ネグリのいうところのマルチチュードを探しに、哲学やスピノザ周辺 をうろうろしたが、ネグリのいうところのマルチチュードは、ネグリに聴くのが一番手っ取り早い。それは、Oshoの言うところのZenを他に求めてもなか なかみつからないことと似ている。OshoのZenはOshoのZenだ。
現在のところ「哲学」にとどまっているかぎり、決して、「生きた」マルチチュードになってはいない。LIVE・MULTITUDEではないのだ。ここれがOshoのLIVE・ZENと決定的に違うところ。
心 にとどめておいていただきたいのは、本書が哲学書だということである。本書では、戦争を終わらせ、世界をもっと民主的なものにするための取り組みの例を数 多く示していく。しかし、だからといって、本書に「何をすべきか?」という問いに答えたり、具体的な行動プログラムを提示したりすることを期待しないでい ただきたい。現在の世界が向き合うべき課題や可能性に照らしながら、権力や抵抗、マルチチュードや民主主義といったもっとも基本的な政治概念を再考するこ とが必要だと私たちは確信している。新しい民主的制度や社会構造の創出という実用的な政治的プロジェクトにとりかかる前に、まず今日の世界において民主主 義とは何を意味するのか(あるいは、意味しうるか)ということをじっくり吟味する必要があるからだ。
「マルチチュード」(上)p23
ネグリは、哲学や政治、共産主義や民主主義という概念を使いながら、さらにそれを超えたものと創ろうとしている。できたかかどうかは、分からない。でもやはりまだ「哲学」であり、LIVEにはなっていない。Oshoの
「革命」
や
「共産主義」
などについての言葉は、ネグリに届くだろうか。民主主義、は現代社会における重要なキーワードの筆頭に挙げられている概念だが、それは「主義」にとどまり、やはりLIVEにはなっていない。その証拠に、
現在チベットで起きていること
を考えてみれば、すぐ分かる。
「共通の自由」のオルタナティブへ
われわれはこの最後の志向の実験工房を「共通の自由の時間」と命名したが、これを「共通の自由のオルタナティブ」、あるいはもっと簡単に「共通の自由について」と呼んでもさしつかえない。ここでのわれわれの第一の関心は、 マルチチュードを形成することは、民主主義を生産することにほかならない
という主張を論証することである。とりわけ、マルチチュードの構成にしろ、民主主義の構成にしろ、それは、自らに与えられた任務、到達すべき目標、実現すべき倫理的・政治的装置であるということを確認することになるだろう。
p218
ネグリにおいての構図は「<帝国>」VSマルチチュード、だ。しかし、Oshoにおいては、無意識VS覚醒だ。「<帝国>」は、人類の無意識からくる恐怖 や愚かさが作り出している。そこからの脱却するのは、ひとりひとりの覚醒だ。マルチチュードが雑多で集合性を維持することだけでは、「戦争」はおわらな い。マルチチュードとは、瞑想するひとりひとりのネットワークであるべきだ。問題は、無意識から覚醒することだ。そして必要なのは哲学ではない。必要なの は、瞑想であり、LIVE・ZENだ。
「ここがロードスだ、ここで跳べ」ということである。
p230
ここがロードスだ、ここ以外にロードスなんて、ありようがないのだ。今ここでこそ・・・・。でも、跳ぶことも、必要もあるまい。「跳ぶ」ことにとりつかれ続けるはもうやめよう。「ここがロードスだ、ここで踊ろう」
60日記037 アリバイ 生存証明 2025.07.28 コメント(1)
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