文豪のつぶやき

2008.07.17
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カテゴリ: 時代小説
数日後、異変がおこった。
 越後高田に駐屯している官軍が越後国内の藩重役を突然召集したのである。
 官軍、正式名は北越道先鋒総督府。
 三田からは篠原が出席した。
 長岡藩は河井が所用のため長岡にはおらず、代理の藩重役植田十兵衛が出席していた。 内容は官軍に帰順せよ、ということであった。
そして、帰順の証明のために金を出すことと、軍勢を出すことが要求された。
 その要求は洞喝に近い。
新発田藩や長岡藩など越後の大藩の重役がそれに対し、のらりくらりと話をかわし即答を避けている。
 篠原は小藩のため末座から黙って会議の内容を聞いている。

 頭ごなしに若い官軍の将は植田をどなりつけている。
「お手前はぼんくらか」
 おそらく薩長か土佐か、その若い男は武士とさえ呼べない足軽あたりの出身であろう。
 それが時流に乗り、譜代のしかも大身の重役を怒鳴りつけている。
 ほんの数年前まではこういう光景は絶無だったに違いない。
 無論平伏している篠原も屈辱を味わってはいるが。
(時勢とはかくも恐ろしいものなのか)
篠原は平伏をしながらも溜め息をつきつつそう思った。
 若い将は刀を引き寄せると柄をなで回しつつ植田を脅している。
(こういう男どもが新政府の親玉になるのだ)
 そして篠原もこういう男の下で屈服しなければならない。

 篠原には暗澹たる思いが拡がった。
 篠原は植田とは旧知である。
 篠原が太子堂組の一人として長岡藩留学をしているときに植田が世話役としてかれらの面倒を見た。人柄はいいし長岡藩では大身にもかかわらず腰は低いし面倒見もよい。そしてなによりも有能である。が長岡藩はいまや河井の独裁となっており、決定権のない植田としては河井の意向を聞かねばどうすることもできない。

 その植田がしきりに汗を拭き陳弁している。
 ともかくも、官軍は数日以内に金を出すことと兵を出すことを強引に約束させ、この会議を散会させた。

 植田は人懐っこそうな顔で、
「篠原殿、お久しぶりでございます」
 と深く頭を下げた。
 篠原はあいさつを返すと、
「植田さん、大変なことになりましたね」
「いやあ、まいりました。官軍様に叱られてしまいました」
 さきほどの会議で、官軍にさんざん脅され罵倒されたにもかかわらずよほど感情をつつむ脂肪が厚いのか植田はにこにこと笑いながら頭を掻いている。
(植田さんらしいな)
 篠原は思った。
「まあ、むずかしい世の中になりましたが、私たちは河井殿についてゆくだけです」
 植田はきっぱりと云った。
「それより」
 植田は真顔になると、
「篠原殿こそ、大変ですな」
 篠原の筆頭家老就任の噂は植田も聞いている。
 植田は心から気の毒そうに云った。
 植田は河井の側近である。
 河井がこのとんでもない時代に血を吐くような思いで政務を切り盛りしていることを知っている。
 篠原もその河井と同様、藩の指導者になった。
(辛いであろうな)
 植田は思った。
 篠原は藩官僚としての能力は抜群である。
 しかし、線が細い。
 指導者としてはあくの強さがない。
 清濁併せて呑む、ということが苦手である。
 植田はそれを知っている。
(おそらく、夜は眠れまい)
 篠原の繊細な神経では。
 と植田は哀れんだ。
 ただでさえ、痩身の篠原がまた一段と痩せている。それは、こけた頬が篠原の苦悩を物
語っている。
「篠原さん、ご自愛なされよ」
 植田はそういうと地に頭がつくかとおもえるようなお辞儀をし、馬上の人となった。

 篠原は急いで三田に帰ると首脳を集めた。
 首脳部の意見は官軍に帰順するということで一致しているが、官軍に対しては、はきとした返事はせずもうすこし返答を遅らせるということで話は決まった。
 理由がある。実は、新藩主長尾泰範が三田に戻ってくるのである。そのため矢口秀春が江戸まで迎えに行っている。
 官軍に回答を出すのは、藩主が戻ってきてからということになる。

