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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第二話 邂逅(1)
【 第二話 邂逅(1) 】
翌日、畑の仕事を少し早めに切り上げて、コイユールはいそいそとフェリパ夫人の館に向かった。
館は集落の中心部にあり、コイユールの住む閑散とした畑地から歩いて30分程離れたところだった。
館のあるこの辺りまで来るとスペイン風の洋館なども点在しており、異国の風情が漂っている。
集落の中心にはスペイン人によって築かれたキリスト教会があり、教会の周りには豊裕層が利用する商店が数件並び、それを圧倒する勢いで露店が連なっていた。
けっこうな賑わいである。
また、その界隈では、いろいろな人種を見ることができた。
一番多いのは、もちろん褐色のインカ族の人々だが、それ以外にもインカ族とスペイン人との間に生まれた混血児、そして、当然のように白人がおり、さらには黒人もいた。
これらの人種の差はこの国の階級にそのまま反映されており、この物語にとっても、おいおい重要な部分になってくるので、少々詳しく説明しておく必要があろう。
現在のこの国の階級は、5つに分かれている。
つまり、ヨーロッパからやってきたスペイン人、ペルー生まれのスペイン人で『クリオーリョ』と呼ばれる人々、混血児、『インディオ』と呼ばれるインカ族の人々、そして、黒人の5つである。
この18世紀末の人口は、上の順に、おおよそ30万(スペイン人)、300万(クリオーリョ)、500万(混血児)、700万(インカ族)、80万(黒人)である。
スペイン生まれの白人は副王、総督、代官などの役職、大司教、司教をはじめとする高位の僧職、有力な商業を独占していた。
もちろん、大勢の貧乏人もいたが、自分たちがスペイン生まれであるという理由だけで、彼らは植民地生まれの白人をひどく見下げていた。
一方、殖民地であるペルー生まれの白人(クリオーリョ)は純粋の白人であり、ある意味では植民地を実際に築いてきた人々の子孫であったにもかかわらず、スペイン生まれの白人より、はるかに下位の階級を構成していた。
彼らは政府や教会の端役につくのがせいぜいで、あとはのらりくらりと遊び暮らすのが普通だった。
ちなみに、武器と馬を所有、あるいは使用することができるのは、これら白人だけである。
さらに、混血児は複雑な立場にあった。
人口からいえばクリオーリョ(ペルー生まれの白人)よりも多く、スペインの征服以来、白人の男とインカ族の女との間に生まれた不義の子、およびその子孫であった。
白人の社会にも、インカ族の世界にも入りこめないため、多くは商人や行商人となったり、役所や僧院のどうでもいいような役についていた。
なお、黒人についてであるが、彼らはもともと奴隷としてアフリカからこの新大陸まで白人によって連れてこられてきた者たちである。
しかし、人数的には、このペルー界隈にはそれほど多くはなかった。
この黒人の境遇についても語るべきことがあるが、この物語では深くは入らずにおこうと思う。
そして、最後に忘れてはならないインカ族についてだが、この時代、彼らは様々な環境に暮らしていた。
町に出て白人の召使い、下級労働者、職人になった者、行商人の手下となった者などもあった。
とはいえ、その大部分は、もう少しこの物語が進んでから登場する彼らインカ族の首領(カシーケ)のもと、コイユールたちのように細々と農業に従事していた。
また、その農法も、インカ時代とあまり変わらぬ素朴なものだった。
しかし、インカの時代と大きく異なり、彼らはひどく搾取され、虐待され、本来の文化も信仰も奪われ、物理的にも精神的にも深い傷を負っていた。
さて、そろそろ物語をもとに戻そう。
コイユールがそんな様々な人種の往来する路地を進んでいくと、ほどなくフェリパ夫人の館が見えてきた。
館はちょうど教会のすぐ傍にあった。
スペイン風の立派な2階建ての広々とした洋館で、白亜の壁に美しいオレンジ色の煉瓦屋根が映えていた。
