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「大鹿村騒動記」の原田芳雄は、いつもの原田芳雄であり、いつもの野太い声であった。あの舞台挨拶に車椅子で登場した原田芳雄と同一人物であることが信じられない。この撮影のときに既に病気は進行中であり、おそらく大変な気力で創り上げた作品なのであろう。本来ならば、悲しみの雰囲気が画面を覆うのであろうが、この作品では、そのような雰囲気はなく、むしろ明日はどうなるのかというある種の希望を感じさせてくれたそんな作品であった。土着性高い、またある種男くさい世界に性別不明な若者が訪れて展開するドラマ、これはパゾリーニの「テオレマ」をもとに阪本監督と原田芳雄が、仕掛けたかのかと思った。
2011年10月04日
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原田芳雄、岸部一徳、石橋蓮司、大楠道代といったベテランの芸達者たちが見事な演技合戦である。まるで掛け合い漫才のような丁々発止の会話がドタバタ調で展開する。「仁義なき戦い」シリーズで言うと「代理戦争」のような感じである。まさに嬉々として演じており、これは果たして演技なのかと思わせるものがある。そんな笑を誘うようなドタバタの会話劇の中で俳優たちが、ふと見せるなんとも言えない表情が非常に気になるのである。その名状しがたい表情にこの映画のテーマがあるのではないかと思う。この映画はセリフや動作の場面で見せるものではなく、俳優たちの表情こそが主役なのかも知れない。
2011年09月30日
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この映画を見ながら頭の中に浮かんだ、というか連想したのは小川紳介の「ニッポン国古屋敷村」であり、「1000年刻みの日時計」である。これらの小川作品と同様に実に豊かな作品である。また、小川作品がフィクションとノンフィクションの間をぬうように展開していったことを、阪本監督もチャレンジしているようだ。この作品は原田芳雄の念願の企画であったというが、おそらく彼の役者としての役者論であり、映画論でもあるのだろう。この映画は、ここに関わった人々の「8 1/2」であり、「映画に愛をこめて アメリカの夜」であるとも言えよう。とにかく素晴らしい!
2011年09月29日
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8月4日に田口ランディ講演会に参加。市民有志の実行委員会の主催である。そして、6日朝から映画「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」を見た。映画上映前に山口彊さんの長女、山口年子さんのスピーチがあった。田口ランディさんの人生の壮絶さに衝撃を受けるが、山口彊さんの人生もまた壮絶である。どちらがより壮絶かなどと比較することには全く意味がないが、田口さんが自らの家庭にその原点があり、山口さんは歴史に翻弄されたということが言えよう。お二人ともに、その経験をもとに得たもの、自ら生み出したものを積極的に社会に向けて発信していったという共通点がある。そのようにしたもの、その力の源泉は何であろうかと思う。お二人の人生と比較すると、あまりにも平凡なわが人生であり、それらは理解の範囲を超えるものであるが、それでも理解しようとさせる力が田口さん、山口さんの言葉にはある。今週は、この二人を知ったことが一番の出来事であった。
2011年08月06日
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原田芳雄という俳優は、出演しているだけで、その作品に重みを与えたように思える。「亡国のイージス」では総理大臣の役で出演。事件発生の報告を受けたときの「なんで、俺のとき(任期中)に起きるんだ」という意味のことを、ある種投げやりに言い放つその口調は、原田芳雄だからこそ、作品の中で活きてきたのではないか。阪本順治監督作品の常連出演者であったが、主演ではなく、常に脇役で作品を引き締めていた。そして、阪本監督と原田芳雄の願いがかなって初の主演作「大鹿村騒動記」が遺作になってしまったことが悲しい。この作品は原田芳雄自身が発案であったという。この作品は、長崎では公開予定がなく、私自身が見ていないのであるが、黒木監督の戦争レクイエム3部作への出演の延長線にあるのかも知れないと勝手な予想をしているところである。
2011年07月24日
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原田芳雄といえば、「バンザイ」を思い出す。「バンザイ」ではなく、「バンザァーイ」だったと思う。映画「祭りの準備」のラストシーンのことだ。原田芳雄が演じるのは主人公の幼馴染。殺人を犯して逃げ回るダメな男。一方の主人公は、地元の信用金庫を辞めて、映画の仕事をしたいという当てのない夢を追って東京へと出て行こうとしている。その駅で二人は出会う。これから夢の実現に向けて東京へと出かける主人公を「バンザァーイ」と叫びながら送り出す。狭い世界の故郷から出ることが出来なかった自分自身を後悔と共に顧みて、これから当てもないのに夢を追って東京へ出ていこうという友へ、自分が果たすことのできなかった夢を託すかのように「バンザァーイ」を繰り返す。原田芳雄という俳優に強烈な印象を受けたのは、「反逆のメロディー」であるが、何かと思い出すのは、この「バンザイ」シーンなのである。
2011年07月23日
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映画「もしドラ」では前田敦子の好演は当然として、宮田夕紀役の川口春奈に注目したい。久々に映画に登場した正統派美少女である。しかも美人薄命という設定である。川口春奈に注目である
2011年06月25日
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「奇跡」で是枝監督によって選ばれたという「まえだ・まえだ」の二人を遥かにしのぐ魅力的な出演者は内田伽羅である。抜群の存在感と未来の大物を予感させている。内田伽羅を主役にした物語にすれば、この作品はもっとすごい作品、例えば、日本版「ミツバチのささやき」にもなりえたのではないか。「まえだ・まえだ」の二人もさすがに子どもの演出が巧い是枝監督により好演なのであるが、要するにその程度である。(ついでに言っておくと、この二人、ちょっとうんざりさせるキャラであるゆえ、彼らの漫才など見たくもない。)
2011年06月22日
