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神とひとつになるにはあらゆる肉体の感覚から自由にならなくてはならないと、インドのマスターたちは教えています。マインドの動き、と彼らが言うのは感情や心の表面的な動き、潜在意識の浅い部分や思考のことを指していて瞑想の基本はまずマインドを静めることにあります。マインドを静める、と言われて、はい、とできればとてもいいのですがまず私たちは、どれが何だかわからない、という問題があるんですね。ヒプノをやっていて変性意識に入ることができても感じたことを感じたと受け取りにくい人が結構います。これはどういうことかというと魂が肉体に宿ったときや肉体としてお母さんのお腹から出てきた時この3次元の肉体と地球って星はとても重たくて波動も荒くてすごく大変!とショックを受けます。それで、こんな不快な状態は耐えられないからなるべく感じないように、と感じる機能にブロックをつけます。人間は生まれてから成長していく過程で対処しきれないことに直面するとこうやってブロックを作ってなんとか自分が壊れないよう生きていけるようにして進んでいきますがおそらく一番最初につけるとしたらこれです。それで大人になって今度は豊かな人生とか幸せとか楽しいとかときめきとか、いろんなことを感じようとするのですがなんか、感じないな、とか窮屈で閉じ込められてるな、とかいうふうになって苦しくなってきます。インナーチャイルド、ととてもかわいい名前でよばれているのは実はこういったブロックによる弊害のことです。こういったブロックの処し方にはみなさん癖があっていくつかの防衛パターンのどれかを採用してます。最初に感じないブロックをつけた人は人生を生きる時、そんなに激しく揺れないのでわりと穏やかに人生を前向きに処しているように傍からは見えるかもしれませんがそれだけに、この世をすごく好きでもないしどっちかというと義務的にがんばってちゃんとしているんですがそれにも疲れてしまったりします。私のパターンは逆で、生まれながらにこの世を感じる気満々で感情が激しく感受性の強いと言われるタイプでそれだけに感覚世界を真に受けやすくどんどん傷を作り、そのトラウマからくる癖で人生をネガティブに捉え、悲劇にはまってしまった、というタイプです。最初は意気揚々だったので、躓くにつれこんなはずじゃなかったのに・・・!と悲嘆にくれる感じでわかりやすいのですがはずみで死んじゃうかもしれない心配なタイプでした。いずれにしても人間は多かれ少なかれトラウマ、ブロック、トラウマ、ブロック、戦う、逃げる、戦う、逃げる、と肉体の本能に支配されつつ生き延びていきます。この世で生きてて調子がいい人は、もっと強く、もっと成功、もっとたくさん、と今度は欲が出てくるのですがそれも自己防衛本能の延長上にあります。たくさん得るほうが安心(快感)と思うからです。でもその安心(快感)というのは欠乏と比較した安心(快感)なので安心(快感)を得るには欠乏が必要となりこれを獲得するには常に比較や奪い合いという世界に生きることが必須です。二極性の世界ですね。聖者やマスターは真の平安を得るには二元性を越える(目覚める)ことだと教えています。二元性を越えて一元であるものを彼らは神と呼びます。私も神をそれ、と思っています。最初に戻ると、神とひとつになることとはそういうことです。この一元なるものをスピリチュアルではワンネス、とか宇宙、とか呼んでいますが私が好きな「この宇宙すらも神は創らなかった」という言葉の意味は「この次元の宇宙は二元性の世界だから」です。ワンネスと宇宙を混同するとまるで二元性のごちゃ混ぜの延長上(宇宙の頂点)に神があるような勘違いが起こります。あらゆるものの中に確かに神(一元なるもの)は偏在しますがこの大いなる自然ですら二元をあらわしておりそれをマスターは「幻想」と教えます。幻想とは、真実でないもの、ということです。幻想から目覚めるにはこの世の見方や捉え方、自分のあり方を見直し改める必要があります。私のセッションではそういうことをお伝えし実際にそうなるためのワークを行っていきます。すごく壮大で深遠だけど、結局幸せへの近道になるはずです。
2010.04.16
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さわやかです。夏の匂いがしてきました。報得川の河口ではカヌーの群れが川を登っています。今日は半袖Tシャツと短パン、裸足でもやや暑いくらい。昨日は宜野湾の花火大会で去年に引き続き自宅から、だんなさんの治療院、那覇古島を経由して宜野湾の沖縄コンベンションセンターまで(わ~地図で見ると遠いな~)自転車で行ってきました。20キロちょっとです。ことしはコシノジュンコさんが演出なさったそうなんですが(去年はカーリーでした)すばらしかった!本当に。今まで見たことがない美しい演出で感動しました。花火は多摩川育ちの私としては子供の頃から慣れ親しんだイベント。だんなさんが花火好き(イベント好き)なので近年は東京にいるときから群馬や茨城まで見に行ったりしていましたが昨日のような洗練された、美しい音楽のような花火は初めてでした。本当に花火って、大玉を何発使うか、とかの問題じゃないんですよね~。昨日の花火はたとえて言うなら目に見えない物語を宙に描いたような、世界でした。胸がいっぱいになるような美しさ、だったです。イタリアにいるだんなさんのおとうとから催促されてやっとスカイプが開通しました。あまりにあっけなくイタリアの空と繋がってちょっとすごいな~と思いました。おとうともACIMの課題を始めていて「課題があれば、どこにいても関係ないね」なんて言ってました。今は時間が過ぎるのがものすごく早い、と話し合って私が「赦してるからじゃない?」というとおとうとは「じゃあそっちは2倍じゃない?2人だもん、4倍かな」なんてね。確かに、2人で取り組むと、気づきは4倍以上になるかもしれません。なかなか鋭いね、冴えてるね、おとうと。ヒプノセラピー(催眠療法)でとても大きく結果が変わってくる大事な点があります。それは、現時点で「赦す決意が出来るかどうか」なんです。よく、セラピーやスピリチュアルの世界では「本人の準備が出来ているかどうか」というワードを使います。でもそれってすごく曖昧でいろんな捉え方ができる。結果が芳しくない時のいいわけみたいにも聞こえる。この世で問題を作り出している原因はゆるせない意識です。過去の体験、ご両親や祖先から引き継いだ思い、ときには幾世にも遡る人生の中でそれは起こる。それをそのまま、時には無意識にそれを持ち続けるとき人は人生の中に問題、苦しみ、痛み、病を作り出します。準備は、それを赦すと決めるかどうかです。自分一人で出来なくてもどうやっていいかわからなくてもいいんです。ただ、決意さえ出来ればあとはそのようになります。ヒプノセラピーでは私たちの表面意識で明確に決意が出来ている部分を潜在意識下でクリアにしていくことがとても容易です。それを理性だけでがんばろうとすると脳内で葛藤が起こりなかなか手放せない、というジレンマが起こります。以前、ヒプノセラピーだけをしていたときは私はセッション中に起こることに絶対に逆らわないという姿勢を固守していました。(ヒプノセラピストはそのように教わるはずです。それはそれで正しいのです。)ですが、今は皆さんの後押しを受け止めながら(こうしてくれればもっと進めるよ、とみなさんが教えてくれる)時には軽くプッシュしたり決意を促すことをしています。その時、本当に、奇跡が起きます。私から赦すというキーワードを言わなくても後から「あれからゆるせてなかった○○がゆるせるようになって(状況、状態が)変わりました」とおっしゃる方が多いのです。その時本当に人はあっけなく、そして別世界の人のように何もかも変わります。love&peace!
2010.04.11
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少し前にヨガナンダを知ってからいろいろ調べていくと現在のスピリチュアル、と呼ばれている世界はヨガナンダがインドからアメリカへ伝えたのがおおもとなんだとわかった。彼の教え(インド哲学)を学ぶとあらゆることがものすごい勢いで統合されていく。欲望をくすぐるような遠回しも、口当たりよく薄めた言葉もいらない、と感じる。世間で言われているスピリチュアルのいろいろな概念は人々が何とかしてそこに行き着くことへの意欲をそがれないよう幼稚園児を悟りに導くための道標だったみたいだ、と思う。あるヨギの自叙伝人間はあらゆる恐れから自由にならなければ平安へは至らない。私の場合は、具体的な自分の肉体の死について思うとどうしてもうまくいいイメージができなかった。私は体外離脱なんかにもまったく興味がないしアセンションで肉体を持ったままどうこう、というのも否定しないけれど積極的にそれを目指すという気持ちはなかった。でもヨガナンダの実話を読んだとき「これだ☆☆☆」と思った。ヨガナンダは瞑想で自らの肉体から離れていかれたということだ。本当に、それは死ですらない、と私は感じた。とても具体的でリアルだ。私がそのまねを出来るかどうかは別としてその可能性を目の当たりにできたことで私の中の闇はまたひとつ消滅した。そのあり方のみで闇を消滅させる力のある者聖者とはそういう存在だと思う。
2010.04.09
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スピリチュアルのことを指して目に見えない世界は…なんて以前は説明したりしていましたが以前に日記に書きましたがアミアミオーラらしきものとプラーナらしきものはそこに存在すべく頻繁に現れるようになりエネルギーは見えない世界とは言えなくなってきました。黄色のアミアミオーラは瞑想が終わると必ず見え昨日はレイキしつつだんなさんをマッサージして終わると世界は金色の網目に包まれていました。あまりはっきりと見えるのでだんなさんに言うとそれ黄疸の症状だよ、と言われて本気にしました。目の異常かと思うくらいはっきり見えるのでだいぶ本気にしていたところ少し後に、ウソだよ、と言われました。プラーナは以前は晴れの日に見えていたのが先日はどんより曇った室内の瞑想中の私の周囲におびただしくあるのを見ました。半眼になってプラーナと交信してみましたがエネルギーのやりとりまでは確認できませんでした。アミアミオーラとプラーナの絵はmiminetあきこさんが以前から公開してくださっているのでこれかぁとすぐに思いましたが(今日の日記にもアミアミオーラのことがあって、タイムリー)本当に私が見ているのこれかなと思い探してみると、他にあまり記事がないものです。miminetあきこさんのブログをみつけたのは確か4、5年ちょっと前に丹光(瞑想が進むと見える紫の丸い光みたいなもの)が爆発的に出て、それが数日寝ても覚めても止まらなくなりなんだろうと思って調べたときに絵が載っていてビンゴ、だったため助かったという経緯です。この丹光が見えたときに実は天使らしき存在のコンタクトもあったのですが疑い深い私はほとんど誰にも言わずに自分だけの日記に詳細に残しておきました。そのコンタクトはなんと中野から中央線で銀座に向かう途中でした。後から調べると、電車の音はヘミシンクの音と似ている周波数があり変性意識になりやすいと、確かこれもあきこさんがおっしゃっていたと思います。で、そういう現象は面白いんだけどそれがどういったことでどういう仕組みで実際それが見えると見えないでは何がどう違うのか、世界の成り立ちとどう関わっているのか、ということが自分の中で(人が言ってることではなくて)わかるまではあまり言わないようにと思ってきました。最近それがどういうことなのかだいぶわかってきたので少しずつお伝えしていこうかなと思っています。
2010.04.07
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瞑想とヘミシンクと結婚記念日についての日記を書き終えたら消えてしまいました。時期じゃなかったということで(時期じゃない話題が多くてなかなか書けません)今日はレイキアチューメントについてまっちんさんがブログに公開してくださった日記をご紹介します。まっちんの日々なブログ~レイキ(ファースト)伝授まっちんさんありがとうございます。最後に書いてくださっている、考えるのを妨げるような感覚、というのはとても興味深いです。思考のスイッチが切られてリラックスモードに入られてるということだと思います。レイキは本当に不思議に理にかなったことだらけです。レイキヒーリングのセッションは、他の方はどうやっていらっしゃるのかわかりませんが一般的には手を当てて気を流すというイメージかもしれません。それ自体が一般的なのかどうかよくわかりませんが^^;私が皆さんと対面しながらだんだんと確立されてきたのはこんな感じです。まずオーラの浄化、オーラの表面をなでるという感じです。これは基本です。それからチャクラの調整、これもレイキ本には基本的に書かれています。ここでチャクラの状態を手が感じます。大きく7つのチャクラを確認するのですがそれぞれのチャクラには意味や傾向があります。それでバランスが取れていないところや強さ、弱さ、微細な違いを手が察知します。またからだから数十センチのところにはエーテル体にその方の情報が詰まっています。チャクラとエーテルが主張していることをまず手が感じます。それで今度は私が「これはなに?どうしてだろう?」と疑問をなげかけます。するとそのレスポンスが私の中にふっと浮かびます。そのレスポンスというのはアカシックから返ってくるものだそうです。それで私は「今、こういうことみたい、ここがブロックみたい」というように言葉でお伝えします。すると「ああ、それか!」という風に気づかれる。ご自身の内面で起こっていることを意識化できるわけです。気づいた瞬間に手放すことができることもあるしそれを手放すためにもう一段階、思い込みに気づく必要がある場合もあります。そのためのアイディアが私の中に明かりがともるみたいに浮かびます。それをお伝えすることでその方にも明かりがぽんとともります。だいたいそういう時みなさんほっとするというか安心なさったり、目の前が明るくなるような感じになるはずです。そしてエネルギーを調べると滞りが取れ時にはつき物がとれるようになったりとても元気にすっきりとしたりしています。だから私のレイキヒーリングは手で気を通す、というよりはこの一連の癒しを私と相手の方のハイヤーセルフのレベルでできるよう高次元の存在に導いてもらいながらエーテルの手術をする感じです。気づきとゆるし(手放し)でエネルギーは変わってしまうのです。すると感じ方が変わる。かだらが変わる。態度が変わる。表情も変わる。行動が変わる。世界は変わるのです。おもしろいでしょ。私もすごくおもしろいです。時には深刻なお気持ちで受けにいらっしゃっる方もおいでになるのですごくおもしろいなんて言っていられないこともありますがでも、こうやって人間はものすごい可能性を持っているということが本当にすごいと思うのです。一人の人が保持している情報、エネルギーに取り組み変わることでどれだけ世界が変わるのか。すべての人が世界を救う力を持っているということなのです。
