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團伊玖磨の「夕鶴」は、もっとも愛されている日本語オペラです。 1952年に初演されて以来、内外での上演は800回超。原作は、日本民話の「鶴の恩返し」に題材を取った木下順二の戯曲で、山本安英の名舞台で知られました。日本の物語とはいえ、「異類婚姻譚」(人間と異界の者との結婚物語)は世界に普遍的なものですし、「愛」と「経済」の対立というテーマも普遍的です。「夕鶴」が日本のみならず世界で愛されるのは、この普遍性によるところもあるのではないでしょうか。もちろん、美しい音楽も含めて。 私は個人的には、日本人が初めて見るオペラとして、「夕鶴」ほどふさわしい作品はないのではないか、と思っています。周知の物語だし、音楽にも「かごめかごめ」などよく知っているメロディもある。ライトモティフ(=各人物などにあてられたテーマ)もわかりやすい。上演時間も2時間ほどと手ごろで、緊張感も途切れない。何より、日本語が聞き取りやすいのです(実はまれなケース)。これは、オペラ化にあたり、原作の戯曲をそのまま台本に使うことが条件となったためのよう。そのための苦労もあったようですが、結果は大成功だったといえるのではないでしょうか。 そんな名作「夕鶴」が、2年前、ゴージャスなキャストで制作されました。主役に佐藤しのぶさん、というところからまず目を惹きますが、演出が市川右近さん、美術が千住博さん、衣裳が森英恵さんと、各界のトップランナーたちが並んでいたのです。果たして東京での公演は完売となり、チケットを入手しそびれたひとが続出しました。満員の客席が目にしたのは、抽象化された、シンプルな、でも凛々しくて幻想的な舞台。主役のつうはドレス姿(といっても着物の面影はあるものですが)、パネルを活用し、回り舞台が効果的だった舞台は、後方に夕焼けや夜空(月や星も)を投影したり、雪を舞わせたりして、シンプルながら雄弁。世界で上演される舞台に、というキャスト陣の意気込みを感じさせるものに仕上がっていました。 その「夕鶴」が、来春再演されることになり、記者会見が開かれました。 会見場に姿を見せたのは、主演の佐藤さん、指揮の現田茂夫さん(佐藤さんのご主人)、森英恵さん、市川右近さんの4方。「時空を超えた作品。近代能楽的なセットにしました。回り舞台は歌舞伎では当たり前なので、自然に取り入れた」(市川)、「いつかつうを歌ってほしいと團先生に言われていながら、生前は果たせなかった。だからようやく歌えて、約束を果たせた。それもドリームチームで」(佐藤)「つうに洋服を着せたのは、世界に通じるものにしたかったから。メイド・イン・ジャパンの仕事。世界中で上演してほしい」(森)「これまでの「夕鶴」とは違い、ヴィオレッタやミミにも通じながら、この上なく日本女性であるつうを描けた。題材としては普遍的な作品。つうと、欲望に取り憑かれた周囲の人間とのすれ違いは、日常的に起こっていることなんです」(現田)と、それぞれの立場、経験からの解釈、感想が続出しました。 なかでも、佐藤さんの作品への入れ込み、情熱は、言葉のはしばしからひしひしと伝わってきました。震災後の福島でもコンサートを開いたというう佐藤さん、「3.11後の世界で、見直されているものがテーマになっている」という意見もうなずけましたが、いちばん印象に残ったのは、その延長線上ででてきたこんな言葉です。 「福島の言葉で、 「またい」っていう言葉があるんです。大切に、両手で抱くように、真心をこめて、という意味なんですが、今回の再演では、お客様がこの言葉を心のどこかに持っていただけるような、そんな歌を歌いたいと思っています。前回の初演の時はとにかく一生懸命でしたが、今回は「またい」を伝えたい、と。時代や国がかわっても、この想いは伝わるんじゃないかと思っています」 「夕鶴」をご存知の方ならお分かりのように、愛する与ひょうが、「お金」の虜になった時、それまでつうと同じ世界にいた与ひょうは別世界にワープし、つうは与ひょうの言葉が聞こえなくなってしまいます。