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「3.11以降を生きる上で見るべき映画」というセレクションをするなら、この映画はそのひとつとしてあげられるべきであろう。九州新幹線の全線開業が3月12日であり、火山の噴火は山が生きている証拠だという意味のセリフがあったり、桜島が噴火して、この鹿児島が人の住めない町になれば、今、離れ離れに暮らしている家族が再び一緒に住めるとか、奇跡を願うときに、家族より「世界」を考えたとかいう視点など奇妙な暗合が語られる。「意味わからん」と言いたくなる社会の中で、妥協やあきらめではなくその社会に適合していく成長物語としてアッバス・キアロスタミやフランソワ・トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルものとつながる傑作である。九州新幹線が全線開業する日、博多発と鹿児島発の2つの新幹線の一番列車がすれ違う瞬間を目撃すれば、そこから生じるすごいエネルギーが奇跡を生み出し、願いが叶うという噂から物語は始まる。見る前は、単なる新幹線タイアップ作品であり、是枝監督がJRに取り込まれた作品を作ったのかと一抹の不安を抱いて見たが、JRとも新幹線とも関係なく、そのようなものは脇の脇に位置づけられ、前作「空気人形」が都会の中のファンタジーであったように、「奇跡」はこの社会におけるファンタジーとして「3.11以降」を生きる私たちに様々な気付きを教えてくれるファンタジーである。
2011年06月19日
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「Everyday、カチューシャ」は映画「もしドラ」には合わないという意見が多数派のようだ。しかし、私にはそうは思えなかった。甲子園への切符を手にした瞬間の部員や応援の観客たちの歓喜の中で前田敦子演じる川島みなみは、ただ一人、喜んでいいのか、泣いていいのか、どうしていいのか判らない呆然とした表情で突っ立っている。そうしたラストの後のエンドタイトルで流れる「Everyday、カチューシャ」は、そんな主人公の感情を思い切り開放するのであり、その開放感は観客にも伝わってくる。エンドタイトルはこの歌で良かったと思う。エンドタイトルの音楽でがっくりくることの多い日本映画が多い中で、これは久々のヒットではなかろうか。
2011年06月17日
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この映画は何の映画かというと前田敦子のための映画である。これほど主演というのに相応しい扱いを受け、それを観客にアピールしたこと自体が素晴らしい。内容としてはある弱小高校野球部が次第に強くなって、甲子園への出場を果たすまでの物語で、さらにそこに悲劇も用意されているというありきたりな内容。そのありきたりな内容にも関わらず、圧倒的な魅力で見せるのが主演の前田敦子である。ラストの泣いているのか笑っているのかわからにような表情で、呆然と立っている姿は彼女の演技力というか、その資質の素晴らしさが納得である。前田敦子は、ほぼ全編にわたり出ずっぱりであるが、その魅力は圧倒的で、彼女によりこの作品は支えられているといっても過言ではない。1本の映画を一人の女優が支えた例としては「ローマの休日」があるが、この「もしドラ」もまたそうである。共に「信頼感」がキーワードである。みなみのマネージャーとしての日々は、アン王女にとっての「ローマの休日」の日々に相当するのではなかろうか。
2011年06月13日
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人は失意や絶望に立たされたときに救いとして何を求めるのか。それは「愛」であろう。では、それは「自分を愛してくれる人」なのか、それとも「愛する人」なのか?「八日目の蝉」の希和子が求めたのは、後者であった。薫を愛することによって自分自身を救おうとしたのではなかろうか。それは非常にエゴイスティックな愛ではあるかも知れないが、実に無償の、何の見返りも求めない純粋な愛であったと思う。それは映画を見ていてもひしひしと伝わってくる。この映画は「無償の愛」とはどういうものかを描いたのではなかろうか。
2011年06月11日
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「フレンチコネクション2」の価値はジーン・ハックマン演じるポパイ刑事の走りにある。このシーンでそれまでに発散できなかったエネルギーが見事に炸裂してラストにつなげていく。さて、「プリンセストヨトミ」であるが、展開の単調さを救ったのは綾瀬はるかである。彼女を走らせたことが、この映画を救ったといっても過言ではない。
2011年06月08日
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東京と大阪は対立関係にあるようで、これは一種のライバル意識とでもいうべきか。但し、このライバル意識は両者間で均衡しているわけではなく、大阪側の一方的な意識のようだ。そうした意識が、例えば、「東海道戦争」のような小説が生まれる下地になっているわけで、この「プリンセストヨトミ」もまたその系譜の作品である。もうひとつの歴史を維持していく大阪の秘密という実に奇抜な着想。演じる堤、岡田、綾瀬、中井がそれぞれの個性を見事に発揮しているにもかかわらず、物語の展開がとろくて薄味なのである。これは、監督の鈴木雅之が東京人であるからかも知れない。もっと大阪土着の意識を持った大阪出身の監督なら、これはもっと違ったのではないかと思う。ところで私の大阪への思いであるが、あの「君が代条例」でペケである。愚劣な知事を高率で支持する大阪人など最低である。
2011年06月07日
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川本三郎の「マイ・バック・ページ」を初めて読んだときに、もし、これが映画化されるなら、しかし、これを映画化しようとするプロデューサーや監督がいるだろうかと思いながら、著者と保倉幸恵との交流のエピソードは彩りを添えることになるだろうと思っていた。それはあくまでも一種の装飾的な効果であって本筋は、あの激動の日々の中で迷いつつ生きた記者の青春物語であるか、あの事件の実相に迫るものだと思っていた。しかし、この小説を映画化する監督も登場し、現代の2大若手スターがキャスティングされた。保倉幸恵に相当する人物も登場し、原作に描かれているエピソードもほぼ取り入れられている。しかも、それは装飾的な位置づけではなく、主人公も含めて革命に関わろうとする人物たちとの精神的な比較をして人間像を見事に浮かび上がらせた。彼女は、この映画の影の主人公といってもいい。彼女の死を語るシーンも素っ気ないが、それがかえって効果をあげている。映画を見て、今、改めて原作を読んでいる。
