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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第七話 黄金の雷(1)
【 第七話 黄金の雷(1) 】
アンドレスが二万の軍勢を率いてアパサの援護に向かった頃、いよいよトゥパク・アマル率いるインカ軍本隊と、アレッチェを総指揮官とするスペイン軍本隊との、互いの総力を挙げての決戦の時が迫っていた。
今、スペイン軍が標的にしているのは、トゥパク・アマルのもともとの本拠地であるティンタ郡トゥンガスカの集落、つまりは、インカ軍の本陣である。
そのトゥンガスカでは、トゥパク・アマルの屋敷を中枢として本陣を構え、出征中の総指揮官トゥパク・アマル不在の中、その守りを堅く固め、精鋭のインカ兵たちによって厳重に警護されていた。
そして、トゥパク・アマルの屋敷、すなわち本陣中枢部では、彼の美しい妻ミカエラが、夫の代理としての任務を立派に果たしていた。
彼女は、その優れた才覚と雄々しい性格とによって鮮やかな采配を振るい、夫の指揮するインカ軍本隊をはじめ、各地に遠征中のインカ軍分遣隊を背後から強力に支えていた。
かくして、1781年3月下旬、トゥパク・アマル率いるインカ軍本隊は、当地でのスペイン軍との決戦に備え、このトゥンガスカの本陣へと戻ってきた。
本部であるトゥパク・アマルの館に、反乱幕開け以来のほぼ4ヶ月ぶりに姿を見せた夫や側近たちを、女神のごとくに麗しいその風貌と所作で、ミカエラが迎え入れる。
今、戦場にて以前にも増して逞しく日焼けし、その肌の随所に無数の傷跡を刻んで戻った夫を前に、その気丈なミカエラの瞳もさすがに揺れている。
周囲の側近たちの手前、あからさまな感情は決して露にしない女丈夫なミカエラではあったが、「よくぞ、ご無事でお戻りになられました」と平静を装うその声には、しかし、深い安堵の色と共に、溢れ出さぬばかりの愛情が隠しきれずに滲む。
トゥパク・アマルも、「よく本陣を守り、そして、インカ軍をしかと支えてくれた。そなたの采配、実に見事であった」と、総指揮官としての立場から深くその労をねぎらい、その瞳を細めて静かにミカエラに微笑んだ。
そんなふうに平静を保つ彼のその横顔にも、久方に間近に接することのできた眼前の妻――このミカエラは、反乱の勇ましき同志であると共に、彼にとっては、心優しき妻であり、愛息子たちの良き母でもあったのだ――に注がれる眼差しには、他の側近や兵たちに向けられるものとは明らかに異なる、深い感慨と情の色がこもる。
トゥパク・アマルは本陣に到着すると、その晩、早速、側近たちを集めて軍議を開いた。
彼を中心に、ディエゴ、オルティゴーサ、ビルカパサ、ベルムデス、フランシスコら、いつもの重側近たちが、燭台の下に地勢図を広げながら険しい面持ちで今後の戦略を練り上げていく。
なお、それらのメンバーの中に、今、トゥパク・アマルの妻であるミカエラが加わり、他方、ラ・プラタ副王領に遠征中のアンドレスの姿はそこには無い。
蝋燭の灯りに照らし出されるトゥパク・アマルの横顔で、切れ長の目元が鋭い光を放つ。
「このトゥンガスカに敵軍を到着させる前に、やらねばならぬことは多い。
まずは、当地の民を全員、安全な地に避難させねばならぬ。
そして、決戦に備え、堅固な堀と塹壕を備えるための大規模な工事も必要だ。
また、要所を定め、大砲も設置する。
いずれにしろ、戦闘前に、今暫くの時間をかせがねばならぬ」
そう言って、集まった者たちを鋭利な眼差しで見渡した。
トゥパク・アマルの光る刃物のごとくに研ぎ澄まされた視線を受けて、その場にいる者たちも、いっそう険しい目つきで深く頷く。
彼は、そんな側近たち一人一人を見渡して、地勢図に添えられた褐色のしなやかな指先に力をこめた。
「敵が当地に押し寄せる前に、敵の足を鈍らせる。
敵の当地への進軍を阻むのだ!」
低く、しかし、はっきりと響く声で言う彼の言葉を受けて、参謀のオルティゴーサが、その獅子のごとくの顔面に強い光を漲らせて、言う。
「トゥパク・アマル様。
当地へ至るまでの山岳地帯で、敵に襲撃をかけるということですな?」
トゥパク・アマルが、鋭く頷き返す。
「狙う相手は、スペイン軍の総司令官、バリェ将軍。
あの者の連隊を襲撃し、敵軍の出鼻をくじく。
折りしも、季節は雨季。
敵を叩くには、好機」
一同は、決然とした精悍な横顔で、再び深く頷いた。
闇を振動させるような太い声で、ディエゴが言う。
「それでは、すぐにも斥候を放ち、バリェ将軍の動向を探らせましょう」
「そうしてくれ。
それから、クスコから当地に至る山岳地帯の地勢を、詳細に調べてくれ」
そう応えるトゥパク・アマルの目が、獲物を狙う鷲のごとくに閃光を放った。
全員の表情にも、これまで以上の強い緊張と、気迫と、覚悟の色が見える。
次の戦いこそ、いよいよ最終決戦となるやもしれぬ…――!!
