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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第六話 牙城クスコ(13)
【 第六話 牙城クスコ(13) 】
高地の秋の深夜は、既に冷え込みが強い。
澄み切った秋空に輝く月明かりに照らし出される夜道を、その姿は見えねども確かに存在するであろう運命の大きな手に、まるで導かれてでもいるかのように、アンドレスは急いだ。
彼は真っ直ぐに負傷兵の治療場へと向かい、衛兵たちが深く挨拶するのに返礼するのも忘れたように、治療場へと乗り込んだ。
増加の一途を辿る負傷兵の治療に当たるため、深夜にもかかわらず、多くの従軍医や看護の女性たちが休み無く働いている。
トゥパク・アマルの片腕にも等しい側近中の側近の将――アンドレス――の突然の深夜の来訪に、周囲の兵も従軍医も、負傷兵たちさえも、驚きの眼で、ひどく畏まりながら慌ててその道を開ける。
一方、アンドレスには、今は、そんな周りの様子など全く見えてはいない。
彼は、ただ、コイユールの姿だけを夢中で探した。
瀕死の重症を負った兵たちが収容されている特別な天幕へと、アンドレスは進んでいく。
きっと、そこにコイユールがいるに相違ない、と分かっていたからだ。
果たして、前方の一隅に、負傷兵に優しく微笑みかけるコイユールの姿を見つける。
何事かと驚愕の眼で周囲が注視するのも感知せぬまま、アンドレスは、一直線に進み、コイユールの後ろに立った。
「コイユール!!」
はっきりとした声で、その名を呼ぶ。
ハッと身を翻すようにしてコイユールが振り返る。
コイユールの目が、大きく見開かれた。
しかし、コイユールは、にわかには起こっていることが信じられぬという様子で、何度もその目を瞬かせた。
それから、まるで深い混乱に陥ったように、その瞳を危うげに大きく揺らし、呆然とアンドレスを見る。
「え?!
…ア…――アンドレス?!」
震えるような声を漏らし、血で染まったその指を思わず額に当てるようにして、コイユールは動転したまま立ち尽くした。
アンドレスの方も、全くなだめる余裕など無いまま、「コイユール、君に話がある。少し、時間をくれないか?」と、単刀直入に言うのがやっとである。
コイユールは、まだ呆然としつつも、深い恍惚の表情で、コクンと頷いた。
彼女は看病中の兵を素早く傍の看護の女性に依頼すると、夢中でアンドレスの後を追うようにして、やや地から浮いたおぼつかぬ足取りで治療場を後にした。
やがて、アンドレスとコイユールは、本営のはずれの静かな林の中に入った。
濡れたように輝く深夜の月明かりが、二人の上にゆるやかに注がれる。
二人は1メートルほどの距離を隔てて、互いを見つめて立った。
どちらも胸が詰まって声が出ない。
涼やかな秋の夜風が静かに吹きすぎ、梢の葉をサヤサヤと優しく鳴らしていく。
それから、風はアンドレスの頬を撫で、そのままコイユールの髪をそっとなびかせて通り過ぎた。
アンドレスは、この期に至って、やっと、やっと、今こうして己の直近に感じることのできた愛しい女性への切ない感情と深い感慨とに溢れる眼差しで、コイユールを見つめる。
一方、コイユールは、未(いま)だ全く信じられぬという表情で、しかし、その清らかな目元に押さえきれぬ愛おしさを滲ませ、震えるようにアンドレスを見上げている。
「コイユール…!」
アンドレスはその響きを確かめるように、やっとその名を呼ぶ。
コイユールは切なげに瞳を揺らし、今にも涙が溢れそうな澄んだその目で、アンドレスを見つめ、それから、優しく微笑んだ。
その瞬間、その目元から、一粒の涙が頬を伝う。
再び、コイユール…――と言いたかったが、アンドレスもまた、激しく突き上げる感情から、声を失っていた。
そんなアンドレスに、コイユールは愛しげに、再びそっと微笑んだ。
吸い込まれるように釘付けられるアンドレスの瞳の中で、コイユールは微かに頬を染め、その細い指先で涙をぬぐう。
そして、そのまま天空の月を見上げた。
つられるように、アンドレスも、月を見上げる。
粛々と白く慎ましやかに輝く美しいインカの月が、そこにあった。
「綺麗ね」
