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ビストロフの橋
第二章「ウサギ穴」
ウサギ穴
「どうしようかなぁ」ウィリアム・ゴールドマン。通称ウィルは机に向かったまま、代わり映えしないつぶやきを漏らしていた。
収まりの悪い金褐色の髪をかき回し、すみれ色の目で机に置かれた書類の束をにらみつけた。九月から行くはずの中等学校、どの学校に行こうかとパンフを机一杯に広げて考えていたのだ。
普通なら近くの学校、と単純に決めてしまえばいいのだが、ある事情がウィルを悩ませていた。ウィルはアパートに一人で暮らしているという事実だ。母親はいるにはいるが個人輸入の仕事をしていて世界中を飛び回っている。
定期的に手紙はくれるが、落ち着いて顔を見て話すことなんて年に数えるほどしかない。 以前、クリスマスにプレゼント持って帰ってきたときにはサイズが二つも違う服を買ってきて笑うしかなかったこともある。行く先々から送られた絵葉書が古いクローゼット一つを完全に占領しているし、貯金箱にはポンドはもちろんドルやフランやペソやマルク・・・円、世界中のお金が入っている。
父親にいたっては、名前も知らない。母ですら相手が誰なのか把握していないのではないかとウィルは考えている。
一応生活に必要なお金はちゃんと口座に振り込まれるし、振り込まれたお金はウィルの裁量でどう使ってもいいことになっている。しかもウィルは無駄な出費を抑えてきたのでかなりの貯えがあった。だから、その気になればイギリス中のどこに引っ越しても構わないし、どの学校に入学してもいいというわけ。
もっともウィル自身はこのアパートが気に入っていた。窓の外にはあのべーカー街がある。あこがれのシャーロック・ホームズの事務所のある通りが見下ろせるこの場所には愛着があった。
ハンティング帽をかぶった人が一人もいなくても、パイプをくゆらせる人より煙草をふかす人のほうが多くても、馬車ではなく車が走っていたとしても、だ。
「どうしようかなぁ」
今日七度目のどうしようを口にしたとき、ウィルはウサギの穴に転がり落ちた。
たんに寄りかかっていた椅子ごと後ろにひっくり返ったのだが、その理由がウィルにそんな印象を持たせた。
天井すれすれを鳥が・・・ふくろうが飛んでいる。こんな町中、それも昼日中にだ。それだけでも奇妙なのに、くちばしに封筒をくわえているのだから不思議と言うしかない。
ウィルは急いで窓を閉めた。何がどうなっているかは分からないが、このまま逃がすのはとてももったいない気がしたのだ。
その気持ちは窓を閉めた直後に、ふくろうが落とした封筒を見たことでさらに強くなった。
何やら分厚い、重い、黄色みがかった羊皮紙の封筒にエメラルド色のインクで宛名が書かれている。
べーカー街の見える部屋
窓近くの机
ウィリアム・ゴールドマン様
およそ考えられないような宛名、なのにちゃんと届いている。
ふくろうが外に出れなくなったことに気付いて窓をくちばしで叩き始めたのを無視して、ウィルは封筒を破くように開け中をのぞき込んだ。羊皮紙が二枚と小冊子が入っていた。その一枚目に目を通し、ウィルはさらに興味を持った。
『親愛なるウィリアム殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。
敬具
副校長ミネルバ・マクゴナガル』
と、きた。どう考えてもまともじゃない。が、面白い。とりあえずリストを脇に寄せて今度は小冊子を取り出してみた。
表紙には『マグルの家に生まれた子への手引き』とある。入学を許可されたものの、何のことやら分からない人のための基礎知識、と副題までついているのだからなかなか芸が細かい。
ウィルは急いで引き出しから便せんを取り出しボールペンを手にとった。
ガラスを叩いていたふくろうが、ウィルの様子を見て手紙を書き始めたのを知ったのだろうか、机の縁にとまりじっとウィルの手元を見つめている。
