愛は虚しい(工事中)



愛は虚しい。

どんなに心配しても、相手には伝わらない。

親兄弟も、最たるモノだ。

私が、下の兄弟達を、本当になんの義理も得もなく心配しても、
ちっとも伝わらない。

逆もそうだろう。
まして、親の、子供に対する無償の愛なぞ、
本気で真剣に心に突き刺さっているかどうかといえば、なかなか難しい。
ある程度の深いトコロまでは感じても、
結局、
自己中心的に、行動するし、
その愛に応えよう…なんて、そうそう出来たもんじゃない。
(応えようとするのがいいワケでもないけれどね)

いろんな家族や、いろんな夫婦や、いろんな友人関係があるから、
一概に決め付けられないし、反論する人もいるだろう。

そんな風に思う事自体が、虚しいとか、情けないとか。
悲しいから考えないとか、考えたくないとか。

あくまで、個人的に。究極の部分で。と、断っておく。


自分が小学生の時から、微量に感じ取ってきた。

ワタシが、本当の本当に思っている事でも、駄目なモノは駄目。
伝わらない事は、伝わらないのだ。

例えば、物は変わらなかった。
大好きなぬいぐるみは、いつも変わらずにオルガンの上に待っているし、
小説も、宝物も。壊れたり、無くしたりもするけど、
基本的に自分を裏切る事はないし、自分も安心して好きになれた。

ペットは、全然伝わらない生き物達が多かったが、
そういうものだと納得していたし、片道の愛情でもいいくらいに好きだった。
呼んで返事をしてくれなくても、ちっとも馴れずに指を噛まれても、
それでもその姿に、好きにさせられる魅力があったから。

親の優しい愛情も、厳しい愛情も、わかっているつもりだった。
どんな言動も私を良くする為のものだと理解できたし、事実そうだった。
でも、よく
「自分が親になって初めて、本当の親の気持ちがわかる」
というが、それは本当だろうと思う。
きっと私は、ろくにわかってなんかいないワガママな子供だ。
自分が、こんな子供の親だったら、嘆かわしい。

そう。
自分を過大に気に入っている反面、自分の情けない部分も身に沁みている。
こんな子供、いらない。
そんな流れがあって、私は子供を欲しいと思わない。
(その理由の一つ、かな)

その子供にも、きっと親である私の愛情は伝わらない。
お互いに葛藤もあるのだろうが、どんなに想っても、厳しいものだ。
でも、
やっぱり私は、愛情が伝わって欲しい。

だから、伝わらないとわかっている関係は、いらない。
がっかりするだろう自分が、ありありと想像出来てしまうからだ。


では、家族以外の他人との愛情はどうだろうか?

子供の頃、友達を選ぶという事をしなかった。
帰る方向が一緒だったり、席が近かったり、たまたま、である。
それから、自分を選んでくれる人。慕ってくれる人。
来るものは拒まず、去るものは…追う(笑)。
自ら傷付きに向かって行っている言動の、原点かも知れない。

心の底にあったのが、こんな思い?
「私は私を好きだ、だから友人も私を嫌うワケがない」
親友に無視されようと、いじめられようと、
おかしいくらいにその思いは揺ぎ無かった。
本当に私を嫌っていた人がいたとしたら、迷惑な話だ。
それを、信用しないのだから。
何かの間違いだとか、自分の思い過ぎだとか、自己処理をしてつきまとった。
(私はその友達を好きだから、という思いが薄いのが良くないのかも?)

それでも、少しずつ、時々、愛情のすれ違いを肌で感じるようになっていった。

親兄弟は言ってみれば「ハダカのつきあい」だから、
なかなか完全に通じ合うのも困難かも知れない。
でも友達なら、かえってお互いにちょっとの緊張感を保ちながら、
愛情・友情が貫けるんじゃないだろうか、と…。
そうも思っていたのだが、そうではなかった。

オトナになって友人やコイビトとの様々な(という程ないが)つきあいを通し、
人同士の繋がりは、
嬉しくもあり、虚しくもあり、
安心と不安とが入り混じっているモノだなぁ、とつくづく実感した。

昔の様に、単純に前向きで物事を捕えられない。
かと言って、後ろ向き、と一言で言う程ゼツボーしているつもりもないが、
一歩引いて他人の目でこの思いを見つめると、
かなり「後ろ向き」で「ゼツボー」しているようにも思う。

自分を必要としてくれる人がいないとか、必要として欲しいとか、
そういう欲求ではない。フラレタ相手から
「どこかにアナタを必要としてくれる人がいるよ」と言われたが、
そういう存在が欲しいと思っているワケではない。
もちろん、いるに越した事はないけれど。

(いや、家族や勤務先やその他から、ある程度の自分の必要性を
 今感じられているので、余裕があるのかも知れないが)

とは言っても、愛は虚しい、と心底思ってしまっている。
ツマラナイと。
自分の中で、愛情はちゃんと伝わるもの、交流できるもの、充実できるもの、
という理想というか、ポリシーがあるのだろうと思う。

そうでないなら、それは愛情ではなく、ツマラナイではないか。
ところが、愛モドキはゴマンとあるのに、そのほとんどが、一方通行なのだ。

卓球のように、私から投げかけたソレは、
返ってこない事ももちろん多いし、
妙な方向に打ち返されて困惑する事もあるし、
ピンポン玉のはずが、バドミントンの羽根になって戻ってきたり、
バットで打ち返されたり、
向こう側でキャッチされて料理されて食べられてしまったりするのだ。

そして、始末の悪い事に、
相手も自分も、結構それを納得してしまっている。

違う。私の思うソレは、こういうものじゃないんだ。


※工事中・・・・・・・・・また来て下さいね※

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