トゥパク・アマルが、あの地底から湧き出すような、ゆるぎなき声で低く言う。
「負けるわけにはいかぬ」
その美しい目元を吊り上げ、迫り来る敵を射抜くがごとくに険しいその眼の中には、蒼い炎が激しく燃え上がる。
そして、その全身からも、青白い光がメラメラと放たれていく。
今、薄闇の中で、トゥパク・アマルの姿は、その青白い光を黄金色のオーラに変色さながら、闇を圧倒していくかのようにさえ見える。
己の眼に映る幻のようなその光景に恍惚を覚えながら、側近たちの胸中には、よりいっそうの深い恭順と忠誠の念が突き上げる。
(皇帝陛下!!
インカのために、必ずや我々の手で勝利を!!)
一方、インカ皇帝そのままの気高く厳然たる気迫と眼差しで、トゥパク・アマルも、無言のままに、ゆっくりと頷き応える。
そなたたちと共に、必ずや、インカの地に、その民に、勝利の栄冠を…――!!
その夜、ひとまず戦略会議を終えて、それぞれの側近たちも、広大な館の敷地に本営を張った陣内の己の天幕へと戻っていった。
厳(いかめ)しい男たちが去っても、館の一階は、相変わらずインカ軍の指令本部として、複数の兵たちにより、昼夜を問わずその機能を維持している。
これまでトゥパク・アマルの代理として本陣の指揮をとってきたミカエラに代わり、この後は、トゥパク・アマル自身が、この本陣そのものの指揮をとっていくことになる。
今、インカ軍総大将直々の指揮のもと、この本陣の兵たちの表情には、これまで以上の緊張感と共に、強い高揚感が滲んでいた。
一方、夜も更けて、館の二階のプライベートな空間では、トゥパク・アマルの家族が、やっと、4ヶ月ぶりの再会の時を迎えようとしていた。
もう夜も遅いにもかかわらず、父との再会の時を今か今かと待ち侘びていた三人の息子たち、長男イポーリト、次男マリアノ、そして、末子フェルナンドは、やっと公務から解放されて二階へ上がってきたトゥパク・アマルの方に、勢い良く、まるで飛ぶようにして走り込んで来る。
現在、イポーリトが12歳、マリアノが10歳、そして、フェルナンドが8歳という、まだまだあどけなさを残す少年たち。
トゥパク・アマル似の、流れるような黒髪と澄んだ美しい切れ長の目をした、凛々しくも、天使のように愛らしいその風貌に、しかし、今は、戦時下であるという、少年たちなりの自覚と士気さえをも纏い、年齢以上にどこか大人びて見える。
4ヶ月会わぬ間に、しかと成長を遂げている息子たちを、頼もしさと、切なさとの両方の想いを抱きながら、トゥパク・アマルは己の胸に強く包み込む。
それぞれの少年たちを代わる代わるに、年少のフェルナンドから、次男マリアノ、長男イポーリトへと…――。
そして、少年たちのぬくもりをその腕で直(じか)に感じ取り、その成長ぶりを、その身に、心に、深く手応えとして受け留める。
特に、長男のイポーリトの成長ぶりは、そうした年代でもあるためか、ひときわ目覚(めざま)しい。
イポーリトの風貌は、父である己に似ていると共に、母であるミカエラにもよく似て、麗しく優美な雰囲気を備え、この数ヶ月の間にも更に逞しさを増し、純真無垢な少年から雄々しい青年へと大きく成長しようとしているように見える。
これまでも、彼は総指揮官代理の母ミカエラをよく助け、インカ軍の戦況も、父トゥパク・アマルの現在に至るまでの動きも、既によく熟知していた。
イポーリトは己を抱き締めていた父の腕をゆっくりと離れながら、母譲りの、まるで動くブロンズの天使像のような優美で涼やかな眼差しを、真っ直ぐ父トゥパク・アマルに向けて、きっぱりと言う。
「父上!!