ボールペンを持ったまま、しばらく考え込んでウィルはおもむろに短い手紙を書いた。
『副校長ミネルバ・マクゴナガル先生へ。
私、ウィリアム・ゴールドマンはホグワーツ魔法魔術学校への入学を希望します。』
こんなのでいいのかどうかは判らないが、他にどう書いたらいいのか思いつかなかった。この短い手紙を白くて小さな封筒に入れ、ふくろうに差し出す。ふくろうは不愛想にその封筒をくわえると行く手を遮る窓をいまいましげに睨んだ。
ウィルが窓を開けてやると、ふくろうは一度だけ羽音をさせて舞い上がり、滑るようにして空へと溶け込んでいった。
ふくろうが完全に見えなくなるまで見送ったウィルは小冊子を手に取り、読み始めた。期待の風船が胸で急速に膨張するのをなんとかパンク直前で抑えて、ページを捲る。
『魔法社会における基礎知識
ホグワーツ入学前にこれだけは覚えておこう。
【マグル】:魔法使いの血がまったく流れていない人間のこと。
または、魔法使いとしての素質を身に付けていない人間のこと。
【ふくろう便】:魔法界における通信の方法。魔法界では伝書鳩に類する方法によって連絡するのが常で主にふくろうが使われるのでこう呼ぶ。
【例のあの人】:魔法界において最大の禁忌。誰もが名前を口にしたがらないため、こんな言い方をする。
かつて魔法界を恐怖と混乱に突き落した闇の魔法使い。ヴォルデモートのこと。この名を口にすることも聞くことも平気でいられるのはホグワーツ魔法魔術学校現校長のアルバス・ダンブルドアただ一人であるため。魔法社会においてこの名を口にすることは自分自身と周囲の人間との関係を壊すことにつながるので厳に慎むこと。
【ホグワーツ魔法魔術学校】一千年以上も前、当時最も偉大な四人の魔女と魔法使いゴドリック・グリフィンドール。ヘルガ・ハッフルパフ。ロウェナ・レイブンクロー。サラザール・スリザリ。によって創設された学校。(四人の名は今も寮の名として残っている。)魔法力を示す若者たちを集め教育し、魔法世界とその文化を育て伝えていく役割を得ている。
【ホグワーツ】:イギリスの北にあるらしい魔法世界。マグルはもちろん生徒や関係者以外のものに場所が判らないよう幾重にも魔法が掛けられているため正確な位置は誰にも判らない。マグルに至っては近づくことも不可能である。唯一サン=テクジュベリなる人物が、飛行機なる乗物で不時着したことだけが例外として知られている。また、その影響によるものか空気中の魔法力が多大なためマグル言うところの科学製品はまったく使用不能となる。 (時計を持参する場合は手巻き式のものにすること)
【ホグワーツ特急】:紅色の汽車で、 ロンドンのキングス・クロス駅9と4分の1番線から出発し、ホグワーツまで直行する。新入学のための列車は9月1日 午前11時に出発。(この時には新入生は入学許可証を忘れずに持参すること、許可証と引き換えに切符が無償で渡されます。忘れた場合は有料になりますので注意)
【9と4分の1番線】:キングス・クロス駅の9番線と10番線の間にある。見えない魔法がかかっているため魔法族にも見えないが、壁へ触れると魔法族の者は通り抜けることができる。(このときマグルに見られないよう注意すること)
【ダイアゴン横町】:学校指定の教材の全てがそろう魔法世界の町。ロンドンにある『漏れ鍋』というパブの裏から入るルートが判りやすい。(魔法使いの多くは別の移動法を使うが、それは魔法世界に馴染むにつれ自然と覚えることなので、新入生は、このルートを使うことをお勧めする)
【グリンゴッツ】:魔法世界唯一の銀行。マグルの銀行と違い、利子はつかないし、カードも使えない。が、小鬼 が管理しているため、安全性と秘密性は完璧に守られる。
マグルの家の子は、ここでマグルのお金を魔法世界の金と交換してもらわないと教材を買うことができない。
以上
作成、魔法省。編集、魔法大臣コーネリアス・ファッジ。監修、魔法省マグル製品不正使用取締局アーサー・ウィーズリー。印刷、羽根とインク書房』
