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2010年07月31日
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カテゴリ: 私の事、色々と
 7月の第3週。
 私にとっても大事な人を2人なくすという一週間となってしまいました。
 その2人の事をを書かせていただきます。
 まずは、18日になくなった祖母から。

 高校時代に半年、97年から約9年同居しました。
 大体の相場として祖父母は孫には甘い、とはよく言われますが、私の場合は誕生の経緯も含めて、祖母の世話になることが多く、祖母にとって私は孫というよりも自分の子供といった感覚で接していたのではないでしょうか。
 手がかかる孫であったのは間違いないところで、幼いころ父や母の入院の際三陸の祖父母の実家に預けられた時は、昼は近所の畑のあぜ道を駆け回り、夜になるとさっぱ泣いてどうしようもなかったな、という事はよく思い出話として語られていました。

 このように手がかかるのは、大人になっても変わらず『自分のことは自分でする』事を条件に三陸の家に住んでいましたが、週に5回主の仕事、週に2回副の仕事をしていた人間にとって、合間見つけて体を休めるのが精一杯で、時間見つけては自分のことしているようにはしていましたが、実際は祖母にも家事を手伝ってもらっていました。

 また、党活動や野球の遠征、仕事場所が北上という事もあり、しばらく家を空けることも多くありましたが、2003年に所要で5日ぶりに帰って来た時に、祖母が大変な状況になっていたときがありました。病院に何とか運びましたが、その時にギラン・バレ症候群を発症し、生死の境をさまよいました。

 と、同時にこの変調に気づけなかった自分に対して情けない思いもしまして…。
 その後祖母は持ち直し、3カ月入院した後回復しました。
 その回復力には医師や周辺の方も驚いたようです。

 直後の文章にも書きましたが、祖母は体は小さく痩せていて強そうには見えなかったのですが、若い頃唐の『粗食』で、無駄に太らず、内蔵も丈夫だったことが、幾度かあった高齢期になってからの重病からの回復につながった、という話です。
 体調そのものもそうですが、奔放だった祖父と8人の子供を抱えながら、複雑な状況だった家を切り盛りした生き様も、一つの強さを示したものではなかったでしょうか。

 残念ながら、家の跡継ぎを任せようとした方(私から見れば“叔父”)が次々となくなる事態に見舞われ、地域の方に支えられてはいても、がっくり来た様子もあった中での私との同居生活。
 しつけがサッパリされていなかった私は、祖母に厳しく言われることも多々ありましたが(ここの部分が『孫より~』の部分)それも愛情の一つ。それに対して月並みな孫みたいな孝行ができたとは、私は思ってはいませんが、一緒に過ごした時間ばかりは一番多かった孫としては「もうちょっと孝行したかったな」という部分と、それでも人生の最終期に一緒に居れたこと、ともに生活できたこと何ぼかでも役に立てたかな、と両方の思いをもっています。
 続いては、20日になくなった父に関してです。

 このブログを長年読んでいた皆様には、父に関しての記述がまるでない事に「?」な思いをされていた事でしょう。
 私が中学2年の終わりの時期に私の両親は離婚し、父はそのまま大船渡を離れました。その後、高校2年の修学旅行の時に東京駅で再会。高校卒業直後にも電話をもらっていましたが、連絡はそれきりになっていました。

 私の両親は時々大きいケンカはしますが、特段仲が悪いというわけではなく普通の家族として過ごしていましたが、私が中学一年の時に母が家出し、直後に父が腰痛で入院。兄は高校入学直後で大事な時期だったという事もあり、私が父の付き添いにつき、病院から登校する日々が続きました。思えば、そこから何か歯車がずれはじめた気がしました。



 貧乏ではあったものの、それでも月並みに一家で暮らしていた生活が一転してしまいました。母も病気と更年期が重なり、仕事ができず、生活保護に頼ろうにも、当時はそうすると高校進学にすら影響が出る始末。
 加えて母が他人からの干渉を嫌い、そういう保護関係は突っぱねたため、兄を三陸の祖母宅に預け、私は母と大船渡で2人暮らしをしていましたが、先に語った状況もあり、生活はひどいものとなってしまいました。以前「校則厳格にあてはめれば高校は退学食らってもおかしくなかった」ということを記しましたが、その原因はちょこっとしたズレから起きた、上記の出来事だったわけです。

 それでも不思議と2人を憎む事は考えませんでした。
 何だかんだありながらも、視線はきっちり向いていたから。
 もっと言えば、自分たちを「捨てよう」とはしなかったから。

 もちろん、当時も今も納得できないものはありましたが、もうそうしなければ…という雰囲気はなんとなく感じていたので、もうあきらめるほかないと考えるほかありませんでした。

 その代わりに一つの代償負ってしまったんですね。
 「家庭には期待しない」という事を覚えてしまいました。
 高校時代、朝は早かったかどうか言われれば微妙でしたが、夜は遅くまで部活などに明け暮れ、学校での生活に全勢力を傾けていましたが、今からら思えば「家庭に~」の反動だったんでしょうね。

 それでも先に言った通り両親ともに嫌うことはありませんでした。
 だから、 高二のときに東京で再会できた ときには、素直にうれしい気持ちが出ましたし。
 しかし、その後は父の方でも病気などで仕事が動き、連絡がつかなくなってしまったこと、私も北上に就職するなどして自分が生きるために必死だったこと。そんなこんなが重なって、父のことを考えるのが二の次になってしまいました。その部分、批判されても仕方ないです。

 それでも10年前に様々残っていた資料を元にして約3日間、父を探しに歩きましたがその途中で「善意がアダとなる」類のトラブルが起きてしまい、以後の手掛かりを一切つかめなくなる事態になってしまいました。こうなってはもはやお手上げ。その後もごく稀に親戚に連絡が来ることはありましたが、自宅への連絡はできない状態に。

 そんなとき、2年前に父が仕事ができなくなり、生活保護を申請したことから、父の居場所が分かる事態になりましたが、その直後に私が心筋梗塞で倒れてしまいました。これでは何もする事ができません。

 それでも、保護はされている事、居場所も分かったので、体調の回復次第でその場所に行くことができると…今年の秋に関東地方に行く日程を組み、その中に父のいる場所に行こうと思っていた。祖母の急逝でその思いを強くしていた所に、父の急逝を知らされたのでした。

 文中に書いた通り、あまり家庭のことを考えないで生きていた私でしたが、祖母も、父も一人の人間として向き合ってくれていた。残念ながら、それぞれの行動に応えられたかと言えば疑問符しかつかないのでしょうが、厳しい事言うのも私のための行動だった訳です。
 その答えをいい形で見せる前に2人は旅立ってしまいました。
 2人とともに生きていた意義をどう発揮していくか。

 どこかで見ていてくれな。


 追記。

 今、父の遺骨は北上の自宅にあります。
 思えば、母の家出、父の離脱、兄の進学、私の帰郷。
 この一家は離れ離れで過ごして来ました。

 22年が経ち、望んでいた形ではありませんが

 ようやくこの一家4人、そろって生活することになりました。

 その事ばかりは報告させていただきます。





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最終更新日  2010年07月31日 14時37分50秒
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