2010.04.04
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この地球上で多くの人が、外側を変えたり外側に何かを求めることをやめて内なるガイドとともに平安と導きを生きるという冒険を始めたら本当にこの世は楽園のようにおもしろくなるだろうと思う。今多くの人が楽しんでいる冒険はどれもだいたい「サバイバル」というサブタイトルなんだけどそれが「創造」にかわる。正直先の見える冒険(サバイバルのほう)なんて本当に退屈でばかげているんだけどそういう麻薬がなくなると人生がクールじゃなくなると懸念している人が多いんじゃないか。特に男性。私から見ると、内なる女性性を中心に持つ男性はとても少ない。でも内なる女性性を持つ(大切にしている)男性はとてもとても魅力的だ。アボリジニが狩りをするとき(狩り、好きでしょ、男性)内なるガイド、神と交信して獲物をいただくんだそうです。だからくいっぱぐれはないそうです。すごくクールだと私は思う。レイキヒーラーのあきこさんが書いていらしたけど地上の多くがまだ狩りで暮らしていた頃は人間同士は分かち合いの世界だったらしい。自分の食べるための分が捕れたらあとは分け合うんですって。生活の(食べる)ための労働時間は一日2時間くらいであとは芸術(創造)と祈りと瞑想、だったそうだ。縦社会ができて身分が分かれたり多くを蓄える者が出てきたのは農耕をするようになってからだそう。そして食べるためにものすごく時間を使うようになった。ははぁ~!!!と目からうろこでした。今は農業ブームでロハスなんてことになってて狩りなんて野蛮ってイメージですが確かに殺生ではありますが天から授かった命で命を生かしていただくのはシンプルかもしれません。植物にしても野生の熟したものをいただいていたんでしょうね。私は中学校の時、インド帰りの先生が歴史を教えてくれて世界の四大文明は河(水)があるところに生まれ農耕によって生活が安定して初めて「文化」が栄えたと、ものすごく力説していて中学3年間でこの話しか覚えていませんでしたがこの説も覆るときがきてしまったか、と思いました。生活の安定あってこその精神文化、ではなくそもそも私たちは源と繋がった存在そのものが神の表現だったと言えるかもしれません。
2010.04.02
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「・・・人生はゲームなんだ・・・」と、いう、お言葉が降りてきました。ちょっと頭を離れない他人の言動があったのですがそれをどうしようかな、どうやって手放そうかな、と思っていた時です。その瞬間に思いは頭を離れていきました。それは言葉ではなく、パワーでした。
2010.04.01
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ここ数日、催眠療法についての共通するご質問をいただくので忘れないうちに少し書いておこうと思う。お問い合わせで多いのは、こういう症状が治りますか?(効きますか?)家族に受けさせたいのですが(こういった症状は)治りますか?というような内容です。催眠療法は医療行為ではないのでこういう症状が治ると言ってしまうと違法になります。でも、催眠の仕組みをご理解いただけばだったら自分のこういう問題に何かしらの働きがありそう、とか原因に関係がありそう、という風にわかっていただけるのではないかと思うのです。だから私は仕組み、ということをお話させていただきたいのです。仕組みを知るということは症状を消す、ということより時には一生の宝になると思うからです。癒しには仕組みがあります。その仕組みは宇宙とか神とか真理と呼ばれるものの理なのです。ですから例外はなく働きます。ですがもちろんいつでもどんな場合でも私とお客さまとに100%働くかどうか絶対とは言えません。私が行うことは原理に対して限りなく忠実にすべきことをするだけです。その結果起こることは正直言って人知を超える(少なくとも理性を超える)ことです。ですから毎回そこには奇跡があります。奇跡というと神頼み的に聞こえるかもしれませんがこれは仕組みに忠実な奇跡なのです。奇跡というのは決して突発的なものではなく真理に基づいて起こるべくして起こることです。ご家族が心配して療法を探していらっしゃることも多いかと思います。ですが催眠は基本的にご本人の意思が最も重要です。催眠が効くかどうかご心配の方が多いと思いますが催眠はとても強力です。潜在意識に踏み入れば変わりたくなくても変わります。ある意味後戻りはできません。それは操られるようにして変わるという意味では断じてなくご本人の潜在意識が解放されることによる変化なのです。時々見られることですが私はこのまま変わりたくありません、でもこの部分だけ取ってもらいたいのです、というようなご希望があります。でもそれは無理です。意識は好むと好まざるとにかかわらず、今の状態で調和しています。ひとつを変えれば全体が変わります。ですから、ご家族としてはご本人の一部だけ取ったりつけたり治したりしてくれればと望まれても大きな目でみるとご本人の人生全体に関わってくることですのでご本人が率先して変化を許可してくださる必要があります。きっかけはご家族でも最終的にはご本人の意思が大切なのです。またご本人が未成年の場合は催眠の影響が強すぎることがあります。子供はある意味常に催眠状態のようなもので潜在意識にどんどんインプットされている時期です。ですから本当に少し心を開いてもらっての対話(カウンセリング)で充分同じ意味があります。確かに催眠による暗示を与える(あなたは鳥にな~る的な)やり方もあるのですがこれは麻酔にも似ています。根本的な原因を見過ごしてしまうことに繋がることもあるかと思いますので人間形成の大切な時期にはなおのこと心の中の原因に取り組むことのほうが有益なのではと考えます。催眠を受けるかどうかのカウンセリングはするのですか?というご質問もありました。それから、催眠にかからなかったらお金を返してくれますか?というご質問もたまにあります。私の答えはどちらもノーです。催眠を受けることを決めるのはご本人です。受けると決めた方に対して必要なことを行うのが私の仕事です。催眠状態にはどなたでも入ることができます。本当に、お風呂で鼻歌歌っているのと変わらないのです。ですがセッションルームはご自宅のお風呂ではないので少々準備が必要だというわけです。そのための準備は充分にさせていただきます。それでもどうしても催眠に入れないという体験を選ばれるのであればそれはご本人次第なのです。また、入れなかったらどうしてくれるの、という考えをお持ちの方は往々にして白か黒か、という判断をしがちです。けれど、意識の世界は白黒ではないしセラピーの目的はその白黒の世界からの目覚めにあります。セッションをご一緒して何も変わらないという方はいません。ですがその変化をどうジャッジメントするか受け入れるか入れないかまた生かせるか、死なせるか、はご本人次第だと私は考えます。この部分の線引きは私にとってもある意味命をかけた取り組みです。私は自分にとってだけ有利な、或いは甘い線引きをするつもりはさらさらありません。かといってお客さまにだけ有利で甘い線引きもしません。これは私を生かしてくれている、癒し手として働かせてくれている大いなるものと私自身との約束ごとです。その『結果』は、ご自身への導きと私という存在をご信頼しここRuachへ来て共にセッションを創ってくださった方と私との間だけで成立する神聖な体験だと私は信じています。奇跡体験のベテランである私のほうが少しだけリードしてこの体験の受け取り方を示唆させていただきたいのです。
2010.03.31
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なんとなく空虚な感覚があるのはひとつのエネルギー的なイベントが一区切りしたからなのかなと感じています。この春分くらいが分かれ道でいつから続いていたのかと思い起こすと去年の皆既日食からだったように思う。まる8ヶ月はなんだかひとつの大きなうねりのなかにあった。次のイベントのテーマはなんだろうなぁと今はからっぽな感じの中にある。私は特に月に願いをかけなかった。いつもありがとう!とだけ声をかけておいた。
2010.03.31
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昨日のお休みはだんなさんと自転車で半日の旅でした。まずはあしびなーで沖縄すばを食べました。トッピングのお肉があぶってあっておいしかったです。二人ともとんこつだしのふと麺で、だんなさんは三枚肉、私はソーキをいただきましたがだんなさんは今までの三枚肉の中で一番おいしかったそうです。お店はこちら⇒楽風OKINAWAあしびなーはだんだんとにぎわってきているようで歩いてすぐのところにこんな場所があるというのも楽しい気分です。以前何度か閑散としているところに出くわしたので心の中であしびなーをとっても応援しています^^あしびなーのクロックスのお店にドーナッツプラントが入っていたのでちょっと嬉しかったです。自由が丘でたまにドーナツコーヒーをいただいておいしかったので好きでした。それから、ホウオウボクとマニラヤシの種を拾いました。だんなさんが育てようと張り切っています。それから、潮崎のサンエーちょっと用事を済ませてサンエー潮崎シティの中にあるカフェでお茶しました。東京でいうとスタバみたいな感じのカフェで、北谷と那覇と潮崎にしかありません。ちなみに糸満市にはスタバはありません。那覇の人に軽く笑われたりします。去年の今頃は糸満に住んでいたので一人でよくお買い物に来ていましたが沖縄へ来て夫婦とも仕事はいったん白紙になり食べていけるのかどうかもわからない状態でとてもカフェでお茶するなんていう気分になれませんでした。それで昨日はだんなさんと初めてそこでお茶することができてものすごーく幸せだなぁと感じました。振り返ればスーパーの一角なんだけど。潮崎の海岸と住宅地を一周しそれから今度はだんなさんがこっち、というので行ってみるとロンドン杜公園、という糸満市真栄里にある山です。ほとんど全貌が見えないのでどきどきしました。自転車を置いて徒歩で階段をどんどん上るとなんだか人のうちみたいなところに出て、あれ?となりましたがそこは介護施設でした。さらに上がっていくとりーっぱな公園が。しかもひとっこひとりいません。空気が異常にに澄み切っていて高原だか桃源郷だかに来ちゃった気分です。奥には展望台があって上ると最高でした。さらに森の向こうから人の声がします。行ってみると野球のできる立派な広場があり観光地のようにきれいに整備されていました。さらに奥は森です。こんなにうっそうとしたガジュマルの森は初めてかもしれません。ジャングルです。ロンドンガマというものすごい言い伝えのあるガマがあります。糸満市の由来は英語のエントマンから来ているという説を初めて知りました。あんまりすごいお話なので載せておきます。興味のある方はこちらへ⇒週間レキオそれから公園よりもっとすごかったのは公園を超えるといきなり普通に集落があったことです。私たちはどんどん森の奥へ向かっていたつもりだったのでその奥は?!と覗いてみたらとても古い、これぞ沖縄、という集落だったんですね。夕暮れ時の真栄里は本当にタイムスリップ;トリップで私たちの興奮は最高潮でした^^あれは味わった人としか分かち合えない感覚だと思うのですがああいった場所のエネルギーってたまらないものです。樹の形や伸び方で感じるのですがちょっと普通じゃないんですよね。あれは他を寄せ付けない自然のちから。だからこそ古いものがそのまま残されているんだと思うんです。私は以前東北に行ったときにとても強くその感覚を感じました。さて、今度は西崎のうまんちゅ市場へ滑り込みで到着。野菜を少しだけ買い(自転車なのでたくさんは買えませんでした)最後は豊崎のグランビューガーデンホテルに。というのは、いただいたお食事券があったからでそれでニヘデビールをいただきました。グランビューガーデンホテルは先日母と妹が来たときに宿泊しました。二人とも気に入っていたし、地元なのでこれも心の中で応援しています。レストランはプールに面した席でライトアップされていい感じでした。美々ビーチのホテルのようにゴージャスではありませんが好感が持てます。おつまみもおいしくいただき沖縄ありがとう、という一日でした。ものすごく中身の濃い、ちょー地元的な休日でした。
2010.03.30
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たくさんの人が昨夜から先ごろまで、或いは今夜までに月に願いを伝えたことでしょう。望むことがかなうのはとても嬉しいこと。でもかなわなかったとき人はどんな風にそのことを受け入れるのでしょう。幸運の神さまに願いが届かなかったから願う気持ちが足りなかったから願い方が間違っていたからそもそも願うことが間違っていたから・・・?私は、本当に必要なこと本当に魂が望むことは願った瞬間にもうかなっていると思うのです。でも人はそのかなった結果をなかなか受け入れられません。自分の内面を知ると自分が本当は何を欲しているのか何を求めているのか何が本当に自分を満たしてくれるのかがわかってきます。顕在意識が望んでいることと潜在意識が望んでいることは往々にしてずれていたりさかさまだったりまったく想像を絶するほどのレベルで違っていることが多いのです。自分を本当に満たしてくれるものを求めてそれを得ない限りは人は本当に幸せにはなりません。変性意識でのワークをするとそのギャップに少しずつ気づきその溝を少しずつ埋めていくような導きが起こってきます。本能、衝動的な欲求のままに欲しいものを手に入れていっても幸せには近づいていかないばかりか刈り取らなければならない芳しくない種を蒔くことにもなります。私たちは目覚めない限りはコード化されたカルマのシナリオを無意識に突き進み消化する生き物です。そのシナリオにうんざりしたときが魂のおめでとうの時なんだと思います。幸せを願うなら幸せの正体をよく調べて熟知しましよう。でたらめに走り回って偶然たどり着くほど肉体の命は長持ちしないし生命の法則はそうはできていないものです。私は人間は幸せを目指してこそ進歩するものだと思っています。