あまりにも懐かしい声で、コイユールが言う。
コイユールの声を身近に聞いたのは、何年ぶりのことだろうか。
「本当に」
やはり、あまりにも懐かしい声で、アンドレスも応じる。
コイユールにとっても、アンドレスの声を直接聞くのは、全く数年ぶりのことである。
それから、二人は天空を仰ぐ視線を互いの方に戻した。
どちらからともなく、微笑みがこぼれる。
二人の間に流れる空気は、いつしか、とても和らいだものになっていた。
あの懐かしい日々と同じように、穏やかで、優しい空気…――が、今、再び二人を包みはじめる。
すうっと肩の力が抜けていくのを感じながら、アンドレスは思い切って言う。
「コイユール…。
すまなかった。
俺は、ずっと、君に声ひとつかけずに…」
コイユールは軽く首を振って、微笑んだ。
「そんな…。
声などかけなくても、アンドレスは、いつも見守ってくれていたわ…。
そう感じてた。
トゥパク・アマル様やビルカパサ様の治療の時に出会えた時も…いつだって…!」
「コイユール…!」
アンドレスは、胸を突かれたように言葉が出ない。
コイユールに話したいことが…言わねばならぬことが…山ほどあるはずなのに……!!
一方、コイユールは静かに微笑みながら、アンドレスを見上げている。
本当は、どれほど会いたかったか、話したかったか、近くに感じたかったか…――と、コイユールの心にも、アンドレスに伝えたい気持ちがとめどなく溢れるが、彼女もそれを言葉にすることができずにいた。
コイユールは、無意識に胸の前で片手を握り締める。
そして、思い切ったように深く息を吸い込むと、素直な疑問を問いかけた。
「アンドレス…でも、何か、あったのね?
こうして、来てくれたのは、何か訳があるのでしょう?
…そうなのでしょう?」
己の心を見通すようなコイユールの清く澄んだ瞳に貫かれ、アンドレスはいっそう口ごもった。
(やっと会えたというのに、すぐに別れの話を切り出すのか…俺は……!
しかも、隣国まで行く上に、いつ戻れるかさえ分からないなどと…――!!)
そんな彼を力づけるように、コイユールが優しい笑顔をつくる。
「言いにくいことなの…ね?
でも、私、きっと大丈夫よ。
ね、アンドレス、心配しないで、言ってみて」
コイユールは気丈に微笑みを保とうとするが、口ごもるアンドレスの沈黙が長引くにつれ、徐々に不安気な影を宿しはじめる。
アンドレスは、不安定になりかけた足を踏みしめた。
(今まで、まるで避けるようにしていた俺が、こんなふうに、突然、押しかけたこと…何か理由があってのことだって、コイユールは察しているんだ。
その理由を、コイユールだって、本当は聞くのが怖いに違いないのに…。
でも、コイユールは向き合おうとしている…!)
アンドレスは、改めてコイユールを見た。
コイユールは覚悟を決めた真摯な眼差しで頷くように、真っ直ぐ自分を見上げている。
(コイユール…!!
ああ…俺も、今までのように、避け、逃げるのは、もう終わりにするのだ!!)
アンドレスは意を決したように、真正面からコイユールに向いた。
そして、搾り出すように言う。
「コイユール…俺は、ラ・プラタ副王領に…派遣されることになったんだ。
明後日、遠征に出立する」
「!!」
そんな!!…――という衝撃が、コイユールの表情にハッキリと浮かび上がる。
コイユールは、そのような己の反応を慌てて隠すように、さっと地面の方に視線を移した。
その彼女の様子に、アンドレスの胸は締め付けられるように苦しくなる。
月明かりが地に引く己の影を、暫しの間、じっと見つめていたコイユールだったが、やがて思い切ったように顔を上げる。
そして、意を決したように、アンドレスの苦しげな瞳を見つめた。
しかし、すぐに耐え兼ねるように、再び、さっと視線をそらした。
それから、小さな擦れた声で言う。
「アンドレス…どうか御武運を…!」
「え…」
「私…アンドレスが、最前線で、どんなに危険に晒されて戦っているか聞いているの…。
どうか…どうか、命だけは…ね…アンドレス……」
アンドレスの目の前で、今、声を詰まらせているコイユールは、まるで己の本心に固く蓋をして、相手の視線から逃がるかのように身を縮めたまま、小刻みに震えている。
(コイユール…!!)