内容は極々短いものだ。それでも、何をするべきかがはっきりと理解できた。
ダイアゴン横町に行く。これが一番大事なことだ、そこに行けばふくろうが来て以来の全てのことが事実か夢かを確認できる。事実だったらグリンゴッツへ行って金を交換し、教材を買う。
バスと地下鉄の時間を確認して、銀行のカードと財布をポケットに仕舞い込むと、ウィルは部屋を飛び出した。
まずは銀行に行き、こずかいを貯めていた口座を解約して入れてあった貯金全てを降ろした。いくら入っているか自分でも定かでないが、相当の額に上るはずだ。その証拠に銀行の封筒が厚く重い。コインでなく、紙幣の重さで。
ウィルにとって、真新しい発見などない道を目的地へと向かっていた。バスに乗って近くの駅へ、そこで切符を買い地下鉄に乗っていく。来る度にいつも故障中な気もするエスカレーターを上り、普段どおりに店が立ち並ぶにぎやかな通りに出た。
ちょっと普段と違ったのは、所々に人が集まり、何事かを話している。耳を澄ますと、あんなでかい人間は初めて見た、とか、キングコングの孫が来たんだ、馬鹿ここはロンドンだニューヨークじゃない、とか言っている。映画の宣伝かなにかだろうか。ともかく、ごく普通に立ち並ぶ本屋の前を通り、楽器店、ハンバーガー屋、映画館を通り過ぎていく。
「あれ?」
急に見慣れた通りが別世界に見えた。
度々本を買いに来ていた本屋と、主にクラシックのCDを買うレコード屋。隣り合って建っていたはずの真中に、時代に置いていかれたような古くて薄汚れた小さなパブがある。
『漏れ鍋』と看板があるから、ここが目的地なのだろう。にしても、今まで気付かなかった。いや、見えなかったなんて・・・。もしかするとここにもなにか魔法がかかっているのだろうか。探している人間にしか見つけられない、というような。
考えたところで答えは見つからないだろう。ウィルは意を決して古びた扉を開け、中に飛び込んだ。
外見同様、暗くてみすぼらしい店内。それに反比例してやたらと陽気な客が四、五人いる。なんとも風変わりな人たちだ揃いも揃ってローブを着ている。それも赤とかエメラルドグリーンとかとてつもなく派手な。シルクハットをかぶった人までいる。みんな口々にポッターさんが帰ってきた、握手してもらえるとはなんたる光栄、と興奮したように囁いている。バーテンらしいハゲて、歯の抜けたクルミのような顔のじいさんは泣いてさえいるようだ。
「き、き、君は、ほ、ホグワーツの、し、新入生、か、かい?」
いったい何があったのだろうと訝しみ、立ち尽くして様子を見つめていたウィルに神経質そうに声を掛けた人がいる。
驚いて振り向くと、青白い顔をした若い男が片方の目をヒクヒク痙攣させてウィルを見ていた。
「は、はい。そ、そうですが?」無意識に後退ろうとする足を引き留めながらウィルは慎重に応えた。
「あの、ダイアゴン横町に行ってグリンゴッツへ行こうかと・・・」
グリンゴッツ。その言葉にこの若い男は異様に怯えたようになって、身体を震わせた。目がさらに神経質に痙攣している。
「わ、わ、わたし、がああ、案内して、あ、あげよう。わ、わ、わたしはき、吸血鬼の、あ、新しい、ほ、本をか、買いにい、行くと、と、ところでね」
案内してもらえるのはありがたいことだけど・・・この人はいったい誰なのだろう?
「わ、私は、く、クィレルほ、ホグワーツのき、教授のひ、一人でね。や、や、闇の魔術に対するぼ、ぼ、防衛をお、教えている」
不審そうな表情が顔に出ていたらしい。クィレル教授が吃りながら言った。
クィレル教授はパブを通り抜け、壁に囲まれた小さな中庭にウィルを連れ出した。ゴミ箱と雑草が二、三本生えているだけの庭だ。
ウィルはドキドキして待った。いよいよ魔法を自分の目で確認できるような予感がしたのだ。クィレル教授はといえば、ゴミ箱の上の壁のレンガを神経質に数えている。
この壁に囲まれた状態をどうやったらダイアゴン横町とやらに出れるのだろう?
