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「デジタル・ナルシス」 情報科学パイオニアたちの欲望西垣通 2008/12 岩波書店 文庫 281p Vol.2 No.535 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ この本、初版は1991年7月に岩波書店から出ているが、1997年1月に同じ岩波から同時代ライブラリーの一冊として再刊されている。当ブログはその再刊版を読んだのだが、この本はとても人気があるらしく、さらにごく最近2008年12月文庫本として再々刊されている。 図書館の棚の前をうろうろしていると、どうしてもこの人の本は目について、何冊か読んではみたものの、いまいち、アクセルとブレーキの関係で、スピード感が合わなかった。なにか一面的で、悲観的にさえ感じるのだった。だから、この人の一連の本は興味引かれるのだが、あまり評価することはなかった。 しかし、最近、この人は実は小説も書いているということを知った。私は著者のマルチタレント的な面を見逃していたのだ。あらためてこの人の本をなぞってみることにした。 この人のホームぺージのタイトルは「デジタル・ナルシス」という。一時は、この本にちなんで著者のニックネームのようなものになっていたらしいから、著者との親和性が高いネーミングなのだろう。このページでごくごく最近2009年02月発行の「コズミック・マインド」という電脳神聖喜劇・小説があることが分かった。機会があったらぜひ読んでみよう。Youtubeでは、NHK教育テレビ視点・論点2007年7月9日放送の「ウェブ社会をどう生きるか」を見ることができる。 さて、当ブログは、いつのころからか読書ブログという形態をとり、次第に冊数のカウントも入れることになり、よそ様に倣って、★で評価度も表示するようになってきた。評価の判断基準は、実にあいまいで、面白かったかどうか、内面的なものが挑発されたかどうか、というところでのあくまでの私的な感想でしかない。 最近は、どうもこの単純な評価方法に疑問が生じてきた。一冊の本を読んだとしても、読者のひとりとして、本に対する要求度が高くなってきたようである。つまり、科学、テクノロジーとしてのコンテナ度、表現、芸術、ジャーナリスティックな側面としてのコンテンツ度、そして、意識、スピリチュアリティを合わせ持っているかどうかのコンシャスネス度の、三拍子を求めるようになってきたのだ。 この本から、実験的にこの三つの角度から★マークをつけてみようと思い立った。科学、芸術、意識、の色分けをしてみようと思う。当然、この三分野において、★5を満遍なく取ることができれば、それは当ブログにとっての推奨本とも言える。 振り返ってみて、この三つの基準に満点をとれるような本があったか、というと思い当たらなくもないが、ほんの数冊に留まるだろう。そして、あったとしても、この新しい視点で、再読、再再読をしたうえで評価しなくてはならない。評価と言ってもあくまでその時の気分に大きく左右されるわけだから、極私的であることに変わりがないが、なにを本や読書に求めているのか、自分なりにわかってくるかもしれない。 そのような視点から考えると、この本は極めて得点度の高い一冊であると言える。もちろん、20年近く前にでた本であり、当時のインフラ状況や、周辺科学の発展度において、情報が最新とはとても言い難い。むしろ、お笑いになる部分さえある。しかし、この本が出版された当時に私がこの本にめぐりあい、内容を理解できるほどの読解力をもっていたら、まちがいなく、三分野において満点をつけた可能性が高い。 当時の私は、ここまで守備範囲を広げることはできなかった。興味関心があったとしても、日々の子育てに追われ、自らの生活を成り立たせることに精いっぱいだった。いや、今だって、時代が時代なら、この分野にはあまり首をつっこまなかったかも知れない。 この本がでた1990年前後の時には、まだおとぎ話だったようなネットワーク社会が、20年後の現在、あたり前のように目の前に現出し、好むと好まざるとにかかわらず、生活のなかで、このデジタル・ナルシスの世界を生きていかざるを得なくなった。情報科学から生命哲学への切り込み。この本はかなり以前にそのきっかけを作っていたと言える。 もしかしたら、、やがて人間は、直接抱擁しあうかわりに、三次元ヴァーチャルアイドルの滑らかな肌を通して、お互いに疑似的セックスをしあうようになるのかもしれない。 こんな異様なサイバースペース未来図を、ただのSFとして笑い飛ばすこともできなくはないだろう。だが、情報機械が本質的にはらむ一種の病理に気づかないのは愚かというものである。 病理があるとすれば、その処方もまた、どこかに存在するはずだ。私は現在、おぼつかない足取りでそれを求めている。p262 この再版版のあとがきは1996年に書かれたものだが、ここで著者が預言していることは、現在はセカンドライフなどで実際に行われるようになった。すでに21世紀もまもなく10年目になろうとする現在、すでにデジタルネイティブという世代さえ生まれてきている。Om Mani Padme Hum
2009.02.28
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「子どもと親と教師のためのサイバーリテラシー」 ネット社会で身につける正しい判断力 矢野直明 /サイバーリテラシー研究所 2007/01 合同出版 単行本 110p Vol.2 No.534 ★★★★☆ ということで、さっそく図書館を見渡してみると、たしかに彼の本はあった。横断検索すると、なんとどこの図書館にも、彼の本の1~2冊はあるようだ。凄い。どこか常識的な、なかばコモンセンス的なアプローチは公立図書館では大いに好まれるということなのだろう。 著者は朝日新聞から「アサヒグラフ」、「ASAHIパソコン」、「月刊Asahi」、「DOORS」などの編集や創刊に関わってきた人であり、定年退職したあとは、サイバーリテラシー研究所を開設した、とのことである。 これからのIT(アイティ、インフォメーション・テクノロジー、情報技術)社会を豊かに生きるためにはインターネットの全貌を知ることが不可欠で、このような考え方を私は「サイバーリテラシー(IT社会のリテラシー=基本素養)」と呼んでいます。p104 著者の他の本はともかくとして、この本は「子どもと親と教師のためのサイバーリテラシー」であるから、イラストがついている、というより絵本のような分かりやすさで、小学生にもばっちり理解できる程度のことが書いてある。 スパムメールへの対処法 スパムメールとは、覚えのないところから勝手に送りつけられてくる迷惑メールのことです。スパム(SPAM)とは、もともとアメリカで開発された加工豚肉缶詰の商品名です。「スパム、スパム」と連呼するコマーシャルがきっかけで、「不特定多数に送られてくる迷惑メール」の意味で使われるようになりました。 アメリカでは、流通しているメールの7割から8割はスパムだという調査があります。ケータイメールも同じような状況で、NTTドコモが数年前に調査したところによると、比較的かんたんなアドレスを新しくつくると、その後の一週間で2600通の迷惑メールが届き、そのうち約8割がア〇ルトサイトでした。スパムメールがインターネットを占拠しているようです。p76 (○=ダ。楽天倫理規定により伏せ字) スパムが商品名で、しかも加工豚肉缶詰だったとは知らなかった。なるほど、そういうことだったのか。なにはともあれ、このスパムの数はすごい。当ブログではさまざまな対策をしているので、ほとんど影響はないが、サイバー空間の能力を狭めてしまっているこのスパムは、根本的な対策が必要だと思われる。微量であってもメールを有料にすれば、無差別に送ったとしても、経費に影響してくるので減るのではないか、と思ったり、プロバイダがなんらかの処置をすべきであろう、と思ったりするが、他の一般的なユーザーの権利も狭められるので、一筋縄ではいかない。 著作権などの問題についても触れており、当ブログも無関係ではない。 複製などがゆるされる例外的な場合(1)引用することに正当な理由があること(2)引用は適正な範囲であること(3)自分の文章が主で引用は従であること(4)引用箇所を「」などの引用符で囲んで明確にすること(5)出典を明らかにすること p100 読書ブログである当ブログは(1)については正当だと自己判断しているわけだが、たまには、かなりの長文を引用をするので(2)ではグレーゾーンに引っかかる可能性は無きにしも非ず。しかし、ブログ全体として見た場合、引用部分は(3)で言うところの「従」でしかないはずだから、まぁ許される範囲ということになるだろう。(4)については、当ブログでは色分けしており、2008年からはこのマルーンカラーで統一している。これは、チベット密教僧の修行服に共鳴するようにこの色を選んだのであった。(5)については、楽天のショッピングを紹介するとともに、引用したページも最大限表記している。これは、自分であとで再読するときのための目印でもあるが、当然この著作権を意識しているからでもある。 しかし、これだけ注意をしても、著作権やサイバーリテラシーの問題はかなりデリケートな話なので、なにか抵触する部分があれば、各方面からの早めの叱正をお願いしたい。 この本に書かれている程度のことは、教育の現場ですでに指導されていると思われるが、徹底することは、意外と簡単なことではないだろう。
2009.02.28
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「Googleを支える技術」 巨大システムの内側の世界西田圭介 2008/04 技術評論社 単行本 271p Vol.2 No.533 ★★★★★ 当ブログも100冊目くらいまでは、いつ頃どんな本を読んだかは大体分かっていたから、カレンダーで検索できた。ところが数百を超えて500冊目くらいになった時は、何をいつ読んだのかほとんどわからなくなった。しかたがないので、自分でリストを作ってみたのだが、 人名索引といい書名索引といい、実に手間がかかる作業でいて、なかなか役立つものになってくれなかった。だからいまだに工事中である。現在、工事は中断していて、再開する予定はないので、工事が完了することはありえないだろう。 それで、いつのころから、自分の書いた日記を検索するのに、Googleを使うことが多くなった。本のタイトルだけでは自分の書いたものだけは、数十番目になってしまうので、前後にハンドル名Bhaveshをくっつける。つまりたとえば、この本を検索する場合、「Googleを支える技術 Bhavesh」とするとすぐ見つかる。これは便利である。だから、最初はいろいろタイトルを自己流につけていたのだが、自分で自分の書いたものを検索しやすくするために、途中からは、日記のタイトルはすべて読んだ本のタイトルそのままとすることにした。 当ブログが、曲がりなりにも数百の人々に日々来てもらい、多くの大学からのアクセスがあるとしたら、しかもそれが他の人々のブログとの若干の差異になっているとしたら、このタイトルの付け方にあるかもしれない。検索するにしても、検索してもらうにしても、Googleがなければ、当ブログの存在意義は各段下がってしまうだろう。 ある時半年か一年前くらいだろうか、自分の日記の下に「Ads by Google」という三行広告が三つ付いていることに気がついた。そのほとんどは、どうも自分の日記が戯画化されて、おかしな方向の広告がついているので、あまり歓迎はしていなかったが、ほんの数日前、サイバーリテラシー研究所の矢野直明という人の広告が載っていた。 検索してみれば、結構著書も多く、長い期間活躍している。なんで今までこの人の本に手が伸びなかったのだろうと思いつつ、この人の本の三行広告をつけた「Ads by Google」は、すこしづつ私のブログを学習し、広告も次第次第にジャストフィットする確率が高まってきているのだろうか、と再認識した。そして、これがアフェリエイトだとするなら、ここから私にポイントは授与されているのだろうか。そんなことまで気になり始めた。 この本、テクノロジーの本だが、難しいのだか、やさしいのか分からない。 本書は、情報系の大学3年生程度の予備知識で読みすすめられることを目指しており、あまりにも専門的な内容については踏み込んでいません。それでもコンピュータについての数多くの専門的用語が出てきますが、これからの情報処理の世界に入ろうとする若い学生に読んでもらえたらと思っています。pvi 私は情報系の大学で学んだわけではないので、ちんぷんかんぷんのところも多いが、まがりなりにも、1983年施行第一回携帯コンピュータ検定の合格者である(4級だが・・・・トホホ)。意を決して読んでみるとほとんどの意味は理解できるようだ。 Googleはオープンソースソフトウェアを大量に利用し、オープンソースソフトウェア開発を支援し、また自らも数多くのオープンソースソフトウェアを公開しているにもかかわらず、その業務の中心的テクノロジーはいくつかの論文が断片的に概要が示されているだけで、全容を把握するのは困難です。もっとも、断片的にでも概要がわかるのはGoogleのオープンな側面だと思います。piv もちろん、この本に目を通したからと言って、Googleのテクノロジーを理解したことにならないが、どちらの方向に進んでいて、どのような枠組みになっていて、実はどのような問題を抱えているか、ということについてはおぼろげながら理解できる。 最近、「Google Earth」で伝説の島アトランティス発見?なんてニュースが話題になったが、Googleは海底探索船まで出していたなんて、いやはや、ストリートビューといい、いったいこのテクノロジーの拡大はどこまでいくんじゃい・・・・。これからも目が離せないなぁ。
2009.02.28
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<1>よりつづく「共産主義が見た夢」 <2>リチャード・パイプス /飯嶋貴子 2007/02 ランダムハウス講談社 全集・双書 222p ★★☆☆☆ このようなテーマの本があり、このような形で概観的になにごとかを括っておかなければ、ものごとは整理できないことはよく分かる。この本を読もうとしても、最初の意気込みとは裏腹に、途中からどんどんページをめくるスピードは速まり、最後は、ちり紙交換に出すために古新聞を縛っている時のような気分になる。 前回、この本を読んだ時も、いまいち喰い足らない本であるとは思ったが、かと言って、類書で好書といえるものもなかなか見つからない。今回も★2だったが、前回も★2つだったのを見て、自分なりに納得した。誰がどの地点でどのような意図を持って書いているのか、周辺情報を整理しないと、一概に一冊の本、として評価できないが、この本は、お祭りのあとの、醒めたピザのような味気ない一冊と言えるだろう。ソビエト共産主義を批判し、総括するにしても、そこからなにを引き出すのか、その辺がいまいちこの本から見えない。 著者は米国ハーバード大学歴史学名誉教授であり、レーガン政権時の国家安全保障会議でソ連・東欧問題顧問を務めるなどした(著者紹介)ということだから、この本において、自らが依って立つ基盤をうまく隠していたとしても、明らかに意図的に書かれた一冊であることは確かなことだ。つまり、なんであれ、「共産主義が見た夢」は間違いであり、ほとんどすべてが全否定されるべきプロセスであった、という結論に導かざるを得ない一冊であり、お寒い一冊でしかない。 団塊の世代が還暦を迎えたせいか、最近は、彼らが青春時代を送った60年代から70年代初頭を振り返るテレビ番組の特集が何回か放映されたことがあった。多くは東大安田講堂や日大全共闘の「活躍」を悲哀を込めて振り返るものであり、そこから導き出される結論は、必ずしも明るい夢へとつながるものではない。むしろ、後悔の情に満ち満ちた青春時代の酸っぱい思い出、という味付けである。 それはそれでいいのだろうが、あの時代における思想的な背景には、よくも悪くもソビエト共産主義がバックに控えており、揺るぎなき大国主義の亡霊は、当時の若者たちを挑発し、また嘲笑していたようにさえ見えた。ソビエトや東ドイツが崩壊したとしても、その後、中国共産党があり、その影響下にある北朝鮮のような政治体制が残り、キューバやその他の社会主義的体制があり、今後、人類全体の「夢」はどのような方向へと導かれていくのか、気になるところではある。 ここまでを要約してみると、共産主義は失敗したのであり、それは少なくともふたつの理由で失敗する運命にあった。ひとつは、その第一の目的である平等主義を強化するためには、特権を要求する強制的組織をつくることが必要となり、したがってこれは平等主義を無視することになる。ふたつ目は、民族的・領土的忠誠心が階級への忠誠心と対立するときは常に、そしてどこでも、前者は後者を制圧し、共産主義をナショナリズムへと還元していく。これが、社会主義がいとも簡単に「ファシズム」と結びつく理由である。この現実を認めたとき、1990年以降のソヴィエト連邦共産党を引き継いだロシア連邦共産党は、すべての国のプロレタリアートに団結を要求するスローガンを放棄したのである。p215 一種、勝ち誇った勝利者宣言であり、敗者への引導を渡しているような所業であるが、他者を嘲笑している本人の足元を見た場合、こちらもまたお寒い状況であることにはかわりない。ブッシュが去り、オバマが登場したことで、一時の場を持たせてはいるが、こちらの矛盾もまた、根深く、一筋縄ではいかない。他国を評論している場合ではない。 オバマが社会活動家として自らの人生をスタートさせた中央アメリカのシカゴ・サウスサイドの人々の暮らしは、他国の失敗を笑っているような状態にはない。オバマは、その政権の主なるテーマとして、ソフトエネルギー、医療、教育を挙げたが、ロシアの人々が置かれている立場や、中国の内陸部に取り残されている人々、あるいはアジアやアフリカの多くの人々が置かれている状況と、アメリカの多くの人々が置かれている立場はそれほど変わってはいないのだ。 アントニオ・ネグリあたりの動きも気になるところではなるが、共産主義がみた「夢」は失敗だった、と結論づけてオダをあげている場合ではない。それではどうするか、人類の夢はどのような形で未来へとつながっているのか。そのあたりについては、一切この本からは見えてこない。
2009.02.28