 三月ももう終わろうとしている。
 わきあがるような新緑のなか、百姓たちは雪がまだところどころ残っている田畑にのそのそとでてきて田づくりの準備を始めた。あと一月もすれば田植えが始まる。
(そのころには、大勢はきまっているか)
 かな山の山頂から眼下を見おろしながら白井はそう呟いた。
 三田は越後平野の端に位置し、低い山脈の山裾が田に入り込んでいる。
その山裾を背にして三田陣屋が見える。
 白井は他の六人の馬廻役と事情が違い、藩に対する旧恩がある。
 他の六人が藩貴族であるのに対し、彼は足軽の出身である。
 それをここまで引き上げてくれたのは、青木正和ら藩首脳である。
そして何よりも先代の幼き藩主が白井、白井と可愛がってくれた。そのおかげで、先年の京上洛も、江戸留学もそして長岡遊学も藩主の格別の好意により叶った。
 その、藩を捨てて長岡の河井のもとにゆけるのか、目の前に映るこの緑濃い伸びやかな故郷、三田を捨てて行けるのか、と白井は考えている。
 のみならず、他にも事情はある。
 姉のお幸のことである。
 白井は幼少の時、父母に死なれている。
 それを、八つ上のお幸が家を守り、白井をここまで育てた。
 七才で家督を継いだ白井の家は貧窮で、お幸は武家の出ながら百姓の小作をし、子守りをして糊口をしのいだ。
 そのため、婚期をのがし、三十路をすぎてなお、嫁に行かず白井の家を守っている。 今は高禄になったためお幸はゆるゆると平穏な日々を過ごしているが、白井が脱藩すれば家禄は没収、士籍すらも剥奪されお幸はたちまちもとの貧窮生活に戻らねばならない。
 その思いが白井にはある。
 その時、後ろで声がかかった。
「白井さん」
 ふりむくと矢口秀郷が立っていた。
「家に行ったら姉上様がかな山の方に出かけたというのでこちらの方に参りました」
 矢口は白井の横にしゃがんだ。
「今日もお館がきれいですねえ」
 そういうと両手を上げて大きく伸びをした。
 矢口は育ちの良さのためか屈託がない。
 白井はうつむいたままである。
「白井さんどうしました。元気がないですね」
 矢口は、江戸住まいが長かったためきれいな江戸弁を使う。
 しかも、生来の温厚な性格のためか言葉が丁寧である。
「いや、なんでもないです」
「姉上様のことですか」
 矢口が白井の顔をのぞき込んだ。
 白井は黙っている、がその顔は暗くなった。
「白井さんは脱藩せぬほうがいいです」
「えっ」
 白井は顔をあげた。
「あなたはわれわれと立場が違います。失礼ながら私や伊藤さんたちは藩の上士の出身です。父祖代々門閥としてきました。しかも、今現在、父が藩の要職にあるものばかりです。脱藩してもそうはとがめられないでしょう。よしんば、罪をこうむったとしてもわれわれの家は藩の名門ですし、親類縁者もみな上士です。そうひどい扱いはされません。しかし、白井さん、あなたは違う。足軽の出だ。擁護するものがない。脱藩すれば、たちまち罪を得て家禄は没収、家は取潰し、姉上はたちまち路頭に迷うでしょう。いままで姉上がどんな思いであなたと白井家を守ってきたのか。それを考えると私はあなたに脱藩を勧めることはできない。それに」
 と矢口は言葉を継いだ。
「あなたには、篠原と一緒にこの三田を守っていってほしいと思っている」
 矢口は眼下に見える百姓を指さし、
「見て下さい、彼ら農民を。平穏に働いているではありませんか。あの農民たちがずっとずっとあのように平和に暮らしてゆけるように守ってやってください。お願いします。あなたは、われわれの中で文武とも特に優秀でした。その頭脳を三田のために捧げてくださいませんか」
 と白井より一つ下の藩貴族の青年は頭を下げた。
「矢口」
 と藩主連枝に同志として好意で呼び捨てで呼ばせてもらっている足軽上がりの青年は云った。