2010.03.30
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今日の豊崎は思わず笑ってしまうほどのいいお天気です。少し前の黄砂ではこの目の前に見える丘やサンエーの看板までもがもやに隠されていました。まったく信じられない。…心の中でもよくこんなことが起こっていますね。例えば黄砂を知らなくてもしあれが霧だと思っていたらあんなに何日続けて霧が晴れないなんてちょっとおかしい、異常だな、怖いなと感じる。でも黄砂だと知れば、それは起こりうると納得がいく。黄砂による「もや」という現状は変わらなくてもそれによる恐怖心は軽くなる。でもいい加減、窓は開けられなくて窮屈だし知らずに開けてしまっていた間に部屋は随分汚れていてそこらじゅう触ると砂がついて不快です。大掃除が必要になる。でも原因がわかっているので方法もシンプルだし手間も最小限で済みます。汚れの原因が何なのかわからないと必要以上の化学薬品を使ってみたり大げさに考えて、やり始める前に疲れてしまったり。あきらめてしまうかもしれません。正体を知って適切に対処すればお部屋も快適になりこうやってお天気のいいすばらしい日にはまた心の底からそれを楽しむことができます。ありのままを受け入れることができます。
2010.03.28
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沖縄に来てから癒しという仕事に専念するようになりその分やはりとーっても中身の濃い日々を送っている。私自身の癒しが進んできたので何かに発散する必要がなくなって、専念できるようになったと思う。自分自身が癒される体験はもちろんセラピスト、ヒーラーにとって必須だが単に体験ではなく本当に中身が癒されて(霊的に回癒が進んで)いくと本当の意味でようやく正直になれるのだということを実感する。私はもともと正直者ではあった(嘘つきではなかった)はずだがいろんなことに気を遣って(気を奪われて)或いは気をまわして起こっていないことを心配して、と様々な理由でやはり言えないことやできないことがたーくさんあった。それはおそらくどんな人もそれぞれそういう部分を抱えているはず。そういう心配、おそれ、また罪悪感が癒されていくと率直に、正直になれていく。とてもシンプルで軽やかだけれどただシンプルで軽やかだけを目指しても本当にそうはなかなかなれないものだ。自分に本当に取り組むということはとてもリアルに自分の中身を変えていくことだ。いくら何かを身につけたり持ち物を増やしてもそうはならない。
2010.03.27
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今日は少し長めにゆっくりと瞑想をすることができました。最近はマスター・ヨガナンダにも導いてもらっています。最も高貴なる神がいつも私とともにあってくれるようとても深く望みました。どれくらい時間が経ったのか、目を開けるのがもったいない気もしましたがそーっと目を開けてみると視界がぼやけていて代わりにとってもくっきりと黄色い網目のオーラがはりめぐらされているのが見えました。網目は近くを見たり遠くを見たりすると細かくなったり大きくなったりしました。部屋中をぐるっと見回しましたがそこらじゅうに見えました。こんなにものすごくくっきりと見えたのは初めてです。第7層のオーラは金色の網目と言われたりしていて神との繋がりをあらわすと言う人もいます。瞑想で神との繋がりをとても祈ったのでそれが目に見えてあわられた、という感じでしょうか。次の瞑想が楽しみになりますね。
2010.03.25
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沖縄は俄然夏に近づく足音がします。うちのだんなさんは運転で日焼けした右腕の皮がむけました。と言っても海では泳げないですよ。沖縄は常夏だと思っていらっしゃる方も多いですが^^まだ最高気温が25度になる日もたまにある、というくらいでとても過ごしやすい季節です。先日セッションにいらしてくださったまっちんさんがご自身のブログに記事をアップしてくださったのでご紹介します。~まっちんの日々なブログ~最後のほうにとても興味深い記述がありました。クリスタルのくだりなんですがこのお話はセッションでは伺っていなかった部分でブログを読ませいただいて知ったのですが…私たちは心や体の未解決の傷にクリスタルを埋め込むと言われています。それによって塞いでおくのですが完治はしません。それで今度はそれを除去することが必要になります。クンダリーニレイキのクリスタリンレイキはその作業をしてくれるのですがまっちんさんのセッションでは特にクリスタリンレイキはやりませんでした。でもヒプノのなかで古傷が癒されブロックが解放されたときに「クリスタルがばらばらになり光に吸い上げられていく」というビジョンをご覧になっていたということでした。ご本人も「宇宙とつながった」感じがしたとおっしゃっていましたが私も同じように感じました。まっちんさん、ありがとうございました。
2010.03.23
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春分の日。今日からは夏至が近づいてきます。我が家のベランダからは日の出が拝めるのですが引越し当初は窓の一番右よりでした。今はまんなかあたり。夏至には左端になるんだな、たぶん。今日はなんぶトリムマラソン。朝からどっかーんと花火(?)もあがってました。豊崎から眺める豊見城市と糸満市はなぜだかものすごい霧に包まれています。こんなお天気は初めて。いつも澄んだ空気のおかげですぐ近くに見える山々が今日は真っ白い霧の中にうっすらと影を見せるだけ。でも雨はなく、今は日も射しています。不思議な景色です。昨日は夜からなんだか恒例の浄化があり風邪のような不快な症状や具合の悪いときに出やすい症状が次々と目白押し。吐き気、めまい、悪寒、喉の痛み、頭痛、その他…。でもそれらの症状がやってきては消えるのが繰り返されてしかも重くないんです。だから、風邪とは少し違うのがわかる。それで、眠りながら、なんだかずっと、作業している。マスターと話したりとか、してるんですよね。何度も目が覚めるたびに「あれ、今何の話だったんだけ」と思う。起きるたびに具合も悪い。だけど朝起きる時間になるとどうやら作業は完了していてもうかだらはどうってことないんです。で、寝ている間に気になったことを起きてからいろいろ調べたりします。結構大事なことも多いです。こういうのは覚醒における結構スタンダードなパターンかと思われます。寝てる間にコードを埋め込まれる、とか、そういうのですね。今やっぱりこの時期はきっと地球でまれにないほど光が注いでいるというのは本当なんだろうと思います。たくさんの人に必要なことが起こり幸せに結びつくことができますように願うとともに私もがんばります。
2010.03.21
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先日消えてしまった日記のテーマはこれでした。スピリチュアルの教えの中でももっとも大切なことのひとつ、無条件の愛。巷でも無条件の愛をおくるね、なんてフレーズをたまに目にします。だいぶ以前、まだ今ほど癒しの進んでいなかった頃私も実践しようと取り組んだりしました。でもどうしてもうまくいかなかった。この世のすべてに無条件の愛を持ちそれを体現するって実際どういうことなんだろう?どんな状態なんだ?どうしたってそのときの私にはできないどころかイメージの中ですら感じることすらできなかったのです。なので、無条件の愛については態度保留、ということでやってきました。最近になって「この宇宙すら神の創ったものではない」(好きですね、このフレーズ)という概念に出会ってこびりついていた「無理」が一掃されるようにすっきりしどうやら神は本当に「理」だったと実感できるようになり私の癒しは格段に進んだようです。それでまた最近になって今度は「神への無条件の愛」という概念に出会いました。無条件の愛はエゴからは発せないしまたエゴは幻想であって真実ではないのですから無条件の愛は神なる真実にのみ捧げられるものであって幻想に向かっておくるべきものではなかったのです。神への無条件の愛、また神からの無条件の愛の中にあるとき私たちは初めて幻想に対しても無条件の赦しを行うことができる。なんだ、だから結局この世のすべてに無条件の愛を与えるでいいじゃない、と思われるかもしれないけれど本気でやってみると、この違いは天と地のように違うということがわかるのでは。
2010.03.19
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レイキアチューメントを受けてくださった方のアフターワークアウトのために枠を設けました。今のところ個人セッションの形でさせていただきます。トータルヒーリングスペースRuach *REIKI-WORKOUT*お時間内でご希望に沿って行わせていただきますのでご要望をお伝えください。感謝とともに☆
2010.03.16
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先日ご紹介した四葉のクローバーなんですがうちに帰る頃にはくったりしていたのがコップの水で元気回復しその後、今日までとっても元気。お花は枯れてしまったのにはっぱのほうは夜になると閉じてみたり朝にはまた開いたりして今日、あまりに元気なものだからよーく見たら根っこが生えてきてました。押し花なら知っているけどこんなクローバー見たことない。すごいな。クンダリーニレイキを受け取ってくださった方々からメッセージいただいておかげで元気なのかもしれません。お礼にもう1回、お届けします。ご感想では、ハートチャクラに響いた方が多かったようです。確かに色も、それからライトボディのセンターの形も、合っています。再び添付いたしますので、クローバーの写真を見ながら「クンリーニレイキのエネルギーを受け取ります」と宣言し3分~5分間深呼吸してリラックスしてください。お水をのむことを忘れずに。改善したいテーマがあるときには心の中でこの四つ葉ちゃんに伝えてくださいね。それでは、感謝とともに…
2010.03.13
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昨日の沖縄は、たぶん今シーズン一番の寒さだったと思いますがその最中、しかももっとも苦手分野である税金の計算なんかしつつもものすごい平安の中にいました。私と繋がってくださる多くの方が一緒にそんな平安をすごしてくださると本当にいいなと思います。最近出会った本です。パラマハンサ・ヨガナンダとの対話数字からのメッセージでアセンデット・マスターからのサポートに気づくように、というメッセージが来てぼんやりとマスターの名前を眺めていたらヨガナンダ、という馴染みのない方が気になって探してみたらこの本でした。私は今ACIM(「ア・コース・イン・ミラクルズ」=奇跡のコース)に取り組んでいますがヨガナンダの教えはその世界とほぼ一致しています。私は以前はびーっしりと真理が書かれている本のほうが好きで対話なんて隙間だらけだから物足りないと思っていましたが「神の使者」の流れで奇跡のコースを実践している今は対話の隙間を自分で埋めることができるようになっているのかとても多くの恩恵をいただける内容です。本当は「あるヨギの自叙伝」という本がヨガナンダの真骨頂らしいのですが手始めはこちらにしました。さて、ここのところ、潜在意識に働きかけるワークがどれほど重要かということを改めて思い知っています。私の行っているセッションはどれもそういう目的のものですがセッションにいらしてくださる方の変化から私が改めて学ばせていただいています。セッションの次の日からいきなり、どうしてもできなかったことができるようになってしまう、というような方が続出しているのですがそれがあまりに急激でしかも自然なので中にはワークの結果だと気づかない方もいらっしゃいます。以前の私なら、それでもとにかく良くなったんだからいいやと思って黙っていました。だけど最近は、それはワークの結果ですよ、と申し上げるようになりました。これは、私のセッションの自慢をしているわけではなく本当に、すべては自分の内面から起こっていてそれにご自身が取り組み、結果として感じ方、行動、そして環境、世界が変わるのだ、ということを意識して体験していただきたいと思うようになったからです。決して、急に状況が変わったから、気分が良くなったり何かが解決するわけではなく世界が内面の投影なのだ、その世界を変えられたのだ、という体験は一生の宝であり、すべてを開く鍵を手にしたと言えると思います。また、自分が「考えてわかったから」ではなくリラックスして(戦うのをやめて)手放した(赦した)から変わったのだ、ということも非常に重要でありこれからの人生を豊かに生きるためにぜひ忘れずにいていただきたいと感じています。潜在意識に働くこと、とはやはり祈りと瞑想なのです。ヒプノセラピーもレイキも瞑想のマスターに格段に早く近づく方法のひとつだと私は日々実感しています。私の探求は、すべての人が幸せの道を歩む可能性、です。すべての人が幸せを選ぶとは限りませんが幸せを選ぶ人すべての人がそうなれる法、というのが段々と見えてきていて内心ものすごく充実しています。
2010.03.11
