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「恋とは一時的に衝撃に襲われるようなものだ。地震のように揺れて、やがて治まる。治まったら考えるのだ。二人の根があまりにも深く絡み合っていたら、別れることはもう不可能だ。それが愛というものなんだよ。愛は胸の高鳴りや息苦しさ、抱き合うことじゃない。体中を這う彼のキスを夜中に想像することでもない。」我々が映画を観る理由なんて、実にシンプル極まりない。楽しみたいからだ。ドキュメンタリータッチの反戦映画には、残酷な殺戮シーンや目を覆わんばかりの惨たらしい場面もあったりするが、わざわざ情報収集のためだけに足を運ぶ観客は少ないだろう。基本的には「感動」を求めて映画を観に行くはずだ。メッセージ性の強い社会派映画は、時に製作者サイドの意図があからさまに出てしまい、おもしろさや楽しさが半減されてしまう場合がある。逆に作り手が一人でも多くの大衆に受け入れられようと、興行的成功をねらって努力を重ねた作品の方が、結果として社会性や政治性を帯びた内容になったりする。「コレリ大尉のマンドリン」は、昨今の反戦映画としては他に類を見ない、格調の高い芸術的センスにあふれた素晴らしい作品だ。1940年、第二次世界大戦下のギリシア・ケファロニア島が舞台となっている。イタリア軍が隣国のアルバニアへの侵略を開始する中、ギリシアもその脅威にさらされていた。島の医師の一人娘であるペラギアは、ハンサムな漁師マンドラスと恋仲。知性と教養のあるペラギアに引きかえ、マンドラスは文字も読めない無学な青年だったが、ペラギアは盲目な恋に夢中。マンドラスはペラギアと婚約した後、アルバニア国境へと出兵。その後、彼の消息もわからぬまま一年が過ぎてゆく。ケファロニア島はイタリア軍とドイツ軍に占領される。島民たちの不安感や緊張感をやわらげたのは、イタリア軍のアントニオ・コレリ大尉だった。彼の背中には、マンドリンが背負われていた。コレリとその部下たちは、陽気で楽しげなイタリア人らしく合唱隊を組んでいた。ペラギアはそんな彼に心惹かれてゆき、二人は恋に落ちる。フランシス・F・コッポラの甥であるニコラス・ケイジが、この作品では七光りに恥じない好演を果たしている。キャスティングを見たら驚くようなそうそうたる顔ぶれで文句のつけようもなく、ワンカットワンカットの映像美は観客の視線を釘付けにして止まない。原作を裏切らない脚本はラストまで実に見事な奥行きを持たせ、音楽に至っては厭味なく、しかも効果的に流れていた。名匠ジョン・マッデンにスタンディング・オヴェイションを送りたい。「ブラボー!!」 2001年公開【監督】ジョン・マッデン【出演】ニコラス・ケイジまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.31
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【ダ・ヴィンチ・コード】「僕はイエス様に祈った。“両親に会わせて下さい”“学校に行き、犬と遊べるように僕を助けて下さい”と。誰かがそばにいる気がした。それが人間だったのか神か。人は神なのかも。子を持ったイエスは、奇跡を行ってはいけないのか?」天才レオナルド・ダ・ヴィンチは、リアルな表現技法にこだわり、動物の解剖を行ったことがあるらしい。その後、エスカレートして人体解剖にも立ち会ったのだ。その時の成果が有名な「ウィトルウィウス的人体図」である。それまで西欧では科学の存在を否定して来た。というより、抹殺して来た。それは例えばニュートンの「万有引力」であり、ダーウィンの「進化論」である。それらはキリスト教の唯一絶対神の根底を覆しかねない意味を持っていたからなのだ。 「ダ・ヴィンチ・コード」が大衆の理解を難しくさせている点を少し考えてみた。サスペンス映画として公開前はずいぶん話題にもなったのだが、蓋を開けてみれば・・・。それはムリもない。まず、イエス・キリストの末裔が女性であるという突飛で奇想天外なストーリーは、おそらくキリスト教社会では絶対に受け入れられないタブーであるに違いないからだ。このことは、キリスト教の教義にあまり詳しくない日本人にとっては極めて難解なテーマなのだ。舞台はパリのホテル・リッツ。宗教象徴学教授であるロバート・ラングドンの元に、警察から捜査協力の要請を受け、ルーヴル美術館へ同行する。そこで、ルーヴル美術館のソニエール館長の無残な遺体を見せられる。現場に暗号解読官のソフィーがやって来て、ソニエールと会う約束をしていたロバートが容疑者として呼び出されている状況を秘密裏に伝える。ロバートとソフィーは警察の目を盗み、ルーブル美術館を脱出。そのまま大使館へ向かおうとするが、付近は警察の検問が厳しく思うように行かない。 その後、ロバートの旧友であるリーを訪れ、ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」についてのある秘密を聞かされる。この作品に絡む宗教上の歴史や、西洋美術に関心を持っている人ならば充分楽しめたに違いない。しかしそうは言っても、キャラクターの性格や心理状態が掴みにくいとどうしても感情移入が難しくなってしまうのも事実である。そんな中、陰翳のある耽美的な映像の中で静かに微笑む「モナリザ」を観た時、思わずため息とともに「ああ、ルーヴル美術館に行きたい」とつぶやいてしまった。2006年公開【監督】ロン・ハワード【出演】トム・ハンクス、ジャン・レノ
2008.01.30
