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♪ 横 山 秀 夫 ♪ 1957年1月17日 東京文京区生まれの48歳。 今もっとも熱い作家である。 「 半落ち 」で人気作家の仲間入り。 睡眠は毎日2時間ほどだそうである。・・・ 構成と最終章を最初に決めて書きはじめる。 「 書けなくなって追い詰められてくると 仕事部屋のマンションから飛び降りよう かなと思うこともあるらしい 」 私の本を読み終わって損したと 思われたらいけないと思っている。 「 死んでおわび 」のつもりで 書いているからどの作品も手抜き ゼロですという。 平成の「 松本清張 」になれるかも。・。・
2005年11月26日
ア ガ サ ・ ク リ ス テ ィ ー ミステリー界の女王、アガサ・クリスティーは、 1890年9月15日、英国南西部にある トーキィという町で生まれた。 あふれるばかりの愛情を受けて育った幼年時代。 だが11歳の時、父親の死をきっかけに、 その満ち足りた生活は終わりを迎える。 少女の頃は、音楽と読書に明け暮れ 11歳の頃から詩や短編小説を雑誌に 投稿をはじめる。 はじめて活字になったのは、11歳の時。 祖母が住むイーリングの町に市街電車が 走った最初の日に書いた1編の詩が雑誌に 掲載された。 初めて電車がすっかり 得意で走った時、 なかなかよかった、 けど その日が終わらないうちに ぺしゃんこになっちゃった。 というのが、最初の一節でした。 結婚後、看護師として病院の調剤薬局で 働きながら、毒薬を使った探偵小説の 構想がひらめき3週間で書き上げたのが 最初のミステリー小説・・・ 「スタイルズ荘の怪事件」であった。 そして30代・40代になると 次々と傑作・話題作を発表した。 「 オリエント急行の殺人事件 」 「 そして誰もいなくなった 」などなど・・ その名は、世界中に知れわたることになる。 1976年1月12日85歳の生 閉じるまで数々の名誉ある賞を受賞する。 まさにミステリー界の女王であった。
2005年11月15日
♪ 田 辺 聖 子 ♪ 作家田辺聖子は1928年(昭和3年) 大阪福島区で生まれた。 長年の文章修業が実って「感傷旅行」 で芥川賞を受賞したのは、1963年 (昭和38年)36歳の時だった。 それ以来、ためてきた力がほとばしる ように文筆生活がスタートする。 創作活動もフル回転。エッセイであれ 小説であれ書きに書いた。 徹夜で原稿を書いたのだった。 田辺聖子の書いた作品の数々は、 日々の営みに対する優しいまなざしで、 ひたむきに暮らす市井の老若男女を 写しだした人生の応援歌だといわれる。 田辺聖子は言う。 ひらがなで考えたらええねんよ。 ひらたい言葉で伝わることは ほんま多いから。 世の中むつかしくなってしもうた。 ものものしい漢字やカタカナ語が あふれ、本当に伝えたいことが 言葉の奥に埋もれてしまいそうだと。。。。
2005年11月07日
♪ 村 上 春 樹 ♪ 1949年、京都市伏見で生まれ まもなく兵庫県西宮市に転居した。 高校生のときにアメリカ文学を原書 で辞書を片手に読みふけったという。 一浪ののち、早稲田大学文学部 演劇科に入学した。 その当時は、学園紛争がふきあれ、 授業もまともに行われず映画館に 通うことが日課となった。 映画は、年間200本以上見たそうだ。 そして、お金がなくなると早稲田の 演劇博物館で、古い映画雑誌に載った シナリオを読みあさる毎日が続いた。 大学時代は、脚本家を目指していた。 26歳で7年間在籍した早稲田大学を卒業。 昼となく夜となく仕事に明け暮れていた 29歳の春。神宮球場で行われたヤクルト ー広島戦を観戦中、啓示のように・・・ 「突然小説を書こう””」という思いに かられ、それから原稿用紙に向かう 日々がはじまったそうである。 1979年(昭和54年)ジャズ喫茶を 経営しながら書いた小説「風の歌を聴け」 で群像新人文学賞を受賞、小説家として デビューしたのである。 1987年(昭和62年)。。。38歳 長編小説「ノールウェイの森」は、 上下巻で400万部にのぼる ベストセラーを記録した。 村上春樹は、いま日本で最も 有名な小説家といえるだろう。
2005年11月06日
♪ 俵 万 智 ♪ 1962年大阪市生まれ。 歌人の俵万智は、1987年 「サラダ記念日」の第1歌集に よって一躍有名になった人である。 「サラダ記念日」は260万部を 突破する大ベストセラーとなった。 また、1987年には、 「チョコレート革命」の歌集を発表した。 佐々木幸綱先生の歌集にであってから はじめて作ったものとしては。。。 「 ♪ 手紙には愛あふれたりその愛は 消印の日のそのときの愛 ♪ 」 万智さんの一番好きな歌は?。。。 そうですねぇ。難しいけれど・・・ 気に入っているのは、次の歌ですね。 「♪ 思い出の一つのようでそのままに しておく麦わら帽子のへこみ ♪ 」
