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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第八話 青年インカ(5)
【 第八話 青年インカ(5) 】
トゥパク・アマルの処刑まで、そう遠くはないに相違ない――アンドレスたちが激しく懸念する中、しかし、実際には、獄中のトゥパク・アマルは、自らのおかれた状況に意気消沈どころか、むしろ、ついに動き出した脱獄計画の駒を、一歩、一歩、果敢に且つ冷静に進めつつあった。
それでは、一旦、ソラータのアンドレス陣営を離れ、暫し、トゥパク・アマルの脱獄作戦の動きを追っていこう。
彼は、アンドレスらが陣を張るラ・プラタ副王領の隣国、ペルー副王領のインカ帝国旧都クスコにて、厳重な監視の下、旧イエズス会修道院の地下牢に幽閉されていた。
その日の訊問と拷問を終えた深夜の牢獄で、深い闇に包まれるようにして冷たい石床に座しながら、トゥパク・アマルは、静まり返った獄中の気配にじっと神経を集中させる。
冷たく暗い地下牢にもかかわらず、当然のように暖をとれるようなものはなく、また、灯りも蝋の残り少なくなった蝋燭が稀に支給されるのみである。
定期的に巡回に訪れる番兵たちの手元から漏れるランプの灯り以外は、深海の底のような冷え切った闇に閉ざされている。
いざや脱獄という際に用いる灯りの準備として、支給された蝋燭を密かに取りおいているトゥパク・アマルにとって、最近は、すっかり闇の中の獄中生活も当然のようになっていた。
彼は磨耗した黒マントを己の体に引き寄せて巻きつけ、凍(い)てつきそうな冷気から、辛うじて身を守る。
そうしながら、彼は、脱獄のための方策に思考を巡らせ続けた。
番兵リノを味方に引き入れられたことは破獄に向けての重要な第一歩ではあるが、これほどの厳重な地下牢からの脱出となると、乗り越えなければならぬ難関は計り知れない。
トゥパク・アマルは漆黒の長髪に縁取られた精悍な横顔を、鉄格子とは反対側の壁際に寄せながら、褐色のしなやかな指先を壁に触れる。
壁は、じっとりと水分を含んでおり、まともに寄りかかればマントや衣服をすっかり湿らせ、やがて肌にまで水が染みてくる。
地下牢ゆえ小窓ひとつ無く、そのため、壁のみならず、この地下牢の空気自体がじめじめと湿り、カビや血や汚物の混ざった嫌な臭いが澱(おり)のように淀んだままに充満している。
実に、不快極まりない。
おまけに、様々な蟲類やネズミたちには、日常茶飯事のようにお目にかかる。
トゥパク・アマルは、今も己の直近を走り去っていく数匹の黒々としたネズミの影に、別段、怯むでもなく、ただ、黙って視線を走らせた。
ネズミの数は、とにかく、やたらと多かった。
地下牢とは、このようなものなのか……?
彼は相変わらずの沈着な面差しに、僅かな苦笑を浮かべる。
(全く、地下牢とは、脱獄を困難にする上に、囚人に屈辱的な不快感を与えるには、実によくできた構造だ)
トゥパク・アマルは、暗闇の中で壁に触れたまま、指先にじっと神経を集中させた。
その壁は、土を練り合わせたものによって接合された無数のアドベ(日干しレンガ)によって、ビッチリと塗り固められている。
その時、廊下に冷たい足音が響いた。
深夜の巡回である。
彼は番兵の目を逃れるため、傍のひどく粗末な寝台に身をもたれて目を閉じた。
巡回中の番兵には、寝台にもたれているトゥパク・アマルの様子は、拷問に疲れきって眠っているようにしか見えぬであろう。
その足音から、訪れる番兵の中に、今宵はリノの姿はないことが分かる。
恐らく、リノは非番なのであろうか。
ちなみに、深夜の巡回に訪れる番兵は3名で、それぞれ30分間隔ほどで、特別なことがない限りは、じんぐりに一人ずつ監視に回ってくる。
獰猛な眼で、牢内をさらうように眺め渡している今宵の番兵は、セパス…――。
トゥパク・アマルの頭の中には、既に、牢にかかわる全ての将校から番兵までの性格傾向や行動パターン、さらには、数名の者はその名前までもが、つぶさな観察によって正確なデータとしてインプットされていた。
