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2023.09.07
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カテゴリ: 観照 & 探訪
入場券半券

<第3章 阿弥陀仏の浄土>
このセクションに、冒頭で再掲した入場券に使われている 浄瑠璃寺の九体阿弥陀修理の完了記念としての 「阿弥陀如来坐像」2軀 が展示されています。 

​図録の表紙 に使われた 阿弥陀如来坐像その1​ を再掲しておきましょう。

冒頭の入場券から切り出した 阿弥陀如来坐像その8 です。
前回触れていますが、このセクションの会場の中央に阿弥陀如来坐像本体2軀が並べて展示され、光背は少し離れた壁際に並べて展示されていました。そのため余計に 光背の意匠の違い


PRチラシには、この形で 浄瑠璃寺の薬師如来坐像 (平安時代11世紀の作) と約140年ぶりに里帰りした十二神将 がこの会場の展示で再会するという写真が載っています。会期末直前に鑑賞しましたので、この再会場面の展示は残念ながら拝見できませんでした。 薬師如来坐像は前期展示だった のです。(勿論、よく見るとPRチラシにはちゃんとその旨明記されていました)


薬師如来と十二神将の再会!とあるように、 十二神将は薬師如来の眷属である十二夜叉の総称 です。 別名、十二夜叉大将、十二神王 とも称されるとか。 十二夜叉は玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』に登場する そうです。
(資料1) が記されているそうです。
ところが、この経典には十二神将像の姿について具体的に言及されていないそうです。そこで、経典や儀軌にとらわれずに、当初の造像は比較的自由に創作されたものとみなされています。わが国での十二神将の造像は奈良時代にまで遡ります。ご存知のように、奈良・新薬師寺の十二神将塑像が特に有名です。
中国を経て日本に至るまでに、中国で十二神将と十二支が結合して行ったようです。つまり、十二神将像と十二支像が一体となっていきます。

十二神将つまり夜叉の漢字名の表記は音写ですので、名前をカタカナで表記しますと、
クビラ、バサラ、メイキラ、アンチラ、マニラ、サンチラ
インダラ、バイラ、マコラ、シンダラ、ショウトラ、ビカラ  です。
この夜叉それぞれに十二支(子~亥)の一つが対応されていきます。
この展示では、十二神将名は、子神~亥神という十二支神名で展示されていました
新薬師寺の十二神将は、夜叉名と十二支神名とを併記した木札掲示がされていたと記憶します。
また、新薬師寺の十二神将には十二支像が頭部に表されてはいません。
しかし、 浄瑠璃寺のこれら十二神将像 には、十二支像が頭部に具象化されています

展示の十二神将立像は、像高が 69.2~77.3cmという大きさで木造、彩色・漆箔の像。子神~戌神が鎌倉時代(13世紀)、亥神が鎌倉時代。安貞2(1228)の作で、7?が東京の静嘉堂文庫美術館、5?が東京国立博物館で所蔵されています。
十二神将像自体もまた、一堂に鑑賞できたのは実に稀な機会だったといえます。

余談ですが、「わが国では十二支の標幟(ヒョウジ)をもつ十二神将像の経軌『浄瑠璃浄土標』が平安中期以前に成立、11世紀以降に作例がみられ、やがて 十二支つきの像が主流となり ます」 (資料2)

このセクションに初めて 「地蔵菩薩立像」 (重文)が展示されていました。鎌倉時代・建長8(1256)、快成作。像高 80.5cm、木造で彩色・載金。奈良の春覚寺蔵です。
この後、木造の地蔵菩薩は、第5章であと1軀を見ただけでした。

「普賢菩薩騎象像」 (重文)
平安時代(11世紀)の作。木造・彩色。像高39.5cm。本体は、頭体幹部、両肘を含む一材から彫りだされたものと言います。衣部に載金も用いられています。象は後補だとか。普賢菩薩は『法華経』を読誦する者を守護するとされるそうです。『法華経』は女人往生を説く経典でもあるので、普賢菩薩は特に女性信仰を集めたと言います。
象を見たこともない当時の仏師立ちは、将来された普賢菩薩騎象像を手本にして、象を彫ったのでしょうね。この像は、木津川市の岩船寺像です。
過去に岩船寺を探訪していますが、この像を拝見した記憶がありません。

