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発表当時は、ベトナム戦争後遺症に苦しむアメリカの姿を直視し、ストレートに描いたことが高く評価された作品であるが、今の時代に見ると、これはベトナム戦争後遺症に悩むアメリカというより、まさに現代の日本を描いた作品ではないかと思わせる。秋葉原無差別殺傷事件の犯人は、まさにこの作品の主人公トラビスではなかろうか?これは、コミュニケーションが出来ない、しかし、溢れるような思いや苦悩、そして社会への不満が満ちているにも関わらず、それを分かち合う相手や仲間を得ることの出来ない人物の行く末を描いた作品である。その意味で、この作品は現代日本の姿を描き、我々が最も見るべき作品ではなかろうか?私はトラビスの気持ちに共感を抱いた。我々は、もしかしたら、誰でもトラビスになりうるのではなかろうか。
2011年04月17日
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「卒業」という映画は非常に不思議な映画である。これはアメリカン・ニューシネマの代表的な作品と言われている。アメリカン・ニューシネマにはベトナム戦争や人種問題の影が描かれているのであるが、ここには同時代を描いているにも関わらず、全く、それが感じられない。しかし、そのことがかえって、この物語がいつの時代にも通用するものであるという観客への説得力を増しているような気がする。この作品は「俺たちに明日はない」、「イージー・ライダー」、「明日に向かって撃て!」などに比べると衝撃度としては低いかも知れないが、この映画が醸し出す雰囲気はいつの時代にも通用するものであることがわかる。「午前十時の映画祭」では、続いて「タクシー・ドライバー」が公開されるが、時代的にはこちらはアメリカン・ニューシネマの終焉的作品である。この時代に「卒業」と見比べることでこれらの作品からどのような発見があるのだろうか、楽しみである。
2011年04月14日
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「カルメン 3Dオペラ」を見たので、この「カルメン」の物語について書いてみたい。「カルメン」の物語をそのままマカロニウエスタン風に翻案した作品がある。「裏切りの荒野」というフランコ・ネロ主演の作品でカルメンにはティナ・オーモン。クラウス・キンスキーも共演。この物語は一人の女の魅力にとりつかれて身をもちくずし、滅んでいく男の物語で、「嘆きの天使」はこのパターンの踏襲である。この物語はホセの立場からの物語であるが、ミカエラからの立場にたてば、男というもののだらしなさを描き、かなり男に対して批判的な物語になるのではなかろうか。カルメンの立場にたてばどうだろうか?この場合、彼女をことさら悪女に設定する必要はなく、ホセはどうしようもないストーカーになってしまう。普通の女性のカルメンにストーカーのホセという物語も、なかなか面白そうなのであるが、そこに燃えるような恋心という要素を入れるとトリュフォー映画にでもなりそうな感じである。こんな作品、どこかにあったようなのであるが・・・?
2011年04月12日
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実際のオペラの舞台を映像化した作品である。舞台に対して定点観測のようなキャメラの置き方ではなく、比較的自由に舞台の上を動いているのが大きな特長。「カルメン」自体が優れてた作品であるので、私としてはめったに見ることの出来ないオペラを鑑賞しているつもりで堪能でき、満足感を得たが、わざわざ3Dである必要は感じない。通常版のオペラ「カルメン」の映画版であっても、満足度は変わらないのではないか。「3Dオペラ」にした意味はどこにあったのか?3Dブームにのって、オペラの映画版はどうなのかという程度の意図なのかも知れない。映画としては大変満足。土曜日の昼間に私を含めて観客は3名。極めて贅沢な鑑賞であった。
2011年04月11日
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エクソシストというものがバチカンにおける正式な職業だと聞いて、最初はおっと思うが、考えてみれば、当然のことであろう。麻薬の潜入捜査官が正式にいるのと同じである。この映画は異端ではあるものの、一流のエクソシストであるルーカス神父を主人公にしてのエクソシストの闘いを描いたものであるが、見せ場は、ルーカス神父を演じるアンソニー・ホプキンスの怪演にあることは一目瞭然。そのねらいは見事なのであるが、それだけに終わってしまい、意外性はない。共演者の存在感がさほどでもなく、単調なのである。ほとんどホプキンスの一人芝居という趣きで終始する凡作。アンソニー・ホプキンスという俳優は極めて多様なキャラクターを演じることのできる演技派なのであるが、最近はこの「ハンニバル路線」専門になってしまったようで、残念である。
2011年04月10日
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「しあわせの雨傘」は女性の自立を描いた、あるいは女性対男性の覇権争いを描いた作品と言っていいと思うが、もうひとつの側面として、これは主演女優であるカトリーヌ・ドヌーヴ賛歌でもある。監督の彼女へのリスペクトが映画のすみずみまで表現されている。ここで思い出すのはダスティン・ホフマンの「新しい人生のはじめかた」。エマ・トンプソンと共演した冴えない中年の再生と出発の物語。ここでは、ダスティン・ホフマンの過去の作品の要素を巧みに織り込んで、彼へのリスペクトに満ちている。二人ともそれに値するキャリアと俳優としての魅力があるということであろう。共にそれぞれの国の映画史において新しい歴史を生み出した作家に起用されている。
2011年04月08日
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映画「卒業」の中で主人公のベンが、潜水服を着せられて彼の呼吸音が響くシーンは、思わず「2001年宇宙の旅」のある場面を連想させる。式場の教会にベンがたどり着き、ガラス越しに叫び、エレンが周辺の両親や結婚相手を見たときに、彼らがベンをののしる表情を音声なしで見せるシーンは、HALの読唇術のシーンを連想させる。おまけに動物園では猿のシーンが。考えてみたら、「卒業」も「2001年宇宙の旅」も共に1968年公開である。製作過程でマイク・ニコルズがキューブリック作品に影響を受けたかどうかは判らないが、この共通点からみると、この作品は、あの二人のその後の人生の旅の始まりを描いたものだと解釈する方が面白いのかも知れない。
2011年04月07日
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この映画を改めてみてびっくりしたのはタイトルの出演者の序列。トップは物語の主人公ではないが、アン・バンクロフト。これは当然かもしれない。登場人物の序列ではなく、スターとしての知名度やキャリアの序列である。撮影監督がロバート・サーティースであったこと。てっきりウィリアム・フレイカーかハスケル・ウェクスラーかと思っていたら(その前に「バージニア・ウルフなんかこわくない」がある)、典型的なハリウッド映画を支えたベテランキャメラマンであったロバート・サーティースであったとは、ある種の驚きである。ほとんど自然光か実際の室内灯だけで撮ったような画面にはまさにアメリカン・ニューシネマの絵づくりが息づいている。こうした柔軟性が、彼がハリウッドで長期にわたり第一線で活躍できた要因なのであろう。
2011年04月06日