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「ジャーナリズムの可能性」原寿雄 2009/01 岩波書店 新書 212p Vol.2 No.532 ★★☆☆☆ 新聞の宅配をやめてから、なんと23カ月が経過してしまった。あっと言う間だった。一か月持つだろうか、と実験的に始めてみたのだが、なんの不足もなく私の日常は推移した。最初の頃こそ、ちょっと禁断症状がでて、よそのお卓に訪問した時など、傍らにころがっている新聞が気になってしかたなかった。たまに読めば、これがなかなか確かに面白かった。 しかし、最近はもう見ない。面倒くさい。昔、新聞は多いに役立ったものだった。毎日毎日学校に行く時は、アルマイトの弁当箱を包むのは、新聞紙以外にはなかった。端午の節句、兜を折り紙で作るには新聞紙以外の素材はなかった。季節の変わり目には、畳の下に敷くのは新聞紙だった。トイレだって、ロールペーパーがない時代は、おおいに新聞紙が活躍したものだ。 最近、新聞紙は邪魔ものだ。すぐに家のなかの祖大ゴミになってしまう。ちり紙交換だって、あまりいい顔しない。どうかすると、最近は新聞紙を廃棄するのだって有料、という時代になってしまったのだ。 ジャーナリズムの基本は新聞だ。この本の著者は、その新聞に記事を配信していた共同通信に勤めていた。1925年生まれ、現在、御年84歳になられる。93歳のむのたけじといい、75歳の歌川令三といい、オーソドックスなジャーナリズムを信じているのは、すでに遺言としてのなにごとかを残そうとする年代の人々しかいないようだ。 髪の毛ふさふさで永遠のジャーナリストのような風情の鳥越俊太郎だって、1940年生まれの69歳、最近、大病して棺桶に足を半分入れかけてしまった。筑紫哲也は昨年73歳で鬼籍にはいった。入れ歯があわないのか、しゃべっていることがよく聞き取れなくなった田原総一朗もすでに74歳。テレビ界のジャーナリストたちも、もはや博物館の蝋人形と化しているかのようだ。 言論統制の第二次世界大戦下の抑圧から解放された時代、高度成長期においてジャーナリストという人たちは、自由を謳歌していい思いをしたのだと思う。その思いがどこまでも拡大していくものだ、という幻想を持っていたのではないだろうか。今、若い自称ジャーナリストたちは、このおおらかな先輩たちの業績をどのように見ているのだろうか。 当ブログで以前のページに貼り付けた写真は、日本に「復帰」して二か月後の沖縄を訪ねた私自身の18歳の「雄姿」だ。この後、この新聞社に私は抗議のために「突入」した。遠く離れた地で発行した私のミニコミがなぜかこの年、無断でこの新聞に掲載されたのだった。なぜか。これはこの新聞社の独時の取材ではなかった。つまり共同通信社の配信した記事を、安直に自分の新聞の文化欄に貼りつけただけだったのだ。 それまでも朝日ジャーナルやNHKテレビにも取り上げられていたが、それは直接取材されたものだった。だけど、この新聞での取り上げられ方は、実にいい加減な穴埋め記事に使われただけだった。自らのミニコミに込めた自分の思いは、このように消費されるのだ、と18歳で理解して以来、私は共同通信社というところを信じていない。この本でなんと美辞麗句を並べても、この会社の人間を長く続けた著者については、私は胸襟を開くことはできない。 ジャーナリズムは、当ブログにおいて、テクノロジーやスピリチュアリティと並べて、三本柱の一つと重要視しているが、いわゆる職業ジャーナリストとしての特権的な独尊的態度は受容できない。ジャーナリズム的態度は、公平性、客観性、先進性など必要不可欠な要素ではあるが、それを職業的に特別視する時代は終わったのではないか。 各論的には、ジャーナリズムの行ってきた業績は評価されることも多いし、ジャーナリズムにしかできないことも確かにある。そして残されている課題というものも、わからないわけではない。しかし、総論的には、著者のいうような形での「ジャーナリズムの可能性」は限りなく縮小傾向にあるのは間違いないだろう。 古き良き時代を体験したジャーナリストたちが、それぞれに「遺言」を残していくのは許すとしても、時代は、これらの老兵たちの屍を踏み越えて、新しきジャーナリズムを見つけてしまったのではないだろうか。そしてその新しきジャーナリズムは、もうジャーナリズムとは呼ばれないかもしれない。 「ジャーナリズムは戦争を防げるか」p141という問題意識からして、過去の自らのあやまちを顧みない、傲慢不遜な態度としか言えない。ジャーナリズムが「戦争を防げる」としたら、ジャーナリズムは「戦争を称賛」することさえできることになる。ジャーナリズムがなかったら、起きなかった戦争さえある。ジャーナリズムが戦争を防げるか、という問題意識はもう古い。 戦争を防ぐのはジャーナリズムの良識ではない。地球人ひとりひとりが意識的になってスピリチュアルになる以外に、戦争が「終わる」可能性はない。ジャーナリズムの良識は、スピリチュアルな意識のネットワークによって、乗り越えられていく以外にない。その時、戦争は起きることができなくなる。防ぐ必要さえなくなるだろう。
2009.02.27
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<1>よりつづく「ブログ論壇の誕生」 <2>佐々木俊尚 2008/09 文藝春秋 新書 254p ★☆☆☆☆ この本もまた「ひょっとすると・・・読みなおし・シリーズ」の中の一冊。あの本、第一印象で決めこんでよかったのか、何か見落としがあったのではないか、と一抹の不安を感じるなら、もう一回読めばいいのでは、と読みなおしてみた。 再読してみて、私は自分の直感に自信を持つようになった。第一印象、直観はほぼ正しい。というか、私自身の視点なり方向性がでてきた、ということになるのだろう。極端に他人の意見に左右されなくなった。もちろん年齢的にも、職業的にも、そんなにブレてばかりいてはお仕事にならないが、それでもやわらかな感性を持ち続けていたいという希望がある限り、硬直して動脈硬化を起こすわけにはいかない。 読みなおしてみても、この本はやっぱり面白くなかった。ここに「ブログ」という文字は踊っているが、私が見ている世界とはまるで違った世界の話だった。なにもこの本の存在が間違っている、ということではないのだが、いちいちこのような本に浮気心をくすぐられる自分が間違っている、ということだけなのだ。 最初はこの人の本は面白かったのだが、いつのころからか、つまらなくなった。最近特にそう感じるようになった。そしてその感はこの本で極まった。たぶん、次の著者の本は、最初から私は目を通さないだろう。<3>につづく
2009.02.25
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<1>からつづく「パブリック・ジャーナリスト宣言。」<2>小田光康 2007/11 朝日新聞出版 新書 222p ★★★☆☆ 前回この本を読んだのは、ちょうど奥付に書いてある発行日2007年11月30日だった。通常この手の本の発行日は一か月ほど遅れて表記されているので、すでに数週間前から店頭に並んでいたのだろうが、この手の本には特に目を引かれる私だから、見つけてすぐに手に取ったことを思い出す。 そして、その場で立ち読みしながら、この本を巻頭から巻末まで三回ほど目を通した。買うべきか買わざるべきか迷ったが、結局買わなかった。あの時、買っていたら今回再読することはなかっただろうし、買わなかったからこそ、買わなかった、という自分の行為は正しかったかどうか検討のために、すでに図書館に収められていた分から借りてきて再読してみた。 結論としては、立ち読みでは★4つけていたが、今日は★3つに下がってしまた。つまり、私はこの本を買わなくてよかった、と結論づけた。いや、今回読み通した段階では、正直言って★2つでもいいのではないか、という失望感さえ持った。しかし、この本のタイトルに免じて、そこまで酷評するのはやめよう。 非常に魅力あふれるタイトルではあるが、矛盾がいっぱいあって、理屈が通らないことがたくさんある。まず、著者がいたずらなマスメディアに対するカウンターカルチュアルな意識を持ち続けていること。パブリック・ジャーナリズムといいながら、シロートでもプロにまけないことができますよ、という生きがりばかりが目につき、片ひじが突っ張りすぎているように思う。 ジャーナリズムがジャーナリズムを論じているのでは、マッチポンプでしかない。消防士が放火して消火活動に出動しているようなものだ。著者は、ジャーナリズムの、本当の意味でのターゲットを見失っている。なんだかんだ言っても、結局はコンテナとしてのジャーナリズムにこだわってしまっているのだ。もし人々に伝わるべきニュースがあるとするなら、お昼のNHKニュースだろうが、電車の中の噂話だろうが、どこかの国から飛んできた風船紙爆弾でも、なんでもいいのだ。市民が書いたから市民ジャーナリズム、パブリック・ジャーナリストが書いたからパブリック・ジャーナリズムなんて、区分けは、ある意味、茶番だ。 「東京視点」の閲覧数は1日2万件を超すような盛況を呈してきたのですが、内側は自転車操業もいいところ、・・・(攻略)。p42 著者はもともとジャーナリズムを学び、キチンとしたジャーナリズムにも籍をおいた人なのだから、この手のジャーナリズム観を持っている人は、通常のジャーナリズムに戻ったほうが、私はいいと思う。93歳のむのたけじが「戦争絶滅へ、人間復活へ」のなかで「朝日を辞めるべきではなかった」p69と述懐していることを私は重く受け止める。マスメディアにはマスメディアにしかできないことがある。 ここで著者がここで「閲覧数は1日2万件を超すような盛況」と書いていることに憐みを覚える。2万だろうが、200万だろうが、部数を誇るなら、やはりマスメディアとなんら視点は変わらないと私は思う。私のブログ・ジャーナリズム観は、読者は200人で十分だ、というところにある。万人受けする記事などを、個人が、ボランティアで書いたりすべきではないのだ。それでは荷が重すぎる。責任感が強いのもいいが、それでは、すぐに燃え尽き症候群になってしまうのは、あたり前だ。 マスメディアと個人メディアの違いは、ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の比較にも求めることができるのではないだろうか。マスメディアの尺度はあまりの大まかで、直線を長く引きすぎる。それでは、球面を表現できない。描いたとしても、無骨な6角形や8角形でしかない。ホンの短い、線とさえ言えない短い点が、無数につながってこそ円は形作られる。そして縦横に広がってこそ球体となる。個人にしかできないことがある。個人のつながりでしか表せないことがある。そのことを著者は見逃している。 今では極端な話、携帯電話一つで取材して原稿と写真を瞬時に送ることができます。新規に携帯電話を購入するのであれば、「1円」で足りることもあります。わたしは地方出張する時ではPHS{ウィルコム」の携帯端末を利用しています。これ1台でネットを閲覧することができますし、パソコンとほとんどおなじワープロや表計算の機能や、デジカメ・録音機能も付いています。料金はは定額制なので1ヵ月1万円もかかりません。p33 だから、パブリック・ジャーナリストよ、ほとんど無料で良質な記事を書け、というのはおカドちがいだ。この言葉を言うなら、まずはプロのジャーナリストたちに言うべきだ。そしてNHKの視聴料とか、新聞の購読料を値下げせよ、と要求すべきだ。 わたしは地方取材に出かけるとき、軽バンの車内を「PJニュース」の移動支局に変身させます。変電機、パソコン、カメラなどの取材道具や、寝袋やマット、コンロや食料といった野営道具も積み込めば、立派な支局になります。p152 だからこんなことは、すべて朝日の新聞記者やフジテレビのプロデュサーや共同通信のジャーナリストたちがやればいいことであって、コスト削減して、もっともっと良い記事を安く配信すればいいだけのことなのだ。パブリック・ジャーナリストになにもこんなビンボーな体験を強いる必要はない。 個人メディアのジャーナリストたちは、コタツに入ってぬくぬくとせんべいでもかじりながら、パジャマのまま、パソコンの前に向っていればそれでいい。なにも何万人も大向うを唸らせるような記事など書くべきではない。せいぜい数人数十人に伝わる程度でいい。誤字脱字それもOKじゃないか。もし、そこに真実があれば、地球の裏側まで伝わる。もしそこに真実がなかったら、何億人に伝わったとしても、単なるガセネタでしかない。 コンテナ、コンテンツにこだわり過ぎだ。真実はどこにあるのか、もう一度、よくよく見直したほうがいい。
2009.02.25
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「オバマ」YES WE CAN!ロバ-タ・エドワ-ズ /ケン・コ-ル 2009/01 岩崎書店 単行本 78p Vol.2 No.531★★★★★ ちょっと早すぎる伝記、サクセスストーリーという感じがしないわけでもない。このようなカラー写真とカラーイラストが満載で、しかも全文ルビまで振ってあるアメリカ大統領の本など、ブッシュやクリントンの時もでたのだろうか。なんとも人気のある大統領が登場したものだ。これから4年間、どのような理想を描いて世界をリードしていくことになるのだろう。 日本時間の本日の昼にかけて、オバマ新大統領が就任後初めて連邦議会上下両院合同本会議で演説を行なった。世界的経済危機のこの時期にスタートする政権は、誰であっても容易ではない。不備もあるだろうし、反論も続出することだろう。あの演説を聞いていて、彼がまず、エネルギー、保険、教育、を三大課題に据えると発言したことに、共感する米国民は多いに違いない。 エネルギー問題は化石燃料依存からの脱却であり、容易に原子力依存へスライドしていくのではなく、もっと広範な自然エネルギーの開発に力が入れられることに期待する。日本にもこの技術は蓄積されているが、眠ってしまっているものも多くある。テクノロジーは十分に開発され活かされてこそ意味がある。 保険の問題は、ヒラリーも手掛けてきた問題だが、日米ではやや状況が異なるだろう。日本においては、一般的な医療保険は、社会保険や健康保険で、決して安くなく、国民皆保険体制としては完全ではないまでも、アメリカ国民がさらされている状況よりは良いと言える。 日本の識字率や高学歴率もアメリカよりも上だろう。オバマは、国民がついている4分の3は高卒以上の学歴を必要としているが、高校を卒業していない人もかなりの数になり、大学に入学しても卒業する人は半分だ、と嘆いた。そして、その状況を改善するために、資金を投入すると言明した。 翻って考えてみると、今アメリカがオバマといっしょに立ち向かおうとしている問題は、日本ではかなりの確率で達成されていることではないだろうか。日本は世界に誇れる国なのかどうかわからないが、少なくとも、オバマの政策に反対ではないものの、日本人としてはあれ?と、ちょっと拍子抜けするような問題でもある。 もしオバマ・アメリカが持っていて、現在の日本が持っていないものとは何か、と問うなら、それは、夢ではないだろうか。理想や、それぞれが良かれと思う目標に向って、「YES WE CAN!」と手を挙げること。人間として最も基本的なことが、オバマは多くの人々の支持の中でできていて、困難な課題に立ち向かおうとしている。この基本的なことが、今、日本ではなかなかできない。 YES WE CAN! オバマはその生い立ちの中で、自らの存在を、「私は誰か」を、問い続けた。そして弁護士となった彼が選びとった道は政治の道で、そして、共和党もなく民主党もなく、性別、肌の色、年齢、信条や宗教を超えたところでの融合を訴える。 渡米した麻生首相が演説直前のオバマと一時間ほど対談して、どんなことが語られたのであろうか。出るタイミングや手続きがもっと正当性をもったものだったら、麻生という人も、多くの人々に向って夢を語れる人であったかも知れない。しかし、今彼が、オバマのような夢や理想を語れないのはなぜなのだろうか。 いや、ここでグダグダと政治家論議を繰り返すのはやめよう。リーダーが誰であろうと、理想や夢を追い続けるのは、私たちひとりひとりの権利であり、責任だ。何に夢を託し、何を理想とするかは、人それぞれだが、笑顔で、みんなと、幸せになりたい、と思うのは、世界中共通しているのではないだろうか。泣いたり、割れた卵のようになってしまうことは、避けたい。避けなけばならない。その立場にならないようにしながら、現在その立場にある人々に手を差し伸べることを忘れてはならない。 YES WE CAN! オバマの笑顔の表紙を見ながら、私もそっと言ってみる。
2009.02.25
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく<1>よりつづく「ウェブは資本主義を超える」「池田信夫ブログ」集成 <2>池田信夫 2007/06 日経BP社 /日経BP出版センター 単行本 245p ★★★★☆ 最初は一ヶ月に数百ページビューしかなかった私のブログは、いまや最大1日3万ページビュー、1万5000ユーザーを超えるようになった。もうこれ自体が立派なメディアである。資本と情報を集中的に管理する工業社会の枠組みが崩れるという変化が、メディアに反映しているのだ。 資本主義が300年続いたとすれば、それに続く時代はまだ始まったばかりであり、真の変化はこれから起こる。具体的に何が起こるかは予測できないが、集権型から分権型へという方向は今後も変わらないし、不可逆だろう。その過程で、既存の大企業やマスメディアの一部は没落するかもしれないが、一人の王が死ぬことは、次の王の誕生を意味する。したがって葬儀は祝典でもある。The king is dead. Long live the king! p3 個人メディアとして一日3万ページビューは最大限に多いと言えるだろう。糸井重里がかかわる「ほぼ日刊イトイ新聞」はアクセス数は日に35万、とか言われているが、必ずしも個人メディアとしてのブログではない。あるいは、芸能人や有名人が書いているブログは、さらに凄いことになっているかもしれないが、アクセスやページビューのカウンターが上がりつづけることが必ずしも、自らが「メディア」として存在しているという証拠にはならないと思う。 かくいう当ブログは、開設してから半年間は一日平均3アクセスだった。ほとんどなにも書いていなかったのだからしかたないが、現在は一日平均数百になっており、数百しかない、とは思わない。ある意味十分すぎるとさえ思っている。ネット社会が双方向性という特性を持っているとすれば、数百の訪問者があることは嬉しいが、それら数百の訪問者達のページまでこちらが出向いて、すべての情報を受け取ることはまず不可能だろうし、意味も感じない。 「80対20の法則」が働いているとして、数百のうちの20%の数十人だけであったとしても、その人々としっかりしたコミュニケーションができていれば、「6次の隔たり」でもって、地球人すべてとつながりうる可能性があるのだ。あえてアクセス数を誇ったり、アクセスを過大評価することはあってはならないと、私は思う。 しかしそれはすこしやっかみもあるかもしれない。アクセス数が数万、数十万になったら、それを体験したことのない人間には考えられないような感覚がでてくるかも知れないので、それはそれ、その可能性は当ブログにおいても残しておきたいものだ。 さて、「ブログを考える50冊」をリストアップしながら、「池田信夫ブログ」を思い出し、初読時はかなり走り読みだったので、ひょっとすると読み残しているところがあるのではないか、と再読してみた。やはり初読だけではわからないニュアンスがあり、お、これは★5つだな、いや、★フルカラーだ、★レインボー!だ、などと思いつつ、三分の一ほどまできたが、最後まで読み通したところで、結局は、初読時と同じ★4つにとどまった。 かなり以前から私はRSSリーダーを活用し、一時はMaxの100ブログを登録していたが、試行錯誤を繰り返すうちに、結局はその半分くらいで推移するようになり、そのリストのなかのトップから数えて片手の中に、この本の著者のブログは登録されている。 私が見つけてきたブログのなかでは、この著者のブログは、各段に読みごたえがある。こういう密度の高いものがブログと呼ばれるものであるかもしれない。そして一度はゆっくり目を通そうと思っているうちに、結局は読まないで日時だけが経過してしまっている。 なぜか。一つは、あまりに情報の密度が高いこと。つまりこちらの要求レベルを超えて、枝葉末節に入り込むことがあること。次に思いつくことは、面白いことは面白いのだが、こちらの最終的なテーマと、目的がずれていること。三番目に、著者が最初から自らのページビューについてふれているように、どこか独善的であり、かならずしも双方向性を望んではいないのだ、ということを感じたことだ。 科学、テクノロジー、インフラとしてのインターネット、そしてその中に一個人が参加する場合、ブログという形態は極めて魅力的だ。いくらリナックスやオープンソースが魅力的だと言ってもそのカーネルを解読して、そのコミュニティに参加しようということは、私には無理だ。せいぜい今書いている楽天ブログの機能を使いきる程度の「テクノロジー」を理解する程度が関の山だ。 コンテナとしてのブログをどのように使いきるのか。その場合、さまざまな利用方法が試みられてしかりべきだが、ジャーナリズムという表現形態は、とても魅力的だし、ブログという新進のメディア・ツールには則しているように思う。しかし、それだけでいいのか、という疑問がどこまでも残る。テクノロジーとジャーナリズムの融合としてのサイエンス・ジャーナリズムとしてなら「池田信夫ブログ」も悪くないのだが、それ以上の、なにかもっと別なものを求めようとすると、やはりこの本は★4つが正しい評価となってしまう。 それでは、ブログというテクノロジーを使い、ブログというジャーナリズム・ツールを用いて、真のコンテンツであるターゲットにすべきものは何か。テクノロジーがテクノロジーを生み出し、ジャーナリズムがジャーナリズムを論じている、という蛸が自らの足を食べているような図式から抜け出すには、その視線を意識、コンシャスネス、スピリチュアリティに向けなければならないのではないか、と思う。 テクノロジーは、超天才たちが一度発見し発明してしまうと、私のような凡人でも、その恩恵に浴することができる。アートやスポーツの達人と並ぶ優れたジャーナリストが活躍すれば、啓発された通常の人間は日々の生活を変えていくことができる。しかし、コンシャスネス、スピリチュアリティというものは、誰かが発明し、活躍したからと言って、「私」自身にとってはなんのメリットもない。2500年前にお釈迦さまがお悟りをお開きになったからと言って、もう私は何もしなくてもいい、というものではない。キリストが磔になったからと言って、あとはこの世に天国がきました、と浮かれている場合でもない。 テクノロジー、ジャーナリズム、スピリチュアリティは、当ブログの三大柱だが、それぞれに特性がある。この三本柱が見事に融合している著者やその本というものは限りなくすくない。テクノロジー、ジャーナリズムまでなら、この「ウェブは資本主義を超える」はなかなか面白い。現役のブログから発生した本としては、記録され繰り返し読まれ、語られるべき一冊であろう。しかし、惜しむらくはスピリチュアリティへの展開がない。かすかにオープンソースやマルチチュードに触れるあたりにその萌芽があるが、著者はその芽を大きく育てようとはしていない。
