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完璧な人間なんてこの世にいないのに、自分の中で堅くイメージされた完璧は、しらない内に自分を毒しているような気がする。理想の自分になりたいと思うのは、人間として当然の気持ちだと思うが、そこに現在の自分を無視したり、否定したり判断したりする視線が入ると、途端に完璧主義にすり変わったりするんじゃないだろうか。例えば感情。こういう感情はこういう場面に感じるべきじゃない、とか思うことってないだろうか。怒りや落ち込み、心細さや恐怖。自然に湧いてきたものなのに、すぐに蓋をして、感じるべきって思う感情に置き換えようとする。マイナス感情やネガティブって言葉で呼ばれれば、やっぱり感じちゃダメな感情って思ってしまう。レッテルや判断でダメって思ってしまったらあまりにも可哀想な感情たち。それもやっぱり完璧主義だ。今にない自分、ここにいない自分、頭の中で何となくイメージしているあるべき自分に近付けようと苦闘してしまう。身体だってそう。太っていたらダメ、若く見えなくちゃならない。フィットネスやダイエット、自分の身体を理想に当てはめようと,現在の身体を楽しむことを忘れて、苦闘するとしたら、完璧主義だ。マスコミや本や情報に踊らされる内に知らずに本来の自分とは無関係なイメージに近付こうとしてる。それは悪いことじゃないけど、あんまり時間を取られるとしたら勿体無い。本来の自分を探究すること、それだって貴重で面白い大冒険なのだと思う。完璧主義は自己嫌悪と相性がいいかもしれない。完璧でない自分はダメって思ってしまうとたちまち自己嫌悪に陥る。反対に言えば、自己嫌悪は警鐘のように自分が完璧主義、そのままの自分以外のものになろうとしていることを知らせる合図にもなるかもしれない。人間の面白さ素晴らしさは、完璧じゃないところ、欠点もいびつなところも色んなところがあるところから生まれるんだって思えれば、完璧主義(症状がひどいか軽いか、色んなものがあると思うが)から少し距離がおけるかもしれない。かなり書き換えました。初めに読んだ人ごめんなさい。
2005.01.31
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それは同じなんじゃないかと最近思う。自分の内には深遠で複雑でタペストリーのような美しい世界がある(醜く見える部分も大事な部分だ)自分の内を見るとき、関心を持って優しく労る視線を持てると、自分の外の世界を見る時も同じように優しくなれるのではないだろうか。眼差しとも言えるし、心の留め方とも言えるし、尊重の度合いとも言えるものだ。今まで、思っていた世界がフィルターにかけられた、まがいものだって今は思う。自分の内に見たくないものがあったからだ。いったんそれを明るみに出して、どんなものがあろうとかまわないって腹を据えると、外に広がる世界は変わる。だから、家の中の掃除をやる時の心構えが変わった。家が乱れているとき、何がどう入っているのかわからない押し入れがあるときは、自分の中身もごちゃごちゃなんじゃないかと思う。自分の心を掃除するつもりで家も面倒を見る。その方がやりがいもあるしね。
2005.01.30
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思いがけない出来事は、人間の生活につきものとは言え、今回のは、わたしにとっては、世界の見え方がまるで変わってしまうほど大きなものだった。まだ、自分でもよく分かってないからどうしようっていう気持ちが半分、それでも少しは報告のつもりで書いちゃおうっていう気持ちもあって、おそるおそるの再出発です。まずは、病気になったこと(単なる風邪)何日か寝ていて、少し元気になって古本屋へ行った(日記を書かないと本を買うので)そこで「ドロシーおばさん」の本と、「ガーデンを探して」という本を買った。ドロシーおばさんは、ごく普通の心理学的な本だ。もう一冊のは、中身をパラパラと読むと、「自分の子供に愛情を注ぐには」とあり、子育て系の本かなって思ったのだ。でも「新時代のバイブル」と書かれた帯も気になる。家に帰って読んでみると(まずはドロシーおばさんから)ナルシズムの解説とかあって、自分はかなりナルシズムだって気がついて、ぞっとする。そしてもう一冊。その本は、子供の面倒の見方について書かれていたが、子供というのは、普通の子供のことでなく、「インナーチャイルド」つまり、自分の中にいる子供のことだった。何より迫力がある。心理学者の著者なのだが(あいにく今手許に本はなく、著者はアメリカの人だったってことしかおぼえてない)自分の体験を事細かに書いていて、絶対、自分の子供を認めてあげるっていう強い意志に貫かれていて、感動的だ。読んでいるうちに、置き去りに去れて、無視されている子供の気持ちが伝わってきて悲しくなったのだが、まだそれが自分に関係しているとは思わなかった。あくまでも、本の中の著者の体験として伝聞記事を読んでいるつもりだった。