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カトリーヌ・ドヌーヴ主演作が続けて公開された。「隠された日記・母たち娘たち」と「しあわせの雨傘」であるが、どちらも「女性の自立」をテーマにしているが、表現の形態は正反対である。前者は、あくまでもシリアスドラマに徹して、後者は歌と笑いの中でドラマが進む。「しあわせの雨傘」は雨傘工場が舞台であり、しかも彼女の代表作「シェルブールの雨傘」に因んでの邦題であろうが、この場合は原題の「飾り壷」がぴったりである。ジェラール・ドパルデュー共演ということで、「終電車」へのオマージュも感じられるが、この二人がディスコで歌って踊るとは大サービスである。さて、「女性の自立」とはよくテーマになるが、そもそも女性が自立できていないということは男性もまた自立していないということではないか?この作品で、ドヌーヴ演じる主人公がどんどんと経営者として存在感が増していくに対して、その夫があわて、対抗する姿は、まさにその証拠ではなかろうか?この作品、女性の自立を描きつつも、その対極にある男性のあわてぶりを皮肉を交えて描いた作品ではなかろうか?私生活では、自分の思うがままに生きてきたドヌーヴだからこそこの映画には説得力があるのだろう。
2011年04月05日
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まるで映画製作前のストーリーボードの絵を実写化したような作品で、コクがなく極めて大味の作品。しかし、あれだけの個性派俳優たちを揃えながらも大味以下のジャンク作品になってしまった「20世紀少年」に比べるとはるかに上出来である。これは比べる相手がまずかったか。私が見たのは2D・吹き替え版で、どういうわけか吹き替え版というものはチンケなものに感じられてしまう。そんな作品でも印象に残るセリフはあるもので、「あなたの価値を見つけなさい」というもの。前日に見た「森崎書店の日々」では「価値を創り出せる人になる」というセリフがあったが、「価値」という単語が共通したテーマになっているようだ。映画は時代の鏡と言われるが、私たちは「価値を見出すこと」や「価値を生み出すこと」を忘れているのかもしれないという警告ではなかろうか。両極端の2作品に同じキーワードがあるということが非常に印象に残るが、「ナルニア国物語・第3章」は、冒頭に書いたように不出来ではあるが、夢を願えば、それは必ず叶うなどというノーテンキなビジネス書のようなアホなことは言ってはいないまともな志を持った作品ではある。
2011年04月04日
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今週の「午前十時の映画祭」は「山猫」である。この映画、何度見ても常に新しく様々な表情を見せてくれ、常に発見がある。特に、舞踏会のシーンは、何度見ても素晴らしい。この中で、様々に視点が変わるのである。全体を眺める神の視点サリーナ公爵の視点タンクレディの視点が交互に変化しつつも流れはスムーズである。編集の見事さなのか、それとも撮影監督の演出技術なのか、監督と撮影監督のコラボレーションの見事さなのか。こういう発見にいちいち感動することで、名作を見た快感を味わっている。
2011年03月30日
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育ててくれた母親が誘拐犯であったという設定は、まるで「八日目の蝉」ではないか、というよりは「ラプンチェル」の方が先なので、「八日目の蝉」が影響を受けて作られたというべきであろう。誘拐されて閉じ込められた姫その彼女を外は危険だからといって外に出さない母親ここで注目すべきは、ここ誘拐犯は彼女を虐待しているわけではない。彼女の髪は魔力を持つ彼女が幽閉される塔に入り込むことになる無法者の男その彼によって彼女は外界に出ることが出来る。そして彼の命を救うために彼女の髪が必要になったそのとき・・・というエピソードは現実社会の何かを表現しているようで、あることの寓話にもなっているようなのだが、残念ながらそこまでは読み取ることは出来なかった。私が見たのは通常版の日本語吹き替え。もし、オリジナルで見たら、歌の部分など圧倒的なエネルギーであったはずで、残念であった。ストーリー展開も面白く、ラストはなかなかいいのであるが、3次元グラフィックのような人物の造型や肌触りなど人工的な感じが私はあまり好きにはなれない。やはり以前のセル画の手作り感が好きである。
2011年03月27日
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昨日の「『ヒアアフター』の上映中止に思う」について3名の方からご意見をいただいた。ありがとうございます。それぞれに納得である。これについての「正解」はないのだと思っているが、もし、私が映画館の支配人であったり、配給会社の経営者であれば、どのような判断をするのだろうか?その場合は、営業面など様々な要因や思惑が絡んで、私個人の考えとは違った結果になりそうである。この問題の根本には個々人の感情の問題があるが、「人は悲しみや喜びを他の人々といかに共有できるか」という問題として考えることが出来ると思う。また、「悲しみや喜びを、どこまで、どのように人に強制できるか」ということでもあろう。大変にやっかいな難問である。私としては、出来るだけ多方面からの考え方を学びたいと思っている。その意味で3名の方のご意見、大変に有意義であり、感謝です。この問題、改めて書いてみるつもりである。
2011年03月18日
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この作品、アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップの共演という点も注目であるが、監督が「善き人のためのソナタ」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクであるという点にも注目したい。わけが判らないままに逃げ回る主人公と結局、謎のままに終わるアレキサンダー・ピアースという人物という設定に現代社会への裏目読みが出来るのかも知れないが、ヴェネチアの風景を背景にした物語を楽しめれば、それでいいという感じ。敏腕監督が2大スターを迎えて、余裕で撮ってドナースマルク監督がハリウッドデビューするにあたり、「ご安心下さい」と名刺代わりに仕上げた作品とでも言っておこう。次は「アンダルシア」らしいが、「アマルフィ」も青山真治か橋口亮輔あたりでこんな感じで撮ってもらえば、良かったんだけどね。
2011年03月14日
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東部からやってきたマッケイを牧童頭のリーチが迎える。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンが顔を合わせ、並んで馬車に乗っているシーンは、まさにこれからのアメリカ映画を背負って立つ二人を見せるという意味で、意気軒昂なキャスティングである。この二人にバール・アイヴスとチャールズ・ビックフォードが共演しているところがキャスティングの妙であろう。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストン。二人とも大スターでありながら、片方では大根役者と揶揄されることも多いのであるが、彼らの作品を見る限り、それは「偉大なる大根役者」というべきで、出演しているだけで作品のスケールアップを感じさせるそんな役者である。現在のアメリカ映画に、この二人に相当するようなスターはいるのだろうか?ところで、この作品のタイトルで荒野を走る馬車の車輪が見事なグラフィックとして使われているが、これは、もしかして宮川一夫のキャメラによる「無法松の一生」を連想させるが、その影響を受けたということは考えられるだろうか?