2005年11月05日
♪ 逢 坂 剛 ♪ 作家「逢坂剛は」いわずと知れた 直木賞作家である しかしアフィシオナード(フラメンコ愛好家) としての経歴の方が作家歴より長いそうです。 フラメンコギター歴は、30年以上とか。・。 小説でもフラメンコやスペインを題材にした 作品が数多くあります。 直木賞受賞作「カディスの赤い星」は、 1976年に書き出して、書き上げたのが 1977年。原稿用紙1450枚であった。 そして書き上げてから「カディス・・・」 が出版されたのが、9年後の1985年。 第96回直木賞受賞は、1987年であった。
2005年11月03日
♪ 宮 本 輝 ♪ まず小説を書くということ。 特に仕事っていうのは何でも、 我慢強くないとできないんですけど、 小説っていうのはやっぱり 一字一字書くしかないわけで。 パソコンで打つ人だって、一字一字 打っていかなきゃしょうがないわけでね。 だからどんなに焦ったって、800枚の 長編も、最初の原稿用紙1枚に、 一字一字埋めていくしかないやろと。 で、400字書いたら1枚になんねん。 800枚の小説をこれから書かねばならない という人間にとって、1枚の原稿用紙の 薄さっていうのは、そら絶望的な薄さやで。 そやけどそれが3枚になり、10枚になり、 20枚になり、40枚くらいになる。 するとひとつの厚さになってくんねん。 雪が積もっていくようなもんや。 その時には我慢強くならざるを得ない。 まあ途中で投げ出したくなることもあるし、 パタンと書けなくなることもあります。 だけど、諦めない限り必ず出てくる。 自分の中から必ず出てくるものが あるんだっていう、そういう自信が もてるのは、30年間書き続けたことで、 そう、恐らく何千回も、そういう瞬間を 乗り越えてきたからやと思う。 小説家 宮本 輝 談 追記 この文章は、「 宮本 輝 の 本 」(宝島社) から抜粋したものです。
2005年10月22日
♪ 井 上 靖 ♪ 自分を表現する以外にはなかった。 小説を書いてそれで食べて行こう などと思ったのではない。 ただ折角この世に生まれてきたので あるから自分がやりたいと思うことを やって虚しく失ってしまった己が 青春の穴うめをしょうと思っただけの ことである。 小説家になれたのは、たまたま そうなれただけのことである。 ( 故 井上 靖 談 )
2005年10月16日
♪ 向 田 邦 子 ♪ 1881年8月22日 ひとりの女性作家が事故でなくなった。 台湾旅行中の飛行機事故であった。 あれから早や、24年の歳月がながれた。 今日、本屋に立ち寄ったとき、なぜかしら 向田邦子の「思い出トランプ」の文庫本が 目にとまりその本を買った。 13の短編が収められている本だ。 *新潮文庫・定価:本体400円(税別) 亡くなられた「水上勉」さんが本の最後に 「向田邦子の芸」というタイトルで あとがきを書いている。 そのなかの文章を紹介しょう。 その不意な客死が、文学愛好者の多数を 悲しませてから、まだ日は浅い。 私はこんど、よみかえしてみて、向田さんが まだ、東京のどこかに生きてらっしゃるような 感覚をおぼえた。 小説が生きるとはこういうことだろう。 若い読者で、短編を勉強したい方があるなら、 この「思い出トランプ」の1・2篇を写して みられるといい。手頃の枚数だ。 私のいっていることがよく理解されるはずだ。 向田さんは、つまり、そういう作品を のこして亡くなった。(昭和58年4月) 向田邦子:1929~1981 昭和4年東京生まれ。 人気TV番組「寺内貫太郎一家」 「阿修羅のごとく」など多数の脚本を執筆する。 '80年「思い出トランプ」に収録の 「花の名前」他2作で直木賞受賞。 著書に「父の詫び状」「男どき女どき」など。 1881年8月22日、台湾旅行中、 飛行機事故で死去。
2005年08月23日
♪ 赤 川 次 郎 ♪ 赤川次郎は超人的な作家である。 400字詰の原稿用紙で月産何枚書いたか? 驚くなかれ1200枚書いたという。 これが赤川次郎のもつ最高記録だ。(@_@;) 一日の最高が110枚”” 平均して月に500~600枚書くという。 ほんとにすごい作家です。
2005年08月22日
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