コイユールが、彼女自身の感情よりも、あくまで、新たな戦地に向かう己の身を案じる言葉のみを並べるその姿に、アンドレスの心はかえって掻き乱された。
悲しい、寂しい、不安だと言って泣いてもいいのに、健気(けなげ)にも気丈にこらえるコイユールの姿は、己が突き放してしまっていた数年間の帰結としての、埋め難い遠い距離の隔たりのごとくに…――甘えてはいけないと、己に受け留める度量無しと、暗黙に突き付けられているかのようにさえ感じさせる。
アンドレスも、無意識に視線をそらし、両拳を握り締めた。
じっと目を伏せるようにして、うつむいているコイユールの脇で、アンドレスの横顔も苦渋に歪む。
彼は、それから、頭を冷やすように上空を仰ぎ、深夜の森の冷気を吸い込んだ。
そして、懸命に心を落ち着かせて、コイユールの方に再び向き直る。
うつむくコイユールは唇をギュッと固く結び、やっと見開いた目元には険しささえも宿して、己の周りで次々と展開していく奔流に流されまいと、必死で足を踏み締め、耐え抜こうとしているかのように、アンドレスには見える。
その姿は非常に健気で気丈であるのだが、それ以上に、あまりにも儚げで、痛々しい。
コイユールをこれほどに追い詰めている張本人は誰かと、己に剣を向ける心境のアンドレスの心も、また、その心臓が潰(つぶ)れそうなほどに痛んでいた。
(だが…俺のことだけなのか…?
コイユールの、この苦しそうな様子は…)
深く打ちひしがれたようになっているコイユールを目前にして、その彼女の苦しみを除きたいと真剣に思えばこそ、今、アンドレスの頭は、ただ感情に流される状態を凌駕して、冷静さを手繰り寄せていく。
今度は、アンドレスの方が、じっと何かを読み取るようにコイユールを見た。
実際、自分の此度の遠征の件は別としても、コイユールが、何かとても重いものを背負っているように見えてならない…――という直観が、アンドレスにはあった。
(そういえば…あの時も…!)
先日、ロレンソと共に歩む治療場の路上で、コイユールに偶然に鉢合わせたあの時、彼女の目が懸命に何かを訴えようとしているように見えたことを、今、アンドレスは鮮明に想起する。
(コイユールにも、何かあったんだ…!)
そう確信して見入るアンドレスの目は、コイユールの瞳の奥に、何か、まるで叫ぶかのような色が潜んでいるのを鋭くとらえる。
「コイユール…君の方こそ、何かあったのでは?」
コイユールの目が、再び、大きく見開かれた。
「…!!」
「コイユール、何があったのか、話してごらん。
どんなことでも!」
アンドレスが、誠意溢れる声で言う。
コイユールは、トゥパク・アマルの治療中に見た不吉な予言的光景のことと、そして、トゥパク・アマルの『誰にも言ってはいけない』という言葉を噛み締めたまま、言葉を発せずに立ち尽くす。
しかし、アンドレスは、包み込むように優しく見つめ、今、コイユールは、こうして近くで彼を感じる時、あの絶対的なトゥパク・アマルの言葉さえも超越する程に、彼女にとって、眼前の青年は今でも全幅の信頼に値する、とても大きな存在であった。
やがて、コイユールは意を決したように頷いた。
「トゥパク・アマル様から、決して、誰にも言ってはいけない、と言われていたことなのだけど…」
そして、彼女は覚悟を決めた表情で、トゥパク・アマルの施術中に見た、あの震撼を伴う不吉なヴィジョン――神々しく黄金色に輝く太陽のような光が、突如、赤黒く変色し、その赤黒いものが溶岩のように宇宙に流れ出し、美しい宇宙を呑みこんでしまった――について説明していく。
アンドレスは固唾を呑んで、じっと話に聞き入った。
「私の単なる幻覚であればいいのにって心から願っているわ。
だけど、あんな状況で見てしまっただけに、とても、とても怖い…。
万一にも、天が知らせてきた…予言であったら…って…!