二、三日して、家事を終え、ちょっと瞑想しようと座ったとたん、突然、自分の中の子供が自己主張を始めた。いないと思ってるでしょ、でもいるよ。いつも悲しい思いをしているよ。なぜなら、いないふりされているから。そう言っている。独りでに涙が出てきて、四時間近く泣き続けた。初めてだ、こんなこと。ブロックしていた感情が爆発してきたんだろうと思う。今まで蓋をしていた心がどんなに大きかったのか自分でも驚いてしまった。心をしっかりつかんでいるつもりでも、自分の本当の心に触れてこなかったんだなって思い知らされた。ないつもりになっていた影の部分は、醜かったり、意地悪だったり、わがままだったり、怒りと哀しみと弱さと臆病を持っている。見られたらやだなって思ってる、隠してた部分だ。自己主張されると、認めざる得ない。だが、あの本は、そういう部分に臆せずゆっくりつきあうことの大切さを教えてくれていた。そういう部分の果たしている意味は決して小さくないし、無視できる類いでもない。心の大切な一部だ。それを嫌なものとして一括りにしないで、認めてつきあうことにすると、まるで違う世界が広がってくる。今の課題としては、それをいつまで忘れないようにできるかだ。いつも心を感じて、全部の自分を大切にすること。「ガーデンを探して」は、苦闘の連続って感じもする。これからどうなるのかな、って思うけど、明日が前より楽しみになったのが、大きな違いだ。喧嘩も増えるけど仕方ない。この本は、ゆっくり二回読んで下さい。と書いてある。あなたを内部から変えます。全くその通りだったなって思っている。
2005.01.22
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ほぼ日テレビガイドの中で、糸井さんが新選組!ドラマについて、「このドラマは、駅の回と途中の回がある」と書いてたことを散歩の途中で思い出した。駅の回は「池田屋」とか、「友の死」とか「流山」「最終回愛しき友よ」など一日をじっくり描く回。途中の回は、いわば急ぎ足で駅につくまでの道のりを何日にも渡って描いたりする(それほど詳しく見てるわけではないけど、なんとなくわかる)日常の生活も、準備とイベント、原因と結果、普通の日と特別な日、何となく過ぎ去る日と、自分でも結果が出てるなっていう日があるような気がする。それは互いに波のように重なりあったり、どっちが原因でどっちが結果か、見ようによっては反対になったりもする。例えば風邪を引いたりして寝ているとき、日頃の不摂生が祟ったなって思えば結果だし、病気で休むことで鋭気を養えるって思えば途中(原因)になる。自分の好きなように考えればいいことなんだけど。今までの結果は、いつも現在に現れて、今やっていることは全て将来の結果になるって思ってもいい。私の場合、ちょっと調子がいまいちって日は、「今日は途中」って思うことにしている。そうすると調子が上がって来たりするのが不思議だ。新選組!に戻ると、暮れになってようやく見た「友の死」は、特別な一日を、群像劇としてそれぞれがどのように感じて過ごしたかがじっくり描かれていて面白かった。それ以上に悲しかったけれど。
2005.01.17
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昔の人は「無常」とか「一期一会」と言ったものだけど、私たちは日常生活をそのような目で見ることはほとんどない。なぜなんだろうか。経験をパターンとして見ることに汚染されているのかもしれない。モデルやマニュアルが隆盛しているせいかもしれない。物の見方は、外側から俯瞰するものと、内面から見るものと二つあるけれど、(主観的、客観的とも言い換えられる)パターンやモデルやマニュアルは、地図やカレンダーもそうだけど、茫漠した世界を一つの切り口で見る俯瞰の視線。物事を測ったり予測したり建設したり区切ったりするのには便利な見方だとしても、そこには、私たちの一瞬ごとの経験は、含まれないのだ。未来に何が起きるか分からないことを闇だと思うと、わたしたちは闇の世界に身を委ねるのが心もとなくてパターンや過去の例にすがる。それが真実だと思い込む。だが、闇とは限らない。光かもしれない。想像もつかない豊かさに溢れているかもしれない。思いがけない出会い。素晴らしいアイデア、知らなかった自分の姿、何が起きるか分からない一瞬後は、飛躍の可能性の方がはるかに高いかもしれない。それを信頼してみるのは、どうだろうか。日頃無常を意識していた昔の人は、今よりずっと考え方が自由だったと思う。パターンにとらわれず、未知の興奮を感じ続けることを習いたいなって思う。未来はいつもミステリアス。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーきのうは、二回書いたものが消えてしまった。文面も内容も少し違っているように思う。仕方ない。
2005.01.16