その場面は「夕鶴」のなかでももっとも印象的な場面のひとつでしょう。「お金」のために犠牲にされてしまう人間の心。それはほんとうに、佐藤さんがいうように、時を超え国境を越えて普遍的です。とくに、「お金」と「効率」ばかりが優先されるいまの時代に、想いをいたしたいことがらではないでしょうか。 「夕鶴」、公演は来年の2月から3月にかけて。全国10都市を巡演します。 http://www.japanarts.co.jp/YUZURU2016/?gclid=CLqFtdzk58gCFYSXvAodJhIDVw
October 29, 2015
プラハ国立歌劇場と一緒に、来日中のソプラノ、デジレ・ランカトーレ。 彼女が主役を歌った「椿姫」がよかったことは書きましたが、「椿姫」以外にも、リサイタルやイベントが企画されているようです。 そんな企画のひとつ、イタリア文化会館で開催されたイベントに参加してきました。 彼女が対談形式のインタビューにこたえ、さらに歌まで歌ってくれ、そしてイタリアのラジオ放送に生出演する。そんな贅沢な内容で、なんと入場は無料。 そのせいでしょう、直前の告知にもかかわらず、席数370ほどのイタリア文化会館のアニエッリ・ホールは8割がた埋まっていました。男性ファンが多かったのもさすがです。 マキシ丈(といっても裾はアシンメトリーになっているしゃれたもの)の黒いドレスで登場したデジレ嬢は、もう長いお付き合いらしい通訳兼インタビュアーの井内美香さんを相手に、くつろいだ表情。家庭環境、音楽との出会い、キャリアの形成、「椿姫」ヴィオレッタ役についてなど、興味深いトピックを、ざっくばらんに語ってくれました。 家庭環境をきくと、歌手、少なくとも音楽家にはになるべくしてなったと思わせられます。シチリア島のパレルモの出身だとは知っていましたが、両親は、パレルモ第一の劇場でイタリアを代表する劇場のひとつ、マッシモ劇場に所属する音楽家(母は合唱団員、父はクラリネット奏者)。だから「お腹のなかにいるときから音楽を聴いていた」。 驚いたのは、歌を学び始めてからデビューまでの短さです。16歳で声楽を(母について)学び始め、なんと18歳半でザルツブルク音楽祭!の「フィガロの結婚」!のバルバリーナ役でデビュー。何でも、彼女が受けたコンクールに、当時の音楽祭総裁であるモルティエが来ていて見出されたとか。ザルツブルク音楽祭ですから、他のキャストは超豪華で、スーザン・グラハムやイルデブラント・ダルカンジェロ、ドミトリー・ホヴォロトフスキーらそうそうたるメンバーが出ていたのですが、18歳のデジレ少女は誰のことも知らず、「みんなうまいなあ」と思っていたそう。ある日、ザルツブルクの街を歩いていたら、レコード屋の店頭のポスターに、その歌手たちが写っていて、初めて彼らが有名な歌手であることを知ったのだそうです。今だから、笑い話になることですね。 その後のキャリアも順調で、2004年には、スカラ座の改修後の再開公演で、ムーティの指揮のもとで、サリエーリの「見捨てられたヨーロッパ」(これはスカラ座が開場した時に上演されたオペラです)に出演。以後世界中で活躍しています。 (個人的な話で恐縮ですが、私が彼女をはじめてきいたのは、2005年、マチェラータ音楽祭の「ホフマン物語」のオランピアでした。とにかく完璧な技術、よく通る高音、チャーミングな演技に圧倒され、魅せられたことをよく覚えています。それから、彼女が出る舞台はいつも楽しみにしています) 歌手の仕事を始めてから、出会った人たちの話では、デセイ、ホヴォロトフスキー、ムーティという人たちの名前があがりましたが、最高の出会いは「レオ・ヌッチ」だったといいます。「人生において重要な出会い。歌を心で歌うことを教えてくれた。オペラ界の基礎を学びました。彼となんども歌った「リゴレット」は本当に勉強になりました」 今回日本で披露した「椿姫」は、つい最近歌い始めた役柄。