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「この数週間、自然の破壊力の前で、人類は己の傲慢さを思い知りました。我々は地球の資源は今までどおり使い続けてよいのだと考えていました。間違いでした。私も含めて。今私が話している所は、隣国にある大使館。新たな現実を迎えた証です。アメリカ人、そして世界の大勢の人々が“途上国”の庇護を受けています。助けの手を差し伸べてくれた彼らに、心から感謝を捧げます。」「地球温暖化現象」という深刻な環境問題は、すでに耳慣れた言葉であり、今さらそこに斬新な切り口は見つからない。しかし、この問題を娯楽としての映画にさえテーマとして掲げずにはいられないほどに、地球の病巣は深く、根強いものになっている。大衆に喚起を促し、最善の選択を呼び掛ける手段として、最も効果的なのが「映画」であった。この作品に甘いストーリーなどは期待できず、わくわくするようなアクションも見られない。二酸化炭素の大量排出に伴う地球温暖化によって、海流の急変が起こり、地球に氷河期が訪れる。東京では巨大な雹が降り、ロサンゼルスでは巨大なハリケーンに見舞われ、ニューヨークでは巨大な高潮が押し寄せる。古代気象学者のジャックは、ニューヨークに取り残された息子のサムを救出するため、悪天候の最中、強行突破する。「デイ・アフター・トゥモロー」をSF映画として捉えた時、その緻密な特殊効果に驚愕してしまう。そして作中のあちこちに、あるメッセージを浮き彫りにさせる演出が組み込まれていることに気付く。公立図書館に避難したサムとその友人たちが、暖を取るために燃やした価値ある書籍の数々。街をゾロゾロと歩く人の列を見て、我先に逃げ出そうとする群衆心理。携帯電話がつながらない中、公衆電話は通話が可能であったこと、などなど。それらを一つ一つ検証していくことで、この作品が一体何を言わんとしているかを想像することができるはずだ。2004年公開【監督】ローランド・エメリッヒ【出演】デニス・クエイドまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.29
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「宮川さんていう軍曹さんがおってね、一度目の出撃の時に機体の故障で引き返されたのをえらい気にしなすってね。ようやく二度目の出撃が決まった前の晩にうちに見えてね、お給仕する私に“今度こそどんなことがあっても敵艦を撃沈して帰って来る”って言われる。私は不思議に思って“どげんして帰って来ると?”って聞いたら、“ホタルになって帰って来る。だからホタルが来たら僕だと思って追っ払わないで、よく帰って来たと迎えて下さい”って言うの。」映画評論家である故・淀川長治氏の言葉なのだが、「映画界の動向は情報イコール資本の流動性に抗えないので、観客自身が批評家の目をもつ必要がある。」とおっしゃっている。つまり我々は、数多製作されている映画の山から優れた作品を見出すセンスを鍛えねばならない。「傑作」と呼ばれた作品の影には、泡と消えた「駄作」が無数に存在するのも事実である。しかし、そういうB級、C級の中にも必ずメッセージが隠されている。思ったほど楽しめなかった作品を、あとから反芻して、どんな点がつまらなかったのか、どのように改善すればもっとおもしろくなるのか、など自分なりに分析、追究してみるのも逆に楽しいかもしれない。「ホタル」は、悲惨な戦争を二度とくり返してはならないというメッセージ色の強い映画に仕上がっている。反戦映画には必ず賛否両論が付きまとい、人の数だけ感想もまちまちだ。この作品は鹿児島の南端の漁村が舞台になっている。山岡は漁船「とも丸」に乗り、沖合いで漁をして生業を立てていたが、妻が身体を患ったことで漁を辞め、養殖を始める。激動の「昭和」が終わり、「平成」の世が始まったある日、藤枝が冬山で亡くなったという知らせに山岡は愕然とする。山岡と藤枝は、共に特攻隊の生き残りだったのだ。全体を通して視覚効果にあふれ、日本の美しい自然が平和な日常の「今」として反映されている。その美しい構図からは、すでに半世紀も前に起こった戦争の傷跡などどこにも見られない。この静寂さと自然美を後世まで残すことが、我々の大切な使命なのだと訴えかけてくるような、じっくりと計算され練られた美しいアングルに魅了された。2001年公開【監督】降旗康男 【撮影】木村大作【出演】高倉健、田中裕子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.28
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【ダイ・ハード】「要求を聞こう。」「同志たちが世界各地の刑務所にいる。アメリカは世界一の軍事大国だ。力を貸してもらおう。これから言う同志たちを釈放させろ。北アイルランド解放戦線の7人、カナダの自由ケベック運動の指導者5人、スリランカアジアの曙運動の8人。」 建国の神話を持たない国であるアメリカだが、それに代わるものとして、いやそれこそがアメリカの象徴として君臨して来たのが「西部劇」である。それゆえ、多くのアクション映画の根底には、この「西部劇」のパターンが脈々と流れているのだ。「ダイ・ハード」を観終わった観客の誰もが、この作品の中に西部劇へのオマージュを感じたのではなかろうか。ニューヨーク市警のジョン・マクレーンは、クリスマスを家族とすごすためにロスへやって来た。妻のホリーは日系企業のナカトミ・コーポレーションで成功を収め、夫のジョンをナカトミの主催するクリスマス・パーティーに招待するところから物語は展開する。一方、ハンス・グルーバーと名乗るテロリストのリーダーとその配下たちが、ナカトミの巨額な資産を狙ってビルを占拠する。ジョンは外界と遮断されたビル内で、たった一人テロリストたちに立ち向かう。記念すべきダイ・ハードの一作目で、テロリストのリーダーを演じたアラン・リックマンの起用は大成功だった。どこか滑稽で冴えない男、ブルース・ウィリスとは対照的に、洗練された身のこなし、流暢なイギリス英語、「タイム誌」を読んでいるというインテリジェンスな役柄は、アラン・リックマンでなければ成し得なかった悪役であろう。ケビン・コスナーと共演を果たした「ロビン・フッド」でも、ノッティンガムの司法官役として完全な悪役に徹した。その憎々しげな態度といい、奥歯にモノの挟まったような皮肉たっぷりの物言いは、悪役としていわば「当たり役」だった。(英国人俳優ならではとも言える。)この二人のスターが共演して、熱のこもった演技を披露した作品が不評に終わるはずがないではないか。ダイ・ハードはこの一作目の大成功により、次々と続編が生み出されることになるのだ。 1989年公開【監督】ジョン・マクティアナン【出演】ブルース・ウィリス、アラン・リックマン
2008.01.27