大きな窓は初夏の花々にふちどられ、庭は使用人によって良く手入れされ、刈り取られたばかりの草の匂いが漂っている。
館の前に立ちながら、コイユールはその見事な建物を見上げた。
華やかな洋館に少女らしいときめきを覚えながらも、複雑な心境が湧き上がってくる。
自分たちの生活とのあまりにも隔絶した世界、そして、本来この地にあるべきものではないという違和感。
あるいは、憤りにも似た感情がかすかに動く。
しかし、それを振り払うようにして彼女は門の方に進みかけた。
と、その時、背後で張りのある明るい声が響いた。
「コイユール!!」
彼女が振り向くと、そこには一人の混血児の少年が朗らかな笑顔で立っていた。
「アンドレス!」
コイユールからも、思わず笑顔がこぼれた。
インカ族のフェリパ夫人とスペイン人の神父との間に生まれたこの少年は、混血児だけあって美少年で、肌の色は褐色がかってはいたがコイユールよりもずっと柔らかい色だった。
髪もコイユールと同様に黒髪だったが、もっと茶色っぽい明るい色をしていた。
インカ族特有の精悍さと、スペイン人のもつ華やかさとを兼ね備えた雰囲気がある。
そして、もう一つ、これは人種とは関係のないものだが、その少年には奥底から湧き上がってくるような明るさ、というか、輝きがあった。
それは単に人柄の朗らかさとかそういったことだけでは説明をしにくいもので、何が、ということを表現することは困難なのだが、この暗い時代を払拭するような、そんな、何か、を感じさせる雰囲気をもっていた。
少年は、爽やかな緑色の西洋風なシャツにインカ風の緑色の短マントをつけ、腰には鮮やかな赤色の帯をしめていた。
その帯には、スペイン軍の紋章が飾られていた。
自然なウェーブが軽くかかった黒髪は直毛の多いインカ族とは趣が違うが、その髪はインカの少年らしく肩のあたりですっきりと切りそろえられている。
そして、大きな鞄と数冊の書物を手にしていた。
書物の背表紙には、スペイン語と思われる文字が見えている。
コイユールは懐かしそうに少年をみつめた。
アンドレスと会うのは、半年ぶりだ。
「アンドレス、なんだか、大人っぽくなったわ。」
目を細めるコイユールに、少年は少し頬を赤らめて、さっと視線をずらした。
「コイユールは、全然変わらないな。」
「もう!
なにそれ、失礼ね。」
コイユールはわざと口を尖らせて見せてから、思わず吹き出した。
つられるようにアンドレスも笑い出し、それから、二人はお互いの目を改めて見返した。
「今、ちょうどクスコから戻ったところなんだ。
コイユール、元気にしていたかい。
ここの冬は今年もきつかったろう。」
アンドレスはいたわるように声をかけながら、コイユールの元気そうな姿にふっと安堵の溜息をついた。
彼はインカ族の人々の生活の厳しさを、その現実を、知っていた。
「私なら大丈夫。
それより、アンドレスこそクスコではちゃんと落ちこぼれずにお勉強についていけているの?」
コイユールはわざといたずらっぽく、少年の瞳を覗き込んだ。
「あったりまえだろう。
俺はこう見えても、あの学校じゃあトップなんだぞ。」
アンドレスもいたずらっぽく笑ったが、その瞳には嫌味のない自信が溢れていた。
「またあ!」
と笑いながらも、アンドレスのことを身近に知っていたコイユールは、それが誇張ではないことを直感的に感じた。
そして、御曹司に似合わず、昔から自分を「俺」と呼ぶ様子も変わっていないことに安心感を覚えた。
アンドレスは数年前からクスコの都に送られ、そこで名家の子弟たちが学ぶための特別な学校で教育を受けていた。
少年の身なりは、その学校の制服である。
帯に飾られたスペインの紋章は、それ故のものだった。
アンドレスが通っているのはスペイン人によって建てられたキリスト教の神学校で、亡きインカ皇帝または貴族の血をひくインカ族の子どもたちが学ぶ特別の施設だった。
現在は25名ほどの男児たちが、スペイン渡来の知識人たちによって、キリスト教、ラテン語、スペイン語、ケチュア語(インカの公用語)などの高等教育を受けていた。