快成作の「愛染明王坐像」 が併せて展示されていました。こちらの愛染明王坐像は真っ赤な形姿で比較的馴染みのある像容です。弓と矢を下方の左右の手に持って居るという形です。
今回、愛染明王像は、 宝瓶から伸び上がった赤蓮華の上に 坐された姿という形を再認識しました。また、頭部は、 五鈷鉤を付けた獅子冠 であることも。いつも真っ赤な形姿の方に目を惹かれていて、宝瓶や獅子冠をほとんど意識していませんでした。
鎌倉時代、建長8年(1256)の作で、木造、彩色・載金。奈良国立博物館蔵です。

<第4章 解脱上人貞慶と弥勒・観音信仰>
解脱上人貞慶 (1155~1213)が 海住山寺の中興の祖 ということをこの特別展で知りました。
このセクションは、江戸時代(17世紀)に造像された 「解脱上人坐像」 の展示から始まります。木造・彩色。像高74.8cm。木彫像は頬がこけ、目尻がさがった容貌を正面から眺めると、厳格さよりも少し軽妙さすら感じさせます。
また、 海住山寺蔵の掛幅「解脱上人像」 も展示されていました。江戸時代、正徳元年(1711)作、絹本着色です。こちらも頬がこけ目尻が下がった容貌で描かれていますが、穏やかさを感じさせます。実際はどのような上人だったのでしょう・・・・。
このセクションは、解脱上人の関連で、海住山寺からの出展品が中心でした。


海住山寺蔵の展示品で印象に残るのは、PRチラシの表紙に使われているこの 「四天王像」 (重文)です。鎌倉時代(13世紀)の作で、木造・彩色。彩色が鮮やかに維持されています。像高は35.8~38.3cmという小ぶりな像です。これらの像の形姿及び身色は、 建久7年(1196)再興の東大寺大仏殿四天王像とおおむね一致する そうです。

彩色が残る四天王像を見る機会はあまりありませんので、小像ですがインパクトがありました。顔の色の違いがおもしろい! 忿怒のレベルの違いを表しているのでしょうか。

海住山寺の「扁額」と「海住山寺縁起」下巻 が展示されていました。解脱上人は、笠置寺から良弁が草創した 観音寺に移り、観音寺を中興して海住山寺に改名 したそうです。
このセクションに、笠置寺からの出展があり、その関連がわかりました。
大和文華館蔵の「笠置曼荼羅」 (重文)が展示されていました。この曼荼羅には 十三重塔 が描かれています。 この塔は貞慶が建立 して仏舎利を安置したそうです。

<第5章 行基と戒律復興>

上記の もう一つの「地蔵菩薩坐像」とは、この右側の像 です。平安時代(9~10世紀)の作。木造・古色で像高41.3cm の大きさです。木津川市の西教寺蔵。
左側の像は「十一面観音坐像」 (重文)。鎌倉時代(13世紀)の作で、木造・漆箔。PRチラシでは、地蔵菩薩坐像より小さく見えますが、実物の像高は74.0cmとこちらの方が大きいのです。観音菩薩は普段立像を見慣れていますので、坐像というのは珍しいと感じました。腰部がきゅっと絞り込まれて安定感があるとともに、その容貌から端正な印象を受けました。木津川市の現光寺蔵。
図録によれば、「観音は『華厳経』入法界品において、同尊の住処である補陀洛山に坐ると説かれ、絵画にもその情景を描いたものがある」 とのこと。

「釈迦如来立像(清凉寺式)」 を二軀見ました。仏像本体は清凉寺式という点で概観は同じですが、仔細に見ると、微妙に異なる部分があります。光背の形式はかなり違いがありました。宇治田原町の厳松院蔵(A)と木津川市の現光寺蔵(B)です。共に木造・古色で江戸時代の作ですが(A)は17世紀、像高51.6cm、(B)は17~18世紀、像高35.9cm、と少し制作時期と大きさに差異があります。見た目での大きな差異は、(A)が光背の頂部から釈迦如来上部に天蓋を掲げた形式を取っていることでした。一軀の仏像に天蓋を設けているものを拝見した記憶がありません。これも印象に残りました。

「文珠菩薩騎獅像」 (重文)
鎌倉時代(14世紀)の作で、木造、彩色・金泥塗・載金。木津川市の大智寺蔵。大智寺の前身が橋柱寺で、この寺は行基(668~749)が木津川に架けた泉大橋に関係します。泉大橋は正応元年(1288)の大雨と大風で落ちたそうです。その時に残った行基建立時の一本の柱を祀ったと言います。この橋柱を本尊の御衣木(ミソギ)にして橋柱寺が供養されたと言います。 『橋柱寺縁起』 が残されています。この像がその本尊にあたると推測されているそうです。なお、獅子座は後補とのこと。
​『橋柱寺縁起』 ​​ もまた、木津川市の大智寺の所蔵です。

