1200字文芸帖(楽天出張所)

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レニーのあした

レニーのあした

 明日が重要な日だってことをわかってはいるんだけど、こういう時に限って現実逃避したくなるのは俺だけじゃないはずだ。
 人によって現実逃避の仕方は様々だ。酒を飲む人もいる。ひたすら運動する人もいる。テレビゲームに没頭する人もいる。カラオケで歌いまくる人もいる。妄想の世界に入り浸る人もいる。俺の場合、待ち受ける明日のプレッシャーに押しつぶされそうなこんなとき、いつだって自然に足が海に向かい、無心でサーフィンをしてしまう。
 海はいい。大きな海に抱かれていると、自分のちっぽけさや無力さを感じる。海を相手に自分と向き合うと、自分に正直になれるのかもしれない。社会とか世間とか人間関係とかを物差しにして自分の大きさを見誤っていたのに気付かされるのかもしれない。

 今日の海はかなりハードなコンディションだ。パワフルで巨大な波が、まるで殺意でもあるかのように次々と押し寄せてくる。だけど、これくらいの厳しいコンディションの方が明日の煩わしさを忘れさせてくれるからいい。今この瞬間を必死にならないと文字通り溺れて死んじゃうからね。
 俺は必死にドルフィンスルーを繰り返してアウトを目指した。定まらない分厚いスープは情け容赦なく俺の行く手を遮る。俺は何十回もドルフィンスルーを繰り返す。強烈な波に押し戻され、それまでの努力が無になることは当たり前。3歩進んで2歩下がる。自然の力は偉大だから、1歩進めれば上出来だ。母なる大海の瞬くまつ毛の上でもがき苦しむちっぽけな俺には、正直、このスープ地獄の試練は辛い。だけど、これがサーフィンの醍醐味だ。この辛さを乗り越えてアウトにさえ出てしまえば、グッドウェーブが待ち構えている。楽園が待っているんだ。
 無我夢中で波の試練を乗り越えて、ようやく俺はアウトに出ることができた。視界が開けるとそこには、美しい曲線を描く水平線と地球を包み込む青い空が見えた。海も大きいけど、空はもっと大きい。俺は太陽を見上げた。波と格闘していたときにはすぐ目先しか見ていなかったから光の主の存在にも気付かなかった。暖かい陽光がウェットスーツの表面を乾かしていくのが分かる。疲弊した俺の身体も温めてくれる。俺は幸福だった。自然と笑顔になっていた。こんな緩い顔を誰かに見られたら恥ずかしいな、と思いつつ顔を引き締めて周りを見回した。数人のサーファーが俺と同じように沖を眺めている。そして、可笑しなことに、みんな俺と同じように幸せそうな緩い顔をしているんだ。幸福感に包まれた俺は、金箔を散らしたようなきらきらと輝く海のずっと遠くに目を移し、いい波がやってくるのをのんびりと待った。

 こんなに素敵な海の上だが、少しでも油断をすると、日常の重い記憶が頭をよぎる。
「明日、遅刻しないでちゃんと時間通りに来てよね。印鑑、忘れないでよ」
 今朝、家を出る時に耳にした言葉。海に行く高揚した気分をぶち壊した電話だ。今は一緒に生活してない妻からだった。彼女とは一緒になってから半年も経たないうちに別居してしまった。そう、俺は明日、結婚したばかりだけど離婚届を提出する。
 若気の至りと言えば簡単だけど、俺が辛いのは勢いで結婚して勢いで離婚するとかいう形式的なものじゃなくて、好きだったお前とこんな形になって別れてしまうことだ。これなら結婚なんてしない方がよかったんじゃないか?まるで苦悩を共にしなければいけないような強迫観念にとらわれる形式に縛られることなんてしなくて、二人の共通の嬉しさや楽しさをただ共有しあうだけの生活を、単純に続けていればよかったんじゃないか?俺は自分勝手で甲斐性がなくて、収入もないし、多少はモテル外見だけど、最近ハラが出てきた感じで、頭も微妙に薄くなってきているけど、お前を大切にしたいという気持ちは変わってないつもりだよ。変わったのはお前の方だと俺は思う。結婚を境に、これからの俺にそれまでの俺の可能性以上のことを求めすぎたんじゃないか?これが俺とお前がゼロから始めるための離婚だったら、俺は反対などしない。だけど、お前は明日、新しい男の車に乗せられて離婚届を提出する役所にやってくるのだろう?