2011年06月02日
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この映画を語る上でいくつかのキーワードがあると5月29日の日記で述べたが、「覚悟」もそのひとつであろう。多くの若者や、知識人と言われる人々が「革命」を叫んでいた時代、それぞれにある「覚悟」があったと思う。梅山にも、前園にも、その仲間たちにも、それは感じられる。沢田にも彼らをフォローしながら、そのような時代のジャーナリストとしての覚悟があったのではなかろうか。彼らに対して、沢田が勤める新聞社が出す週刊誌のカバーガールは、全く異質な存在のように思えるが、彼女の「私はきちんと泣ける男が好き」という言葉は、男に覚悟を求めるというより彼女自身の宣言のように聞こえる。映画を見ていて、私は彼女の「覚悟」が最も強いものに感じた。それに対して、梅山も、前園も、そして沢田も、結局は行動の結果のひとつでしかない「名を残す」ということにのみ囚われていたのではないか。それは「覚悟」とはほど遠いものである。
2011年05月31日
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監督の山下敦弘は1976年生まれ、脚本の向井康介は1977年生まれと全共闘運動が終焉し、また連合赤軍事件の後に生まれ、その生活の中に学生運動というものがない時代を生きてきた二人が、全共闘運動がピークの時期に生きて、その傷を抱えることになった川本三郎の一種の私小説を映画化したというこの異種配合のような組み合わせが、この作品の成功の要因のようだ。従って、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」のように監督自身が大きく関わった作品とは違った客観性、しかし、だからといって遠くから皮肉な目で見ることもなく、人物をリアルに描くことに成功している。煽ることもなく、センチメンタルに陥ることもなく、しかし、ラストの主人公が泣く場面でドラマのクライマックスを設定できたというこれは一種の奇跡のような映画である。
2011年05月30日
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この映画を語る上でいくつかのキーワードがある。そのひとつが「泣く」である。「男が泣く」ということである。大手新聞社(「朝日新聞社」がモデルであるが)の記者・沢田が自社の週刊誌の表紙モデルの少女と映画「ファイブ・イージー・ピーセス」に行き、その後、一緒に食事をしながら、彼女は「私はしっかり泣ける男が好き」と言う。幾多の出来事を経て、そして、その彼女も亡くなり、数年後に沢田がふと寄った居酒屋である人物と再会し、そこで涙を流す。映画は、その沢田が泣くシーンで終わる。このシーンは見事である。少女のひとことを伏線として、このラストは見事の生きている。そして居酒屋でのある人物との再会シーンのドラマとしても、最初に主人公が抱えていた後ろめたさと自省としても説得力がある場面である。このラストは、もしかしたら、今年の日本映画の中で最高のラストシーンかも知れない。もちろん見ている私も涙が出た。
2011年05月29日
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その土地にしがみつくようにして、必死になって生きていく人々。そこに希望というものがあるわけではなく、人々もまた貧しいのであるが、そこに何かを見つけようしている。映画「海炭市叙景」が描いた世界は、実は日本映画が最も得意とするものではなかったか。日本映画の伝統であったようだ。この映画を見ながら、内容としては暗く重いものばかりであるのにそこに親近感に近いもの、いつまでもこの映画の世界んひたっていたい気持ちになるのは、もしかしたら、ここに描かれている世界が私の精神的な故郷だからかも知れない。それは映画ファンとしての原点的なものもあるのかも知れない。まるでカーテンコールのように最後の路面電車に乗り合わせる人々と、その路面電車を横切る颯太と妹の帆波の姿が映し出される。それが初日の出を見に行くための2人の後ろ姿だったことが判るというときの一種の映画的な快感もまた、この映画の魅力でもある。そうした映画術がちりばめられているのではなかろうか。その魅力をもっと発見したかったのだが、1週間という上映期間では、私は1回しか見ることが出来なかった。
2011年05月13日
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函館をモデルにした海炭市という架空の都市を舞台にした連作短編小説を映画化したもので、オムニバス映画である。スチール写真の一部を見ると、私が住む長崎市によく似ている。それも当然、造船所があり、路面電車が通い、坂道が多いのである。ドラマの中にはリストラ、家庭崩壊、子どもの虐待などまさに現代の世情を描いて、これはまさに現代の物語だと感じさせるが、原作者の佐藤泰志が、この小説を書いたのはバブル期のようなのである。ここで描かれている状況など予想すらしなかった時代である。これは作家の想像力と予感の賜物というべきか。それにしても、この作品に登場する人々の、行き詰まり感、どうしようもない焦燥感、もがいても抜け出せない状況には、見ているにもどこか心当たりが思い当るものがある。それゆえ、この映画の空気感は実にぴったりとしているのだ。決して楽しい作品ではない、不幸なことばかりのエピソードであるが、実は、この映画を見ている間、「終わって欲しくない。いつまでもこの映画の世界にひたっていたい」と思っていたのである。ひとつの架空の町を舞台にしたオムニバスといえば、ブラッドベリの「火星年代記」のもととなった「ワインズバーグ・オハイオ」があるが、「海炭市叙景」もまた、そうしたジャンルの傑作であろう。この映画を見終わって、「ワインズバーグ・オハイオ」も「火星年代記」が映画化される日を期待したのである。
2011年05月09日
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必死になって生きていこうとしながらも、その必死さが賞賛やプラスの評価ではなく、どこか痛々しさや残念さを感じさせる人物、本来の自分のキャラクターと逆方向を必死になって進んでいる勘違いの人物を演じて一番の俳優としてはまず、永作博美をあげておきたい。以前、題名を忘れたが、あるテレビドラマでもそのような人物を好演、あまりにもぴったりと演じていたのであるが、「八日目の蝉」の希和子は、まさに永作博美のためにあるような人物ではなかろうか。そして千草を演じる小池栄子もまた、その永作に匹敵するほどの痛々しい人物を見事に演じている。この作品は、この二人が支えているようなものだ。この二人にもっと活躍の場を!