今、鉄格子の前にいるセパスは、狡猾さと強欲さが、ひと際、特徴的な番兵である。
このような時間帯に回ってくるのは、リノと同様、いずれも貧しく身分の低い端くれの番兵ばかりで、心もすさんでいるのか、あからさまな攻撃性や暴力を、ただ鬱憤(うっぷん)晴らしのためだけに仕掛けてくる下賎な者も少なくない。
実際、同じスペイン人でも、本国スペイン生まれの白人と、この植民地生まれの白人とでは、その社会的地位にも経済力にも何もかもに、あまりに歴然たる差があった。
リノやセパスのような植民地生まれの白人たちは、本国渡来の白人たちに、悉(ことごと)く差別と蔑みの対象とされてきたのである。
そもそも、トゥパク・アマルは、決して、インカ族のためだけに、この反乱を起こしたわけではなかった。
彼は、スペイン渡来の白人たちによって苦汁を舐めさせられ続けてきた植民地生まれの白人たちをも視野に入れ、彼らの自由と解放をも求めて立ち上がり、戦ってきたのである。
あるいは、単純なほどに純粋な、あの番兵リノには、そんなトゥパク・アマルの思いが、本人の意識の遠く及ばぬ何処かでは、微かにでも通じていたかもしれない。
だが、ここにいるセパスの曇りきった目には、そんなものは、一つも見えてはいないであろう。
セパスは執拗に、トゥパク・アマルと牢内に、粘着的な視線を蠢(うごめ)かせ続ける。
とはいえ、仮に何かを嗾(けしか)けられようが、そもそもトゥパク・アマルが、そのような、つまらぬ番兵の吹っかけに乗るはずもなく、このセパスに限らず、常に、仕掛けた本人がいっそう虚しく苛立つ結果に終わるだけなのだが。
それでも、今宵もセパスは、何か言いがかりをつけるところはないかとばかりに、ランプをかざしながら、虎視眈々と房内を探るように長々と眺め渡している。
一方、トゥパク・アマルは、眠った素振りのまま――正確には、完全に無視したまま――相手の挙動を、その気配や音を頼りに観察するのみである。
あの番兵リノを首尾よく味方に引き入れることに成功していなければ、あるいは、このセパスを手玉に取る方策に腐心せざるを得なかったかもしれない。
だが、リノを己の側に引き入れられた今となっては、これ以上の番兵の抱き込みは、かえって破獄に伴うリスクを高める。
(このセパスには、余計な関わりをせぬに越したことはない)
トゥパク・アマルは、寝台にもたれたまま僅かに寝息を立てて深い眠りを装い、番兵の立ち去るのをじっと待った。
――が、後に、皮肉にも、関わりを避けられぬ間柄になる二人なのだが、両者共、そのような事態に展開しようなどとは、まだ、この時は知る由もなかった。
やがて、セパスは「チッ!」と苛立たしげに舌を鳴らし、わざわざ房内に唾を吐き捨てて踵(きびす)を返すと、けたたましい足音と共に去っていった。
石段を上りながら、次第に遠のく足音。
暫しの後、地上の修道院と地下牢とを隔てる鉄扉が冷徹に遮断される重い金属音が彼方で響き、続いて、その扉の錠が容赦無く下ろされる音。
獄中に海底のような濃密な闇が舞い戻る。
トゥパク・アマルは、ゆっくりとその長身を起こした。
彼は足枷の鎖音を立てぬよう慎重に移動すると、再び湿った壁に指先を触れながら、瞼を閉じて壁面に形の良い耳を寄せる。
やがて、鋭くも美しい、あの切れ長の目をゆっくりと見開き、思慮深げに頷いた。
それから、周囲の気配全体に神経を研ぎ澄ませつつ、この牢獄全体の構造について思いを巡らせはじめる。
この牢獄は、地上にある旧イエズス会修道院の地下をくりぬいて造られたものである。
現在、地上の修道院はバロック建築の美麗な外観を誇っているが、もとを辿れば、ピサロのインカ帝国侵略後に、壮麗なインカの宮殿を取り壊して築かれたものである。
かのインカ帝国時代、その宮殿の地下には、このような暗澹(あんたん)たる牢獄などありはしなかった。
しかし、侵略者たちの圧制が進むにつれて、果敢に立ち向かいくる幾多のインカ王族や貴族たちを厳重に幽閉するため、後世の白人たちの手によって築かれたという経緯をもつ。