 そんな煩わしいことを考えていたが、セットが入った。
 うねりが沖の方に見て取れると、俺も俺の周りのサーファー達も一斉に動き出す。波に乗る一番いいポジションの場所取りのためだ。当然ながら上手い奴が一番いいポジションを取って、その波に乗る。ワンマン・ワンウェーブ、すなわち、一つの波には一人しか乗れないのがルールだ。俺より上手い奴は大勢いる。だからなかなか自由に乗ることはできない。だけど、考えようだ。セットの一つ目、二つ目の波に乗ろうとする人は多い。けれども、最初から三つ目、もしくは来ないかもしれない四つ目を狙うサーファーは少ない。競争率が減るのだ。俺は無駄な争いは避ける、おこぼれや余りものを頂くタイプなのさ。
 一つ目、二つ目を人の邪魔にならないようにかわしながら、次に来る波のポジションを考えて移動する。この譲りの行為も結構必死だ。波の小さいときならまだしも、ある程度のサイズがあると上手いサーファーはものすごいスピードでかっとんで来る。万が一、波に乗っているサーファーの進路に入ってしまったら、轢かれて怪我をするという被害を受けても、それは自業自得だ。ルール的にはそこのラインにいた被害者が悪い。怪我をしたくなければ人の進路上にいなければいいのだから。
 三つ目の波で俺はいいポジションを取れた。幸運なことに俺以外にこの波に乗ろうとしている者はいない。俺の作戦は正しかった。俺は笑いをこらえながら、ピークからややレギュラーよりに位置をとった。レギュラー方向が得意の俺には絶好のポジションだ。
「すげえいい波だ!俺の波だ!」
 俺は全力でパドリングを始めた。気合が入る瞬間だ。波が勢いを増して俺に押し寄せてくる。徐々に高さを増した波は次第に角度を急にして俺を飲み込み始める。その瞬間、ボードのテール部分が持ち上げられ、前傾になり、急斜面を滑るように落ち始める。この一瞬にテイクオフし、立ち上がる。少しでも遅れれば板の上に腹ばいになった不恰好なまま波の斜面をボトムまで落ちていってしまうか、ノーズが海面に刺さり波に飲み込まれて海の底へ引きずりこまれる。だが、見事に俺は素早い動作で立ち上がった。
 このテイクオフの一瞬の幸福も何事にも変えがたいものがある。これこそサーフィンをやった人にしか味わえない感覚だろう。フワッとした浮遊とも無重力ともいえる感覚、波間を抜ける風のような摩擦抵抗ゼロの感覚。だが、この一瞬は合図でしかない。波との戯れのスタートを告げる天使の笛の音のようなものだ。
 その直後、浮遊感と開放感から一転して、スピード感と加重感が波間を滑る者に襲い掛かる。ボードをコントロールするには摩擦抵抗がゼロのままではできない。ボードのレール(エッジのこと)を波に食い込ませて、摩擦抵抗を自分で操らなければいけない。レールが絡むと波は張力でもってボードを弾き飛ばそうとする。俺はその反発力に対して逆に重心を落とし、脚を踏ん張ってさらに反発し返し、さらにその力を推進力に換え一気に加速していく。そして、繰り返しレールを入れ込むたびに、スパークプラグが連続して爆発するかのようにそのリズムを速め、波間をすり抜けて行くスピードに変えていく。俺は波よりも速く滑ることができた。一度加速してしまえばこっちのものだ。
 波の力がボードを通して足の裏から伝わってくる。バシュッ、バシュッとボードが波を切る音も気持ちがいい。アップアンドダウンで勢いを得て、トップターンのアクションで切り返し、ボトムに滑り降りていく。重力の力も借り、スピードに乗ったところでボトムターン。俺はボトムターンが好きだ。振り子になったような遠心力の加重感とボードが波をえぐるように切り裂く感覚、水面と自分の目線との距離が近くて、流れて行く水の分子まで見えるようだ。それがまるでタイムトリップの仮視体験のようでいい。
 ボトムターンから再び波の面を滑り上がっていく俺はリッピングの準備をする。気持ちはビシッと飛沫を撒き散らしてターンをするつもりだが、俺はまだそんな実力はないから、なんとなくクイックなトップターン止まり。けど、これで充分だ。まだまだこの波を乗り継げる。
 しかし、油断は禁物だった。トップターンを終えそうになった時、俺は体重移動に失敗しバランスを崩した。マズイ、と思ったときには既に遅く、ボードは足から離れて飛んで行き、俺は水飛沫を上げて荒れ狂うように巻き込む波の中に背中から落ちてしまった。一瞬にして天国から地獄に堕ちた。洗濯機のようにぐるぐる回る水中でかき混ぜられ上も下も分からないパニック状態。もがいても水面に近づいているのかも分からず、鼻からは空気が漏れ出して、今にも海水が逆流してきそうだ。この状態がまだ続けば、間違いなく死ぬ。早く抜け出たいのだが、波に巻き込まれたボードと繋がる俺の右足が深みへと引っ張られる。非情な人魚の悪戯のようだ。
 命からがらスープの中から水上へ顔を出せた。俺の肺は既に空っぽだった。助かった。酸素が好きだ。俺にはお前が必要だ。また会えてよかったよ。だが、ここで油断してはいけない。俺は三つ目の波に乗ったから、今は四つ目の波が押し寄せて来ているのだ。分厚いスープが激しい勢いで俺に近づいてくるが見えた。しかも、そこにはサーファーもおまけでついてきているではないか。さらに、このサーファーは上手そうではないのにロングボードだから勢いに乗っちゃってる。危険だ。猪サーファーは危険すぎる。波の向くままに突き進んでくる。曲がる意識は無い。ボードの上で磔にあった囚人の様に両手を広げ固まっている。顔も同様、ジェットコースターを落ちていく強張った表情。もちろん視界は狭く、俺のことなど目に入るはずも無く、気付いていない。彼に避けてもらうことは期待できなさそうだ。このままでは俺は轢かれてしまう。ホオジロザメの顔のようなロングボードのノーズがテーマ曲に乗って俺に近づいてくる。あの下に長くて研ぎ澄まされた肉切り包丁のようなフィンがあると思うとぞっとする。俺は海中へと逃げた。愛しの酸素に別れを告げる間も無く、再び無呼吸の世界へ。水中は嫌だ。たとえ海が大好きだけれどもスキューバーダイビングだけはしないだろう。
 俺はなんとか地獄の試練を乗り越え、生きて再び、ゆったりとくつろげる楽園に辿り着いた。パドリングとドルフィンスルーで乳酸まみれになった俺の両腕を休ませる。何度も大きく深呼吸して、酸素欠乏気味の脳と肺にも栄養を与えよう。
「いい天気だなあ。最高の一日だ」
 宇宙まで見透かせるような真っ青で透明感のある空を見上げると自然とそんな言葉が出た。太陽から降り注がれる光の色まで見えるようだ。この幸福感があるから、俺たちは地獄の試練をものともせずに沖へ沖へと向かうのかもしれない。目的はサーフィンじゃないのかも。この自然と一体になる幸福感のためにアウトに出るのかもしれない。
 さっきまで頭をもたげていた明日の悩みももう今は無い。何を悩んでいたのかさえも忘れてしまったよ。この大きな空と海に抱かれていれば俺の悩みなんてちっぽけなものさ。

