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ここ2日間、好きな人とばかり会ってて。昨日は、Kさんと映画を見て、キャンプで飲み♪飲みまくる。今日は、仲良しS事務所セミナーお手伝い♪その後、会社の飲み会に参加させてもらうw沢山の人たちと会って、興奮。そして、うち、気がついた。ワタシが欲しかったのは、コレだったーーーって!お金でもない、自由な時間でもない。『大好きな奴らとの時間』それは、1000コのダイアモンドより、尊いものなのじゃ。
2005年05月29日
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実はけっこう料理好きヽ(*´▽`*)ノでも食べてくれる人がいないと作る気になれないっスただの食いしん坊とも言う(wワタシの家族は、まったく外食をしなかった。そのせいか、外食をしても、あんまりおいしくないと感じるざむ姫。やっぱ家で食べるのが、一番美味しい。しかも、うちの母の料理はおいしい。(当社比)母の料理をともだちに披露すると、すこぶる評判が良い。世間的に見ても美味しいようだ。手作りのモノが多かったのね。梅酒・梅干し・漬け物・ハーブなど・・・。ワタシ、料理がうまいかどうはか別として、舌が肥えてるのは確かだ(w材料が余ってたので夕飯は豪華にしてみた。・鯛飯<好物なんですよ!秋になったら、サンマご飯に挑戦してみたい。脂がまわって、絶対うまいハズ!!!・タコキムチ・ナムル各種(ほうれん草2種・もやし・ぜんまい・小松菜)・チヂミ(甘鯛・エビ)ウヒヒ。うまかったっス♪今度は、かりかりの海鮮チヂミも挑戦したいッス。クッキーとかシュウクリームも焼きたいッスよ。食べてくれる人がいるなら、喜んで作るんだけどなあ・・・・あつあつご飯でエビ天むすびも作りたーーーい!石焼きビビンバも家でやってみたい・・・。食いしん坊ざむ姫でしたーー♪某氏へもっと食に興味もってくだつぁい。
2005年05月27日
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じいちゃんは、とんでもない道楽者だった。昨日の日記がじいちゃんばあちゃんの法事だったので、思い出ついで★じいちゃんの伝説は、尽きない。例えば、ヤクザとのお話。じいちゃんはギャンブラーだった。競馬・競輪・ちんちろ・花札・・・なんでもござれ。おかげで、うちはいつも貧乏だったらしい。うちの近くは、おヤクザさんの家が多い。山口組系○原組という、有名な組合の事務所がある。でっかい家で、珍島犬という、日本にはいない犬を飼ってる。これ以上書くとヤバいでつ・・・;;;そこのヤクザさんちで、じいちゃんは、ちんちろをして、400万負けちったんだって。(当時の400万だから、今だったら1200万くらい?)そこからが、大変で。毎日のように、おヤクザさんが家に押しかけてきた。毎日居留守を使い、電気を消して震えながら生きてたって、お父さんとお母さんがよく、ワタシに教えてくれた。ワタシが生まれた頃には、借金は返し負えてたの。でもやっぱり、ギャンブルの癖は抜けてなくって、>д<。。。家のお金を盗んでは、ギャンブルにつぎ込んでました。ざむ姫の子供の頃のお年玉も、おじいちゃんに盗まれたことがありまつ・゚・(ノД`;)・゚・そんなじいちゃんも、ワタシが中学生の時に亡くなってしまった。亡くなったときも、伝説を忘れないじいちゃん。亡くなった当日の朝、じいちゃんは看護婦さんをナンパしてたらしい。「一緒にコーヒー飲みにいかへんかー」って。元気なじじいwお経が死ぬほど大嫌いだったじいちゃん。葬式の時みんなで「お経をきいて、うるさいって起きてくるんちゃう?」って言ってた。いまでは、天国でおばあちゃんと仲良く暮らしてるかな。ってか、仲良く暮らせよな。
2005年05月26日
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細胞記憶説を強く提唱しているワタシとしては、先祖の記憶が連綿と受け継がれ、今の自分を形作っていると公にしてはばからない。自分の性格は親に形作られ、親の性格はそのまた親に形作られるから、「親の因果が子にうつり」という格言も、当然の帰結から生まれたもんだ。今日は、じいちゃんとばあちゃんの、法事だった。じいちゃんは、ワタシが中学の頃に、ばあちゃんは、高校の頃に亡くなった。実をいうと、いまワタシが住んでいる家に、住んでいた。リフォームしたけどさ。法事と言っても、家族が集まって、ごちそうを作り、先祖を出迎え、飲んだり食ったりするだけ。けっこう楽しいものなのだ。魚、肉、野菜、エビ、おつゆ、ご飯、果物、甘味もの、酒、線香・・・先祖を豪勢なおもてなしで、出迎える。そして、三礼。先祖が食べたかなーーーーというくらい、お供えを置いておいて、しばらくしてから、みんなでいただく。おなかぺこぺこなので、おいしいのよっ。こういう、目に見えないものを奉る習慣って、意外と大事だ。世の中は、目に見えないものが、目に見えるものを作っているから。帰りに、法事のあまりを持って帰りました。しばらくは、食に困りそうにありませんwああっそうそう、もうすぐ、HIT60000なんですよ!!60000HIT踏んだ方には、プレゼント差し上げようかと・・・♪いらっしゃいましたら、自己申告おねがいしまーーーす★自分で踏んだら、さみしいなあーーーー;;;;
