「NYで・・」




「Shall I sit here?」
ふと見あげれば、眼鏡をかけた白髪の老紳士がおだやかな微笑を浮かべ立っている。
「Yes Of course 」
僕は組んでいた足を戻して、腰を横にずらした。老紳士は軽く会釈をすると僕の隣に腰を降ろした。
今は8月の第一週。ニューヨークは昨日からうだるような暑さが続いている。。僕は旅行の3日目で、今日一日、マンハッタンのあちこちを一人で散策して、暑さに疲れたので、ほっと一息、公園の木蔭で一息ついていた所だった。
公園の向こうにはこちら側と同じく並木で連なった遊歩道があり、そこはまっすぐ大学のキャンパスにつながっていた。行き交う人々はほとんどがTシャツやタンクトップ姿だったから肌の露出が多く、漆黒や黄色、小麦色にコーヒー色、純白など様々な肌の色の違いが一層際立っていた。隣に腰を降ろした老紳士は肌も髪も白く、水色のチェックのシャツと琥珀色のフレームの眼鏡がよく似合っていた。
「OH,Are You a student of W university?」
彼は僕のTシャツの胸に書かれた漢字と僕の顔を興味深そうに見比べた。大学の購買部で買ったTシャッツで、黄色にエンジの墨文字で大学の名が記されてあった。日本では格好悪くて着られないが、ニューヨークで着れば、ちょっとかっこいいいかもよ、と思って、奮発して2000円出したのだ。
老紳士の眼鏡の奥の柔らかな光を称えた瞳が熱っぽさを増していた。
「私は大阪に年三年間住んでいましたよ」。
彼の言葉が日本語に変わった。
「マイケル ゴールドバーグといいます。日本語、ちょっとできます」
老紳士は微笑みながら手を差し出した。大きく肉厚な掌だったが、ぐにゃっと柔らかい。

僕たちは、木蔭のベンチでいろいろ話を続けた。英語と日本語を混じらせて話す会話は楽しかった。マイケルは大学の教授で、日本文学を教えていた。僕も小説は好きなほうだから、いろいろな小説の話で盛り上がった。彼は大阪の有名私立大学で二年ほど研究し、昨年の末に帰米したばかりで、来年からはマイアミの大学に招かれて教鞭をとるらしい。
「ニューヨークには一年間、客員教授として滞在してます。いい刺激になりますね」
緑の芝生が眼に鮮やかで、そこに時々黒くくちばしが黄色い小鳥がやってきては、小首を傾げて、挨拶をして飛び立っていく。
「日本の作家で注目しているのは誰ですか?」
マイケルに尋ねられた。
芥川龍之介、夏目漱石などの文豪を私が上げると、彼は満面の笑みでうなずく。そして、個人的に好きな現在の作家5~6人の名も付け加えると、興味深く耳を傾けた。
「日本の私小説は研究が楽しい。文化が透かし彫りのように透けてくる。私は日本を精神的な第二の故郷のように今でも思っています」
とマイケルは語る。
「これから時間ありますか?もしよかったら家に招待したいのですが、もうちょっと日本の話を教えてくれませんか?」
マイケル氏の申し出は、私にとっても願ってもないことだった。そろそろ公園のベンチで話続けるの疲れていたからだ。
「地下鉄に乗って、川を越えたブルックリンに住んでいます」
私はマイケルに誘導されて、公園を横切った。ふと、植え込みで何かが動いた気がした。やがて、尾っぽのふさふさしたリスが姿を表した。僕は思わず駆け寄って、しゃがみ込んでリスに手を差し伸べた。マイケル氏も微笑みながら「スクワーレル、スクワーレル」と手をこまねきました。リスがその申し出を無視していると、
「HE LIKES TO BE ALONE(一人でいるのが好きなんですね)」とつぶやいた。
地下鉄に乗ると、けっこう混んでいた。僕たちの車両には黒人の子供たちが大勢いて、母親に引率されていた。どの子も高揚していた。マイケルは傍にいた女の子に声をかけた。
「今日はどこにおでかけだったの?」
その子はありったけの声で
「ブロンクスズー!(ブロンクス動物園)」
