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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第二話 邂逅(2)
【 第二話 邂逅(2) 】
夫人の館に着く頃には、すっかり日が落ちていた。
息を切らしながら、門のそばに近づいていく。
広々とした館の中央にある広間のあたりから、いつにも増して、煌々と灯りが漏れていた。
門の周りは、いかにもいかめしい雰囲気だった。
数人のインカ族と思われるいかつい男たちが、険しい目つきで館の周辺を警護している。
いつもと違う緊迫した雰囲気に、コイユールはとまどいを覚えて歩調をゆるめた。
すると、門の柱の陰からアンドレスが姿を見せた。
襟元や袖に青紫の縁取りの施されたベージュのビロードの服を着て、腰には金色の帯を締め、あきらかに正装しているということがわかった。
「コイユール、遅い、遅い!」
アンドレスはわざと叱ったような顔をしてコイユールの額を軽くこづく真似をしてみせ、それからいつもの笑顔に戻った。
いつも通りのアンドレスの様子に、コイユールは内心ほっとした。
「遅くなって、ごめんなさい。」
やや緊張を滲ませながらも落ち着いたコイユールの声に、アンドレスは彼女が意を決して来たことを察した。
アンドレスは彼女に再び笑みを返して、「行こう!」と二人で門をくぐった。
「昨日は何も言わなくてごめん。
今日はすごい人が来ているんだ。
君にも一度会わせたかった。」
アンドレスが説明をしようとした時、門前の武装したインカ族の男が、二人の前に立ちはだかった。
「アンドレス様、その娘は?」
「俺の友達だ。
怪しい者じゃない。」
アンドレスはコイユールを伴ったまま、そこを通り抜けようとした。
「しかし!」
警護の男がまた二人の前に、回りこむ。
その時、館の中からフェリパ夫人が顔をのぞかせた。
「まあ、コイユール、待っていたのですよ。」
そして、館の中から出てくるとコイユールの手をとり、アンドレスと対峙している男に微笑みかけた。
「この娘さんは私の知り合いなのです。
心配ありません。」
「そうでしたか…。」
男はかしこまって、アンドレスたちに館の入り口への道を開けた。
アンドレスがコイユールの来訪について、事前に夫人に話しを通していたのだろう。
コイユールは導かれるままに館に入った。
大理石の入り口のすぐ内側にも、やはりいかめしい面持ちで立っている見張りのインカ族の男がいて、コイユールをちらりと一瞥したが、夫人とアンドレスに会釈すると何も言わずにコイユールを通してくれた。
夫人はいつにも増して美しいローブを身に纏い、長い黒髪を黄金の髪飾りで結い上げていた。
広間の方から、数人の男たちの声が低く響いている。
すると、力強い足音と共に、昨日出会った大男がまた現われた。
あのアンドレスの叔父である。
男は目を見張って、コイユールを見下ろした。
「おまえ、なぜここにいる?!」
広間に聞こえぬよう男なりに小声で言ったようだが、恐らく、広間まで十分に聞こえていただろう。
「叔父上、俺が…。」
と、言いかけたアンドレスを制して、フェリパ夫人がコイユールをかばうように男の前に立った。
「わたくしが呼んだのですよ、兄上。
コイユールは、私の治療をしてくださっているのです。」
しかし、男は引き下がらなかった。
「いかん!