「さ、下がっていなさい」
クィレル教授はローブのポケットから短い棒、多分魔法の杖、を取り出して壁を三度叩いた。すると叩いたレンガが震え、次にクネクネと揺れた。そして真中に小さな穴が開いたと思ったらそれはどんどん広がり、次の瞬間、目の前一杯にアーチ型の入り口ができた。その向こうには石畳の通りが曲がりくねって先が見えなくなるまで続いていた。
「だ、ダイアゴン横町で、です」
目を皿のようにして見つめている僕におびえたように笑いかけクィレル教授は先に立って歩き出した。
今度こそ、間違いなくウサギ穴だとウィルは思った。ウサギ穴の向こうは不思議の国、ロンドンの町並とは明らかに違う光景が見渡す限り続いている。
ウィルはクィレル教授の後にくっついて歩いた。迷子になるのだけは勘弁してほしい。二人がアーチをくぐり抜ける。ウィルが何気なく振り返ったときには、アーチは見る見る縮んで、固いレンガ壁に戻るところだった。
そばの店の外に積み上げられた大鍋に、日の光がきらきらと反射している。上には看板がぶら下がっている。
『鍋屋ー大小いろいろありますー真鍮、鈴、銀ー自動かきまぜ鍋ー折畳式』
その横の薬問屋らしい店で、小太りのおばさんが叫んでいた。
「ドラゴンのきも、三十グラムが十五シックル? さっきんとこより安いじゃないか」
薄暗い店から、低い、静かなホーホーという鳴き声が聞こえてきた。看板が出ている。
『イーロップのふくろう百貨店ー森ふくろう、このはずく、めんふくろう、茶ふくろう、白ふくろう』
この時点でウィルは少しほっとした。このときまでお金だけじゃなく言葉や文字も違うんじゃないかと不安だったのだ。でも、そうではないらしい。
箒の店、マントの店、望遠鏡の店、妙な飾りのついた鞄を売ってる店なんかもある。
何かの動物の内臓や目玉がうずたかく積まれたショーウィンドウ。今にも崩れそうな呪文の本の山。羽根ペンや羊皮紙、薬ビン、月球儀・・・。
「ぐ、グリンゴッツです」クィレル教授の声がした。
小さな店の立ち並ぶ中、ひときわ高くそびえる真っ白な建物だった。磨き上げられたブロンズの観音開きの扉の両脇に、真紅と金色の制服を着て立っているのは・・・
「こ、小鬼です」
そちらに向かって白い階段を昇りながら、クィレル教授は震えているようだった。小鬼はウィルより頭一つ小さい。浅黒い賢そうな顔つきに、先の尖った顎髯。それに、なんと手の指と足の指の長いこと。二人が入り口に進むと、小鬼がお辞儀した。中には二番目の扉がある。
「あ、ごめんなさい」
クィレル教授が急に立ち止まったのでウィルはまともにぶつかってしまった。クィレル教授は銀色の扉を恐々見ていた。なにか言葉が刻まれている。
見知らぬ者よ 入るがよい
欲のむくいを 知るがよい
奪うばかりで 稼がぬものは
やがてはつけを 払うべし
おのれのものに あらざる宝
わが床下に 求めるものよ
盗人よ 気をつけよ
宝のほかに 潜むものあり
「こ、ここまでく、来れば、も、もういいでしょう。、ここからはひ、一人で、い、行きなさい」
扉を見つめたまま、そう言ってクィレル教授はウィルの返事も待たずに急いで外に出ていった。
そんなに恐いとこなのかな?