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「いずれ元の仕事に戻れば、戦争が夢に思えますよ。」「だが昔には戻れん。何事も永続しないという苦い真実を知った。」「と言うと?」「悲惨と破壊に終わりはない。頭を切り落としても、また生える蛇だ。殺す事はできない。敵は我々自身の中にあるのだ。」「今」の映画と「昔」の映画の違いは一体なんだろう?表現技術の高い「今」は、なるほどリアリティがあってスリリングでしかも迫力がある。 では「昔」はどうか?チャチでヤワでウソっぽいのか?否、決してそんなことはない。優れた作品ならば、「今」も「昔」も変わりなく、画面の細部にまでメッセージが刻み込まれているのだ。「今」の映画をいろんな要素を踏まえて“派手”というカテゴリに入れたなら、「昔」の映画はやはり“地味”と言えるかもしれない。もちろん、扱っているテーマや撮影されている環境、あるいは役者の人気度によってもそんな簡単に2種類のカテゴリに分けるのは問題ありだ。だが、映像製作の革新によって、現実と虚構の区別すらつきにくいほどに表現技術の向上した「今」を、決して「昔」の映画は乗り越えられない。「眼下の敵」に派手なアクションやスピード感はない。では何がこれほどまでに緊迫感や連帯感、共鳴といったものを覚えるのだろうか。この作品は第二次世界大戦中の南大西洋が舞台となっている。アメリカ駆逐艦ヘインズ号と、ドイツ海軍の潜水艦であるUボートとの激しい攻防戦を描いている。両軍、二人の艦長は共に戦争で妻や子供を失うという辛い体験をしていて、どちらかというと戦争には懐疑的な態度を示す。その両雄の魚雷攻撃をめぐる駆引きの鮮やかさ、知恵のしぼり合い、見事な作戦の遂行と言ったらほぼ互角。そこに敵も味方もありはしない。そしてさらに、敵同士ながら互いに対する敬意の表し方は、シーマンシップに則っており、感動すら覚える。「眼下の敵」は言わずと知れた反戦映画である。我々はこの作品から随所に盛り込まれている哀しい歴史的事実を、学び取らねばならないのだ。1957年公開【監督】ディック・パウエル【出演】ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.27
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「彼女は言ったんだ。“他のメスに求愛ダンスを踊る気なら用心して”女は恐ろしいと思ったね。」「妻は大切にしろ。お前は感謝が足りん。もう行け。」「結婚なんてバカらしいよ。こんなにモテる男が・・・」アニメ映画というのは、とかく食わず嫌いに陥りやすい。例えばディズニーやジブリの製作した、いわゆる「ブランド」化されたアニメなら、文句なしに観客の期待度は高いだろうし「とりあえずジブリだから観ておこう」という具合になるわけだ。ならばそれ以外のものはどうかと問われれば、前評判にもよるだろうが、たいていは子供のお伴で大人もいっしょに観る、という図なのではなかろうか。そういう意味で、まだまだアニメーションというジャンルは大人の間では「子供向き」という意識が強いように思われる。「アイスエイジ」はもちろん子供向きに製作されたのであろうが、なかなかどうしてあなどれない。いい年した大人でもうっすらと涙を浮かべてしまうほど、にじむようなあたたかいものを感じる。舞台は2万年前の地球。氷河期の到来により、動物たちが南へ移動し始める。そんな中、仲間から置いてきぼりをくってしまったナマケモノのシドと、他の動物たちが南下するというのに自分だけ北へ行こうとするへそ曲がりのマンモス、マニー。その一匹と一頭が川べりで人間の赤ちゃんを発見する。シドは赤ちゃんを親元に届けようとするが、途中で怪しげなサーベル・タイガーのディエゴも合流し、シドとマニーとディエゴの奇妙な珍道中が始まる。この作品はCGを駆使した立体的なアニメ映画である。透明感のある氷の描写や、はらはらと舞う雪などはリアルでしかも美しい。字幕スーパーでも良いが、日本語の吹替えもなかなか個性的で楽しめる。ストーリー性も豊かなので、本一冊分をアニメという形でじっくり堪能できる作品に仕上がっているのだ。2002年公開【監督】クリス・ウェッジ【声の出演】マンモスのマニー・・・レイ・ロマーノ(山寺宏一)、ナマケモノのシド・・・ジョン・レグイザモ(太田光)、サーベル・タイガーのディエゴ・・・デニス・リアリー(竹中直人)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.26
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雪をかぶった柿の実を見て、「おいしそう」と思うのは自分だけだろうか。例えば、どこまでも広がる雪原にゆであずきの缶詰と抹茶シロップを持参してお腹いっぱい「宇治金時」を食べてみたいなぁと思ってみたり。簡単に表現すると、新幹線の中で食べる冷凍みかんのような感覚で、フローズンな柿を楽しみたいのだ(笑)熟した柿の甘い香りに誘われて、モズが夢中になってその実をついばむところを横目で見ながら、人間サマはあたたかい食卓を囲み、鶏のから揚げなどを食べるのだ。
2008.01.26
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【ダイ・ハード2】「よかった。もう会えないかと思った。」「私もよ。」「愛してるぜ。」「テロだったそうね。」「うん、そうらしい。」(中略)「愛してるよ。」「なぜ私たちこんな目にばかり遭うの?」「帰ろう。」どの作品にも言えることかもしれないが、続編が前作を越えるというのは非常に難しい。 前作が好評であればあるほど、製作者サイドは肩に力が入ることだろう。「前作を上回る作品を作らねば」、そんな気持ちでスタッフ一丸となって作り上げているに違いない。そんなことをあれこれと想像しながら「ダイ・ハード2」を観てみた。前作同様、不死身の男ブルース・ウィリスはここでも大活躍を見せてくれた。マクレーンはクリスマスを妻のホリーといっしょにすごすため、ダラス国際空港まで迎えにやって来た。空港内で不審な2人組の男を見かけ、マクレーンは密かに尾行する。2人組が荷物室で挙動不審な行為に及んだところ、マクレーンが声をかけたことから銃撃戦が始まる。彼らはテロリストの一味だったのである。その後、あれよあれよと言う間にダラス空港はテロリストたちに占拠されてしまい、マクレーンは勇敢にも一人事件に立ち向かって行くのだ。作品の後半部に雪原をスノーモービルで追跡するシーンが出て来るが、アクション映画ならではのスリリングな臨場感に圧巻。さらにラスト、テロリストたちを壊滅させた後のクライマックスシーンのBGMに、シベリウスの「フィンランディア」が高らかに流れるのは興味深い。難を言えば、テロリストが見せしめにイギリス旅客機を爆発炎上させるシーンが出て来るのだが、果たしていかがなものか・・・。また、マクレーンがつららを真っすぐ敵の目に突き刺すシーン、それに航空機のエンジンに人を巻き込んで鮮血が飛び散るシーンなどは、もはやホラー的なニオイを感じてしまった。そんな点も含めて、かなりチャレンジ精神旺盛な作品に仕上がっていると思われた。1990年公開【監督】レニー・ハーリン【出演】ブルース・ウィリス(マクレーン刑事)