けれど思い入れは深く、解釈もきちんとしています。「ヴィオレッタは、とても品格のある女性です。彼女がアルフレードを諦めたのは、彼の妹のことを持ち出されたから。妹がもっている純潔、それが自分にはないものだとわかっているから、身を引いたんです」 「技術的には、ヴィオレッタを歌う歌手はそこへ行くまでにいろいろ経験を積んでいるので(そういうケースばかりでもないと思いますが。。。)、難しくはないんです。ヴィオレッタは3つの幕で3種類の声が必要だといいますが、それは技術というより彼女の魂が幕ごとに変わるので、それをあらわすことが大切です。最近になって、ヴィオレッタをうまく歌えるようになりました。とくに第3幕ですね。」 なるほど、だから、彼女のヴィオレッタからは生身の女性の体温が伝わってくるのでしょうか。 対談の途中で、披露されたアリアは3曲。「オテロ」の「アヴェ・マリア」、「ロミオとジュリエット」の「私は夢に生きたい」、「椿姫」の「さようなら、過ぎた日よ」。それぞれ有名なアリアで、とくに2曲めは大曲なのに、それをデジレのような歌手で聴けるなんて、ほんとうに贅沢でした。「私は夢に生きたい」では、途中で歌詞を忘れて初めから歌い直す一幕もありましたが、なにしろ喋りながらですから、切り替えが大変。でも恐縮し、照れ、初めから歌い直す自然さがチャーミングで、会場は暖かな雰囲気に包まれました。後半は、イタリアのラジオ番組への出演ということで、ラジオの司会者に向かって、今回の日本ツアーの印象などを楽しそうに喋っていました。客席にいたひとも大半はイタリア語が分かる感じだったので、番組の間も和気藹々とした時間が流れていました。 最後に会場からの質問を受けるコーナーで、さすがプロだな、と思った回答は、歌手の卵である女性から「あがらないためにはどうすればいいですか」と質問された時。 「歌手としての技術をみがくこと。技術の練習は1日に40分。あとはその時学んでいる役柄の勉強をしましょう。それから、歌手はアスリートと同じです。腹筋のトレーニングは必要。あと食べ物も大事。あまり重いものは食べないよう。そして喋り過ぎないよう。夜遊びはしないように。」 すらすらと、本人のふだんの生活、心がけていることが開陳されました。会場は、しん、と静まり返って聞いていた。やはり、一流のひとは、努力している。そのことがかいま見えた一瞬でした。 そして、日本のファンが純粋に、真面目に聴いてくれるということを、感慨をこめて語ったくだりでは、「日本に来ると、いつも自分のことがちょっと好きになって帰るんです」としめくくり、会場に新鮮な感動をくれました。 (ちなみに彼女が「キティちゃん」の大ファンであることも、一部では知られています!) チャーミングで、真摯。デジレ・ランカトーレ、素敵な女性です。
October 21, 2015
オペラの秋、全開の10月。月末には、10周年を迎えるMETライブビューイングも始動します。 歌舞伎座で上映された第1作の「魔笛」からはや10年。今シーズンは、全部で10本の演目中、なんと5本!にのぼる意欲的な新制作が控えている一方で、再演はヴェルディやプッチーニ、ワーグナーの名作が中心。第1作は「イル・トロヴァトーレ」(再演)、そして第2作は、シーズンオープニング演目でもある「オテロ」(新制作)。開幕からヴェルディの2大傑作作が続きます。 「トロヴァトーレ」のみどころは豪華なキャスト。ライブビューイング第1作の常連、METの女王A・ネトレプコをはじめ、ネトレプコと並ぶロシアが生んだスター、D・ホヴォロトフスキー、スピント系テノールの星として期待されているヨンフン・リー、そして「トロヴァトーレ」のアズチェーナ役でMETにデビューし、今なおこの役では他の追随を許さない大ベテラン、D・ザジック。指揮はイタリア・オペラのベテラン、アルミリアート。この作品ならではの「声のバトル」が楽しめること、請け合いです。 