もちろん、スペイン側にとって不利になるような危険な思想はこのような場所では触れることはなく、むしろ、スペイン側にとって危険となる政治的思想から特権階級の少年たちを隔離し、自分たちに都合よく教育するという狙いもあったのだろう。
生活は学校付属の寄宿舎に入れられており、外界とは隔絶され、故郷に戻ってこられるのは年数回の長期休暇のみだった。
コイユールはアンドレスの血統のことは何も知らなかったが、集落の噂でフェリパ夫人の家系には特別な背景があるらしいことは聞いていた。
しかし、彼はまったくお高いところがなく、どんな身分の誰にでも分け隔てなく接した。
コイユールは彼のそんなところが好きだった。
(そうか…!)と、コイユールは、はたと思い至った。
フェリパ夫人はコイユールとアンドレスの仲の良いことをよく知っていたので、アンドレスが休暇でクスコから戻てっくる今日、わざわざ彼女を館に呼んでくれたのだろう。
フェリパ夫人の優しさを感じ、コイユールの胸はあたたかい気持ちに満たされた。
「入ろう。
母上が、君の例の治療を待っているんだろう。」
アンドレスは、そっとコイユールを館の門の中に促した。
大理石でできた玄関先では、フェリパ夫人が待ちかねたように二人を迎え入れた。
「アンドレス、お帰りなさい。
コイユール、よく来てくれましたね。」
「ただいま、母上。」
腕を広げたフェリパ夫人の胸の中に素直に抱かれて、少年は母親の喜びに応えた。
フェリパ夫人の瞳にかすかに涙が光っている。
夫人にしてみれば、愛息子を「学校」という名目でスペイン人によって人質にとられているようなものであろう。
息子の無事な姿に、どれほど安堵しているか想像は難くなかった。
コイユールはそんな二人をまぶそうにみつめた。
母親の腕に抱かれたのはもう何年も昔のことだ。
そして、これからもそんな日はもう戻ってこないだろう。
「さあ、コイユール、中に入ろう。」
アンドレスはゆっくりと母親の腕から離れ、コイユールを部屋の中へ導いた。
コイユールはだんだん自分がいることが申し訳ない心境になっていた。
せっかくの親子みずいらずの再会なのだ。
「でも…。」
「コイユール、さあ、入ってちょうだい。」
「あの、私、いいんでしょうか…。」
「もちろんよ。
あなたに来てほしくて、呼んだのですから。」
夫人の上品で優しい笑顔に促され、コイユールはおずおずと豪奢な部屋の中に入っていった。
「今日はお呼びくださり、どうもありがとうございました。
お加減はいかがですか。」
「まあ、コイユール、そんなに難しい話し方をしなくっていいのよ。」
夫人は微笑んで、コイユールにソファを勧めた。
そして、3人分のコカ茶をいれながら、夫人は腰の辺りに手を当てた。
「冬の間からずっと痛んで困っていたのです。
もともと冬場は痛みやすいのですけれど…。
あなたに手を当ててもらったら、楽になるように思うの。」
コイユールは頷いて、夫人にうつ伏せになるよう頼んだ。
そして、服の上からそっと夫人の腰の辺りに片手を添えた。
「この辺りですか?」
「ええ、お願いするわ。」
夫人はうつ伏せになったまま、静かに目を閉じた。
コイユールは夫人の腰に両手を添えて、目を閉じた。
そして、閉じた瞳の奥で、太陽と月を象徴する秘伝のシンボルをイメージした。
それから、ある秘密のマントラを心の中で3回唱える。
すると、頭上から、さっと白い光が自分の体の中に入ってくる感覚があり、そのまま光は両腕を降りてきて、夫人の腰に添えられた手の平から流れ出していくのが感じられた。
コイユールは目を閉じたまま、手の平に意識を向けた。
自分の手が白く光る感覚と共に熱を帯びてくるのが感じられる。
部屋の中は水を打ったように静かになった。
アンドレスは、二人の様子を興味深気にそっと見守った。
夫人は目を閉じたままうっとりと脱力したように横たわり、コイユールの送っていくエネルギーのあたたかさに酔いしれているようだった。
目を閉じて精神を集中しているコイユールの額には、うっすらと汗が滲んでいる。
静かに手を添えるコイユールの瞳の奥に、遠い昔の母親の姿が甦ってくる。
幼い頃から好奇心が旺盛だった彼女は、よく怪我をした。
母親は「まあ、コイユール。またなの?」と呆れ顔をしながらも、いつも娘の傷口に優しく手を添えたものだった。