2008.01.25
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「何か始めようとするといつもジャマする。」「愛してるから心配なのさ。聞いてみれば?」「誰に? 僕の父親? ヤだね。一人じゃムリ。」「シザーハンズ」を観た時、これは来るぞと思った。このセクシーな容姿は欧米のみならず、そのうち日本女性もとりこにするだろうなと、なんとなく感じ取ったのだ。我ながら先見の明があったと思う(笑)今やジョニー・デップと言えば、ハリウッド界きってのスーパースターなのだから。パートナーを組んだティム・バートン監督の存在も大きい。アートハウス系の作品に独自の存在感を確立できたのは、やはりこの二人の息の合った仕事ぶりが功を奏したのだと推測できる。「チャーリーとチョコレート工場」は、タイトルからおおよその想像がつく通り、ファンタジー映画である。貧しい家の少年チャーリーを取り巻く物語だ。世界的ヒット商品を次々と出荷するウォンカチョコレート工場。そのウォンカのチョコレートを買うと、たった5枚だけゴールデン・チケットが入っているという。そのゴールデン・チケットを手にした5人の子供とその保護者に対してのみ工場見学に招待するという企画。選ばれたのは、食い意地の張った肥満少年、大金持ちのわがまま娘、賞を獲得することに執念を燃やす勝気な娘、ゲームおたく少年、そしてチャーリーの5人。一方、工場の社長であり、工場見学の引率者でもあるウィリー・ウォンカには悲しい過去があった。幼少時代、歯科医である父親から厳しい躾を受け、それがきっかけで親子の関係に確執があったのだ。全ての童話には子供たちに訴えかけるテーマがある。「チャーリーとチョコレート工場」も例外ではなく、お金や名声よりも大切なものがあり、それは「家族の絆」なのだというごくごくありふれたものだ。しかし、社会がこれだけ複雑化して親子関係が希薄になった昨今、こんな単純なテーマを題材にした作品でも改めて思い知らされるというのは、なんとも皮肉な話だ。作中、「2001年宇宙の旅」や「サイコ」など有名映画のパロディが見受けられ、とても楽しい。色彩豊かでサイケな感覚は、アートハウス系作品に相応しいものだ。2005年公開【監督】ティム・バートン【出演】ジョニー・デップ(ウィリー・ウォンカ)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.22
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【ダイ・ハード3】「セントアイブズに行く道で会った男に妻7人、猫7匹ずつに仔猫7匹。セントアイブズへ行ったのは何人と何匹か?」「もう一度言ってくれ。」「その数字を555の後ろにつけて30秒後に電話しろ。」“世界一運が悪い男、ジョン・マクレーン刑事”という役柄は、ブルース・ウィリスにとって正に「当たり役」だった。彼はこの「ダイ・ハード」の主役を演じることで、観客にブルース・ウィリス=不死身のヒーローというイメージを植えつけることに成功したのである。それは例えば、若きショーン・コネリーが007のジェームズ・ボンド役にピタリと当たったキャリアとも似ている。この「当たり役」のせいでその俳優のイメージが固定化され、演じる役柄がいつも同じようなキャラになってしまうといつしか新鮮味は失われる。そして役者はそこから脱却するために試行錯誤を重ねる。アクション・スターとして売り出されたアーノルド・シュワルツェネッガーを例に挙げると、彼は固定化されたイメージから抜け出すべく、いったんはコメディ路線に変更した時もあった。が、結局は原点のイメージに戻り、「ターミネーター3」で大成功を収めたというわけだ。一体何が言いたいのかと問われれば、人にはそれぞれ「適材適所」というものがあるのだということだ。「ダイ・ハード3」では、ニューヨークで爆弾テロが発生し、犯人との駆引きに応じながら過酷な環境の中に放り込まれていく、という一連のパターンである。とは言ってもセントラルパーク内をタクシーで突っ走るシーンなどは、アクション映画の十八番なのだ。テロリストの中に紅一点、女性犯人が登場するのだが、日本赤軍の重信房子を彷彿とさせるような美人でクールな印象を持ってしまったのは自分だけだろうか?「勧善懲悪の王道、ここにあり」そんな作品なのだ。1995年公開【監督】ジョン・マクティアナン【出演】ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)
2008.01.21
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「なぜいつも僕をリードする? もし踊りたければ君を誘う。もし話したければ自分から話をする。誰もが話をさせたがる。“君ばかりを想ってる”と言葉にして何になる? 君のことで頭が一杯で考えることも仕事も手につかない。言葉にしてどうなる? 僕が何より恐れるのは、君が危険な目に遭うこと・・・だから僕は今このポーチにいる。君を守ってあげたいから。」その監督のキャラが強ければ強いほど、作風に漂うカラーは鮮明になる。「ヴィレッジ」を観た時、ピンと来た。これは「シックス・センス」の前振りに似たものがあるなぁ、と。そして、どちらの作品も同じ監督がメガホンを取ったことを知り、多いに納得した。内容を端的に説明する。舞台は19世紀のペンシルヴァニア州。深い森に囲まれ、外界から隔絶された小さな村。しかもその村には昔から忌わしい伝説がある。