「おめさんは頭がいいからわかっとろうが、日ならずして天皇の時代がやってくる。しかもわが三田藩は外様だ。徳川には遠祖景勝公が減知され、恨みこそあれ恩義などない。しかし、しかしだ。おめさんもご存知のとおり私は河井先生に出会うてしもうた。あの人の魅力にとりつかれてしもうた。あの人は私を武士として死なせてくれる。死に場所を教えてくれる。おめさんもそうではないか。確かに姉上には苦労をかけた。それを思うと辛い。辛い」
 白井は涙をこぼした。
「しかし、私は武士として、河井先生の弟子として行動を共にしたいのだ」
「白井さん」
「私はあんたがおっしゃるとおり、足軽上がりだ。しかし、足軽あがりであるがため、こうして上士になったからには武士として全うしたいのだ」
 白井は袖で涙をごしごしと拭うと、
「矢口さん、私には勤皇も佐幕もない。私はただ武士として生きたいのだ」
 白井は武士としては最下級の足軽の地位から歴とした上士になったがゆえになおさら武士らしく生きたいという思いが強い。
 が、そう云いきる反面、矢口のいうように姉のお幸のことが白井の心に重くのしかかる。(わかっている。わかっているのだ)
 矢口のいうことはすべてわかっている。
「白井さん、まだ日はある。ゆっくり考えればよいでしょう」
 矢口は慰めるように云った。
「それより」
 矢口はにこっと笑うと、
「越後高田の城下に官軍が来ているそうです。どうです。一緒に見に行きませんか」
「えっ」
「探索ですよ」
 他藩に潜入するなど尋常ではない。
 しかも、藩の上士がである。
 まして、矢口は藩主相続人の筆頭である。
 現藩主に事あれば藩主になる立場にある。
 他藩に潜入してそれが露見すれば、二人とも斬罪、そして事は藩対藩、国対国の問題に発展してしまう。
(この人のどこにそういう大胆さがあるのか)
 白井はいたずらっぽく笑う矢口の顔を見た。
「二人でですか」
「はい」
 矢口は頷いた。
「だって伊藤さんをつれていくとあの人はああいう気性の人だから」
 白井もそれは知っている。
 先年、藩主が京上洛のおり、白井ら馬廻役も随行した。
 宿所は清水、長楽寺。その時酒好きの伊藤は夜陰に乗じて一人祇園にくり出している。 その帰り三条大橋のたもとで新撰組にでくわした。
 幕威盛んな頃の新撰組である。
 新撰組に出会うということは、志士や浪人にとっては白昼化け物に出くわしたような感がある。
 ただ伊藤は歴とした藩士である。しかも上士。
 藩名と名前を名乗ればすむ。
 しかし伊藤は人が悪い。
 それにこの時の新撰組の態度が高圧的であった。
 伊藤を舐めまわすように見ながら、
「我々は会津御支配新撰組の者である。貴殿の藩名と名を名乗られよ」
 と刀の柄頭を叩きながら云った。
 伊藤はにやっと笑うと尋問する新撰組の足元に唾をぺっと吐いた。
 このときの新撰組の見回りは大石鍬次郎率いる五人。
 大石は「人斬り鍬次郎」と恐れられた使い手である。
 大石らは顔色を変え、剣を抜いた。
 が伊藤の剣はそれより逸く鞘を離れている。
 伊藤は大石の懐に入り込むやいなや大石の剣をたたき落とし、ふりかえりざま隊士の一人の腕を夜空高く飛ばした。
(至芸)
 大石は思わず呟いたろう。
 そして、たじろぐ大石らを尻目に、悠々と佐渡おけさを唄いながら去った。
 そういう爆弾みたいな男と一緒に他国へ探索になぞつれていけない。
「ね、白井さん行きましょうよ」
 矢口は甘えるように云った。
 白井はやむなく頷いた。






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最終更新日  2008.07.17 08:38:41
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