母親の手はあたたかく、どんな薬草よりも効き目があった。
それは単なる気のせいや気休めとは少し種類の違うものだった。
頭痛、腹痛、腰痛などの痛みや怪我、病気、時には精神的な病にも効果があった。
今で言うところの「手当て療法」に似ているかもしれない。
それは、コイユールの家に代々伝えられてきた秘伝の自然療法であった。
どちらにしても、コイユールにとっては、優しく母に触れてもらえるということが何よりもただ純粋に嬉しかった。
スペイン人により「ミタ(強制労働)」という名目で、両親が命を捧げる鉱山に駆り出されることが決まった時、まだ幼かったコイユールに母親はその秘伝のシンボルとマントラを伝授した。
すべてを伝え終わってから、母親はコイユールの目を優しく見つめて言った。
「このことができるようになっても、それは、コイユール、おまえが特別な能力をもっているということではないのよ。
それを忘れないでね。
お日様やお月様やこの宇宙が、私たちのこの手を通して、そのお力を送ってくださっているだけなの。
私たちは、ただそのお力を通すための道具としての役割を果たしているだけ。
どんな人も、みんな、それぞれにいろんな役割をこの世界の中で果たしながら、目にみえない糸でつながって、支えあいながら生きているのよ。
だから、このことをして、お金儲けに使ったりしてはいけませんよ。
コイユールにはコイユールの、別の人には別の人の、それぞれの役割があって、そして、そのどれが偉くって、どれが偉くないとか、そんなことは全然ないのだからね。
このことを、よおく憶えておいてね、コイユール。
人は、みんな同じように価値のある存在だということを。」
そして、母親はまだ幼いコイユールの頬を撫でながら、優しく微笑んだ。
その時、母親の目に光っていた涙の理由を、まだほんの6歳だったコイユールには理解できなかった。
しかし、今はその意味がわかる。
母親は、もう二度と娘に会えないことを覚悟していたのだ。
そして、今、こうして12歳に成長したコイユールには、母親の言葉の意味が心に染みるように理解できた。
(お母さん…!)
コイユールは、心の中で母親に呼びかけた。
母親の優しい眼差しが再び瞼の裏に浮かび、目頭が熱くなった。
やがてコイユールは、成長と共に、その療法を自分や祖母のためだけにでなく、他の人の要望に応じても徐々に使うようになっていた。
何しろ貧しいインカの人々は薬草も満足に買えなかったし、コイユールは母のいいつけをよく守って、決してそのことによって金銭を受けることもしなかった。
気休めにすぎないと言う者もあったが、幾らかは薬の代替療法としての役割は果たしていた。
そんな彼女の噂は少しずつ集落に広がり、いつしかこの館の夫人の耳にも届いた。
それ以来、夫人の求めに応じて、コイユールはこの夫人のもとを折々に訪れるようになっていたのだった。
フェリパ夫人への施術が終わると、アンドレスはコイユールを自室に呼んで、改めて二人で再会のひとときを共にした。
アンドレスの部屋には立派なカーテンに縁取られた明るい大きな窓があり、そして、堂々とした複数の書棚に多くの書物が並んでいる。
コイユールは興味深そうにそれらの書棚を眺めた。
とはいえ、もともとインカには文字はなく、また、まともな教育を受けることもできなかった彼女は、残念ながら、文字を読むことは出来なかったのだが。
アンドレスは鞄の中から一冊の使いこんだ本を取り出して、彼女の前に差し出した。
「これは?」
珍しそうに眺めるコイユールの前で、アンドレスは本をぱらぱらと開いて見せた。
スペイン語らしきアルファベットや単語が、美しい絵と共に並んでいる。
「文字は、私、読めないわ。」
アンドレスは頷いて、そして、その本をコイユールに渡した。
「これからはスペイン語を読めた方がいいよ、何かとね。
だから、その本は君にあげるよ。
学校で最初の年に使った教科書だ。」
コイユールは一瞬瞳を輝かせたが、すぐ冷静な表情に戻って視線を落とした。
そして、本をアンドレスに返した。
「でも、私、スペインの言葉は…。」