 そうはいっても、やはり油断をするとコンクリートの世界の悩みが海の上まで忍び寄ってくる。
「結婚してるなんて、一言も言ってなかったじゃない!」
 ついさっき怒鳴られた携帯電話越しの女の言葉を思い出した。最近知り合ったばかりの女だ。こんな風に怒鳴られる筋合いも無いが、間抜けながらも俺は侘びを入れた。
「隠してたわけじゃないよ。言うタイミングが今だったってだけだよ」
 さっきの会話中に何となく明日の予定の話になって、ついつい離婚届のことを言ったんだった。
「信用できない。そんな大事なこと黙ってる人なんて信用できない。明日、役所にいくのも信用できない。・・・そうだ、明日あたしも一緒に行くわ。それなら信じるも何もないから。それでその後ランチおごってよ。そうしたらこの件に関する全てを水に流してあげる」
「えっ!明日一緒に行くって?」
 明日は予定があるんだよ。離婚届もそうだけど、その後は、悪友(ジュリアン)と大井競馬場に行く約束をしてるんだよ。
 俺は返答に困って言葉を失っていた。
「沈黙しないでよ。電話で沈黙するのって良くないわよ。何考えてるか分からないじゃない」
 はっきりとモノを言う女だ。だけど嫌いじゃない。明日別れる妻も同じタイプだ。論理や理屈を抜きにズバズバとモノを言えるのは一種の才能だろう。
「あ…明日は予定が入ってるんだ」
「はぁ?!」
 彼女はすかさず叫んだ。
「・・・だからその予定に付き合ってあげるって言ってるのよ。嫌なの?それとも役所に行くっていうの嘘なんじゃないの?!」
 当然、一緒に行くのは嫌だ。何より、新しい男と一緒に来る妻に対して体裁が悪い。だけど、意味無く疑われている虫の悪さを解決するには100歩譲って一緒に行くしかないのだろう。だけど、そのあとの競馬はどうしよう?ランチなんて食べてたらジュリアンとの約束には間に合わないし、おごったりしたら軍資金がなくなるし。こいつを連れて競馬場にいくのもどうかと思うし、ジュリアンに会わせるのも嫌だし。
「だから、沈黙しないでって言ってるでしょ」
 彼女が怒鳴ってさっきと同じ言葉を繰り返す。そして最後の殺し文句。
「いいわ、わかった。ゆっくり考えて。もし明日会えないならもう二度と会わないから!」