森の中に入ってはならない、なぜなら正体のわからぬ化け物が棲んでいるからなのだと。 その証拠に、皮を剥がれ丸裸にされた家畜が無残な姿で村のそこかしこに横たわり、家の扉には赤い不吉な印が残されていた。一方、目の不自由な娘アイヴィーは、無口だが村で一番勇敢な青年ルシアスと恋仲になる。しかし知的障害を持つノアは、アイヴィーを独占したいがためルシアスを刺してしまう。 重傷を負ったルシアスを救うためには、化け物の棲む森を通り、町まで出て薬を買いに行かねばならない。アイヴィーは愛するルシアスのため、一大決心をする。シャマラン作品をホラー映画と一括りにしてしまうのは、あまりに短絡的過ぎやしまいか。「シックス・センス」にも言えることだが、この監督は超常的なモチーフにこだわるのが特徴的である。そしてお気づきのように、宗教色とモラルに彩られた作風をかもし出している。それはいわば、陰残な事件に巻き込まれた被害者の遺族たちが、何をもってしても埋めることのできない空洞を、神への信仰に求め、結果として超自然的存在と向き合う構造になっているのだ。「ヴィレッジ」の根底に流れるもの、それはすなわち、身近な存在の死を乗り越えるために再生へ向かうプロセスがキーワードになっていると思われる。2004年公開【監督】M・ナイト・シャマラン【出演】ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー)、ホアキン・フェニックス(ルシアス)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.21
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展望の名所として名高い、長野県は小川村。ここからは2000メートル級の山々が連なる北アルプスの絶景が広がるのです。このパノラマに魅せられて、思わず神の領域に踏み入れてしまいたくなったら、ご注意。 冬の雪山に命の保証はありません。でもその代わりにできることはいくらだってあるのです。こうして記念に一枚撮影してみたり、思い出に日記を綴ってみたり、スケッチしてみたり、それでも足りなければ何度でもそこへと足を運び、遠目から眺望を楽しめば良いのです。語りかけてくる北アルプス連峰のささやきに耳を傾けて下さい。絶景の中に身を置くことで、自然の息吹を肌で感じるのです。(旅先の一枚)
2008.01.20
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「この世には生まれつきの偉人となりゆきの偉人がいる。君が偉大になるチャンスは今だ。」久しぶりのファンタジー映画に、妙にホッとする自分がいる。やっぱり映画はこうでなくちゃ、そう思うのは自分だけだろうか?特撮を駆使した冒険モノは、ややもすればリアル感に欠け、質感表現が不完全になりがちである。しかしもともと一本の映画を頭の中のイメージ通りに撮影することは不可能なのだから、ある程度の「遊び感覚」は許容範囲内ではなかろうか。この作品は、うだつのあがらないバツイチ失業男のラリーが、アメリカ自然史博物館の夜警に就職が決まったところからストーリーが展開される。先輩老警備員から簡単な仕事の引継ぎを受けると、ラリーは初日からたった一人で広くて静かな博物館の警備に就く。深夜になって睡魔に襲われそうな時間になると、なんと、T.レックスの骨格標本から動物の剥製、ジオラマ、蝋人形などの展示物が次々と動き出すではないか。信じられないような光景に驚愕し、大騒動に巻き込まれたこともあって、わずか一日で退職しようとした。だがラリーは仕事をいくつも転々としていて、せめて一人息子のニックの前では尊敬される父親でありたかったため、夜警の仕事を継続する。博物館や美術館が赤字経営なのは、どこの国でも同じなのだろうか。大衆に興味を抱かせ、少しでも興業的に成功を収めるためには、何と言ってもファミリーで楽しめることが先決なのだ。童心にかえって少年少女の視点から映像を楽しむ、それこそが娯楽としての映画の真髄ではなかろうか。注)「アート」としての映画にこだわる人向きではない作品なので、あしからず。2007年公開【監督】ショーン・レヴィ【出演】ベン・スティラー(ラリー)、ロビン・ウィリアムズ(ルーズベルト大統領)←蝋人形また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.20
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「僕はとても恵まれた子供時代を送った。それで恩返しをしたいと思った。何かを変えたいとね。時々自分を励ますんだ。“偉いぞジョー”“よくやったぞ”“国際協力隊のスターだ”と。現実はこれだ。」「去年ボスニアで同じ気持ちに。」「本当?」「最高の仕事をしたけれど、毎日泣いてた。それがここでは・・・涙が出ないの。」「感覚が麻痺したのかも。」「いいえ違う。もっとひどい。ボスニアの白人女性の死体を見ると連想したの。これが母だったらと。ここの死体はただの死んだアフリカ人。結局、私たちは自分勝手な人間なのよ。」最近は専らドキュメンタリータッチの作品ばかりを鑑賞しているせいか、本来の意味とか意義を忘れつつある。娯楽として楽しむはずの映画は、今や「社会性」や「政治性」を汲み取らねばならないので、鑑賞後の疲労感、絶望感は筆舌に尽くしがたい。頭痛と悪寒に悩まされ、「ならば自分はどうしたら良いのか?」という答えのない苦悩に頭をもたげねばならないのだ。作品との距離を取りつつ、「当時そこにあった現実」なのだと、歴史の一コマとしてのみ捉えることが果たして良いのか、それは疑問だ。この作品はルワンダ紛争におけるフツ族と少数民族であるツチ族との長年に渡る部族闘争を舞台にしている。国連治安維持軍の監視の下、学校だけは非戦闘区域であることを宣言。大量虐殺から逃れて来た何千もの難民の避難所となる。しかし一歩学校の外に出ると、過激派民兵が大量の虐殺を繰り広げていた。そして国連軍が、もうこれ以上難民を保護できないと学校から撤退していくところから、悲劇はさらに大きく残酷なものとなる。フツ族によるツチ族の大量虐殺事件(ジェノサイド事件)は、非常に根の深い問題で、容易には理解できるものではない。ただ一つ言えることは、白人による植民地支配が始まったあたりから、溝はどんどん深くなっていったということだ。演技力がどうであるとか、内容がどうだとか御託を並べる前に、この作品をどう捉えるかは各人に任せたい。2007年公開【監督】マイケル・ケイトン=ジョーンズ【出演】ジョン・ハート(クリストファー神父)、ヒュー・ダンシー(ジョー)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.19