「君がスペイン人をよく思っていないことは知ってる。それは、混血の俺だって同じだ。」
コイユールはハッとして、顔を上げた。
「ごめんなさい…。」
「謝ることはないさ。
俺は、自分はインカの人間だと思っている。
たとえ、白人の血が入っていても。
父上だって…。」
そこまで言いかけて、アンドレスは言葉を切った。
アンドレスの父親はスペイン人の神父だったが、今は生きてはいなかった。
「この先、スペイン人と渡り合っていこうと思うなら、文字くらいは読めるようになっていないといけない。
それに、ずっと感じていたよ。
君だって、本当はいろんなことを学びたいんだろう。」
アンドレスは澄んだ瞳で、まっすぐにコイユールを見た。
自分の心を見透かされていたような気持ちになり、コイユールの頬が少し紅潮した。
それから、観念したように、素直に頷いた。
「ええ。
私、本当は、もっともっとたくさんのことを知りたいし、学びたい!
そして…。」
そこまで言いかけた時、アンドレスの視線を強く感じてコイユールは言葉を呑みこんだ。
アンドレスは、彼女の言葉の続きを待っていた。
彼女は言葉を呑み込んだまま、アンドレスの本を再び受け取った。
「ありがとう、アンドレス。」
しばらく沈黙が流れた後、コイユールはぽつりと言った。
「ねえ、アンドレス、私、不思議な光景を見たの。」
彼女は、太陽が大分傾きかけてきた窓の方に目をやった。
透明なオレンジ色の西日が、二人を包みはじめている。
「ビラコチャの神殿で…。」
そう言いかけて、コイユールは再び言葉につまった。
あの時の情景がありありと思い出され、その場にいるような錯覚にとらわれたのだった。
「コイユール?」
アンドレスの声に彼女は我にかえり、声の方に視線を戻した。
「神殿の柱にもたれた男の人が夕陽を見ていたのだけど、西日の光が当たって、まるで金色に燃え上がるようだったの。
私…インカの皇帝様が、生き返ったのかと思ってしまったくらいよ。」
コイユールの声が、興奮でかすかに震えていた。
アンドレスは頷きながら、コイユールをなだめるように言った。
「それで…どうなったんだい?
その人は、誰だったのかわかったの?」
コイユールは首を横に振った。
「気がついたら、消えてしまっていたの。
それで、コンドルが飛んでいって…。」
やや混乱したコイユールの話に、しかし、アンドレスは静かな声で応じた。
「誰だったんだろうね。
いったい。」
視線を落とし、コイユールは膝の上で華奢な褐色の両手を握り締めた。
「ねえ、アンドレス。」
そして、再びまっすぐにアンドレスに視線を戻した。
「もし…、もしインカ皇帝様が生きていたとしたら…、そうしたら、この国は、また私たちインカの人々のものに戻るのかしら?」
彼女の貫くように真剣な眼差しを一旦受け止め、アンドレスは少し沈黙した。
それから、静かな、だが、込み上げてくる感情を押し殺した声で答えた。
「いや…。
たとえ、皇帝陛下が生きていたとしても、それだけでは駄目だろうな。」
一瞬、言葉を切り、そして、再び言葉をついだ。
「昔のインカ皇帝だって、ことごとく酷いやりかたでスペイン人に殺されてきたんだ。
恐らく、また同じことが起こるだけだろう。」
アンドレスの声には、押し込めたはずの怒りが滲んだ。
コイユールは息を呑んだ。
いつの間にか少し涙を滲ませている彼女の前から、アンドレスはすっと離れて窓際に立った。
自分の感情を、懸命に隠そうとしているようだった。
ガラスを通して、黄金色の西日が彼の横顔を照らしていく。
コイユールの目に、あの時、神殿で見た光景が、一瞬、完全に重なった。
「コイユール。」
アンドレスは後ろ姿のまま、言った。
その声は、コイユールがこれまで知っていた屈託の無い少年の彼とは別人のように、低く、しかし、深かった。
「たとえ皇帝陛下が生きていたとしても、スペイン人から闘って勝ち取らなければ、この国はインカの人々の手には決して戻ってこない!」
そして、意を決したように、続けた。
「だから、俺は…――。」
その時だった。
廊下をドカドカと歩いてくる大きな足音が鳴り響き、部屋のドアに勢いのよいノックが聞こえた。
「おい!!