トゥパク・アマル様に、何か恐ろしいことが起こるのではないかって…そんなこと、あるはずないって思おうとしても、どうしても拭(ぬぐ)えなくて…!!
このまま、あの光景の通りになってしまったら、どうしようって…!!」
いよいよ大きく全身を震わせるようにして言うコイユールをなだめるように、アンドレスは「コイユール」と、そっとその名を呼ぶ。
コイユールが見上げる瞳の中に、昔と変わらぬ優しい微笑みを湛えたアンドレスの姿が映った。
「コイユール、君もよく知っている通り、トゥパク・アマル様はとても強いお人だ。
たとえ運命でさえも、あのお方は、ご自分の力で変えてしまうさ。
それに、このインカの天も大地も、いつだって、トゥパク・アマル様の味方をしてくださる。
だから、コイユール、君がそのことで、もう、そんなに苦しむのは、今すぐおやめ。
今、君は思い切って俺に話してくれたろう。
その瞬間に、コイユールが見たものは、全て俺の中に引き受けた。
君の言葉を忘れずに、俺は精一杯にトゥパク・アマル様を援護する。
だから、君は、そのことは、もう、忘れるんだ。
いいね」
アンドレスのその言葉は、決して、とりわけ特別な内容というわけではなかったかもしれない。
だが、コイユールにとっては、まるで魔法の呪文のように、その胸に押し込めた氷の塊を瞬時に溶かし去ってしまうほどの威力を十分に持っていた。
まるで大きな海に包まれていくような感覚の中で、コイユールは、ただ素直に、深く頷き返す。
アンドレスも、また、己の言葉を無条件に信じようとしてくれているコイユールをとても愛しく、再び二人の距離が近づいていくことを感じて、彼の心は湧き立った。
アンドレスは、真意を込めた真摯な声で続ける。
「俺は、これからはトゥパク・アマル様のお傍でお守りすることはできなくなるけれど、遠くからでも、トゥパク・アマル様のために、インカのために、力一杯戦う」
眩しそうな目になって見上げるコイユールの方に、アンドレスは熱い視線を向けた。
「そして、君のために…――戦う!
だけど、君が願ってくれるなら、俺は死なない。
必ず、生きる。
だから、君も死んではいけない。
コイユール。
絶対に!!」
恍惚とした表情で、コイユールはアンドレスを見上げ続けている。
アンドレスは、彼もまた、恍惚たる表情でコイユールを見つめながらも、誓いを求めるように言う。
「いいね、コイユール、必ず生き延びるんだ!!
どんなことがあっても!!」
「アンドレス…!」
二人は、その清く澄んだ目で、真っ直ぐに互いの顔を見つめた。
再び、生きて会いたい!!――…それは、当然のことだった。
しかし、その胸中には、凍てつくような不吉な予感がよぎらぬはずはなかった。
ふと現実を振り返れば、コイユールが残るこのインカ軍本隊も、アパサの援護に向かうアンドレスの精鋭部隊も、両者を待ち受ける行く手は、あまりに波乱ぶくみであった。
トゥパク・アマル率いるこの本隊は、間もなく、いっそう強化されたアレッチェ率いるスペイン軍本隊との総決戦になるのは必定。
一方、アンドレス率いる精鋭部隊とて、ラ・プラタ副王領の敏腕フロレス率いるスペイン軍との激突に、自らその身を投じていくことになるのだ。
もしや…もしや、これが、本当に、今生の別れになるのでは…――?!