2009.02.25
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<2>よりつづく「ブログ 世界を変える個人メディア」 <3>ダン・ギルモア /平和博 2005/08 朝日新聞出版 単行本 417p ★★★★★ 当ブログの第一ステージを終えるにあたって、「ブログを考える本」をリストアップしてみた。さて、このリストの中でいちばん今なにを再読しておくべきだろうと、考えてみたところ、まずははずせないだろうと思うのはこの本だ。 さっそく図書館のいつものコーナー行ったら、貸し出された形跡がないのに開架棚にない。職員に聞いたら、バックヤードにしまわれてしまったという。ええっ? それはちょっと早いんじゃないですか。いくらドッグイヤーのIT世界とは言え、この本はまだまだ価値がある。もっともっと読まれてしかるべき本だ。すくなくとも私はまだまだ繰り返し読みたい。 インターネット上のツールとしてのブログ、新しいジャーナリズムのメディアとしてのブログ、この二つの融合の世界を見事に描き切っているのが、この本ではないだろうか。そして、それは必ずしも理想で書いたわけではない。インターネットの爆発から、9・11を経過し、ますます政治や文化と絡み合いながら、個人の力が試されてきた時代。そのような時代の潮流にあって、著者ダン・ギルモアは、ひとつひとつ具体的な例を引きながら、劇的なブログをとりまく状況を描いている。 オープンソースとしてのジャーナリズムや、韓国の大統領選に大きな作用をした「オーマイニュース」に対して、あるいはブログの機能をさらに高めるRSSやテクノラティ、P2Pなどなどに対して、更なる認識を深める必要を感じた。 先日読んだむのたけじの「戦争絶滅へ、人間復活へ」を読んでいて、この本のタイトル四文字熟語の文字を上下入れ替えたら、大変なことになるぞ、思ったものだった。時代はそっちのように行っていないだろうな、とちょっと不安になる。さて、こちらの本は、むしろ、「世界を変える個人メディア」というタイトルを上下入れ替えてみたらどうだろうと、思う。「個人を変える世界メディア」。逆説的だが、むしろ私にはこっちのほうが実態にあっているように思う。 ブロガーというのか、ブログ・ジャーナリストというのか、私はせいぜい「パジャマのままでパソコンの前に座っているだけ」の人間でしかない。最初はかなり手こづったが、ブログというものと多少つきあってみて、自らの中がかなり整理されたことを感じる。デジハリの杉山知之などは「何か考えをまとめなくてはならないとき、まずパワポを立ち上げる」と言っているが、以前の私の場合、その役割はエクセルだった。そして現在では、自分が書き貯めた個人的データべースとしての当ブログがその役割を担っている。 ごく最近あきらかになったことは、当ブログは決してエクセルやパワポで自らの考えを、ちまちまと個室でまとめているだけではない、ということである。個人的にはもちろんそのような効果もあるが、ブログを書くということは、全世界と対峙し得る行為なのである。ちょっと大げさな言い方ではあるが、最近の当ブログへのアクセス記録を見ていて、実にそう思う。 もちろん、当ブログのアクセス記録に痕跡を残してしまった人は、単に手がすべってワンクリックしてしまったのかもしれないし、本のタイトルで検索したところ他のたくさんの情報のなかの方隅にあった当ブログへのリンクをクリックしただけかもしれない。いや、ほとんどそうだろう。しかし、もしそうだとしても、すくなくとも、そのようにクリックしてもらえる可能性は充分にある、ということなのだ。これは限りなく大きな可能性だ。 なにかのきっかけで、このワンクリッカーたちが、リピーターになってくれるかも知れない、そういう期待感が湧いてくるのである。いや、ブログという機能が世界に向けて開かれている限り、そのようなブログ作りを課題とすることも当面の大事なテーマとなるだろう。似たような機能ではあるが、某巨大掲示板とか、SNSとは、この辺が大きく違っているように思う。 この本の英語原書のタイトルは「We the Media Grassroots : Journarism by the People,for the People」だった。「We the Media」なのだ。 佐々木俊尚の「 ブログ論壇の誕生」のような評論家然とした高見の見物とは、ちょっと視点が違う。 この本を貫いているのは、自由、反権力、先進性、だ。そして、著者ギル・モアは、地球人たちの未来に大いなる可能性を見ている。 インターネットは、印刷技術以来の最も重要なメディアだ。それ以前のメディアの特性をすべて包含し、最深部で、それ自体が変貌を続けている。インターネットによって誰もがライターに(最も広義において、しかもグローバルな読者を相手に)なれるとしたら、人々は大挙して押し寄せて来るだろう。インターネットは、メディアとビジネスモデルについて、これまで当たり前だと考えてきたことを、あまりにも次々とひっくり返していく。この変化に振り落とされないようにするだけで精一杯だ。トップダウンの階層構造から、はるかに民主的で混沌とした構造へ。その移行のただ中で、遠近感をもって変化をとらえ続けるのは難しい作業だが、私たちはやらなければならない。そして、この変化が最も重要な意味を持つのは、最古の情報形式の分野、すなわちニュースだ。私たちはこの創発システムの中で、新たな遠近感の恩恵に浴することになるだろう。そして、どうすればこのシステムがみんなの役に立つのかを学んでいくのだ。 ブログなどの現代のメディアは、フィードバックのシステムだ。ほぼリアルタイムで機能し、私たちが互いに差し出す溢れんばかりのアイディアと事実を捕られていく。インターネット上で私たちを定義するのは、何を知っていて、何を共有しているのか、ということだ。今、歴史上初めて、このフィードバックのシステムはグローバルで、しかもほぼ瞬時の打ち返しが可能になったのだ。p381 彼の文章には、分かち合いと愛があふれている。
2009.02.23
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<2>からつづく大学等からのアクセス<3> このリストアップは、当初の目的を達成したので、そろそろやめようと思うのだが、次から次とac.jpやらeduからのアクセス記録が積み上がっていく。いずれは打ち止めにするとしても、せっかくアクセスしてくれたのだから、公平性も込めて、今しばらく、気がついたときにメモしてアップしていくことにしようと思う。漏れてしまったら、ごめんなさい。*.nao.ac.jp 国立天文台 画像映像 *.kitami-it.ac.jp 北見工業大学 図書館*.rakuno.ac.jp 酪農学園大学 アルバム ***.chiba-u.jp 千葉大学 図書館*.kaiyodai.ac.jp 東京海洋大学 図書館*.tus.ac.jp 東京理科大 図書館*.tokyo-med.ac.jp 東京医科大 図書館 *.ris.ac.jp 立正大学 図書館*.sanno.ac.jp 産業能率大学 図書館*.waseda.ac.jp 早稲田大学 図書館 *.tuj.ac.jp テンプル大学ジャパンキャンパス OPC*.shinshu-u.ac.jp 信州大学 図書館*.juen.ac.jp 上越教育大学 図書館*.kanazawa-u.ac.jp 金沢大学 図書館 *.jaist.ac.jp 北陸先端科学技術大学院大学 図書館*.salesio-sp.ac.jp サレジオ高専 *.suijo.ac.jp 水城高 *.nanzan-u.ac.jp 南山大学 図書館*.osaka-cu.ac.jp 大阪市立大学 図書館*.baika.ac.jp 梅花女子大学 図書館*.notredame.ac.jp 京都ノートルダム女子大学 図書館*.kawasaki-m.ac.jp 川崎医科大学 図書館*.bunri-u.ac.jp 徳島文理大学 推奨PC*.kagoshima-u.ac.jp 鹿児島大学 図書館*.u-ryukyu.ac.jp 琉球大学 図書館***.uta.edu 米国テキサス大学アーリントン校 図書館***.harvard.edu 米国ハーバード大学 図書館***.unige.ch スイス・ジュネーブ大学 図書館***.ac.uk 英国の大学 どことは特定できないが、参考まで***.edu.cn 中国教育网 中国の文部科学省か・・?***.hinet.net 臺灣入門網站 台湾? <こんなところからも>へつづく
2009.02.23
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<1>よりつづく 当ブログへのアクセスマップ<2> 一日500アクセスがあるとして、一時間に平均20アクセス。そのうち、地域を特定できるプロバイダ名は2~3%として、一時間に一つあるかないか。個人ブログである当ブログは24時間パソコンに張り付いているわけではないので、見逃しているプロバイダ情報はたくさんあるはずだ。 まして楽天ブログは、過去50アクセスしか記録を見ることができないので、過去二時間しか確認できないことになる。その不十分な情報源をもとにしたものだが、現在のアクセスを大学名で限定した場合、<1>でみたような結果となった。過去一か月程度のウォッチングなので、もともと不十分な記録ではあるが、それでも個人ブログへのアクセスとしては十分すぎる結果だと、私は思う。 日本は、関東圏に人口集中したおかしな国家だが、大学や公共機関の片寄りも、どうやら関東圏に偏っているように思う。だから、当ブログへのアクセス記録もそのような偏りを見せているのは事実だが、そうなってくると、当ブログの特性とともに、地域のデジタル・デバイトも気になってくる。 そこで、地域中心のプロバイダからのアクセスで、いままで確認できなかった地域の調査をしてみた。それを加えると次のような日本列島地図ができる。 ***.hbb.jp 北海道ギガビット協同組合*.infoaomori.ne.jp 7-dj.com 青森県*.cna.ne.jp 秋田ケーブルテレビ 秋田県 *.catv-mic.ne.jp 水沢テレビのインターネットサービス 岩手県*.catvy.ne.jp ケーブルテレビ山形 山形県*.mni.ne.jp ケーブルテレビ キャベツ 宮城県*.cc9.ne.jp CC9ケーブルテレビ 栃木県*.warabi.ne.jp 蕨(わらび)ケーブルビジョン 埼玉県*.wind.ne.jp 群馬インターネット 群馬県*.ogaki-tv.ne.jp 大垣ケーブルテレビ 岐阜県*.nns.ne.jp 中部ケーブルテレビ 岐阜県 *.tst.ne.jp となみ衛星通信テレビ 富山県*.kagacable.ne.jp 加賀ケーブルテレビ 石川県*.coralnet.or.jp コーラルネット 北陸が中心*.ttn.ne.jp 丹南ケーブルテレビ 福井県武生市*.amigo2.ne.jp ケーブルテレビ・アイティービー 三重県*.ccnw.ne.jp 中部ケーブルネットワーク 三重県含む*.medias.ne.jp 知多メディアスネットワーク 三重県含む *.cypress.ne.jp (株)サイプレス(インターネット接続サービス) 和歌山県*.pikara.ne.jp ピカラ 四国全域*.megaegg.ne.jp メガ・エッグ 中国電力のプロバイダ 鳥取島根含む *.c-able.ne.jp 山口ケーブルビジョン 山口県*.people-i.ne.jp 唐津ケーブルテレビジョン 佐賀県*.oct-net.ne. jp 大分ケーブルテレコム 大分県*.wainet.ne.jp ケーブルメディアワイワイ 宮崎県*.miyazaki-catv.ne.jp 宮崎ケーブルテレビ 宮崎県 *.cncm.ne.jp 長崎ケーブルメディア 長崎県*.synapse.ne.jp シナプス 鹿児島県 ***.bbiq.jp ビビック 九州全域*.nirai.ne.jp 沖縄ケーブルネットワーク 沖縄*.ryucom.ne.jp リウコム・インターネット・サービス 沖縄 このほか、実に多くの地域プロバイダからアクセスされている。もちろん全国ネットの大手プロバイダについては言及するまでもない。ここまで来ても都道府県単位で確認できないところもあるので、まずはとにかく全国制覇を目指して、今後もウォッチングを続けてみよう。ーーーーーーーーーーーー追記 2009/2/26現在次のようになっている。見落としたかもしれない可能性を含めた場合、これでほとんど日本列島がつながっている状態と考えることができるだろう。------------------追々記 2008/03/08 アクセス履歴の観察もはや2か月近く経過し、すでに、大学、地域プロバイダ、個人メッセージ、トラックバックなどから、日本全国は、都道府県レベルすべての地域からアクセスされていることを確認した。全てのアクセス者のみなさんに感謝。 次回は、プラネット地球のジグソーパズルに挑戦だ。 現在のところ世界からのアクセスは、20の国と地域を確認した。2009/3/26<2.0>へつづく
2009.02.22
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<1>よりつづく「ウェブ社会をどう生きるか」 <2> 再読西垣通 2007/05 岩波書店 新書 182p ★★★★★ 前からすこし気になっていたので、あらためて読みなおしてみた。前回は出版された直後に走り読みしているのだが、自分が期待する内容が書いていないと、あとはほとんど目にも入れないような勢いで読み飛ばしてしまうので、書籍全体としての価値を評価できていなかったようだ。 こうして出版後1年半経過したところで読みなおしてみると、実によくまとまった透明度の高い本だと思う。当時、当ブログもまだまださまざまな本を読み込み中で、同時進行で出版されていた同種の本にも十分目が行っていなかった。今回読みなおしてみると、当ブログの読書量もだいぶ増え、この本に引用されている他の本の価値さえも自分なりに判断できるようになった。 この本、今読んでも決して古くない。「ウェブ社会をどう生きるのか」というタイトルだとするなら、その内容で実によくまとまっている本だ。ネット社会と呼ぶか、ウェブ社会と呼ぶかはともかくとして、現状と問題の把握、そして決して過激ではない提言の数々。読んでいて、安心するような説得力だ。しかし・・・・、それでもやっぱり、私の中ではあと40%くらい、もっと他のものを求めているようだった。 「インターネット的」で糸井重里が書いていた。 さて、筋肉系の工業化社会→神経系の情報化社会ときて、そのあとにはどんな社会がくるのかということも、なかなか興味深いことです。ぼくは、それは「魂(スピリット)の社会」なのではないか、と一見オカルトに聞こえますが、思ってます。 感動とか、センスとかいうものがどんどん価値をあげていくのだとしたら、それは「魂の満足」を求める社会でしょう。 「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会の時代に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議ではないとも思うのですが。「インターネット的」2001/07 p114 ここで糸井が言っている「魂(スピリット)の社会」とはいかなるものだろうか。それは、すでにやってきているのだろうか。あるいは糸井自身は、いま現在、それをどのようにとらえているのだろうか。彼の本なり活動についてはほとんど何も知らないが、ちょっと前なら「ゲドを読む。」というゲド戦記のセールスプロモーション本をめくった程度だ。 西垣通の一連の本を読んでいて、限りなくこの「魂(スピリット)の社会」への矢印には気がつくのだが、その社会そのものについては語られることはない。いや、この本にかぎらず、この著者にかぎらず、インターネットと魂(スピリット)の社会をダイレクトについて語りきっている本は多くないのではないだろうか、などと考えていて、ふと次の文章が目についた。 私は情報学の研究のかたわら小説も書いているので、これは自分の思いでもあります。クリエイターにとって作品は精魂込めたものですから、自分の名前を示さず勝手に使われたり、あるいは改竄されたりすることは耐えられません。p41 前回は飛ばし読みだったので気がつかなかったが、著者は小説も書いているのだった。ググってみると、彼の小説はネットでも読めるようだ。なるほど、そうであったか。西垣通という人は、いわゆるデジタルな部分とアナログな部分を合わせ持った人間のようだ。 私はデジタルな著者ばっかりみていて、積極的にアナログな表現をしていることに気がつかなかった。著者もまた、アナログな部分はアナログに任せて、デジタルなものはデジタルで、という割り切り方をしているのだろう。私はデジタルな部分の著者にアナログ、アナログ、と言って、ないものねだりをしていたのだろう。ここは西垣通という人の小説も読んでみなければなるまい。 思えば、梅田望夫が「ウェブ人間論」で対談した平野啓一郎も小説家だったし、「ターシャム・オルガヌム」の解説を書いていた小森健太朗も小説家だった。ゾルバ・ザ・ブッダのゾルバも小説「その男ゾルバ」が原典なのであり、Oshoは「私が愛した本」においても多数の小説のタイトルをあげているのだった。 自称「プロの嘘つき」村上春樹について、当ブログでは彼のノンフィクション的な側面だけにアプローチしてきたのだが、今後は、この小説嫌い的体質は大いに反省して、今後はすこし小説も積極的に読んでいかなくてはならないだろう。ウェブ社会がアーシングするのは小説を通してか。 そこまで行って考えた。宗教と言え、チベット密教と言え、これらはいわゆるアーシングとしての小説とつながっているのではないだろうか。タントラだって、マンダラだって、必ずしもノンフィクションとばかりは言えない。フィクションとまでは言わないまでも、人間の想像力に大きく依存していることは間違いない。しかし、ここまでくると、次のような反論もでてくる。 それは、アメリカ人カルロス・カスタネダが創作した仮空の人物である「ドン・ファン」のようなフィクションではない。この男は人類に対する大いなる害をなした。人は霊的虚構(スピリチュアル・フィクション)を書くべきではない。その理由は単純で、人々が霊性(スピリチュアリティ)とは虚構にほかならないと考え始めるからだ。OSHO 「私が愛した本」p173 さぁ、かなり微妙な話になってきた。 私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。 村上春樹 エルサレム賞受賞講演 当ブログ第二ステージではこのあたりを十分考慮していかなくてはなるまい。