2011年03月11日
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テリル家とヘネシー家の激しい対立の中にテリル家の娘の婚約者として東部からやってきたジムが到着早々に手ひどい嫌がらせを受けたことの報復として、テリル家の牧童たちがヘネシー家とその集落を襲うシーンは、正義の名の下に他国への軍事行動を起こす現代のアメリカの姿がかぶさってくる。映画は1958年に作られたものであるが、現代にも通用する批評性を持った作品と言えるであろう。テリル家のヘネシー家への行動がテリル少佐の個人的な戦争であると断じている点など、まさに現在の戦争ビジネスそのものを言い当てている。「大いなる西部」は映画が持つ時代の先取りと予言性を見事に発揮している。
2011年03月10日
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「禁じられた遊び」(52年)と「大いなる西部」(58年)では、それぞれ主人公が身を寄せる一家は対立する一族とそのグループがあった。「禁じられた遊び」では隣家とは反目しあっている。「大いなる西部」では水源をめぐって、その隣接する家族と対立していた。「禁じられた遊び」での隣家との対立は、「大いなる西部」の対立に比べるとさほどシリアスではないと思えるが、戦時中であることを考えると、思わず考えさせられる。第二次大戦が終了したが、世界は米ソという2大国の対立の時代となってきた。おそらくそうした時代背景が、これらの作品には反映されているのであろう。
2011年03月09日
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少女と少年との二人だけの十字架集めという遊び。二人だけの秘密の場所での秘密の遊びという。「シベールの日曜日」は、この「禁じられた遊び」からインスパイアされたものかも知れない。ラストは少年の名前と「ママ!」と叫びながら雑踏の中に消えていくが、あれから彼女はどうなったのだろうか?アントワーヌ・ドワネル少年も鑑別所を脱走して海辺へとやってきてそこに佇むのであるが、あれから少年はどうなったのだろうか?「大人は判ってくれない」のラストは、もしかしたら「禁じられた遊び」のラストから影響を受けたのかも知れない。ルネ・クレマンとトリュフォーは新旧の相容れないライバルであったのだが・・・。「禁じられた遊び」は、観客は少女を中心に見るのであるが、少年の立場からもまた、言いようのない悲劇なのである。ある日突然に彼の前に現れて、心が通い合った少女の存在は非常に大きかったのではないか。パリから来た少女は、少年にとっては新しい世界へと導く存在ではなかったのか。その彼女が理不尽にも奪われていく。十字架を川に捨てるシーンにはその悲しみが強く描かれている。この別れは死別ではないが、あまりにも残酷だ。
2011年03月07日
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この作品は一種の「バディ・ムービー」と考えていいのではないか。変形版とみてもいいと思う。ニック・ノルティとディ・マーフィーの「48時間」やロバート・デ・ニーロとチャールス・グローディンの「ミッドナイト・ラン」のようなものだ。映画を見ている間、以前にも、このような作品を見たことがあるなと気になっていたが、映画を見終わって、先日、亡くなったピーター・イェーツの「ドレッサー」がよく似ていることを思い出した。こちらは我侭な舞台俳優と付き人の物語。この種のドラマには二人の人間関係に大きな特徴があって、いってみれば呉越同舟。それだけではなく、一方が優位にありながら、そうでない人物に生殺与奪の権を握られているという関係がある。社会的な上下関係がオールマイティではなくなることが示される。黒澤明の「七人の侍」では、侍たちと農民たちのそれぞれの集団間においてそのような関係性が見られる。この種のドラマにおいて、そのような不安定な関係にありながら、目的を成し遂げることが出来るのは相互の信頼感によるものである。但し、「七人の侍」には、その「信頼関係」は全く見られない。「ドレッサー」ではどうであったろうか。「良い舞台を」という目的意識だけが共有化していたのであり、そこには人間と人間の信頼関係があったとは思えない。では、この「英国王のスピーチ」においてジョージ6世とライオネル・ローグの間に信頼感はあったのだろうか?映画の中の後日談では終生、信頼し合っていたと語られるいるが、映画の中では、私は、そのような感じは受けなかった。本当はどうだったのであろうか?
2011年03月04日
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私は、この映画を好きになれない。よく出来ているだけに好きになれない。今日はそのことを書いてみる。この映画のクライマックスをどこに置くかであるが、王位継承時の宣誓が散々なものであった後の戴冠式での宣誓がスムーズであったことで終了でも良かったのではないか。そこがクライマックスで終幕でも十分に物語としての構成は良かったはずである。しかし、この映画は、その後の「戦争スピーチ」をクライマックスに持ってきた。相手がヒトラーであるということで見る者の批判ができにくい設定であるが、戦争を始める、多くの国民の生命を奪うかもしれない宣言が感動のクライマックスであるというこの無神経な演出に私は違和感を覚える。イギリスにとって戦争は勝利であったが、そこに悲劇はなかったのか?歴史的事実として映画に描くならば、そこには歴史に対する作家としての批評性があってもいいはず。そのようなものは全く感じられない。そもそもこの「戦争スピーチ」には全く感動できるものがない。この映画の製作者たちには全くその意図はないのであろうが、こうした作品が国威発揚や戦意高揚に利用される可能性は大きい。よく出来ているだけに、また善意の物語だけにこの作品が人々に容易に受け入れられると思う。だからこそあからさまなプロパガンダ映画より危険である。以上が私がこの映画を好きになれない理由である。
2011年03月02日
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最近はすっかり怪容貌コスプレ女優となってしまったヘレナ・ボナム=カーターが、今回はごく普通のメイクと衣装で登場しているではないか。彼女をはじめとしてこの作品の出演者たちはなかなかすごい。単に演技力があるというだけではなく、そこに怪演という個性が備わった俳優たちである。名優という以上に怪優というべき人々である。主役のコリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、デレク・ジャコビ、マイケル・ガンボンという面々は、まさに怪優である。そうした俳優たちの中に映画史を体現する女優クレア・ブルームが顔を見せる。こうした俳優たちによって生まれた作品「英国王のスピーチ」は決して変格とか一風変わった作風というものではなく、ある種の格調を感じさせる作品となっている。これがこの作品のすごい点であり、これらの俳優を見事にコントロールしたトム・フーパーの手腕の成果であろう。
2011年03月01日
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「最後の西部劇」という触れ込みの作品は、いつの時期から登場するようになったのであろうか。1958年のこの作品は、もしかしたら「最後の西部劇」と評するに相応しい内容ではなかろうか。「最後の西部劇」というより「ニューシネマの西部劇のさきがけ的作品」というべきであろうか。それほそまでにこの作品はそれまでの西部劇と比較すると異色なのである。まず、登場人物にガンマンは登場せず、主人公はアメリカの新しい時代を代表する東部の船乗り(船長)である。物語はこの東部の人物の視点で語られる。原題の「ビッグ・カントリー」は、開拓される大西部を表現する言葉であるが、この物語では皮肉まじりに否定的に語られる。ここではむしろ西部開拓の精神は誇り高いものでも何でもない。ビッグ・カントリーを体現しえきた二つの集団のリーダーの対決が狭い峡谷でなされるのも、そうした皮肉を示すものである。アメリカ映画の典型的なジャンルである西部劇では、50年代末期において既に新しい胎動が生まれつつあったのだ。