現地レポートによると、とりわけ、脳腫瘍で治療中にもかかわらず、「トロヴァトーレ」の最初の3つの公演、そしてライブビューイング収録公演のためにかけつけたホヴォロトフスキーの熱演には、大喝采がわき起こったそう。一世一代の演唱だったかもしれません。早く大スクリーンで観てみたいものです。 対して第2作の「オテロ」では、若い世代のスターたちの競演が楽しみ。タイトルロールのA・アントネンコは、ムーティに起用されてザルツブルク音楽祭でオテロ役を歌って以来、21世紀のオテロ歌いとして注目されています。デスデモナ役のS・ヨンチェーヴァも、欧米で引っ張りだこのリリックソプラノの新星。若い2人に、ベテランのZ・ルチッチが悪役ヤーゴでからみます。そして、いつも鮮烈な解釈で曲の真ん中へと引き込んでくれるネセ=セガンの指揮も、とても楽しみです。 このたび、開幕にあたり、柏の映画館で、第1作「トロヴァトーレ」の上演前に、「トロヴァトーレ」(たぶん「オテロ」も少し)、そしてヴェルディ・オペラの魅力を、お話しさせていただくことになりました。場所は柏の葉MOVIX。11月1日、「トロヴァトーレ」上演前の10時からです。お近くの方のお越しをお待ちしています。 詳細は以下でご確認ください。 http://met-live.blogspot.jp/2015/10/movix.html
October 16, 2015
夏枯れといいたくなるようなオペラ日照り?の夏が終わり、ロイヤルオペラの公演などを皮切りに、がぜん活況を呈してきたオペラ公演。 前のブログに書いた「椿姫」の直前には、ふたつのマイナー作品を鑑賞してきました。 紀尾井ホール主催、ペルゴレージの「オリンピーアデ」、そして東京フィルの定期で演奏会形式で上演された、リムスキー=コルサコフの「不死身のカッシェイ」です。 1735年にローマで初演された「オリンピーアデ」は、オリンピック競技が重要な小道具となるオペラ・セリア。誤解やさまざまな事情で引き裂かれた2組の恋人が、競技を通じて再会し、結ばれるまでを描く作品です。台本はオペラ・セリアの神様のようなメタスタージオ。バロック・オペラならではのアリア合戦、そしてペルゴレージの美しい、リリカルなメロディが堪能できます。本邦初演であると同時に、アジア圏でも初めての上演ということでした。 なぜ、ペルゴレージなのか、主催者にきいてみましたら、紀尾井ホールという規模を生かせるのはバロック・オペラだというところからスタートしたよう。なるほどです。 一方、よく言われることですが、日本ではバロック・オペラの上演が欧米に比べて極端に少ない。今、フランスなどを中心に、ドイツ、イギリスなどオペラ上演がさかんな国ではバロック・オペラはレパートリーなのに、日本では、新国立劇場では中劇場で「ポッペアの戴冠」が上演されただけ。北とぴあなどが頑張ってはいますが、まだまだです。なので、そのような意味でも、画期的な公演でした。歌手も、今日本で活躍している第一線の歌手が、カンパニーやマネージメントの枠を超えて集まり(指揮とチェンバロを担当した河原忠之さんのネットワークのよう)、その点でも豪華な公演でした。 セミステージ形式でしたが、ギリシャ古典劇をイメージできる、波や島を象徴した白い舞台装置に、人間関係を分かりやすく提示する衣装(たとえばカップル同士に同じ色の衣装を着せる)など、見せる工夫も凝らされていました(演出は粟國淳さん)。 歌手の水準も高かったですが、純度の高い澄んだ声と完璧な技術がレパートリー的にとても合っていたアリステーア役の幸田浩子さん、ロッシーニなどでも大活躍、巧さが光ったメガークレ役の向野由美子さん、そしてようやく?本懐を遂げられて、堂々たるアリアを聴かせてくれたカウンターテノール、アルカンドロ役の弥勒忠史さんなどが光っていたように思います。 オーケストラ(紀尾井オペラアンサンブル)は、正直、もっと大胆さや冒険心が欲しかった。