2009.02.22
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「戦争絶滅へ、人間復活へ」 93歳・ジャーナリストの発言むのたけじ 2008/07 岩波書店 新書 p205 発行年月Vol.2 No.530 ★★★★★ この人には、おべんちゃらや、お世辞を言っても仕方ない。ありのまま感じたことを書いておくしかないだろう。もっとも、いままで当ブログは基本的にいつでもそうしてきたが、しかし、やっぱり、それでも、この人にコメントをつけるのはむずかしい。 実際、この本の出版直後に一度目を通しているが、その時は、当ブログがチベット密教真っ盛りの時でもあり、なんにも書けなかった。今回だって、さて書こうと思ってもそう簡単ではない。ほめ言葉から書こうか、批判から始めようか。 93歳。当ブログでは「百歳回想法」や「人生を癒す百歳の禅語」など、長寿をテーマにした本も何冊か読んだ記憶があるが、この93歳のジャーナリスト、ますます現役だ。高齢であることをカサにも着ていないし、エクスキューズにもしていない。先輩でも後輩でもない。人間対人間だ。 この本のテーマが大きく二つに分かれ、一つが「戦争絶滅」で、もう一つが「人間復活」だとするなら、前半の「戦争絶滅」については、その従軍記者として見聞した戦地の体験をもとに、戦後、朝日新聞を退社し、みずから小さな新聞を出し続けたことを別にすれば、必ずしも目新しい哲学があるわけではない。 しかし、その哲学を生きたのだから、もう余人は何にも言えない。その本人がここにきて「朝日を辞めるべきではなかった」p69と発言しているのだから、その勇気と正直さと、くったくのない人間性に驚かざるをえない。この本、どこを切り取っても、何行もコメントをつけることになり、収拾がつかなくなる可能性が高い。 「今回の話は、93歳の私からの遺言みたいなものです。この本を読者がどう読んでくれるのか、楽しみですね。」 p194 まさに遺言だ。ひとつひとつが重い。しかし敢えて言うなら、93歳になって、これが残されるべき言葉だろうか、と疑問が残る。戦争については「禅と戦争」や「浄土真宗の戦争責任」、 「反戦平和の手帖」、 「特攻隊と憲法九条」、「特攻隊だった僕がいま若者に伝えたいこと」、「兵役を拒否した日本人 灯台社の戦時下抵抗」、「戦争と聖書 兵役を拒否した燈台社の人々と明石順三」、「非戦という希望」などなどを断片的に読んできた。戦争、反戦、非戦、平和、については、十分な読み込みではない。圧倒的に不足している。しかし、この本は、これらの本の流れで読まれるべき本ではないだろう。著者は「戦争をやめさせた反戦運動はない」p76と断言する。 戦争は悲惨だ、兵士はかわいそうだ、あれは許せない罪悪だ、ということを百万回大声でしゃべったって、戦争をやろうとしている連中には、痛くもかゆくもないわけです。戦争が始まってから反戦平和運動をやったところで、戦争の論理とエネルギーに引きずられてしまう。戦争をなくすには、戦争をする必要をなくして、戦争をやれない仕組みをつくらなければだめです。かつて、そこまで踏み込んだ平和運動は一つもなかった。p76 この本は当ブログで言えば、「アート・メディアとしてのブログを考える50冊」の中に加えたい一冊と言えるのではないだろうか。故郷秋田に帰って創刊した「たいまつ」は、コンテナとしてのメディアを形成していた。自ら取材して記事を書き、活版を組んで印刷し、全国に配送する。そして代金を回収して、次号の経費に回す。コンテナとしての、そのサイクルを作り上げたのだ。 今なら、このサイクルをインターネット上のブログ機能で十分できる。生活費は稼げないが、個人メディアを形成するのに、経費はほとんどかからない。ひょっとすると、読者さえ、もっと大量に獲得できる可能性が高い。 著者にして、このコンテナとしての「たいまつ」を維持させたのは、もちろん「反戦平和」のコンテンツがあってこそだが、「反戦平和」のコンテンツを持っていたとしても、みずからコンテナを作ることは、非凡な才能がなければできなかった。でも、鎌田慧の「反骨のジャーナリスト」にも著者は取り上げられているが、当ブログがこの著者から学びたかったのは、本当は、もはやコンテナでもなく、コンテンツでもなく、コンシャスネスとしてのジャーナリズムだった。 反骨、反権力というより、さらに一歩進んだところに、著者はなにかを言い残したがっている。それこそが、この本の後半のテーマ「人間復活」についてであろう。 教祖様がこの世を救うなんてことは、あるわけがないんです。一人が何千、何万の人間を救うなんて、常識で考えてもありえない。宗教は、人間が「ウルトラ」の存在を求めて創造したものにすぎません。「神様が人間をつくった」というところからうそで、人間がいなければ、神も仏も悪魔も天使も出てこない。人間が人間のつくったものに額づく、というのはおかしいじゃないですか。p184 若かろうと、高令であろうと、ジャーナリストとしての見識なら、このコメントはごくごく当たり前のことだ。しかし、無遠慮を最初から自覚しながら言わせてもらえば、すこし煮詰めが甘いように思う。即断しぎる。「私は宗教は否定はしないけれども、『宗教を卒業するときだ』というふうに言っているんです。」p184とは言っているが、当ブログとしては、むしろ、人類はまだ真の「宗教性」に入学さえしていないのではないか、ととらえている。 私たち普通の当たり前の人間たちは、結局のところ人間の常識を大切にして普通に生きぬくことではないか。人としてやらねばならぬと自分で思うことは、できるだけ力を込めてやる。人の道にそむくと思うことは、自分でやらないだけでなく、他人にもやらせないように手をつないでいく。この道を進めば、各個人をも人類みんなをも最もあやまりの少ない道に導くのではあるまいか。p203 ここの部分についても、反論するものは何もないのだが、必要かつ十分とは思えない。93歳のジャーナリストに「私たち普通の当たり前の人間」と括られてしまう時、私は、その言葉のなかにすくい取られていない、私自身の不可知な部分の神秘な部分が取り残されているような気分になる。別に特別な人間だとは思わないし、特別な人間にもなりたいとも思わないのだが、私たち人間は、普通でありながら、なおかつ、ひとりひとりが「特別」だ、というニュアンスの味付けが欲しい。 「人間の常識を大切にして普通に生きつらぬく」ことに何の反論はないのだが、人間とは何か、常識とはなにかについて、煮詰めが足らない。既知、未知、不可知、の3ステージがあった場合、この著者においては、既知の常識、というニュアンスが一番強い。もちろん未知についてもオープンなことは分かる。しかし、不可知な存在としての人間、というものに言及されなければ、当ブログとしては、素直に無批判的に著者のこの部分の言葉を受け取ることはできない。 「常識」や「普通」はどこからやってくるのか。単一価値観によりかかった社会ならそれもいいかもしれない。しかしこれだけグローバル化した地球社会の中で、常識とか、普通、とは一体なにか。どこからそれはやってくるのか。そして、著者においては、常識や普通は、「社会」の中にあるようであるが、ひとりひとりのなかにある「常識」とか「普通」とはなにか。 93歳の人生の先輩に対して、言上げすべき内容ではない。感想として書かれるべき言葉ではないかもしれない。しかし、個人的にこの本を読んだとしたら、やはりその点を私はこの本に求めるのだろうし、その部分が、この本に限定した場合、不足していると、私は思う。
2009.02.21
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アガタ・ザ・テラン 誕生 今朝、ワシントン大学からアクセスがあった。ついにと言うべきか、ようやくアクセスされていたことに気がついたというべきか。図書館から借りてきた本を一生懸命読み込んで、書き込みが多いうちは、書き込んだ直後に楽天IDからのアクセスが押し寄せるので、それが楽しみだったのだが、外からのIDにはほとんど関心を寄せることがなかった。 最近は、当ブログのサドンデス、あるいはフェードアウトのため、書き込みを減らしているのだが、そうすると楽天IDは激減し、外からのプロバイダIDだけが残るようになった。最初はほとんど気に留めなかったのだが、ある時、*.u-tokyo.ac.jp というIDが何度も何度も残っているので、へ~、これはどこのプロバイダじゃい?とググってみたら、なんと東京大学からのアクセスであることが分かった。 もちろん、それは学生かも知れないし、たまたま他の本のリストに引っかかった当ブログをワンクリックしてしまっただけだったかの知れない。だが、少なくとも、気ままに書きなぐっている個人ブログが、東京大学の誰かは知らないが、そのうちのどこからかはアクセス可能なのだ、と当たり前のことにようやく気がついて、ちょっと驚いたのだった。 そのことに気がついて、メモをはじめたのが、「大学から当ブログへのアクセス」である。メモしてみれば、なんと日本列島ほとんどからアクセスされており、大学名だけではまだ日本地図は埋まっていないが、これに地域プロバイダや地方を中心とした企業名などを入れると、完全に都道府県を網羅していることが分かった。 しかも、その基礎データとなっているのは全アクセス数の約2~3%なのである。あとは大手プロバイダ等なので、地域も用途も特定できない。なかにはスパム目的で何度もアクセスしてくるギャングもいるので、あまり歓迎はしたくないが、これだけアクセスされているということにあらためて驚いたというところである。 外国からもアクセスされており、カナダ、中国、フランス、アメリカ、ブラジル、デンマーク、台湾、イギリスなどからのアクセスの痕跡がある。当ブログは日本語で書いてあり、まぁ、海外に行っている日本人か、当地のひとの気まぐれであろうとタカをくくって相手にしていなかったのだが、今朝、なんと米国ワシントン大学からのアクセスがあったことに気がついて、あらためて、ブログ機能のすごさに驚いた。 彼らはいったい何を求めて当ブログに来るのだろうと思い、戯れに英語版Googleで当ブログを検索し、自動検索機にかけてみた。そしたらどうだ、なんと日本語Onlyなはずの当ブログは、英語版で読めるではないか。しかも一文章とか一ページのみというわけではない。当ブログにリンクを張ってあるところは全部英語に翻訳されるし、外部の本の案内なども、可能な範囲で英訳されている。これにはあらためてびっくりした。 もちろんその翻訳機能は完全ではない。ざっと見て意訳で30点くらいの出来だろうか。で、あったとしても大意はつかめる。自分で翻訳できない異言語であったとしても、諦めるのはまだ早いということであろう。例えば、当ブログにアクセスしてくれたパリ第七大学関係者などは、フランス語で当ブログを読んでいる可能性もゼロではないのだ。地球は本当にグローバル化している。 ちなみに昨日の当ブログで引用したこの部分 (Osho Rajneesh) is the greatest incarnation since Gautama Buddha in India. He is a living Buddha. Lama Karmapa Head of Tibetan Buddhism Quoted in Il Giorno, Italy April,1988 裏表紙よりは、エキサイト翻訳で翻訳して、次のように日本語化しておいた。 「インドの釈迦牟尼仏陀以来オショー・ラジニーシは最もすばらしい肉体化です。 彼は生きている仏陀です。 1988年4月に不-Giorno、イタリアで引用されたチベットの仏教のラマ僧のカルマパのヘッド」 そうすると、こうなり、なんとも奇妙な部分は残るが、意味が分からないでもない。まぁ、60点が合格ラインだとすると、50点というところか。40点の赤点ラインは超えている感じがする。そして、この部分が、当ブログの英語版に再・翻訳されると、こうなる。 "Osho Rajneesh in India since the Buddha Sakyamuni is the most amazing body. He is a living Buddha. 1988年4月に不-Giorno、Not in 1988 4-Giorno, KARUMAPA the head lama of the Tibetan Buddhism was referred to in Italy. " なんとここまで来ると、自動翻訳に頼るのも、いかがなものかという珍妙な翻訳となっているが、もし、読み手側に、なんとしてでも読み込んでやろうという意欲があるならば、読解できない文章ではない。TOFICやTOFLEでは合格しなくても、まるで「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」でも読み込んでやろう、という意欲の持ち主だったら、まったく意味不明ということでもないだろう。 村上春樹の文学は世界中の言語に翻訳され、その結果、世界中の人々から読まれ、評価されてこそ、イスラエル賞の受賞する場での講演となったわけだが、世界中から「読まれる」立場になるには、現代においては、なにも小説家になったり、他言語に翻訳されることが必須というわけではない。「評価」されることはともかく、すくなくとも「発信」だけは誰にでもできる時代になっているのだ。 自称「プロの嘘つき」である村上春樹が「私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。」と発言するとき、世界中のどのブログにおいても「どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。」と宣言することはできるのではないか。 ちなみにわが世代・中川昭一について、当ブログでは日本語のコメントを転載するのは忍びなく、あえて中国評論新聞網というところにリンクを張っておいたのだが、なんと当ブログ英語版からリンクに入っていくと「G7 ministers辭職Nakagawa goods than health reasons, Ro ugly drunk」というなんとも珍妙な言語となるのであった。 言語の限界性があるとは言うものの、言語の可能性はかぎりなく追及される必要がある。特にサイバー・ネットワークにおいては言語は大きな表現手段である。可能性ゼロではない以上、できる限りの努力はされる必要がある。 今回、当ブログの英語版であらためて思ったのは、地球人とはTerranとなることだ。なかなか翻訳しにくいし、日本語でもまだ一般的ではないようなのだが、この辺で当ブログでは、地球人=Terran=テランとしておこうではないか。 そして、当ブログではアガルタ探検隊を派遣してきたのだが、ここまでなかなか納得のいく発見はできなかった。ここらあたりで、アガルタ=agartaと、アガータ=Agataははっきりと別個なものとしておこうと思う。アガータはアガルタからやってきた地球人としての、当ブログ独自の理解である、としておこう。そして、この際、短くしてアガタとしておく。 地球人アガタ。ここはわが師Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」になぞらえて、「アガタ・ザ・テラン」とはしてはいかがだろうか。アガタは大地から湧き出でてきた存在ではあるが、すでに地球人として生きている当たり前の人間だ。ごくごく当たり前の人間たちのネットワークであり、当ブログは、まずその一つのポイントになろうではないか。 本日のNHK番組「週刊ブックレビュー」にゲスト出演していた中川五郎が、むのたけじの「戦争絶滅へ、人間復活へ 九三歳・ジャーナリストの発言」を紹介していた。実は私もこの本を読んでいたが、まだそれについてブログの中で触れるチャンスがなかった。そのうちアップしよう。戦争絶滅、人間復活、はまさに当ブログにそのままいただきたいテーマである。むのたけじ、戦後の彼の孤軍奮闘の歴史は、現代ブロガーのまさに鏡ではなかろうか。まさに個人メディアの元祖だ。 戦争絶滅、人間復活。その夢を当ブログとして、アガタ・ザ・テランに託すことができるだろうか。
2009.02.20
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<3>よりつづく「Om Mani Padme Hum」<4> The Sound of Silence, The Diamond in the LotusOsho 最後の「21th カテゴリ」になだれ込んで、「観音のマントラ」も108に達し、現在17万のアクセス数が21万に達しようとする頃、幻身たる7つの身体もホロ見えて、当ブログにとっての究極、大団円への運びとなることだろう。当ブログ2008.10.27の書き込み 現在この21番目のカテゴリとしての「バックデータ」カテゴリも、つねにサドンデスで終了する可能性があったのにもかかわらず、78個のエントリーを数えてもまだ終了する気配はない。このままだと、残り30個も吸収して、108個目までいくことになるのだろうか。 そんな中、当ブログを「お気に入り」に入れてくれている楽天ブログのブロガーたちは長いこと21人で定量を保ってきたが、ここにきて微増し、現在24人になった。 アクセス数は、さまざまな要素が絡み合いながらも、過去一週間の平均では一日500程度で推移している。そして当ブログの当面の目標だった21万アクセスには、本日到達した。拙いブログなのに、貴重な時間を使ってクリックしてくれたネットワーカーたちにお礼を申し上げたい。 さて、当ブログ第一ステージは、そろそろフェードアウトする段取りとなって、このままサドンデスでも構わない気分でもあるのだが、ひとつ気がかりなことがある。 それは、「観音のマントラ」(オンマニパドメフム)コレクションがまだ108に達していないことだ。20個ほどの空きがある。これを埋めるために、あらたなチベット本の中を探しはじめるには時間がかかりすぎるだろうし、また、現在となっては、探すという行為自体、関心のターゲットから外れてしまっている。 なぜこうなったのか。振り返れば、いくつかの理由があるのだが、ひとつには、チベット密教の奥伝に近づくと、オムマニパドメフムは、もっと言魂化が進み、OM AH HUM、などと表記されることが多くなっていたのだ。例えば「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」や「反密教学」においてもこの言魂化は進み、単音化している。だから、本質に突き進みながら、あのリストには転記できない微妙な色合いがでてきていたのであった。 当ブログとしては、すでにあのマントラ・リストは108に達しているのと同じことであると解釈はしているのだが、、第一ステージ最後のカテゴリ「バックデータ」に残り30ほどの空きがあり、「観音のマントラ」に20ほどの空きがあるかぎり、この空間を使って、オンマニパドメフムから、OM AH HUMへとつないでいくことも一興であろう、と考えることにした。(Osho Rajneesh) is the greatest incarnation since Gautama Buddha in India. He is a living Buddha. Lama Karmapa Head of Tibetan Buddhism Quoted in Il Giorno, Italy April,1988 裏表紙より 今回あらためてこの本を眺めていてこのコメントを見つけ、短いコメントであるがゆえに、なお心動かされる部分があった。いや、動く心などに関わっている場合ではないが、魂の深いところで地下道が貫通する音がした。 エキサイト翻訳にかけてみれば、 「インドの釈迦牟尼仏陀以来オショー・ラジニーシは最もすばらしい肉体化です。 彼は生きている仏陀です。 1988年4月に不-Giorno、イタリアで引用されたチベットの仏教のラマ僧のカルマパのヘッド」 となる。まんざら意味が通じないわけではないが、一番、???となる部分は、1988年というところ。カルマパ16世は1981年に亡くなっているのではなかったか? カルマパ16世がOshoに触れた部分は、「マイトレーヤ」の「高僧謁見記」に詳しく書かれてる。 図書館には次から次と新刊が入庫し、書店に行けば刺激的な本が平積みになっている。RSSに登録して読んでいるいくつかの読書ブログにも素晴らしいコメントが続いている。あれもこれもと、興味はつきないが、当ブログ、ここは、「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」、「反密教学」と、この「Om Mani Padme Hum」の三冊を持って、私的ジャーナリングの第一ステージをしめくくることにしよう。Om Mani Padme Hum<5>につづく
