大陸が眠るまで。

~8~





(やめろ……痛い)

何者かが、血のこびりついた黒髪をわしづかみにして、魔術士の体を片手で差し上げようとしている。
すさまじい膂力 (りょりょく) であった。
負荷のかかりすぎた何本かの毛が、まとめて抜ける音を聞いて、抗議のうめきをあげる。

ふわり、と身体が浮く感覚があり、上体を起こされると、手近な「牙」に背を押し付けられた。
ひと呼吸も許さずに「それ」は魔術士の身体を身体で押さえ込み、首筋に冷たい刃を沿わせた。
このときのバフォラートはまだ知らないが、その刃は人の身長ほどの長さの、両手持ちの大鎌のものである。

この強引で乱暴な迫り方に、バフォラートははじめ薄笑いを浮かべ、ついで驚愕 (きょうがく) した。
天使か死神かは知らない(どちらにしろ彼にとってはロクなものではない)が、
とうとう自分を別の世界に連れ去ろうとしている、そう思っていたのだ。
しかし、視界に入った破滅の象徴は、
……自らの姿をなしていた。

バフォラートがもう少し冷静であれば、それが「現在の」彼そのものの姿ではないことが解ったはずだった。
輪郭がこころもち華奢 (きゃしゃ) で、くちびるから顎の線までの長さも短い。
十五か、十六……修道に入る誓いをなし、修道院長の肝煎 (きもい) りで大学に入学を果たしたころの彼なのであった。

そしてさらに異なる部分として……紛 (まご) うことなき真紅の瞳がある。
赤目の表面が、沸き起こるあらゆる感情に波立ち、泡立ち、一瞬凄絶 (せいぜつ) なまでの虚無と、静寂がおとずれるのを、
バフォラートは充血によって薄紅のさした瞳で間近に観た。
それは破壊と破滅、永遠の混沌 (こんとん) を渇望 (かつぼう) する、あの赤であった。

総身の毛が逆立ち、血が逆流する。
魔術士は生まれて初めて、純粋な恐怖を感じていた。
何かに衝 (つ) き動かされるように、彼は突然、彼に覆い被さっているものの肩を突き飛ばすと、
鎌を持つものは意表を衝かれたのか、素直に、そして音もなく後退した。

(うん、まだつながっている)

首を撫 (な) ぜる指の感覚に、バフォラートは安心した。
身体とからだが離れたとたん、暴れ続けていた血流がその温度を下げ、凍てつくような秩序を得るのを、魔術士は自覚する。


(――肖ているから、怖いのだろうか)

人が神に抱く畏敬も、根源的には形の相似に由来するのかもしれない。
だとすれば……神もまた、自らの似姿たる人間を恐れているのではないか?


いったん引いた潮は、すぐさま怒涛 (どとう) となって押し寄せ、神学士くずれの男の思索をさえぎった。
逆巻く白波の一部を切り取ったかのような曲刃が、行く手をさえぎるすべてのものを飲みこもうと、
高く振り上げられ、打ち下ろされる。

空気を灼 (や) く鎌の一振りが、魔術士の眼の前を通過し……
ついで、これまで経験したことのない衝撃が、彼を襲った。
(まる) い軌跡に沿って、感情の暴風と洪水、そして爆発がまきおこり、
その圧倒的な情念が、バフォラートをバフォラートとして成り立たせている理念の柱脚をけずり、えぐり、
混沌の海の底へ引きずり込もうとする。

この間、すべて無言である。バフォラートの姿をしたものは言葉によらず、
その両の手に握り締めた鎌を振るって、巨大な敵意と害意とを相手の心の奥底へ送り込むのだった。

……着衣を一枚一枚剥 (は) ぎとられていくような。
そんなそら寒さを心に感じながら、丸腰の男は鋼の閃 (ひらめ) きを最小限の動作でかわしていった。
自らの肉体が、それまで彼が思っていたよりもはるかに疾 (はや) く、正確に動くことに驚きを覚えずにはいられない。
しかしその驚きよりも、完全な沈黙に対する不快と不安ははるかに大きかった。


バフォラートは常に言葉とともにあった。
物心つく前からつい最近まで、薄暗い聖堂にこだまする祈りの声につつまれて育ち、
早々に自分の格闘の素質に見切りをつけたのちは、神の力を行使するための呪文を進んで習い覚えた。
彼の学んだ神学が、啓典解釈を基礎とする、主知主義に凝り固まった非常に正統的 (オーソドックス) なものだったことも、
霊を重視し肉を軽視する傾向に拍車をかけた。

『はじめに言葉ありき』

理性に基づく言葉の絶対的な優位、それしか今のバフォラートには信じ、頼るべきものは残されていない。
彼にとって言葉のない人間などというものは、異端で、忌避 (きひ) すべきものだったのだ。
その、どんな悪魔よりも恐ろしい存在が、現実に眼の前にいる。
それも、自らの姿で。

(『こんなもの』が私であってたまるかっ!)

9回目の斬撃を身を反らせてかわしたころ、バフォラートはそう結論した。
すぐさま意識を集中し、萎縮 (いしゅく) しかけていた精神を活性化させる。
理知の炎を再び瞳に宿らせて、理性の信奉者は反撃の烽火 (のろし) をあげた。

「きさまは、どこから来た?」

(かす) れた声への答えは、白刃がもたらす空気のうねりのなかにある。




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