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ポジティブシンキングの仕方を学んでできるのならどんどんやるのがいいと思います。でもやってみたらうまくできない、やろうとがんばるほど難しい、苦しい、と感じるかたもたくさんいるはず。私はそうでした。私たちの思考は、顕在意識に属します。感覚、感情、本能、直感、直観、またハイヤーセルフとも呼ばれる内なる神、愛、光は潜在意識のほうに属します。思考と潜在意識が一致していれば葛藤しなくて済むのですが多くの方が、人生は思うようにならないとか自分は思うようにならない、と感じてるとすればそれは思考と潜在意識のベクトルが違うから。潜在意識を無視して思考だけを変えても、人生は、自分は変わりません。人生を思うまま、あるがままに生きたいのであれば潜在意識にアプローチすべきです。すべての答えは心の中にある、と言われるのはこのことを指します。人生という荒波を乗りこなし平安につながることをお望みなら思考モードから感じるモードにシフトチェンジしましょう。瞑想はその方法です。ヒプノ、レイキはそのシフトチェンジに大きな助けとなります。
2010.03.07
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今しがた、かなりきっつ~い内容の日記を書きましたが時期じゃなかったようで見事に消えてしまいました。渾身だったのですが、あきらめます。昨日、今日と、沖縄は暑いです。そろそろクーラーを買わないと…と本気で思いました。セッションではいらしてくださる方から奇跡のおすそ分けをいただく毎日です。沖縄に来てよかったなぁと最近ようやく実感がわいてきています。(おそぃ)沖縄ではいわし雲というのをあまり見なかったのですが最近よく見かけます。東京では秋の雲でしたが沖縄ではうりずんの雲なのでしょうか。それとマンションの手すりに鳥が鳴きに来てくれるようにもなりました。マンションの吹き抜けですごく響くので本人(鳥)も気分がいいのかずっと飽きずに鳴いています。本当にすごくいい声です。昨日は主人が目をきらきら輝かせながら奇跡が目白押しだ、という話を聞かせてくれました。幸せです。
2010.03.06
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滝に打たれに、ではないんですが比地大滝(ひじおおたき)という、沖縄で最大の滝まで行ってきました。本島北部国頭村は初めてです。滝までは川沿いに40分ほど歩きます。うっそうとした森の中をせせらぎとともに滝に向かうのはヒプノセラピーの過去世回帰のときの誘導のせりふの世界とそっくりでした^^大きなシダやヤシはあるのですがなんだか沖縄の森というより本土で散策した森(奥多摩、尾瀬、鎌倉など・・・)を思い出すので主人と二人でどうしてだろうと考えていたのですが主人が「わかった、この森ガジュマルが一本もない」と気がつきました。南国のジャングル感より日本(私たちが感じる)の里山風なのはそれだったようです。おかげさまでなんとなくいろいろな懐かしい感覚を思い出したりそれが新たな感覚に塗り替えられたりしてとても新鮮な気分を楽しめました。滝というのはやっぱりいいものですね。自動的に癒されてしまいます。清々しくなりますね。ところで先日の地震の際にはご心配いただきありがとうございました。我が家はかなりひどく揺れておかげで私は人生で一番大きな揺れを体験しました。大事なものが壊れたり、それに伴って床が若干傷ついたりしました。沖縄では「沖縄には地震は来ないよ」とよく伺っていたのですが99年ぶりの大きな地震だったそうです。でも沖縄ではお二人がけがをされた以外はほとんど無事でした。地球ではあちこちで大規模な地震が起こっています。今に始まったことではないにしてもその被害の規模を思うとその場所に残る傷跡はあまりに大きいと感じます。きっとそういうことが起こるたびに多くの方が祈りを捧げていらっしゃるはずです。具体的に地球のプレートの歪みを小刻みに分散するように地球とワークなさっている方もいます。おそらくたくさんいます。そういうことは、すべてが繋がっているということがわかってくるとどんどん当たり前のことになっていきます。
2010.03.02
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昨日、あしびなー向かいでみつけました四葉のクローバー。探そうと思ったわけじゃないんですがすごく元気に咲いていてきれいで惹きつけられてじっと見ていたらでっかい四葉。人生を振り返ってもそうそうみつけた覚えがないし天使界からの贈り物のようです。ですので、この写真にクンダリーニレイキのエネルギーが流れるようセットしておきます。もし気が向いた方はこの写真を見ながらクンダリーニレイキを受け取りますと宣言して深呼吸をしながら1~3分くらいリラックスしてお過ごしください。特にこの部分、とかこのテーマに流したい、というのがあればそれも一緒に宣言してみてください。感じても感じなくても、流れたと思ってお水を飲むことを忘れずに。できるだけゆったりお過ごしください。強烈な好転反応が出るほどではないと思いますがもし出た場合は適切に対処してください。みなさんへ感謝とともにAZU
2010.02.25
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2月は梅雨のように連日雨でしたがようやく晴れ間を見せてくれるようになりました。*我が家のベランダからの今日の空*自分のことは自分が一番よく知ってる、なんて言葉があるけどそれは真実でもあり、とんでもない間違いでもある。その言葉を鵜呑みにして私は私のことをこんなにわかった、なんて思ってしまうと本当の自分と出会うせっかくのチャンスにふたをしてしまうことにもなる。潜在意識は顕在意識の10倍です、とか100万倍です、とか言われても実際にそれをリアルに感じるのは難しい。じゃあ私が知ってる、あるいは感じてるこれ、この自分はいったいなんなんだ、ということになる。実際に自分が知っている、知覚している世界は幻想に等しい。頭が納得している自分と自分の本当の気持ちがまるでかけ離れていることを人はあまり知らない。自分の心を探求することが人間にはとてもとても大切なことだと言える。なぜなら人間は心でしか愛を知ることはできないし愛を学ぶことは人間にとって、最重要課題だからだ。愛を学ばずして本来の成長はないし真理や真実を生きたことにはならない。しかし愛を学ぼうといったん決めれば人生を豊かにしてくれるのに必要なすべてはついてくる。現代人はまず生活必需品や必要なものを整えて勉強は勉強、仕事は仕事、経済、住むところ、それから家族のいろんな問題、なんて具合に次から次へと問題を渡り歩いているけれど世界は、自分の心が作り出しているホログラフィーだということを知っていればまずは立ち止まってその場所から、原因の世界に入っていったほうがいい。原因は心の世界にある。だから、心が死んでしまう前にまず心の世界に入っていくことだ。心はおろそかにされがちである。そんなものでメシが食えるか、とか夢みてないで現実をみろ、とか散々な扱われ方をする。ですが、現実、真実は、本当に心の中にしか存在していないし心を通してしか私たちは真実に触れることかできない。それが現実だ。心の中にはまず未浄化の感情がごろごろ転がっている。それをこつこつ解体していくと重荷は軽く、健康になる。自由に本来を感じるようになる。喜怒哀楽をありのままに体験できる。人が感情を恐れるのは心を開くと未浄化の感情に出会ってしまうからだ。でもそれはずっとは続かない。取り組み解体すると喜びを感じられるはず。そうすると、感謝を感じる時間が増えてくる。自然にそうなる。感謝が増えると光を見る。自分の中の光を。それが自分の中の光と、本来の自分と出会いつながり、それそのものを生きることだ。もし、本当の自分を、光を、神をみつけられずにいるのならまずは心を覗き込んで解体されるのを待っている未浄化のものと向き合ってみてほしい。それは必ず、みつけられ、解体されるのを待っている。
2010.02.24
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セラピーのほうではなくて映画のほうです^^沖縄では3D映像は吹き替え版のしかやっていないんですがこれって普通ですか?どうしても映画館で吹き替え版は見たくないので今月初めに3Dではないほうを見ました。そっちのほうは人気がないみたいで那覇メインプレイスの映画館では小さい部屋がガラガラでした。でももうなんといってもあらゆる面ですごかったのでこれは3Dではどうなるんだという好奇心で昨日今度は吹き替え版を3Dで見てきました。ご覧になった方のお話しを統合してみて3Dを見ないなんてありえないというご意見もありましたが感触としてはもしかしたら3Dでないほうがいいのかもね、なんて予想もしていました。実際両方見てみた結果は3Dより通常の映像のほうがよかったです。あと、吹き替えじゃないほうが(当たり前かもしれないけど)圧倒的によかった。おもしろいもので、3Dで映像が立体でこちらに迫ってくるとかえって心は閉じてしまって引いてみようとしてしまうんですよね。映画の醍醐味はやっぱり前のめりにのめりこんで自分が入り込んで見ると楽しいわけですがあちらがこっちに出っ張って来てしまうとこちらとしてはアトラクションのように作り物として切り離して見てしまう。アトラクション的な映画だといいかもしれないけどアバターは数々の興味深い要素を含んでいる映画なのでやっぱり心を開いて入り込んで見ると得るものも大きい気がします。それにしても吹き替え版、まいっちゃったな。大声優さんの娘で自身もちょっぴり足を踏み入れさせていただいた身としては気軽に批判できないところもあるのかもしれませんがそれにしてもぶち壊しだ。ジェームス・キャメロン監督の「アビス」という作品のDVDでは私の父(仲村秀生)が主役のエド・ハリスさんを当てているんですがやっぱりどうしてもあんな風に演じる声優さんていないものだなと思う。父の演技はエド・ハリス本人以上に彼のからだから声があふれているように聞こえる。彼のパッションや筋肉の動きにふさわしい声と台詞まわしが彼の英語の台詞のニュアンスを、それ以上に日本語として表情豊かに聞かせる。そういう吹き替えを私はいまだに父以外の演技に見たことがない。つまり当て師はハリウッドスターの演技を理解したうえでさらにアテレコのテクニックに長け、自身も同等の魅力ある演技ができていないとなかなかオリジナルに取って代わる感動を与えることはできないわけだ。演技の真髄を体系立てて教えなおかつぶつかって競い合い磨かれていくくらいの教育、育成の場が確立されていないことは日本の表現芸術においては致命的だとやはり思う。80年代に野田秀樹さんが30歳くらいのとき「イギリスなんかでミュージカルを見ていると圧倒的に思うことは日本では天才が出てきてもそれは突然変異で終わってしまうけどむこうでは、すごいのが出てきてこれはすごい!なんて言ってるとまたそれ以上のが出てくる。どんどん出てくる。そういう基盤がもうすでにある。」なんて言っていたのをよく思い出す。日本ではそういうのが期待できるのはやっぱり歌舞伎界くらいなんじゃないかと思う。幾世にわたるDNAの、目覚めと気づきと鍛錬の壮大な記憶。すばらしい演技ってそういうのが絶対に必要なものなのだ。
2010.02.23
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たとえば好きなことに没頭している時肯定的に創造的に活動しているときそれはチャネリングしている状態、などとよくそういう本にはある。そのことは私ももともと知っていて芝居をやっているときは完璧にそうだったのでなんとかその時の様に自由自在にガイドやハイヤーセルフや天使や妖精やマスターや神と対話したいものだとずいぶん望んだものだ。今世紀初頭からはヒプノセラピストをやっていて瞑想という訓練にもだいぶ慣れて(若くて平安がなかった頃にはじっと座ることが苦痛だったので走るとか、体操とか、芝居のトレーニングとかでその状態を得ていた)レイキを始めてからは格段に早く的確にそして日常的に変性意識状態に入るようになりヒーリングのときにやってくる情報を読むこと、伝えることにもだいぶ慣れてきた。チャネルをしてガイドから受け取ったりハイヤーセルフと繋がりたいと望んでいる方は多いと思う。それで第3の目をトレーニングしてる方も多いと思う。私はたくさんのヒプノセラピー(催眠療法)のセッションを通じてこれにはちょっとしたコツと秘訣があると思っている。催眠状態は脳をリラックスさせて変性意識状態に入りそこからさらに誘導によって潜在意識を遡ったり内なる崇高な自己(ハイヤーセルフ)とコンタクトしたり過去世の自分と言われるパーソナリティを体験したりするのだが根底にあるのは要するに変性意識状態、瞑想、チャネリング、ヒプノ、レイキヒーリングでもたらされる状態と共通と言っていい。ヒプノセラピーを始めるとき、いろいろなケースを学ぶわけだが受けにいらっしゃる方はほとんどの方が初体験だ。最近は経験者だという人も増えてきたがちょっと前は100%そうだった。それで、ほとんどの方はまずテレビの催眠術ショーを連想したり夢のような感じで絵巻物が展開することを期待している。チャネリングにしてもきっとそうなんじゃないだろうか。世の中でチャネリングがわりとすぐにできてしまう人が体験から教えているので「あるときピンクのドレスを着てまばゆいばかりに輝いた美しい天使が・・・」なんて書いてあるのでみんなそりゃ期待してしまうと思う。ヒプノでは、まずいろんな期待や思い込みを手放していただくところから始める。絵巻物をみようとしないでもらうためにとても重要なところだ。人間の知覚をタイプに分けると視覚派は1~2割に満たないそうだ。普通は感覚派。それとごく少数の聴覚派。人は映像を頭で作ることができるのでみんな一生懸命やれば見えないことはないのだかそれが自分のエゴなのか、インスピレーションなのかなかなか見分けがつかないので結局葛藤してしまう。まぶたの裏に意識を向けて一生懸命映像を見ようとしている人はこちらから見ても何をしようとしているのかよくわかるので「それはしないでください」と伝える。心の目をハートに下ろして、まず感じてみてください、と言う。すごく大きく分けると、快と不快くらいは人間大体常に感じてるはずなのだ。でもヒプノのときに限って「なにも感じません」と言い張る方もいる。そういう場合は、そこに大きな一つ目の鍵がみつかる。つまり、そこにまず大きなブロック(本来あるもの、本来の流れを閉ざす壁)がある。簡単にいうと、感じなくさせているヨロイのようなものだ。ほとんどのセラピー、エネルギーワークの役割はこのブロックを解放することにある。なので、催眠にうまく入れるか否かにこだわらなければこの時点でセラピーは始まっている。本来の流れに戻す、それを妨げるものを手放すのが始めから最後までその目的だからだ。チャネリングに話を戻せばこのようにやはりハート(感じること)に意識をフォーカスするのがまず大切だと思う。私たちはとめどない思考によって感じるセンサーを防御している。思考している限り、それが真実なのかどうかはわからない。思考は都合のいいように理由を考えるしそれが思考のシステムだからだ。感じるというモードに入り心を開くと心の中の雑念(癒されざる思い)があふれかえってきてとてもじゃないけどガイドのメッセージどころじゃないと思われるかもしれない。それであわてて心にふたをしてしまう。でも、そこまできたら恐れずに感じきってしまってほしい。感じきると、それは手放せる。私が言いたいのは、自分の嫌な面をみて現実を思い知れということではなく感じきる勇気を出したら恐れは消えうせる、ということを体験してもらいたいということだ。人間の(成長の)自然な流れ、あるいはあるがままの自己、あるいは自己の本質、光である神たる自己―すなわち本来から目隠しをして隔ててしまっているのはこのような恐れだからだ。かくして心にある有象無象に光を届け正体を明らかにした瞬間に恐れは消え私たちは本来を取り戻す。そうしているうちに私は何者なのかを思い出しチャネリングというものが特殊なあとづけの機能などではなく最初から備わっていて自分がそれを使うにふさわしい存在だったと思い出す。チャネルするには自分を思い出しゆるすことだ。すでにそうだったものをそうだったと認めることだ、というのが実は確実で自然で無理のない方法だと思うのだ。