バロックもので国際的に活躍する日本人は多いですから、もっといい線行けるのではないかと思います。 とはいえ、日本でもようやく!バロック・オペラの本格的な公演が立ち上がり始めたのは嬉しい事。世界からは10年単位で遅れていますが、これを機に盛り上がって欲しいものです。 翌日の「不死身のカッシェイ」。これまた、 「今」のオペラ界の空気を伝えてくれるものでした。 東フィルの「特別客演指揮者」に就任した、ミハイル・プレトニョフのお披露目公演とのことでしたが、それにふさわしい充実したものであったと同時に、今のオペラ界のスーパーパワーであるロシア人歌手の実力を見せ付けられた公演だったからです。 「不死身のカッシェイ」は、ロシア生まれのメルヘン・オペラ。「娘」に不死身の秘密を託している悪魔のカッシェイが、王子と王女の「愛」に打たれた娘が滅びることによって、命を失うというストーリーです。悪魔のカッシェイは、ロシア人にはなじみの深いキャラクターだそう。1幕3場の短いオペラですが、「悪」と「善」、「愛」と「死」がきちんともりこまれたストーリーはわかりやすく、聴きどころも満載。音楽も、ロシアの大地や自然がたちのぼってくるようで魅力的でした。「秋の日のオペラ」と表現した専門家がいるようですが、「秋から春へ至るオペラ」というのが、全曲を聴いた印象です。それくらい、(激烈ではないですが)起伏の多い、豊かな音楽でした。オーケストラを咆哮させない、プレトニョフのあうんの呼吸にみちたコントロールも巧みだったのだと思います。 そして、充実していたのが歌手陣。主役4人はロシアから呼ばれていましたが、みな声量も、声の個性も十分。悪役であるカッシェイの娘を歌ったクセーニャ・ヴァイズニコヴァ(メッゾソプラノ)は、エキゾティックな美貌と、深く陰影に富んだ声の持ち主で、足元から這い上がってくるようなドラマティックな声は圧巻でしたし、カッシェイ役のミハイル・グブスキー(テノール)もヒール役としての迫力十分。ヴァイズニコヴァに劣らず、ひょっとしたらそれ以上印象的だったのは、王女役のアナスタシア・モスクヴィナ(ソプラノ)。クリアな美しさを湛えた声は北国の湖のようで、伸びも柔軟性もあり、声の色も幅があって聴かせます。ヴァイズニコヴァとモスクヴィナの「声」のコントラストは素晴らしいものでした。王子役のボリス・デャコフは3人に比べるとやや声量は控えめですが、ノーブルな声の美しさは王子役にぴったり。声の色はちょっとテノール風で、バリトンだというのでやや驚いたくらい。じつはカッシェイ役のグブスキーは、テノールだというのですがバリトンのような声の色で、こちらもちょっと驚き。女声2人の声が声域にふさわしいものだったので、男性2人の声の対比がちょっとミステリアスに感じられました。 とはいえ、これだけの水準の「知られざる」ロシアオペラの傑作が日本で聴けるということに、ロシア勢が世界のオペラハウスを席巻している現状の一端が垣間見られて、とても興味ふかい公演でした。 これから、東フィルとプレトニョフのこのようなレパートリーのシリーズが、定期的に行われていけば、日本のオペラ界の貴重な財産になるのではないでしょうか。
October 12, 2015
いま、世界的に、ロッシーニを中心にしたベルカントオペラの歌手が充実していることは、ここでも度々触れてきたとおりです。 その結果、ベルカントが得意な歌手が、ヴェルディに進出?する現象が起きていることも。(たとえばロッシーニ・テノールのグレゴリー・クンデが、いまやヴェルディ・テノールとして大活躍しているように)。まあ、そのほうが、歴史的に見て正当と言える面もあるわけですが。 「椿姫」のヴィオレッタ役にも、ベルカントが得意な歌手がチャレンジして成功を収めるケースが増えています。私の場合、これまで生の舞台で体験してもっとも印象的だったヴィオレッタ役が、エヴァ・メイとナタリー・デセイ。2人とも、いわゆるヴェルディ歌いではなく、声域が高めで高度な技術を持ち、ベルカントオペラを得意にしてきた歌手でした。