つい不安になるが、ここまで来て引き返すのもなんだか癪だった。第一ここで引き返したらなにもかもが終わりだ。
左右の小鬼が、銀色の扉を入るウィルにお辞儀をした。中は広々とした大理石のホールだった。
百人を超える小鬼が、細長いカウンターの向こう側で、足高の丸椅子に座り、大きな帳簿に書き込みをしたり、真鍮の計りでコインの重さを計ったり、片眼鏡で宝石を吟味したりしていた。ホールに通じる扉は無数にあって、これまた無数の小鬼が、出入りする人々を案内している。ウィルはカウンターに近づいた。
「あのう・・・」
手のすいていそうな小鬼を見つけて声を掛けてみる。卑屈にならないよう自分に言い聞かせた。『僕は客なんだぞ』と。
「なんの御用でしょうか?」
「えっと・・・お金、そう、マグルのお金を魔法界のと換えてほしいんだ」
「換金でございますね、いかほど?」小鬼は愛想は良くなかったが、それでも丁寧に話してくれた。恐がる必要はなさそうだ。
ウィルは黙ったまま銀行から持ってきた封筒をそのまま渡した。いくらあるかなんてどうでも良かった。いくらになるかが重要なのだ。
「換金には8パーセントの手数料がかかります。よろしいですか?」
ウィルは急いでうなずいた、ほかにしようがないのだ。
「しばらくお待ちください。グリップフック、奥にご案内して」
封筒の中身を出して数えながら、小鬼はちょうど通りかかったやはり小鬼に声を掛けた。
グリップフックについて、ウィルは小鬼が仕事をしているカウンターの内側に入り、奥へ向かった。カウンターの外側からは気がつかなかったが奥に行くにつれ、目的の場所が見えてきた。カフェテラスにあるような丸テーブルが何個かと椅子、ソファが置いてあった。黒いローブのお年寄りが一人、そのソファに沈み込むようにして座っている。
「お寛ぎください」グリップフックがそう言うと椅子が勝手に後ろに飛びのき、ウィルが座るのを待った。ウィルが座ると椅子がテーブルのところまで歩み寄った。
ポンッという音とともにテーブルの上に黄色い液体の入ったゴブレットが出てきた。
「かぼちゃジュースです。お金は計算が済みしだいお持ちします」グリップフリックが丁寧にお辞儀して去っていく。ウィルはかぼちゃジュースを一口口に含み、次の瞬間には飲み干していた。よく冷えていて、ほのかに甘く、おいしい。
もっと飲みたいな、と思っているとゴブレットの底から再び黄色の液体が湧き出した。
「魔法って、便利だな」
感心してつぶやいてウィルは再びゴブレットに手を伸ばした。確かにゴブレットをつかんだはずの手が空振りする。ゴブレットが宙に浮いていた。ゆらゆらと揺れながら高度を上げ、ウィルの頭上を通り過ぎていく。
ウィルが急いで振り返ると、ソファに座っていた老いた魔法使いが杖を指揮棒のように振りながらウィルを手招いている。
ちょっとためらったがウィルは立ち上がって老魔法使いのところへ行こうとした。すると、再び椅子が飛び上がって、二、三度跳ねながらソファのところまでウィルを運んだ。
「・・・元気じゃな」カラカラに乾いて干からびた声がポツリと言った。
「お尻が痛いですけどね」
跳ねたときに打ったお尻を撫でながらウィルは老魔法使いを見た。黒いローブに覆われて、顔しか見えなかったが、その顔は切り刻まれたように傷だらけだった。
「痛いと思うなら、元気じゃよ。ワシを見なさい」老魔法使いがそう言ってローブを広げてみせた。だがウィルにはなにも見えなかった。自分の力ではまだ見えないのだろうかと不安になりかけたとき、突然ウィルは老魔法使いの言おうとしていることを理解した。
見えなくて当たり前なのだ、老魔法使いは見えないものを見せようとしたのではなく、見えるはずのものが見えないことを見せたかったのだ。
老魔法使いには右腕がなかった。
「昨夜まではちゃんとついておったんじゃがな。昨夜切り落としてしまった」
驚いて見つめるウィルに笑いかけ、老魔法使いは理由を話し始めた。
