僕が一度だけお会いした事もある谷畑さんなどは、そのテーマでは新進気鋭の研究者だろうか。 それはさておき、歯がすり減っている人骨はやはり老人のものなんだろうと思ったのだが、歯が揃っている人骨が埋葬された人骨のほとんどだったというのは、歯が悪くなる前に別の病気で死んだりしたと考えることも出来、現代人ほど歯の病気が深刻でなかったことも考えられる。たとえばこの人骨より少し前の古代ギリシャの平均寿命は40歳くらいだというが、これは乳幼児死亡率が高いこと(成人するまでに半分は死んだはずだ)、そして婦人は出産事故が多かったことも関係する。まあ虫歯から菌が入って若死にしたという江戸幕府14代将軍徳川家茂は特殊な例だろうけど(大の甘いもの好きだったらしい)。 あとやはりトルコの古人骨を見た専門家に聞いたところ、歯はものすごく汚くて歯石だらけで、ろくに歯を磨いていなかったんじゃ無いか、ということだった。まあこれは現代でもトルコの田舎では変わりないだろうけど。うちの婆さんは、小さい頃は指に塩をつけて歯を磨いていた、と言ってましたが。 ちょっと気になったので、古代の歯科技術についてメモ。出典はピーター・ジェイムズ、ニック・ソープ著「古代の技術」(僕のはドイツ語版だが、日本語版も出ている)。 この本によれば、現在知られている最古の入れ歯は紀元前7世紀、イタリアに居たエトルリア人が作ったものだという。歯は人間の歯か牛の歯を削ったものを使い、金のバンドで固定した。この技術は19世紀まで復活しなかったらしい。五味康祐の忍者ものでは、柳生宗矩だかが変装(人相を変える)ために歯を全部抜いて、代わりにほおの木で作った入れ歯をしたとかいう噺が出て来るが、あれは小説の話で、本当にやったら長生き出来そうにもない。実際の宗矩は75歳まで生きてるんだが(笑)。そういや昔伏見城キャッスルランドで、豊臣秀吉の歯とかいうものを見たなあ。あれが本物かどうか知らないが、極貧の少年時代を送り、62歳で死んだ人のものだけに、あまり健康そうな歯ではなかった。 古代エジプトには既に専門の歯科医が居たことが、ヒエログリフの解読から判明している。せいぜいドリルで虫歯を削るか悪い歯を抜くくらいしか出来なかったようだが。同じことはローマ時代も変わらなかったらしい。虫歯に詰め物をするのは中世の中国からで、水銀・鉛・錫を混ぜたものを詰めていた。最古の歯科処置の例は、紀元前2500年のデンマークのフルビェルクの墓から見つかった人骨の上顎で、ドリルが使われていた。 爪楊枝は紀元前3000年頃のシュメル文明(今のイラク)で既に使われていた(文字史料から分かるのだろうか?それとも考古遺物?)。ローマ時代には歯ブラシ状の棒がかなり使われていたようだ。ちゃんとしたブラシや歯磨き粉が登場するのはやはり宋代の中国らしい。ローマ時代は歯磨き粉の代わりに砂のようなもので磨いていたが、これは歯を綺麗にしても、エナメル質を磨耗し内部の弱い象牙質を露出させ、却って逆効果だったと思われる。(追記) あとで知った事だが、近世の遺跡(墓)からは、ひどい虫歯の骨、金の詰め物による虫歯治療の痕は結構見つかっているそうだ。あと江戸時代のお墓からは実際に木製の総入れ歯なんかも見つかっているそうだ。 ロンドンや江戸などでは砂糖が広く流通し始める18世紀(交易網野発達の他、精製技術の発達も関係するんだろうか)から虫歯患者が激増するらしい。僕がトルコで見た人骨なんかは、果物以外に甘いものは口に出来なかっただろうけど。
2006年05月21日
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T市のS君の家に泊めてもらったら、ドイツに留学している日本人学生の間でも評判になっていた(?)漫画「のだめカンタービレ」が全巻揃っていたので、枕元に持ってきて早速読ませてもらった。僕は研究書を読むのはまるで遅いのだが、漫画や小説を読むのは早いので2時間あまりで13巻(第14巻まで刊行中。未完)を読んだ。読んだというより見たといったほうがいいかもしれないが。 さすが評判の作品だけあって面白い。読んでいくうちにどんどん引き込まれていった。