二人の胸中を、不安の暗雲が激しく渦を巻く。
コイユールの、あれほど気丈に耐え抜いてきた眼差しも、今は、まるで縋(すが)るような必死の色を帯びながら、アンドレスに注がれる。
(ああ…もう本当にアンドレスは、このまま、ここを離れて行ってしまうのだ…。
ラ・プラタ副王領って…そんな遠くに?!
インカ全体のためだって、それは、よく分かってる…。
だけど…!
今までは、たとえ言葉など交わせなくても、それでも、同じ陣営の中にいるって、それだけで、私、こんなに安心と感じていたんだ…!
今頃、そんなことに気付くなんて……!!)
コイユールの瞳は大きく揺れ、その潤んだ目元からは涙が膨らみ、零(こぼ)れ落ちそうになっている。
一方、今、とても素直になったコイユールの眼差しを受けて、アンドレスの心は不安や恐れを凌駕し、ただひたすら愛しいという、もうそれだけに覆われていく。
次の瞬間には、アンドレスの逞しい腕は、今にも崩れそうなコイユールをしっかりとその胸に抱いていた。
そして、己の力を分け与えるかのように、その腕に力強く包んだまま言う。
「俺は、絶対に、死なないと誓う。
だから、コイユールも誓ってくれ。
また、必ず…必ず生きて会うと!!」
コイユールは、声が詰まって、言葉が出ない。
ついに、コイユールは、アンドレスの胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げて泣き出した。
まるで、今までこらえにこらえてきた様々な想いや感情を全て吐き出すように、箍(たが)がはずれ、意識すらもどこかに飛んでしまったように泣き続けている…――そんなコイユールの、これまでの、そして、これからの、その不安も悲しみも、アンドレスは、その全てを吸い取り、引き受けるように、いつまでも優しく抱き締めていた。
やがて、涙も涸れたのか、コイユールはいつしか泣きやんで、それから、アンドレスの胸に顔を埋めていることにハッとして、慌ててその腕から離れる。
そして、泣きはらした真っ赤な目のやり場に困ったように、頬を微かに染めたまま、周囲に視線を泳がせた。
それから、「あっ!」と、小さく声を上げて、パッと表情を輝かせた。
アンドレスも、「え?」と、コイユールの視線を辿る。
見ると、ちょうど二人の寄り添っていた傍の大木の樹幹に、可憐な蘭の花が咲いていた。
一つの株に仲睦まじげに咲いている二つの花…――純白の花びらに、紅色の斑点が鮮やかに映えている。
コイユールは、まるで妖精か何かに近寄るように、相手を驚かせまいとでもするかのような足取りで、静々と花に近づいていく。
そして、蘭の傍で夢見るような眼差しになって、ぽつりと言った。
「そういえば…エスピリットパンパ(註:『魂の平原』の意)に向かう途中の森には、蘭がたくさんある場所があるって聞いたことがあるわ。
雨季には、それはもう、たくさんの美しい蘭の花が咲くって…」
そんなコイユールの方に歩み寄りながら、アンドレスも想いを馳せるような眩しげ目になった。
「エスピリットパンパか…。
かつての皇帝陛下…今のトゥパク・アマル様と同じように、征服下のインカの復活を賭けて戦ったマンコ・カパック様やティトウ・クシ様、そして、初代のトゥパク・アマル様たちが暮らされた秘密の都があった場所だ…」
「初代のトゥパク・アマル様…」
蘭の花を愛しげに見つめながら、そっと頷くコイユールの方に、アンドレスは優しく目を細めた。
「行ってみようか」
「え…」
コイユールは、ふっと蘭の方から視線を上げた。
彼女の瞳の中に、微笑みながらも、真面目な顔でこちらを見つめているアンドレスの姿が映る。
「この反乱が終わったら、行こう!
二人で…!