老魔法使いの名はドライロット、もちろん本名ではない。『三つの赤』という意味の通り名だ。闇の魔法と対峙し続け、色素の薄れた赤い髪、魔法を掛けた紅い目、血で朱に染まった爪の意だ。
二十年前、娘が倒れた。呪いのせいだろうと思われたがどんな呪いかも分からなかった。そして、それ以来ドライロットはある屋敷の解呪に半生を捧げてきた。
呪いを専門に扱っていた一族の住んでいた館、もう百年も前から廃屋となっているこの館には、あらゆる呪いの掛け方を記した呪文書と多額の宝が眠っている。
誰もが、その宝を目指したが誰一人として手に入れたものはいない。ドライロットは二十年掛けて館へと入り、書斎の前まで行き着いた。そして、最後の最後で呪いに捕まった。
あと一歩で念願が叶う、そう思ったとき気が焦ったのだ。ごく初歩的な仕掛けに惑わされて右腕に呪いを受けた。もちろん素人ではないドライロットは持てる全力で解呪しようとした。しかしうまくいかなかった。
だから、右腕を切り捨てた。それでもその時には遅すぎた。呪いはすでに身体の中へ侵入していて腕一本切ったところでどうにもならなかった。
それが、昨夜のことだ。
「ワシはもうじき死ぬ。呪いの奴がワシの身体を腐らせておる。もって数ヶ月というとこじゃろう。死ぬことに未練はない、じゃがワシがやってきたことを誰かに伝えたかった。そこに若者よ、娘と同じ色の目をしたお主が現れた。勝手な言い草だと思うじゃろうが、これを貰ってほしい」
ドライロットがソファの陰から取り出したのはトランクだった。マグルが使うのと大差ない、ただ少し使い込まれた焦げ茶色のトランク。一つだけ違うとこがあるとすれば、このトランクには錠前が七つもついていた。
「この『七つ鍵のトランク』はなかなか重宝なものでな」
ドライロットがローブの下から鍵束を取り出しながらつぶやく。鍵には一番から七番までの刻印が打たれていた。いったい何が重宝なのだろうとウィルは興味津々で見つめた。
番号を刻印されている鍵、その六番を右から六個目の錠前に差し込んでトランクを開けた。蝶番が錆びてでもいるのかトランクはひどくきしんで、嫌々開いたようだった。中には折り畳まれたボストンバッグが入っていた。微かに白っぽくカビ臭いそれを取り出した。ドライロットはトランクを閉め、今度は五番を五番目に差し込み、再びトランクを開けた。たったいま空になったはずのトランクにヨレヨレのマントやローブが入っていた。さらに四、三、二、一と鍵が差し込まれトランクが開くのを見て重宝の意味が判ったとウィルは思った。鍵を合わせて開く度に中身が違っていた。このトランクはマグルのトランクの七倍、物を詰め込めるのだ。ドライロッドは、その荷物を全てボストンバックへと詰め込んで杖を向け何事かをつぶやいた。そして、片手でトランク七つ分の荷物の入ったボストンバックをソファの後ろに放り投げた。きっと軽くする呪文を唱えたのだとウィルは確信した。
今日はもう一日中奇妙なことが起こっていたから、「いまさら驚くもんか」、という思いがあった。だが、それは七つ目の鍵が差し込まれトランクが開いた途端消え去った。ウィルは驚いて思わず声を上げた。
竪穴のような、地下室が現れたのだ。その四方の壁は全て棚になっていて、本や薬ビンのようなものが雑然と並べられていた。真中には大きな机が置かれ、丸まった羊皮紙が無造作に載せられている。
「ワシの書斎じゃよ」驚いたままのウィルにドライロットは相好を崩した。
「便利なものじゃて、どこへ行くにも書斎を持ち運べるんじゃからな。ワシが本当に貰ってほしいのはなトランクではなく、この書斎じゃ。この書斎にはワシの二十年が詰まっている。ワシの生きた証がな」
ドライロッドは愛うしげにトランクの縁を手の平で撫で、溜め息を吐いた。
ウィルにこの老魔法使いの心情を理解することは不可能だった。だが、申し入れを拒絶することもまた不可能なことだった。