2011年05月07日
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映画が始まって、この映画が松竹配給であることを知る。考えてみると、日本映画が地方都市に独自の映画館ではなくシネコンで上映されることになって以来、個々の作品に映画会社の個性が感じられないのである。この映画会社の個性の喪失は80年代あたりから見受けられ出し、シネコン登場以降は、ほぼ完全にその状況が定着した。松竹映画といえば、「家族」が重要なテーマ。この作品は伝統的な松竹映画のイデオロギーを更に深く考察し、あるいは別の角度から皮肉な見方をした内容と言えよう。「母親とは何か?」、「家族とは何か?」というテーマの考察である。物語の舞台が小豆島になって、この部分がこの母子の最も幸福な一時期であったことが描かれる。ここでは「二十四の瞳」が思い出され、そして育ての母との旅の描き方、その追想はまるで「砂の器」である。こうして松竹映画を代表する2作品を隠し味にして、オマージュを捧げつつこの映画は展開していくが、この映画の題名は「母なる証明」(同名の韓国映画の傑作があるが)が最適ではないかと思った。
2011年05月04日
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映画「のぼうの城」が公開延期となった。これは評判の小説の映画化であり、なかなかの豪華キャストで配給会社としても、劇場としても影響は大きいのではなかろうか?公開延期の理由は、映画の中での「水攻めのシーン」である。この水攻めのシーンは、時節柄上映するにはふさわしくない描写ではないかという観点から協議を重ねての結論であるという。しかし、「塔の上のラプンツェル」にも「ナルニア国物語・第3章」にも津波を連想させる水に巻き込まれるシーンがある。これらは見せ場にもなっており、実はかなりの迫力。こういう自粛はいつまで続くのだろうか?「のぼうの城」については、わずか500人の兵で豊臣秀吉方2万人の大軍に対抗した姿を描くという意味では、絶望的な状況にわずかな仲間で立ち向かうという「勇気」を与えるという意味では、まさに現在の私たちに必要なものを与える映画になっているという面も無視できないと思うのだが・・。
2011年04月23日
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山田洋次監督が新作の製作「東京家族」を延期したというニュース。これも東日本大震災の影響であるが、撮影が出来ない、資材がないという理由ではない。この映画のテーマである「現代の家族のありかた」が、今回の大震災によって変わるのではないかと山田監督が考えた結果であるという。監督によると「「今年の終わりまでこの国の様子を見て、脚本を全面的に見直したい」とのことである。この作品、もともとは今年12月公開であるので、お正月映画。松竹としては大きな決断である。山田監督作品といえば、必ず家族というものが描かれ、そこが彼の作品の核である。しかし、私にとっては、どのような状態でも理想的な家族が描かれており、この殺伐として世知辛い現代におけるファンタジーではないかと違和感を持ってみていた。それが、このような震災に直面したこの国の状況を見た上で脚本を全面的に見直すという。現実をふまえた上で山田監督が、どのような家族のあり方を描くのか、そして彼の理想がどのように描かれるのか大いに楽しみにした。山田洋次監督作品は優等生的なところが、決して好きではないが、毎回、見ている。好きではい私も感動させる、楽しませる何かがある。その発見が楽しみなのである。映画は、小津安二郎監督の名作「東京物語」を下敷きに、設定を現代に置き換えて描かれるという内容も楽しみである。撮影監督・長沼六男さんとのコンビ復活も期待したい。
2011年04月15日
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「森崎書店の日々」は私には非常に気持ちよい空気感を与えてくれる作品なのであるが、ひとつ疑問がある。それは主人公の貴子が偶然にも自分を振った男と再会する。そこから彼女は大きなショックを受け、やっと再生しようとしていた彼女にとってはまたもや生気を失くした日々に戻っていく。そんな彼女をみかねた叔父のサトルは、彼女からすべてを聞き、その男の自宅まで彼女と共に行き、謝罪させようとする。このシークエンス、本当に必要だったのか?現実においてこのような展開になるのか?このシークエンスは他の都会の片隅のファンタジーとは異質の世界になってしまったのだ。神保町の古本屋の世界のファンタジーが嘘くさいのではなく、この現実にありがちな男女の諍いとそれを調停しようとする人物の設定とエピソードの方がこの映画では嘘くさく感じるのである。この部分を描かなくても、貴子は叔父のサトルが決めることの出来なかった本の値段を自分で決めることが出来たのだから、それを再生のシーンとしてもっと強く描いた方が良かったのではないか。
2011年04月09日
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作品の中に流れる空気感がとても気持ちがいい。「珈琲時光」に似た感じの世界である。神保町の古本屋街が舞台であり、その世界独特の場所や空気、そして肌触りが見ていて気持ちいい。こんなところで働いて、あるいは住んでみたい、その中に存在するものと出会うことで、もっと自分を新しくできそうなそんな感じの作品であった。都会の片隅のファンタジーとも言えるかもしれないが、このようなファンタジーを語ることが出来るだけ、東京には多様性があるということであろうか。この作品の中に「価値を創りだせる人になりたい」というセリフがあるが、このセリフには強く共感。何かをやるときに、それに価値があるからではなく、まさにそこから新たな価値を見つけ、創り出すことが出来るかどうかが大事なのだと思う。それは「まちづくり」も同じことで、まずは発見すること、それが存在していることを感じとること。「存在していれば何かが見つかるかもしれない」ということを信じさせてくれるそんな映画であった。
2011年04月03日
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日本映画がつまらないのは政治的テーマに斬り込まないからだと常々思っている私にとって、議員人質と議事堂占拠やが描かれる「SP・革命編」という映画は、ある種、非常にそそられ、期待してしまう作品なのである。私にとって革命とは「連合赤軍」であり、姿勢としては反権力である。しかし、この映画におけるものは「革命」とはほど遠く、それは。どちらかというと「私怨」であった。議事堂を占拠して、現在の体制に刃向かうのであれば、それは革命と言うのかも知れないが、そこには「反権力」の姿勢は感じられなかった。その意味では、この作品が娯楽映画としてある程度の出来は認めつつも、それは薄味革命でしかなかったのである。しかし、尾形と井上の因縁の対立は非常に興味をそそられる。この二人の関係もこの作品では決着はついていない。「SP・革命編」の続編はあるべきだと思うし、いずれ、そこから真の「革命編」が出来ることも期待したいと思いたい。そのときに尾形や井上が革命軍の側に立つのか、どうかは予測が出来ない。だからこそ次を期待したいし、「SP」という微妙な立場が、この作品を興味深いものにしていることの意味を心に刻んでおきたいのである。国会議事堂をバックにした尾形と井上の対決は、非常に意味深いものであると思う。
