「オウムからの帰還」 高橋英利 草思社 1996/3
ひ
ととおり読み終わって、フッと一息、正直言って、こんなに面白いとは思わなかった。面白い、と言ってしまっては不謹慎か。一気に読んでしまった。その理由はいくつかあるだろう。まずは、当時の事件後の渦中にあって、もっとも一番早い「内部の人間」としての「告発」だったからだ。さらに、この本は、まだ事件の全貌がはっきりしない事件後1年で出版されている。生々しいドキュメンタリーとしてかかれているので、迫力があり説得力がある。
しかし、それにしても「面白い」のは、よほどこの高橋という人に文才があるのか、あるいはインタビューして書いたゴーストライター達の腕がよかったのか、どちらかだろうと思う。最初は陳腐な自己開示型の私小説的であったが、最後は、まるで「悪の巣窟」からの脱出劇の様相を呈しており、まだ読んではいないが、ブルワー・リットンの「来るべき民族」を彷彿とさせるストーリーだある。たぶん、この手の「小説」は沢山あるに違いない。ある種のサスペンスの元型とさえなっているのではないだろうか。
そう感じるから、私は、この本にある種の危険性を感じる。つまり、ストーリーが出来上がっているだけに、逆にストーリーに取り入れられなかったことが沢山あるような感じがするのだ。つまり、この事実を書きとめようとした場合、このような書き方ではなく、また別な書き方も存在したはずだということだ。
ク
リシュナムルティ
や グルジェフやウースペンスキー
を読みながら、天文学を学んでいた青年が、人生の意味を問いながら、自殺さえ考えてしまう。ある時、学園祭で麻原集団と接触し、次第にその集団性の中に取り込まれていく。一度は距離をおくものの、また内部へと入りこんでいき、一時は、地震の予知などを「的中」させ、「幹部候補生」的な立場になる。しかし、次第に腑におちないものを感じ、その集団性に疑問を持ち始める。その疑問は、地下鉄サリン事件後に、買い求めた雑誌や新聞での情報だった。真実を知りたいという渇望は消えがたく、ついに警察の追跡を受けながら、テレビ局へと駆け込んでいく。
まるでサスペンス活劇ものだ。しかし、これは現実に起きたことを元にして書かれている。私はこの本がでた当時、著者はあまりにいい子ちゃんぶっているので、とても読む気にはなれなかった。彼が麻原集団関連の雑誌に登場して、その地震の予知などをしているのを読んでいたからである。それがでたわずか数ヶ月後に、脱会した、とか言っても、彼の「罪」は決して軽くはない、というのが当時の私の判断だった。確かに殺人や「武器製造」などの犯罪に手は染めていないようだが、その「集団」の中にいて、一時なりとも、その幇助をしているのである。知らぬ存ぜぬだけでは、通るまい、と思っていた。
私は、現在になって、これらの麻原集団に関する文献をあらためて目をとおしている。必ずしも高橋の本のみに関心があるのではない。総体として事件の経過を見るときに、高橋のこの本は決して見逃してはならないという観点から読んでみたものだ。全体的な流れ、そして相対的なポジションの中で、この本は再読されるべき本のように思う。最後に、著者の「おわりに」から抜粋しておく。
オ
ウムの引き起こした惨事を知って以来、僕がもっとも言葉を交わしたかったのが被害に遭われた人たちだった。だが、かつて信者だった自分のほうから「会って話しをしたい」などとは、けっしていうことはできないことだと思っていた。だから手紙をいただけたことは、それだけで僕にとってかけがいのない救いだった。
p240
これが、オウムの引き起こした破壊のもうひとつの現実なのだ。彼のことを考えるたびに、僕のなかからあらゆる言葉が消えていく。どんな言葉も、この残酷な現実を表現することができない・・・・。
犠牲になった人たち、そして加害者になってしまった人たちの、壊れてしまった心をつなぎ合わせるために、僕にいったい何ができるのだろうか。
いま、僕はその自問自答をくりかえしながら、ただ立ちつくしている。
僕のなかでは、いまだ何も終わっていない。
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