2005年05月25日
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実家の屋根裏に、カバンをしまおうと入ったら、面白いモノを見つけちゃった。一枚の、小学校時代の、ワタシの絵。大事に(?)しまってたんだなあと、うれし懐かしく思い、鑑賞(^▽^*)・・・すげー絵でした。ビルから人が、次々と飛び降り自殺してる絵。しかも、飛び降りようとしてる人が、列をつくって、待ってるの。ワタシが先生だったら、家庭への電話番号を連打してますよ?描いたことは覚えてる。でも何考えて描いてたっけ?(ーー;多分、人間ってみんなこの悲しいつらい世界から、逃げ出したいに違いない、とか、そんなんだったと思う。悲しくて描いたというより、みんなこんなもんだろーって、ひねくれてたのかな。まあ、ワタシらしいといえば、ワタシらしいっか!いや、それはそれで問題だよなあ。
2005年05月21日
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もう5月も半分すぎちゃったのう。いつの間にやら今年も半分が終わろうとしている!!!ワタシに断りもなくーーーーーーーー。今年も絶妙にニートな半年だったな・・・。30%専業主婦+30%SOHO+その他もろもろみたいな。その割にステキな出会いも多かったな。遊びは少ないな。後半部分はがんばって遊ぶとしよう。うん。今日は長めに続いてた仕事を終わらせたので、気分よしです。過去振り返りまくり日記が、えらい長くなってしまった。そろそろ終わらせマス。美味しいワインの話なんぞをダラダラ書きたい。あー、最近チリワインにはまってます!安くてウマーーー(・∀・)ーーーーこっから嫌な思い出が続きますヨ。デザインの専門学校から、就職したのは某ベンチャー企業。HPと、ちらし、つまり広告担当だった。ベンチャーと言えば聞こえはいいが(いいのか?)立ち上げたばかりの小さな会社。職種もちょっと変わっていた。寺あいての商売だったと思う。人数が少ないから、超忙しかった。さすがに会社に泊まったことはなかったけど、入社が決まった次の日から働いて、終電で帰れたことは、数えるほどしかない。休日出勤も当たり前だったから、学校に卒業作品を受け取りにも行けなかった。給料が出たのは、初めの半月分だけで、あとは資金繰りがうまくいかなくなったらしく、交通費もでなくなった。「やべっもう辞めた方が良いな」とは思ったけど、ある友人に「倒産しそうな会社だから、給料が出なくても社長がかわいそうだから助けてやれ」とアドバイスをうけて、2~3ヶ月ほど働いてた。社長が逃げ始めたので、さすがに辞表を渡して、やめた。でも、不思議なことに会社は存続した。これがやっかいで、会社が倒産してくれれば、短期間でも失業保険がもらえたのに、それがでなかったんだな。「こんなにがんばったのに・・・!!!!」あんなに悔しい思いをしたのは、このときが初めてだった。その後、すぐ、知り合いからHPを作る仕事がきた。天の恵みと思ってとりかかった。完成して喜んだのもつかの間、yahooに登録されるまでギャラを払わないとかいいして・・・これまたガッカリダゼ!!!!結局、数ヶ月後に支払われることになったんだけどね。前回の会社のことがあった直後だったので、すごく落ち込んだ。平行して、名刺デザインのバイトをはじめた。普通の会社で、「かわいい名刺を低価格で売る」のがコンセプト。受注、生産、販売をぜんぶやってたのだけど、これがなかなか楽しかった。人と関われるし、自分のデザインも生かせる。ひょんなことから、仕事をやめることになったのだけど、そのとき、社長と少々もめてしまった。辞める時期が、予定より早くなったと、社長に告げたのね。そしたら、最後の月の給料を払わないとかいいだしやがったのね。もう、またかよ!!!!!!!!!!と(wこのときは、ワタシは呪われてるんじゃないかと思った。さんざんモメて、社長秘書が、コッソリ払ってくれた。あちこちでも、モメごとを起こしている社長らしかった。こんなことが、1年かそこらのうちに、ドバーーーっとやってきてワタシはすっかり落ち込んでしまった。人生のなかで、一番苦しかったとき。一番自分を見失ってしまったとき。やることなすこと、上手くいかなくて、誰も助けてくれなくて。