「活仏たちのチベット」
ダライ・ラマとカルマパ <初読>
田中公明 2000/4 春秋社
田中公明
の仕事は注目に値する。この本において、この1000年ほどのチベットをとりまく、宗教、政治、文化、経済の概略が理解できる。とくに、「700年前のチベット」とはどういう環境であったか、ということが、極めて俯瞰的でしかも具体的な知名や人名に彩られて、分かりやすく説明されている。今回は、こまかいチェックはしないまでも、詳細を知る必要がでてくれば、再精読の価値はある。また、モンゴルとの関係性について、おりに触れて言及している。
かつてダライラマ13世と大谷光瑞の交換留学生として、チベットのセラ寺で学んだ
多田等観
は、チベットの僧院を構成する二大勢力として、チベット人とモンゴル人を挙げ、この両者が喧嘩すると、モンゴル人はチベット人を「猿」と罵ったと記している。これはソタン・コンポリの伝記に基づくものだが、これに対してチベット人は、モンゴル人を「犬」と呼んで罵った。これはモンゴル人が、「青き狼」の末裔とされるからであるが、モンゴルでは「犬」と呼ばれるのは、最大の侮辱であった。
p30
犬猿の仲、という言葉を思い出す。民族によって文化は変わる。日本人においては、「馬」とか「鹿」とか、あるいは、これらを一緒に言われれば、最大の侮辱となるか。
チンギス・ハーンが没した1227年、モンゴルはついに西夏を滅ぼし、その版図はチベットと酒井を接するに至った。そして、1240年、西涼に駐留していたオゴタイ・ハーンの子ゴデン(太子は、武将ダルハンタイジ・トルダをチベットに派遣して服属を迫った。当時の
チベットは各地に小士候が割拠しており、強大なモンゴルに反抗することはできなかった
。
p66
これが、700年前のチベットとモンゴルの関係だ。勇ましいモンゴルの攻勢に、知的なチベットが、静かに地下にもぐった、という構図が構成される素地はある。
今世紀のはじめに、チベットに入った河口慧海や多田等観の記録からもわかるように、チベットの一般民衆は、めったにダライラマに会うことができなかった。ところが「時輪の大灌頂」は在家信徒でも受けることができたため、庶民にとっては、ダライラマの姿を見、声をきくだけでなく、ダライラマと法縁を結ぶ唯一の機会ともなったのである。
p108
その他、パンチェンラマ騒動の一端も伝えている。この本において、チベット密教を、チベットにおける最大の産業である、と捉えているところが、面白い。
<再読> 2008/09/10
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