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生まれながらの条件って変えられない。当たり前だけど。性や家族、生まれた場所、血液型、容姿(美容整形除く)、体力、右利きか左利きか、ホロスコープ、思考の巡らせ方等々。 生まれながらでなくても時間や場所の制約がある限り失われた時間は帰ってこないから、その日の条件っていうのがある。こういう日にしたかったのに、寝過ぎて上手く行かなかった(実は今日はそういう日)どうしてもここに行きたいのに、どこでもドアないので行かれない。病気になってしまったり、疲れていたり、気がのらなかったり、自分のせいにしても仕方ない条件は数々ある。数え上げていてもきりがない。条件は呑むしかないのだ。それは自分しか持たないものだと開き直って前に進むしかない。ひとり一人が、その人だけ持つ条件は個性の輝きとイコールだと思うことができる。条件はその人しか持たない考え方、あり方を規定してくれる。変えられない過去、まだある病気、思い通りにならない体力、気力、年齢。それも個性の輝く条件だと思えば、嬉しい贈りもの。-----------------------------------------------------条件のことを美輪明広さんなど、宿命って使っているかも知れない。
2005.01.13
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自分が何をしているときに楽しいと感じるか、よく考えたことはあるだろうか。楽しさ感受性が鋭敏だと、楽しいことが多い。鈍っているといつもは楽しいと感じることですら、苦痛に思える。楽しさはプラス感情の中の一つ。何かをしていて楽しいなって思えるだけで喜びも湧いてくる。ちなみに前日書いた本の中で、書いてあったプラス感情は、平静、楽しみ、自信、喜び、思いやり。プラス感情は、病を防ぎ、ストレス耐性を高めてくれるという。ストレスは毎日襲ってくるのを考えると、ストレスをなくす生活っていうのは現実的でないし、ストレスがあるのが普通って思った方がいいらしい。(ストレスはよく使われる割に定義がはっきりしていないが、これを緊急防衛体制の自律神経覚醒作用とすると、人間は危機に襲われた場合でなくとも、普通の生活の中で何かをしようとする度に心拍数の増加、皮膚血管の収縮、筋肉活動の増加といったパターンが見られるそうだ。何かをしようとする場合でも、情報を得ようと集中する度にも体が反応する。そして日常生活のささいなストレス。ある詩人は、「人を狂気に追いやるのは、大きな変化ではなく、時間がないときに靴ひもが切れることだ」と言ったそうだ)楽しみをいくつかに限定してしまうと、それにこだわったり、しがみついたりしないだろうか。楽しみの範囲をできるだけ大きくすれば、たった一つの楽しみに留まる必要はない。楽しさに気付けるだけでも、すばらしいことだなって思う。でも、今日はちょっと寒くて、楽しさ感受性は磨耗気味。(古代中国と日本とのかかわりを書いた本の感想を書こうとして挫折。それって誰も読みたくないかな)
2005.01.12
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「こころひとつで人生は変えられる」ダニエル・ゴールドマン編者西洋近代医学の先端をいく科学者とダライラマとの討論の記録。柔らかいタイトルだが、最新医学研究発表がのせてあるので、読みごたえがある。相手がダライラマであろうと、容赦しない言葉の戦いの様相も示してるから、面白い。書きたいこともたくさんあるのだが、今回は、トラウマの話。戦争などで、収容所に入れられたり拷問を受けたりするなど、極限状態に置かれた人は、ほぼ全員がトラウマの後遺症に苦しむという。それを直すには、長いプロセスを経なければならない。難民などなら、まずコミュニティを作り、そこで慣れ親しんだ共通の文化を持つ人々との連帯感を育む。次にグループセラピーを受け、ただそれぞれが好きなことを話しあう(苦痛の経験が話されることはない)最後に個人セラピー。生活が安心だというイメージを心に作り映像化するようにしむけ、その後、自分の体験を口にできるようになると、治癒の一歩になるという(ハーバード大学医学校のダニエルブラウンの話)強い信念や宗教を持つごくごく一部の人だけが、PTSD状態を示さない。例えば、研究者に感銘を与えたチベット人医師。何年も拷問を受け続けたのに、恨みや憎しみを一度も抱いたことがないという。そんな残酷なことができる拷問者の深い無知にたいして慈悲心を抱き続け、その証拠として恨みもゆがんだ感情もなく、身体的症状も精神的症状もなかったという。ダライラマは、チベット人でも中国人を憎んでいる人は多いと言って、この医師の言う慈悲心よりも、カルマや仏の加護を求めることや迷いの世界や無について深く考えることが、大切だというけれど、私は、実際に極限状態を長期に体験してきた医師の言う慈悲心の方が興味深い。実は慈悲心についてはあまりよくわからないし、考えたこともない。