誰もワタシを認めてくれてない気がして、すごい孤独を感じてた。一体あれは、なんだったんだろ?人生に意志があるんなら、ワタシに何を教えたかったんだろ?今のワタシが、この頃のワタシを見つけたら、きっとこう言うだろうな。「もっと肩の力抜けよ、ボク。もっと好きな道歩いてもいいんだぜ?」チカラはいりまくりだったからね。今でもそうか。それから、色々嫌なことや、嬉しい出会いがあって、今があります。この時に、人生にたたき落とされて、いまだに這い上がれてない自分があります。これが、「でも今はオレすげーんだぜ?」って言えたら、かっこいいんだけどさ。またたたき落とされるのが怖くて、這い上がろうとしてない自分があります。つらかったけど、得たモノもあります。人間らしさ。久々に会う友達みんなに、「人間くさくなったねー。かわいくなったね」言ってもらえますwそれは多分、自分の弱さを受け止めることが、少しはできるようになったから。あぁ、でもいまは、逆に弱くなりすぎてる気が・・・・(ーー;思い出してて、自分のこといっぱいでアレなんですがっ。必死で強がってる学生時代の自分を思い出すと、なんて愛おしいんだっっ。落ち込んで孤独を感じてる自分を思い出すと、なんて切ないんだっっ。なんでも自分一人で抱え込んで、自分一人で解決しようと強がってたんだなー。あーあー、まだちっちゃいのにナー。甘えられないんだねー。子供の頃からそうだったねー。尖ってたよね。つーか尖ってるよ、ボク。なんでもムチャヤリたい心と、慎重になる心の葛藤で、尖ってるね。大丈夫、ボク、君はまだまだ若い。ワタシはボクを心から愛してるよ。そんなこんなで、ざむ姫の過去はなし終わりです★最後までつきあってくれたあなた、ありがちゅっ(≧∀≦)
2005年05月18日
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お米と向かい合うこと4時間。かけましたよ、ええ。一粒に52文字。以外と、お米って面積広いんですよー。専門学校は2年間あって、ひたすら絵をかきまくりました。寝ないで絵を描きまくった。それでも、ワタシ絵が下手だったー。学校いって、バイトして、帰ってから絵を描いて、寝ないで学校いってをひたすらリピート。この頃は、異常に右脳が活性化してた。目に映るモノすべての色にたいして、絵の具の調合を考えて、陰影の付け方を気にしてた。右脳が活性化しすぎて、ちょとヤバいものまで見え始めた。研修旅行にイタリアに行ったり、文化祭で藁人形を200体作ったりと、とても充実した学生時代。でもちょっとした違和感と、物足りなさを覚えてたのも、事実。その後、某ベンチャー会社に就職。これが、いけなかった。ここから、ワタシの人生が落ちてった。
2005年05月17日
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そんなこんなで、高校生時代は、忙しかった。本当の意味での、友達もたくさんできた。小説もいっぱい書いた。演劇も思いっきりできた。彼氏ができたり、失恋したり。嘘みたいに楽しい時だったかなぁ。勉強はぜんぜんしてなかったので、成績は、良くはなかった。特に、数学は最低で。未だにだいきらい。進学の時、絵の道に進むか、文学に進むか、演劇に進むか、悩んだ。そして、なぜか絵の道に進むことを選んだざむ姫。親に迷惑をかけたくないという思いと、他の道での挫折が怖かったのかも>д<。。。 絵の専門学校へ進むとき、入学金が免除になると言う試験があって、ざむ姫はみごとそれに受かった。少しは、親の負担が楽になったと思う。絵の専門学校では、友達が変な奴ばっかりだった。先生も、変な奴ばっかりw最初の授業の宿題が・・・・そう!!いまでも覚えてる。「米粒にいろはにほへと・・・筆で、52音全部描きなさい」というものだった。聞いた瞬間は意味がわからなかった。そんなの、あんな小さな米粒に、文字なんて書けるわけねーーーじゃん!!!って。一粒に一文字だったら分かるけど、52音かけっていわれてもなあ。でも、どうやら先生は、本気みたいで(ーー;)しかたなく、ざむ姫は、米粒と向かい合うことにしました。
2005年05月16日
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もちろん、二つ返事でOK!!!!こんなチャンスはなかなか、なかったからね。オーディションを受けた中で、素人はワタシだけだったし。ほかの人は、全員プロだったから、なんでワタシが受かったのか謎だった。作品の雰囲気があってたのかもしれない。暗い内容だったしw役わりは、準主人公と、予想以上に重要な役割だった。主人公の娘役で、セリフの量も、めちゃくちゃ多かった。通常のラジオドラマではありえないほどの、セリフ量で、一人語りが数ページに渡った。ページをめくる音が入るのを気にして、セリフを全部記憶した。台本をもらってからは、必死で練習の毎日。図書館から、ソレ関係の本を十数冊本を借りてきて、読みふけった。役になりきるために。自信はなかったけど、やらなきゃいけない状況に、必死で対応した。けっこう、がんばったな。一緒に働いた役者さんに、「え????高校生なん??」と不思議がられた。それだけ珍しかったんだって。なんどもNGを出されながらも、オンエアにこぎつけたときは、嬉しかった!!このときが、ワタシの、2度目の大きな成功体験だった。