2011年02月28日
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死後の世界とは映画の題材としては異色であり、際物と見られがちであるが、イーストウッド監督作品としては特長のひとつである。「荒野のストレンジャー」では、復讐の為に死神として蘇ったガンマンが主人公であり、少女の祈りに応えてやって来た神の使いとしてのガンマンを主人公にした「ペイル・ライダー」という2作品がある。しかも彼の世界の核である西部劇。「パーフェクト・ワールド」は、主人公の死の間際から物語は始まる。そのような過去の作品を考えると「ヒアアフター」は、彼の作品の特長が発揮されているといえよう。しかし、この作品では臨死体験や霊能者の正当性を論じたわけではない。それは物語を進める要素のひとつにしか過ぎない。「ヒアアフター」には、人が人を想う心の優しさや本当に心と心が通い合う者同士が出会うことの尊さこそが、そもそものテーマであろう。それを力強く描く為に臨死体験や霊能者を使ったということであろう。「ヒアアフター」においては、これらはもしかしたら、マクガフィンなのかも知れない。
2011年02月22日
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この映画でも「ヒアアフター」と同じように非日常のとんでもないものが登場する。こちらは天使が登場し、物語の最後には人間になるのである。もっとも天使の登場をとんでもないものの登場と考えるのは、私が日本人だからであり、欧米の宗教観では、それは自然なものかも知れない。それにしても、「ヒアアフター」の死後の世界、「約束の葡萄畑」の天使を描いても作品としてはファンタジーになることなく、ごく普通の人間ドラマになるのは、どのような演出術なのか、驚くばかりである。この作品はサブタイトルにある通りワイン造りの物語である。ワインというものは造る人間の個性や人生観が反映されるようなのである。日本の場合、酒造りや米造りというものは、その人の個性が反映されるのであろうか。主人公は天使の導きによってワイン造りを行い、成功するのであるが、その一方で彼にふりかかる様々な苦難から彼を救うことは決してしない。そのような設定が私には意外であり、なかなか面白く、天使というものは万能の神ではないということを知るのである。そして、天使は人間になり、ワイン醸造の場で働くことに。それは、まるで主人公の後を継ぐような感じである。そのような設定が実に違和感なく物語の中に納まっていることが非常に興味深いのである。
2011年02月21日
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ともすれば、変な映画、オバカ映画の類になりがちな題材であるが、最後まで格調高いドラマ展開で観客をひっぱっていくその力量、そして、冒頭の迫力とリアル感に満ちたスペクタクルシーンを途中からは忘れさせる演出は、映画監督イーストウッドが一流の監督であることを今更ながら認識させる。霊能者、臨死体験をした女性、兄を亡くした双子の弟のドラマが国を超えて、並行して語られながら、最後につながっていく、その過程が面白い。人にとって最も貴重で得難いものは「同志」との出会いであろう。ラストの二人の出会いには、それを感じさせる。ラストの感動は、おそらく同志の出会いがもたらすものであろう。別離ながらも「信頼」のメッセージが込められた「ローマの休日」のラストシーンに匹敵する感動のラストである。
2011年02月20日
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ベン・アフレックという俳優については、私には「アルマゲドン」と「パール・ハーバー」という2大マヌケ映画に出演していることから、ほとんど評価が低く、評価外のアウトの部類なのであるが、「ザ・タウン」のような映画を監督できることで少し評価アップである。正直なところ驚いた。彼は「レインディア・ゲーム」という作品に主演している。これはジョン・フランケンハイマー最後の作品。この中で彼は刑期を終えた人物を演じ、出所したときに、なりすましである女性に近づく。その結果、カジノ強奪計画に加担していく。この設定は、なんとなく今回の「ザ・タウン」にも通じるところがあり、また、「ザ・タウン」では尼僧などの扮装をしたりであるが、「レインディア・ゲーム」ではサンタクロースの扮装でカジノに侵入する。強奪事件を描くとこういうシーンは、おなじみなのであるが、女性との関係など、この2作品は共通点が多く、監督ベン・アフレックとしては影響を受けたのではなかろうか。もしかしたら、ジョン・フランケンハイマーの演出から学んだことも多いのかもしれない。フランケンハイマー演出術を継承しそうな監督としては、まずはキャスリン・ビグローがあげられるが、案外とこのベン・アフレックもその路線かもである。次回作を期待しよう。「アルマゲドン」と「パール・ハーバー」の出演が、笑い話になるようになって欲しいものである。
2011年02月18日
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人が変わるためには何をすれば、いいのだろうか?人などとまさに他人事のように言っているが、私自身のことである。そんなことを考えたのは、映画「ザ・タウン」を見たことが、きっかけである。人それぞれは、住んでいる土地に縛られている部分が大きいのではなかろうか。脱出願望がありながらも、それが実行できないこともそれが大きな理由なのではなかろうか。主人公が脱出を実行したことは、そこを突破する要因としてよそ者のクレアという女性の存在があったことからであろう。映画「ザ・タウン」はハッピーエンドを予感させながらも、やはり悲劇の物語であると思う。それは、その町、その土地が人を縛り付けている魔力が引き起こす物語が人を不幸にしており、その解放がいかに困難であるかを語っているからであろう。「ザ・タウン」は解決できない問題を描いた物語なのである。
2011年02月17日
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「荒野の七人」は黒澤の「七人の侍」を西部劇に翻案したものであり、その物語の骨子は全く同じであるが、非常に大きな相違点がある。それは「荒野の七人」では農民たちが、野盗たちと裏取引をして、七人のガンマンを裏切るエピソードである。「七人の侍」では農民たちの狡賢さや卑怯さをいやというほど描いているが、「荒野の七人」では、それをもっと直接的に描いたわけである。さて、今回、「午前十時の映画祭」で改めて、この「荒野の七人」を見て、連想した作品は「七人の侍」ではなく「ワイルド・バンチ」である。あの七人のガンマンたちを老けさせたら、「ワイルド・バンチ」の男たちになるのではないか。「荒野の七人」が1961年、「ワイルド・バンチ」が1969年。わずか8年ほどで西部劇は大きく変わったのである。それはあの血みどろの暴力シーンではなく、「ワイルド・バンチ」でロバート・ライアンが演じた男の存在であろう。
2011年02月15日
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村を襲い略奪する野盗たちに立ち向かう農民たちの物語という図式は、時代によって様々な裏目読みが出来るのではなかろうか。三里塚闘争の時代であれば、野盗たちに国家権力をダブらせての比較もありであろう。現代では大型ショッピングモールの進出に立ち向かう商店街という譬えが成り立つ。また、脅威に対して武力を使用することの是非を批評する題材としてもいいのではないか。この物語では七人のガンマンたちは、農民たちに裏切られる。農民対野盗といっても農民たちが一枚岩ではないことは、現実の社会でも同様である。脅威との対決では、分裂は宿命であり、その事態を生み出す大きな要因が「武力行使」である。この物語はハッピーエンドであるが、同時に武力を行使することのリスクもリアルに描いている。それと脅威へ立ち向かうには、この物語のように傭兵を使うことではなく、自らが立ち向かうべきであることを教えてくれる。この映画は、案外と「まちづくり」への大きなヒントを与えてくれる映画ではなかろうか?
