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2017.03.25
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                               [探訪時期:2014年4月ほか]
坂本龍馬が「寺田屋遭難」で危地を脱し、また九州への新婚旅行の出発に縁があった「京橋」はそれから2年後、再び歴史の場に記録を残す場所となります。京橋の景色の切り取り方を変えてみますと、 京橋北詰の南浜岸に降りる階段の北側に石標が立っています。
「伏見口の戦い激戦地跡」の石標と説明板

慶応4年(1868)1月に、「鳥羽・伏見の戦」が始まります。その「伏見口」での戦いが京橋付近となったのです。 寺田屋は京橋から50mほど南浜を東に行ったところです。この地の激戦の影響を受け、 寺田屋も被災・焼失の憂き目に遭った のです。

「鳥羽・伏見の戦」が (ぼしん) 戦争」 と後に総称される官軍と幕府軍の戦いの皮切りとなるのです。この戦いは関東に及び「上野の彰義隊」「会津戦争」を経て、明治2年(1869)5月、北海道函館「五稜郭の戦」で終結するに至ります。


慶応4年(1868)1月2日、 大坂城に居た徳川慶喜は「討薩の表」を作成 し、朝廷に提出することと、諸藩に挙兵・参加を訴え、 在坂兵力の内、1万6000余を幕府直属軍として京都に進発させた のです。諸藩・諸隊の連合軍は7,300余だったとか。 総勢23,400という人数が集結する のです。諸隊の中には、新選組も入っています。説明板によれば、 会津藩の先鋒隊約200名は、大坂から船でここ、伏見京橋に上陸 したそうです。

この 先鋒隊は、2日の夕刻に、東本願寺伏見別院(伏見区大坂町)を宿陣 とします。 「伏見御堂」 と呼ばれていたお寺です。

現在、この伏見別院の山門前に、 「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石標と説明板 が設置されています。

大河内正質 (おおこうちまさただ) は淀城に入り、陸軍奉行・ 竹中重固 (しげかた) が率いる本隊は、伏見街道を北進し、 「伏見奉行所」を3日に本陣とします。
陸軍奉行並・ 大久保忠恕 (ただくみ) の率いる隊は、鳥羽街道を北進したのです。(資料1)


桃陵団地 (伏見区西奉行町)となっています。
西奉行町の西隣が奉行前町で、その西が「京町通」となります。京町通は本町通に繋がっていき京都に入る幹線道路のひとつです。

団地の入口に、 「伏見奉行所跡」の石標と塀の一部が再現されています


第二次世界大戦以前は、この場所は 「伏見工兵第十六大隊」 として使われていた土地です。

一方、 幕末時点に伏見には、諸藩の藩邸がありました

                 寺田屋に近い場所、同じ 南浜町に「伏見土佐藩邸」

一方、 京橋を南に渡り、竹田街道を少し南に下ったところに、「伏見長州藩邸」 があったのです。

また、 伏見薩摩藩邸は、伏見区東堺町に所在 していました。大手筋通の北にある下板橋通を西に行き、濠川に架かる 「下板橋」を渡ったところ です。
濠川は豊臣秀吉が伏見城を築城したときに外堀(濠川)を開削したのがもとになっている のです。そして、 明治以降に琵琶湖疎水ができた後、その琵琶湖疎水がこの濠川に流れ込む水系が作られた のです。

伏見薩摩藩邸まで、寺田屋からは1kmほどの距離になるようです。


この伏見口の戦いにおいて、薩長連合軍は御香宮神社に移動し、ここを拠点とします。


御香宮神社の境内に「明治維新 伏見の戦跡」碑が建立されています。
薩長連合軍は、御香宮と桃山に大砲を据えて戦いに臨んだのです。
幕府側の総動員数に比して、 この時点での薩長連合軍は総兵で6,000人の規模 だったようです。


Mapionの地図を切り出して借用し、位置関係をプロットしてみました。
 緑色の丸は、伏見口の激戦地跡の石標が設置された京橋
 赤色の丸は、幕府軍陸軍奉行が本陣を置いた伏見奉行所
 青色の丸は、薩長連合軍が伏見の戦いで拠点とした御香宮神社
 マゼンタ色の丸は、会津藩の先鋒隊が駐屯した伏見御堂
 茶色の漢字で「土」の場所が、伏見土佐藩邸のあったところ
 茶色の漢字で「長」の場所が、伏見薩摩藩邸のあったところ
伏見薩摩藩邸は、この地図では、緑色の丸・京橋からは北北西の方向で地図の外です。