今日は、よそ者は絶対に、いかん!!」
フェリパ夫人も引き下がらなかった。
「よそ者とは何です。
それに、男のかたばかり今日は多くて、コイユールには今夜のお食事の支度の手伝いをお願いしておりますの。」
大男のがなり声を聞きつけて、広間の方からまた別のインカ族の男が出てきた。
戦士のような頑強そうな体格のいかにもインカ族らしい野性的で精悍な面持ちの男で、鷲鼻と眼光の鋭さが印象的だった。
「何の騒ぎですか。」
感情を統制した声で、言葉遣いは恭しい。
そして、コイユールに気付き一瞬目を見開いたが、すぐにアンドレスに目をやった。
「アンドレス様、お知り合いですか。」
「はい、大切な友人です。」
アンドレスの澄んだ眼差しを確かめてから、男はアンドレスの叔父に向き直った。
「ディエゴ様、かまわないのではないですか。
アンドレス様がこのように仰っているのですから。」
「しかし、ビルカパサ…。」
大男は納得しかねる面持ちだったが、「さあ、ディエゴ様、お戻りください。トゥパク・アマル様もお待ちなので。」と促され、渋々と部屋の中に戻っていった。
コイユールは足から力が抜けていくのを感じた。
「アンドレス、私…。」
しかし、彼女は館の中に入ってみたかった。
「構わないさ。
行こう。」
アンドレスはしごく落ち着いたまま、コイユールを部屋に上がるよう促し、そのまま広間の中まで連れていった。
たくさんのまばゆい蝋燭の灯りに照らし出され、部屋の中は真昼のように明るかった。
コイユールは蝋燭の光に、一瞬、目を瞬いた。
それから、ゆっくりと薄目を開けながら、前方を見やった。
何やらものものしい雰囲気で、深刻気に話し合っている5人の男たちの姿が浮かび上がってきた。
その5人の中には、アンドレスの叔父や先ほどのインカ族の男も混ざっているようだ。
蝋燭の灯りに少しずつ目が慣れてきたときだった。
コイユールの心臓は止まりそうになった。
神殿での光景が甦る。
あの時、輝く黄金の光に包まれ燃え上がっていくかと思われた、その人がいたのだ。
インカの古来からの神、ビラコチャの神殿でその人を遠くから垣間見たとき、その神々しさに、太陽の御子、インカ皇帝の幻影を見たのかと思ったほどだった。
今はこの館の広間の中央に座し、やや伏し目がちに机上の書類に目を落としている。
コイユールは、自分がまた幻影を見ているのではないかと思った。
しかし、目を閉じたら再び見失ってしまいそうで、瞬きもできなかった。
あの時見たのと同じ、インカ族にしてはあまりに端正な、しかし精悍な横顔に、煌々と輝く蝋燭の灯りが反射し、その切れ長の目の端が激情と憂いを秘めた光を今も放っている。
そして、あの時と同じように、かつてのインカ皇帝が身に着けたのとよく似た黒ビロードの服とマントを纏い、腰まで垂れた漆黒の髪は蝋燭の灯りを受けて濡れたように輝いていた。
「アンドレス、そちらのお嬢さんは?」
中央の右に座していた初老のインカ族の紳士が、コイユールたちに気付いて声をかけてきた。
白髪の混じり始めたその紳士は、どこかアンドレスと似た柔らかい雰囲気と風格があった。
「アンドレス様のご友人だそうです、ブラス様。」
先ほどアンドレスと叔父の仲介をした鷲鼻の男が説明をする。
他の男たちもテーブルに広げた書類から顔を上げ、アンドレスとコイユールの方に目を向けた。
「駄目だと言ったんですが…。」
アンドレスの叔父は、また気難しい顔をつくった。
そして、中央に座している人物、それはコイユールが神殿で見たその人だが、そちらの方にうかがうように軽く頭を下げた。
中央に座したその人は、穏やかな声で言った。
「かまわん。
アンドレスがそこまで信頼している友人ならば、怪しい者ではあるまい。」
その言葉にアンドレスの叔父も、やっと安堵した様子で文句をやめた。
コイユールは声がかすれて言葉にならず、ただ深々と頭を下げた。
アンドレスは立ち尽くしている彼女をテーブル近くのソファに座らせ、自分もそのそばに座った。
フェリパ夫人も、コイユールを守るようにして彼女の近くに座った。
「コイユールは両親を鉱山のミタ(強制労働)で、たった6歳の時に亡くしているんです。」
アンドレスは大勢のいかめし男たちを前にしても、全く物怖じしない堂々とした声で言った。
「ご両親はどちらの鉱山に行かされたのですか。」
ひょろりとして細面の繊細そうな、というか、やや神経質そうな面持ちをした別の男が、コイユールに尋ねる。
その男も、アンドレスと同様、インカ族とスペイン人との混血のようだった。