2011年02月14日
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ジャンルとしてはクライムサスペンスにラブロマンスをまぶしたものと言えようか。ラブロマンスも、犯罪の加害者と被害者で、被害者である女性は、相手の男性が加害者であることを知らないで始まったロマンスである。なかなか異色な題材であるが、タイトルは何の変哲もない「ザ・タウン」である。この物語の主人公は、ベン・アフレック演じる男でも、その彼と恋仲になる女性でも、仲間たちでもなく、まさに「ザ・タウン」だと思う。犯罪が代々、家業として伝えられるような町である。それは荒廃した貧しい風土を持ち、その風土に人々は縛られる。住む人々が、町の風土から解放されることは非常に困難である。その風土は、この映画に登場するチャールズタウンのような町のそれであったり、ニューヨークであったり、あるいは東京や私が住む長崎であったりするのであろう。その風土を形成するものは貧困であったり、歴史的事件であったり、その町を支配する企業体質であったりする。この映画で描かれることは、あるひとつのケースであり、それぞれの町が、その風土から生まれた人と物語がある。その意味では、この映画は私たちの物語でもある。よく言われる「まちづくり」という言葉、これを考えるとき、その町の風土やそこに生きる人々のことを抜きにしては決して考えることは出来ないものだ。さて、長崎市のまちづくりではこれが開催される。約半年、多くの市民参加によって出された様々な意見やアイデアをいかに実現していくのかの重要なステップへの移行の回である。是非、ご参加を!
2011年02月12日
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「ウォール・ストリート」のベースはマカロニ・ウエスタン「続・夕陽のガンマン 地獄の決闘」であり、人物配置も原題の「グッド、バッド、アグリー」に倣っていると思う。グッドはシャイアー・ラブーフ演じるジェイコブ・ムーアバッドはマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーさて、アグリーは誰であろうか?ジョシュ・ブローリン演じるブレトンと考えてみた。物語はこの3人の対立を軸に展開されるので、そのように考えるのは自然である。しかし、チャーチルシュワルツ経営者・ジュリー・スタインハルトと考えてもいいのではないか。ラストのあの登場の仕方は、ちょっとした驚愕のラストなのであり、アグリーと呼ぶに相応しいかもしれない。何よりもオリジナルでアグリーを演じたイーライ・ウォラックが演じているのである。
2011年02月10日
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数々の名作が公開される「午前十時の映画祭」の中で「荒野の用心棒」は、やや異色の存在かも知れない。しかし、この「荒野の用心棒」という映画は、もしかしたら映画史の上で非常に重要な役割を果たしている作品ではなかろうか。数年間という短い期間であったが、マカロニ・ウエスタンというジャンルをうち立て、幾多のスターを生み出したのである。その後の映画産業がハリウッド独占の大作志向になり、プログラム・ピクチャーの類が衰退していくことを考えると、このマカロニ・ウエスタンは最後のプログラム・ピクチャーであったのかも知れない。今、こうしてその後の映画界の流れをふまえて、この作品を見ると、まさに意気軒昂、新たな創造のエネルギーに満ちているではないか。ここには、その後のマカロニ・ウエスタンを彩る人物キャラクター、エピソード、状況設定などがすべてここにある。この映画の面白さは、黒澤作品からの盗作だからではなく、作品創造のエネルギーに満ちているからである。その証拠に、その後に作られた「ラストマン・スタンディング」のつまらなさがよく示している。「荒野の用心棒」の面白さは、セルジオ・レオーネの創意工夫の賜物なのである。アップを多用して迫力を増していく映画術は、その後のレオーネ作品の特長であるが、ここで既に発揮されている。もちろんクリント・イーストウッドの魅力も大きく寄与している。
2011年02月07日
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長い刑期を終えて出所した人物を描き、その刑期の長さを映画ではどのように表現するだろうか?高倉健が、そんな男を演じた作品では、出所後に入ったラーメン屋での値段表に驚いた表情であったり、迎えに来た人物の有様で描いていた。「ウォール・ストリート」はゲッコーの出所のシーンから始まるが、そこでは携帯電話と迎えに来たリムジーンで時代の差を表現する。かっての大物が刑期を終え、悪と欲望が渦巻く町へと戻ってくるとなれば、西部劇にでもありそうだ。そう、この映画はまさに西部劇である。銃弾に代わって飛び交うのはマネーである。キャッシュではなく、数字というバーチャルなマネーというのは何ともシュールだ。西部劇と思ったのも決して間違いない。出所した伝説の悪、正義感に燃えるガンマンならぬトレーダー、そして卑怯な新しい悪党という人物設定は、「The Good, the Bad and the Ugly」ではないか。そう、「続・夕陽のガンマン 地獄の決闘」を連想させるが、このテーマ曲が、ある場面で使われている。なかなか粋な使い方である。しかも、それに出演したイーライ・ウォラックが重要な役を演じているではないか。この「ウォール・ストリート」は「続・夕陽のガンマン 地獄の決闘」が隠し味である。
2011年02月06日
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この作品、娯楽映画としては実に巧妙な出来である。物語は、危険物を満載して暴走した列車をいかに止めるか、ただそれだけである。冒頭から事故の発生、登場人物たちと彼らが置かれた状況などがてきぱきと絵で紹介され、列車暴走で最もスリリングなクライマックス場面となる箇所のそれとない紹介も見事。この種の映画が失敗する最大の原因は、人間ドラマを描きすることと回想シーンによるドラマの流れの阻害であるが、この作品では、それらを見事にクリア。とにかく前に進むだけの展開である。短いショットを積み重ねて、連続的に勢い良く見せるトニー・スコット流の映画術は、相変わらずであるが、ここでは成功であると言っておこう。ジョン・フランケンハイマーの「大列車作戦」のような重量級のダイナミズムを期待する観客や、骨太のドラマを期待する観客には満足は出来ないかも知れない。実は、私もそうなのであるが、なんとなくスカッとする映画を見たいときにはピッタリの作品である。トニー・スコットとデンゼル・ワシントンのコンビとしては「クリムゾン・タイド」がベストワンである。
2011年01月31日