アンドレス、いるか?
入るぞ!!」
アンドレスが答える間もなく、はじけるように勢い良くドアが開かれた。
そして、黒い巨大な塊が飛び込んできたかと思うと、それは一人のインカ族の男だった。
隆々たる筋骨の逞しい、がっしりとした、見上げるような大男である。
年の頃は30歳前後だろうか。
褐色の顔に立派な髭をたくわえ、一見いかにも荒々しい印象を与える。
しかしその風貌には、どことなく風格があった。
「おお!!
アンドレス、戻ったか!」
その声も、いちいちでかかった。
ふいをつかれたように、アンドレスはそちらを振り返った。
男は目を見張っているコイユールに、はたと気付き、一瞬、彼も目を丸くしたが、すぐに茶目っ気のあるウィンクを彼女に送ってきた。
「なんだ、アンドレス!
おまえ、いつのまにこんな彼女…。」
「そ、そんなんじゃ…ないんです、叔父上!」
アンドレスがすかさず遮ったが、男は冷やかすようにニンマリ笑ってズカズカと部屋に入ってきた。
「まあ、そう隠すな。
みずくさい。」
「いえ、本当に、普通の友達なんです。」
コイユールが急いで弁明すると、アンドレスもうんうんと必要以上に頷いた。
が、少し耳が赤くなっている。
男はガハハと豪快に笑い、腕を組んで二人をかわるがわるに見渡した。
「わかった、わかった。
まあ、いいさ。」
そして、アンドレスの方に近づき、褐色の岩の塊のようなゴツゴツした筋肉質の手を置いた。
「アンドレス、元気そうでよかった!!
今日クスコから戻ると聞いて、来てみたんだ。」
男の手の重量感が、アンドレスの肩にずっしりと伝わってくる。
アンドレスも平静を取り戻し、笑顔で大男を見上げた。
「叔父上、私もお会いしたかった!」
「おお、そうか、そうか!」
男は笑顔でアンドレスの肩を満足気にバンバンと叩き、それから、近くにあった椅子にどっか、と腰掛けた。
椅子が床に沈むのではないかと、内心コイユールはハラハラしながらその様子を見守った。
「クスコの神学校では優秀な成績をおさめているとフェリパに聞いたぞ。
頑張っているな。
実際、いっぱしの若者になってきた。」
男は再び満足気に少年を眺めた。
その眼差しには、親が子を見るような、そんなあたたかさと厳しさの両方が宿っていた。
「だが、おまえもそろそろいい年頃だ。
あんなスペインかぶれの学校だけでは、本物のインカの若者には足りない。」
「はい、叔父上。」
アンドレスも、その意味をよく察して素直に頷いた。
「明日の晩、久々にこの屋敷に皆で集まろうと思う。
お前も顔を出せ。」
「是非にも!!」
アンドレスは、間髪入れず、待っていたとばかりに返事をした。
その声には、凛とした力がこもっていた。
大男は笑みを返して、椅子から立ち上がった。
「邪魔したな!
