アントニオ・ガウディ



1852年6月25日、カタルーニャ南部の町レウスで生まれる
・数時間しか生きられないかも知れない・・・と言われ、急いで洗礼を受けた
・リウマチで関節の痛みに耐えながらも自然を観察することが好きで
 後にこれらが建築物のモチーフとして利用されることとなる
・学校で幾何学を学ぶようになると、今まで見てきた自然の造形が
 すべて幾何学で説明できることを知る

1868年 16歳でバルセロナ建築学校へ入学
・自分のスタイルにこだわる、反抗的な生徒だった
・学費を稼ぐために建築家の助手として働き、建築家たちとの交流から
 影響を受けたり、また「シウダデーラ公園」の建築にも参加

1878年 建築家の資格を得る
・労働組合からの依頼で”労働者だけの工場”設計に取りかかり
 「カテナリー(懸垂線)アーチ」を使った新しい技術を実用化する
(カテナリーの説明は難しくてできません、ゴメンナサイ)

新興ブルジョアの一人”エウセビオ・グエル”と出会い
ガウディは莫大な資金源に支えられ
バルセロナの数々の建物の建築に携わることとなる。

ブルジョア達はかつて奴隷貿易で財を成した過去を塗りかえるため
バルセロナの街の顔となるような豪華な建物をつくり
名声をも得ようとしていた。

1883年 グエル別邸の増改築
 同じ頃 サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の2代目の建築家となる

1900年 分譲住宅地として「グエル公園」の着工

1906年 ペトロ・ミラから集合住宅「カサ・ミラ」の依頼を受ける

社会情勢の混乱(労働者の暴動)、父や死などのショックにより
体調を崩し、脳貧血、精神衰弱などの病気を患うようになる。
自分の静養中に姪をも亡くし、孤独の身となったガウディは
この頃以降は教会関係の仕事に没頭するようになる。

1918年 友人であり、最大のパトロンでもあるグエルが死亡

1926年6月7日 路面電車にひかれ、3日後に死亡
・晩年は聖家族教会の近くに自宅を移し、一日中建築現場にいたという


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