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この作品は「欠陥破損人間図鑑」というタイトルでもぴったりだと思った。ファーストシーンからいきなり主人公の嫌な人間ぶりをたっぷりと見せてくれる。それにしても今が旬の時の人をこのように描くとは、日本映画ではありえないかも知れない。主人公にはこんな嫌な面もありますよ、ではなく人間として壊れているのである。そんな人間がネガティブな発想で創ったのがFacebookである。考えてみれば、モーツアルトのような人間が見事な名曲を創るようなものか。Facebookは人と人とを結びつけるシステムであるというが、それを創った人たちには、人間への関心と愛情があったとはとても思えない。「ソーシャル・ネットワーク」というタイトルには、この映画の作者たちのマーク・ザッカーバーグたちへの痛烈な皮肉なのかも知れない。
2011年01月26日
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SNSサイトFacebookを創設したマーク・ザッカーバーグたちを描いた内容ということだけを聞いて、例えばNHKの番組「プロジェクトX」とか「プロフェッショナル」のようなものを連想したり、起業家の偉業達成の物語を連想したりして、この映画を見ることだけは避けた方がいい。そして、ITとかネットとか苦手だからという理由でこの映画を見たくない人がいれば、それは考え直して欲しい。この映画は、過去のどんな作品と似ているかと言えば、まずはこの作品の監督デヴィッド・フィンチャーの「ファイト・クラブ」と「仁義なき戦い・代理戦争」をあげたい。特に「ファイト・クラブ」の発展的変形版と言っておきたい。セリフの洪水の中で語られる裏切りの物語、傷だらけに消耗される若さと意志という点では「仁義なき戦い・代理戦争」に近いとも言える。冒頭シーンからいきなり主人公のイヤな人間ぶりを見せつけられ、これが若き創業者の賞賛伝記映画ではないことが宣言され、あとは色調を抑えた暗さを基調の画面が展開される。人と人がつながるシステムを創設した人間たちが、実は人間関係でズタズタになっていった、しかし経済的にも事業としても成功したという皮肉さは、様々なジャンルで同様のことが起きているという暗示を与えてくれる。
2011年01月24日
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「小さな村の小さなダンサー」を見て感じたことは、中国の芸能、スポーツの育成というものは小さい頃から本人の興味などとは関係なく、身体的条件で選ばれて徹底した英才教育がほどこされるのではないかということだ。それは技術的・技巧的なものが重視され、人々に与える感動的なものは省みられないのではないかということだ。それは、予測ができない自然を相手の農作業による農作物的なものづくりではなく、計算されつくしたオートメーションによるものづくりに例えられるかもしれない。しかし、この傾向は中国だけのことではないと思う。もしかしたら、人生そのものまでもがそのように管理され評価されているのではないかと感じされる。「小さな村の小さなダンサー」の主人公リーは、アメリカにわたり、恋をしたことで踊りの表現も変わってきたのではなかろうか。この作品はそこまでは描いているとは言えないが、そこに踏み込みながら、踊りの技術力と表現力との間で主人公が、どんな葛藤や苦悩を持ち、亡命に至ったかも知りたかった。
2011年01月20日
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「大脱走」も「戦場にかける橋」も共に収容所が舞台であるが、映画としてのトーンは全く違う。前者が、脱走を将校の義務である、これも戦闘の延長であるという考えが捕虜にも、収容所側にもあり、それが一種の騎士道精神のようなものに則っているのに対して、後者では完全に捕虜という立場であり、収容している側との精神的交流は非常に困難である。そこを乗り越えたところに「戦場にかける橋」が描こうとしたものがあり、それがこの作品を名作にしているのであろう。「大脱走」が一種のゲーム感覚のスポーツ映画であるのに比べて「戦場にかける橋」は非常に哲学的な内容である。この両方に出演している俳優がいる。ジェームズ・ドナルドである。「大脱走」ではラムゼイという捕虜の先任将校で捕虜の代表をつとめる役目。「戦場にかける橋」では軍医クリプトン。橋と主人公の最後を見届ける。共に主人公たちに対しては冷静な観察者という立場であり、それを同じ俳優が演じている点が面白い。クリプトンが最後に言うセリフが、この「戦場にかける橋」のテーマであり、または戦争に対する本質であろう。
2011年01月19日
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この映画を見ると、デビッド・リーンが後に「アラビアのロレンス」を撮り、あれほどの傑作になった理由がよく判る。「戦場にかける橋」は「アラビアのロレンス」の先駆的作品であったということだ。彼が追い求めていたテーマのひとつが「異文化の遭遇・衝突」であり、この2作品は、その代表的な作品である。「戦場にかける橋」でロレンスに相当する人物はアレック・ギネス演じるニコルソン大佐である。(「アラビアのロレンス」ではロレンスを翻弄する人物を演じるのであるが)ニコルソン大佐が完成した橋の上を歩くシーンは、ロレンスが初めてアラブの正装をして砂漠を舞うシーンに相当するのであろう。双方ともそこをピークとして後は悲劇へと突入していく。リーン監督はロレンスを演出するにあたり、ニコルソンをモデルにしたのではなかろうか。
2011年01月17日
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「これから『正義』の話をしよう」というタイトルでも良かったのは「相棒-劇場版2-」であるが、この「小さな村の小さなダンサー」もまた、そのようなお話しである。「正義」は現代を考える重要なキーワードかも知れない。この作品は、バレエのことなど全く知らない、そして関心もなかった11歳の少年リーが、舞踏学校に入学し、やがてアメリカへ留学。そこで恋人も出来る物語は、そのリーがアメリカでバレーを続けたいと亡命する事件が大きな柱になっている。そのような追い詰められた状況で、リーにとって正義とは何であろうか?亡命することは彼の踊りたい希望にとっても、またバレーという芸術にとっても、正しいこと。しかし、もしかしたら中国の両親の生命はなくなるかもしれない。芸術もまた政治とは無関係ではいらないという、これは中国だけではない現代の難しさを描き、この作品では見事に感動的に終わるのであるが、さて、「正義」にかなった解決とは、何であろうか?このような状況はどの国でも起こりうる物語にも関わらず、この作品では中国の政治体制が「悪役」となっている。その意味では、この作品は「カサブランカ」のような典型的プロパガンダ的娯楽映画である。見事な出来であると、ここは賞賛である!