2005年05月15日
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中学のときの先生から、いきなり電話がかかってきて、本当にびっくりした。ぜんぜん繋がりのない先生だったから。「N○Kのラジオドラマのオーディション受けてみない?」お誘いだった。訊いてみると、10周年記念のラジオドラマの準主役の子を、オーディションで募集しているらしい。通るかどうかはわからないけど、とりあえず、社会見学がてらに、オーディションを受けてみたらどうか、という話だった。面白そうだったので、二つ返事でOKした。通常、こういったオーディションは、事務所を通して行われるので、ワタシ以外は、全員プロの人たちばかりだった。いっぽうワタシはといえば、NHKに入れるだけで興奮してたよw2,3日後、NHKから電話がかかってきた。「あなたでお願いします」
2005年05月15日
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昨日は友達と激うまフレンチ・イタリアンを食べに行って、友達宅に遊びに行きました。ゴディバのチョコを肴に、ワインをいただいて、夢のような空間でした。いや、お金持ちっていいですね♪アジアンテイストで、すっごくステキなおうち。あんなところに住みたいなあ。しやわせいっぱいのざむ姫です。ありがとうございましたぁ★☆★そして高校生編でつ。高校入学するまえから、演劇部に入ろうと決めていた。役者になる気まんまんで。「せんせーーーっ、私、演劇部入りたいです!!!」「今廃部になってるよ?」「え?」もちろんそんなことぐらいでメゲるざむ姫でもなく☆ショックと同時に、負けずキライ癖がメラメラと燃え出した。じゃー、ワタシが初めから立て直したらーーーー。入部早々から、新入部員の勧誘をはぢめた。なりふりかまわず、目が合った人間を片っ端から勧誘してました。ええ、本当に、比喩じゃなく、片っ端から。高校の時の友達のほぼ全員が、友達になったきっかけが「いきなり、お前(ざむ姫)に演劇部に勧誘されたから」と言います。そうそう、友達を誘ったんじゃなく、誘ったから、友達になれたんですよねえ。面白い縁ですよねえ。こんときは必死だったんで、恥ずかしいとかあんまし思わなかった。むしろゲームみたいに楽しんでた。イイと思ったアイデアは、片っ端からヤリまくった。校庭の真ん中で歌ったりさ。あれは、恥ずかしかったなあ・・・。運良く、だんだんと、部員が増えてってくれた。このときの友達は、今でも仲がいい。本当に気の合うやつらばっかりになった。クラブの掛け持ちで、文学部をやりつつ、生徒会も入りつつ、忙しくも充実した時間をすごした。そんな折、突然中学校ときの先生から、突然、電話がかかってきた。
2005年05月14日
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過去はなしまだ続いてます(wもう6章かよ!!そんときの自分の感情がことこまかに思い出せてなんかおもしろーーい。今だったらどうするだろうなーとか、これはいまだに続いてるなーとか。ある種の自主セラピー?ちゅーわけで、続きます(・∀・)中学3年にあがって、いぢわるな友達と別れてスッキリ!!!新しくできて友達は、暴走族に入ったり、酒を飲んだり、たまに○○吸ったりしてる、ごくフツーのヤンキーな女の子。サバサバした性格で、けっこう仲良し(*^^)vこの頃は、小説を書くことと、演劇をやることに夢中だった。ワタシは演劇部だったけど、外部のシロート演劇グループにも所属してた。将来の夢は役者>小説家>>>>漫画家 だった。演劇するの、好きだったんですよ!!!!!進路指導の時だ。先生「将来どうするの?」ボク「役者になりたいです」先生「役者になるのはいいけど、高校はいっといたほうがいいよ」ボク「どうしてですか」先生「俳優養成所に行って、知識や技術を身につけるのは、誰でもできるけど 人生経験を積んだほうが、良い演技ができるのよ」なるほど~~と、すごく納得しちゃったよ。そんなわけで、ワタシは家から近い高校に進学することになった。その頃は(w)成績が良かった上に、内申書も完璧(だったはず)だったのでどこの高校でも、先生は推薦してくれた。