病気の人に瞑想法を教えるという別のページに、「この言葉には、一段高いところに立っているニュアンスがありますが、言葉で教え諭すのではなく、人との交流の中からしみでてくるようにするのです。クラスの誰かが危機に瀕しているときや、泣いているときに慈悲を示す方法はたくさんあります。そのとき頭でなく心で反応できれば、その人は熟達した師の素質があると言えるでしょう」と書いてあって、それだと少しはわかるかな、って思った。慈悲は、見ようとすれば、この世界にたくさんあるのかもしれない。ありふれているぐらいあるのかもしれない。この本を読んでいるとき、歯医者にいて、優しく声をかけてくれた歯医者さんが慈悲の姿に見えたせいもある。そうしたら、この世っていいもんだ。この世界にいるのって素敵で楽しいって、思ってしまった。
2005.01.11
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新しい大河が始まってしまった。これを機会に素敵だった新選組!に感謝しておこう(ほとんど見てないんだけど、これから見れると思う)まずは、青雲の志。歴史上の人物はみんな心に何かを抱いてそれをきちんと形にしていけた人々だと思う。みんな偉大な人々で、自分とは関係ないな、雲の上の人だなあって思ってたけど、新選組!では、登場人物が等身大の人間に感じた。普通の青年が、長いことふつふつとエネルギーを蓄え、何かしたい、何かしなくてはって思う時間を費やし、切っ掛けがあって、京に上っていく。それまでの時間は長かったと思うし、そんな風に変化を求めて、違った自分に出会いたくて吹き荒れるエネルギーを持て余している若者は多いに違いないって思う。それは私も同じだ。彼等の場合は、良かったにしても悪かったにしても京の五年で爆発し燃え尽くされ、そのときの最強集団の名として歴史に残った。妥協を許さなかったから、最強と見られ、内部粛正もしなくてはならなかった。青春群像として描かれた新選組!は、ごく普通の若者として彼等を見せてくれた。決して特別な人々ではなく。そして歴史の連続性っていうものにも目を見開いてくれた。時代が近いだけに、そのときの歴史が今を作っていることを実感させてくれた。そして、脚本の妙。伏線は見てないせいであまり追えなかったけど、一回一回の喜劇と悲劇の微妙なブレンドは、とっても楽しめた。きっとほんとの人生ってこういうもんじゃないか、って思う。忘れがたい台詞がこれほど沢山ちりばめられたドラマっていうのはそんなにない。三谷氏の才能に感謝。虚と実が入り交じったチームワークの面白さ。最後は座談会のアンコールまで放映してくれたNHKに感謝。初めから見てた人はどんなに楽しめただろう。もう諦めるしかないのが残念だけど、最後の最後に出会えてよかった。
2005.01.08
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新選組!にはまってから、土曜スタジオパークを見るようになった。(はまったのが遅かったから回数は少ないが)新選組関係はもうなくて、今日のゲストは、「義経」に出演の松坂慶子さん。最近目にすることが多いような気がする。いつ見ても、美しくって笑顔で福福しい。見ているだけでこっちも笑顔になるような。松坂さんが今年の目標っていうのにあげたのが、この言葉だ。(他にもきれいな字を書くとかあった)そうか、幸せって、自分で決める意志の問題なんだなって納得してしまった。気負いがなくって、自然でいい言葉。一人の幸せはたくさんの人に幸せを運ぶのだな、って思ってしまった。---------------------------------------------------松坂さんのこの発言には、母親として妻としての責任も感じられるような気がした。母親の気持ちは、家族に大きい影響を与える。幸せそうにいつも笑っていたら(たとえイライラしていても)家族は安心して各自の仕事に打ち込める。あるいは、女優としての覚悟の発言ともとれる。大河ドラマも別の仕事も、みんながいい環境で仕事する現場の雰囲気は大切だ。座長でなくとも、ベテラン看板女優の気持ちのゆれは大なり小なり影響する。幸せであろうとなかろうと、立場的に幸せそうにしている責任があるのかもしれない。立場は違っても、私達は誰でも幸せでいる責任っているものが少しはあるかも。
2005.01.07
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昔の人や、現代の人でも凄い人や、漫画や本の主人公などで、よく使われているけど、現実的じゃない言葉に「命をかける」っていうのがある。現実にもそういうつもりで何かをしている人っていうのはいるだろうが。(子供の頃好きだったロックスターは、ロシアンルーレットで死んでしまった。そういうのは情けない。麻薬や犯罪もそうだけど)命をかけるぐらいの覚悟でいたら、たいがいのことは成し遂げられるだろう。昔は命が軽かった。名誉の切腹とかもあったし、命をかけることは現実的なことだったのだと思う。漫画や小説の中ではない、現代の現実は、命はとても貴重で、賭けるなんて言葉を使うのは全くふさわしくない状況だと思う。でもそういう覚悟や気合いっていうものには、憧れがある。そのぐらいの気持ちで何かに向かって行きたい気持ちがある。「切に生きる」というのが禅の考えであるけれど、ちょっと分かりにくいのが難だ。だから、自分流に気持ちだけは、昔の人のようなつもりで使うとしたら「できることを思い切り」なのかなって思った。もっとふさわしい言葉はあるかもしれない。できることを一つ一つ思い切り心を込めてやっていくうちに、できなかったことにも手が届く。そんなつもりで。