従って、一般的な犯罪者や受刑者は、この特別な牢獄に投獄されることはなかった。
そのため、現在、この牢獄に投獄されているのは、インカ皇帝たるトゥパク・アマルの家族――此度の反乱の総指揮官トゥパク・アマル本人、その妻ミカエラ、そして、12歳の長男イポーリト、8歳の末子フェルナンド――のみである。
ちなみに、トゥパク・アマルには、もう一人の息子、10歳の皇子マリアノがいる。
そのマリアノは、命懸けの逃亡の旅の果て、現在は、かのアンドレスの陣営に堅く匿(かくま)われていることは、ご記憶の読者もおられるかと思う。
なお、トゥパク・アマル以外の、反乱軍の隊長や兵たちも多数囚われてはいたが、彼らは別の捕虜収容所に幽閉され、トゥパク・アマルほどではないにしろ、やはり過酷な訊問と拷問に晒されていた。
だが、そうした捕虜とされたインカ兵たちの誰もが、彼らの敬愛する皇帝トゥパク・アマルの厳然たる態度そのままに、非常に口が堅く、反乱に関する一切の秘密を漏らそうとはしなかった。
ところで、トゥパク・アマルの幽閉されている牢獄は、地下二層の長細い構造になっている。
地下一層部には、10房ほどの牢獄が長い廊下沿いに縦一列に並んでいる。
そして、地下二層部には、廊下沿いに幾多の拷問部屋が中心に据えられていたが、最奥には特別な「重罪人」を収容する房が備えられており、トゥパク・アマルはそこに投獄されていた。
この地下二層部には彼のいる房しかなく、実際、周囲に人の気配は――時折、遠くから、末子フェルナンドの泣き声が微かに流れくる以外は――全く感じられぬため、ミカエラや息子たちは一層上の階に投獄されているものと思われた。
投獄される際、敵将アレッチェが言い放った言葉通りであれば、妻や息子たちもまた、個々バラバラに引き離されて幽閉されているはずである――まだ8歳の幼い末子フェルナンドさえも、たった一人でこの暗黒の渦中に投げ込まれているのだ――!
トゥパク・アマルは、顔にかかった長髪をゆっくりと掻(か)き上げながら、貫くように闇を見据える。
(そう……脱獄する時は、もちろん、ミカエラや息子たちも共に連れて行く!
外部から救出する手立ての無い以上、ミカエラたちを救い出す道は、わたしと共に破獄させる以外に方法はないのだ)
とはいえ、己一人でとなれば、ある程度の強引な強行突破も可能だが、女性や子どもを伴って4人で共にともなると、脱獄方法もさらなる考慮を要する。
(いや…女性とはいえ、ミカエラは、いっぱしの兵士たちを凌ぐほどに、勇壮で突破力も優れていたのであったな)
そんな勇ましくも愛しい妻の面影がふっと脳裏をかすめ、トゥパク・アマルの横顔に柔和な微笑が浮かぶ。
それから、再び、脱獄のための方策に思いを巡らせた。
その脳裏に、獄中の構造を立体的に描き出しながら。
(逃亡経路は…可能な方策は……?)
仮に、正面突破の場合は?あるいは、別ルートの可能性は?……と、脳裏で仮想場面を絶え間なくシュミレーションする。
正面突破の場合は――。
この牢獄は、房の連なる長い廊下を進んで石階段を昇った先に、巨大な鉄扉がある。
投獄される時に確認した際の記憶では、その鉄扉の前には、さらに、修道院内に通じる頑強な鉄門があったはずだ。
さすがに、侵略者たちの最も標的とするインカ王族たちを幽閉する場だけあって、非常に堅固な二重の防備を施しているのだ。
いや、もし仮に、その二重の扉を奇跡的に突破できたとしても、行き着く先は、武装の警備兵が厳重な目を光らせる修道院内であり、さらには、修道院の外界周辺には、昼夜を問わず、完璧なる厳戒態勢が敷かれているに相違ない。
外界の厳戒態勢――それは、トゥパク・アマルの脱獄を阻むためはもちろんだが、彼を救出せんと攻め込む機会を狙っているであろうインカ軍を、徹底的に排除するためでもある。
トゥパク・アマルは、褐色のしなやかな指先を、美貌の輪郭に添えた。
彼は、思慮深げに、蒼い光を宿した切れ長の目を細める。
(…――方法は限られている。
やはり、あれを使うしか……?