歴代の皇帝陛下たちの魂を守っている蘭の花たちだ…。
きっと、高貴で、可憐で、美しい花たちに違いないよ。
コイユール、君に、見せたい」
「え…!」
恍惚に顔を輝かせながらも、言葉を失ったまま、コイユールは頬をたちまち蒸気させていく。
そんな彼女を目前にして、アンドレスも我に返ったように、突如、カァッと赤面した。
そして、慌てて言う。
「…っていうか、いや、俺も見たいから…!!」
「え…!」
コイユールは頬を染めたまま、しかし、すっかり照れているアンドレスの慌てように、ついに、プッと微笑ましげに吹き出した。
「コ…コイユール…」
急に情けない声を発しているアンドレスに、コイユールは、思わずクスクスと笑ってしまう。
それから、すぐに彼女は優しい眼差しを向けた。
「嬉しい…!
アンドレス」
そんな彼女に、アンドレスは、まだ少々照れくさそうながらも再び優しく微笑みかけると、傍の地面に置いてあった布包みを手に取り、それをコイユールの目の前に捧げ上げた。
それから、今までと少し趣の異なる、真剣な眼差しになって言う。
「これを、君に…」
「え?!」
驚いたように目を瞬かせながら、コイユールがその包みを受け取る。
彼女の手の平に、ズッシリとした重量感が伝わってきた。
これは?!…――と、見上げるコイユールの瞳に頷きながら、「布を開けてみて」と静かな、しかし、力を込めた声でアンドレスが言う。
コイユールが布包みを開くと、その中には、太陽の紋章の刻み込まれた鞘に納められた、重厚な短剣があった。
「これは…!!」
彼女は、生まれてはじめて手にした短剣なるものに、困惑と恍惚の表情で息を呑む。
鞘のみならず、柄にも黄金の繊細な細工を施されたその短剣は、まるで王家の秘宝のように厳かで美しい。
しかし、それ以上に、その剣には、蒼い「気」を纏うような気迫と輝きがあった。
「コイユール、それを俺だと思って、人目につかぬところに常に身につけていてほしい。
そして、いざという時は、それで身を守ってくれ」
「え…!!」
驚いたように見上げたコイユールの瞳に、先程までの柔らかさとはうって変わって、険しいほどに真剣なアンドレスの表情が映る。
「コイユール…君が、この短剣を使わねばならぬような状況になどならないことを、俺は、心から祈っている。
だけど、この戦乱の中では何が起こるかわからない。
俺が傍にいれば、君に何か起こりそうになれば、迷いなく、俺はその敵を討つだろう。
だが、俺は、傍にはいられない。
その短剣は、俺の分身だ。
だから、そういう事態になったら、俺が躊躇なく敵を討つと言った言葉通り、迷わず、敵の胸を突け。
いいね。
一秒でも間を置けば全てを失う。
だから、一瞬も躊躇(ためら)ってはいけない。
コイユール、君が殺(や)るのではない。
俺が殺るのだ。
わかったね。
コイユール」
アンドレスの、その険しく鋭い眼差しと口調に、コイユールは身を固めながら固唾を呑む。
一方、アンドレスはコイユールの片手を取ると、短剣の上に彼女の手を乗せ、その上から彼自身の片手も重ね、そして、まるで祈りを捧げるようにじっと瞼を閉じた。
コイユールは、己の手にアンドレスの手のぬくもりと共に、力強いエネルギーが送られてくるような感覚を覚える。
そして、そのエネルギーが彼女自身の手を包みながら、その下にある短剣に流れ込んでいくのを感じた。
まるで二人の力が合わさり、短剣がいっそう蒼い輝きを強めながら、力強く脈動しはじめていくかのようだった。
コイユールは短剣を強く握り締めた。
その彼女の手を、アンドレスも力強く握り締める。
そのまま、彼は再び、コイユールをしっかりと胸に抱き締めた。
「コイユール、誓ってくれ。
必ず、生きて、会う、と!!」
短剣を胸にしたまま、コイユールも深く頷く。
「アンドレス、誓うわ…。
必ず、生きて、会いましょう!」
今、再会を誓い合う若い二人の上に、まるで見守り庇護するように、純白に光輝くインカの月明かりが粛々と注がれていた。