それ以外でも、エレナ・モシュク、パトリツィア・チョーフィ、ディアナ・ダムラウなど、印象に残っているヴィオレッタはほとんどがその系統です。 よく、ヴィオレッタは「難役」だと言われます。第1幕(とくに幕切れの大アリア)では高度なテクニックが求められるし、第2幕以降では劇的な表現力が必要となるからのようです。なので、ベルカントが得意な歌手がヴィオレッタを歌うと、 第1幕に期待が集まったりする。大アリアの最後で高音を決めるか、とか。けれど、私が体験した限りでは、ベルカントのレパートリーで技術、そして声を鍛え、また養った歌手がヴィオレッタを歌うと、第2幕以降も安心して聴けるし、高い技術力に助けられて、劇的表現もかなり自在にできるように見受けられます。ヴィオレッタという役は、本質的にベルカントのレパートリーに属するのではないか、と感じます。初演の時この役を歌ったソプラノも(彼女が太っていたせいで初演が失敗したという俗説が出回っていますが、これは眉唾ものです)、ベルカントが得意な歌手だったようです。ちなみに彼女の歌唱は新聞評では好評でした。 10月10日、ちょうどヴェルディの誕生日に、大宮で聴いたプラハ国立歌劇場の「椿姫」でも、またベルカントのプリマが見事なヴィオレッタを聴かせてくれました。 イタリア、パレルモ生まれのデジレ・ランカトーレは、現代を代表するベルカント・ソプラノとして活躍しています。純度が高く、きらきらし、それでいて女性らしい温かみのある声と高度な技術を武器に、「リゴレット」のジルダ、「ランメルモールのルチア」のルチア、「連隊の娘」のマリー、「清教徒」のエルヴィーラといった役柄で世界的に活躍してきました。日本でも2006年以降たびたび来日していますが、マリボール歌劇場ときた「ラクメ」、ボローニャ歌劇場ときた「清教徒」などが印象に残っています。海外できいたなかでは、フィレンツェ歌劇場の「リゴレット」ジルダが素晴らしかった。「慕わしき名前」の最後の高音のやわらかで正確で完璧だったこと!夢のような瞬間でした。 そのランカトーレが、ヴィオレッタに挑戦するという。これは、どうしても聴きたかったのです。 ランカトーレは舞台上でもチャーミングです。ちょっとぽっちゃり形ですが、動きがハツラツ、いきいきとしていて愛らしい。だから娘役というのはとてもよかったのですが、ヴィオレッタは大人の女性ですから、そのあたりの表現もどうなのだろう、という期待もありました。 結果として、とても彼女らしい、彼女にしかできない、素晴らしいヴィオレッタを体験することができました。 フランス人フィリップ・アルノーによる演出は、白と黒を基調にしたシンプルなもので、装置としてはアールデコ調の、白い壁に見立てたパネルが一枚あるだけ。あとは幕ごとにソファとか椅子とかそれくらいです。その分、演技はきちんとつけられていて、舞台の広さが活用されていました。開幕の場面では、ヴィオレッタは床に横たわり、パトロンの男爵と、そしてお札と戯れています。投げやりだけれどお金の魅力にあらがえない、ある意味ヴィオレッタの「女」の本質が出ている場面。ランカトーレはその「女」になりきって、ちょっぴり小悪魔的な魅力を振りまいていました。 以降、最後の場面まで、一番印象に残ったのは、彼女がヴィオレッタという役柄に共振し、共感していることでした。 プログラムのインタビューで、ランカトーレはこう語っています。自分はベルカントの役柄を主に歌ってきた。そこで求められるのは主として声楽的な能力だった。一方、ヴィオレッタは「役柄自体に並々ならぬ劇的迫力を有している」。「だからヴィオレッタに関しては、どの場面を表現するのがとくに難しいということはありません。彼女の息遣いが、私の血管のなかに感じられるから。私自身がヴィオレッタの人生を生きているかのように感じながら歌うことができるのです」 この言葉、まさにヴェルディの音楽、スコアを理解している言葉ではないでしょうか。