許せ。」
それから、コイユールの方にも軽く片手を上げて、ドアを閉めるのにも頓着せず立ち去った。
男が出て行ったのを確認して、アンドレスはドアを閉めた。
「驚かせて、ごめん。
今のは俺の叔父上で、つまり、母上の兄なんだ。
この近くに住んでいて、父上が亡くなってからは父親がわりみたいに俺や母上の面倒を見てくれている。」
「そうだったの。」
コイユールは納得した。
「それで…明日、何かあるのね。」
アンドレスは少し間を置いてから、短く答えた。
「時々、親族が集まっていろいろと話をするのさ。」
「親戚の人たちの集まりなの?」
「まあ、そんなもんかな。」
と言うアンドレスの横顔はやや紅潮しており、興奮と緊張の色が見えた。
それ以上アンドレスが何も言いそうにないのを確かめてから、コイユールは窓の外に目をやって、すっかり薄暗くなっているのに気がついた。
「いけない、そろそろ帰らないと。」
「送っていくよ。」
「ううん、いいの。
私なら大丈夫だから。」
彼女は首を振って、アンドレスを制した。
しかし、アンドレスはコイユールに付き添って、薄暗くなった帰路を共にした。
「大丈夫なのに…。」
コイユールはフェリパ夫人からもらった高級そうな野菜を見下ろした。
「本当は、こんな…、いただくつもりで来たんじゃないのに。」
「お金じゃないんだし、それくらいもらってくれたっていいだろう。」
「それは…とてもありがたいけど。」
普段は、お金ではなくても一切ものを受け取ることはしなかった。
が、フェリパ夫人とアンドレスの前では、つい気持ちが緩んでしまうようだった。
そして、コイユールは、つと立ち止まった。
そろそろ民家もまばらになり、これ以上先まで送ってもらうのは逆に高貴な身なりをしたアンドレスの身の方が案じられる。
「ここまでで大丈夫よ。
どうもありがとう。
それに、本まで…どうもありがとう!」
そう言って、彼女はアンドレスに微笑んだ。
(また会えるのは、いつになるかしら…。)
かすかに胸の奥が痛む。
コイユールは、アンドレスからもらった本を握り締めた。
やはりアンドレスと長期間離れるのは寂しいことだった。
でも、仕方のないことである。
しばらく物思いに耽ったように黙っていたアンドレスが、ふいに口を開いた。
「コイユール、明日の今頃、またうちに来てみないか。」
「え?」
突然のことに、コイユールは目を見開いた。
「君は、さっき言ったよね。
もし皇帝陛下が生きていたら、この国を俺たちインカの手に取り戻せるのか、って。」
アンドレスの表情はこれまで見たこともないほど、真剣だった。
「コイユール、君は何を考えてる?
なぜ、あんなことを聞いたんだ?」
アンドレスの眼差しの鋭さに、一瞬、コイユールは、自分が睨みつけられているのではないかと思ったほどだった。
彼女は、かすかに身を縮めた。
しかし、視線をそらすことはしなかった。
アンドレスの瞳を見つめ返すコイユールの瞳は、清く、澄んでいた。
自分の心の奥底で、何かがはじけたような強い感覚を彼女は覚えた。
二人は暫し無言で見つめ合った。
「私、このままでいいとは思わない…!」
言葉を発したのは、コイユールの方だった。
彼女の瞳が、強い意志を秘めて、揺れていた。
それ以上は言葉にならなかったが、アンドレスはその瞳に強く頷き返した。
「そうだ。
このままでいいはずがない!」
アンドレスの瞳の奥に、激しく燃え上がる炎を見た思いがした。
一つ一つの言葉をかみ締めるように、アンドレスは再び言った。
「明日、待っているよ。
もし、君が、本気でこの国を変えたいと思うなら、きっと意味があると思う。」
そう言い残して、アンドレスは踵を返した。
その後ろ姿が夜の闇に消えても、コイユールはしばし動くことができなかった。
彼女は自らの心の奥底を、ふいに覗いてしまった気がした。
それは、どこかで蓋をして見ないようにしていたかもしれない、自分の心の叫びだった。
そうだ…私、この国のこと、このままでいいなんて思っていない…――!!