結局、ウィルはトランクを譲り受けることを承諾し、老魔法使いは小鬼に呼ばれて去っていった。もう二度と会うことはないであろう老魔法使いの背を見送り、ウィルはこのような出会いをもたらした珍奇な運命を想った。
やがて、小鬼がウィルのとこにも来て、金貨の入った布袋を渡してくれた。
「金貨はガリオン。銀貨がシックル。銅貨がクヌート。一ガリオンは十七シックルで、一シックルは二十九クヌートとなっております」小鬼が通貨の説明をしてくれたが、覚えやすいとはとてもいえない半端な数字にウィルは少し戸惑った。
とは言え、ドルやフランの換算率に比べれば楽なものだ。じきに慣れるだろう。
グリンゴッツを出て、ウィルは再びダイアゴン横町に出た。どこに何があるのか判らない、どうしようかと、買わなくてはならないもののリストを見直した。
「確か入り口に鍋屋があったっけ」
一度入り口にまで戻り、そこから横町の様子を見物しながら買い物をすることにした。闇雲に歩くより確実だろう。
鍋屋の前に立つと、学校指定の学用品ということだろう。同じ大きさの黒い大鍋がずらりと並んでよく磨かれた表面が日の光を反射していた。
店主らしい恰幅のいい、水色のローブを来た中年の魔女が、忙しそうに店の中と外を行き来している。
「錫製の鍋、二つ貰おうかね」店主にウィルが声を掛けようとしたとき、横から別の声が店主を呼び止めた。
品のいいおばあさん、頭の上のハゲタカを別にすればだけど、が孫なのだろう。丸顔の男の子をつれていた。
「でも、おばあちゃん。これには一つって書いてあるよ」リストを穴が開くほど見つめて男の子が言った。
「ネビル、おまえのことだから、きっと一度は鍋を溶かしてしまうよ。一つ余分に買っておいたほうが安心だろう?」
ネビルと呼ばれた男の子は顔を真赤にして俯き、その後おばあちゃんが鍋を買うあいだ一言も口を挟まなかった。
鍋って溶けるものなのか? また不安が募る。無意識に目が値札を見ていた。それほど高くはない。ウィルも二つ買った。そしてトランクの四番目に重ねて入れた。折畳のできるかきまぜ棒と軽量カップを鍋の中に入れるとそのトランクはいっぱいになった。
鍋屋から道なりに進んで、冬用のマントを買い二番目へ、折畳式の真鍮製望遠鏡と魔法薬の材料を計るための上等な計り、クリスタル製の薬瓶を五番目に、とリストの順番通りにトランクを分けて入れていった。
本屋、『フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店』では一年生用にまとめられていた教科書を買って三番目に放り込むと、脇目も振らず足早に店を出た。面白そうな本が多過ぎて、一冊でも開いてみようものなら三カ月は動けなくなりそうな予感がしたのだ。
『フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店』を出て、再び看板を見上げたウィルの目に一つの看板の文字が飛び込んできた。『ナクサスの鞄店ー修理引き受けます』とある。
トランクに目を向けるとあちこちくたびれているのは明らかだった。少し、直してもらったほうがいいかも知れない。
「あら? かわいいお客様ね。わたしはアニー、みんなそう呼ぶの。あなたもそう呼んでね。で? 何が御入り用なのかしら?」
店内に入るとドピンクのローブを来た銀色のメッシュの髪の魔法使いが出迎えてくれた。青白い顔に薄い目蓋で女性のような言葉づかいで聞いてもいないことを一方的にしゃべる。ちょっとお近づきにはなりたくないタイプだ。
「あの、修理を・・・。取っ手と外張りを新しくしてほしいんです。蝶番には油も差してほしいし」
「『七つ鍵のトランク』ね。・・・そんなのよりもいいのがあるわ、直す必要なんてない。新しいの買いなさいな」背丈ほどもあるトランクを引き摺って来ながらアニーはウィルに微笑んだ。
「『宿借りのトランク』よ」