「ポトシの鉱山だと聞きました。」
緊張の混じった少し震える声で、コイユールは何とか答えることができた。
再び、男たちは深い溜息にも似た声を漏らした。
「標高5000メートルもの高所に坑道が掘られ、火口は赤黒く燃え…あの鉱山での労働は、まるで地獄絵さながらだ。
無期限の過酷な労働、虐待、食べ物もろくに与えられない…!」
アンドレスの叔父は巨人のような拳を握り締め、テーブルをダンッと激しく叩いた。
「畜生め…!」
大男が唸る。
それぞれの男たちの表情にも、強い憤りの色が滲んだ。
「今、ちょうど、ポトシの鉱山の話をしていたところなのだよ。」
神殿で見たのと同じ、あの中央に座した人物が、コイユールに視線を向けて言った。
「ご両親のことは、本当に辛かっただろうね。」
その目は憤りよりも、むしろ、深い悲しみを湛えていた。
コイユールは言葉も出ず、小さく頷いた。
他の男たちも頷き、そして、再び書類を広げて何かの相談に移っていった。
「サンセリテス殿は、殺されたらしい。」
先ほどコイユールに両親のことを尋ねた、やや神経質そうな混血の男が小声で言った。
「フランシスコ殿、それは、やはり本当だったのですか?!」
アンドレスの叔父、ディエゴは目を血走らせた。
「フランシスコ殿の言う通り、サンセリテス殿は亡くなられた。
スペイン人たちは隠しているが、毒殺されたらしい。
恐らく、スペイン人たちに暗殺されたのだろう。」
初老の紳士が唸るよう答えた。
一同は、また固唾を呑んだ。
またか…――という、失望と重々しい空気が流れた。
コイユールの両親が強制労働を強いられたポトシ山は、この国を代表する有名な鉱山である。
その鉱山の町ポトシを中心とするポトシ郡に、近年、サンセリテスというスペイン人が長官として赴任してきた。
彼は、この時代のスペイン人にしては極めて珍しく、インカ族の人々の境遇に同情的な人物であった。
ポトシの鉱山での強制労働のあまりの酷さを見かねた彼は、労働条件の緩和に努め、スペイン人たちの虐待を防ぐために、スペイン本国にかけあってスペイン人の圧制を禁ずる法令を発しようと尽力していた。
しかし、そうしたサンセリテスの行動は、スペイン人の役人たちの激しい不評を買ったのは言うまでもなく、彼は他のスペイン人の同僚たちからひどく忌み嫌われていた。
サンセリテスの突然の不慮の死が報じられたのは、そんな矢先のことであった。
「スペイン人たちに、もはや何も期待はできぬ。」
険しく鋭い目をした、鷲鼻のインカ族の男、ビルカパサが沈黙を破った。
怒りに満ちた、しかし感情をコントロールした冷徹な声だった。
「その通りだ。
我々インカの民を救えるのは、我々自身の力だ!
スペイン人など、血祭りにあげてしまえばよい!!」
アンドレスの叔父、ディエゴが血走った目で毒づいた。
「しかし、スペイン人たちは大量の銃や砲弾を持っています。
我々はオンダ(投石器)がせいぜいだ。
まともにぶつかって勝てる相手ではないことは、武勇に秀でたあなたなら重々わかっているはずだ、ディエゴ殿。
そんなに簡単なことではない。」
神経質そうな、しかし理知的な目をした混血のフランシスコは、ディエゴの迫力に気圧されながらも、しごく最もな見解を述べた。
実際、インカ族には火器がなかった。
正確には、火器をもつことを制圧者によって厳重に禁止されていた。
その製造過程を見ることさえ、かなわなかった。
スペイン人との武器の差は、あまりに絶大だったのだ。
「スペイン人がすべて敵なわけではない。」
暫く黙っていた中央に座した男が、口を開いた。
コイユールは改めて、神殿で見たのと同じ、その人を見た。
今、少し落ち着きを取り戻しながら、とても近い距離でその人を前にしてみると、一人の人間としてのその人物の息遣いが感じられてくるように思われた。
それはただ神々しいばかりの幻想の人ではなく、やはり一人の生身の人間なのだった。
どちらかといえば感情を内に秘めたような寡黙な人物であり、重い難題に心を縛られているような影があった。
しかし、ただその場にいるだけで場の空気を変えてしまう何か強烈な雰囲気をもっていた。
そして、一言でも言葉を発すると、場の雰囲気を瞬時に高揚させる強いオーラのようなものを放つ。
ケチュア語の発音も、非常に流麗である。
「スペイン人の中にも、苦しい生活を強いられている者は多い。
敵はスペイン人なのではなく、この国の民衆を苦しめている暴政だ。」
地の底から湧いてくるような、深く響く声だった。