その晩、アンドレスの館からもらってきた新鮮な野菜を料理して祖母にふるまうと、老婆は久々の満腹感から椅子にかけたまま、うとうとし始めた。
「お婆ちゃん、ちゃんと寝ないと風邪ひいちゃうわ。」
コイユールは祖母の肩を抱き上げ、寝具がわりに重ねた古衣の上に、そっと横たえた。
「すまないねえ…。」
すでに眠りの世界に入りかけたまま老婆はつぶやくと、小さないびきを鼻から漏らしながら深い眠りに落ちていった。
コイユールは掛け布団がわりの衣類をいつものようにありったけ集めてきて、老婆にかけた。
彼女と祖母の衣類をすべて集めてきても、到底寒さを凌げる量ではなかったが…。
それから、蝋の残りの少なくなった蝋燭の火を急いで消した。
コイユールのような貧しい農民たちにとって、蝋燭は貴重品だった。
火の気がなくなると、しんしんと冷え込みがいっそう増してくる。
祖母がしっかりと布にくるまっているかを再び確認してから、彼女は音を立てないように注意深くドアを開け、戸外に出た。
そして、外側から片手で静かにドアを閉めた。
一方の手には、しっかりとアンドレスからもらった本を持っている。
外気はいっそう冷たかったが、幸い空は澄みきっていて、月明かりがコイユールの手元を照らしてくれた。
アンドレスから受け取った本の表紙に、そっと指先で触れてみる。
濃い緑色の布張りの立派な装丁で、表紙には金色の縁取りと文字飾りがほどこされていた。
ところどころの布が薄くなっており、アンドレスが熱心に使いこんだ形跡がうかがえた。
ページをめくると、花や果物、日用品などの西洋風の美しい絵と共にスペイン語の単語が添えられている。
随所にアンドレスの筆跡と思われる文字で、走り書きのメモが残されていた。
くっきりとした整った文字である。
指先でその文字をなぞってみる。
コイユールは、月を見上げた。
別れ際のアンドレスの瞳の色が脳裏に焼きついていた。
それは、青く燃え上がる炎のようだった。
そして、自分の心の中にも、同じ炎が燃えている。
そのことを、はっきりと今は感じとることができた。
月はゆっくりと動き、薄い雲の中に入っていった。
霞のような雲のむこう側から、月明かりが漏れている。
そして、さらに月は動き、再び雲をぬけてその濡れたような光でコイユールを照らした。
何かが動き出している…、自分の周りで、そして、自分の中でも…――!
そんな予感が、コイユールの全身を静かに走りぬけていった。
翌日、コイユールは、朝からどこかソワソワと落ち着かぬ気持ちで過ごしていた。
軽い興奮状態でもあった。
畑仕事をしている手も、ふっと止まりがちだった。
いつもと様子の違う彼女に祖母は気付いていたかもしれないが、何も言わずに見守っていた。
コイユールはその日も早めに畑をひきあげ、かわりに小屋に戻って祖母のために早めの夕食の準備を始めた。
(今夜、アンドレスの館に行ってみよう!)
そう彼女は決めていた。
素早く祖母の夕食を用意して、コイユールは急いでドアを出た。
外は既に夕暮れの色に染まりかけている。
風もひときわ冷たくなっていた。
その時、ちょうど小屋に戻ってきた祖母とすれ違った。
「コイユール?
こんな時間に、まさか、どこかにでも行くつもりかい?」
目を見張っている祖母に、コイユールは返す言葉を慌ててさがした。
しかし、適当な言葉がみつからない。
「お婆ちゃん、心配しないで。
少し遅くなるかもしれないから先に休んでてね。」
「ちょっ…、これ、コイユール!」
スペイン人に嫁したフェリパ夫人を好意的には思っていない祖母に事情を説明することは、やはり、まだはばかられる。
当惑している優しい祖母の顔を見てしまうと、胸が痛んだ。
(ごめんね!
お婆ちゃん…。)
目をあわすことができぬまま、コイユールはアンドレスの館のある方向に小走りに去っていった。
◆◇◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第二話 邂逅(2)
をご覧ください。◆◇◆◇◆
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