2011年01月15日
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男性のみのオールスター・キャストで、その中で当時は決して大スターとは言えなかったと思われるスティーブ・マックイーンがトップにキャスティングされている点に注目。この作品、今、改めて見ても見事な娯楽映画である。前半は、捕虜たちの脱出の為の様々な創意工夫や組織づくりと収容所側の知恵比べが描かれ、ここがこの作品の魅力である。この部分はまるで脱出ゲームというスポーツでもやっているような感じで描かれる。しかし、そうしたゲーム的展開の中で、これが戦争の中での出来事であることが容赦なく描かれる。その対比的な効果は素晴らしい。例えば、アメリカ兵たちが独立記念日のお祭り騒ぎで浮かれている中でのトンネルの発覚と脱走しようとした兵士の銃殺への場面転換は圧倒的な演出である。全体的には脱出がテーマであるので、スリルとサスペンスが演出の主体であるのだが、この作品では、具体的に誰とは言わないが、最近の映画のような短いショットの編集による煽りや、ショック演出はない。キャメラは淡々と人物と情景を捉えているのみで、これだけの効果を生み出している。これこそが娯楽映画の巨匠と言われるジョン・スタージェスと撮影監督ダニエル・L・ファップの映画術の面目躍如というものであろう。
2011年01月10日
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主人公ブリットの恋人を演じるのは、ビッグな存在になる前のジャクリーン・ビセットで、魅力的であることは言うまでもない。異常な状態の激務の主人公と気遣いながらも平穏な日々を望む彼女としては、ブリットとの間で葛藤がある。しかし、この映画ではその部分をミニマムにしている点がいい。この二人の間でこんな会話がなされる。彼女が、ブリットの仕事現場の死体を見て、彼の仕事が暴力と死に満ちたものであることについての言葉である。「あなたという人がわからなくなったわ。何か本当に心を動かすことがあるの?すべてに麻痺したの?こんなひどい生活が毎日よくできるわね」それに対してブリットは、「生活の半分はそうだ仕事だからな」「見ている私がたまらないわ。醜さが一杯。あなたの生活は暴力と死。すべて無感覚になったのよ。私とは遠く離れた世界よ。どうなるの?」そしてブリットは「これからはじまったばかりだ」と言う。この映画が製作され、公開された年1968年は、アメリカン・ニューシネマの黎明期である。アメリカン・ニューシネマといえば、麻薬、暴力、死がキーワードである。そこからどのような世界が展開されるのか、それは当時は未知であり期待であった。ブリットの「これからはじまったばかりだ」というのは、まさにアメリカン・ニューシネマのはじまりと今後への期待を述べたというセリフとして裏目読みが出来そうである。スティーブ・マックィーンは、ノーマン・ジュイスンやサム・ペキンパーと組んでニューシネマを支えたスターなのである。ジャクリーン・ビセットは、その暴力的な映画風景の中に咲いた一輪の花である。
2011年01月06日
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政治家の権力と上司の圧力を無視して捜査を続ける刑事の活躍を描くスタイリッシュな映画と言えば、あるイメージが浮かぶのであるが、この作品はそうした既成概念を見事に裏切ってくれる。実に自然なのだ。主人公ブリットの登場から、その言動も、人ごみや同僚たちの中で突出するわけでもなく、いかにも作られたヒーロー像というものでもなく実に自然なのである。それでいて、スティーブ・マックイーンが身上とするスポーティーなヒーロー像が魅力なのである。こうした奇跡の如きドラマが成立した要因は、ピーター・イェーツの切れのいい演出、ラロ・シフリンのドラマ世界を表現するに相応しい音楽、そして何よりもウィリアム・フレイカーの魔術的なキャメラワークの相乗効果である。こうしたチームワークこそが、その後のアクション映画の定番となるカーチェイスの名場面となって結実するわけだ。威勢のいいだけのアクションスター、マックイーンが演技者として新境地を確立した1967年の「砲艦サンパブロ」から1968年は「華麗なる賭け」とこの「ブリット」であり、ここでマックイーンはキャリアとしてピークを迎えたのである。「パピヨン」は、その後、そのキャラクターを更に進めた極北の孤高のヒーローということになろう。
2011年01月05日
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考えてみれば、愛の告白において、「愛しています」とか「恋しています」と言うことくらい貧困なことはないのではないか。例え、「生涯かけて」とか「限りなく」という言葉を付けようとも、それは軽すぎる。その軽さは、そこに自分自身の存在をかけるという意思が感じられないからであろう。そうしたことを考えると、この映画のサイラとカスベルの二人の愛の告白は何という素晴らしさであろうか!「私はどこにも居場所がない、どうでもいい人間だ」という言葉に対して「俺にとっては違う」「私について来る?」という言葉に対しては「もちろん」決して明るいというわけではなく、むしろ絶望的な状況においてこれらの言葉がどれほど自らの存在をかけたものであり、お互いの心に刻み込まれるものかは見ていて非常によく判り、そこから受ける感動はあまりにも深い。この作品は、見事なまでにかけがえもない美しき愛の告白を見せてくれた。心通わせあう二人の逃避行を描いた映画「悪人」が、単にたまたまある国際映画祭で女優賞を受賞したというだけで評価されているにすぎず、この「闇の列車、光の旅」と比べると、何ら説得力のない作品であることがよく判る。
2011年01月03日
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私の元旦恒例、長崎セントラル劇場での映画鑑賞。2011年最初の映画は、ジョン・レノンの少年時代を描いた「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」。しかし、これは、事実をいかに描くかにポイントを置いたジョン・レノンの伝記映画というより、彼をモデルにした青春映画というべきかも知れない。後に偉大なる音楽家として一時代を創った人物がどのような青春を過ごし、いかにしてビートルズ結成に至ったのかという実録ドラマを期待する観客には物足りないかも知れないが、ジョン・レノンという人物をモデルにした青春映画としては非常に満足できる。厳格な伯母に育てられ、息苦しさを感じていた彼は、奔放な実母と再会し、音楽の世界を教えられる。二人の母親の間で引き裂かれそうになるが、実は、二人の彼に対する表現が異なるだけで同じ愛情で接してくれたことを知るのであった。ラストは感動的である。ジョンは、ハンブルクに演奏に出かけると伯母のところ来て、パスポート申請のための書類にサインを頼む。伯母はその彼に「保護者の欄かしら、親の欄かしら?」と尋ねる。するとジョンは「両方だ」と答える。このシーンでは、新しいバンドの名前も伯母は聞くのであるが、その答えはない。そこはなかなか憎い演出である。この作品は実録風に描き方ではないが、ポールとの出会いの場面は、歴史的瞬間に立ち会った気持ちにさせる。元旦から感涙の作品。そのせいか、コーヒーの空き缶をカップホルダーに置きっぱなしで退出してしまいました。次のお客様、あるいは劇場従業員の方、申し訳ありません。この失敗、昨年夏の「オーケストラ!」以来でした。