この後は、僕もインカ軍の兵として、戦場に出て戦います!!」
トゥパク・アマルは、僅かに目を見開いた。
そして、イポーリトの肩をそっと放しながら、まるでミカエラを青年に移し変えたがごとくに凛々しく成長した長男の表情に、流れるような視線を注ぐ。
イポーリトの黒く澄み切った瞳には、既に、年齢以上にこの世の無情を垣間見てしまった悲痛さと、それによる傷つきと、それを凌駕する闘志の炎が燃えている。
トゥパク・アマルは、静かに目を細めた。
それから、おもむろに問う。
「そなた、武器はとれるか?」
イポーリトは、きっぱりと応える。
「父上に、幼き頃より剣を学んできたではありませんか」
トゥパク・アマルは、僅かに苦笑する。
「あのようなものは、ほんの遊びの程度。
そなたには、まだ真の剣は教えてはおらぬ」
瞬間、イポーリトの目に微かに戸惑いの色がよぎる。
が、すぐにそれを押しのけて、鋭い光を強めた目元を勇ましく吊り上げて、挑むように眼前の父を見据えた。
「父上、僕がまだ剣の腕が弱いからって、スペイン軍は待ってはくれないでしょう。
それならば、今もてる最大限の力で、命を懸けて戦うのみです!!」
その瞳の炎をいっそう燃え上がらせて己を睨むように見上げる息子の目を、トゥパク・アマルも真っ直ぐに鋭く見下ろす。
それは、父と息子というよりも、もはや、総指揮官と一側近という構図に見える。
「命を懸ける?」
「はい!!」
イポーリトは、何の躊躇も見せずに、毅然と応える。
そして、続けた。
「もし、今度の決戦でスペイン軍に破れれば、いずれにしたって僕たちは、スペインの役人たちに真っ先に処刑されるのでしょう?」
「…――!!」
思いもかけぬ息子の発言に、トゥパク・アマルは息を呑んだ。
そして、次の瞬間、少し離れた場所で、顔色ひとつ変えず、じっと夫と長男とのやり取りを見守る妻ミカエラの方に視線を走らせた。
ミカエラは、その美しい表情を少しも動かさず、「真実を伝えたまでのこと。総指揮官の息子として、当然、知っておくべきこと、覚悟をしておくべきことでありましょう」と、無言のまま、目だけで応えてくる。
トゥパク・アマルは、微かに目を見開き、まだじっとミカエラの目を見ていた。
ミカエラは瞳で頷き、「三人共に、既に以前から話してあること。あなたが動揺して、どうするというのです」と、相変わらず無言のまま、その麗しい目元だけを涼やかに細める。
トゥパク・アマルは、にわかに苦渋の色で、ミカエラからはずしたその視線を瞬間、床に移した後、再び、イポーリトの方に視線を戻した。
イポーリトは、もはや12歳という年端に似合わぬ、決然とした覚悟を宿した眼差しで、力強く言う。
「いずれにしても失う命なら、いいえ、たとえそうとは限らぬとしても、僕は、今、インカのために全ての力を捧げたい!!
