「日本社会がオウムを生んだ」 宮内勝典 高橋英利 1999/3 河出書房
「善悪の彼岸へ」
の宮内勝典と
「オウムからの帰還」
の高橋英利の対話でつづられた本である。1999年の3月にでている。この本についても私は読んでよかったな、と思った。クセのある宮内の文法やロジックは、この対話の中では静かに消されていて、高橋も前作のような事件直後という緊急性からやや離れて、静かに自らや麻原集団を見直す余裕がある。
しかし、この本の出版には、その1999年3月というところになんらかの意味があったのかもしれない。すくなくとも、この時点では「ノストラダムスの大予言」の1999年7の月、という呪縛はまだ消えていなかった。だから浮付いた世情に対して、なんらかの安定的な情報を提供しようという意味が込められていたに違いない。
私もここで急いで語りきってしまうつもりはないが、ひとつ気になるのは、仮に麻原集団が、サリンなどの凶悪犯罪に手を染めなければ、高橋はそのまま「出家生活」を続けたのかどうか、ということ。少なくとも、なぜに麻原の「教義」や「教条」を、そのまま受け入れてしまったのか。
私達は、この世では多くの先輩者たちのもとで育まれ、次第に独立して、さらには、後進たちに手を差し伸べ、さらに道を譲っていく存在である。だから、一時とは言え、お世話になった人々について尊敬し感謝するのは当然だ。しかし、そのこととエピゴーネンやニセモノ、物まねになる、ということは、まったく別のことだ。以下、気になった部分だけを取り出しておく。
高橋
(前略)ある意味で自分では制御つかないことなのですが、自分自身の宇宙観というものをパッサリと切り取ってくれた二人の思想家がいるんですよ。その二人の思想家が、実はグルジェフとクリシュナムルティなんですね。二人とも神秘思想家と言えば神秘思想家なんですけれども、ぼくはニーチェ、メルロ=ポンティといろいろ哲学をやってきて思ったんですが、最終的に、自分自身の宇宙観を思想的に煮詰めるのと同時に感覚的に煮詰めるという、この二つは同居できないものなんです。
p50
ここで、この二人の「神秘家」の名前を聞くのも面白いが、思想的+感覚的、について高橋が言及している点も面白い。ウースペンスキーや「ホロン革命」、中沢新一など、ごくごく一般的な90年代思潮にふれながら、高橋は「グルイズムのもっている危険性についてはとくに触れられることもなく、グルに付き従うことが美しく語られるだけの『虹の階梯』にはぼくは不完全さを感じました。」p74と言っている。
宮内
(前略)サリン事件の真っ最中に、新聞社のデスクと話をしたんですが、「おれもよくわかるよ」と言っていた。その人は全共闘世代なんですね。だから連合赤軍事件も、サリンをまいた信者たちの心理的な動きもわかるという。太平洋戦争に突入していった頃の日本人も、ヒトラーの時代のドイツ人も同じだった。だから「オウムの連中は狂っていたんだ、馬鹿なんだよ」と切り捨ててしまったら、とんでもないことになる。自分の中にも、それが宿るということに気づいていない。
p124
なんでもかんでも「同じだった」としてしまう、いわゆる宮内ロジックは私はあまり好きではないが、ここの文章については、認めざるを得ない。実際に、このブログが下の味付けとして「アガルタ」を標榜する限り、ナチズムの検証までおりていかなくてはならない。
宮内
それだけじゃない。もっと残酷なことを言おうか。彼(クリシュナムルティ)を発見したリード・ピーターという人は、少年に対する男色者だった。あちこちで事件を起こしている。クリシュナムルティは、ものすごく美しい少年でしょう。
ぼくはアメリカに住んでいるとき、クリシュナムルティの父親が、リード・ピーターを訴えている記録を読んだ。裁判所に訴えているんだ。「あっ、これだったのか」と思った。彼(クリシュナムルティ)はセクシャルにも傷ついていると思う。そういう悲しみを深く堪えている。
この部分については、あまりクリシュナムルティを「信奉」もしていないし、「読んで」もいない私としては、初耳だが、ありえないことではないと思う。
宮内
(前略)我々のこの時代がオウムを生んだんだよ。そのことにみんな気づかなくちゃいけない。なぜこうなったかと言うと、我々の社会にオウムにかわる受け皿がなかった。精神や意識の営みに意味をあらしめようとする若者たちを受け入れる受け皿がなかった。
p173
この部分については異論がある。この本のタイトルも私は好きではない。そのことについては、今後のこのブログで展開していく予定だ。
高橋
ナチスが終わったあと、世界はナチスの悪夢をつくらないと決意したんじゃなかったでしょうか。おそらく善良な人たちは、ナチスのようなことに対して、非常な警戒心とともに、「ぼくたちはこれからナチスほどのひどいことはしない。そこまで人類を落とすことはないだろう」みたいな期待があっただろうと思うんです。それが日本に飛び火して、こういうものができてしまった。
p207
高橋は、一時的であったにせよ、その構成員であったことを忘れてはならない。すでに他人事であるようなことを言ってはいけない。それはキミ自身のことだったのだから。
宮内は、麻原は最終解脱者であるはずがないという。それは当然だ。麻原集団は本物のマイトレヤーがやってくる前に現れる、マイトレーヤーを自称する「偽マイトレーヤー」に仕立て上げられてしまったのだ。そして、すでに、本物のマイトレーヤー「達」は生れてしまっている、と私は見ている。
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