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「私、イディ・アミン・ダダは君たちに約束する。私の政権は言葉だけではなく、行動する! 新しい学校を建設する! 道路も! そして新しい住宅も! このように私は将軍の制服を着ている。でもこの心の中は違う。ここにいるのは君らと同じ普通の男だ。君らのことは何でも知っている。私は君らだ。」1971年、ウガンダでは軍事クーデターによりオボテ政権が倒れ、アミンが新しい大統領に就任した。時を同じくして、スコットランドより青年医師ニコラスがウガンダの小さな村の診療所に派遣されて来た。移動中のアミン大統領がささいなケガを負ったところ、通りかかったニコラスが治療を施し、それがきっかけでアミンの主治医となるところから物語は佳境に入っていく。一見、アミンは庶民的でチャーミングな人柄をにじませつつも、その実、疑心暗鬼に駆られた冷酷非情な独裁者であった。その証拠に、抵抗勢力の反撃に怯えるアミンは、大規模な粛清を進めるのだった。この作品は、ひとえに、向こう見ずで冒険心に駆られる若者たちの軽率な行動に警鐘を鳴らすものではなかろうか。作中の青年医師ニコラスも、「自分さがし」と称し、その国の情勢もろくに知らぬままほんの好奇心からウガンダにやって来たことで、最後は生命まで脅かされることになるのだ。近年、治安の悪化する中近東地域に「ボランティア」あるいは「観光」という名目で渡航する若者たちが増加している。彼らの若さゆえの無鉄砲さは目に余るものがある。我々はいつだって「痛み」を伴わなければ本当に大切なことに気付かないのだから、人間とはなんと愚かで業の深い生きものなのだろう。ニコラスがエンテベ空港の売店で拷問にかけられ、その後、同僚医師の手引きによって助けられ、飛行機に乗り込むまでの緊迫感は息継ぎさえ許さない、鬼気迫るものがある。最初から最後まで少しの歪みも感じられない、完成度の高い作品だ。2007年公開【監督】ケヴィン・マクドナルド【出演】フォレスト・ウィテカー(アミン)、ジェームズ・マカヴォイ(ニコラス)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.18
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その時、信玄は政虎の夜討ちを悟り、武田重代の日の丸の旗、武田菱の旗、将軍の旗とを嫡子義信の陣所に立てさせ、敵の目を欺くために本陣には馬じるしの纏と四如の旗一本だけを立てたのだ。「策士、策に溺れる」信玄は敵に裏をかかれたことを知り、その顔は蒼白に変わっていった。【異様なもの音がはるかな前方から聞えて来た。それは風の草原を過ぎる音とも、遠い川瀬のひびきとも、聞けば、聞かれたが、信玄のものなれた耳には、たしかに人馬の押して来る音と聞えた。しかも、相当大軍の・・・。きびしく胸がしまった。】(「天と地と」より海音寺潮五郎・著)白馬にまたがった僧形の武人が、ただ一騎で本陣めがけて真一文字に疾駆して来た。それは正しく、敵の総大将上杉政虎であった。政虎は、ただ信玄のみをめがけて斬りつける。あまりの急なことに信玄は床机にかけたまま、軍配うちわで受けるほかない。川中島の戦いは「中世的戦術」を駆使した、いわば、頭脳戦である。この戦いは、甲陽軍鑑によって広く武士階級に知れ渡り、また後に、頼山陽の「鞭声粛々」でも有名になった名だたる戦いなのだ。武田信玄、上杉謙信、両雄の仰いだであろう信濃の空と同じ光景を目の当たりにした時、川中島決戦場跡に馬のいななきと兵士たちの諸声があがるのを聞いたような気がした。(旅先の一枚)
2008.01.17
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「ハエがたかってる栄養失調の黒人の赤ん坊、母親の死体、切断された手足、見慣れた光景よ。泣く人もいる、寄付する人もいるかもね。でも何も止められない」映画というメディアを通して、政治的あるいは社会的テーマを正しく把握するというのは、かなり高度な作業である。単なる反戦メッセージとして十把一絡げで捉えてしまうのは非常に軽薄で、物事の根底にはもっと深刻な問題が重い鉛の如く隠されているのである。したがって、作品が発する社会的メッセージを正しく受け止めるには、かなりの勉強量が必要になって来るのだ。例えば「ブラッド・ダイヤモンド」などは、アフリカのシエラレオネ共和国における内戦を舞台にしているのだが、政府軍と反政府勢力であるRUFのダイヤモンド鉱山の支配権をめぐる闘争が扱われている。そのアフリカ地域紛争で武器調達の資金源として不法取引されるのが、いわゆる「ブラッド・ダイヤモンド」なのだ。しかし、この内戦についても、多文化主義、民族問題、宗教問題など歴史的文脈を捉えていなければ、そう易々と理解出来るものではないのだ。そんな中であえて、大衆に発信しようと試みた製作者サイドの意図は何かを想像した時、次の二点が挙げられるのではなかろうか。一つは「紛争ダイヤモンド」、過酷な労働条件の中で採掘されるダイヤの行方。もう一つは「少年兵」の存在。(近代日本も例外ではなく、戊辰戦争の白虎隊、二本松少年隊などの少年兵が確実に存在した)我々は、望むと望まざるとにかかわらず、この作品から強いシンパシーを感じ取らねばならないのだ。ちなみに本作品で主演のレオナルド・ディカプリオは、ゴールデン・グローブ賞を受賞している。2007年公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】レオナルド・ディカプリオ(アーチャー)、ジェニファー・コネリー(マディー)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.14