2011年03月29日
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前作がウォルター・ヒルの「ウォリアーズ」を隠し味にしていたが、今回は何だろうかとそれを楽しみに見る。見ながら、議事堂内の占拠とその攻防となり、これはロバート・アルドリッチなのかと思い、最後にはおそらく首相人質で「合衆国最後の日」を隠し味にするのかと思わせたが、今回は隠し味なしと判明。議事堂占拠の手順やアクション・シーンはそれなりに見せてくれるが、間延び引き伸ばし編集のせいか、いまひとつ緊迫感に欠ける。これなら90分程度にしてもいいのではないか。映画を見ていて、実は詳細が判らない部分がいくつか。シナリオの欠陥ではなく、どうもテレビの「革命前日」を見ていないと判らないようだ。さすがはフジテレビ。それでも、この物語は、まだ奥がありそうで、その部分から更に続編かスピンオフ編を作るのだろうか。さて、物語は「革命編」というタイトルに相応しく、国会占拠という大胆な行動が描かれるが、その後は、実はかなり退屈で緊迫感がない。閣僚に対してありきたりの質問では、全くつまらない。これで「革命」なのか?それとも「みんなが言っている革命ってこんなもんでしょう」という批判なのか?結末を言ってしまえば、首相以下全員が生き残り、悪はそのまま生き延びる。だからといって、そこにある種の無常観や権力の強さが描かれるわけではない。せっかくの題材が無駄になってしまった。
2011年03月21日
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「SPACE BATTLESHIP ヤマト」よりマシであるが、共通して言えることは主役がダメで、足を引っ張ったということである。どこがダメかというと、この山下智久という俳優(というべきか)には表情が全くないのである。ないというより「ひとつ」しかないのである。監督は一体何をやっていたのか?矢吹丈にはボクシングに熱中しているとき、丹下段平に接するとき、力石と対峙するとき、ドヤ街の子どもたちと一緒いるとき、それぞれに表情が違うのであり、そのいずれもが彼が生きていること、個性を表現しているのであり、その総体が矢吹丈の魅力なのである。その丈の魅力を表情の変化の出来ないこの山下智久がダメにしてしまった。表情がひとつしかない俳優としては広末涼子がいるが、彼女が白木葉子にキャスティングされなくて本当に良かった。この作品、セット美術もよく、香川照之、伊勢谷友介、香里奈は良かった。カメオ出演のような倍賞美津子が印象に残る。この作品、続編を創るつもりなら、主役を変えてやるべきであろう。
2011年03月20日
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「バトル・ロワイアル」と「デスノート」を合わせたような内容であり、生と死を実感させようという意図のなかなかのシリアスな内容である。その中で就活中のやや無気力青年が次第にサバイバルに生き甲斐を見出す、あるいはダークサイドに堕ちたというべきか、その変化が面白い。作品は2部構成になっており、その変化が第2部で、どのようになって全体が完結するのかが興味がある。先に述べたように極めてシリアスな内容であるが、戦う相手は「ネギ星人」や「田中星人」や「おこりんぼう星人」などふざけたネーミングのキャラクターたちである。そんなふざけた相手との戦いで死ぬこともあるわけで、果たしてこんなことで死んでもいいのかと考えさせられるが、現実には、ある人物のお笑いのような思考妄想結果で戦争が起きることを考えれば、ネギ星人に殺されることも決してあり得ない話ではない。この映画、冒頭からテーマが語られる。「人にはそれぞれ与えられた役割がある」と言葉である。人気アイドルと注目の演技派スターの共演による人気劇画というパッケージであるが、その内容は意外と体制側にも有効な道徳的なもののようだ。
2011年03月06日
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白夜行」の雪穂と亮司に対して「悪人」の祐一と光代とを比較してみよう。どちらのカップルも逃亡者である。雪穂と亮司は社会の中で生きているように見えるが、それはあくまでも表面的なことで、実態は、亮司が雪穂をあのような形で支えていたということだ。彼らは自分たちが安らかに生きていける場を必死になって求めていたわけであり、それを実行していたのである。「悪人」の祐一と光代の二人も逃亡者であり、彼らは現実の社会から必死になって遠ざかることに意味を求めていたのである。祐一と光代には、自分たちの行動が悪であるという意識を持っていたと思われる。それに対して「白夜行」の二人には「悪」かどうかの意識はないのではなかろうか。彼らには悪とか正義とかの区別などどうでもよかったのではなかろうか?亮司が雪穂にとっての太陽であることだけが唯一の正しいことであったに違いない。
2011年02月02日
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映画「白夜行」を見て、思い出したのは映画「砂の器」である。この2作品は非常によく似ている。主人公たちの悲惨な子ども時代、そして一方が迎えようとしている栄光のとき。それを背景に語られる過去の日々と真実の姿。その語りを引き出すのは、主人公たちを追う刑事。彼にとっては退職しても忘れられないまさにライフワーク。主人公たちは、世の中から見捨てられたような存在であり、まさに二人だけで生きてきたのであろう。そんな彼らにとって、この刑事だけが、彼らの状況を理解したのであった。こうした登場人物たちの関係は「砂の器」そっくりである。もしかしたら、映画「砂の器」は、日本のミステリー映画にひとつのパターンを創ったのではなかろうか。このパターンの長所は、ミステリーとしての脚本や演出の拙さを、過去をセンチメンタルに描くことで観客を誤魔化すことができることであり、同時に観客はミステリー映画としての拙さに不快感を持たなくていいという、下手な脚本家と監督にとっては魔法のパターンなのである。
2011年02月01日
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雪穂が幼い時期に過ごした再開発からも取り残されたようなスラム街。昭和55年には、まだ戦後の貧しさを残した地域が残っていたのか。ざらついた画面や褪色したような色調が、その貧しさを更に引き立たせる。その中で悲惨な幼児期を過ごした雪穂と亮司の物語。これは復讐の物語というより、二人が表裏一体にならないと生きていけないと自覚した二人の悲劇的な人生を描いた物語である。二人とは言うが、実際には亮司の側の思いが強かったと思われる。最後、「私は知らない」とつぶやきつつ、栄光の場へと歩む雪穂の表情に、これからは一人で生きていくという決意の凄みが出ていれば、これはもっと優れた作品になったのではないかと思う。堀北真希という女優には、まだそこまでの力はなかったということだ。
