人と交流する


人つきあい………2003.7


真っ直ぐに、人と向き合えない。

真っ直ぐに、好意を受け止められない。


その言葉だけ聞いたら、素直じゃないとか、捻(ひね)くれているとか
単純に返されてしまうかも知れないが、
私という生物の精神構造上、それは仕方が無いようだ。

逆に、人と変化球で向かい合うのは、面白い。

例えば、巡り合うひとりひとりに片思いのような感情を持つとか、
それぞれの人の歴史や環境や、お互いの将来なんかを勝手に空想するとか。

他人にとっては、馬鹿馬鹿しいかも知れないが、
こういう有り得ないような、又、望まないような想像までも、
私は楽しんでしまう。

人の、自分に対する好意を、勝手に何倍にも膨らませて喜ぶとか、
反対に、嫌われているような素振りをされてしょげるとか…。


実際は、そんなに私に興味を持って向き合っている人はいないだろう。
自意識過剰、自己中心的。
これは、おそらく第一子である為に培われた性質だろうと思っている。
他人への実害はほぼなく、
あるとすれば自己嫌悪や自画自賛なので、この性質は放ったままにしている。

……

人とある程度長く話すと、言葉は同じでもその意味や感覚がかなり相違する事に驚く。
もし、同じ文章を読んでも、受け取り方は全く違うだろう。
それは、結構ドキドキする現実だ。


同じ言葉を口にしても、その言葉を選ぶ迄の過程や、
相手に伝えたい内容や、相手に答えて欲しいセリフが、本当に様々なのだ。

もちろん、それはお互い様である。
だから、会話が成り立つ人と話す場合、私は私の感覚を極力、マジメに素直に選ぶ。
どうやって伝わるか、は、不安に思っても仕方ないので思わない。
相手も同様に自分で言葉を選んで話すしかなく、誤解はお互い承知の上だ。


…と言っても、もちろん誤解ばかりではない(誤解のないように!)。

例えば映画を見て、他人が、自分と全く同じ感想を同じ言葉で表現すると、
嬉しいような、悔しいような、喜ばしいような気にさせられる。

だが、注意も払わねばならない。
同じ感想を、違うニュアンスとスピードを伴って口にするかも知れない。
さらにややこしいのは、違う感想を、自分と似た言葉で言われてしまう場合もあるのだ。

お互いに「同士よ!」「双子の片割れか?」等と思いながら話を進めると、
後々、実は全く違う受け止め方をしている事がある。

それだけに、突っ込んだ会話をするというのは、重要だ。


……

人と交流する事は、ただ誤解か合意があるだけではなく、
それこそ、自分にも相手にも無限の可能性のキッカケを与えてくれる。

「なんで同じ言葉を違う感覚で使うんだ!」と、嘆くと同時に、
「そんな受け取り方もあるんだ~」「それは初耳~」「発見~」「感動~」と、
自分自身が広がる事につながる場合も、多々ある。

…ま、広がる事がいいばかりではないが。

しかし、その感覚が快感であればあるほど、
その人物に興味を抱く。


そして、惚れる。

いいなぁ、と思い「いいなぁ」と伝える。
やだなぁ、と思ったら、それも話してみる。

人と人の間に、隙間や溝があるのは、前述の通り極当たり前なのだ。
悲しい気がする事が多いが、ちっともそうではなく、
面白かったり、難しかったり、近付きたくなったり、離れたくなったりする。

それで、いいのだと思う。

それはいいのだが、もっともっと親密になった場合、
言葉の意味の相違が、また微妙に感じてくる。


例えば「愛している」というような、告白。
それを、相手がどのような感覚で口にするのか?
簡単に「それを信じる」「信じない」では収まらない。

なぜなら、何をどういう風に「信じる」のか?が、ハッキリ特定できないからだ。


もし、私がそんな台詞を他人から言われたら、
私は、恋愛映画からくるイメージや、サバンナで暮らす動物の親子の映像や、
空襲の中を逃げる幼子を抱いた母の姿を浮かべてしまう。

人によっては、プロポーズと取るかも知れないし、
ゾッとして身震いするかも知れないし、言われ慣れて麻痺しているかも知れない。


自分自身の現状も、その人との関係も様々なので、その点でも複雑化する。

……

ここで一番初めに戻るが、
私は、真っ直ぐに人の言葉を受け止められない。

少々解説すると、ここ数年で、真っ直ぐ受け止められなくなった、というのが正しい。

それまでは、自分にも他人にも馬鹿正直だった。
もちろん思い悩んだり、捻(ひね)くれたりも散々していたが、それでも素直だった。
人の言葉を鵜呑みに信じて、嬉しくなったり、寂しくなったりするのが、実に自然だった。


たぶん、その数年に至るまで、私の中の氷山の隠れた部分にあったのだろう。


今は、もう到底その感覚には戻れない。

だから、人が私に投げかける言葉を、一度勢いを止めて、
注意深く観察し、疑って、苦そうだったら自分でオブラートにくるんで、飲み込む。

ごめんなさい、と思う。

ボールを投げる方が、この行為を実際に目にしたとしたら、ガッカリするだろう。
私だったら、そう思う。
でも、それは目には見えない。だから思う存分、私はそうする。

心の中で、謝りながらそうする。

………


明日は欠席する、と伝えたら、

「(アナタがいないと)それは、つまらないなぁ」

と、言われた。

「え~?なんで?」

電話での軽い話の途中だったので、私はスグこう返事し、会話はそのまま流れた。


…どういう意味だったのだろう?
もしかしたら先方は「言わなくてもわかるでしょ」と、勝手に思っているのではないか?
でも私には、解らない。

それが、一歩踏み込んだ好意の表現なのか、冗談まじりの友情なのか、
ただ人が少なくてその場が本当に寂しいからなのか、
自分にとって面白い事が少なくて、面白い材料の私が不在なのがツマラナイのか、
それとも、
一歩踏み込んだ好意の表現を、不器用なりに、懸命に伝えたかったのか?


こんな風に考える事を、簡単に捻(ひね)くれている、で収めないで欲しい。

本当に解らないのだから。


そして、自分の都合の良いように受け止める馬鹿正直な感覚を、セーブしているから。


良い子でいようとする自分も、極力避けようとしている。

他人の感覚さえも、疑っている。
なるべく素の部分の自分を曝(さら)して、誤解されないように。

言葉の意味が共通しない可能性があると知っている今、
それ以外の、感覚や雰囲気で、私を表現するしかない。

向こう側の人も、そうであるだろうと思うしかない。


それで、私を好んでくれる人がいるのなら、嬉しいことだ。

でも、嬉しいだけで安堵はできない。
おそらく一生、心から安堵する事はないだろうと言い切れる。


ま、それもちょっと寂しいので、
その数ミリ手前までいけるような、人づきあいをしていけたら…と、思う。


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