ブドウ畑の空に乾杯

ブドウ畑の空に乾杯

May 1, 2006
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カテゴリ: 写真日記
この街には珍しく何週間も続いた雨が止んだら、いつの間にか春など通り越して夏になってしまっていた。雨降りの日々は憂鬱で仕方なかったが、それは実のところ雨のせいだけではなく、原因はいつも通り明白なのだけれども、それを取り除いてしまうと益々つらくなるからそのまま放っておいて、嗚呼日本の桜が見たいなあ、などとぼんやり考えながら過ごしていた。すると、ある時の花見の記憶が急に蘇って来て、頭の中に沸き起こるガヤガヤとした宴会の白い騒音に、桜色の薄い影がたおやかに跳ね返っては美しく散るのだった。

夢に見ることといえば決まって東京の中央線沿いの狭い路地で、しかもその場面はいつも日暮れから始まった。民家が立ち並ぶ暗がりを、私は大勢の誰だか分からない人たちと歩いていて、ふとその集団から離れてたった一人で歩き出す。しばらく行くと、街灯に照らされた垣根の曲がり角からひょこっと顔を出す年配の男がいて、何かと私に諭すようなことを言うのだった。

ある時、私はその男について、ボロいアパートに備え付けられた鉄製の階段を上っていた。上りきった所には踊り場らしきものもなく、たった一つの安っぽいドアがあるだけだったが、男は部屋ヘ入ることはせずにドアの前でくるりと振り返った。その顔は優しく穏やかで、私たちはどうやらお互いを何年も前から知っているらしかった。久しぶりですね、お元気ですか、などということから会話は始まったのだと思う。「俺ももうこういう歳だからね、両親とも死んじゃった。女房の母親も。だからここんとこ忙しくてね。人ひとり死ぬと、いろいろと所用が多くて大変なんだよ。」

「そうですか…」と言いながら、私はその男の顔をじっと見ていた。その顔をどうしても写真に撮りたくてたまらなくなった。

こんな夢を繰り返し見てむすぼれているうちに、現実の世界ではパームスプリングスに住む叔父が亡くなったという連絡が入った。最近体調を崩していたということも知らずにいたため、突然のことに慟哭した。殴られてもいないのに、どういうわけかみぞおちの辺りが痛み出し、受け入れられない現実を無理やり理解させようと、立ちすくんだ体の中で脳だけはフル回転していた。

この叔父と私は直接の血縁はないが、幼い頃からとても気になる存在だった。時折彼らが日本へやってきたときは、親戚一同そろって宴会したり、食事へ出かけたりしたもので、当時はまだ子供だったから会話に加わるような事もなかったが、がっしりした体つきと優しい目が印象的だった。いつも堂々としていて、周りの大人が一目置いているのが子供の私にも分かった。その後彼は大きな会社のCEOになった。

カリフォルニアに暮らすようになってから、何度か彼らの家を訪ねた。叔父はもう仕事をリタイアしていて、「俺は学校にも会社にも縛られずに、自分のためだけに使える時間を手に入れたのは人生で初めてなんだよ」といってそれこそ毎日を楽しんでいるようだった。朝は早起きで、まずコーヒーを淹れる。砂糖は入れずにミルクだけを足してかき混ぜて、分厚く切ったトーストは2枚、読んでいる新聞はニューヨークタイムスだった。そうして午前中は世界中の出来事についてあれこれ話し合い(私はこの時間が一番好きだった、)それからメールをチェックする。午後は大抵自分自身にタスクを課していて、街でとびきり素敵なコーヒーショップを探してみるとか、本屋へ散歩をかねて出かけるとか、私が訪ねている時はドライブをかねてワイナリーめぐりをしたりして過ごすのだ。夜は自炊と外食が半々ぐらいだったが、彼は堂々とした風貌に似合わず食べ物の好き嫌いは子供みたいに激しかった。

電話で話した叔母は、逆に私のことを慰めるほど落ち着いており、きっと二人の間ではそれなりの覚悟があったのだろうということを想像させた。弁護士を通じて遺書を用意し、数年に一度は更新していたような二人だ。何でも知っている人だったから、何だか大切な百科事典を丸ごと失くした気分だと叔母は言った。

それにしても人の命は儚いものだ。残念なのは、この叔父の写真をぜひローライフレックスで撮りたいと思っていたのにそれが叶わなくなったことである。彼を撮った写真は何枚かあるのだが、改めて撮らせてもらいたいので電話しようと思いつつも、忙しさにかまけて先延ばしにしていた結果がこういうことになってしまった。彼の顔は聡明さと威厳と優しさに満ちていて素敵だった。背中は歳をとるにつれて曲がってきていたが、発せられる声は信じられぬほど若く芯があり、私はその声が聞こえてきそうな写真を撮ってみたいと思っていた。









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Last updated  May 13, 2006 07:20:34 AM
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