2010.02.15
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母と妹と入れ違いで、今度は鬼が沖縄へ。アンチエイジングの鬼(私のお気に入りリンクのブログの主です)korridaこと勝田小百合ちゃん一家と再会。小百合ちゃんとは10年以上のお付き合いでもとは役者つながりで当時同じ釜の飯を食べた友達の友達。小百合ちゃんは出会った直後からカイロプラクターの道を進みそれが4年前に楽天ブログで偶然再会し小百合ちゃんのブログはものすごい勢いで人気爆発して今では本を数冊出版、完璧なオーガニック化粧品のプロデュースが大成功毎週雑誌に出てない時がないほどの人気治療家になった。もちろん今もすごい良心的な内容で施術をしている。ナチュラルカイロプラクティックであった当時は偶然だかなんだかしらないけど家も近くてよく遊びにいったりご飯食べたりバイトや所属プロダクションや彼氏まで紹介してくれ(彼氏以外は実際にお世話になり)ほぼ一方的にお世話になった気がする。なのに小百合ちゃんは「私は前世でアズさんに助けられたんです、きっと。恩返しです。」とか言ってせっせと世話を焼いてくれた。沖縄へは化粧品の原料を採取したり調べたりということで時々みえてたそうだけど沖縄で会うのでは初めて。東京では銀座サンクに歌を聴きに来てくれて不思議なシンクロもあった。そのときの日記はこちらだんなさん同士は初対面で、息子くん5歳も私は赤ちゃんのときに会った以来でした。玄関のチャイムが鳴りドアを開けると5歳の彼がひゃーという感じで飛び込んできていきなりダッシュ。まっすぐにうちのだんなさんの胸にどーんと飛びつき抱擁。なんという贈り物なんでしょう^^それからしばらくうちのリビングでお茶してから南城市の八風畑という海沿いにコンテナを並べた黒糖精糖工場と併設のカフェでごはん。そしておなじみの斎場御嶽[せーふぁうたき](私なんとすでに今年3度目)へ参りカフェやぶさちで再びおちゃをしてものすごくゆったりと過ごしました。南部のあのあたりはやっぱりすばらしい。すべてが神聖で荘厳です。一分一秒もその神聖さから離れたくないという気がしてきます。パワースポットと呼ばれる場所は地磁気が高い場所を賢者がみつけて祈りの場所としたのでしょう。地の持つ高いエネルギー場と人の祈りによる磁場ですべてのカルマ、滞りを浮上させ癒す力があります。具合が悪く感じられてもまた逆によく感じられてもおそらく起こっていることは同じなのではないかと今回は実感しました。聖なるものに恐れは不要です。日々を望むように確信しつつ意識的に意図的に生き実践するそんな生き方をしてるご家族とはなんとなく波長も合い何気ない会話もとても触れ合う部分が多く言葉少なさとは反対に満たされ実りある時間をいただきました。沖縄ここ数日は打って変わっての初夏に近い陽気。ベランダ全開、裸足で日記を書く今日。
2010.02.11
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沖縄は桜満開です。母と妹が沖縄へ来ていた。初日にみんなで車で移動している時に母が「私ね、あれだけ散々いろんな薬飲んでよくならなかった脈拍数が正常になったよ。脈だけじゃなくていろんな数値どんどんいいほうに向かってて健康になってる。」と言う。「なんで?」と思わず聞き返したら「みおちゃん、やってくれたじゃない。お医者さんが検査の結果みてびーっくりして、つきものが落ちたみたいだ、って言ったよ。」私がやったあれって、遠隔ヒーリングのことだった。妹から母の咳があまりに酷くてちょっと怖いくらいだからと以前に言われて気合入れてやってからびたっと良くなってその後は妹がいつもやってくれているのだが例によって「信じない」母が、「お医者さんに、娘たちがヒーリングしてくれてるからかしら、私はあまり信じないんだけど、と言ったら僕は信じますよ、って言われた」と言う。それから最終日に妹と母にヒーリングとマッサージをした。母は膝に古傷(中学生のときの関節炎)があって時々歩くのも困難になる。今回は心配しながらもたくさん(沖縄の人から見たらたぶん信じられないほどたくさん)歩いたので膝に集中しつつクリスタリンレイキをした。クリスタリンレイキはクンダリーニレイキの中の1種で心身両方の古傷を癒すのに効果があると言われている。これだけは遠隔でできないのでいいチャンスだった。クリスタリンレイキは「未解決の部分に埋め込まれたエーテルのクリスタルを除去し完治に向かわせる」とあるが確かにヒーリングしているとそれが起こっている、と見て取れるような現象が起こる。今回は母の膝の古傷にいいのではと意図して行ったがなんと10分ほどで母が突然胸を苦しげにかきむしる動作をした。これまでもレイキセッションでは感情的なトラウマの浮上などで結構激しい現象が起こることがあったので驚かなかったがどうしたの?と尋ねるといきなり「胸の古傷が痛い」と言い出した。何も言わずに膝周辺のマッサージをしていただけなので母は何も知らないのに古傷、という言葉が出たので私はちょっと面食らった。その傷のことは子供の頃母から聞いていた。小学生のとき子供用の自転車が買ってもらえず大人の自転車に横またぎのようになって漕いでいたところ転んで胸の真ん中をハンドルで酷くぶつけた。祖母は仕事で忙しく親戚は冷たくて病院に連れて行くどころか看病もしてもらえず動けないまま数日間たたんだままの布団にもたれて苦しんだという。身体の怪我と心の痛みと両方が癒されないままでっかいクリスタルが埋め込まれていただろうと想像がつく。レイキが必要なところに勝手に流れるということも目の当たりにした気がした。しかも妹が言うには母はその胸の古傷周辺は怖がって触らせないとのこと。膝だったから油断して余計にスムーズにいったのかもしれない。その後半日も飛行機ぎりぎりまで歩ききり母はいつになく明るく元気だった。あれ、今までずーーーっと、ウツだっただけなのね、こんなキャラだったんかい、と何度もデータ上書きしなければならなくて私のメモリが大忙しだった。クリスタリンレイキは3回セットで施術するといいそうなのであと2回、砂絵ちゃんたのみます。妹の砂絵ちゃんのブログはこちらちなみに写真の仏さまは砂絵作です^^ちゃんちゃん。
2010.02.09
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癒しは確かに心地のいいもの。ですが、魂にとって心地いいのか、エゴにとって心地いいのか、でそれが本当に癒し(後戻りのない道)であるかどうか違ってくると思う。超入門アカシックレコード超入門アカシックレコードは、タイトルのわりに入門以上の内容だったのだがその中で私にとってもっとも必要だった言葉は「誰もが人を救いたいと思っているが相手にとってもっとも必要な言葉は実はおしりを蹴っ飛ばされて目が覚めるような言葉だったりする。だが自分が癒されていなければその大切な言葉を(投影によって)相手に言うことはできない」だった。高次元からのメッセージというものが世の中にはたくさんあるけれど誰もが心地よく感じ、受け入れられやすいものはそれはそれでいいけれどしばらくするとそれはもうわかった!でもその結果が今のこの現状なんだけど?となってくるのだ。もちろん学ぶべきことはいくらでもある。だけどしばらくの間なんかびっくりして目からうろこがばらばら落ちないと受け入れられないような新たなパラダイムシフトに出会わないものかしら…と思っていたら出会ったのが「神の使者」だった。それは確かにすごく受け入れがたくそして後に完璧なまでにすっきりとすべてを解き明かしてくれた。だからもう、捜し求める必要はない。実際のところ、捜し求める必要なんてないしこの世でいくら探し回っても絶対にみつかるものではなかったのだ。そうなってみて、私は否定、ということを怖れなくなった。人はみな、肯定されたい。でもそれはエゴが願っていること。肯定される心地よさはエゴにとって好都合な心地よさだと思う。だけど、いくら肯定されても苦しんでいる心があるに変わりはない。「そのままのあなたでいいんです」というのはある意味真実だけど「ありのままのあなた」というものを人は知らない。今のなんだかわからないあれをたっくさん身に着けてる自分にそのままでいいんです、というには本当のその人が丸見えに見える人の言葉でなければ意味がない。そして間違いなくこの宇宙はこのままでは良くない。すべては選択しなおされ修正される必要があると思う。真実を。エゴの心地よさの中で夢を見ている間は平安にはならない。魂の心地よさを、スピリットの知覚を選択しなおすことなんだと思う。それで私はできればひとさまのおしりを蹴っ飛ばせるセラピストでありたいと切に願う。
2010.01.28
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癒し、からイメージするのは緊張した日常から逸脱してつかの間の平安に浸ること・・・というのが一般的かもしれない。なぐさめ、みたいな結構お手軽なイメージがある。だけど癒しとはもっと明確なものだ。癒しが起こると私たちは悪夢から覚め幻想の壁は打ち砕かれもはやあともどりはできない。・・・なあんていうとまたちょっとおっかない感じもするけど実際にそういうものだと思う。リラクゼーション、というのもまたお手軽なイメージで使われることが多いから深刻な悩みや苦しみを持っている人からみると「そんなもので人生が変わるわけがない」と受け取られがちだと思うけれど(私は、そうでした)リラクセーションは奇跡を受け取るための準備のようなもの。なぜなんでしょう。私たちが本当に幸せであるには私たち人間に創造された心というものを通して世界を知覚しなおす必要があります。私たちが合理的に考える思考、というものも本能の仕組みである攻撃や逃げ、というものも本来の感覚とは違うものです。でも、たとえば幼少の頃、この地球で居心地の良くない思いをして周囲の刺激から身を守ろうとした結果生き延びなければ、という本能の仕組みから私たちは防御のための砦を心に張り巡らせます。そして、オープンにして感じる、ということは居心地が悪くて危険な恐ろしいもの、という観念を身につけます。そして大人になるにしたがってますますこの砦を強固にすることでこの生きにくい世の中を渡っていこうとします。すると、心が感じる、という機能は固いブロックに囲われ私たちの心が本来感じるべき一番大切な愛というものをなかなか感じることができません。私たち人間は愛を感じない限りふしあわせで孤独です。それでどこかに自分を幸せにしてくれる何かを探し求めます。でも、それは、外にはありません。肉体の機能としてついている「本能」というスイッチがいつのまにかあなたの主導権を握っています。そして肉体を通しての知覚が自分自身だと自分に思い込ませます。自分は自分を把握している、もう少しがんばれば完全に自分を支配できコントロールできるのに、と思っています。そして、このままの自分でいてなんとか他のものと同じように愛、も手に入れる方法を探します。仕事やお金や、愛、という感じに。でも、愛だけはどういうわけかその方法ではうまくいきません。それは心にいっぱいくっつけているあれのせいです。そして思考は「あれ」について分析を始めます。そしていつか分析を達成すれば自分は解放される、と信じようとします。でも、それは、エゴのやり方です。癒しは光をあてます。そして文字通り目覚めさせます。リラックスは本来のあなたが目覚めるために思考やエゴというパーソナリティに少しお休みいただくためのものです。ヒプノセラピーで私は感じることが苦手です、とおっしゃる方がみえますが本来の感じる心を取り戻すことがセラピーの目的でもあります。不快なものを感じないようにしていると大切なものも感じられなくなってしまいます。大切なものとはもちろん愛のことです。
2010.01.24
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人の心が作り出す恐れのブロックには限界があるのだ。愛は限りない。というようなことを目の当たりに見せてくれる奇跡のセッションが続いています。癒すのは聖霊であって私たちは互いに思い思いに奇跡を体験する。感謝につきます。昨日は祝福のようにあったかいお天気だったのでビーチへお散歩して日没までお日さまを眺めて過ごしました。うちに帰ってからもベランダに出てごはんを食べ寝るまでいろんな話をして過ごしました。みなさんにもたくさんの奇跡がありますように!