2011年01月30日
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意外なことなのであるが、映画「DOCUMENTARY of AKB48 to be continued」について書かれたブログが少ないのである。シネマカフェやシネマトゥデイにトラックバックしているブログは3~4件程度である。人気絶頂、しかも社会現象になっているアイドルグループについてのドキュメンタリー映画。プロデュースは岩井俊二である。映画ブログを書くような人ならば、もっと注目してもいい作品だと思う。AKB48に関心を持つ人はブログを書かない。映画ブログを書く人はAKB48には関心を持たない。そんなことはないだろうが、不思議な現象である。私には、この映画、はやくも今年のベストテンに入れておきたいと思う1本である。
2011年01月29日
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私などはAKB48のメンバーについては、AKB48というグループのメンバーの一員という認識しかないのだが、彼女ら自身にとってはAKB48のメンバーと言われる前に、その中の「Aチーム」、「Kチーム」、「Bチーム」の一員であるという認識が非常に強いのである。そこにはチーム間の格差のようなものに対するプライドと対抗心である。ファンにとっては、このことは常識なのかも知れないが、私には初めて知ることであった。また、「芸能界に入りたくてAKB48に入った」というメンバーがいる一方で、「AKB48になりたくて、ここに入った」というメンバーもいる。この二者の間では価値観は大きく違ってくる。こうしたことをこの映画を見たことで初めて知ったのであるが、考えてみれば、こうしたことは当然のことかも知れない。どんな組織のどんなメンバーでも、その組織名で単純に括られるものではない。企業にしても、国にしても、同様である。
2011年01月25日
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実は、この私、AKB48というトップ・アイドルの存在は当然知り、前田敦子や大島優子という名前も知っているが、顔の区別が全くついていない。しかも、どんな歌を歌うのかについてもそのタイトルすら知らない。そんな状態なのであるが、この映画、大変に面白く見た。冒頭に昼食しつつおしゃべりに興じる彼女らを見せる。キャメラは彼女らの周辺を回りながら、まるで「レザボア・ドックス」のファースト・シーンを彷彿とさせる。つかみは見事。この種のドキュメンタリーでは、例えば、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は彼の歌をリハーサル風景も含めてたっぷりと聞かせて、その合間に彼の言葉でエンタティナーとしての彼の精神を我々に見せてくれた。この映画「DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 」では、彼女らの歌は、ほとんど登場しない。彼女らのアイドルとしてのステージの魅力を描くのではなく、その世界にいる10代から20代の女の子たちの生活と意見についてのモノローグ集である。それぞれの自分の現在と将来を語りながら、メンバー間の関係や葛藤なども窺える。それが実に面白い。まさにドキュメンタリーの魅力であり、劇映画以上のスリリングな味わいである。今は、日本中の話題にのぼり、トップにいるが、いずれ話題にもならないときが来ることを彼女ら自身が認識しつつ、それぞれの将来を模索している姿は感動的ですらある。この作品はAKB48のドキュメンタリーというより、2010年の日本のある一群の若者の姿を描いたドキュメンタリーというべきであろう。この作品のサブタイトル「10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?」が、この作品の核心であり、すべてである。
2011年01月23日
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2010年のキネマ旬報ベストテンが発表された。日本映画の1位は「悪人」で、2位は「告白」。この2作品は力作ではあるが、1位と2位になるほどの傑作であるのか?主人公二人が共に行動するに至る心情が説得力あるように描かれていたとは思えない。それは作品の出来としては致命的であったと思うのであるが、どうして1位になってしまったのか。
2011年01月14日
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この映画の中で草笛光子演じるおばばさまが「塵劫記」を読むシーンが登場する。ヒマさえあれば、読んでいるという感じで彼女にとっては、必携の愛読書のようである。この「塵劫記」とは、江戸時代の数学書でなかなかのベストセラーであったようだ。一種の数学クイズのような難問もあり、みなこれを張り切って解いていたらしく、このおばばさまもそうした一人であったようだ。その意味ではこの一家は代々、理数系の才能に恵まれた家系であったのだろう。そうした一族の知恵で家計の工夫で乗り切るまでは、ある意味では、明るいドラマであるが、明治政府の軍務会計方へと勤務することで、やがて坂の上の雲をめざす国の一員となっていき、その結果がどのようになったかは明らかである。個人の知恵が、国家の中に取り込まれていく終盤は、それまでの微笑ましさとは正反対のものとなって、決してハッピーエンドとはいえない終わり方である。
2011年01月12日
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何を今頃になって言っているんだと言われそうであるが、「龍馬伝」の話からしよう。本編は全く見なかった私であるが、年末に放映された「総集編」を部分的に見た。なるほど、龍馬と弥太郎というのは、対照的な性格という関係でありながら、コインの裏表であったということだ。また、お互いの存在を成立させているという関係であろう。「ノーウェアボーイ」におけるジョン・レノンの二人の母親は、実は一人の人間が持っている二面性を表現したものであり、その正反対のものが合わさって、ジョン・レノンという音楽家として結実したということではなかろうか。コインの裏表といえば、「相棒」の杉下と小野田もまたそうした関係ではなかろうか。どちらも、そうした関係であり、お互いの存在を成立させていたことをお互いに認識していたのではなかろうか。作品としては、その両者の対照性が魅力のひとつであったわけで、その一方を失った「相棒」はシリーズものとしては新しい段階に入ったということかも知れない。失われた魅力を「劇場版第3作目」では、どのように補完するのであろうか?