だが、それも調べてみなければ分からぬ…か)
こうして、いよいよ動き出した脱獄計画。
かくして、数日後、トゥパク・アマルは、首尾よく味方に引き入れた番兵リノに、一通の書状を託した。
今や、身も心も、すっかりトゥパク・アマルの虜(とりこ)となっているリノは、託された書状――それは、トゥパク・アマルが、自らの服の切れ端に、彼自身の血によって認(したた)めたものであるが――を預かり、彼が指定したクスコのある場所へと、それを届けに向かった。
血で記されたその書状は、クスコに在住する彼の信頼できる知人宛てのものであった。
だが、周到な彼は、万一にも策が露見した際に依頼先の人物に迷惑がかからぬよう、相手の名を指定せず、「とある酒場に持っていけば分かる」と、それだけ伝えてリノに託した。
ところで、このインカ帝国の旧都クスコは、植民地支配下にある現在も、インカの人々にとってはインカ帝国時代と変わらず聖地であると共に、もともとインカ皇族たちの本拠地でもある。
それ故、クスコの市街地には、トゥパク・アマル配下の有力な資産家たちが、今も数多く在住していた。
そして、インカ皇帝末裔たるトゥパク・アマル自身、先祖代々から引き継いだ莫大な財産と、彼自身が展開していた事業によって成した財とによって、本来は国中の誰よりも――植民地の民から絞り取った、信じられぬような高禄を食(は)んでいる副王やスペイン本国渡来の重役人たちは別として――莫大な資産を有する大富豪である。
残念ながら、此度の大反乱の首謀者として「重罪人」の烙印を押された現在は、表向きは、それらの巨万の資産はスペイン側の中枢部に差し押さえられた形になってはいたが、実際のところは、彼の有する財産や財宝の多くは、白人たちの手の及ばぬところに、今も、しかと隠され守られていた。
そんなトゥパク・アマルには大富豪の「取り巻き」も多く、かといって、彼らは牢からトゥパク・アマルを救出するための妙案も無く、悶々とした日々を過ごしていた。
獄中のトゥパク・アマルからリノが遣わされた場所は――スペイン人とはいえ、植民地生まれで下層階級に属する貧しいリノには、知る由もなかったが――そのような葛藤的な日々を送る、トゥパク・アマルの息のかかったインカ族の資産家たちが、密かに、溜まり場としている場所であった。
リノは、日中の非番の時間帯を見計らって、牢からそう遠くはないクスコ市内の指定された酒場へと向かった。
酒場の入り口の扉の前に立って、リノは、ハッと目を見張る。
インカ族が出入りしている酒場にしては、あまりに豪奢で重厚な扉が目の前にあった。
にわかに、リノの緊張が高まっていく。
いざ、ここまで来てはみたものの、いかに彼がトゥパク・アマルに深く取り込まれているとはいえ、実際に、その依頼を実行に移す段ともなると、さすがに、強度の恐れと不安に襲われずにはいられなかった。
己が為そうとしていることは、紛れも無く、脱獄に加担する行為なのだ!!
脱獄幇助(ほうじょ)――トゥパク・アマルほどの「大罪人」の脱獄に手を貸したなどと露見すれば、死罪も免れないかもしれない…!
(いや、あの冷酷無比なアレッチェのことだ……!
あの男が、今、トゥパク・アマルに与えているような酷い拷問や…果ては、処刑を、今度は俺の身に容赦なく加えてくるに違いない…!!)
どれほどトゥパク・アマルにのぼせていようとも、少し理性と冷静さを取り戻せば、さすがのリノにも、それくらいは分かった。
この扉の中へ、一歩、踏み込んでしまえば、もう、後には決して引き返せない!
(ああ…俺は、い…一体、何を……!!)