そして、続けた。
「私はスペイン本国に渡り、この国の暴政を改めるために、スペイン国王に直接会って直訴しようと考えている。」
一同が、はっと息を呑んだ。
張りつめた空気が流れる。
「いや、それは、待ってほしい。」
と、初老のインカ族の紳士、ブラスが遮った。
「その役目、私が果たすべきと思っていた。
私は亡くなったサンセリテス殿とは親しい間柄だったからな。
私がスペインに渡った方が話も通りやすいだろう。」
「しかし、これは非常な危険を伴う旅なのですよ。
サンセリテス殿のように殺されるかもしれないのです。」
中央の男は、スペイン行きを名乗り出たその初老の紳士に、まっすぐ向き直って言った。
その声には、相手の身を強く案じる思いがはっきりと読みとれた。
初老の紳士はその言葉に「わかっている。」と瞳で頷き、意を決したゆるぎない声で言った。
「だからこそ、私が行くのだよ。
そして、万一、私に何かあった時、この国の民はお前が守るのだ。
トゥパク・アマル!」
コイユールは息を詰めて、その緊迫したやりとりを見守っていた。
身を乗り出すように大人たちの話しに聞き入っているアンドレスの横顔に、ふと視線がいく。
アンドレスは恍惚とした表情で、前方を見据えていた。
コイユールはその視線の先を追った。
そこには、先ほど初老の紳士に「トゥパク・アマル」と呼ばれた、あの中央に座す男の姿があった。
アンドレスの眼差しには、深い敬意の念が宿っていた。
それと共に、今、アンドレスの瞳には希望と力が漲り、夜闇を照らす蝋燭の光を受けてまばゆく輝いていた。
フェリパ夫人が、夕食の支度の進み具合を見るために、召使いたちのいる炊事場へと立ったタイミングをとらえて、急いでコイユールも立ち上がった。
その場の雰囲気から、そろそろ逃げ出したい心境になっていた。
「私もお手伝いします。」
フェリパ夫人はコイユールの気持ちを察して、微笑み、頷いた。
炊事場には、インカ族の召使いたちが数人働いていた。
怪しい行動がないか見張るための、炊事場にも厳しい目を光らせた警護の者がいる。
夫人は召使いたちに労いの言葉をかけながら、食事の準備の進行具合を確かめている。
コイユールも何か手伝おうかと炊事場に足を踏み入れようとしたとき、突然、背後から声がした。
「へええ、珍しい。
あんたみたいな子どもが来てるなんて。
いかついオジサンばっかりかと思ったら!」
振り向くと、コイユールの傍の廊下に、同じ年頃位の一人の少女が立っていた。
コイユールと同じような刺繍の施されたインカ族特有の服装をした、褐色の肌の少女である。
しかし、コイユールに比べれば、だいぶ身奇麗な服装には違いなかった。
身なりからすると貴族の娘という印象だが、まるで少年のように黒髪を短く切り、ターバンのような布を額に巻いていた。
スカートも動きやすいように、わざわざたくし上げている。
「誰?
あんた、見かけない子だね。」
少年のような表情をしたその少女はコイユールを上から下まで眺めてから、腰に両手を当てて首をかしげた。
すらりと引き締まった足を広げて立つさまは、本当に少年のようだった。
コイユールはむしろ、自分と同じ年頃の少女の存在に安堵して、ほっと溜息をついた。
「私、コイユールっていいます。
アンドレスの友達で、今日、呼んでもらって来たんです。」
すると、少女はいきなり後ろに跳びすさった。
「えっ?!
アンドレス様の?
アンドレス様の?!」
あわわと、暫くコイユールの顔を穴のあくほど見つめている。
コイユールは何となく決まり悪くなって、再び炊事場に戻ろうとした。
「ちょっと、待って!」
少女がすかさず呼び止めた。
「あたしは、マルセラ。
あそこの中にいた、目のつり上がった怖そ~なオジサンいたでしょ。
鷲鼻の!」
コイユールは、アンドレスと叔父を仲介してくれた人物のことを思い出した。
「あたしは、あの人の親類。
時々そのオジ様に連れてきてもらってるの。」
コイユールは何となく事情が分かって、頷いた。
マルセラと名乗った少女は、改めて、コイユールをまじまじと見た。
「あんたみたいな平民の子が、アンドレス様と友達なんて驚き!」
「アンドレスは、平民とか、貴族とか、そんなこと区別しない人よ。」
コイユールはアンドレスを弁護するようにきっぱりと言い返した。
「そ、そうなの?!
やっぱり?!」
マルセラは、今更ながらという感じで、目を丸くした。
「いやあ、あたしは、なんだか話しかけちゃいけないような気がしちゃって…。
近寄れなかったんだ。
あ!