2009.02.19
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「私たちの地球は耐えられるのか?」 持続可能性への道 ジル・イェーガー /手塚千史 2008/12 中央公論新社 新書 253p Vol.2 No.529 ★★★★★ この本、読んでいて、決して快適な本ではない。私たちの地球の危機的状況が語られ、その責任が、私たちひとりひとりにあることが明かされる。解決策がないわけではない。しかし、それを誰か他の人に頼んだり、押しつけていればよい、というものではない。自分自身の生き方を見直し、隣人たちや、地球の裏側の人たちとも手を取り合っていかなければならないことが、繰り返し語られる。 ドイツ語版の原題は「Was verträgt unsere Erde noch?: Wege in die Nachhaltigkeit」 だから、日本語タイトルとほとんど同義だ。1、どんな未来を望むのか?2、”グローバルな変動”とは何か?3、状況は本当に劇的なのか。私たちにはまだ行動を起こす時間があるのか?4、環境変化の原動力は何か?5、なぜ先進国は資源消費を今、減らさなければならないか?6、「資源消費を減らすのに、技術革新をしていく」だけで十分か?7、現在の生活水準を保つために、さらなる経済成長が必要だろうか?8、持続可能な開発とは何か?9、持続可能な開発を実現するのは政治家の仕事ではないのか?10、私たちには何ができるだろうか? 「はじめに」抜粋 p16 1~7くらいまでについてはすでに答えはでている。問題は8、9、10、だろう。9にも実は答えはでている。もっとも大事なテーマはやはり10だろう。しかし、10だけを取り出して議論してもみても、それこそ異論百出でまとまりとしては、なにもでてこない可能性さえある。ここは、ひとつ、最初の最初に戻って、1、どんな未来を望むのか?、から再スタートすべきなのだろう。1、どんな未来を望むのか? 世界は50年後、どのようになっているのか? 自然にはもはやどんな価値もなくなり、気候の深刻な変動が毎年、人間と経済に壊滅的な事態を引き起こす世界だろうか? 競争原理が支配的となり、貧富の差が現在よりも大きくなっている世界だろうか? それぞれの地域が自分の殻に閉じこもるのか、あるいは互いに争う、分断された世界だろうか? ひょっとすると、環境が大切にされ、資源が公平に分配される平和な世界が実現しているかもしれない。この平和な世界を望むのであれば、今ここで私たちは行動を始めなければならない。 p16 つまり問題提起であり、結論である解決策であるのは、「環境が大切にされ、資源が公平に分配される平和な世界の実現を望むのであれば、今ここで私たちは行動を始めなければならない。」ということである。10、私たちに何ができるだろうか? 資源の生産性を上げ、資源の消費量を減らすために、支持することができる一連の政治的措置と手段がある。これらの手段を正しく結びつけることによって、環境にも経済的にも利益をもたらすことができるようになるのだ。”持続可能な開発”は社会的な思考の切り替えを必要とする。つまり、社会全体とひとりひとりの個人が、優先順位を変えなければならないのだ! 持続可能な社会を本当に実現することを、私たちひとりひとりが毎日の生活のなかで今から始めようではないか。p22 あまりに大きなものを、この小さな本のなかに全て求めてはいけないが、当ブログとしては、もう少し、スピリチュアリティについても、大きく触れるべきだと思う。 ヒマラヤの麓にある人口63万5000人の国、ブータンでは、生活の質と向上という目標を公式の重要な役割としている。前王のジグミ・シンゲ・ワンチュクは”国内総幸福”が国内総生産よりも大切であると明言している。”国内総幸福”こそが中心的指針であり、ブータンの計画と開発にける上位の概念であるという。この概念の内容の多くは、古来から伝わるブータンの文化的遺産と仏教の宗教的伝統に基づいている。チベット仏教の最高聖職者であるダライ・ラマが常に簡潔かつ意味深長に強調しているのも、「すべての人が幸せになり、苦しみから逃れたいとの願っている」ということである。キリスト教において隣人愛や神の想像物の保護などが中心的な役割を担っているのと同様に、あらゆる苦しみの克服と幸福への努力こそが仏教の教義の核なのだ。p178 現在、この地球には、ブータンの人口の10000倍の人口が住んでいる。単に、ブータンのような国が10000個集まれば、地球の総幸福度が高まるとは決して言えないだろう。10000個の地域は、10000個なりの自らの総幸福を問えばいい。”地球総幸福度”が高まる中で、自らの地域を考え行動すれば、この本が提起している問題の解決には一歩近づくことになる。 そして、やっぱり、最後の最後は、ひとりひとりが、自らの中を見つめることが大切なのだ。地球人スピリットはいかにあるべきか、そこを問い続け、瞑想のエネルギーを集中していく必要がある。
2009.02.18
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G7酩酊露醜 日財相中川以健康理由辭職 時事ネタは、すぐ古くなってしまうので、ほとんど触れたことがない当ブログだが、時々なにかの反応をしておかないと、無感覚な奴だと思われてしまうかもしれない。たまには時事ネタもいいだろう。 中川昭一、残念だな。いずれは総理大臣にもなれるポジションにいたのに。安倍晋三 が総理大臣を辞職したときにも感じたガックリ感に襲われた。二人とも、自民党のバリバリ議員の二世であり、その政策や人生観に特段に共感するものはないが、この二人に共通するもの、つまり戦後生まれで1953,4年生まれという意味で、私は彼らと同じ世代に位置する。 だから立場は違っても、年齢的に、世代的に、勝手に親近感を持っていたことは事実だ。だけれども、この二人は、健康を理由にして、政治家としての進路を断たれた。安倍晋三の父・安倍晋太郎はプリンスと言われながら夢果たせず1991年病没。中川昭一の父・中川一郎は1983に北海道のホテル内で怪死した。自殺とされるが他殺説も消えない。 この二人の親の姿を見て、この二人の子供たちはどのような青春を送っていたのだろうか。政治家の親の姿を見ていて、自分は政治家になりたくない、と思わなかったのだろうか。 私たちの世代はすでに世の中の責任世代の真ん中だ。いや、もうすでに真ん中を大きく通り過ぎてしまったかもしれない。世の中に政治があるかぎり、誰かが担当しなければならないのだし、無視するわけにもいかないし、逃避する気もない。むしろ積極的に一人分の責任は十分に果たすべきだとも思う。 しかし、政治家がウソをつきはじめると、じつに醜い。ウソは政治家の始まりだ。本当のことを言えなくなる。心の中では別なことを感じていても、外面はウソをついて、その場をとおり過ぎなくてはならなくなる。ウソをつくことが大好きな者もいるだろうが、ウソをつくことが嫌いで、酒に逃げる奴もでてくるだろう。 心と言葉は、おだやかにつながっていたほうがいい。自分がどんなことをどのように感じているのかを、忘れないでいたい。無邪気な子供の感受性を忘れてはだめだ。素直な気持ちで行えるなら政治もまたひとつの道でありうるだろう。しかし、ウソにウソを重ねて、最初の最初がなんだったか忘れてしまうような迷路にはまり込んではいけない。 私たちは十分若いけれど、すでに十分年老いてもいる。アメリカのオバマなどは1961年8月生まれだから現在47歳。私たちよりさらに若い。彼はどんな政治家になるだろう。彼もウソにウソをつくような政治家になり下がってしまうのだろうか。あるいは、子供だったときのことや、青年時代に感じたことを、すなおに発言し、最初の最初を忘れずに、自分の道を歩み続けることができるのだろうか。 なにも政府の要職につくことばかりが政治の道ではない。ニューマンといい、マルチチュードといい、あるいは当ブログで言えば湧き出るアガータたちにしても、ひとりの地球人として、一人分の責任はきちんと果たさなくてはならない。 私は日本国民として国内にいる時には一回も選挙を棄権したことはないが、投票ばかりが政治参加だとは思わない。ある時は一定の候補者を積極的に応援するし、時には反対票を投じる。だが、この選挙民主主義もそろそろほころびがあちこちで見え始めている。 当ブログがほそぼそと続いているのも、ある意味では、一票の投票権を棄権したくないからだ、とも言える。マスコラボレーションの中のひとつとして、このブログは私の一票でもある。社会人として生きるとき、ついついウソをついてしまいそうになるときがある。だが、軌道は早いうちに修正したほうがいい。 ネットワークといい、マルチチュードといい、あるいは・・・・・、みんなつながっているという幻想のなかで、今の政治スタイルではない、もっと、みんながみんなを尊重しあえるようなスタイルを作る必要がある。みんながみんなを愛しあえるような、地球を作らなくてはいけない。 当ブログではあまり小説を読まないが、村上春樹が、イスラエルで貴重な発言をした。その発言力に敬服する。コンクリートの壁と卵のたとえを使って、自分は卵の側にいたいとする。当ブログもまさにそうありたい。傷つきやすくありたい。傷つくことを恐れないようにしたい。 地球はつながっている。人びともつながっている。当たり前のすなおな気持ちで生きていくことが、もっとも当たり前な地球であってほしい。それが人間であってほしい。そしてそれが私の日々の暮らしであってほしい。そのような中でこそ、私は私の中にくつろげるはずだから。
2009.02.17
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<こんなところからもアクセスが>からつづく *.maff.go.jp 農林水産省 統計***.akita.jp 秋田県下の行政 図書館*.igakuken.or.jp 財団法人東京都医学研究機構 プロジェクト*.rtri.or.jp 財団法人鉄道総合技術研究所 鉄道用語*.nims.go.jp 独立行政法人 物質・材料研究機構(NIMS) プロジェクト*.pc-kmmt.ac.jp 雇用促進事業団熊本職業能力開発促進センター? *.keidanren.or.jp 社団法人 日本経済団体連合会 キッズコーナー***.cern.ch 欧州原子核研究機構 リサーチ スイス*.gakken.co.jp 学研 書籍 *.sankeiliving.co.jp サンケイリビング新聞社 メディア*.hokkaido-np.co.jp 北海道新聞社 社説 ***.bl.uk 大英図書館 オンライン・ギャラリー ***.nih.gov 米国・国立衛生研究所 オンライン・ジャーナル当ブログへのアクセスマップ<1> 戯れに「大学から当ブログへのアクセス」をリストアップしてみたところ、北海道から沖縄まで網羅しており、外国はアメリカやフランスの大学からもアクセスされていたことが判明した。2月16日現在までに名前をリストアップしたところを都道府県名で塗りつぶしてみると、次のようになる。 人口分布図や大学の数にも影響されるだろうし、短期間だけのチェックなので、正確ではないが、今後もチェックを続けるとして、今回は途中経過としてアクセスマップをアップしておく。 実際は、全アクセス数の約2%のデータをもとにしているだけだが、これに地域プロバイダや地域を中心とした企業名を加えると、ほとんど日本全国のエリアをカバーしているようだ。 逆に、大手の企業名や、大手のプロバイダは、あまりに大きすぎて地域を確定できない。そして、外国からのアクセスも結構あるが、スパム目的のアクセスもあるので、あまり喜ばしいことばかりではない。 いずれにせよ、「地球人スピリット・ジャーナル」とはいうものの、日本語圏の全域からアクセスされているだけで、当然のことながら、地球全体からアクセスされているわけではない。 今後の当ブログの課題としては、もうすこし世界レベルに視点を合せていくとするなら、せめて、画像を多くしたり、英語でエントリーを書いていくなどの必要があるだろう。実際に一時英語で書いたりしてみたが、なかなかありのままの自分というにはいかない。 今後も日本語で書いていくとしても、翻訳ソフトが発達している時代でもあり、各国語に翻訳されやすい、わかりやすい日本語で書いていく工夫も必要だ。そしてまた、もっと大事なことは、地球全体の人たちとの共通の課題となるテーマを探し出すことにあるだろう。<2>につづく
2009.02.16
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「デジタルネイティブ」 <1> 次代を変える若者たちの肖像三村忠史 /倉又俊夫 2009/01 日本放送出版協会 新書 189p Vol.2 No.528★★★☆☆ NHKスペシャル「デジタルネイティブ」の取材班による、番組制作の振り返り、及び、ささやかな提案、というところだろうか。なるほどデジタルネイティブとは言い得て妙、とは思ったが、これには語源があった。 「デジタルネイティブ」という言葉を最初に使ったのは、アメリカの作家、マークブレンスキーだといわれている。日本では「テレビゲーム教育論」(藤本徹訳、東京電機大学出版局、2007年)という著書が発売されているプレンスキーだが、2001年に書いた教育に関するレポートの中で、現代の若者たちをデジタルネイティブと名づけ、「これからの時代は彼らに呼応する教育が必要だ」として次のように言及している。 『平均的な大学の卒業生は、これまで人生で5000時間以下しか読書していないかわりに、1万時間もビデオゲームをしている。そうなると、もうそれまでの人類とは違うものになっている。彼らは、複数のタスクを同時に処理し、情報を猛烈なスピードで受け取ることに慣れている。テキストよりも先にグラフィックを見ることを好み、ランダムに情報にアクセスすることを好む。インターネットにつながっているときがもっとも機能する。リアルタイムに評価されることを好み、仕事よりもゲームを好む。 今後、デジタルネイティブと呼ばれる新人類に対応した教育が必要だが、(それ以前の)「デジタルイミグラント」(デジタル移民)世代では、その対応は難しい』p80 2008年11月10日放送されたこのNHKスペシャルを、私は見逃したし、この本を読まなかったら、そういう番組があったことさえ、気がつかなかった。去年の11月10日と言えば、私は再読モードで、チベット密教などに夢中になっている段階であり、テレビを見ようという意欲もほとんどなかった時期と思われる。だからこの番組を見逃したから損したとは思わないが、見れば見たなりに面白かったろうに、とちょっぴり残念かな。 リアルタイムでテレビ番組を見なかったと言っても、ネット上にはこの番組のホームページもあり、その番組への反応もネット上で知ることができる。また、自分のデジタルネイティブ度というものも判定できる。私のデジタルネイティブ度は50%だった。例えば、ネットで知り合った人は沢山いるが、初めて知り合って実際にあった人は5人まではいない。むしろ、かつて会ったことのある人々と旧友を温めている、というところか。 さて、「次代を変える若者たち」としてのデジタルネイティブだが、個人的には、あまりに持ち上げてしまうのはどうかな、と思う。この本を読み、関連ネット上でちらちら目を通す限り、当ブログでいうところの、コンテナとしてのネット環境が出そろった時代に生まれてきたからデジタルネイティブと言われているだけであり、自らがコンテナそのものを作り出しているわけではない。 コンテンツとして、たしかに目新しい発想は当然あってしかるべきだが、ネット社会全体を造り替えるようなパワーを発揮しているとは思えない。すくなくともこの本で紹介されているものはごくごく小さな例でしかない。 「パソコン少年のコスモロジー」の奥野卓司のような団塊世代だろうと、孫正義、ビルゲイツ、スティーブ・ジョブズなどを排出した1955年世代や、梅田望夫がやたらと持ち上げる1980年前後生まれの世代であろうと、当然、赤ちゃんとして生まれ、すこしづつ成長し、少年少女時代を過ごしてきた。そして、幾人かの突出した人々が、新しい時代を切り開いて来たのは事実であり、いつの時代にも、デジタルネイティブような存在はいた。だからこの本でも取り上げられている若い世代が、次代を変えるというのは、当然のことだとしても、そのことだけを取り上げて、驚異的だとか、期待十分、というのはちょっと違うように思う。 それに一番気になることは、「コンテナ」、「コンテンツ」としてのネット社会から、「コンシャスネス」としてのネット社会への眼が、この本では確認できなかったことだ。たしかにデジタル移民よりデジタルネイティブのほうが、その社会になじみやすいだろうが、それは単純に生まれたときからテレビがあった世代、生まれたときから車があった世代、というのと同じ意味しか持っていないのではないか。 若いというだけでは人間の成長はない。若いだけで意味があるなら、人間、年齢を重ねる必要がない。10代があり、20代があり、30代、40代、あるいはシルバー世代があり、老いがあり、死がある。これらについて一貫した人生観、死生観をきちんと押さえた教育者こそが、これらのデジタルネイティブに対応すべき指導者たちなのではないだろうか。 ネイティブ・アメリカン、という時のネイティブと、ここでいうところのデジタルネイティブのネイティブの意味を違いを、はっきり押さえておかなくてはならない。<2>につづく
2009.02.15