ちなみに、ワタシが通っていた高校は、なんと、あのアナウンサー逸見政孝さんの母校だった。・・・これで特定できますね。卒業式の時、当然生徒会代表として、「答辞」をつくって、読んだ。んでも、ぜんぜん悲しくなかった。むしろ「ココから解放されるぜ!!!!!」という安堵のほうが大きかった。だってヤな思い出ばっかだもん。よくさぁーーーー、「あの日に帰りたい」ってあるじゃん。「あの頃は楽しかったぁーーー!」みたいな。ワタシには、それが全くない。26年間生きてきて、思ったこと、一度もない。どんなときでも、今が一番楽しいと感じる。だってどんどん自由度が高くなるじゃん選べる選択肢が増えてくるじゃん。それってめっちゃ楽しいことじゃない?大人って楽しい。過去を振り返っても、そう想う。お酒も飲めるし、好きな人とだけいられるし、友達も自分で決められるし将来も、仕事も、年収も、ぜーーーーんぶ自分で決められる。それってサイコーじゃん。自分がしたことの責任も、自分でとるって決められる。大人んなってよかった。そんなこんなで、ざむ姫高校生になりまーーーーす♪
2005年05月13日
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出逢ったのは、BUCK-TICKと、もうひとつは、純文学。フランツ・カフカの「変身」に衝撃を受けて、純文学を読み漁ることになった。ワタシのHNの”ざむ姫”も、「変身」の主人公”グレゴール・ザムザ”の名前がゆらいなのだ。特に、ロシア文学と大正文学に傾倒した。純文学っておもしろくて、哲学的な要素を多分に含んでいるせいか、横の繋がりが強い。純文学や哲学書を読み込めば読み込むほど、他の本が深く理解出来るというしくみになっている。(ざむ姫談)だからつい、中毒のようにハマる。ワタシのように、活字中毒で、物事にハマりやすい性質をもつ者なんていいカモだ。中でもゲーテとドストエフスキーと夢野久作は、ワタシの3大師匠。(久作はエログロナンセンスだけど)寝る間を惜しむだけじゃ飽きたらず、教科書で隠しながら授業中に読みふけった。ま、いいや。とにかくこの頃は、B-Tを聞きながらゲーテを読み、小説家を夢見て筆を走らせ、演劇人に憧れた。なにかを表現することが好きだったんだな。ね・・・ねぶい・・・
2005年05月12日
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そのときの仲良しグループの女の子達とは、どんどん険悪な雰囲気になっていった。女の子のいぢめは陰湿で、ボクはノイローゼ気味になってしまった。ボクの成績が突然上がったことを、先生とデキてるからだとか、ネたとか、そんな顔でよくそんなことがデキルワネとか・・・聞くに堪えないような噂を流してて、毎日その話題を持ち出されて、このときのことは、ほんとうに、思い出そうとするだけで、すごくすごくすごくつらくなって、悲しくなる。このときのトラウマは、けっこう大きい。「誘拐」のときのトラウマよか、よっぽど大きい。もともと容姿や人とのコミュニケーションにコンプレックスがあったから、それに輪をかけてコンプレックスが強くなっちゃったと、思う。「誘拐」のときと、このときの記憶が+されて、恋愛に対してものすごく怖くなってしまった。今でも苦手だな・・・・・・・。ただ、気になるのは、このときも、あまりワタシは相手に強く文句を言ったりしなかったこと。これが、ボクのいけなかった点。改めたほうが、幸せに生きられるだろうな。うん。このときでさえ、悪いことばかりではなかった。ワタシの人生における、2大要素と出会えたから。ひとつは、音楽。ロック・ミュージック。イヤな仲良しグループから、離れ、新しい友達が、貸してくれたテープに、吹き込まれてた音楽。音楽には興味がなかったし、ましてやロックみたいなうるさいものに、興味なんてなかったんだけど、試しに聞いてみたら、惹かれた。あの凶暴で凶悪で暗黒な音楽に。友情や愛を歌った歌は、いくらでもあったけど、なんか好きになれなかった。どうしようもない暗闇の中を、たった一粒の光めがけて、凶悪さをむき出しにして疾走してゆくような、音楽と歌詞。そう!それが、ワタシとBUCK-TICKとの出逢いだった。
2005年05月11日