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「ジェームズ、たとえあなたがすべてを失い、残ったものが笑顔と小指一本でも、私にとっては立派な男よ」「僕の小指の技を知ってるから?」「何のこと?」「試したいかい?」007シリーズも本作品が21作目。息の長いスパイ・アクション映画である。もともとアクション映画がアメリカ映画の主流であることからも、この先も多くの観客を集め、利益を上げ続けることは、まず間違いないだろう。「娯楽のための映画」であることが必須なので、むやみやたらと高い芸術性を求めたり、社会的であろうとしない方が良い。ヒットする映画、話題性に富んだ内容にしようと方向付けられた作品は、自然とその時代という背景を反映することになるからだ。007シリーズは、正に、大衆に向けられた最大にして最高の娯楽映画と呼べるかもしれない。息を呑むようなカーチェイス、派手なバイオレンスシーンも、アクションの一部ではあるが全てではない。そこには冒険があり、ロマンスもまた存在する。「カジノ・ロワイヤル」では、ジェームズ・ボンドが国家予算の1500万ドルを賭けて、カジノでポーカー対決をする。相手は、世界中のテロリストに資金を提供する「死の商人」ル・シッフル。相手の一挙手一投足を見逃すまいとする二人の白熱したやりとりが、皮肉たっぷりの会話や細かなかけ引きから充分に引き出される。本作品で初のボンド役に抜擢された金髪俳優、ダニエル・クレイグの荒削りで男臭いジェームズ・ボンドも、なかなかどうして好感が持てる。007シリーズ(他の作品においても同様だが)がこれからも引き続き「観客を楽しませる」という基本姿勢を崩さないで行く限り、アクション映画は未来永劫、娯楽映画の王道として歩み続けるだろう。2006年公開【監督】マーティン・キャンベル【出演】ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスバー・リンド)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.14
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紀元前11世紀ごろに活躍した周の名軍師。渭水のほとりで釣りをしていたところを周の文王が「これぞ我が太公が待ち望んでいた人物」と称し、召抱えられたという話に由来する。(新明解国語辞典より引用)散歩の途中で、太公望に出会いました。寂然と釣り糸を垂れる姿に、思わず歩みを止めました。山紫水明の別天地で、湖に小舟を浮かべて遊びたい。その道の才能があるなら、詩画をたしなみ、一人悦に入るのもまた一興。ついつい風流人にあこがれるせいか、想いはいつしか臥龍の隠者。身にあまる富など欲しくはない。質素なくらしの中で、滔々と流れる川の音を聞き、紫に煙る山を愛で、鴨や白鷺の集う水辺に釣り糸を垂れてみたい。清貧として厭味のない生き様を目指したい。ファインダー越しのアングルの中で、太公望の姿は燦然と輝いているのでした。
2008.01.13
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「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そして、あとでさみしくなって、「ごめんね」っていうと、「ごめんね」っていう。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。(「こだまでしょうか」より金子みすゞ・詩)雪を載せた電線に、仲良く並ぶすずめたち。あの2羽は、どんなに凍てつくような寒さの中でも、静かに寄り添っているのです。インテリなカラスに悪口を言われても、エレガントな白鷺にじまん話をされても、どこ吹く風。梅の花の香りがほのかに漂うころ、仲良くおしゃべりに興じながら、薄く高い空を散歩するのです。その2羽の後ろを、だれも追うことはできません。楽しげに語らう2羽の間に、鮮やかな虹がかかるのを想像してしまいました。
2008.01.11
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「自由な魂が、かの地を通る時、数え切れぬ年月が流れても、我々がささやく声を永遠の石から聞かせるのだ。スパルタ人よ旅人に語れ」紀元前480年、ペルシア帝国はスパルタの王レオニダスの元に服従の証を立てるよう使者を送り込んで来た。しかし、レオニダスは使者の首をはねることでその要求を一蹴。こうしてペルシア帝国軍とスパルタ軍との戦いの火ぶたは切られた。ペルシア帝国100万の大軍に対してスパルタ軍はわずか300。しかし、スパルタの兵士たちは一騎当千の豪の者たちの集まりで、その精鋭部隊をペルシア帝国軍はなかなかどうして簡単には落とせるものではなかった。この作品は、ひとえに、CGを駆使していかにリアル感を出すかに専念していると言っても良い。歴史大作を手掛けるのはひじょうに困難な作業で、どうしても背景や美術に違和感を覚えがちである。だが、ここで必要なのは歴史的事実とは何か。すなわち、ペルシア帝国軍とスパルタ軍との壮絶なる戦いがあったということ。そこで多くの血が流れたということ。その2点に尽きる。英国俳優であるジェラルド・バトラーの肉体美、CGを駆使した映像美を堪能するには余りある作品だ。2007年公開【監督】ザック・スナイダー【出演】ジェラルド・バトラー(レオニダス)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.11
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「おまえが俺を愛しておらぬということはわかっていた。それでも俺はおまえを・・・!」舞台は戦国時代。醍醐景光は天下取りの代償として、48体の魔物に生まれて来る我が子を生贄に差し出す。赤ん坊は身体の48箇所が欠落していて、その姿はすでに人の子の体を成すものではなかった。呪われた赤子は生きたまま川に流されるはめに。それを拾い上げたのは秘術を扱う医師・寿海。哀れに思った寿海はその赤子に仮の肉体を授けるべく、秘術の限りを尽くした。やがて赤子は成人し、真の身体を取り戻すために48体の魔物と闘う旅に出る。物語の根底に流れるもの。それは失いし身体を探し求める旅・・・すなわち自分探し、自己発見がいかに辛く苦しい作業であるかをテーマにしている。人はそのルーツを知ることで、自分の存在価値を確認する。誰かに愛され、求められることで、己の存在を肯定するのだ。「愛」という陳腐で安っぽい言葉に人は踊らされがちだが、しかし「愛」がなければ個としての存在価値はなく、生きる術さえ失いかねない尊きものなのだ。あなたは誰かに愛されていますか?あなたは誰かを愛していますか?2007年公開【監督】塩田明彦【出演】妻夫木聡(百鬼丸) 柴咲コウ(どろろ) 中井貴一(醍醐景光)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.10