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アート・メディアとしてのブログを考える50冊+α★コンテナとしてのブログを考えるブログに挑戦してみよう! 2006/06手取り足取り「自分流」ブログ入門 2005/07ブログ成功バイブル 超カンタン!最強メディア 2005/04おとな愉快団!ブログで遊ぶ こんな面白いこと 今すぐ始めなきゃ もったいない! 2006/0350代にもよくわかる「ブログ入門」 2005/05「はてな」ではじめるブログ生活 2004/06パソコンで文章がうまくなる! 2005/09「書ける人」になるブログ文章教室 2006/11「速く・わかりやすく」書く技術 原稿用紙3枚をラクラク30分! 2005/05プロフェッショナルWebライティング 2006/11Web屋のためのRSSガイド 2006/11ブログを続ける力 2005/04ウェブログのアイデア! 2005/03ブログのすべて 2006/05図書館に訊け! 2004/08図書館を使い倒す! 2005/10★コンテンツとしてのブログを考える ブログ 世界を変える個人メディア 2005/08ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア 2005/01サイバージャーナリズム論 2007/07サイバージャーナリズム論 03年前川版 2003/10ブログがジャーナリズムを変える 2006/07パブリック・ジャーナリスト宣言。 2007/11シビック・ジャーナリズムの挑戦 2005/05革命メディア ブログの正体 2006/03ブログ論壇の誕生 2008/09ブログ進化論 なぜ人は日記を晒すのか 2006/04ブログ炎上 2007/03 オーマイニュースの挑戦 2005/04ウェブログの心理学 2005/03ネットと戦争 9.11からのアメリカ文化 2004/10ブログ・オブ・ウォー 僕たちのイラク・アフガニスタン戦争 2007/05ネットは新聞を殺すのか 2003/09ネットメディアと<コミュニティ>形成 2008/03★コンシャスネスとしてのブログを考えるインターネットの心理学 2001/09ウェブ人間論 梅田望夫 平野啓一郎 2006/12ウェブ社会の思想 2007/05インターネット的 糸井 重里 2001/07 戦争絶滅へ、人間復活へ 93歳・ジャーナリストの発言 むのたけじ 2008/07 インターネット社会論 1996/02ウェブ炎上 2007/10 ウェブは資本主義を超える 2007/06反骨のジャーナリスト 鎌田 慧 2002/10フォトジャーナリスト13人の眼 2005/08メディアのからくり 2002/07人間力の磨き方 2006/06実践的 新聞ジャーナリズム入門 2006/01ニュースの職人 「真実」をどう伝えるか 2001/10報道は欠陥商品と疑え 2002/10徹底検証!NHKの真相―大手メディアが報じなかった“伏魔殿”の正体! 2005/05『噂の真相』25年戦記 2005/01編集長を出せ! 「噂の眞相」 2006/03
2009.02.14
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当ブログにとっての七つのキーワード 最初のカテゴリ「ブログ・ジャーナリズム」から、21番目のカテゴリまでの、あちらこちらをチラチラ目を通しながら、当ブログを象徴するようなキーワードはどういうところにあるのだろうか、と考えた。そして20数個書きだしたあと、とりあえず7つに絞ってみた。<マーケットプレイス> 字のとおり市場のことではあるが、必ずしもネット・トレードとか、世界経済市場のあれこれを意味するわけではない。いわば「市井」であり、ごくありふれた日常の意味でもある。しかしまた、それは「往相」として旅立つべき日常であり、「還相」として帰るべき日常でもある。 そして、当ブログが自らを「読書ブログ」と規定する限りは、もっと絞り込む必要があるだろう。現在、当ブログにおいてのマーケットプレイスとは、書店の店頭であり、図書館の開架棚であり、電車の吊るし広告の雑誌や本たちでもある。あるいは、このブログにアクセスしてくる人々であり、その人々が読んでいるであろう本たちである。<コミューン> 娑婆世界と極楽浄土があるとしたら、こちらには後者の意味を持たせたい。マーケットプレイスに対するコミューン、結局はおなじことなのだが、こちらはより理想的な夢想が実現したような世界のイメージだ。たとえば革命とかマルチチュード、という言葉を脇におきながら、より穏やかなネットワークや共生の想いを託したい。 米国オバマ新大統領の就任演説に語られるような未来、そしてさらに向こうには見えてくる世界。それは決して政治でもなく、単に世界的なグローバルなネットワークばかりを意味しない。もっと地域的でもあり、内面的な共感の世界でもあるはずだ。<オープンソース> この言葉のベースは、リチャード・ストールマンのフリーソフトウェアの考え方や、リナックスという具体的な実際的な成功例があるが、狭義的には、コンピュータ・ソフトウェアの世界に留まる概念でしかない。しかし、当ブログは、ここから拡大して、よりワイドレンジで、よりディープな形での分かち合いができないものかと、いつも考える。 オープン・ソースのイニシャルもOSだが、オペレーション・システムもOSであり、また、我がマスターももっと透明化を増し、OSと称される程度に一般的になったらよかろうとさえ思う。<地球人> 私は誰であろうか。ラマナ・マハリシはこの一言でエンライトし、寺山修司はこの言葉を訪ねて地球空洞説さえ自らに引き寄せる。多くの神秘家たちが最後のキーワードとするこの言葉。その言葉に安易な答えをあてがうことは避けなければならない。 しかし当ブログは、あなたは誰ですか、と問われたら、なにはともあれ「私は地球人です」と答えよう。まずはここが原点だ。私は何々県人でもなければ、日本人でもない。あえて地球人と答えようではないか。それは、私は天上人でもなければ、地底人でもない、ということを意味する。この地上に生きる一人の人間、というアイディンティを最も大事にしよう。<ブログ> ネット社会に託す思いは大きいものがあるが、インターネットがごく当たり前のものになってすでに20年近くが経過している。遠くの人々と話したり、情報を交換しあうことは、現在ではごくごく当たり前のことになった。このような環境が整ったからこそ、当ブログも存在し得るのだが、コンテナとしてのブログに、どのようなコンテンツを加えることができるのかが、各ブログの生命線と言える。 現在の当ブログは、図書館ネットワークと連動して、読書ブログとしていくことが一番原寸大でありのままの姿で長続きできるスタイルのようだ。いくらブログ・ジャーナリズムを気取っても、マス・メディアの記者たちのような機動力もなければ、専門家たちような鋭い洞察力もない。しかしながら、ひとりの地球人として図書館ネットワークを活用し、本を読み、一人分の感想を書く、という行為は、他のプロフェッショナルな行為に対して、なんら卑下すべき行為ではなく、独立した尊厳ある行為である、と思うことにしよう。<瞑想> 人間としての行為の中でもっとも意義ある行為を見いだそうとすれば、当ブログにおいては「瞑想」という言葉をあげておきたい。しかし、だからと言って、その行為について、当ブログがしっかり理解しているということを意味しないし、当ブログのメインのテーマということではない。むしろ、瞑想とは言葉やシンボルを超えた世界に足を入れることもあるので、ネット空間において「瞑想」をテーマにすることは、おのずと限界があるだろうと推測している。 しかしながら、「レスポンスのあった著者たち」に書いたように、読書や、ブログ上におけるレスポンスの中にも、より「瞑想」の方向へ、という希望はある。ブログというネット空間が、どのような可能性を秘めているのか、未知数の部分も多いが、メインテーマとはならないまでも、このテーマも追っかけていくことになるだろう。<アガータ> 当ブログにおいて、もっとも厄介でありながら、もっとも魅惑的なテーマでもあるだろうと思われるキーワード。現在のところまで、この言葉のもっている意味は、いまだに不明、としかいいようがない。ただ、その言葉の存在のありかたや、当ブログとの距離感など、わかってきたことはたくさんある。 そのなかであっても、一般に表記される「アガルタ」は、当ブログにおいては「アガータ」とは峻別して扱って行きたいと思う。この二つの語彙の差異こそが、当ブログの生命線とも言える。曖昧模糊としながらも、実はかなり明瞭な概念でもあるのだが、言葉として表現する場合は、ひとつくらい意味不明なものが存在してもいいだろう。
2009.02.13
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「大学から当ブログへのアクセス」よりつづく変わったところでは、こんな所からも。 *.nhk.or.jp 日本放送協会 番組表*.ytv.co.jp 讀賣テレビ RSS*.kobe-np.co.jp 神戸新聞 出版物*.hakuhodo.co.jp 博報堂 データベース*.asatsu-dk.co.jp アサツーDK ネットワーク*.kodansha.co.jp 講談社 書籍*.shogakukan.co.jp 小学館 書籍*.mizuho-ir.co.jp みずほ情報総研 出版書籍*.nikkei-r.co.jp 日経リサーチ 調査結果*.nikkeibp.co.jp 日経BP社 雑誌案内*.nochubank.or.jp 農林中央金庫 CSR ***.hokkaido.jp 北海道 図書館***.iwate-ed.jp 岩手県 図書館***.miyagi.jp 宮城県 図書館 ***.saitama.jp さいたま市等 図書館***.tokyo.jp 東京都 図書館 ***.yokohama.jp 横浜市 図書館 ***.nagano.jp 長野県 図書館 ***.yamanashi.jp 山梨県 図書館 ***.ishikawa.jp 石川県 図書館***.aichi.jp 愛知県 図書館 ***.osaka.jp 大阪府 図書館 ***.hyogo.jp 兵庫県 図書館***.okayama.jp 岡山県 図書館***.tottori.jp 鳥取市 図書館***.lg.jp 地方公共団体を対象としたドメイン*.env.go.jp 環境省 環境白書 *.mint.go.jp 独立行政法人 造幣局 データ*.jnes.go.jp 独立行政法人 原子力安全基盤機構 データベース*.jaea.go.jp 独立行政法人 日本原子力研究開発機構 検索*.tenrikyo.or.jp 天理教 出版物 ***.disney.com ディズニー社 インターナショナル***.state.gov アメリカ政府 図書館 ***.osd.mil アメリカ軍機関? FAQ<アクセスマップ>へつづく
2009.02.13
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「ついに実現した地下存在との対話」 アセンションの超秘密ダイアン・ロビンス /ケイ・ミズモリ 2009/01 徳間書店 単行本 297p Vol.2 No.527☆☆☆☆☆ この本もまた、突っ込みどころ満載の一冊。ひとつひとつ書き出したらきりがないので、ほどほどにしておこう。なんだかかんだと言いつつ、この手の本が店頭に並んでいると、心おだやかならずな心境になるのは、こちらの深層心理や無意識が刺激されるからかもしれない。あるいは、どこか集合的無意識でつながっている部分が、わずかにでも存在するからかもしれない。 この本のタイトル「ついに実現した地下存在との対話」とは、ちょっと大仰な言いまわしであろう。なんとか通したいという企画があって「ついに実現」という言葉がでてきたとは思うが、それではすべての企画が「ついに実現」するのであって、別にこの本ばかりにつけるべきタイトルではない。 「対話」とは言うものの、日本語翻訳者がチャネラーにメール連絡し、あらかじめ用意した質問に対してチャネラーが一問一答的に返信してきただけであって、「地下存在との対話」とは言い難い。チャネラーも、必ずしも「地下存在と対話」しているわけではなく、かなり一方的にそのメッセージを「受けとっている」のであり、二つの存在が対峙して、意見を自由な雰囲気のなかで「対話」的に交換しあっているわけではない。つまりチャネラーの一方的な言葉を無批判的に有り難く拝んでいるにすぎない。 さて、その「地下存在」とやらだが、それは、チャネラーの言葉以外に一切確かめようがない。時間や空間や人名、あるいは呼称などが、おりに触れて多用されてはいるが、それは単に「物語」の背景を形作るハリボテでしかない。語られるべき真実、最後の最後に残されるべき真実は、この本にはない。 2012年のアセンションとやらだが、これはこの前1999年以前にも似たような現象があって、その一点を超えるとどうのこうの、という話になる。しかし、その一点を超えるまでの商売であって、そこを超えると、昨日までのことはすっかり忘れて、誰も触れなくなる。そして、今度は2012年だ。3年後のことだが、あと4年もたてば、アセンションなどという言葉は誰も使わなくなる可能性が高い。 積極的に広範囲な調査もせずに一方的に否定してしまうのは、公平な態度ではないが、しかし、これらの一連の書物たちには、当ブログとしては一貫して懐疑的にしか対応していない。積極的に広範囲な調査も今のところする準備もないが、この手の本のもつ危うい落とし穴がボコボコ見えてしまうので、要注意、とだけ記しておく。
2009.02.12
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<19>からつづく 「英知の辞典」 <20> OSHO 七つの谷 VALLEYS 偉大なスーフィーの師(マスター)、すべての時代を通じてもっとも偉大な者のひとりにアル・ガザリがいる。彼は「人間の人から神への成長の道----潜在力を秘めた人間からその力を実現させた人間への、可能性から現実への道には、七つの谷がある」と言う。これら七つの谷はこの上もなく重要だ。あなたはこれら七つの谷を渡らなければならないだろうから、それらを理解しようとしてみなさい。誰もがこれら七つの谷を渡らなければならない。 その谷にどう対処したらよいのかを正しく理解すれば、それを超えることができる。そしてあなたは頂に到達する----なぜなら、谷は必ず山に取り囲まれているからだ。谷を渡ることができれば、谷でひっかからず、谷で迷わず、谷に執着しすぎなければ、超然として、とらわれず、目撃者でいるなら、そしてこれは自分のわが家ではない、自分はここではよそ者なのだと覚えていたら、頂に到達しなければならないと、頂きのことを忘れなければ----あなたは頂に到達する。谷を渡るごとに大いなる祝祭が起こる。 だが、谷を渡るごとにあなたは別の谷に入る。それが続いてゆく。谷は七つある。第七に到達すればあとには何もない。人は自らの存在に到達し、彼はもはや矛盾に満ちてはいない。緊張もなければ苦悩もない。これこそ東洋で「仏性」と呼ばれてきたものだ・・・・。 谷にはそれぞれの誘惑がある。あなたが何かに執着してその谷を離れることができなくなるということは大いにありうる。次の谷に入りたいならそれを去らなければならない。谷のあとには必ず頂が、大いなる山の頂がある。谷のあとには必ず歓びがあり、その歓びはさらにさらに強烈なものになってゆく。そして最後に、第七の谷で、あなたは宇宙的なオルガムスに達する----あなたは消えてなくなる。そこにはただ神だけがある・・・・。 最初の谷・・・・。最初の谷は「知識の谷」と呼ばれている。 人間は知ることから始まるのだから、当然、知識が最初のものでなければならない。知識を持っている動物はほかにはいない。人間だけが知り、人間だけが知識を集める。人間だけが書き、読み、話す。人間だけが言語、経典、理論を持っている。だから知識が最初の谷でなければならない・・・・。 知識は両方向を指し示す矢印だ。一方の矢は知られる対象を指し、もう一方の矢は”知る者”を指す。知る者に目を向けるようになれば道に迷うことはなく、あなたは谷を超えることができる・・・・。 第二の谷は「後悔の谷」と呼ばれる・・・・。 自分のありのままを見るようになると、自然と大いなる後悔の念が起こってくる。しでかしてしまったすべての過ち、すべきではなかったのにやってしまったすべての行いゆえに、あなたは後悔を感じはじめる。だから意識とともに大いなる頂がやって来る----だが、突然、意識(consciousness)とともに良識(conscience)が起こってくる。いいかな、あなたが持っている良識はほんとうの良識ではない。それは偽金だ。それは社会から与えられたものだ・・・・。この借り物の良識は助けにならないし、それはあなたの重荷になるだけだ。最初の谷を渡ると、あなた自身の良識が起こってくる。いまやあなたは何が間違いであるのかを正確に知るようになり、それ以外のことはすることができなくなる・・・・。 第三の谷は「障害の谷」と呼ばれる。 良識が起こってくれば、あなたはどれだけの障害があるのかを見ることができるようになる。あなたはどれだけの妨げがあるのかを見る目を持つ。壁また壁が立ち並んでいる。扉もあるがそれらはごくまれだ。あなたはすべての障害を見ることができる・・・・。 第一の障害は誘惑の世界だ。第二は人々-----人々への執着だ・・・・。第三のものをアル・ガザリは「魔王(サタン)」と呼ぶ。そして第四は自我(エゴ)だ・・・・。 その否定的な側面はこれらの障害と戦いはじめることだ。戦いはじめたら、あなたは谷で迷ってしまう。戦う必要はない。敵対関係をつくりだしてはいけない。ただ理解するだけでいい。 戦うことは抑圧することだ。あなたは自我を抑えることができるし、自分の人々への執着を抑えることができるし、物欲を抑えることができるし、摩王(サタン)、自分の心(マインド)を抑えることができるが、抑えられたものはとどまり、あなたは第四の谷に入ることができない。 抑圧のない者だけが第四の谷に入る・・・・・。 第四の谷では無意識への参入が起こる・・・・・。 「試練の谷」とは無意識に入ることだ。それはキリスト教の神秘家たちが「魂の闇夜」と呼んできたものに入ることだ。それはあなたが自らの背後に隠している狂気の世界に入ることだ。それは実に不気味で、きわめて異様だ。第三の谷までは、人は師(マスター)なしで進むことができるが、第三を超えることはできない。第三の谷までは、人は自分でやってゆくことができる。第四ではどうしても必要になる・・・・。 それがだんだんあなたの風土になってゆくように、師はまさに最初からあなたに信頼と明け渡しについて教える----なぜなら、それはあなたが第四の谷に入るときに必要になるからだ・・・・。 第五の谷・・・・それは「雷鳴の谷」だ。 第五の谷であなたは死に入る。第四の谷であなたは眠りに入った。第五の谷であなたは死に入る。あるいは、もっと現代的な用語を使うとしたら、第四の谷であなたは個人的な無意識に入り、第五の谷で集合的無意識に入る。あなたは自らの個体性を失ってしまうので、大きな恐れが起こってくる・・・・・。 死のなかに、集合的な無意識に入るとともに、大きな恐れが起こってきて、深い苦悩が感じられる-----これまでに一度も感じたことのない大いなる苦悩が。というのも、こういう疑問が起こってくるからだ----生きるべきか死ぬべきか? あなたは消え去ろうとしている。あなたの全存在が生きることを望んでいる。あなたは第四の谷に戻りたい。それは暗かったが、少なくともこれよりはましだ----そこには”自分”があった。いまや、暗闇はさらに暗さを増した。それだけではなく、あなたはそのなかに消え去ろうとしている。じきにあなたの足跡すらなくなってしまう・・・・・。 次に第六の谷、「奈落の谷」が来る。 死が起こり、人は消えうせる。これがキリスト教徒の言う「磔(はりつけ)」だ。無が起こった。人はただ空っぽの大空になる。ヒンドゥー教徒はそれを「サマーディ」と呼び、禅の人々はそれを「悟り」と呼ぶ・・・・。 それから最後のもの、究極のもの、第七の谷が来る----「賛歌の谷」「祝祭の谷」が。 第七の谷では再誕生が、復活が起こる。それがキリスト教の「復活」の概念の意味するものだ----キリストが生まれ変わる、栄光の身体に生まれ変わる、光の身体に生まれ変わる、神の身体に生まれ変わるという。もはや肯定もなければ否定もない。二元性はどこにもない。人は”ひとつ”になる。統合が起こっている-----ヒンドゥー教徒が「アドヴァイタ」(不ニ一元)と呼ぶものが。二元対立は消えうせている。人はわが家に帰ってきた。 「賛歌の谷」・・・・・アル・ガザリがそれに美しい名前を付けた。もはや何も残されていない----ただ歌が、祝祭の歌が、神への賛歌が、まったくの喜びがある。これが私の言う「究極のオルガスム」だ。 もし私がこの谷に名前を付けるとしたら、私はそれを「全面的なオルガスムの谷」と呼びたい。ただ祝祭だけが残っている。人は開花し、花を咲かせた。かぐわしい香りが解き放たれる。もはやどこにも行く必要はない。人は自らがそれを得ようとして探しに探し求めていたものになった。 OSHO: SUFIS: THE PEOPLE OF THE PATH,Vol,2p438<21>につづく
