泡雪の日記

泡雪の日記

今回芥川作品に触れる以前の作品認識。


国語の教科書で、紹介されていた「蜘蛛の糸」「河童」「羅生門」。
触れたのが、中学の頃だろうか?

芥川龍之介を私から遠ざけていた理由。
明晰すぎて、凡人の私には、清すぎた。
私は、子供の頃から、聡明と評価されたが、天才や頭脳明晰と何処が違うかよく知っている。
私には、凡人の持つ、毒を持っている。
悪人的な要素の自覚がある。
聖人君主や英雄を好まない。
その毒が人間を守る唯一の物とさえ思って居た。
清さに危うさを感じていた。
そして、芥川龍之介は若くして、自害した。

蜘蛛の糸を読んで、蜘蛛を大切にするようになった人は多いと思う。
地獄を眺めたった一つの善行さえも思い出す「助けようとする仏の心と」
切り離される罪人の性根。
「利己的な無慈悲な心。」
大変教訓的だが、

その話を読んだ時、私の中に思った事は、地獄に落ちても、蜘蛛の糸でた助かりたいばかりに、大きな蜘蛛をみても、殺す事が出来なくなったのと、

極悪人は、蜘蛛1つ助けただけの、善行が目立つが、
偽善者は多くの善を行って、よく思われたい欲1つで裁かれるのか?

善悪が何だか判らない子供心で、そんな不公平を考えていた。

河童に至っては、河童は生まれる前に、生まれたいかと子供に訪ねられて、
辞退すると、パ~ンと消えて生まれる事を避けられる夢のようなお話。

望んで生まれてくれば、「親にどうして産んだんだ。」と理由を探す必要も無く、ましてや、生まれてきて申し訳ございませんと自分を責める気持ちも無い。
全て自分が選んでいる自覚で、生きる事を助けてくれる全ての人に感謝できると思う。
人を押しのけて生きる事にも、生きる目的とれっきとした理由で罪悪感も持たないと思う。生きた上で、必要以上も望まないかもしれない。
国語の本では、河童の誕生の部分が紹介されていて、前文載って居ない。

悲しいかな、人間は河童ではない。
そこら辺のところはよくおぼえて居ない人が殆ど。
だから、理由を探す。

「羅生門」に至っては、題名が有名であったから、題名だけ知っていたのか、子供の頃読んだ本の「杜思春」と内容混乱していた。

「杜思春」はどこかの門の前で眠っていたら、神様鬼だかに出遭って、どんな目に会っても、声を出さなかったら、相当な神通力をくれると言う話で、大抵の事に我慢できたが、お母さんが責められるもを見て、思わず「お母さん」と声を出してしまった事で、ゲームオーバーになる話。
で、もしそれでも声を出す事が無かったら、人間として鬼にも劣るとして食べられてしまう話。
もう1つの題名のわからないお話。
やはり、眠っていると、不思議な妖怪の力で、御大人に成るが、お金を使い果たして、再び野に放り出される。
2度目か3度目か、もう一度御大人にしてくれると言う、妖怪の申し出を断る話。
人間のお金の力に擦り寄る人間の厭らしさをこれ以上見たくないから乞食で居る方が未だまし。
とお金持ちになる事を断る話。
是は、「アQ正伝」かもしれない。

子供の頃乱読した頭の中の教訓物の分離に「羅生門」題名だけがが混在していた。

今回「羅生門」の話を始めて読んだ。
「羅生門」はそれらの話より奥の深いものだった。
「人はパン一枚の為に盗みを働く」と言う「キリストが動機」しか触れ居ない部分に行き着く先をキチンと書いている。

より現実的おなかの餓えばかりではなく、「浅ましい心」になり果てる心の変化まで表現されている。


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