父上!!」
「僕も、同じです!!」
トゥパク・アマルが応えるのを待たず、父と長男との間に、毅然とした足取りで次男のマリアノが入り込む。
マリアノは、まるでトゥパク・アマルの生き写しのごとくに、父にそっくりな、正確には、父を若くしたのとそっくりな、その姿と仕草で、堂々たる自信を漲らせて長男を押しのける勢いで父に迫りくる。
「父上!!
僕も、インカ軍の兵として、戦います!!」
「マリアノ、そなたもか…」
トゥパク・アマルが見つめる、その己と瓜二つの次男の瞳にも、健気(けなげ)なほどに明らかな覚悟と決意の色が見て取れる。
まだこの世に生を受けて10年しか経たぬ、その身を、その心を、生死の狭間の空間へと追いやっている己の所業がひどく呪わしく思え、瞬間、トゥパク・アマルはその瞼を固く閉じて、込み上げる感情を殺した。
そんな彼に追い討ちをかけるがごとく、まだ少女のような澄んだ声で「僕もです!!父上!僕も、兄上たちと共に戦います!!」と、末子フェルナンドがきっぱりと言う。
目を開けたトゥパク・アマルの前で、まだ全く天使のように純真無垢な姿と心のフェルナンドは、しかし、兄たちにも負けぬ強い光を宿した眼差しで、きっ、と己を真っ直ぐに見上げている。
父トゥパク・アマルとも、母ミカエラとも、とても似ているようで、それでいて、その二人には無い柔らかな雰囲気を纏うフェルナンドを見るたび、どこかアンドレスのようだ、と、トゥパク・アマルはいつも思う。
実際、息子のフェルナンドと、甥のアンドレスとは血縁関係にあり、似ていても不思議はないのだが、アンドレスの身に宿る光に似たものをフェルナンドは持っている、と、彼は思う。
もう少しだけ早く生まれていたら、この後のアンドレスのごとくに、真にインカにとっての希望、光となり得る、否、なっていかねばならぬ存在だったかもしれない、と……。
(だが、まだ8歳…――あまりにも、幼い!!)
この先に待ち受けるかもしれぬ息子たちの運命を思うと、トゥパク・アマルの魂は心底から震えた。
音も無く見守るミカエラの瞳も、明らかに揺れはじめる。
トゥパク・アマルは無言のまま、今ひとたび、その胸に三人をきつく抱いた。
そして、低く、呻くように言う。
「わかった。
…――そなたたちも、参戦せよ」
息子たちを就寝させた頃には、更に夜も深まっていた。
二階にある夫婦の寝室の窓からは、屋敷の広大な敷地に陣を張るインカ軍本営を照らし出す無数の松明(たいまつ)と幾つもの天幕が、はるばると見渡せる。
そろそろ蝋の残りの少なくなった一本の蝋燭の光が、深夜の窓辺に立ち、目を細めて眼下の野営場を見下ろすトゥパク・アマルの横顔を、濡れたように照らし出す。
その表情には色が見えず、鋭く険しいようでもあり、優しく見守るようでもあり、悲痛な憂いを秘めているようでもある。
トゥパク・アマルより遅れて部屋に入ってきたミカエラは、そんな窓辺の夫の表情を確かめるように、静かな足取りで、そっと近づいていく。
己の方へ歩み来る妻の気配を背後に感じながら、だが、彼はまだ黙って眼下を見下ろしている。
トゥパク・アマルの少し背後でミカエラは足を止め、無言のまま、その横顔をうかがった。
戦乱の前には感じられなかった、幾多の、深い、深い、業(ごう)を、今はその身に厚く纏い、ただじっとそれを甘受している夫の姿は、武人のごとくに冷徹なミカエラの心さえも震わせる。
次の瞬間、トゥパク・アマルの逞しい腕が、己に追いつくほどに長身の、しかし、ほっそりとしたミカエラの肩を強く引き寄せた。
そのまま、トゥパク・アマルは、己の唇を妻の美しいそれと重ねる。
ミカエラも、しなやかな両腕を夫の逞しく引き締った体に回し、応えた。
時を合わせたように、蝋の無くなった燭台の灯りが消える。
蝋の臭いが室内に立ち込めていく。
後には、静やかな衣擦れ(きぬずれ)の音だけが残された。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第七話 黄金の雷(2)
をご覧ください。◆◇◆
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