2011年01月11日
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劇場版第1作目は現実に起きた事件をもとにした社会派ドラマであったが、今回もまた同様の路線の力作である。娯楽性と社会性を両立させようとした意欲作であることは間違いない。意欲作であろうとした第一は、「絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」という予告編でも見せたこの台詞をテーマに設定したこと。このストーリーの軸に杉下と小野田の思想戦争がある。その為、こうした娯楽映画には似つかわしいセリフの洪水である。第二は「驚愕のラスト」である。このラスト、第3作は、定番の設定を排除して更に新しい「相棒」を作っていこうという意欲の顕れと見た。このラストには本当に驚かされた。
2011年01月08日
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このところ作った作品が作品評の上でも、興行面でもことごとく悲惨な結果に終わって、同期の根岸吉太郎とは大きく差をつけられた森田芳光監督。かっての流行監督の冴えは今いずことばかりの有様であったが、この作品は非常によく出来ていると思う。しかし、待てよ、この作品の良さは予定調和のものであり、ある下級武士の一家の赤字がいかに解消されて、ソロバン技術で次の時代を生きていくことが出来たという、赤字国家の現代日本をなぞらえて描いたことは誰にも判るもので、それゆえ鋭い批判精神など微塵もない。「家族ゲーム」で横一直線の食卓を描いて、現代家族の状況を描いた斬新な演出力はどこへ行ったのか?(今回も同様の場面は登場するが、何の効果もない)「のようなもの」や「ときめきに死す」の新しさはどこに行ったのか?批判力や破壊力を失って単にウェルメイドな作品を作るだけなら、森田芳光である必要はない。この監督には、かって松田優作を使いこなしたように、堺雅人というユニークな俳優の新生面を引き出すことは出来ないのかも知れない。今や、流行監督から凡庸監督のレベルに入ったのではないか。
2011年01月04日
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「ノルウェイの森」が出版されたのは1987年。そこからベストセラーとなり、今やロングセラーと言われる本に。この読者層の中心はおそらく若者たちであろうが、実際のところはどうなのであろうか?私には、この小説は、その後にブームとなるテレビのトレンディドラマの延長にあるような印象が強いのも、この本の読者の主体が若者ではないかという、これも勝手な印象と推察からである。ところがこの小説の舞台は学生運動が吹き荒れた1969年という時代で、しかも主人公は大学生。近く映画も公開される川本三郎の「マイ・バック・ページ」と同時代なのである。私は原作は少しだけ読んで、あまりの退屈さに放棄したが、映画は最後まで見た。それでも全く共感できなかったのは、あの時代の匂い、苦悩などが全く感じられなかったからであろう。原作者や監督に言わせると、「この作品はそういうものだ」ということになるのであろうが、映画を見る限り、この作品の舞台が1969年である必然性が全く感じられない。
2010年12月25日
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1995年に作られた「ひめゆりの塔」や「きけ、わだつみの声」がほとんど説得力がないのは、シナリオや演出力以上に演じている俳優たちにリアリティがないからである。食料もなく、死と隣り合わせにいる人物たちを、豊かな時代のトレンディドラマを演じている俳優たちが演じても、いくらメイクや減量で努力しても時代の表情を表現することは出来ない。その意味ではもはや戦中も終戦直後を描いた作品も「時代劇」なのである。「三丁目の夕日」もそれに近く、映画「ノルウェイの森」を見ると、60年代末の安保沖縄、全共闘、アングラ、サイケの時代ももはや「時代劇」だと言わざるを得ない。映画「ノルウェイの森」を見た後、あの映画、水準以上の力作であったにも関わらず、どうして入り込めなかったのはを考えて、思い至ったのは、俳優たちの表情や雰囲気なのだ。松山ケンイチも菊地凛子も、あの時代の雰囲気から遠いのである。彼らを見ている限り、舞台が現代であってもいいのではないかと思わせる。それでは困るのである。
2010年12月23日
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「ノルウェイの森」という映画は、私にとっては、映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」と同じくらい評価は低い。但し、評価の内容は全く違う。「ヤマト」が全く映画として不出来であったのに対して、この「ノルウェイの森」は共感を得ることができなかったということだ。共感を得るまでの表現力がなかったのかも知れないが、とにかくダメであった。原作は文庫本で出たときに10ページほど読んでやめた。読み続ける魅力を全く感じなかったからである。さて、この映画を見て感じたことであるが、登場人物の誰もが非常にややこしい、やっかいな人間ばかりで、こんな人間がそばにいたら嫌だと思わせるような、決してお友達にはしたくないような人間ばかりが登場したなという感じである。(現実の私の周辺は、実は、もっとやっかいな人たちばかりであるが・笑)村上春樹の小説というのはこういう人物ばかりが登場して、更に、あのもってまわったような文章で語られるのであろうか。それなら、これまでこの人の作品を途中で放棄してきたのもよくわかる。ワタナベという人物には全く魅力を感じない。彼の口癖である「もちろん」という言葉は、この言葉を出すこと自体が相手に対して不誠実であり、その場の会話をスムーズに流すことだけを考え、その不誠実さを全く理解していないというそんな人間がワタナベである。サラリーマンにはよくあるタイプである。この映画の評価は低いが、原作を読む必要はないと判っただけでも収穫である。
2010年12月21日
