「空に星は見えなくて」


 空を見上げたが、街灯やマンションの光の先には、暗闇が浮かんでいるだけだった。
 この街で一人暮らしを始めてから星を見た記憶がない。吉野沙紀はそんなことを考えながら夜道を歩いていた。地方都市とはいえ、100万人を超える人々が住むこの街では、星は見えなくて当然なのだ。

 沙紀は自分の住み慣れたアパートにたどり着き、いつものように事務的に郵便受けの中に自分宛の手紙が入っていないか確認した。そして中身が全て必要の無いチラシばかりであることを認め、集合ポストの下に備え付けてあるゴミ箱へそれらを放り込む。それから階段を上がり、2階にある自分の部屋の鍵を開けて中に入り、後ろ手にドアの鍵とチェーンロックをかけた。

 アパートに着いてからのそれら一連の動作は、一人暮らしを始めてから毎日のように繰り返している。

 「ただいま。」
 沙紀はそうつぶやいて部屋へと入っていった。誰も居ない部屋でただいまを言うことも、沙紀にとっては習慣となっている。最初は誰も居ない部屋に帰るのが心細かったが、今ではそれが当然のこととなった。
 部屋に入るとこもった空気がかすかに生ゴミ臭かった。明日はゴミの日だから忘れずに出さなきゃなんて考えながら、カバンを置いて座り込んだ。

 沙紀が生まれたのは、この街からは電車で片道2時間ほどにある田舎町だ。
沙紀の家は住宅街にあったが、少し歩けば一面に田んぼが広がっているような場所もあったし、街灯の光から少し離れただけでもたくさんの星を見ることができた。
そこで沙紀は大学に入るまでの18年間を過ごした。

 大学に合格し、一人暮らしを始めてから一年以上が過ぎた。
地元にいた頃は、都会での生活に憧れて早く大学に入って一人暮らしをしたいと思っていた。しかし最近はまた、地元の生活が恋しくなってきている。

 「あんな田舎でも、やっぱり故郷ってのはいいもんだ。」
沙紀はそんな独り言を言ってから、服を着替えるために立ち上がった。



 「沙紀、彼と別れたんだって?」
 沙紀がコンビニで買ってきたサンドウィッチあけて一口食べた時に、家から持ってきたお弁当を開いていた和美が聞いてきた。
 昼休み、沙紀と和美は大学の空き教室で並んでご飯を食べていた。

 和美は沙紀のクラスメイトで、ゼミが同じということもあり2人で一緒に居ることが多い。今の沙紀にとって大学内で一番の友達である。
 そういえば、和美には彼と別れたことを言ってなかった。と、沙紀は気づいた。意識して言わなかったのでは無く、ただ、なんとなく言ってなかっただけだが。
 「・・なんで知ってるの?」
 「あー、田中君から聞いた。」
 「そう・・。確かに、彼とは別れた。」
 田中君とは、2日前に別れた彼のことだ。沙紀は、彼が和美に自分達が別れたことを話したということに少しビックリした。なんとなく、他の人に自分からそういう話をしないのではないかと思っていたから。
 彼はもともと和美の友達で、彼女を介して自分と知り合ったのだから、別れたことを話して当然なのかもしれないが・・。
 そんなことを考えながら、沙紀はもう一口サンドウィッチを食べた。
 「それで田中君、なんて言ってたの?」
 サンドウィッチの中に挟まっている、ポテトサラダの酸味が少し強いと思いながら沙紀は聞いた。
 彼のことにはもう興味はなかったが、彼が自分のことをなんて言っていたのかは、少し知りたかった。

 和美は、田中君が言っていたことを思い出すように、沙紀の問いに答えた。
 「田中君は、沙紀とは別れたくなかったし、今でも好きだって言ってた・・。でも、あそこまではっきりと拒絶されたらどうしようもないって。」
 「ふーん、そう。なら良かった。」
 沙紀は、彼が本当に自分を諦めたのか心配だった。もし運が悪ければ、しつこくストーキングされることだってあるかもしれないとさえ思っていた。でも、本人が大丈夫だって言ってたのなら大丈夫だろう。
 沙紀は少しほっとした。
 「和美、そのウインナーもらってもいい?」
 沙紀は和美の弁当からたこの形に切られているウインナーを一つ、つまんでほおばった。
 「あー、まだ良いって言ってないじゃない。」
 「ごめん、待ちきれなかった。」
 沙紀が両手を合わせて謝りながら、ウインナーを咀嚼した。やっぱり和美の家のお弁当は美味しい。和美のお母さんは料理が趣味で、毎朝家族全員の分のお弁当を作って持たせてくれているのだ。
 「始めから許可を得る気なんてないくせに・・。」
 「いいよねー和美は。お弁当作ってもらえて。」
 「まあね、自宅から通ってるメリットって言ったら、3食ご飯がついてくることくらいだから。」
 一人暮らしの沙紀は、ほとんど自炊をしていない。だいたいコンビニのパンや、スーパーの惣菜なんかを買って食べている。3食のご飯が用意されている自宅での暮らしが時々うらやましくなるが、自由気ままな一人暮らしが出来なくなることを考えると、やっぱり今のままがいいなあなんて思った。

 「で、実際のところ田中君とはなんで別れたの?」
 沙紀はうまく話が逸れたと思っていたのに、和美は話を戻してきた。
 「彼から聞いたんじゃないの?」
 「沙紀が、自分のことを好きじゃなくなったから別れようって言ってきたって。田中君から聞いたのは、それだけ。」
 「確かに、その通り。」
 沙紀は食べ終わったサンドウィッチの包装を手のひらでぎゅっとつぶしてから立ち上がり、それを教室の隅にあるゴミ箱に捨てた。そしてまた、和美の隣の席に戻って座りなおした。
 その間、和美は沙紀のことをいかにも好奇心が溢れていますというような眼差しでじっと見ていた。
 「・・何よ。」
 「いや、それで?」
 「何が?」
 沙紀は、和美の問いに問いで返した。
和美が何を聞きたがっているのかはわかっている。ただ話の流れを変えたかった沙紀は、なんとなくはぐらかしてみたのだ。それが無意味だということはわかっているのだが・・。
 当然、和美はさらにわかりやすく聞いてきた。
 「それで、実際のところは田中君となんで別れたの?」
 「だから、田中君のこと好きじゃなくなったから。」
 「それだけ?」
 「それだけじゃ悪い?」
 「いや、何か理由があるんじゃないかと思って・・例えば、他に好きな人が出来たとか、彼に対して不満があったとか。何かそういうきっかけがあったから別れたんじゃないの?」
 沙紀は彼と別れた理由をあまり話す気は無かったが、かといって和美が聞きたがっているのに話さないという理由も無かった。沙紀は観念して話すことにした。
 「んー、これと言ってきっかけは無いのよね・・。ただ、なんか彼から思われてるってことが重くなったっていうか・・。」


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