 そんな嫌なことを波待ち中に思い出していた俺だったが、近くにいたサーファーの声が聞こえて楽園に戻ることができた。
「セットが入ったぞ!」
 皆、一斉に動き出す。俺も遅れまいとパドリングをしてポジションをうかがう。もちろん俺は再度三つ目の波狙いだ。上手い奴らが一本目、二本目と乗っていく。本当に上手い。柔軟にターンを繰り返しリップアクションやエアーパフォーマンスまでキメる。俺は彼らのライディングに見惚れた。ターンのタイミングといい、体重移動といい、至近距離でみると本当に参考になる。知り合いではないし、決して言葉を交わさないが、海の上では見習うべき師匠がたくさんいるのだ。
 三つ目の波はやはり空いていた。ただ、今度は得意のレギュラーではなくグーフィーの波だった。グーフィーは苦手だ。背後を意識しすぎてバランスを崩すことが多い。グーフィー姿勢でのターンも苦手だ。特に外側へのターンができないから、この時は俺自身が、自分でも嫌っている直線的な猪サーファーになってしまうのだ。
 だが、苦手だとかブサイクとかそんな悠長なことは言ってられない。このポジションにいてテイクオフをしないで波を逃したら他のサーファーに失礼だ。俺はこのグーフィーの波を乗りこなす義務と責任がある。猪でもいい、俺は波に乗ることだけを考えた。
 俺は波に乗った。浮遊感、加重感をへてスピード感を味わっていた。苦手なグーフィーだけど、それはただターンができないというだけ。奇跡的に波と俺のスピードが合えば実際の所ターンは必要ないんだ。ターンとはある意味、ポジションを維持するテクニックでしかないから。そして、今がその奇跡にも似た波だった。何もできない俺とピッタリの波が今ここにある。まさに自然の恩恵、海の女神、大自然を司る者からの祝福だ。俺はただボードから落ちないようにバランスをとっているだけだった。左のレールが自然に波に絡む。俺は波と一体となっていた。初めての体験だった。ターンなどをして乗りこなして征服感を得るのもいいが、この一体感はまた別の幸福感だ。
 奇跡はまだ続いた。グーフィーの波をロングライドしていくと、いつの間にか弧を描く波が俺の行く手を遮っていた。俺のライディングもここまでか?と思ったその時、俺は無意識に身を屈めた。俺は波に飲み込まれたと思った、が、まだ道は続いていた。俺は弧を描いた波の内側を進んでいたのだ!チューブライディングだ!得意のレギュラーのときにも経験したことが無いチューブだ!このライディングは一瞬でもあり、永遠でもあった。間違いなく、俺の記憶の中では永遠だった。出口から入り込む光が流動するトンネルの内壁に反射して輝いている。俺はその光の差し込む方向へと導かれるように進んでいく。

 ライディングを終えた俺はふくよかな満足感で放心状態だった。もちろんちっぽけな明日の悩みなど今はもうどこにもない。えもいえない感覚だった。昇華されて、この世界の存在から一段高みに昇ったようだった。
「最高だ。今日は最高の一日だ」
 心地の良い波に揺られ、暖かな陽光を浴びながら、俺はつくづくそう感じていた。
 この数時間後の帰り道、渋滞の車内で、ちっぽけな俺が、みみっちい明日の煩わしさに頭を重くするのは、また別の話だけどね。



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