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中学時代、校則改正を進めている間にも、いろいろあった。ワタシの人生を大きく占める2大要素に出逢ったのも、この頃。中2の時、仲良しの友達に勧められるまま、中2のときに、塾に通よおうと決めた。同じ塾に。テストの点は、さほど良いというわけじゃなかった。塾のクラスの中では低かったから、必死で勉強した。勉強しているうちに、勉強の楽しさに気づいた。特に、数学と英語は、デキルと感じてから、メキメキ伸びた。中学生の英語教科書くらいなら、日本語と同程度に読めたくらい。そのときの塾の英語の先生のスパルタ教育が、ワタシに合っていたのだと思う。「どうせお前らは、予習も復習もしないんだから、いまここで単語と英文法の全部を覚えろ」という教えだった。高飛車な話し方も、そのまんま。ほんまに、そのまんまなんですよ!きっついんだけど、妙に納得した。そして、その通りにしてみた。すると、英語の成績がグングンあがった。数学は、ひたすら練習問題の数をせまられた。「数学なんて、数だ!どれだけやりこんだかだ!!1分間でそこの30問といてみろ」そんな教え方だった。おかげで、数学ができるようになった。勉強が簡単に思えて、勉強が好きになった。次回の塾のテストでは、トップクラスの成績を収めることができたんだよなあ。でも、それがいけなかった。そのおかげで、一緒に塾に通っていた仲良しグループの女の子から、すごい嫉妬を受ける羽目になる。手のひら返したように、彼女たちは冷たくなった。
2005年05月10日
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過去話って恥ずかしいですね・・・(>Д<;とうていシラフじゃ書けません・・・。つーか、こんなの読んでておもしろいのかなぁと思いつつ。いやいや、いつかこれが自伝になったりするのじゃ!!!!!全てはじぶんのためじぶんのため。校則改正に向けて、動き出したボク。朝礼で呼びかけたり、全校生徒にアンケートとったり、生徒会新聞みたいなのだしたりしたっけ。おかげで、目立った。目立つと、なぜか、ワタシのことをよく知らない人に嫌われてることがあって、それが過ごしにくいこともあった。全然知らない人に、いきなりすれ違いざま文句を言われたり、名前を呼ばれたりするのは、気分が悪かった。出る杭は、打たれてたのだ。同じクラスの人たちは、むしろ応援してくれる人が多かったのは、救いだった。そうして1年後、「丸坊主廃止」が決まった!!一番よろこんだのは、他の誰でもないワタシ(w自分で決めて、自分で動いて、想像したとおりになったのが、うれしかったんだ!!校則改正に向けて、集めていた全校生徒の声をまとめたものがあった。それをもとに、生徒会で、新しい「10ヶ条」を作った。全ての生徒が、楽しく自由に、中学生生活を営めるようにと。ボクらの作った「10ヶ条」は、来年から生徒手帳に載ることとなった。○期生徒会よりと。先生と生徒会との間で、「10ヶ条」は、10年間生徒手帳に載せることと、決定づけられた。そして次の年、私たちが作り上げた「10ヶ条」が、新品の生徒手帳に印刷されていた。こんなに誇らしい気持ちは、はじめてだった。これが、思い出す限り、一番はじめのワタシの大きな成功体験。
2005年05月09日
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そこの中学校が、なかなかのヤンキー校で、生徒の2割は超ヤンキー、5割はぺーぺーヤンキー、3割が普通の子なのだ。最初のうちは慣れなかったけど、1ヶ月もすると、比較的おとなしい女の子のグループで、友達ができた。思春期の女の子特有の、トイレにも一緒にいくような、ふつうの仲良しグループだ。一度あの、成功体験を味わったボクは、再び生徒会に立候補することになる。最初は生徒会で書記を務め、2年生になったときには、会長を務めた。ボクには、野望があったから。この中学校の校則には、「男子は丸坊主にしなければならない」という、時代錯誤な校則が、未だ残っていた。26年前から、この校則を変えようと言う声が挙がっているにも拘わらず、いまのいままで、改正されていなかった。「ボクがこの手で変えてやる」これが、このときの野望(w中学生らしい、ボクの野望。自分のチカラで、自分の思ったように、校則(ルール)を変えることに、たまらなく魅力を感じていたっけ。丸坊主校則を解放すれば、みんなが喜んでくれるだろうという思いより、自分のチカラを試したかったのだと思う。なにか大きなコトを成し遂げたかったのだ。そうすれば、誰かがボクを認めてくれて、誰かがボクを愛してくれると、ココロの奥の奥底で願ってた。生徒会長に就任したときの、朝礼演説で、ボクは全校生徒の前で、こう誓った。「1年以内に、丸坊主校則を廃止します」廃止するだろうでも、廃止するつもり、でもない。完全な断定形。そのときに読んでいた本に、「なにかを成し遂げるときは、断定形で多くの人に発表するといい」と書いてたので、なるほど思って実践したのだ。中学生ながらに、この無謀な挑戦は怖かった。校則改正っつっても、何からはじめていいか分からなかったし「コレができなかったら、全校生徒にバカにされるんだろうなー」と思った。実際、宣言した直後は、誰も本気にしてくれなかった。どうせ口先だけだろーみたいに、笑われたな。でもボクは、かなり、本気だった。