伏見での戦いが如何に接近戦だったかがわかります。だからこそ、短期決戦という形になったのでしょう。

下鳥羽から鴨川沿いに北上している 鳥羽街道は城南宮道と交差 します。この交差点の南東角が現在は 「離宮跡公園」 として整備されています。 鳥羽離宮跡 です。 城南宮道を東に進むと、「城南宮」です

これは 現在の鴨川に架かる「小枝橋」 です。鳥羽街道を北上し京都に入ろうとする幕府軍には重要な渡河点の一つです。 この小枝の地が「鳥羽・伏見の戦い」の勃発地になったのです。

「離宮跡公園」の北西角、つまり交差点側に近い位置に、 「秋の山」 と呼ばれる小丘があります。
 その「秋の山」の上に、

「鳥羽伏見戦跡碑」 があります。戊辰戦争の発端となったこの激戦地を記念して、「明治45年(1912)2月、有志の人々によって建立されたもので、小牧昌業の撰文、小田得多の筆」によるものです。 (資料2)

この秋の山の裾に、 「鳥羽・伏見方面戦闘図」と説明碑 が設置されています。
戦闘図 をさらに切り出して、拡大してみます。
この図によれば、鳥羽街道を幕府軍主力がまず2,000名ほどで北上して行ったようです。
城南宮に立つ駒札によりますと、1月3日に幕府軍は「城南宮から南南西500mの地点に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙した」のです。朝廷側の薩摩・長州・土佐等諸藩の兵は、「鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に」陣を構えたのです。

薩長連合軍は、「城南宮」を拠点にします。

城南宮の鳥居近くに建てられている駒札

1月3日の「夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き」 (駒札より) 、開戦となったのです。鳥羽街道での一発の砲声が、伏見の戦いの始まりとなり、薩長連合軍の御香宮と桃山の台地に配置された大砲が一斉に轟きだしたそうです。台地に布いた砲兵陣地を指揮したのが 大山弥助(後の元帥・大山巌) です。 (駒札より)
戦闘図によると、伏見では、薩摩藩800名、長州藩125名、土佐藩100名の1000名強の人数で、幕府直轄軍・会津藩兵・新選組と戦闘したことになります。

薩長連合軍は 人数においては幕府軍に圧倒的に劣るものの、 大砲等の火力においては優位に 立っていて、その違いが決定打になったようです。

余談ですが、司馬遼太郎の短編小説『アームストロング砲』には、こんなことが書かれています。
*鳥羽・伏見の戦いに佐賀藩は参加していなかったが、当時日本最大の洋式軍隊をもっていたのは佐賀藩だったこと。
*薩英戦争のおり、英国が初めて艦載のアームストロング砲を使用した。その威力は驚嘆すべきもだったが、まだ大砲自体にひびが入り破裂するという欠陥が露呈した。
*佐賀藩はアームストロング砲を三門購入し、その後自藩内で砲の研究と製造を始めた。試作砲を完成し、試射には成功したが砲身は破裂。発射薬の少なめの砲の製造は開始。
*佐賀藩は、英国製アームストロング砲二門を江戸の上野山の彰義隊との戦いでは官軍総督府の命令で使用した。砲二門それぞれ6弾ずつ撃ったとき、彰義隊は壊滅した。

この鳥羽・伏見の戦いで3日の夕刻に、1発目の砲声を轟かした薩摩藩の大砲は、アームストロング砲だったのでしょうか? 上掲の説明碑にはアームストロング砲が使用されたと記されています。
薩摩藩は、「春日」と命名された蒸気外輪船・仮装軍監を「慶応三(1867)年11月3日、グラバー商会の仲介を経て薩摩藩兵賦役兼船奉行の松方正義が急遽購入した」といいます。この船の備砲の一つには「6斤アームストロング砲」が艦載されてはいたようですが・・・。調べた範囲ではアームストロング砲だったという傍証を今のところ私は得られませんでした。こだわりの課題が残りました。 (資料3)