2010.01.21
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クンダリーニレイキを受けてくださった方々からたくさんの嬉しい声をいただく。なかなか言葉では伝えきれない内容なのだけど実際受けてくださった方々もやはり受ける前にいろいろと調べてみてもよくわからないし、不安な要素も多かったけど「なめてました!こんなにすごいと思わなかった!」なんておっしゃってくださる方もいる。本当に、いろいろなことが起こったりできるようになったりするんだけど結局のところ何がすごいかというと世界が変わってしまう、という言葉が当てはまると思う。なんでも好きなものを好きなだけ引き寄せ手に入れることのできる秘密をみんな知りたいかもしれない。私も子供のころ「3つだけなんでも願いがかなうならなにを願う?」という問いにときめきながら考えた答えは「いつでも好きなときに願いがかなう自分になる」だった。その魔法と引き換えにあらゆるエゴの幻想を手放しましょう、と言われたらどうでしょう。というか、実際は手放すことで魔法は働くようになるのです。レイキは人間、という不完全な生き物に魔術を与えてくれるものではありません。私たちが自分はどんな存在だったかということを思い出し完全なる神の通り道として自分を使うときその完全な世界の住人になるということです。その世界がどれだけ自由と解放と安らぎに満ちているのか皆さんの声を聞いていると感じることができます。
2010.01.18
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*写真は我が家前の今日の夕日*私と私のだんなさんと私の妹とだんなさんの弟は生命の贈り物(私たちは神の使者も読んでいるのでこれを赦しの祈りと呼ぶ)をしている。それぞれがなんだかこれはいい、と思って各々がしているので特に示し合わせたわけではない。でもおかげでフィードバックも確認しあえるしなにしろ世界への視野に共通項目があるのでなにかと話が早い。普通なら込み入った話も「投影だね」とか「赦そうね」とかで終わってしまう。で、その分いろんなことに時間を使える。会話もあの人がどうこうとかなんとかじゃなくそれが自分の中のあれを投影してるってことでいいかな、とか(笑)そんな具合。だから出来事を修正したいときはただ自分が気づき赦すというシンプルな方法を採用する。毎日の夫婦の会話やイタリアにいるだんなさんの弟や東京の私の妹と赦しや気づきや宇宙や神について話したり気づいたらみんなで赦しの祈りをやっていたりすると奇跡が起こらないはずがないな、と思う。というよりだんなさんとは生活のほとんどすべてに奇跡を見ている。だんなさんとしみじみともうこれ以上ほしいものってないよね、とか言い合ったりする。それはたぶん過ぎ去るもの、とそうでないもの、をだいぶ明確に区別できるようになってきているからだと思う。そういう生活になってそうでない生活とどう違うかというと「可能」というスペースが圧倒的に広がる、ということだ。狭くて不自由で不可能な世界から無限というスペースで生きることが可能だ。私たち家族がなぜみんなして同時多発的に祈るのかというとたぶんそんな「可能」のスペースを生きたいがためなのではないかと思う。
2010.01.15
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写真は今日の瀬長の夕日です。光があるところに闇は存在できない。だから闇は光を恐れる。しかし光は闇を恐れることはない。光あるところに闇の脅威は存在しないからだ。私たちが無限の存在である所以は私たちが光を選択できるところにある。光を選択するということは闇を拒否することだ。人のエゴの行いを見ているとそれは無間地獄のように果てしない泥沼のように見える。どうにもならない泥沼は私たちが闇を選択したときにだけ有効で悪夢から目覚めることを選択した瞬間に消えうせる。人生は選択の連続だ、という表現がある。それは確かにそうだが本当に重要な選択は光か闇か。光を選択するとそこには自分をゆだね、導かれて生きるという果てしない自由と至福があり闇を選択すると果てしない業の清算がある。明らかにする、とは己の内面に灯りを燈す作業である。暴く、とも、攻撃、とも違う。人との関係において真実を築き互いを鏡として学ぶことは明らかにすることと等しいのだがエゴは暗闇に潜みたがる。闇の中で互いを知覚してもそれにはなんの意味もない。幻想と錯覚、誤解があるのみ。光あれ。と今日も思う。
2010.01.14
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まだまだ、エゴの正体が世間では明らかになってはいない。エゴについて学ぶことは多くの人にとって有意義だと思う。エゴ、とかインナーチャイルドの問題というものが「一部の」未熟な人の特性とか属性だとか思われていてだれそれにはそれがある、みたいなことを言うのがはやってきているみたいだ。「ある人に、私にはインナーチャイルドがいるって言われました、だから、癒しが必要だと思うんです」とおっしゃる方が時々みえる。自分の問題は、インナーチャイルドの問題が大きいみたい、ということまで認識なさっているだけですごいことだと思う。だけど、一体どんな人が「あなたにはある」なんて言うんだろう。うそではないけれど、ちょっと詐欺みたいな話だ。私に言わせればそれは現在の地上の、それに取り組み解消したり浄化、解放していない人のすべてに共通のものだ。かつてそれに大きく影響されていた、もしくは現在影響されている、このどちらかに多くの人は属する。つまり世界の認識自体が大きくずれている。あるいは私と世間はずれている。仕方のないことだけど。心の課題を突き詰めていけば必ず私たちは何者なのか、というところに行き着く。さらに行けば、私たちは肉体なのか、それ以外なのか、となる。最初は肉体を含むそれ以上、みたいな捉え方が易しいけれどどうもそれだと矛盾が生じてくることもわかってくる。私たちがすべての次元の自分を大切しなければならないのは宇宙のすべてを愛し尊敬する、という意味ではそうだけど私たちに内在している(かに見える)エゴ、肉体保持のためのシステムは崇拝されるべきものではない。からだにはからだの言い分がある。からだを手玉に取るにはその言い分にまずは騙されたふりをする。するとそれは手の内を見せてくれる。おさえつければそれはあなたに反発して暴れだし主導権を主張し、あなたを乗っ取ろうとする。インナーチャイルドがあなたの人生の現在の問題に関与しているというのはこのあたりの仕組みから来ている。マインド・トレーニングという本をずっとお勧めしているのはその仕組みと取り組み方の具体例が書いているからだ。私たちは真実を知り生きたいと願う一方からだの属性である恐れに半支配されていて本当の知覚すらままならない状態なのだ。潔く目覚めに向かって進もうとする一方で後ずさりを続ける理由はそれである。だから、遠回りに見えても結局自分で痛い目をみたり絶望しかけたり転んだりするほうが「後退するよりマシ!」ということで結局光にぐんとつ近づくのも事実だ。私は、もしあなたが自分の中にある勇気というものを使うなら自分の中の魔物と戦うことをすべてのまだ取り組んでいない人にお勧めしたい。そして本当にそんなものが幻想なんだ、本当の私はこれだったんだと心底思うまでそれを続けてほしいと思う。正直な話。
2010.01.12
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またもせーふぁうたきへ。何度行ってもいいです。もう6回目くらいかな。もっとかな。帰り道に知念岬公園へ。岬の突端が広場になっていて貸切で凧揚げしている親子がいました。電線もないし周り全部海。パラグライダーが飛び立つところも初めてすぐ近くで見ました。だんなさんがいろいろ尋ねると教えてくれて、スカウトもされました。久高島やコマカ島がすぐ近くに見え向こうには街が見えているのでどこかと思ったらうるま市なんですね。近くてびっくりしました。今日は寒いです。寒い寒いといいつつうちはまだエアコンをつけていないので暖房なしで過ごしています。暖房なしの方も結構いらっしゃるようです。うちも今後どうするかまだちょっと悩み中です。セラピールームはあったかいのでご心配なく^^
2010.01.06
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渡沖から約一年、そして新居へお引越しから1ヶ月。ようやくせっせとした作業もひと段落し無事お正月を迎えることができました。直前までほとんど年末年始の気分ではなかったので普段の業務に明け暮れご挨拶がすっかり間に合わずに大変不義理で失礼ばかりしておりますがどうぞお許しください。そして2010年も、どうぞよろしくお願いいたします。大晦日前日は主人の職場「大きな手」の忘年会でなんだか腰を据えておおまじめな話ばかりさせていただき年内のちからは使い切った感じになりました。昨年はことごとく沖縄の行事らしい行事に行けなかったので元旦は首里城の神事に、と思っていたら午前中で終了、ということを当日の正午過ぎに知り奥武山(おうのやま)公園内の護国神社まで自転車で初詣することに。神社は結構な人出で行列とか、人の間をよけて通るなんて泊の花火以来のことでした。前にうちなんちゅの方が「東京って人がほんとに多いですね。なんのお祭りやってるんだろうと思うとなんでもないんですよね。毎日那覇祭りみたいですよ!」とおっしゃっていてそれ以来人が多いことを那覇祭りみたい、と表現することにしています。行列に並ぶのが苦手な私たち夫婦は東京でしていたように軽くご挨拶だけして参拝は後日にまわしました。それからどうしてもモノレールに乗りたい、とだんなさんが言うので奥武山公園前からゆいレールで儀保へ。首里城まで散歩して到着すると「新春の宴」の最終ステージを見ることができました。舞踊は和の舞踊と微妙に融合していてなつかしい感じがしました。最後に獅子舞があって以前テレビでちらっと見たことがあったのですが毛がもこもこして紫色をしていて動きやストーリーも本土のとは違っていてかわいらしかったです。出演しているお囃子の男の子はちょっとやんちゃな現代っ子っぽくてちょっと照れくささがあるのかあまり一生懸命やらないのですができたらすごい気合でやっていただきたいなと思いました。伝統芸能や武道はやっぱ気合なんですよ。気合あるところに魂が宿る。するともっとみんな楽しくなります。儀保の駅まで戻ると駅には誰一人いなくてでっかい空におっそろしく澄み切った空気。そしてばかでかい夕日。光が海に照り返して那覇の白くて四角い建物がホワイトアウトしてしまいそうでした。今年は、ますます、たくさん祈りたい、というのが抱負です。ホワイトアウトのようなまぶしい閃光をもたらす人になりたいです。
2010.01.01
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先日、玉川大学名誉教授の岡田陽先生が亡くなられたことを書いた。同級生がメールで知らせてくれて先輩からも電話がかかってきた。やんちゃなガキ大将風のその先輩はべろべろに酔っ払って電話してきて岡ちゃんが死んで悲しい俺の気持ちをみんなわかってくれないともんくを言った。そりゃ、わかんないでしょうよ!86歳のおじいちゃん大学教授が亡くなって出張先の福岡で傷心で一人べろべろになってる43歳の男の気持ちは!だけど、そういうことが、この世にはある。私の学年でも、男の子が(43歳のね)2人実況でメールを流してくれておつや、お葬式、そして大学の追悼礼拝のことを伝えてくれた。そして先日玉川学園で行われた追悼礼拝には同級生数名が参加してくれてその写メを送ってくれた。おっそろしいほどみんな変わってなかった。何気なくネットで岡ちゃんの名前を調べるとどなたかがアップしているyou tubeの映像をみつけた。まったく知らなかったのだが昨年公開された映画「明日への遺言」は岡ちゃんの父上の実話だったということだ。B級戦犯として処刑された岡田資中将というのが岡ちゃんの父上。息子として岡ちゃんも劇中に登場しておりそのプロモーションなのか岡ちゃんがトークしている映像もあった。YouTube-岡田資~誇り高き生涯~映画もアップされていたので英語部分の字幕はないが見ることができた。藤田まことさんの主演で、意外に感じたが描かれている内容はすばらしいと思った。えーっと、彼は悟っていたんじゃないだろうか・・・と感じた。岡ちゃんは岡田資さんのご長男で、教育界、演劇教育界においてすばらしい貢献をされてきた方だがこの映画が世に出てお父様の久遠なる思いを伝えることができてきっとようやくご使命を果たされたのではないだろうかと思った。どういったいきさつで映画化されたのかわからないが岡田資さんの魂が今この時このタイミングでこそと満を持して地上に降ろされたように私には感じられる。映画としておもしろいかどうかよくわからないけれど私は岡ちゃんという大きな存在を通して父上の存在を垣間見ることができるのでとてもありがたい。大きな存在、というのは大きな慈しみを知る心のことなのだと思う。あなたの蒔いた種は静かに、そっと、根を張っています。あらためて感謝します。