2009.02.11
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<2>よりつづく「反密教学」 <3>津田真一 2008/10 春秋社 単行本 385p ★★★★★★ 先日、書店で最近刊のこの増補版を手にして、びっくりしてしまった。1987年に出されたこの本が増補されて再刊されたことは知っていたが、この増補された部分が、実は「法華経」にまつわる話だったのだ。なるほど、そうであるべきだろう。そうでなくてはならない、と納得した。 そこで、ちょっぴり貯まった楽天ポイントで一部充当してようやくこの本を我がものとすることができた。これからチラチラ、ゆっくりめくっていってみよう。 つい先日、私の国・日本という東京の秋葉原という、今「オタク文化」といって世界的にも注目を集めている地区で、一つの悲惨な事件が起こりました。それは、自分に絶望し、世の中に敵意を抱いた孤独な青年が、借りてきたトラックを休日を楽しむ人々の中に暴走させ、多くの人々を死傷させた、という事件でした。しかし、その事件の報道に接したとき、私は本当にそう思ったものです。その青年が、この「法華経」の<願成就>ということの意味を知っていたら、本当にそういうことに思いを廻らせていたら、彼はこの様な事件を起こさずに済んだのではないか、と・・・・・。 p55 当ブログが、ひょんなことで読書マラソンにでて1500冊の本に巡り合ったとして、さて、最後の最後、一冊何を残しますか、と質問された場合、その答えは出るはずがない。それではターゲットが広すぎる。もっと的を絞って、当ブログのテーマが結局「アガータ:『彼』以降やってくる人々」というものに定着したと仮定して、その答えはでましたか、と質問されたら、今の私なら、迷いなく、この一冊を残す。 この人の「文献学」というものは徹底しているので、一凡読者にもなりえない私には、その多岐にわたる引用文を読み解くことはあたわない。だが、すくなくとも、その著者の姿勢が、結局、当ブログが「読書ブログ」としてページ数のあちこちをメモしつづけていることにつながるところにも、なにかの縁を感じていることは確かだ。 この津田真一という人は、なにかの「行」をやっておられるのかどうかは知らないが、すくなくとも、本やブログの世界は、必ずしも直接的に「行」とつながるものではない。いきおい、本やブログで「できる範囲」のことということになれば、このような形になるのは、きわめて妥当であると思われる。 そして、「文献学」などと自ら卑下してみせたりもするが、実は、津田真一という人を貫いているのは、「直観」だ。「自ら」の「直観」に、第一の、絶対の、信頼をおく。そして、この直観を傍証するためだけにあまたの文献が活用されている、と言っても過言ではない。 そして、この「増補」された部分が著者によって書かれたのは2008年6月28日だった。当ブログで言えば、 「Automobile Quarterly」 、「The Black Kimono Rolls Royce」 、「エスリンとアメリカの覚醒 <2>」 、「Opulence」 などについてメモしていた日であった。あの日、著者はこのような文をしたためておられたのだ、と思いを馳せることによって、さらにこの本のリアリティが高まる。 8月8日に北京オリンピックが開催され、前後して「チベット問題」に、にわかに再フォーカスした当ブログが、8月22日あたりから「裸形のチベット」を読み進めるなかで、この「反密教学」の存在に気づいたのは、さらにおそかった。すでに絶版になっていたこの本を求めて、新しい大学図書館を開拓して、ようやく手にしたのは、10月5日になっていた。この数か月のタイムラグを、大きいと思うか、ごくごくわずかと思うか、これからの展開次第だが、同時代性、同じ時代、同じ国、同じ地球に生きている、という感覚で言えば、当ブログにとっては、まことに申し分のない同時代性だ。しかもそのころ、この増補版がようやくでたのであったことも、私の何かを刺激する。 もし、「借りてきたトラックを休日を楽しむ人々の中に暴走させ、多くの人々を死傷させた」、「自分に絶望し、世の中に敵意を抱いた孤独な青年」の一人であったかもしれないこの私が、まがりなりにも、その行為にでなかったとしたら、その理由は、実に、「『法華経』の<願成就>ということの意味」に思いを廻らせていたからかもしれない、と自戒する。 「アガータ:『彼』以降やって来る人々」という私なりの直感から、アガータという言葉を抽出し、その源を「アガルタ」にもとめようとしても、この西洋的神智学流れ現代バージョンは、私に「正」解をいまだに伝えてはくれない。また、チベット密教の「秘められた」系譜をたどったとしても、本当に私が求めているアガータではなさそうなのだ。だから、私のアガータは、いまだに私のアガータでしかない。 そんな中にあって、ほぼ唯一といっていい薄明がこの本だ。一つのカテゴリを108エントリーと定め、21のカテゴリをもって、とりあえずの当ブログの「締め」とした場合、当ブログに残されているのは、あと40エントリーのみ。この中に、当ブログの結論めいたもの残すとすれば、この「反密教学」一冊に限られた、と言ってもほぼ間違いない。 私の法華経理解は、体験的ではあるが、極めて単層なものである。そこから連想するのは「南無妙法蓮華経」という御題目であったり、行者日蓮であったりと、きわめて限定的なものであった。ところがこの本の著者において、初めて、浄土理解としての親鸞へとのルートがつながり始めたというべきだろう。親鸞は当ブログの宿題でもあった。 なにはともあれ、サンヴァラ系タントラと法華経のシナジー、そしてそれにつらなるいくつかのなにごとかに、当ブログなりの結論めいたものが見えてくるとすれば、当ブログのマラソンも全く意義なきものであった、ということでもあるまい。つづく
2009.02.09
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「driver」 2009 march 3-5 八重洲出版Vol.2 No.526★★★★☆新型インサイト 衝撃の低価格で新登場! 数日前についにホンダのハイブリット車の新型インサイトが発売された。高級化を志向するトヨタのハイブリッド車のプリウスのモデルチェンジを5月に控えて、ホンダはついに189万円という価格を達成。世界恐慌の足音が高鳴る中、各評論家は、これは売れると絶賛。我が家でも中古車の車検が終わったばかりなので、あと二年はないが、もし台替えするなら、まずは候補車の筆頭にあがるだろうと、大注目。 つまりは大衆車フィットの足まわりに、初代インサイトやシビック・ハイブリッドに載せていたエンジンを据え、現行プリウス似のボディをややコンパクト化して載せたモデルというわけだ。市場にでて一般ユーザーにどのように評価されるのか、それを見極めないことにはなんとも言えないが、出るべくして出た車と言える。 発表されたのは3年前、当時、車業界はまだまだ好況を博していた。特にアメリカ市場ではホンダ車もまだ元気がよかった。開発から発売までこれだけの時間がかかったわけだが、絶好調のライバル・プリウスを睨んで、低価格化を図ったホンダの意図は、ここに来て、ズバリ的を射たものになる可能性も出てきた。 トヨタは、プレミアム・ブランド志向のレクサス・チャンネルを満を持してスタートさせたが、車はラインナップしていくのだが、いまひとつ意気が上がらない。もちろんレクサス車は魅力的ではあるが、購入意欲となると、ユーザーの評価は必ずしも芳しくない。 車は趣味なのか、見栄なのか、実用なのか、まずはこの入口が問題となる。実用として考えた場合、ちょっといびつな存在ではあるが、軽自動車はまずは選択肢の第一歩となる。経済状況が逼迫しているなか、軽自動車は売上台数を伸ばし続けてきた。 しかし、軽自動車にも問題点がないわけではない。税金や保険が安いという最大限のメリットをよそ目に、こちらも高級化志向。次第に車自体が高価格化してきてしまっている。装備も重層化し、コンパクト・カーとなんら変わらない装備をラインナップ。これだったら、軽のほうがいいじゃん、と思わせるが、もともとのアンバランスなボディサイズに、小さなエンジンで走るので、燃料効率が悪い。ましてや事故に巻き込まれたりすれば、いつも悲惨な目にあいそうなのは、軽自動車だ。 三菱などは、ここにきて50万円台の軽ミニカを大宣伝しているが、この辺こそが軽自動車が生きるべきエリアであって、こうであってこそ存在意義があろうというものだ。近所への買い物や駅までの送り迎えには超便利なアイテムと言える。しかしそれは二台目、三台目としてなら、という限定がつく。一家に一台、といった場合、低価格な軽一台では、なんとも心もとない。もちろん、ステータスも問題となる。 だから、一家に一台のプリウス、という選択肢はあったのだが、いかんせんプリウスのボディは、日本で動かすには少しだけ大きい。一回り小さくして低価格化してほしいというユーザーからの要望は強いものがある。ところがトヨタは、ハイブリッドはまだまだ儲からないと見ていた。だから、ハイブリッドはイメージ戦略に使い、クラウンやエスティマといった高価格車に付加価値としてプラスするという戦略を取り続けてきた。 車を趣味や見栄として乗るなら、それも悪くない。そのような乗り方もぜひともしてみたいものだ。しかし、現実には、世界はもう車は飽和状態にあるのではないか。これからまだまだ台数が見込める中国やインドなどのアジア市場はともかくとして、アメリカや欧米や日本では、特に若者層は、自動車に過大な期待を持つ時代は終わっている。アメリカのGMを抜いて、台数で世界のトップに躍り出たのもほんの一瞬、万全のように見えていた巨大トヨタの戦略は、ここにきて、一気に危ういものになりつつある。 車を道具として割り切った見方で考えることができるとすれば、今度のインサイトは、とても魅力的だ。ボディサイズ、走行性能、安全性能、ステイタス、経済性、話題性など、全方向において、まずは合格ラインぎりぎり越えを果たしているのではないだろうか。あとは半年、一年かけてのユーザー・テストの結果がどうでるか、だろう。 当ブログでは、「スピリット・オブ・エクスタシー」カテゴリを中心として、車の話題もおっかけてきたが、その中からハイブリッド関連記事を拾ってきてリストを作っておいた。「自動車革命 クルマもついに変わる!?」「燃費優先クルマ選び特集」「ハリウッドスターはなぜプリウスに乗るのか」「トヨタはどうやってレクサスを創ったのか」「レクサス トヨタの挑戦」「『レクサス』完璧主義者たちがつくったプレミアムブランド」「『レクサス』が一番になった理由(わけ)」「レクサスのジレンマ」「トヨタ・レクサス惨敗」「レクサスとオリーブの木(上)」「レクサスとオリーブの木(下)」「間違いだらけのクルマ選び 最終版」
2009.02.08
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「東北石鹸でストライキ」 我が家でいつの間にか定番になっている石鹸が、最近話題になっているようだ。我が家においても、自分より女性陣のほうに人気がある。しかも若いほうに。製造方法については詳しくは知らないが、たしかに変なにおいはしないし、洗ったあともつっぱらない。ほんとにやさしい感じがする。なにやら無添加で、原料も植物性で、戦前からと同じ方法で同じ工場で作っているとか聞いたことがあった。 ところが、その工場で労働争議が起きているようだ。話しを聞いてみると、どちらにも言い分がありそうだが、すくなくとも、工場が移転するだけなのに、労働者が首を切られてしまうのは、ちょっと違うんじゃないか、と思う。支援するブログも探して見ればある。 100年にいちどの恐慌とか言われて、あたりまえに労働者の切り捨てが行われているが、おいおい、このまま流されていいのかい。マルチチュードについて書いてある本などいくら読んだって、観念的に分かろうとしているだけで、何にもならないんじゃないか、という自責の念が湧いてくる。 この問題、どのような展開をしていくのだろう。当面、注目だな。
2009.02.07
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<1>よりつづく「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」 <2>チベット密教実践入門 チベット密教資料翻訳シリーズツォンカパ著 北村太道・ツルティム・ケサン共訳 1995/11 永田文昌堂全集・双書96p 初めてこの本の存在を知ってから、あれほど熱望したのに、いざ手に取ってみれば、拍子抜けするほどコンパクトな、そしてクリアな感じのする小さな本だった。その解説本が「チベットの『死の修行』」 として出版されているこを知って、ひととおり目を通してみたが、なかなかその内奥を知ることはあたわなかった。 であるなら、元本はさらに難解であるだろうと、すでに探すことさえ諦めていたあとに、この本が手元にやってきたことを考えると、何であれ、当ブログにおいてはかなり縁の深い象徴的な一冊と言えるだろう。この本について、なにか気の利いたことを書いておきたいのだが、それほど読みこめたわけではない。 「ブログに挑戦してみよう!」という本になかには、ブログの作り方のコツが書いてある。☆長続きのコツはテーマをきめないこと☆のめりこまず、薄口な文章にする☆独り言を言うつもりで気楽に書く☆忙しいときには無理に更新しない☆ブログは毎日必ず更新するようにする☆楽しいことに目を向けて、楽しくないことは書かない☆あんまりムキにならずに気楽に取り組む☆等身大の自分のままで記事を書こう☆自分のペースで続けよう 達人たちのアドバイスに従って、あまりテーマを決めこまず、薄口の独り言を、気楽に、ムキにならずに続けていくことにしよう。 このセンスで、この「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」をもうすこし手元で楽しんでみるの悪くない。ツォンカパはめんどくさそうだ、どうせラマの潅頂を受けなかったら、いくら文献を読んでもしかたない、どうせそのうち飽きてしまう、次の楽しそうなテーマが始まった、などなど、いつでも放り投げてしまうにぴったりな言い訳はいっぱいある。それでもやっぱり、等身大の自分で、マイペースでいこうじゃないか。 全96ページのうち、本文は62ページまで、それ以後、訳注・索引が78ページまで、それ以降は、チベット文字によるテキストとして図版が掲載されている。忘れていたが、巻頭には曼荼羅や交合仏像など画像が10枚弱ほどついている。 本論は49章に分かれており、最初のころは、それほど難しくない。修行にあたって、場所を選定し、探求心を起こし、さまざまな障害を減らしていく。そして自らをリードしてくれるマンダラとの一体感を強め、ひとつひとつのシンボルを確認していく。ここまでが大体10章前後あたりまで。この後、30章あたりまで、簡単に言ってしまえば「般若心経」のような世界がつづき、40章あたりまでは、いわゆるチベット密教たるタントリックな世界が現出する。 それ以降、終章あたりまでは、いわゆる悟りの世界と、悟り以後の世界のことか・・・・。 目次をざっとみただけでの見込みだが、この経典を起承転結にわけてしまえば、つまりは、チベット密教たるタントラ部分である「転」の部分がもっともキモであろう。哲学的な「承」部分は、おなじ仏教であるかぎり、それほど敬遠しなくてもいいだろう。しかし、あえていうなら、チベット密教であるがゆえに、「起」の部分にもその特徴がある。 「結」の部分だが、悟りの部分は、どの宗教だろうと、どの聖人であろうと、いきつく世界はみな同じ、という思い込みで行けば、すでに想像し得る世界であるとも言える。しかし、そこはそこ、チベット密教ならではの悟境というものもあるかもしれない。 つまり、この本の何を読めばいいのか、ということになれば、この「転」の部分であろう。タントラのタントラである部分。ここさえつかめればそれでいいのだ。ところがどっこい、ここは、ラマの指導なしには入り込めない世界と来ている。だから、遠巻きにして背伸びしながら覗いてみては、大体のところを察してみる、ということになろう。 しかしまぁ、当ブログとて、いままで伊達にチベット文献を読みこんでいたわけではない。この「転」の部分だって、実は他の文献からすでに読み込み済みのゾーンもかなりありそうなのだ。ただ惜しむらくは、それらがバラバラで一貫性と納得性に欠けているところである。 つまり、すでにこの本の全体を類推することさえすでにできる立場にある当ブログにおいて、この49章のコンパクトな経典の意味するところは、混沌とした知識と情報と体験の記憶、これら全体に、ひとつのシステム的な一貫性をもたせ、トータルな円環性を持たせてくれる、ということではないのだろうか。 そういうものと期待して、まずはもうすこし、この小さな経典を手元においておくことにする。
2009.02.07
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<3>よりつづく「チベット密教の本」<4>死と再生を司る秘密の教え学習研究社 1994/12 ムック 227p ググってみると、秘密結社なんとか編纂とかいう「シャンバラ関連年表」というものがあるが、これは実は、こちらの「チベット密教の本」の盗作と言っていいのではないだろうか。そう言われたくなかったら、出典を明らかにして、より原文に忠実に引用すべきだろう。 「シャンバラ関連年表」 中央アジアに理想郷伝承。 チベットにシャンバラ伝承。 987年○ロシア正教会の神父セルギウス、ベロヴォディエを探索に向かい、行方不明となる。 1043年○セルギウス帰還。1000年代○「時輪(カーラチャクラ)タントラ」編算。 1627年○イエズス会ステファン・カセラとジョン・カブラル、中央アジア探訪、「XEMBALA(センバラ)」の情報を得る。 1775年○パンチェン・ラマ3世、「シャンバラへの道案内書」を著す。 1871年○ブルワー・リットン「来るべき民族」を著す。 1875年○ルイ・ジャコリオ、カルカッタで理想郷「アガルタ」の談話採集。 1860年~1870年代○ブラヴァッキー、チベットの大師(マハトマ)より霊的通信を受け取る。さらに彼女は、理想郷アガルタとシャンバラ、ヴリルを融合させる。 1885年○サン・ティーヴ・ダルヴェードルのもとに奇妙なアジア人一行が訪れ、アジアの理想郷「アガルティ」の情報を著す。 1886年○サン・ティーヴ「ヨーロッパにおけるインドの使命」を著す。 1888年○ブラヴァッキー「秘密教義(シークレット・ドクトリン)」を著す。 1920年○オッセンドフスキー、アジア旅行。「動物・人・神々(1922年発行)」を著す。 1925年○ディクホフ「アガルタ」を著す。1930年代○二コライ・レーリッヒ、中央アジアとヒマラヤを探訪。「シャンバラ」を著す。 p99 この本、すでに15年前の、カラフルでとっつきやすい本だが、どうしてどうしてなかなか内容もそうとうに濃い。制作協力・資料提供の顔ぶれを見ても素晴らしい面々だ。上記の記述もこのようにまとまった一文は他になかなか見つけることができない。チベット密教全体の中で、この「年表」をとらえることがとても大切だと感じる。
2009.02.06