生徒会長には、毎週、朝礼で演説するという役割があったので、演説にもチカラを入れた。後ろの生徒にも話をきいてもらう方法は、舞台女優の出演テクニックを学び、抑揚のある魅力的な演説方法は、ヒトラーから学び、好かれる表情の作り方は、日本皇室の躾本から学んだ。そうそう、ボクは、完璧な品行方正な学生を演じた。髪型から、スカートの長さ、靴下の色まで、校則に準じた。ヤンキー校において、ここまで徹底してるのは、誓ってもイイ。ワタシだけだったゼ(・∀・)友達には「あんたって超マジメやね~」とからかわれた。すべては、校則改正のためだった。校則を改正する権限は、すべて先生が持っている。先生の信頼を得るためには、まず、ボクを信頼してもらう必要があると思ったのね。ボクは、校則改正に向けて、本気で動き始めてた。
2005年05月08日
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ヤバい眼をした浪人生に手を引かれて、連れて行かれた所は、すごく近くの、小さなアパートの二階だった。手を引かれている間だ、大声で叫ぶとか、走って逃げるとか、近所に逃げ込むということは、頭に浮かばなかった。この辺りの家庭は、ほとんど共働きで家にいないし、なによりかっこ悪いように思えたからだ。誰か助けて欲しいとは、ずっと思ってた。畳の小さな部屋に通されて、いよいよ危険が迫るボク。どうしようどうしようどうしよう。浪人生が振り向いた瞬間、がばと抱きついてきた!そのとき、とっさに出た言葉がこれだった。「図鑑が読みたい!!」なるべく刺激せず、自然に思える言葉だった。その言葉に、なんか相手は安心したみたいだった。素直に、近くの本棚から海洋図鑑をだした。海洋図鑑を読みながら、この本を読み終えたらどうしようと。わざとページをめくる指を遅くしながら、考えてた。でも、良い考えが浮かばない。その間だ、相手は横で、ボクがページをめくるのを、息を詰めてじっと見つめていたように思う。ボクは、飽きもせず同じページのクジラを眺めてた。誰かが怖いとかいうより、その緊張感がなにより、怖かったように思う。そのとき、突然玄関チャイムが鳴った。ボクは、玄関にダッシュ・・・と思いきや、はーいと普通に返事した。玄関の引き戸がガラガラと開いて、近所のおばさんが入ってきた。そこから先はよく覚えてない。安心しすぎて、記憶が抜けたみたい。とにかく、助かった~。おばさんが浪人生をしかりつけ、ワタシを連れ帰ってくれたことだけは、確かだ。物干し中に、ワタシが浪人生に連れて行かれるところを、偶然見つけたらしい。その夜、浪人生はワタシのお父さんとおかあさんと、近所のおばちゃんとに呼ばれ、怒鳴られてたように思う。でももう、全然覚えてない。ただ、このとき、ボクのココロに芽生えたのは「もっと強くなろう」という決心だった。もっと強くなろう。誰にも負けないように、もっともっと強くなろう。自分より体の大きな人にも負けないように、もっと強くなろう。自分より年が上の人にも負けないように、もっと強くなろう。男の人にも負けないように、もっと強くなろう。そうして、負けん気の強さに拍車がかかり、ますます負けず嫌いのボクが育まれてゆくことになったのです。小さかったボクがこんな決心をしてたなんて、今から思うと、なんてけなげな奴だったんだろうなあつДT)かくして、一人の少女の誘拐劇は、無事幕を閉じたのだった・・・!!!! よかった、よかった(・∀・)その後、特にトラウマもなく、後遺症もなく、普通の小学生生活をおくり、地元のヤンキー中学校に進学することになる。・・・・つづく(・∀・)
2005年05月04日
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「誘拐」独り、おうちでお留守番してるときのことだった。ボクはまだ、8歳だった。その頃は、家にカギをかける習慣もなく、無防備な家に、ワタシ一人。ガラガラと、遠慮なく玄関の引き戸を開けて入ってきたのは、近くに済んでいる浪人生。ちょっとヤバい目をしてて、小学生とばかり遊んでいるので周りから目をつけられてた人だ。「今日は一人でお留守番なの?」「お兄ちゃんもいないの?」「一人でなにして遊んでるの?」「家に(一人暮らし)においでよ」そんな会話が交わされたように思う。そいつとの会話は、なんだか、だんだんオカしくなっていった・・・・。「遊んでくれないと、君の家族をコロスよ・・・?」逆らったらコロされるかもしれない。生まれて初めて感じた身の危険。「ボクの家においでよ・・・?」恐怖の中で、そいつの家へと、ボクは手を引かれるままついていった。
2005年05月03日