2005.01.06
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ごく身近に、凄いとしか思えない人がいる。美人。歳をとるほどきれいになっていく。三年前に夫をなくして、田舎に一人暮らしだが、生活には十分余裕があるのに、常に働いている。お金のためではない。週に一度はお茶の先生、もう一日は、老人ホームのボランティア(自分も世間的な年齢でいえば十分老人だ)そして昨年自宅の前にサロン的なカフェを開いた。まだ毎日平均二人しかお客はこないそうだが、売り上げは徐々に伸びている。一人で気侭にやってるものだから、あまりお客が増えても困るのだろうが。とにかく強いのだ。我も強いが、他人に対しても強い。自分の意見はいつもきっちり持っていて、妥協なんてしない。前はそういうところが苦手だった。でも、お正月に会って、さんざん気合いを入れられて、歳をとってさらに輝いている姿を見て、感動してしまった。ああいう風に生きられるには、どこかに秘密があるんだろうかって思ってしまった。勢いや気力は、普通の老人の範疇を越えている。生きてきた年代や背景の違いだろうか。個人の能力の差だろうか。ただ、彼女を見て思うのは、100%で生きているんだなってこと。
2005.01.05
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自分を中心にして、自分から働きかけていくことというか、他力がどうあろうと、自らのあり方をはっきり決めておくというか、主体的な姿勢をとっていきたい。ふらふらしがちならなおさらだ。他動的であるより、自分から動く姿勢を決めておく方が楽しみが深いような気がする。でも、できるかどうかはわからない。少なくともそんな気持ちで新年の抱負。
2005.01.04
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去年一番心に残ったのは、五木寛之さんの「他力」の考え方だった。他力と言うと、他力本願や他力に頼るっていうような人任せ神任せのところがあるけれど、そういう意味で使っている言葉ではなく、人には常に他力の風が吹いているっていうふうに使うようだった。何もかもがうまくいく順風満帆のとき、他力の風が強く吹いてくれている。反対に、何をやってもうまくいかないときは、他力の風が吹いていない。そんなときは、首を引っ込め、やけになったり自分を責めたりせずに、ただ風が変わるのを待つ姿勢を取る。そんなふうに書いてあった。他力というのには、実際の友人や他人の力、社会の後押しや風向きって言うのも含まれていると思うが、目に見えない神仏の加護のようなものもあるかもしれない。守護天使や背後にいる守護霊って思う場合もあるかもしれない。自分だと思っている部分も他力の一部かもしれない。どこまでが自分の力でどこからが他力なのか、わからないもの。単純に自分の力だけで生きているわけではないと思うと、感謝が自然に沸き上がってくるし、自分では出せない力も、他力の後押しがあると思うと、簡単にできてしまうこともある。それで、深夜の年賀状書きを乗り切った(もっとまえにやればいいものを)前に誰かの本を読んで、自分についてる守護天使の名前を聞いてみようと思いたった。ついているのかついていないのかは半信半疑だったが、聞いてみたらちゃんと答えてくれた(自分でそう思っているだけかもしれないにしても)ちなみに二人いて、どちらもかなりのハンサムである。
2005.01.02
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あけましておめでとうございます。生まれて初めて俳句を作ってみました。元旦の雪解け水や遅い朝揺れる影初日が光のめでたさや初もうで人の少なさそれもよし紫の初日暮れかな闇の色楽しみをたまに見つけんお正月生きている意味などあろうとなかろうとあの山を越え歩き続けんお粗末でした。--------------------------------------------------多分生まれて初めて書いたから喜んでこうして出してるんだと思う。鑑賞したり勉強したりしたら恥ずかしくなるんだろうな。
2005.01.01
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