と叫んで、顎をつきだした。
マイケルに誘導されて、地下鉄を降りた。
「そうそう、ちょっとここでお待ちください。少し食料を手にいれましょう」
彼はそう言って、地上を出てすぐのドラッグストアに入っていった。僕は表で、所在なげに待っていた。アスファルトからから陽炎が立ち昇っている炎天下だった。目の前を黒人の青年2人が走っていった。一人が私の傍を過ぎるとき、何か早口で叫んで、おどけた格好をした。桃色の唇の奥の白い大ぶりの歯がのぞいた。
「お待ちどうさま」
店を出てきた彼の後について、道をどんどん東側に向かう。彼のアパートは駅から3分ほどの住宅街にあった。階段をあがり2階の正面のドアを開く。
「一人暮らしなのです。遠慮はいりません」
部屋の照明のスイッチを入れると、日本で集めたであろう焼き物が飾られてあった。萩や志野焼きの湯飲みで、乳白色の柔らかい佇まいがマイケルの趣味を物語っていた。彼は私をいそいそとリビングルームに招きいれた。
冷房が効いていて、すばらしく快適だった。生きた心地を取り戻して、まわりを見渡すとリビングには床の間のようなものが作られていて、そこには日本刀が飾られていた。
「これはすごい、本物の日本刀ですね」
「そう、私は日本の武士が好きなのです。京都にはよく行きましたよ」
マイケルはおもむろに日本刀を構えると切先を横に伸ばして、いわゆる下段の構えにした。白刃がキラリと光り、周囲に冷気を放った。
「おお、危ない。もういいです。いいです」
僕は大げさに手を振って、彼の気を鎮めた。
白木の軽快な色のテーブルとセットになった椅子に私たちは90度の角度に並んで腰を降ろした。
「さて、秀治君、あなたはお酒は飲めますか?」
「はい、ビールからホッピー、焼酎からなんでも。それと、アメリカに来たらバーボンが好きになりました」
「よろしい。では、ジャックダニエルのアイス&ウオーターはいかが?」
アイス&ウオーターとは水割りのことだ。2日前の夜、一緒に旅に来た新井と二人で探検に出て、入ったバーではじめてこのバーボンウイスキーのアイス&ウオーターというしろものを飲んで、二人ともいたく気に入った。
マイケルは手早く水割りを作って、つまみのカマンベールチーズとクラッカーをお皿に広げた。
「では、私たちの偶然の出会いに乾杯」
マイケルはグラスを少々舐めたくらいで、早速 おしゃべりに取り掛かった。
「さて、ニューヨークはいかがですか?」
僕はこの問いかけにここぞとばかりいろいろしゃべった。
「今朝は悪名高い地下鉄に一人で乗って、イーストリバーを越えてサウスブロンクスに行きました。サウスブロンクス、スパニッシュハーレム、を次々と攻略しましたよ」
「なんて危険な。きみは無鉄砲なサムライだね」
冒険心旺盛な僕にとっては、「レックレス(無鉄砲)」という単語は最大級のほめ言葉だったので、舌が軽くなった。
「セントラルパークでお昼ご飯をとり、ウエストサイドの海岸沿いを歩きました。サウスブロンクスからブロードウェイ方面に戻ってくるガラガラの地下鉄では、途中から乗ってきた黒人が、私のすぐ隣に腰を降ろしたのに面食らった。東京の最終電車でもがら空きの列車に乗ることがあるが、そんな時は、普通あんまり他人の近くには座らないでしょう。ところがこの黒人ときたら、彼と僕しかいない車両なのに僕の直ぐ隣に腰を降ろしてきたんですよ。」
マイケル氏は大きくうなずく。
「ニューヨークは、日本とは人と人の距離感がまるで違いますね。緊張感をもつことがない、リラックスできる距離が、日本の場合は、顔と顔が30センチ以上なのに、ニューヨークの場合はそれさえも麻痺してわからなくなってしまっているような気がします」
そう言って、マイケル氏は大きく身を乗り出して、僕の前に顔を近づけた。
僕は思わず、ゲラゲラ笑った。