ストーリーはは、カリスマ的な音楽(ピアノ、ヴァイオリン、指揮となんでもござれ)の才能を持つ千秋真一と、その一年後輩でかなりの変人だが(掃除・炊事能力ゼロ、独特な言葉遣い)やはり独創的なピアノの才能に恵まれた野田恵(略して「のだめ」)の二人の関係を中心に、日本の音楽大学や二人の留学先であるパリを舞台に描かれる。恋愛小説というかコメディであるのだが、音楽に関する事柄や二人の成長を見ていると、一種の教養小説の類とも取れる(まあ二人の特異な人格は最初から形成されちゃってるんですが)。ラブコメにその表現はちょっと大袈裟ですかね。 話の多く(特に日本の音大時代)はドタバタ劇調なのだが、エキセントリックな主人公たちはもとより周りの脇役も「キャラが立って」いて(いわゆる売れる作品には欠かせない要素だが)、ありえない話なのだがあまり違和感なく読み進める。フランスに留学するあたりからだんだん真面目な話が多くなっていき、物語の性質が変わっていくのだが、これは登場人物が成長しているのと同時に作者(二ノ宮知子)自身の関心・方向性が変わっていくのを反映しているのだろうと思う。 S君は「二人が日本の音大にいる時代のほうが面白い」と言っていたのだが、僕はむしろ二人が留学してホームシックになったり壁にぶち当たったりする話の方が引き込まれるものがある(まあ確かにお笑いの要素は減るのですが)。この留学編のあたりで、この作品はコメディや音楽漫画の枠組みを越えたと思う。音楽漫画といえば、オーケストラのシーンは音の表現(「ブー」とか「ドン」といった擬音語)を一切削除して絵柄としては静寂なように表現しているのだが、その分読み手それぞれが頭の中でそのシンフォニーを想像するようになっている。 僕もS君もドイツ留学組だが、留学経験を持つ人はそれぞれの体験に照らして、或いは懐かしく、あるいはほろ苦い思いとともにこの漫画を読むのではないだろうかと思う。それにしても二人の留学先がフランスというのは、ドイツ留学組としてはちょっと残念な気もするが(最初千秋はウィーンに留学したがっていた。憎んでいるピアニストの父親が居るドイツには最初から留学を避けた)、ドイツ留学の話にしたら全然違った雰囲気の物語になっただろうか? しかし「洋行」というのは本当に死語になったんだと思う。まあ僕程度の人間が留学できることを思えば当然といえば当然だが、登場人物たちには「ヨーロッパに行った」という緊張感があまりない。むしろ海外経験が多いはずの千秋のほうが昂ぶっているし、ピアノと千秋のことしか頭にない(?)のだめはどこに行っても同じ調子で生きていけるのだろう。女性は強い。 僕がドイツ語修行のため語学学校に行っていた頃、音楽の留学生と知り合ってその世界を垣間見ることがあった。「のだめ」ばりの音楽家同士のカップルも目にした。こういう場合よく最初は男が女性をリードするのだが、実は女性のほうが才能に恵まれていたりしてだんだんと二人の仲がおかしくなっていったりする。「のだめ」は最初から今までのところ天才である千秋がリードしっぱなしだが(ほとんど「欠陥人間」であるのだめのピアノの才能を見出して引っ張っていくのだが)、この先変化したりするんだろうか。 聞いた話だとウィーンなんかだと日本人だけで百人単位で音楽の留学生がおり(年齢は様々)、それを仕切る人まで居て、その人の機嫌を損ねると日本人音楽留学生社会から村八分にされる、なんて話も聞いた。音楽は才能が全てというが、そこにもちゃんと社会(しかも極めて日本的な)がある。他の町だともっと人が少ないだろうから様子も違うんだろうがけど。 のだめが留学するパリのコンセルヴァトワールに留学した人も知っている。パリの留学生活がどういうものかは知らないが(まあドイツのそれとは違うでしょうなあ・・・・)、そういや彼女も恋人を追うような形での留学だったなあ。才能が全ての音楽家といってもそこは人間、さまざまなドラマがあるのだろう。 僕は音楽とはまるで無縁な人間だが(能力もゼロ)、この漫画の登場人物で言えば黒木君タイプかな。
2006年04月25日
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