そして、二日後…――。
アンドレス、遠征出立の日である。
インカ軍本営の中央広場では、インカ軍本隊の兵が整然と見守る中、トゥパク・アマルと、そして、側近たちと別れを交わすアンドレスの姿があった。
蒼穹の空に、今年巣立った若いコンドルが悠然と舞い飛ぶ、爽やかな秋晴れの早朝である。
アンドレスと共にラ・プラタ副王領へ出征する精鋭二万の軍勢は、騎兵と歩兵から成り、革と綿でできた頑強な胸甲を身に纏い、サーベルと鈍器と銃とで武装している。
その武装の様相は、トゥパク・アマルの采配により、彼自身の本隊にも引けを取らぬほどの堅固なものだった。
アンドレス配下の軍団の中には、若獅子のごとく逞しく生気溢れる若い兵たちが数多く、やはりまだ若いながらも、その腕前は既に老練の武者に等しい総指揮官アンドレスに恭順と敬意を表しながら、意気揚々たる表情で出立の時を待つ。
一方、アンドレスは、己の出立を見送る側近たちに、そして、本隊に残る兵たちに、深く礼を払いながら別れの挨拶を述べていた。
彼の父親にも等しき叔父のディエゴが、まさしく父親のごとくの厳しくもおおらかな眼差しで、あの岩のように逞しい手をアンドレスの肩に乗せ、一発、力強く叩いた。
「自信を持って、存分に戦ってこい!!」
アンドレスも力強い笑顔を返し、「叔父上も、存分に!!」と凛々しい眼差しで言う。
傍に控えるビルカパサは、相変わらず感情統制のいき届いた表情の中にも、深い感慨を滲ませてアンドレスを見る。
そして、トゥパク・アマルにするのと全く同じように、今、アンドレスに向かって、非常に深く恭しく頭を下げた。
アンドレスはビルカパサの傍近くまで歩み寄り、真剣な眼差しで相手の顔を見つめた。
「ビルカパサ殿、くれぐれも、トゥパク・アマル様をお願いいたします!!」
深い思いのこもったその声に、ビルカパサも、その意をしかと察して、「アンドレス様、どうかお任せください」と、非常に精悍な眼差しで力強く応える。
それから、アンドレスは、少し離れたところでじっと己に見入るフランシスコに向いた。
「フランシスコ殿…!」
誠意溢れる声で真っ直ぐに視線を送ってくるアンドレスに、フランシスコも居住まいを正してそちらに向き直る。
「フランシスコ殿、どうか、トゥパク・アマル様のこと、よろしくお願いいたします」
そう言って、アンドレスはフランシスコに深々と頭を下げた。
フランシスコは、その目に戸惑いの色を浮かべながらも、「アンドレス様、恐れ多いことでございます」と、周囲の側近たちの目を気遣いながら、アンドレスの頭を上げさせる。
そして、変わらず真摯な眼差しで己を見つめる眼前の若者に、フランシスコも「必ずや、できるだけのことはいたす」と、戸惑いの色を残しながらも、頷き返した。
アンドレスも、今一度、フランシスコに深く礼を払った。
その他の側近たちとも別れを交わした後、最後に、アンドレスは、中央に堂々たる風貌で厳然と立ち、静かに己に視線を注いでいる、インカ軍全軍の総指揮官トゥパク・アマルの方に進み出(い)でた。
そして、その足元に跪き、深く礼を払う。
「トゥパク・アマル様、それでは、行って参ります!!」
アンドレスは頭を下げたまま力強く出立の挨拶を述べると、決意と覚悟を秘めた蒼く燃える瞳で、真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。
その瞳に頷き返すトゥパク・アマルの瞳は、雄大な大地を悠然と流れる川のごとくに静かで、深遠である。
「しかと頼んだぞ。
アンドレス」
あの深く、低く、響く声で、トゥパク・アマルが言う。
「はっ!!」
再び、アンドレスが深く恭順の礼を払う。
その瞬間、トゥパク・アマルが、跪くアンドレスの前に、優美な身のこなしで身を屈めた。
驚いている眼前の若者と同じ目線になり、トゥパク・アマルは、いつ見ても美しいその切れ長の目元に強い光を宿し、アンドレスの蒼く燃える瞳をじっと見つめた。