七つ鍵のトランク同様いくつも錠前の付いたトランクだ。アニーは鍵束を取り出し、一つ一つをウィルに見せた。
一番目、書庫かと思うほどの靴箱がある。二番目、広々としたリビング。三番目、対面式のシステムキッチン。四番目にはダンスホール付きの食堂。五番目には書斎。六番目には大きな天蓋付きのダブルベッドがある寝室。七番目にはジャグジー付きのバスタブと無駄に広いトイレが、八番目は真っ新な空室。九番目にはなんとふくろう小屋が付いていた。
「あ、あの。僕、このトランク気に入ってますし、貰いものなので手放すつもりないんです。新しいのを買う気はないです」
「あら、そうなの? トニー、あなたのお仕事よ。聞こえたでしょ?」
冷ややかな声が店の奥の暗がりに突き刺さり、小柄で薄汚れた男がガサガサと出てきた。あまり魔法使いというような感じではないけど、完全なマグルでもないようだ。
トニーはウィルの手からトランクをそっと取り上げ、お預かりします、というようなことをボソボソと言って奥へ引っ込んだ。
「そうよ! これがいいわ」
突然、アニーが声を上げた。振り向くと、アニーはいつのまにか店の右隅のほうにいた。目の焼けるような真赤なポシェットを嬉しそうに振っている。
「あのトランク、地味でしょう? アクセントにこれをつけたら・・・オシャレよぉー」
「あの・・・僕、そんなに荷物ないですし、トランクだけでいいですから」
オシャレというものがどんなものなのかよくは判らないが、こんなものをぶら下げて歩くなんて、考えるだけで顔が同じ色に染まりそうだった。
「そういわずに、これ便利よぉ。ウチの一押しなの、わたしが開発したオリジナルですもの」
アニーの手がポシェットをひっくり返す、直後、ウィルは別の世界にいた。ポシェットを被せられたのだということは判ったが、眼前に現れた光景にウィルは目が回りそうだった。
奇妙な世界を逆さまに見ているからさらに奇妙だった。頭の上は平らで広大な大陸で、四方八方どこを向いても地平線があった。下に目を向けると虹色の空が輝いている。アコーディオンカーテンのようなのがギラギラと波打っていて目がチカチカした。
「『なんでも入るポシェット』よ。使いごたえありそうでしょう?」
悦に入った声でアニーがウィルの耳元に囁くが、ウィルはあまりのばかばかしさに声もでないでいた。なにか言うべきだろうかと言葉を探してはみたが、それは徒労に終わった。
ウィルが応える前に、トニーが「仕上がりましたよ、お客様」といってくれたのを幸いに、ポシェットから頭を引き抜いた。
「ワーオ!」仕上がったトランクを見てウィルは小さく叫び声を上げた。すばらしい出来だった。染みだらけだった焦げ茶色の外張りが落ち着いた感じのモスグリーンに代わっている。止め具の金板は磨かれ、蝶番もきしまなくなっていた。取っ手もシンプルで機能的なものに代えられている。
どこから見ても文句の付けようがない出来映えだった。アニーのとんでもない美的センスを見せつけられた後だから、感激もひとしおだ。
「ダメよ! ポシェットを買ってくれるまで帰さないんだから!」
修理代を支払い、さっさと店を出ようとしたウィルをアニーが引き留めた。ウィルもがんばったのだが、結局『なんでも入るポシェット』を買ってしまった。色だけは、白にしてもらったが・・・。
「・・・そうね。一年生のうちから完璧なファッションじゃいやみですもの。五年生くらいになったらまた来て、わたしがトータルコーディネートしてあげる」
もうすでに耳を貸す気を無くしているウィルには気付かぬ振りで、アニーはブツブツと将来ウィルに着せる服のデザインをつぶやきだした。
「靴はもちろん赤よね。帽子は紫、ローブは黄緑がいいわ。マントはもちろん赤で・・・・」
アニーの声を振り解くように、ウィルはもうスピードで『ナクサスの鞄店』を逃げ出した。
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