そして、高度な技術を持てれば、それに支えられて、ヴェルディが表現した人間感情の世界に入っていけるということではないでしょうか。 ランカトーレは、まさにそのようなキャリアを持つソプラノによる、魅力的なヴィオレッタを提示してくれたのです。技術的な困難がほぼ克服されているから、本人もそして聴衆も、安心してヴィオレッタの心を追うことができる。 第1幕のアリアはまったく危なげなく、最後の高音も見事でした。けれど圧巻だったのは、むしろ第2幕以後。音符をていねいに追い、きちんきちんと決めながら、その音のなかに多彩な表情を持たせる。彼女の声の個性であるきらめきとフレッシュな感触、それがいろいろな色を与えられることで、ヴィオレッタの愛や苦しみをきちんと表現していくのです。とりわけ、第2幕のジェルモンとの二重唱では、刻々と変わるヴィオレッタの心の揺れが、「声」によって描き出されて圧巻でした。 他のソリストたちはプラハ国立歌劇場のカンパニーの歌手たちで、それぞれ声に魅力はありましたが、やはりランカトーレに比べると技術的な練り込みという点で物足りなくなってしまいます。まあ、それは当然のことでしょう。すべての役柄をランカトーレのようなタイプの歌手でそろえることはなかなか難しい。 今この手のタイプの歌手で、アルフレードやジェルモンができるひとはそう簡単に思い当たりません。 プラハ国立歌劇場の音楽監督をつとめるマルティン・レギヌスの指揮は、シンプルな音楽が雄弁であることをきっちり伝えてくれる、適切なもの。「ウンパッパ」の伴奏が、その場に応じてヴィオレッタやアルフレードやジェルモンの心の鼓動に変化して、聴かせました。ツボを心得ている、という表現がぴったり。やはり、指揮者は重要です。 ランカトーレの「椿姫」、東京ではあと1日あります。 http://www.concertdoors.com
October 12, 2015
バルバラ・フリットリは、一番好きなソプラノのひとりです。 何より、現役のソプラノで、ヴェルディのオペラのいくつかの役柄では、フリットリ以上の演奏を聴いたことがありません。 「ルイーザ・ミラー」のルイーザ、「シモン・ボッカネグラ」のアメーリア、 「ドン・カルロ」のエリザベッタといった役柄で、これまで舞台で聴いた歌手の最高峰は、私にとってはフリットリです。好みももちろんありますから、たとえばハルテロスが好きという方もあると思う。私は、特に最近、ヴェルディはイタリアの作曲家だとつくづく思うので(たとえばロッシーニはよりコスモポリタンなので、歌手の国籍はヴェルディほどには気にならないのです)、やはりイタリア人歌手で聴きたいと今更ながら強く思うようになりました。完璧な技術と整った様式感がもたらす格調の高さ、そのなかで生かされる女性らしい、純度の高い、やわらかな美声、微細な金の破片のようなきらきらとした輝き、細やかな表情づけ、しなやかなフレーズ、やわらかに張られる高音…高い技術と整った様式感、イタリア的だけれど品格のある美声は最大の武器でしょうか。「フィガロの結婚」の伯爵夫人や、「コジ・ファン・トウッテ」のフィオルディリージなどモーツアルトの幾つかの役柄でも、屈指の歌い手だと思っています。 けれどここ数年、フリットリの歌にはひやりとすることが時々ありました。プライベートで困難もあったようで、それを克服しようと苦しんでいたふしもうかがえます。2、3回インタビューさせていただいたことがありますが、ちらとそんなことを漏らしていたこともありました。もちろん、一番苦しかったのが本人であることは、疑う余地がありません。というのも、昨晩聴いた彼女のリサイタルのプログラムにあったインタビューで、フリットリ自身、このように語っていたからです。 「歌手が、家庭や健康に問題を抱えていたり、精神的に追い込まれていたとしてもお客様はそれを知る由もありません。どんな時でも私たちは劇場に足を運んでくださったお客様を前に、一定以上の水準の舞台を務めなければなりません」 苦しかったのだろうなあ。