4日の早朝に、薩長連合軍は、「 仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍とし 幼帝(明治天皇)より”錦旗”を下させ、併せて、”節刀”を賜るという演出をやってのけた 」ことで、 薩長連合軍が「官軍」に転換する のです。つまり、3日の夕刻に戦端が開かれた時点では、薩長連合の私軍であったものが、一夜にして官軍となったのです。幕府軍は国賊視される立場に貶められます。戦闘意欲が萎縮することにもなります。戦いが一進一退の状況の中で、幕府軍は淀城へ後退して、態勢の立て直しを考えたのです。ところが、 淀藩は幕府軍の入場を拒むという挙に出た のです。山崎にいて傾城を傍観していた 津藩(藤堂家)は 淀藩の寝返りを知り、また朝廷からの下命をうけたとして、 幕府軍に側面攻撃を仕掛ける立場を取った ようです。そのため幕府軍は総崩れとなり、大阪城に敗走するという結果になります。 (資料1)
官軍となった薩長連合軍は、追撃する立場になるのです。

鳥羽街道沿いに南に進みます。

鴨川が桂川に合流する辺りに「一念寺」というお寺があります。そこに至る少し手前、下鳥羽の地域ですが、道路沿いに大きい屋敷構えの表門が見え、その傍の築地塀前に 「鳥羽伏見戦跡」の碑 が設けられています。

                    堤防上から鴨川の北方向の眺め

横大路を経て、納所の地域に入り納所中河原あたりだったと思うのですが、 堤防沿いで見かけた供養碑 「戊辰役各軍戦死者埋葬骨地」と刻されているように読み取れます 。誤読しているかも知れませんが・・・・。
薩長連合軍(官軍)、幕府軍に拘わらず後退する幕府軍と追撃する官軍との戦いに中で死んで行った兵達は、どちらの軍とも判然としないままうち捨てられた屍が一緒にここで埋骨されたのでしょう。ぽつねんとこの石碑が建てられています。

伏見区納所北城堀 には、現在 「妙教寺」 というお寺が所在します。 そこは「淀古城址」といわれる場所 です。木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸になり、「淀殿」が住んでいたのがこのあたりにあった淀古城だったそうです。 (資料4)
この寺には以前に歴史探訪の講座で訪れています。 この妙教寺は淀古城の南端あたりになる ようです。その時に、戊辰戦争絡みのことも知ったのです。ここで、この講座の探訪での記録写真を併載しています。

境内にあるこの史跡説明碑にご注目ください。 「淀古城址」の説明の左に 刻された部分です。 「戊辰役砲弾貫通跡」と記されています
4日にここの本堂内陣に砲弾が屋根を貫通して飛び込んだそうです。5日には淀で激戦が行われ、幕府軍は八幡方面に敗走していくのです。お寺にはそのときの砲弾が保存されているといいます。

南に下るのはこのあたりで終わりにします。
伏見区から、再び北に目を転じていきたいと思います。

つづく

参照資料
1) 『<徹底検証> 新撰組の謎』 加来耕三著 講談社文庫
2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂
3) 春日丸【薩摩藩 仮装軍艦 幕末軍艦】  :「日本の歴史ガイド」
4) 淀古城   :ウィキペディア

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
会津藩駐屯地跡 HU157   :「フィールド・ミュージアム京都」
伏見土佐藩邸跡 HU157   :「フィールド・ミュージアム京都」
伏見薩摩藩邸跡  :「幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡」
淀古城址・戊辰戦争砲弾跡 HU131   :「フィールド・ミュージアム京都」
【鳥羽・伏見の戦い~戊辰戦争へ・・・江戸幕府の壊滅~明治維新】  :「伏水物語」
    鳥羽・伏見の戦いについては、絵図を交えて、詳細な説明がなされています。
    大変、参考になるページです。
鳥羽伏見の戦い 簡略地図   :「歴声庵」
アームストロング砲   :ウィキペディア
薩英戦争   :ウィキペディア
伏見区 掲載写真一覧  :「写真で見る近代京都の歴史~GREENの部屋~」
    16師団と工兵第16大隊関係など多数

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.03.28 10:51:14
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