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この映画において、ガミラスとイスカンダルとが表裏一体という設定は、憲法九条を持ちながら、米軍の戦争体制と一体化している日本みたいであり、なかなか面白く、社会批評にも通じる設定であるが、実は、この設定こそがこの映画をつまらないものにしている。社会批評を主体にした作品を作ることも当然ありなのであるが、この作品はそのようにはなっていない。あくまでも戦いをテーマにした構成になっており、ガミラスとイスカンダルの表裏一体の設定とは整合性はない。敵をいかに憎々しく、悪の魅力を描き出すかはこの種の作品には必須の要素であるが、この映画「SPACE BATTLESHIPヤマト」は、それを放棄してしまっている。これは木村拓哉という主演俳優がダイコンである以前に、つまらない作品になることが約束されたようなものである。
2010年12月15日
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ささきいさおが歌う「宇宙戦艦ヤマト」には非常に高揚感がある。それは、ささきいさおの歌唱力や歌詞だけにその力があるのではなく、メロディーにもその情念を感じさせるからであろう。この映画でも、そのメロディーがクライマックスで使われるのであるが、それは全く効果をあげていない。これは戦いの映画である。戦いの映画には、戦いの理由への共感と戦いを行うにあたってのシンボル(ここでは「ヤマト」)が必須である。ところが、ここにはそれらが全く欠如している。そもそも「ヤマト」そのものが、唐突に登場して、それが、何故、人類の希望なのか、何故、ヤマトを頼るのかが、全く描けていない。この映画は、構成としてイスカンダルに旅立つまでが、あまりにも端折り過ぎ。まるで予告編である。「忠臣蔵」が討ち入りから始まって観客の共感や感動を得ることが出来るかどうか?「ひまわり」のラストの別れのシーンが何故、悲しいのかは、単に、それが愛する者同士の別れシーンだからではない。その前のエピソードの積み重ねこそが、その効果を出すのである。もうひとつこの映画に欠けているもの。それは敵の存在である。敵を具体的に描くことができなかったことは致命的である。あらゆる観客の共感を得る「敵の具体的な描き方」は、もしかしたら、今の時代には不可能なのかも知れない。それは「死刑台のエレベーター」が2010年では、その状況設定が不可能に近いのと同じことかも知れない。そうしたことを含めて、この映画を創ろうとした人々に創意工夫の努力以前に、この「宇宙戦艦ヤマト」という貴重なコンテンツへの愛情はあったのだろうか?
2010年12月12日
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命令違反により営倉にぶち込まれる古代進。このまま古代進が登場しないドラマというよりスタッフの誰かが木村拓哉を控え室に閉じ込めておくか、自宅に軟禁しておけばよかったのにと思うほどに、この映画の出来の悪さを彼が一手に引き受けている。一体、監督は何をやっていたのだ?
2010年12月11日
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「いつか読書する日」の主人公たちは、自ら定めた人生のルールを他人から何と言われようと、ひたすら守って、愚直に生きる人々であった。この「死刑台のエレベーター」の主人公二人もそのような人々の物語である。「いつか読書する日」では、お互いの想いが通じて、それぞれの心に向かい合うことが出来たときに、突然に永遠の別離が訪れる。そして、「死刑台のエレベーター」では、もしや、約束を破ったのではとか裏切ったのではとか不信の念にかられながらも、真実の姿を知ったときに「別れ」が訪れ、再会までの孤独の試練が待ち受ける。緒方明監督は「死刑台のエレベーター」のリメイクを行いつつ、実は「いつか読書する日」のサスペンス・ミステリー版を作っていたのではなかろうか?
2010年12月03日
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ルイ・マルの「死刑台のエレベーター」は、まさに映画史に残る大傑作であり、これと今回の緒方明作品とを比較すること自体は全くのナンセンスである。比較の結果は自明である。映画は時代の産物であるとすれば、この物語の設定が現在でも成り立つかどうかは、重要なチェックポイントである。もし、それが成り立たない場合、脚本や演出がそれをどのようにカバーしているかである。それが出来ているなら、この作品は合格であろう。主人公に秘書がついていて、何故、会長に秘書がいないのか。定時後にはビル全体の電源が落ちるようになっているが、最近ではどこの会社もサーバーが設置されていて、ある時刻以降は電源が落ちるという仕掛けを持つことはないのではないか。そもそも主人公が勤務しているのは「国際医療ボランティア団体」である。仮にエレベーターに閉じ込められることになろうとも、現在では、携帯電話があるではないか。そこでこの作品では、主人公が携帯を忘れる状況を設定をしているが、この部分は非常に不自然。外国の政府要人を警備中の警官が、ただのヒラの警官とはいえ、銃を所持したまま行方不明になったら、これはもっと大騒ぎになるのではないか。このように考えるとこの作品の条件設定は不自然。その不自然さを脚本と演出もカバーしていないし、そもそも出来ないのではないか。もはや、この物語は2010年には無理なのかも知れない。最後の項は、このような状況設定を行った脚本自体が杜撰としかいいようがない。
2010年12月01日
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原作は非常に評価が高いようで「このミステリーがすごい」では絶賛の嵐のようであったが、私は読んでいない。さて、映画であるが、いかにもノワールタッチの色調と画面展開でハードボイルドぶりを見せてくれるが、それはあくまでスタイルだけのことで作品としての完成度は低い。劇中で小西真奈美扮する人物が主人公に「あなたは国語の教師のくせに言葉をきちんと使っていない」という趣旨のセリフを言う場面がある。つまり自分の意思をきちんと言葉で言えということであるが、このことはこの映画全体にも言える。映画なのだから、きちんと映像とセリフで伝えろよということだ。テーマに関わるキーとなるセリフや映像がないのである。映画において省略は必要であるが、この作品の場合は単なる「手抜き」であろう。ラブストーリーなのか、ハードボイルドなのか中途半端ではないか。「顔」、「闇の子供たち」のあの異様なまでの集中力を持った阪本順治はどこへ行った?
2010年11月20日
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