そう、思わせられる言葉でした。同時に、誠実で真摯なフリットリの立ち位置が示された言葉だと思いました。 不調に陥る前、彼女はいつも、この言葉通り、「一定上の水準」を保てる歌手、絶対に裏切らない歌手だったからです。だからこそ「大歌手」と呼ぶにふさわしいと思うのですが。 もちろん、不調といっても、もともとの水準は高いわけです。けれど、繰り返しですがハラハラさせられる時もあったし(本人は辛いだろうなと思いつつ聴いていました)、キャンセルがあったときもあります。それもまた辛いことだったでしょう。 昨夜のリサイタルは、そんなフリットリが回復していることを確信させてくれた、思い出深い夜になりました。 会場のオペラシティは、フリットリほどの知名度がある歌手にしてはちょっと寂しい入り。宣伝が十分でなかったようにも思います。私の周りのオペラファンの方々も、来日を知らない方が多かったので。。。なんとかもう少しPRをしていただけないものでしょうか。あるいは、プログラムが渋すぎたのか。。。前半に歌曲、後半にオペラアリアというよくある構成ではありましたが、とくにオペラアリアのほうに、グノーの「サフォー」「サン=マール」、カタラーニの「ローレライ」といったマイナーな作品が多かった。アリアでメジャーな曲といえるのは、「ファウスト」の「宝石の歌」くらいでした。 とはいえ、彼女がこのような渋い選曲を行ったのは、多分今の自分のベストを聴いてもらいたいという思いからきているのでしょう。そしてその目的は、達成されたように思います。 まずは前半の歌曲がよかった。ロッシーニから始めて、20世紀のチマーラまで、時代を下りながら並べられた作品の数々。かっちりとしたテクニックの披露から、カンツォーネを思わせる堂々とした叙情へと大きな流れが作られていました。やわらかでしなやかできらきらした声に、次第にドライブがかかっていくようすがよくわかりました。 後半のアリアでは、まずカタラーニの「ローレライ」のアリアが絶品。イタリアものはやはり言葉の美感も引き立ちます。続いてマスカーニの「アヴェ・マリア」がありましたが、これは有名な「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲のメロディによるもの。プログラムの最後をかざったグノー「ファウスト」の「宝石の歌」も、自分の美しさにおずおずと目覚めてゆく若い女性の心の軌跡が、ていねいに、共感を持って歌われ、客席を興奮させていました。 けれど、白眉は、アンコールで歌われた2曲のヴェリズモ・オペラのアリア、「アンドレア・シェニエ」の「母もなく」、そして「アドリアーナ・ルクヴルール」の「あわれな花」でした。今回多かったフランスものもいいけれど、フリットリの本領はやはりイタリアものにあると思わされました。そしてこのあたりのヴェリズモのレパートリーが、今の彼女のお気に入りなのだな、ということも。 とくに、自ら「ロマンティックで、大好き」だと語った「アドリアーナ」のアリアは、絶望の淵にいるヒロインの悲しみを、淡々とけれど切々と歌いあげる名唱だったと思います。 アンコールの3曲めに、中田喜直の「さくら横丁」が日本語で歌われたのも、嬉しい驚きでした。この曲を歌う前に、ピアニストのムズィア・バクトゥリーゼと2人して「私たちは日本という国を尊敬している」と心をこめて語りかけてくれたのも、嬉しいできごとでした。 インタビューでも感じたし、フェイスブックでの発信などを見ていても、フリットリはお茶目で、チャーミングな面を持つ女性です。けれどやはり彼女の舞台人としての真摯さ、私はそこに最大の魅力を感じます。舞台に立つ限り、全力投球したいと願う姿勢と、自分を客観的に見ることができる知性。それを感じるだけでも、フリットリという歌手に出会えてよかったと思うのです。
October 2, 2015
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