「忘れるな。
いつ、いかなる時も、わたしはこのインカの地にあり、インカの民と共にある。
たとえ、その姿が見えなくなろうとも、わたしはそなたの中に宿っている。
だから、そなたの判断を信じて進め。
よいね」
そして、すっとその目を細めて、微笑んだ。
アンドレスの瞳が揺れ出すのも束の間、トゥパク・アマルはすっくと立ち上がると、いかにもインカ皇帝らしき厳然とした眼差しに戻って、きっぱりと響く声で言う。
「行(ゆ)くのだ、アンドレス!!」
アンドレスは何か心に引き摺るものを残しながらも、しかし、凛とした姿勢で立ち上がった。
もはやトゥパク・アマルに届くほどにその背丈も体格も、そして、その放つ雰囲気も、雄々しく成長しつつあるアンドレスは、今、大きな重責をその身に受け入れ、十分に二万の軍団の将らしく見える。
それと共に、ディエゴやビルカパサら、常に彼に身近に接してきた者たちは、アンドレスの雰囲気が、急に今までとどこか変わった…――何か、これまでには無かった深さと大きさを宿したような、地に足がついたような…と漠然と感じていたが、それは、此度の遠征という大任を纏ったことによるためなのか、彼らには、真相はわからなかった。
だが、今までのアンドレスとは、どこか雰囲気が違う…――と、それだけは、確かだ、と感じていた。
ふとディエゴが目をやると、トゥパク・アマルも無言のままに、しかし、何かを感じ取るようにアンドレスを見つめている。
一方、アンドレスは、「行って参ります!!」と、トゥパク・アマルに、側近たちに、そして、恭順を示しながら見守る無数のインカ兵たちに、再び深い礼を払う。
彼を見送る兵たちの中には、義勇兵たちも含まれている。
そんな義勇兵たちの隊列の一隅から、コイユールも、そっと見送ってくれているかもしれない、と、ふっとそんな思いがアンドレスの胸中をよぎる。
(必ず、また…!
コイユール!!)
心の中で、コイユールに最後の別れを告げ、それから、アンドレスは将としての横顔に戻り、トゥパク・アマルの本隊を成す全軍の兵たちをはるばると見渡した。
トゥパク・アマル様を、どうかお願いいたします…――!!
側近たちに、インカ軍本隊の全ての兵たちに、そう心の中で強く訴えかけると、アンドレスは振り切るように踵を返した。
そして、己を待つ軍勢の方に決然と向かう。
途中、素早くアンドレスに近づく者がある。
それは、かの朋友ロレンソであった。
二人は深い感慨に溢れる目で、暫し、見つめ合う。
「アンドレス、存分に!!」
「ロレンソも!!」
互いに深く頷いた。
それから、ロレンソが言う。
「アンドレス。
そなたの大切なお方のことは、わたしが必ずや、お守りいたす」
アンドレスは、ハッとした目で朋友を見る。
ロレンソは再び深く頷き、光を宿した目で微笑んだ。
「アンドレス、何も案ずるな。
今は、戦(いくさ)のことのみを!!」
「ロレンソ…!!」
どちらからともなく、その手をがっちりと結び合う二人を、微かにその瞳に涙を滲ませたマルセラが、少し離れたところから見守る。
アンドレスと目が合うと、マルセラは常と変わらぬ少年のような闊達な笑顔をつくり、きっぱりと言う。
「アンドレス様、ご武運を!!」
「マルセラも!!」
アンドレスは優しい瞳でマルセラを、そして、ロレンソを交互に見た。
「二人共、また会おう!!」
そして、心の中で、二人に深い真心を込めて言う。
(ロレンソ、マルセラ。
二人は、必ずや、幸せになってくれ…――!!)
それから、アンドレスは、その身に備えた重厚なサーベルの感触を、その逞しい手でしかと確かめながら、己を待つ大軍団の方へと勇ましい足取りで歩み去った。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第七話 黄金の雷(1)
をご覧ください。◆◇◆
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