あたしも一応、貴族の出なのよ。
でも、なんたって、アンドレス様は皇帝陛下の甥だもんね。
とてもとても、一介の貴族のあたしなんか…。」
少女は、両手で降参のポーズをとってみせた。
コイユールは、耳を疑った。
「アンドレスが誰ですって?」
「は?」
「皇帝陛下って?」
マルセラは、ぽかんとしてコイユールを見つめた。
「あんた、まさか、知らなかったの?」
コイユールはマルセラに向けた顔を動かせなかった。
マルセラはいきなりコイユールの肩をつかみ、炊事場や広間から見えない角度にある柱の陰に掴んで連れていった。
そして、改めて、コイユールをまじまじと見ながら、溜息をついた。
「あんた、そんなこと、この場所で言ったら、ほんとヤバイよ!」
コイユールは目をしばたたかせた。
「アンドレス様は、トゥパク・アマル様の甥。
つまり、インカ皇帝のお血筋をひくお方なんだよ!」
そこまで言って、マルセラは柱の陰から注意深く辺りを見回した。
言葉を失っているコイユールに、マルセラは畳み掛けるように早口で言った。
「それじゃ、トゥパク・アマル様のことも知らないんだろうね。」
「トゥパク・アマル様?」
マルセラは、「あちゃあ!」と言って額に手を当てて、それから、まじめな顔になってコイユールを見た。
「あんた、それで、ほんとにアンドレス様の友達なわけ?」
呆れ返ったように呟き、そして、諭すように話した。
「あの真ん中に座っている黒い服を着た、髪の長いお人。
かつてのインカ11代皇帝ワイナカパク様の直系のお血筋を引いてらっしゃるトゥパク・アマル様だよ。
スペイン王からも、インカ皇帝の直系の子孫だっていうことを承認されてる。
だけど、自分を『皇帝』と名乗ってはいけないって、スペインの国王や役人の奴らから止められている…。
ほんと、あんた、なんにも知らないんだねえ…。」
マルセラは唖然とした。
コイユールは、手足が震えてくるのを感じた。
マルセラの説明はこうだった。
スペインの侵略により、スペイン副王トレドの命で非業の最期を遂げたフェリペ・トゥパク・アマルは、インカ11代皇帝ワイナカパクの子マンコの子である。
当時の冷酷なスペイン国王トレドも、フェリペ・トゥパク・アマルの幼少の娘フワナ・ピルコワコの命は許して、彼女にこのティンタ郡内の三村を世襲することにさせた。
ティンタ郡とは、コイユールたちの住むこの地域一帯を指す。
フワナはこの地の豪族コンドルカンキに嫁した。
その後、コンドルカンキ家の直系の子孫をたどると、ブラス、セバスティアン、ミゲルとなり、今この屋敷のテーブルの中央に座しているトゥパク・アマルがそれに続く。
なお、そのトゥパク・アマルの正式名は、ホセ・ガブリエル・トゥパク・アマルという。
つまりは、トゥパク・アマルはインカ征服直後、無残な最期を遂げたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマルから数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫なわけある。
ちなみに、ブラスとは、先ほどテーブルについていた一人で、スペイン行きを自ら名乗り出たあの初老の紳士のことである。
なお、トゥパク・アマルは皇帝の正統な直系の子孫であると共に、コイユールたちが暮らすこの村のカシーケ(領主)でもあったのだった。
現在、トゥパク・アマルは34歳になる。
さらにマルセラの話を要約すると、4年ほど前の1770年、トゥパク・アマルは自ら首府リマのアウディエンシア(裁判所)に訴え、自らがインカ皇帝の直系の子孫であることを認めさせようとした。
なお、首府リマとは、現在のこの植民地ペルーのスペインによる統治機構の中枢である。
そして、調査によっても、資料によっても、インカ皇帝の血統であるという事実が否定できないことが明確になり、やむなくスペイン側は「トゥパク・アマルがインカ皇帝の子孫である」ことを渋々ながら正式に認めた。
話は細かくなるが、先に説明したスペイン征服の初期の時代にスペイン王の命令により命を奪われたフェリペ・トゥパク・アマルは「トゥパク・アマル1世」、現存のトゥパク・アマルは、つまり今この館にいる人物だが、正確には「トゥパク・アマル2世」である。
しかし、トゥパク・アマル2世(今後は、トゥパク・アマルと略記)はインカ皇帝の直系の子孫であることは承認されたものの、インカ皇帝を意味する『インカ(=皇帝)』という称号を用いることは、スペイン王によって厳重に禁じられていた。
スペイン側は、トゥパク・アマルが『インカ』を名乗ることによってインカ皇帝の復活という認識がインカ族の間で芽生え、彼らの自立への意識が高揚し、ひいては反乱が勃発することを深く恐れていたのだった。
ちなみに、アンドレスの叔父ディエゴは、トゥパク・アマルの父親ミゲルの弟の長男で、つまり、トゥパク・アマルとディエゴは従兄弟同士の関係であった。
従って、アンドレスはトゥパク・アマルにとって、甥という関係になる。
コイユールは軽い眩暈を覚え、言葉も出ずマルセラに曖昧に一礼して、おぼつかない足取りで戸口の方に向かった。
とにかく、頭を冷やさなければ…。
足が床から浮き上がっているような感覚がする。
それでも、何とか歩いて、庭に出た。
広い庭の四隅に置かれた赤々と燃える松明の炎が、音も無く夜の闇を焦がしている。
冷たい風が、火照った頬を吹きすぎていく。
外気を深く吸い込み、夜空を見上げた。
上空には、美しい満月が濡れたように静かに輝いていた。
気づかぬうちに、頬を涙が伝う。
(インカ皇帝様が生きていた…!)