2009.12.26
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メリークリスマス♪今日は豊見城は気温21度。曇りですが、とても穏やかな日和です。昨日は祝日で最高のお天気でした。冬至を越えて新たな扉が開いたことが肌で感じられました。うちの前の虹こうえんでは家族で遊ぶ人がたくさんで半袖Tシャツで遊ぶ人、そしてなんとカキ氷とアイスクリームの屋台が出ていました。なんてことのない公園であれだけの人出にも屋台にもその売り物にもびっくりです。さて、クリスマスにちなんで、今日は彼(J)からのメッセージを紹介します。「あなたがこの世の光である。」この言葉を自分に向かって言ったときどんな思いがわきあがるだろう。もしこの言葉が自己賞賛に聞こえたとして優越感でちょっといい気分になったとしても逆に謙遜すべき気持ちがわいてきたとしてもどちらにしてもそれはエゴの声です。もしエゴに取り組んで解体が進んでいればそれは自分の真実についての言葉だという風に受け取ることができるだろう。エゴを解体していくと自分と他はすべてひとつで同じものという知覚が開いてくるので上下という価値観が薄れていきます。ですので「あなたはこの世の光」という言葉もすなおにただあるがままの真実としか受け入れられないはず。それによって誰かより優ると誇示することはなくそれを自分のこととして受け入れることで人を蹴落としたり比べたりしたという罪悪感もわかないなず。そして「あなた」という呼び声はあなたのつながるすべてへの呼び声でもあります。あなたが「自分」についての真実を語るときそれは神について、そしてすべての存在についての真実を語ること。今日みなさんがご自身の光とともにある一日でありますように。メリークリスマス♪
2009.12.24
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心を平安に保つ、ということがどうしてそんなに難しいことなのか、と考えているとエゴの探求からさらに本能、という課題に行き当たる。妹と話していて本能の話になったのだけど「あ~エゴどころじゃない、本能なんだ~!!!」とものすごくガッテンしてしまった。本能は命を守るためのシステムだ。外敵というものがあると仮定して外敵から身を守り種を存続するために自然に働くシステム。人間、という種も宇宙のシステムから見れば肉体でありこのシステムによって生かされている動物である。ところがこのシステムにのっとって生きていると私たちの肉体は常に危機にさらされておりその外敵から身を守るためには常に「戦うか逃げるか」という選択を強いられこの選択肢を機敏に選択した固体は生き延びこの機能の愚鈍な固体は哀れ淘汰されていく、という筋書きになる。弱肉強食。そこには本質的な平安は存在しない。わずかな休息があるだけだ。だがスピリチュアル、という生き方はこのシステムを根本的に否定し人間は霊的な存在であり命とは肉体のことではなく永遠に存続する無限の存在であるとする。その中枢は愛であり生命の源は愛である。スピリチュアルの世界では宇宙=神=愛のように使われることが多いが宇宙の源はこのように考えると肉体の生命力でありこの宇宙の生命力と神の原動力=愛を混同してしまうといろんなことがワヤになってしまう。「神の使者」で言われる「宇宙すらも神が作ったものではない」というのは生命を存続させるシステムである「本能」は神の神秘ではない、という意味にも取れる。スピリチュアルに生きるにはただそれを信じるだけでなく体内のシステムをそのように切り替える必要がある。そうしないと、いわゆる頭だけで理解しているが、心と体はついていかない、という状態になってしまう。ではどうやってそのシステムを切り替えるかというと脳の本能のスイッチを切るのである。古の聖者の法であるが、瞑想がそれだ。瞑想、というと敷居が高いが要は脳のリラックス、催眠状態もそれである。またレイキによって起こるリラックスもそれだし魂が踊るような好きなことに熱中している時にもそれは起こる。本能から完全に自由になるとき肉体の死は恐れるに値しなくなる。死の恐怖を感じないようにすることとは次元が違う。その境地はすべてを味わい尽くしあらゆる感覚、知覚を堪能し超越しなければ来ないだろう。でなければ人はのこのこと肉体の知覚を持ってここへは来ないと思うから。もし心にあれをもっているならあれを無視しちゃだめだ。偽善者になってはいけない。偽善者は、心にあるものをないことにする。私たちが持つ本能を本能という知覚でなしに味わうことで私たちは本能に支配されない。人間という乗り物を乗りこなすのだ。平安。実はかなりエキサイティング。
2009.12.18
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沖縄は春。ここ数日、春です。一昨日なんて、ベランダの窓全開のままご主人は床でうたたねして明け方目覚めたようです。ものすごくびっくりしました。東京だったら凍死しちゃいそうな気がします。私たち夫婦は四季の匂いに敏感です。最近の沖縄は春、秋、冬の匂いがでたらめにしてきます。そのたびに私たちは、今は秋だね!今日は春だね!もうさすがに冬だね!と言い合っていますがきっと沖縄の人には私たちの嗅覚に結びついた四季の記憶とは違い今の季節がだいたいこんな匂いの幅、っていうのかこれらが今の匂い、なんだろうな、とか話し合ったりしています。だからたとえば私たちの子供に「春の匂いだね」と言っても通用しないんだろうな。だって春じゃないし。環境、気候ってすごい影響力ですね。食べたいものから気分から違ってきますものね。沖縄=のんびりって東京の人は言ってたけど実際のんびりした人にはそんなに出会っていません。どっちかというとせっかちな人のほうが目立つ気がします。早口の人も多いです。ただ、車の運転はゆっくりの人が多いですね。一年近く経ったけど、概ね変わらぬ感想です。最近は「だはず!」って言葉を覚えました。まちがいない!みたいな感じと解釈しています。まだ内弁慶にうちの中でしか使っていません。ネイティブの皆さんの前で使うチャンスはまだないです^^主人は職場でいろいろ使ってみるけれどイントネーションが違って通じないこともあるみたい。外国だな~。普天間基地のことが全国区のニュースになっていますがどうなんでしょう。外から見る基地問題と内部で感じるのには結構温度差もあります。ここから空を見ていると結構な頻度で軍のヘリが間近をぶんぶん飛んでいます。住宅地で落っこちたりしないでくれよと思います。だいたい、誰がなんと言おうと、ここは日本なんだしアメリカの軍隊の基地があるなんて、そりゃもう異常事態ですよ。日本は戦わない国なんだし。ここは戦闘戦略的にとてもいい場所だそうですが結局何かあって犠牲になるのはここの島の人たちだってことだよね。私はこっちで心のセラピーをしているけれどトラウマの質的にとってもきつい人が多いのが気になってます。トラウマっていうのは現世で言えばほとんどが家族、親族の中で作られ引き継がれているものです。伺っていると、お母さんの世代は兄弟や親戚がが何人もひどい死に方をしていたり戦争で傷ついている人がちょっと上の世代にはたくさんいるんです。私もおじいちゃんは戦死ですが沖縄にはそういう人がすごく身近にたくさんいます。傷ついていないわけがない。でも身近すぎてそれが影響してることにもまだ気づいていなかったりもする。みんなそうだから。うちの母もよく「私の世代はみんなそうだったから」と言っていました。みんなそうだろうがもっとひどい人がいっぱいいようが人間の心はとても小さなとげにうんと傷つくものなんです。医療関係の方のお話では沖縄は精神病神経症の患者さんはやっぱり飛びぬけて多いそうです。沖縄のこの自然と同じように人々の心が心底平安でありますよう。癒しの必要なところに光がありますように。できることをこつこつと私もがんばります。
2009.12.12
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ご無沙汰していましたが無事お引越しも完了してセッションも再開しています。ご心配おかけしたり応援くださったりみなさんどうもありがとうございました。今回のお引越しはこれまでの反省も踏まえて疲れないように、けんかしないように(笑)がテーマでした。お引越しって物理的にしんどいのはもちろんですがおそらく深層では恐怖を感じるものなのではないかと分析しています。生きる場所が変わるというのは環境、気候の変化を度外視したとしても本能的にサバイバルのスイッチが入る行為のんだろうな、と。なので主人を見ていると思うのですがやっぱりすごく気が立っているんです。で、沖縄に来てしばらくはものすごく短気でせっかちになってまわりじゅうに当り散らしている格好でした。それからしばらくするととても落ち着いて穏やかになり引越しでわたしもたいへんだったろうにあんなことしてたら奥さんが病気になってしまう、なんてことしてしまったんだろう、とすごく反省していました。それで今回は「けんかはなしね」「なかよくね」と引越しのあいだすごく心してかかったわけです。それで、わたしはというとほとんどひどい疲れもなく淡々と過ごせたのですが今度は主人がものすごく疲れてしまいました。わたしがあまり疲れていないのを見て主人が「今回あんまり疲れてないね、どうして?」と言うので「どうしてかな、レイキのせいかな」と言うと主人が「違うよ、俺が当たってないからだよ!」(笑)それで主人のほうは私に当たって発散できなかったので自分の毒にやられて疲れてしまった、という見解で一致しました。すごく笑えましたけど。それでも私自身にもからだの変調はやはりあります。引越しのときにしかならない症状なのでやっぱり移動って大変なことなんだなーと思います。わたしは手にけがをするとすごく元気がなくなったりして主人は口内炎を作るとやっぱり元気がなくなります。その度に「人間って、なんて弱いいきものなんだ!!!」って言い合ってだからこそ、どんな時にも、どんな状況でも心に平安を保つ存在「マスター」になりたいとすごく願うのです。本当に、どんな状況でも自分にも周囲にも優しくできる状態ってすごいことだと思います。今回主人と私のチャレンジは当り散らすよりは少し進歩しているようですがただ我慢するだけだと結局はストレスが自分に返って来てしまいますし元気のない主人を見てると私も結局ストレスになってしまうのでやはり我慢なく、ありのままで健やかでないと結局は苦しみは移動するだけ、巡りめぐっているだけになってしまう、というとてもわかりやすいサンプルになったなーと思いました。けれどもちろん、自分の行いや心の状態に目を向け内面に取り組み気づきを得ることは何より清い一歩には違いありません。小さなことですが、課題をみつけて日々の中で平安の実践をすることはそれ自体が幸せな取り組みだなーと思います。一緒に取り組んでくれる主人にも本当にありがたい気持ちです。
2009.12.10
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いましがた、バナナマンのことを書いていたらなんの拍子にか全部消えてしまいました。しょうがない、バナナマン封印です。というか、バナナマン考察しつつ芝居のことを書いていたんだけど、残念。バナナマン見てると大学の先輩とか劇団での芝居を思い出すって話でした^^…なんて徒然に書いていましたら演劇専攻の同級生からメール。演劇専攻のゴッドファーザーが亡くなった訃報でした。岡ちゃん(岡田陽)という、宮本亜門さんがよく恩師の話をする時に出てくる先生です。岡ちゃんしんぴょう(身体表現)の授業というのは私たち役者の“金”のたまごにとってある意味真価を問われるようなすごい授業だったのです。私は岡ちゃんにはこっぴどくけなされました。へー、この先生すごいって言われてるけどそのくらいしか見えてないんだなーくらいにしか当時思わなかった…。(おいおい)でも岡ちゃん、好きでしたよ。尊敬してました。おいくつになられたんだろうな。まだ指導なさっていたんだろうか。…演劇専攻の仲間のことを思うとすごく古巣のように安心します。2年くらい前?に会った時に「俺も来来世くらいにはomi(私)と(結ばれたい)とか思うぜ」みたいなことを同級生に言われてものすごく笑ったんですけどきっと彼らとは何度も何度も一緒の舞台を踏んできたんじゃないかなと思うのです。プライベートで遊んだことなんてほとんどないのに彼らって本当に私のことをよく知っていたりよく見てくれていたりしてそして何年も、十何年も会わなくてもちっとも忘れたりしないのです。私ももう10年くらい芝居をしていないっていうのにそういうことも彼らにはあまり関係なくていられるのは多分すごく長いことたくさんたくさんいっぱい一緒に芝居をしたんだと思います。一緒に芝居をやると本当にその人の弱いところとか美しいところがわかるのです。今私はセラピーをしていますがセッションをするとやはりその人の弱いところや美しいところがとても伝わってきます。ある意味普通に生活していては繋がれないような繋がり方が私にとっては必要で幸せなことだったりするのだと思います。バナナマンを見ていてだから結構、日村さんが二枚目だったりするところとか彼の美学みたいなところが好きです。彼は弱い人をよく演じてますがそれを通して彼の人間に対する慈愛が伝わってきます。人間賛歌ですね。(ホンを書いているのは設楽さんだと思いますが)あと舞台の使い方とか所作がうまいのでいつも感心してしまうのです。大学の先輩後輩とか同級生を大好きな気持ちが日村さんを見てると思い出されて楽しいのかもしれません。日村さんともどっかで魂の仲間だったかもね。そのくらい親しみを感じますね。
