大陸が眠るまで。

~1~




杯は黄昏をそのまま注ぎ込んだような色で充たされていた。

玻璃の向こう側で、渦を巻く微細なもやが氷の表面を滑っている。
角ばった透明な結晶は次第にとろけていき、やがて涼やかな音を立てて水面をゆらす。
手に取ればうっすらと濡れた感触が心地よく、
口に含めばかすかに、煙でいぶしたような香りが鼻腔を抜けていく。

人間などが普段とるに足らないとして認識の閾値から外しているすべての動き、色彩、香り、味、音。
それらをごく自然に、完璧な調和をもって表現する存在のなんと偉大なことか!

(神は細部に宿りたもう……よく言ったものだ)

頭の中でのみ響く自らの声には、鮮烈な驚嘆とともに熟成された皮肉と反感がブレンドされている。
自然の創造力を評価し賞賛するあたりは魔術士として多少進歩したといえないこともないが、
それを結局は一個の恣意のたまものとしてとらえてしまうのが、
この男――魔術士バフォラートの、いわゆる「坊主根性」が抜けきれていないところであり、同時に限界なのかもしれなかった。


例によってシェリルの店での光景である。
半時ほど前から、バフォラート氏が窓際の席に腰を下ろしてちびちびと水割りを飲んでいる。
まとまった金が入ったとはいえ、昼間から酒を喰らうなどという行動はかつての修道士の選択肢にはなかったはずなのだが、
そこはそれ、小人が閑居して、善を為すことはないという証明に他ならない。

唇に当たる硝子の冷たい感触は胸の内でゆらゆらと揺れる炎を鎮めるようであり、胃におちた液体は逆にそれを煽るようでもある。
それは流れ出る朱をほくちに、風船のように張り詰めていた意地と自負の残骸を薪として燃え上がった、はるか深層でずっとくすぶっていた熾き火であり、
過度に攻撃的で衝動的であるくせにあまりにも繊細で動揺しやすい、血に由来する意思である。
要するにそれは、他ならぬ自分自身の心の働き、その分散の極にすぎないのだろうが、いちいちそれにかかずらっていると完全に振り回され、持て余してしまう。

(見えすぎるというのも、困ったものだな)

ケタースヘルから、あの仕事から帰って以来、これまで気付かなかった自分の微妙な心の動きが、見えすぎるくらいに見える。
しかし、見えることとわかることとはまた別の問題であり、二つを結び付けるにはまだまだ時間が必要のようだった。


グラスの中でゆるゆると融ける氷は、とりとめもなく拡がる思考に似ている。
青年はそのうちの一つを口に含むと、奥歯でがりりと噛み砕いた。

咽喉を通り過ぎていく間にもかたちを変え、熱を変え、名前を変えていくもの。
それは永い循環のなかでもう一度、まったく同じ組成で、同じ名前の結晶となりうるかもしれない。
ありえないとはいえない。

しかし、仮にその奇跡が起きたとしても――

(一度砕けてしまったあなたには、用はないのだ)

……何ものにも涜されない透明な清らかさをこそ、わたしは愛したのだから。
聖女の不可侵性を神の無謬の担保として。それを信じ奉ることで、姑息な狐は自己の欠陥に目を向けることなく偽りの徳に満足していた。
それが「愛」と称していたものの真相である。
今更になってそれがわかることにやりきれなさを感じて、バフォラートがすっかり水っぽくなったウイスキーをあおると、
真上に転じた視線の先でぎょろりと見開かれた瞳が二つ、魔術士を見下ろしていた。

「バフォラートってなぁ、あんたかい」




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