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クラスメイトに「転校生」と間違われてから、なにがなんでも自分を変えようと決意した、ざむ姫。思いついたのは、目立つ存在になること。目立つ存在と言えば、人の上にたつ人物。そうだ!生徒会長になろう!!!!!!これがそもそものきっかけだった。クラス代表より、学級代表より、生徒会長が一番目立っていたので、そう考えたのだ。さっそく、生徒会に立候補した。誰もなりたがらないから、すぐに念願の生徒会に入ることができた(w生徒会に入ったけど、友達はできなかった。けど、自分に自信がついたので、どんどん友達が増えていった。すごく嬉しかった!!生徒会の仕事というのは、会議の進行と、会議で出された提案のとりまとめがほとんどだった。そこで、会議の進行役が得意なことに、気がついた。全体の雰囲気を見回して、滞りなく会議を進めてゆく。またひとつ、ワタシは自信をつけた。この頃の将来の夢は、マンガ家か、小説家。小説がすごく好きだったし、文章を書くのも好きだったから。ヘタだけど、絵を描くのが好きだった。北杜夫と手塚治虫の大ファンで、ファンレターを書いたこともある(w「漫画家になれば、貧乏になるだろう。小説家になれば、大成功するだろう」と、当時のワタシは予言していた(w絵を描いたり、文章をかいたりして飯をくっているワタシとしては、あながち間違っちゃいないあと、今では思う。けっこう楽しい小学生生活を過ごしていたけど、4年生のとき、ショッキングな事件が起こる。誘拐事件だ。誘拐されたのは、他の誰でもない・・・ワタシだった。
2005年05月02日
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内気で友達がほとんどいないって、昨日の日記には書いたけど、一人だけ親友と呼べる奴がいた。家族ぐるみのつきあいをしていた、ワタシの幼なじみ、よしお君だ。一つ年下の男の子で、それこそ兄弟のように遊んだ。ワタシの家族と、よしお君の家族は、めちゃくちゃ仲良し。いっつも、一緒にいて、一緒に旅行にいって、釣りも一緒に行ったのだ。学校ではあまり友達ととけ込めなかったけど、家に帰れば、よしお君と遊べるから、さみしいと思ったことはない。体は小さいけど、すごく気の強い奴だった!将来の夢とか、話し合ってて、ずっと一緒にいられると思ってた。小学校3年の時、いつものようによしお君の家に行くと、よしお君の家族が全員、荷物をまとめてたのだ。「ごめんね。しばらく旅行にいくねん」よしお君のお母さんは、悲しそうに、それだけ言った。でも、なぜかワタシは、もう2度と彼らに会えないと、直感した。家に帰ると、お父さんとお母さんが泣いてた。「誰かがチクってん!!チクショー」「あんないい人らやのに・・・」「不法滞在者ってこと、誰かしゃべったんや!!」むつかしい単語はわかんなかったけど、なんとなく、わかった。よしお君の家族は、韓国からの不法滞在者だったんだ。すごくいい人たちだったけど、ビザが切れても、ずっと日本で生活してた。待遇の悪い工場で働いたり、ミシンでサンダルを縫ったりして。そのことを、誰かに話しちゃったんだね。それを、正義感溢れる誰かが、警察に通報したんだね。だから、韓国に強制連行されちゃったんだ。法律的には、正しい日本人なのかもしれないけど、ワタシにとっては、唯一の親友を奪った、冷酷な行為に思えた。このとき、ワタシの中に、常識・正義・社会通念・善について、疑念が産まれた。この世の中に、正しいコトなんてありゃしない、と。誰かの都合のために、誰かが勝手に取り決めたにすぎないと、思うようになった。よしお君の家族が、日本に来た理由を、最近きいたんだけど、それがすっごくロマンティックだった。よしお君のお母さんの家が金持ちで、親が二人の結婚を認めず、駆け落ちしたんだって。今は韓国のよしお君は、ソウル大学(日本で言う東大)を卒業して、一流企業に入ったらしい。すげーな。韓国にいってよかったかもw話は変るけど、小学校低学年のとき、ワタシはすごく目立たない子だった。目だたなさすぎて、ショックなことが2つあった。ひとつは、先生に存在を忘れ去られたこと。クラスの、保健委員とか体育委員は、全員が当てられるのだが、それは全て先生が決めていた。あるとき、教室に委員会の割り振りを表にして張り出されたとき、私の名前だけなかったんだ。役割がないひともいるのかと思って、人数を数えたけど、クラスの人数よりひとりたりないだけだった。あー、先生、ワタシのこと忘れてるんだと、ショックを受けた。もうひとつは、夏休みが終わり、始業式のために学校に登校したとき。クラスで一番賑やかな男の子が、ワタシの顔をじーーーーっとのぞき込んだ。開口一番「転校生やぁーーーーーーーーーーーーー!!!」ってお前、クラスメートの顔忘れたのかよ?!これが、すげーーーショックだった。そこまで、存在感が薄いとわ(>_
2005年05月01日
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