図録の裏表紙
裏表紙から絵図を切り出しますと、

      これは 『橋柱寺縁起』 三巻のうちの 中巻第三段の場面 だそうです。
      「良弁、笠置寺で千手法を行い、泉河の流れを開く」 (図録付記より)
図録の本文には、上巻第二段、中巻第六段、下巻第六段が収録されているだけです。鑑賞の折にも見た記憶がありませんでしたので、付記を見つけるのにちょっと時間がかかりました。
良弁は、奈良時代の僧。日本華厳宗の第二祖で、東大寺建立に尽力し初代別当となった人です。
泉河とは木津川のことです。
『橋柱寺縁起』の上巻と中巻には行基伝が描かれ、下巻で橋柱寺の由緒が語られるという内容 になっているとか。

<第6章 禅の教えと一休禅師>
このセクションは、京田辺市の 酬恩庵蔵 の6件が展示されていました。 一休寺という名 の方がよく知られているかもしれません。
「一休宗純像 自賛」 (重文)
一休禅師の頂相 としては良く知られている掛幅だと思います。室町時代(15世紀)の作。
絹本着色。

印象に残るのは、 原在明筆「酬恩庵庭園真景図巻」 です。江戸時代、文化2年(1805)の作。一休禅師廟南側の前庭と方丈を取り巻く庭園が写真のようにリアルに精緻に描き出されていました。

<第7章 近世の南山城と奈良>

この特別展でこの 「袋中上人坐像」 と身近な探訪とが結びつきました。京都の三条大橋の近くにある 壇王法林寺を創建 したのがこの袋中良定(1552~1639)だったのです。壇王法林寺はその傍をよく通り過ぎますし、お寺の境内を探訪したこともありますが、創健者を覚えていませんでした。再認識です。
波乱万丈というかパイオニア精神の旺盛な 近世浄土宗の傑僧 だったようです。 建立した寺院は20を超える とか。晩年に奈良に移住、善光寺(のちの念仏寺)を開いて、浄瑠璃寺の一切経の修復に従事。73歳のとき現在の恭仁神社の傍らに三光庵を建てて13年間住まいし、京田辺市の西方寺に移り88歳で没したと言います。 晩年に南山城との縁が深まった上人 です。

この最後のセクションは7件の展示でした。他に興味深かったのは次の3件です。
「阿弥陀六地蔵十羅刹女像」 という掛幅。鎌倉時代、徳治2年(1307)作。ある行者が夢中で感得した情景を絵に描いたものと言います。六地蔵が出てくるところが興味深い。羅刹とは「インドの神話・伝説に現れる鬼神の一種で、凶暴な祭祀破壊者・食人鬼とされることが多い」(『岩波仏教辞典第二版』)おもしろい組み合わせです。京都市の西寿寺蔵。

「大仏殿虹梁木曳図」 は、江戸時代(18世紀)の明誉古礀筆。巨大な虹梁がどのように運搬されていくかが描かれています。まさに人海戦術です。奈良・東大寺蔵。

「木津船中奉納絵馬」 は江戸時代、文政11年(1828)の絵馬そのものです。図はほぼわかりますが、復元図も掲示されていて、江戸時代も木津川が運搬径路の幹線になっていたことがよくわかります。木津川市の御霊神社蔵。

私にとり印象的なものを抽出して、図録等を参照し思い出しながらまとめてみました。
特別展の印象等のご紹介を終わります。

つづく

参照資料
*「聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-」 展示品リスト
* 図録『聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-』  奈良国立博物館 2023
1)『仏尊の事典』 エソテリカ事典シリーズ①  関根俊一編  学研 p176
2)『比べてもっとよくわかる 仏像』  熊田由美子著  朝日新聞出版   p173

補遺
十二神将 ​  :「新薬師寺」
釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま ​:「京都トリビア X Trivia in Kyoto」
木津川 ​  :ウィキペディア
第37番浄瑠璃寺 ​ 真言律宗 :「西国四十九薬師霊場」
海住山寺 ​ ホームページ
酬恩庵 一休寺 ​ ホームページ
鹿鷺山 笠置寺 ​ ホームページ
橋柱山 大智寺 ​ ホームページ
行基 ​   :ウィキペディア
良弁 ​   :「コトバンク」
袋中 ​   :ウィキペディア
愛染明王坐像 ​   収蔵品データベース :「奈良国立博物館」

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2023.09.16 09:25:06 コメント(4) | コメントを書く


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