2009.11.27
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先日新居の鍵を受け取る手続きがあり行って来ました。ながーい手続きの最終回でようやく自分の部屋として足を踏み入れましたが入ってみると、エネルギー的にはまだあかの他人、の場所でした。レイキで浄化し、光の柱を立てました。(エーテルに働く活性の儀式みたいなものです)各部屋にかなり丁寧に。で、2日後に再度部屋に入ると、かなり違っていました。一目でかなりわかるものだな~と改めて思いました。しばらくすると「前からよく知ってた場所」のような感じ方に変わっていました。こういう感じにするのって重要だと思うのです。自分の波長と合わせておかないとくつろげなくて疲れる場所になってしまいます。また、できたら波動を上げているだけで癒される場所にしておきたいものです。これからこの場所を拠点に癒しの波動の使者としてがんばりたいなと思っています。いろいろと準備しています^^
2009.11.24
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私の周りにはスピリチュアルの世に言うインディゴちゃんだらけ。インディゴ・チルドレンの存在を知ったのはヒプノセラピーを始めて間もないころ、セラピスト仲間から聞いたのですが最初は全然信じていませんでした。ところが知ったとたん、私のところにヒプノを受けに来る人はインディゴちゃんだらけになりました。インディゴちゃんは1975年以降に地球に大勢来るようになっていてそれまでの地球人と魂のカラーが違うそう。古いしきたりに理由なく従うことを嫌うので集団に埋もれることができない。真実かどうかにとても敏感で、矛盾や欺瞞を暴く。愛の地球を築くために来ているので古い体制を破壊することが得意。しかし成長の過程で酷く傷ついて使命を忘れてしまっている子もたくさんいる。インディゴ・チルドレン私自身がこのインディゴの特徴と重なる部分がとても多いのですが少し違うのは私はとても忍耐強くて、理解できないことをできるまで追及する粘りと理屈っぽさがあります。インディゴちゃんはそういうのが苦手のようです。相手が余りに愛がなくてばかばかしいことを言っていると解りたくもなくなっちゃうところがあります。インディゴちゃんとのセッションはとても楽しいものです。例えば彼らは表面的には現実的な悩みがあるように振舞っていますが自分の個の悩みよりも世界のことや宇宙のことのほうにうんと興味があります。心の問題は掘り下げていくとミクロとマクロを行き来するのですが彼らは圧倒的にマクロに興味があり、自分の問題に取り組むことは、マクロに奉仕し貢献することだということを潜在的に知っているのです。ですからミクロをマクロに広げてお話をすると彼らは自分という存在を思い出して元気を取り戻し、本来の勇気と誇りに満ちた存在に戻ることができます。私がセッションを通して実感したのはインディゴのそういった特徴で「愛の戦士」の異名にふさわしい実態でした。インディゴの次の世代はクリスタルちゃんで昨年だか一昨年だかに「クリスタル・チルドレン」という曲までヒットしました。クリスタルちゃんは、インディゴちゃんたちの作った基盤の上にさらに平和な世界を築く戦わずして存在そのものが愛を伝えると言われている存在。先日、そのクリスタルちゃんが大きくなるとこんなだよ、というような少年に出会いました。まるで本で読んだクリスタルそのもの。クリスタル・チルドレン彼らは言葉でなく主にテレパシーを使う、なんて本には書いてあるのですが本当にそうだったです。彼と接して思ったのですが、大人に近づいてきて困っているクリスタルちゃんも多いのではないでしょうか。インディゴちゃんもそうですが彼らは古いコミュニケーション手段が苦手なので本当に古い社会に適応することに困惑している様子です。また、特にクリスタルちゃんは親御さんのご理解がないと非常に親御さんが彼らを心配してしまい、その心配のエネルギーに彼らがダウンしてしまいそうに見えます。私自身もそうですが、彼らは競争や奪い合いが本当に苦手です。何かを得るためには分かち合うということで得たいのです。癒されないエゴというのは、全く悪気なく周囲からたくさん奪います。そういう人の中にいると彼らは無条件に与えようとします。私は、社会が彼らから学ぶことで本当に社会のあり方が変わるといいなと思います。インディゴちゃんやクリスタルちゃん(その次にレインボーちゃんたちも来ているとか)のサポートは私の活動の中でも大きなテーマのひとつです。がんばろうね。
2009.11.22
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昨日は久しぶりにセッション予定がなかったのでRuachのHPの更新していました。すんごい情報量になりましたがまだまだ増える予定です^^若干セッション内容や料金などの見直しもさせていただいています。今の自分の状態にもっともフィットする、中身の濃いセッションを目指すため、とみなさんのお役に立つことと私自身が輝いていることの両立のため、と思っています。どうぞおゆるしください。久しぶりに自分自身の過去も見直したりしました。すごい作業でしたが、本当に今だからわかることもたくさんあります。みなさんにたくさんの恵みと実りがありますように
2009.11.14
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昨日はお休みで、自転車で兄いにいの丘(映画涙そうそうにちなんだビーチの丘です)まで行って白い石でできたテーブルに大の字に寝そべってぼーっと空を見ながら歌っていました。で、私飛蚊症が結構あるのでその黒い点だのへんな細胞みたいなものとかを目で追っていました。すると突然、針の頭のように小さい光る点がたくさん現れました。そしてそのひとつひとつが縦横無尽にぴょんぴょんと飛んでいるのです。思わずわーすごい!!と声に出してしまいました。これは、世に言うプラーナだとすぐに思いました。レイキヒーラーのあきこさんのページでそっくりな絵を見たことがあったし説明文とも一致しています。プラーナは見るのがわりに簡単で誰でも見えるそうなのですが見てみようとか見たいと思ったことがなかったのでまったく想定外だったのもあってとてもびっくりしました。あとで到着した主人に、ちょっとここに寝て、と言ってプラーナが見えるから、と言うとすぐに「知ってるよ、前にも見てるさ」と言っていました。寝転ばないと見えないのかなとか話していて今朝はベランダで空を見上げたけれど普通に見えました。寝転ぶのは力が抜けてリラックスしてかるーい変性意識になったほうがやはり見えるからのようです。私は自転車で有酸素運動をしてきれいなビーチで寝転がりおまけに鼻歌も歌っていたので絶好のコンディションだったと思います。レイキや瞑想、自己催眠などに親しんでいる方はますます見えやすいのではないでしょうか。だからどうということはないけれどプラーナはエネルギーの一種なのでそれが見えるというのはなんとなく親しみがもてていい気がします。プラーナをどうぞ。
2009.11.10
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いつもAZU WORLDへ遊びにいらしてくださるみなさん私のセッション、ワークにいらしてくださるみなさんどうもありがとうございます。大好きな糸満なのですが、お隣の豊見城市に新住所が決まりましたのでお知らせさせていただきます。豊崎という海の上に新しくできた場所です。移転に伴い11月25日から12月7日まで対面セッションを休業とさせていただきます。12月8日から通常の営業となります。遠隔アチューメントとヒーリングにつきましてはできる限り対応させていただきますのでお問い合わせください。明日で渡沖からちょうど10ヶ月です。振り返ってみれば見事に運ばれ導かれているようです。現在は公私ともにスピリチュアルのワークに専念しています。以前は以前のバランスがありましたが現在はこれでバランスが取れているようです。人生の中で魂優位の時期になってきているようです。たまに爆笑したくなったりすることがあるのですが最近はそれでバナナマンに助けてもらいました。テレビを持っていないのでYouTubeで見ています。オードリーとか、ナイツとか、ガレッジセールの沖縄TVシリーズにもお世話になったのですがバナナマンのコントは秀逸でした。天才だわ!って久しぶりに叫んだくらいです。ほんとに、紙一重でした。地上波よりライブが似合っていました。笑いは健康の元、みなさん健やかにお過ごしください。そしてこれからもAZUをどうぞよろしくお願いいたします。
2009.11.08
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沖縄へ来て、一番のふれあいはやはりセラピーにいらしてくださる方々との交流です。沖縄にはユタさんという文化があるので目に見えないものとの交流はみなさん慣れていらっしゃいます。例えば東京では催眠が曖昧なものでなく理にかなった仕組みに則っていることをお伝えするのがひと仕事であったりしたのですがこちらではやはり違います。伺っていると、おからだの調子が悪い時にはまずユタさんのところへ、というのはとても普通のことのようです。だから私のところへいらしてくださる方もかみがかりではなくもう少し理論的な方法で、自分を変えることが大事なんじゃないかでも見えない力はあるし、みたいなある意味、催眠療法にかかるプロみたいな(変ですが)方々がみえることが多い。私はいろいろと想定して事前の準備とカウンセリングは入念なのですがいとも当然のごとく見事にトランス状態でハイヤーセルフと自在に対話なさる方も多く毎度のことながら、この仕事のこの密室で起こる不思議な出来事に日常立ち会っている自分に驚いたりしてみたりする日々です。最近はヒプノのセッションにもクンダリーニレイキを使っているのでそのせいも多分あって催眠の導入、変容、解放がとてもスムーズになっている。レイキと言葉の誘導だけでもヒプノのセッションのようなこともできるようになってもきている。ヒプノを受けてからレイキセッションにいらした方も「ヒプノの時と同じような状態になった」とおっしゃってこれまで受けたレイキではこんなことなかったのに、と言われていたのでおそらくこれはクンダリーニレイキの効果なのかな、と今のところ思っている。そうなってくると内容は傍から見ればちょっとした心霊療法とか浄霊みたいにも見えるかもしれない。だって本当に手をかざして、ちょっとしゃべるだけなんですから。そんなことをしている自分の姿に時々驚いてみたりもしています。でも求めて来てくださる方からセッションのスタイルは与えられるものなので素直にそうさせていただいています。こういったセラピーがいったいどのように変化をもたらすのか、と疑問に思われる方も多いと思うけれどなんといっても、おおもとと繋がる幸せ、安心、というのが深い意識の中に目覚めることが一番なのではないかと思う。セッション後わりとすぐに「これまで許せなかった人が許せていた」と伝えてくださる方も多くてそれは操作してなることではなくおおもとから分離していた孤独から解放され愛と繋がった時自然に起こる変化なのだと思う。そんなお手伝いを仕事にさせていただくのはやはりとても楽しく幸せだ。最近は毎週どこかで運動会。今日は最高の運動会日和です。みなさんにもこの優しい日差しが届きますように。
2009.11.07
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