2011年01月02日
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ラッセル・クロウとリドリー・スコットのコンビといえば、アカデミー賞に輝く「グラディエーター」が、真っ先に浮かぶが、リドリー・スコットの映像としては陽光の下のローマ帝国時代より、深い森と闇のイメージの中世時代の方が彼の資質がより発揮でき、今回の作品の映像が素晴らしい。「グラディエーター」が賢帝から愚かな息子へ移行したことによって起きるドラマが背景にあったが、今回の「ロビン・フッド」も勇猛な兄からだらしなく見栄っ張りの愚かな弟へ移ったことで起きるドラマである。「グラディエーター」と「ロビン・フッド」は物語のパターンとしてはよく似ているのである。そのような類似性はともかくとして、「ロビン・フッド」という手垢にまみれたヒーローを、またもや映画化するにあたって史実と虚構を巧みに織り交ぜて、画面は徹底的なリアリズム描写で観客をタイムスリップさせたような気持ちにさせる作品に仕立て上げた製作者の発想には驚くばかりである。我々がよく知るロビン・フッドの活躍ではなく、そのようになる前のロビン・フッドに着目した点こそが評価されるべき点であろう。その人物像に説得力を持たせるためにも史実を活用することが必要であったのであろう。当時、あのような上陸用舟艇があったかどうかは判らないが、それすら実際にあったと思わせるような物語全体のリアリズム志向が、この作品の成功の要因であったのではなかろうか。
2010年12月31日
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実を言うとクリスティーナ・アギレラにはいい印象を持っていなかった。と言うのは「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」で登場した彼女は完全に負けていた。それで今回は主演とは言いながらも共演者はシェールである。またまた共演者に食われる可能性は大。実際に見ると、その心配はなかった。これはこの二人の直接対決や共演の場面が少ないという構成上の工夫によるものであろう。そもそもこの作品はアレギラのワンマンショーの合間にドラマが進むという構成で、ミュージカルとして優れた作品というわけではないが、アレギラのパワー溢れる歌唱力は見事で、その部分だけでも一見の価値はある。バーレスククラブは、アレギラ扮するアリの魅力でお客は増えていくのであるが、このような場はもはや主流ではないのか、借金は増え、銀行もこれ以上の資金貸与はしない有様。そんな中で不動産屋の地上げの対象になるわけで、バーレスク・クラブ消滅の危機に陥る。しかし、主人公たちの活躍でその危機は回避される。ここで注目すべきは、バーレスク・クラブの魅力が例え支持者が少数であっても失くしていいのかということである。実は、これは「まちづくり」の重要な要点である。地域活性化の名目で建設される大型商業施設などのハコモノが果たして地域のためになるものかどうか、もっと厳しい目で検証するべきであろう。バーレスク・クラブの魅力は、従来の一見ありきたりのまちが持っている魅力に通じるものであろう。このような観点から見ると、この映画「バーレスク」は、ミュージカルとしては不合格スレスレかも知れないが、極めて示唆に富んだ作品である。
2010年12月30日
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パピヨンとルイ・ドガの別れのシーンは見事である。様々な苦難を乗り越えてきた二人であったが、ここで二人は別れることになる。それでもお互いを非難したり、強引に自分の側に引き込んだりはしない。お互いを認め合いながらの別れである。断崖から離れていく、ルイ・ドガの背中の表情が素晴らしい。これは演技派ダスティン・ホフマンの真骨頂とでもいうべきであろう。もし、「映画史上・別れのシーンベストテン」という企画があれば、この「パピヨン」は、必ず選ばれるのではなかろうか。このパピヨンとルイ・ドガの別れは人生観によるものであるが、そのままスティーブ・マックィーンとダスティン・ホフマンのスターとしての歩みが反映しているような気がする。
2010年12月29日
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重量感たっぷりの映画である。ダルトン・トランボ脚本、フランクリン・J・シャフナー監督という組み合わせがぴったりである。当時なら監督はジョン・フランケンハイマーでも良かったかも知れない。主人公のパピヨンにとっては、脱獄するということだけが至上の目的であり、社会に出て何をするか、自分を陥れた冤罪の真相を暴くことなど実はどうでも良かったのではなかろうか。脱獄はあくまで手段であって、本当の目的はその先の自由な生活の日々であるはずが、彼の場合は「脱獄という手段」が目的化している。しかし、彼の場合、自由を求める姿勢や行動こそが大事なので、「手段の目的化」という意見など聞くに値しないことかも知れない。パピヨンの生き方は、知らず知らずに管理社会に慣れてしまった現代人への「それでいいのか!?」という強烈なメッセージである。この映画の主人公は形式上はパピヨンと呼ばれる囚人であるが、実際には彼が持つ「執念」が主人公といえよう。
2010年12月28日
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この映画は第63回カンヌ国際映画祭のオープニング作品であった。フランスが悪役、しかも、撤退するときもなんともしまらない。フランスには負け戦。こういう映画がカンヌ国際映画祭のオープニング作品になるのも面白い。映画は映画であり、歴史は歴史という割り切りなのか?もし、東京国際映画祭で、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に対して戦った英雄の勝ち戦を描いた韓国映画がオープニング上映作品になったらどうなるだろうか?また、そにような事態が起きるだろうか?この映画、そんなことも考えさせてくれる。さて、この映画は美術も映像も非常に素晴らしいのであるが、素晴らしいのは本編だけではなく、本編ドラマが終わってのエンドクレジットも素晴らしい。アニメなのであるが、これがまた絵のタッチ、色彩、動きと見事なのである。リドリー・スコットとラッセル・クロウのコンビとしては、この作品がベストかもしれない。
2010年12月27日
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