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川べりをサイクリングしました。冷たい風に鼻の頭を赤くしながら、雪よりも白い息を吐いてペダルをこぐのです。ふと、川面に戯れる白鷺の親子を発見。何か、胸の奥が苦しくなりました。白鷺親子と自分との間に介在する絶望的な隔たり。そういう完璧な隔たりを前にしては、癒しも優しさも一場の感情に過ぎないのです。真昼の陽光も、川の繊細なせせらぎも、穏やかな無垢の光景も、ただ一心に忘れてしまいたい。羨望からは何も生まれないことは知っているつもりです。でも、戦慄するほどの色濃い美しさは孤独を呼び、空虚な気持ちにさせられます。朝の雲のような白さが「あたりの空気を四角く切り抜いて」いるのを感じた刹那、思わずシャッターを切っていたのです。
2008.01.09
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「人生ほど重いパンチはない。だが大切なのは、どんなに強く打ちのめされても、こらえて、前に進み続けることだ。」父さん、ボクはたまらなくイヤだったよ。父さんが昔、偉大なるボクサーで、誰もが振り返るような立派で有名な人物であればあるほど、ボクはその影に潜み、周囲の顔色や体裁を気にしていなければならなかったから・・・。友人や職場の同僚、上司、それにすれ違う人々すら、「あのロッキーの息子!」などと声をかけて来る。ボクはボクであって父さんの付属品じゃないんだ!もちろん、父さんがこれまでどんなに辛く、苦しい想いをして来たのか知っているつもりだよ。栄光を勝ち取るために厳しいトレーニングを重ね、世間のくだらない論評などに惑わされない強い精神力を培って来たことも。母さんが亡くなってからは魂の抜け殻のようになってしまい、フィラデルフィアの街を彷徨いながら孤独と必死に闘って来たことも。だけど今回の試合、現役ヘビー級チャンピオン、しかも無敗の若手と勝負を決することになったとき、ボクは父さんを誇りに思ったんだ。過去の栄光にしがみつく惨めな老兵では終わらなかったんだから!そこに男の生き様を見たんだ。年を取ることは少しも恥ずかしいことなんかじゃない。ぶざまでもいい、醜態をさらしてもいい、一生懸命がいかにカッコイイことなのか、父さんは身を持って教えてくれたんだ!ボクは、「ロッキー・バルボア」の息子であることを誇りに思うよ!!2007年公開【監督】シルベスター・スタローン【出演】シルベスター・スタローン(ロッキー・バルボア)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.07
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「距離を置くことで物事の全体像をやっと理解できるのだ。順応以外何をするにももはや手遅れ。もう何もすることも言うこともない。」元は町の清廉な出納係であったウィリー。正義感から役人の不正を告発して職を追われてしまう。彼は強く念じる。このままでは終われない。特権階級が貧しい労働者から奪ったものを取り戻さねば。道路を整備し、学校を増やし、貧民が無料で診察を受けられる病院を建設したい。彼は信念を持って富裕層への宣戦布告を果たした。聴衆は、その熱のこもったエネルギッシュな演説に陶酔した。ウィリー・スタークでなければ。誰もがそう思い始めた。そしてついに、ウィリーは念願のルイジアナ州知事に当選した。しかし、権謀術数にまみれた政財界に正義などなかった。彼が一度手に入れてしまった地位と名誉と権力を保持することに、手段などない。ウィリーが学んだのは、「利権で甘い汁を吸う」ことに他ならなかった。いわば、汚職に順応するのが最善策なのだと。その独断と偏見の果てに一体何があるのか?それはあまりに絶望的で、周囲を巻き込む不幸の連鎖に、虚しさだけが、ただ虚しさだけが残るラストなのだ。2006年公開 【監督】スティーヴン・ザイリアン【出演】ショーン・ペン(ウィリー・スターク)、ジュード・ロウ(ジャック・バーデン)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.06
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「曲は生きものだ。まるで 形を変える雲や潮の満ち引きと同じだ」交響曲第九番、初演日。難聴のため満足にタクトを振れないベートーヴェンが、楽屋の片隅で怯えている。写譜師であるアンナがそっと寄り添い、「私がいます」と。アンナに励まされてベートーヴェンは意を決して指揮台に立つ。同時に彼女は演奏者たちの足元に身を潜めて、ベートーヴェンにテンポと入りの合図をおくる。それまでの二人は「偉大なるマエストロ」と「写譜師」、あるいは師弟関係のようなものだった。しかし、生きた第九番の中で形を変え、各々がかけがえのない存在となった。二人の視線は絡み合い、タクトを振るベートーヴェンの手と合図をおくり続けるアンナの手が、しなやかに揺れる。指先が音を愛撫し、あるいは貫き、強弱にもだえる。その時、神は二人の交合を許した。肉の交わりをはるかに越えた、崇高な愛の深さに、思わず胸の奥がしめつけられ、熱くなり、ふるえた。2006年公開作品【監督】アニエスカ・ホランド【出演】エド・ハリス(ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.04
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