コイユールはまともに考えられないほど混乱した頭で、しかし、どこからともなく突き上げてくる熱い想いに打ち震えた。
「トゥパク…アマル様…。」
コイユールは、かすかに呟いた。
“トゥパク・アマル”…――その名は、インカのケチュア語で「炎の竜」を意味していた。
涙を拭くことも忘れて放心したまま月を見上げていたコイユールは、いつの間にかアンドレスがすぐ隣に来ていることにも気付かなかった。
一陣の強い風が吹き、高く、上空さして燃え上がった松明の炎が人影を浮き上がらせた。
コイユールは、はじめて人の気配に気付き、はっと我に返る。
涙でかすんだ視界の中に、アンドレスのいつもと変わらぬ優しい笑顔があった。
「アンドレス」と言おうとしたが、声が出ない。
すぐ隣にいるはずなのに、とても、とても、遠くに感じられた。
アンドレスの瞳もかすかに揺れている。
「マルセラに聞いたんだね。」
アンドレスが静かな声で言った。
コイユールは慌てて指で涙をぬぐって、小さく頷いた。
「もう、本当に…。」
“驚いたんだから!”と笑顔で言おうとしたのに、むせてしまって言葉にならなかった。
マルセラの先ほどの言葉がコイユールの耳に甦る。
『アンドレス様は、トゥパク・アマル様の甥。
つまり、インカ皇帝のお血筋をひくお方なんだよ!』
胸の奥が、ずきんと痛んだ。
アンドレスは、自分とは全く別世界の人だったのだ。
これまで思っていたのよりも、もっとずっと遠い世界の人だったのだ。
「きちんと話そうと思っていたんだ。
驚かせて、すまなかった…。」
コイユールは自分の中から無性にこみあげてくるものをとめられず、もう涙を流れるままにするしかなかった。
自分でも、涙の意味を整理できなかった。
インカ皇帝のこと、そして、アンドレスのこと…、驚きと、喜びと、寂しさと、興奮と、様々な感情が混沌と渦巻き、それらがとめどなく突き上げてくるのだった。
コイユールの方をじっと見入っているアンドレスの瞳も、揺れていた。
その瞳は、まだ少年のあどけなさをどこかに残している。
コイユールは、アンドレスの中に二人の人間を見ていた。
まだ屈託のなさを残した、明るくて朗らかで優しい少年の姿と、何かの念に憑かれたような、そして闘争的でさえあるような、激情を秘めた一人の大人へなりつつある青年の姿だった。
しばらく夜風に吹かれているうちに、コイユールも何とか少しずつ落ち着いてきた。
コイユールの様子をうかがいながら、慎重に言葉を選びつつアンドレスは問いかけた。
「トゥパク・アマル様のことも、聞いたんだね?」
「ええ…。」
コイユールはもう泣いてはいなかった。
そして、自分の心にも確かめるように、頷いた。
「あのお方なら、この国を変えられるかもしれない。」
アンドレスは燃え上がる松明の炎をみつめた。
炎の光を受けるアンドレスの目元には力が宿り、その横顔にはゆるぎない強い意志と決意がはっきりと見てとれた。
「だから俺は、あの方のためなら、どんなことでもするつもりだ。」
ふいに木の枝が燃えてはじける鋭い音を発し、赤い火の粉が夜空にどこまでも高く舞い上がっていった。
◆◇◆◇ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第三話 反乱前夜(1)
をご覧ください。◆◇◆◇
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