「実はブロンクス動物園にも行きましたよ。「トラ」の檻の前では、インド人の親子がかなり長い時間トラを眺めてたし、「アリクイ」などの中南米コーナーでは、サルサディスコで嗅ぎなれたラテン系が好んでつける香水が残り香として、色濃く漂ってました」
これには、マイケル氏は感慨深げにうなずいた。
「皆、故郷を想っているのですよ」
「そういえば、マイケルさんの故郷はどこですか?」
「私はニューメキシコ生まれですが、故郷とは思ってないです。私はユダヤ系だから、1000年も前から流浪の民なのです。日本が第2の故郷です」
マイケルは窓の外、東京よりもはるかに薄い青色をしているブルックリンの空を眺めた。
そういえば、マイケルがベンチで僕に声をかけてきた時の眼は、動物園で故郷の動物を見る彼らの眼差しにちょっと似ていたかもしれない。愛惜のこもった熱っぽい眼差しだった。
「どころで、きみは谷崎潤一郎と志賀直哉はどちらがお好みかな?」
この質問には答えられなかった。残念ながら二人ともあまり印象がない。
「僕は、大学ではアメリカ文学の講義をとっているんです。特にハードボイルド、行動の文学に僕は魅せられます。「武器よさらば」や「陽はまた昇る」などは傑作ですね」
僕は米文学のほうがむしろ慣れ親しんでいたから、正直に考えを述べた。
「特に好きなのはスタインベック、サリンジャー、そして、ヘミングウェウイ」
ヘミングウェイの名が出るとマイケル氏は顔をしかめた。
「サリンジャーとヘミングウェイで面白いエピソードがあります。サリンジャーの作品をはじめてヘミングウェイが読んだ時、その素晴らしさに感激した彼は、おもむろに銃を抜いて、近くにいた鶏の頭を打ち抜いたそうです」
マイケルが指で鉄砲の形をして「バーン」と撃つまねをした。
「そして、そのことがサリンジャーの耳に伝わった時」
マイケルは僕を試すような表情で覗き込んだ。
「サリンジャーは気持ち悪くなって吐いてしまったそうです」
マイケルから教えられたこのエピソードは、いかにもありそうな話で大変納得のいく話だった。繊細な人間の心の機微を様々な小道具を繰り出し、独自の世界を編み出す、いわば粘着的な「印象派」のサリンジャーに比較して、ヘミングウェイの人物描写は直線的で写実性が高く、乾いている分、つぼにはまるとすごいことになる。この二人が描き出そうとした世界は共通性があると僕は思っているのだが、二人の気質の違いがそのまま文章になって現われていると思える。それにしても、その時のサリンジャーの気持ちってどんな風だったのだろう。自分の作品が評価され、その結果一羽の鶏が頭を打ち抜かれて血の海に横たわって命を落とした。
「愛や想いは、いつも届くとはかぎらないんですね」
マイケルはサリンジャーの立場に立ってこう締めくくった。
ジャックダニエルの水割りは本当にうまい。僕は進められるまま6杯も飲んでしまい、気持ちよくなった。マイケルも上機嫌だ。話題は短歌や俳句の季語になり、茶道になり、そして京都のお寺の話にまで広がった。
「そうだ、いいものを見せましょう!」
マイケルがふらふらした足取りで隣の部屋に入っていった。
図書館のようなでかい本棚に行って持ってきた本を分厚い掌でパンパン叩いて、「読んでみろ」とばかりに僕にヌーと突き出した。
英文の題名は「三島由紀夫「金閣寺」滅亡の美」と読め、シンプルな装丁の単行本だった。
「私の書いた本です。私が好きなのは三島由紀夫です。彼の描写は美しい。特にその中での少年像はよく描かれていますね」そうか、三島由紀夫が好きなのか。私も「金閣寺」とか「仮面の告白」「午後の曳航」などは読んでいたが正直それほど印象に残っていなかった。
「「仮面の告白」については私は自分の半年間の授業の課題にしておりました。多くの日本人の青年が仮面の告白についてユニークな意見をいってくれまいたよ」
「特にその中の同性愛的なストーリーは興味深かったね」
マイケルは私の反応を確かめるように言葉を切った。
「秀司、きみは三島が同性愛者だったことを知っているかね?」