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「シャスタ山で出会ったレムリアの聖者たち」5次元ポータル 5次元文庫ユージン・E.トーマス /ケイ・ミズモリ 2008/10 徳間書店 文庫 383p Vol.2 No.525☆☆☆☆☆ まったくひどい本もあったものだ。こちらも、例の5次元文庫とやらの一冊だが、一旦購入したかぎりは、686円+税分のいちゃもんだけはつけておきたい。この本60年前に出た原題「The Way of Master」の翻訳ということになっているが、その本についても、著者とされるユージン・E・スミスとやらについても、情報はなにもない。 本書は1946年に出版されているから、執筆されたのはそれ以前、おそらく第二次世界大戦中、もしくは大戦直後だろう。著者が外国人なのか、カリフォルニア出身者なのか、アメリカに移民してきた者なのか、まったく詳細は不明だ。「訳者あとがき」p381 という程度の本を翻訳者はなにを好きこのんで現代日本に紹介しようという気になったのだろうか。 最後に、本書を日本で出版する機会を与えていただいた徳間書店の石井健資氏をはじめ、編集作業にご協力いただいた方々、そして、本書の著者ユージン・E・スミス氏に、この場を借りてお礼申し上げます。「訳者あとがき」p383 まったく正体不明な存在に「お礼」をするのも、なんだか薄気味悪いぞ。それほど、ここで感謝するのはなぜなのだろう。それは勝手に解釈・偽造させてもらったからだろうか。「The Way of Master」という原題を「シャスタ山で出会ったレムリアの聖者たち」と強引にラベル替えするのもどうかと思うが、途中に挟まれている「シャスタ山の伝説」というコラムも、本書とはなんの関係もない別な本の切り刻みである。 近年、食品偽造が話題になったが、この本は出版偽造という名にふさわしい一冊であろう。外国産を日本産として販売し、日本産を外国産として販売する。いずれも大した違いはなさそうだが、その目的はただひとつ。「売らんがため」だ。そこに真実なんかなくたっていい。品質なんかどうせ消費者にはわかりゃぁしない。ここまでして本を偽造し、売らなくてはならないものなのだろうか。 食品製造販売においてもコンプライアンス=順法精神が欠かせない今日ではあるが、出版企画販売の場においても、もっと厳しいコンプライアンスが必要なのではないだろうか。 「ジャーナリスト・翻訳家、『ケイ・ミズモリ』の公式ホームページ 」とやらを見ると、品格もなにもあったものではない。 「制約に縛られない翻訳の分野では、ジャンルを制限することなく、個人的な趣味として関心を抱いている未解明現象をはじめとする、様々なミステリーを気兼ねなく扱っています。そのような分野においては信憑性に欠ける事例や情報も多々見られるのは事実ですが、人類の未来に大きな飛躍を与える可能性を秘めたテーマや切っ掛けが埋もれており、ジャーナリストとして接するテーマに対しても、斬新なアプローチやアイディアをもたらしてくれるため、決して過小評価できない分野でもあると考えています。」 彼の「公式HP」から こういう人は「ジャーナリスト」を自称すべきではない。「信憑性に欠ける事例や情報も多々見られる」といいながら、「ジャーナリスト」としてその情報を提供している。もちろん「翻訳家」を自称するのもやめたらどうか。「制約に縛られない翻訳」なんてものはない。もしそんなものがあったとするなら、勝手につくりかえました、というだけのことだ。
2009.02.03
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「光シャンバラから誕生する超人類の謎」地球内部5次元基地 5次元文庫海野光彦 2008/11 徳間書店 文庫 290p Vol.2 No.524☆☆☆☆☆ 世にトンデモ本の類に限りはないが、インターネットの時代、まずどのようなトンデモ本でも入手できないものはほとんどない。なにはともあれ何でも目についたものは読んでみようという身構えの当ブログではあるが、時間も能力も限界もある限り、おのずと読み込める範囲は限られてくる。一応は公立図書館の一般開架に並んでいる本なら、なんでもいいだろう、と始まった当ブログの読書マラソンではあるが、過去に何冊か「境界本」というものに出会った。もうこれ以上「あちら側」に行ったら、もう読めないぞ、という本である。 この本もまた、きわめて「境界本」に近い一冊と言える。近い、というのは境界線の「こちら側」という意味ではなく、すでに境界線を超えて「あちら側」に行っている、という意味である。なんとかテーマやキーワードでこちら側に引っ張ろうとするのだが、もうそれは簡単にはいかない。手をさしのばしても、手を引っ張られて、こちらがぬかるみに落ちて行ってしまう。 しかしまた、なんでまた、それまで酷評すべき本を読んでいるのか、と自問自答する。最近はあまり図書館には行かないようにしている。ここはすこし大人しくして、過去の書き込みを整理すべき段階だろう。そう思ってはいるのだが、ついつい書店の前を歩いていたりすると、鉄クズが磁石に引き寄せられるように、書店の中に足を踏み入れてしまう。しかも、決まって、「あの」コーナーに。 そんなコーナーにあって、最近、急に(かどうかはよくわからないが)目につくようになったのが徳間書店の「5次元文庫」シリーズ。わかったようなわからないような、実に下世話なタイトルの本が多い。その中でも、この「光シャンバラから誕生する超人類の謎」は、比較的発行が新しいものだ。読んでみようと思っても、公立図書館にも大学にもこの本はない。ない理由は二つ。一つは新しすぎる、こと。そして、二つ目には、その内容が「逸脱」していること。どこがどう逸脱しているのか、とにかく読んでみなくてはわかるまい。 ということで、大枚590円+税を払って書店から購入してきた。だから、ここで文句を言うとしても、当ブログには590円+税分くらいの権利はあるはずだ(笑)。当ブログ基準でこの本を考えるとすると、いくつかの問題点が浮かび上がる。 まず、著者である海野光彦という人物。「昭和31年岩手県花巻市に生まれる。大学卒業後、高校英語教師を経て、フリーライター及び翻訳業に従事。」とある。時代背景から考えれば、私とそう遠い環境でもなさそうだ。しかし「フリーライター及び翻訳業に従事」してきた割には、年齢的に考えて、その著書・翻訳は少なすぎる。複数のペンネームを使い分けている可能性もあるし、名前の出ない下翻訳のような仕事を中心にしてきた可能性もあるが、いずれにせよ、この人物のプロフィールがわからなすぎる。 科学的な読み物なら、誰がどう考えようと、第三者が検証可能な領域にそのテーマが存在しているはずだ。ジャーナリズムなら、そのニュースソースや客観的データが存在するべきだし、また類推可能であるべきだ。しかし、この本は科学的読み物でもないし、ジャーナリズムに属する本でもない。また、小説やミステリーのようや芸術の分野でもなさそうだ。つまりインスピレーションやオカルト本の類のようではあるが、結局はオリジナリティのない、巻末の「引用・参考文献」を中心とした引用、切り張りの寄せ集めにすぎない。 ガラクタを寄せ集めて、ガラガラポンして、さらにわけのわからない超ガラクタ本を一冊作ってみました、ということに過ぎない。いや、元本は必ずしもガラクタとは言い難いかもしれない。だが、仮に元本が宝ものだったとしても、それらに傷さえつけてガラクタにしてしまっている。 最後に本書の出版に当たり、的確なアドバイスを下さった徳間書店の石井健資氏及び溝口立太氏に深く御礼申し上げます。 「あとがき」p290 ということだが、例えば「プロジェクト・マネジメント」の視点から考えれば、徳間書店においては、この本が完成し、一定程度の部数が売れればそれでいい、という考え方かもしれない。つまり、半年くらいの間に3000部でも売れればそれでいい、というくらいの考え方なのではないだろうか、と推測してしまう。しかし、この本が扱っているテーマはそんなお手軽なものではない。もうすこしプロジェクトのテーマ自体を練り直す必要がある。 マネジメントは「物事を正しく行うこと」であり、リーダーシップは「正しいことを行なうこと」であります。「リーダーシップとマネジメントの違い」「プロジェクトマネジメント教科書」p12 この本においては、2012年とか、地球内部とか、いくつかの時間や空間を限定した言葉の言いきりが多用されている。そして、さまざまな引用文がごちゃまぜになってはいるが、その根拠や原典が示されていない。もっとも低劣な本の作り方であろうと思われる。この本を読んでも何も得られることもなく、むしろ時間も590円+税も失ってしまう可能性がある、ということを身にしみて感じた一冊。当ブログの推奨しない本のトップにあげておきたい。
2009.02.03
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<1>よりつづく *.nda.ac.jp 防衛大学校 図書館 *.akita-u.ac.jp 秋田大学 図書館*.iwate-u.ac.jp 岩手大学 図書館*.tohoku.ac.jp 東北大学 図書館*.mgu.ac.jp 宮城学院女子大学 図書館*.niigata-u.ac.jp 新潟大学 図書館*.shobi-u.ac.jp 尚美学園大学 OPC*.tsukuba.ac.jp 筑波大学 図書館*.utsunomiya-u.ac.jp 宇都宮大学 図書館*.u-gakugei.ac.jp 東京学芸大学 図書館 *.toyaku.ac.jp 東京薬科大学 図書館*.titech.ac.jp 東京工業大学 図書館*.nihon-u.ac.jp 日本大学 図書館*.shizuoka.ac.jp 静岡大学 図書館*.iuhw.ac.jp 国際医療福祉大学 公開講座*.nagoya-wu.ac.jp 名古屋女子大学 OPC*.usp.ac.jp 滋賀県立大学 図書館*.nara-edu.ac.jp 奈良教育大学 図書館*.kyoto-u.ac.jp 京都大学 図書館*.osaka-u.ac.jp 大阪大学 図書館*.sonoda-u.ac.jp 園田学園女子大学 図書館*.kobe-u.ac.jp 神戸大学 図書館*.kobe-c.ac.jp 神戸女学院大学 図書館*.u-hyogo.ac.jp 兵庫県立大学 図書館 *.okayama-u.ac.jp 岡山大学 図書館*.tokushima-u.ac.jp 徳島大学 図書館*.okinawa-u.ac.jp 沖縄大学 図書館*.minpaku.ac.jp 国立民族学博物館 図書室***.univ-paris-diderot.fr フランス・パリ第7大学 図書館***.oregonstate.edu 米国オレゴン州立大学 図書館***.washington.edu 米国ワシントン大学 図書館 <3>へつづく
2009.02.02
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「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」チベット密教実践入門 チベット密教資料翻訳シリーズ ツォンカパ著 北村太道・ツルティム・ケサン共訳 1995/11 永田文昌堂全集・双書96pVol.2 No.523★★★★★ ツルティム・ケサン /正木晃の「チベット密教」以来、いつかはこの書をめくってみたいと思っていた。ところが、公立図書館も大学も出版元も尋ねては見たが、読むことができなかった。ネット上に中古品を見つけることができたが、かなりの高額に跳ね上がっている。 チベット本の読書がすすむにつれて、 「チベットの『死の修行』」 はこの本の解説本であることが判明した。解説本とはいえ、かなり手ごわい本だ。解説本を読んだことで、もう元本の追跡はほぼ諦めてしまった。ところが、リクエストはしておくものだ。このたび、500キロほど離れた図書館から、待望の「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」本体が転送されてきたのだった。こまかいことは次回に譲るとして、ツォンカパのリストを下記に書きだしておく。 ツォンカパ関連本リスト「チベットの『死の修行』」「チベット密教 新装版 シリーズ密教2」 「大乗仏典 中国・日本篇〈15〉ツォンカパ」「ツォンカパ中観哲学の研究」「アーラヤ識とマナ識の研究 クンシ・カンテル」「ゲルク派開祖ツォンカパの大著『真言密教の研究』」「聖ツォンカパ伝」「ツォンカパの中観思想」「ツォンカパ チベットの密教ヨーガ」「悟りへの階梯」<2>につづく
2009.02.01
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大学から当ブログへのアクセス 個人的に細々と運営されている当ブログではあるが、かすかに残された痕跡から推測すると、さまざまな角度からアクセスがあるようだ。今回は、この何日かの間に履歴のあったドメイン名「ac.jp」を中心にメモを残しておく。気づいた時にチェックした分だけなので、順不同で、しかも完全版ではない。漏れたところは後日追加していくことにする。ついでだから、各大学の図書館を拝見。*.u-tokyo.ac.jp 東京大学 図書館*.dendai.ac.jp 東京電機大学 図書館*.jichi.ac.jp 自治医科大学 図書館*.keio.ac.jp 慶應義塾大学 図書館*.sophia.ac.jp 上智大学 図書館*.icu.ac.jp 国際基督教大学 図書館*.meiji.ac.jp 明治大学 図書館*.ritsumei.ac.jp 立命館大学 図書館*.toyo.ac.jp 東洋大学 図書館*.dokkyo.ac.jp 獨協大学 図書館*.toin.ac.jp 桐蔭学園横浜大学 図書館*.otani.ac.jp 大谷大学 図書館*.shibaura-it.ac.jp 芝浦工業大学 図書館 *.cuc.ac.jp 千葉商科大学 図書館*.hokudai.ac.jp 北海道大学 図書館*.hokkyodai.ac.jp 北海道教育大学 図書館 *.ibaraki.ac.jp 茨城大学 図書館*.niigata-u.ac.jp 新潟大学 図書館*.aitech.ac.jp 愛知工業大学 図書館*.kobe-u.ac.jp 神戸大学 図書館*.hiroshima-u.ac.jp 広島大学 図書館*.hju.ac.jp 広島女学院大学 図書館*.kochi-u.ac.jp 高知大学 図書館*.yamaguchi-u.ac.jp 山口大学 図書館*.fukuoka-u.ac.jp 福岡大学 図書館*.kyusan-u.ac.jp 九州産業大学 図書館 *.bukkyo-u.ac.jp 佛教大学 図書館<2>へつづく
2009.02.01
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「システム開発現場のプロジェクトマネジメント教科書」 -情報処理技術者試験 プロジェクトマネージャ 試験範囲全網羅テキスト佐藤 創 テレコムリサーチ 2008/02 単行本 p351Vol.2 No.521 ★★★☆☆ もう借りる気はなかったのだが、家族の運転手として図書館にいったのが間違いだった。窓口に、講演のパンフレットなどに混じって、「自由にお持ち帰りください」のメモ書きが。シリーズ本や複数蔵書があって余った本が、何冊も並んでいた。この本はそこから頂いてきた一冊。●プロジェクトマネジメントの定義 プロジェクトマネジメントとは、プロジェクトのゴールを達成するために、人と変化をマネジメントすることである。 p2 当グログはコンピュータシステム開発が主テーマではないが、オープンソース思想をスピリチュアルなテーマに活用できないか、という思いから、プロジェクトマネジメントにも関心を持ってきたが、今回の著作権問題で、瞑想法などについても考え直してみようと思っていたところだった。●プロジェクトの定義 プロジェクトとは、独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の活動である。 p3 なにげなく使っている言葉ではあるが、プロジェクトとは、「創造」であり「有期性」であること、を再認識した。そこで、これまでの当ブログの営みをプロジェクトマネジメントという視点からとらえなおしてみることにした。●成功したと思われるプロジェクト1)ブログ立ち上げプロジェクト 思考錯誤の末、今の形ならなんとか継続できるところまできた。2)「ウェブ進化論」ペシミステッィク読み込みプロジェクト とにかくここがブレークスルー・ポイントだった。3)21カテゴリの達成プロジェクト 「有期性」に気がついたので、とにかく21で一区切りする予定。4)正木晃リスト完読プロジェクト チベット密教の全体像と、図書館利用について理解が進んだ。5)力道山、ビートルズ、白洲夫妻、等、読み込みプロジェクト ほとんどどんなテーマでも追っかけることがでできることを確認。6)バチカン本読み込みプロジェクト 当ブログの本質、方向性がほのかに見えてきた。7)タイトル決定プロジェクト 右往左往の上、日本語タイトル「地球人スピリット・ジャーナル」、英語表記「Journal of Spiritual Earth」に決定した(模様)。 この項で結局重要だったのは、1)、4)、7)あたりか。 ●成功しなかったと思われるプロジェクト1)「究極の錬金術」読み込みプロジェクト これは失敗。具体的な目的、期限、テーマの選択が不鮮明だった。2)クリシュナムルティ読み込みプロジェクト プロジェクト自体に対する魅力を見出すまでいたらなかった。3)ツォンカパ読み込みプロジェクト こちらの能力不足。利用価値が確認できない。時期が悪いなど。4)フィンドホーン読み込みプロジェクト テーマが当ブログと乖離している。対象への関心を維持できない。5)エサレン本の読み込みプロジェクト テーマが広すぎる。タイミングが悪い。6)BBS「Web2.0とネットワーク民主主義」プロジェクト せっかくの双方向性がまったく活用できなかった。7)アフェリエイト活用プロジェクト 二年半で7000ポイント程度、これじゃなぁ・・・・・。 ここでの大いなる反省点は6)、7)が筆頭か。●どちらとも言えないようなプロジェクト1)[OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2] プロジェクトのゆくえ [osho@spiritual.earth] を経て、目指すべきはOSHO2.0か・・・2)オムマニパドメフム・マントラ・プロジェクト いつかは108に達するだろうが、だから、それはいったい何?3)玉川信明リスト読み込みプロジェクト 読み込みだけでなく、そこから何か「創造」することが目的だろう・・4)「私が愛した本」読み込みプロジェクト 日本語文献以外もあり、また、このリストには瞑想が伴う必要あり5)OSHOロールスロイス探検プロジェクト 在り処を探すだけではなく、入手することだって可能だろうに6)フリーページの活用プロジェクト 楽天ブログの機能を活用しきれていない7)図書館利用プロジェクトの不徹底 たとえば音楽CDや映画などのAVなどを活用しきれていない ここで課題として残っているのは1)、6)、7)あたりか これらの振り返りを認識したうえで、あらためて冒頭の言葉をかみしめてみる。●プロジェクトマネジメントの定義 プロジェクトマネジメントとは、プロジェクトのゴールを達成するために、人と変化をマネジメントすることである。 p2●プロジェクトの定義 プロジェクトとは、独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の活動である。 p3
2009.02.01
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