なんか突然嫌な気がした。マイケル氏は真剣な顔で私をみつめている。
「僕は同性愛のことはよくわからない。三島の文学をそんな観点から読んだことがないのだ。仮面の告白で言えば、序文が面白かったし、細かい筋は残念だが忘れてしまったのだよ」
彼は失望した顔をした。
 「大阪にいたときは学生たちがよく研究室に遊びにきました。その中の一人はね・・」
酔ったせいかマイケル氏はうっとりした目をしている。
「とてもマッサージが上手な学生だったなぁ。華奢な身体ながらつぼを心得ていてね」
彼はうまそうにグラスを傾ける。アイスキューブがコップに当たって、カラカラ乾いた音をたてた。
「秀治、君もちょっとマッサージしてくれないかね」
彼が私の腕をつかんだ。私はびっくりして腕を引っ込めた。
「あなたは女性よりも男性が好きなのですか?」
私は恐る恐る彼に尋ねた。彼は我が意を得たとばかりに「イエース」と言い、大げさにうなずいた。そして、アメリカの白人女性がいかに下劣かを興奮気味にしゃべった。早口だったので、ほとんどききとれなかったが・・
僕は思いっきり反対を表明した。
「僕は女性が大好きだ。可愛くて優しくて柔らかくて・・・」
興奮がやんできて、彼の顔はだんだん淋しそうになってきた。
「もう一杯、ジャックダニエルはどうですか?」
僕は腕時計を見るしぐさをし、
「そろそろホテルに帰らなきゃいけない時間です」
というと、彼は驚きと失望をないまぜになった顔をした。
私の手を握り、指先で手の甲をなでた。ぐにゃりとした感触が這う。
「本当に帰らなきゃいけないのですか?」
「おいしいお酒をありがとう。大変楽しい時を過ごせました」
「そうか。食事を食べていかないか?」
「いいえ、友達と待ちあわせをしでるんです」
私は帰りしたくを始めた。
「このあたりは、危ない黒人が多い、外は暗くなってるから注意しなさい」
「ありがとう」
「本当にホテルに帰らなきゃいけないのか?私が明日朝タクシーでお送りするが・・」
「いいえけっこうです。本当にありがとう」
彼は無表情のまま僕を眺めていたが、やがて名刺を差し出した。
「もし、この街に滞在しているうちに何か危険なことにあったり、助けが必要になったら、いつでもここにお電話ください」
私は挨拶もそこそこに彼の部屋を飛び出した。玄関まで来た彼の姿が、夕陽を背景にして立ち、大きなシルエットになった。私は玄関のドアを後ろ手にしめ、階段を2段飛びで下りて、道路に降り立った。しばらく駆け足で走って、後ろを振り向く。クリーム色の彼のマンションが淋しげに佇んでいるのが見えた。部屋の中に彼が立ってこっちをみているような気がしたが、再び振り返りはしなかった。

マイケルの予感が当たったのだろうか、地下鉄の駅を降りて、無人の暗い地下道を足早に歩いていると、後ろから黒人青年が追ってきた。身の危険を感じ、小走りに走ると、相手も追ってくる。これは本当にやばいと思い、階段をかけあがり、地上に出る直前に、黒人が私に追いついて「HEY!」と叫ぶ。マイケルの「連絡しなさい」という最後の言葉が脳裏に蘇る。観念して、後ろを振り向くとその黒人は何か言いながら、自分のお尻を触っている。早口で聞き取れない。彼は私のお尻を指差し、階段を3段飛びで追い抜いていった。私が自分のお尻を触ってみると、なんと、財布が半分以上、お尻のポケットから飛び出ていて、いまにも落ちそうだった。黒人青年は、それを注意してくれたのだ。僕は額の汗を手の甲でぬぐった。汗が気持ち悪かった。
階段を上がりきると、マンハッタンはすでに陽が暮れていた。
僕はマイケルとあんな別れ方をしてよかったのか、どうかわからない。
彼のくれた名詞をみつめた。この名前を手がかりにして近いうちに彼の著作を読んでみようと思った。そして、お礼の手紙を書ければと思う。




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