酒場の入り口まで来ていながらも、その扉の前で、リノは書状を握り締めたまま、ゾクゾクと震え上がった。
だが、今も深夜の牢獄で夜毎に繰り返される「逢瀬」の悦楽感――冷たい鉄格子を隔てて、己を抱き締めるトゥパク・アマルの熱く逞しい肉体の感触、そして、痺れるほどに甘美な囁(ささや)き――それらは既に拭(ぬぐ)い去りようもないほどに刷り込まれ、絶え間無くリノの脳裏に甦っては、今、この瞬間も、魔術のように彼の現実的な判断力や恐れを麻痺させていく。
リノは、意を決した目で顔を上げた。
トゥパク・アマルの手紙を、震える指で握り締める。
そして、ついに、扉の取っ手に手をかけ、それを回した。
豪奢な彫刻の施された重厚な扉が、ゆっくりと開かれていく。
カランカラン…――と、軽やかな鐘の鳴るような、扉に据え付けられた呼び鈴の音――中にいた客たちが、一斉にこちらを振り返る。
入り口に立って、緊張と興奮に震え昂(たか)ぶるリノの目に、インカ族の数名の客たちが映る。
まだ日も高いためか、店内の客は、そう多くはなかったが、皆、インカ族にしては、かなり上等な身なりをしており、酒場の風格も貧しいリノの知る場末の酒場とは全く雰囲気が異なり、格調高い気配に満ちている。
扉近くのカウンター傍にある重厚なマホガニー製の棚には、スペイン人のリノさえお目にかかったことのないような高価な酒類の壜がズラリと並び、艶やかな木目のワゴン上には、美しいカットグラスが間接照明を浴びてキラキラと輝く。
(――……!)
リノが急に場違いなところに迷いこんでしまったように、すっかり戸惑いの表情で呆然と立ち竦んでいると、酒場のマスターらしき品のいいインカ族の男が近づいてきた。
いかにも貧しそうな、しかも、何やら様子のただならぬスペイン人の唐突な来訪にもかかわらず、マスターは決して疎外的ではない朗らかな微笑みを湛えて、丁寧に礼を払う。
もちろん、その内心では、隙の無い警戒心が静かに動いていたろうが、そのような気配は微塵も表には感じさせない。
マスターは温厚な笑顔のままに、リノに愛想よく呼びかけた。
「いらっしゃいませ、旦那。
さあさあ、どうぞ!
中へお入りなさいませ」
リノは固唾を呑みながらも、マスターの丁寧で穏やかな態度に、ホッと小さく息をつく。
彼は、一瞬、大きく躊躇(ためら)ったが、ついに、強い緊張と興奮に震える指で、トゥパク・アマルから預かった書状を差し出した。
「こ…これを、渡せば分かると……」
上擦ったリノの声に、マスターは鋭く目を細めつつも、差し出された書状を物腰柔らかに受け取った。
が、それを手にした瞬間、ハッと完全に息が止まる。
そのままチラリと中を覗くと、張り裂けぬばかりに大きく目を見開き、それから、喰い入るようにリノの顔を見据えた。
「まさか…――!!」
マスターは、それ以上は言葉にはしなかったが、その目は、ありありと訴えている。
(これは…トゥパク・アマル様から……?!!
いや…間違いない、この筆跡は――!!)
一方、リノは、マスターの反応の大きさに、己の為してしまった事の重大性を今更のように激しく痛感して、その場に愕然と凝固した。
その顔は、もう殆ど泣きそうなほどである。
マスターはそんなリノを抱きかかえるようにして支えながら、奥まった静かな位置にあるテーブルの前まで連れていった。
そして、リノの足元に跪(ひざまず)くようにして、深々と恭しく礼を払う。
「何もご心配なされるな。
もはや、あなた様は、あのお方の御身にも等しき、かけがえのなきお方。
この後、あなた様の身に何が起ころうとも、我々が常にお守りいたします。
さあ、まずは、落ち着かれて」
マスターは、すっかり面食らった面持ちで己を見下ろすリノを椅子に座らせると、いかにも高級そうなブランデーの入ったグラスを素早く運んできた。
そして、その恰幅の良い身を屈めるようにして、再び、深々と礼を払う。
「本当に、よくぞお越しくだされました。
暫し、お待ちください」
相変わらずリノが目を見張っている先から、マスターは、店内に居た一部の客たちを慌しく呼び寄せると、彼らと共に店の奥へと走り込むような勢いで消えていった。
店の奥から、瞬間、驚愕とも歓声とも取れる大きなどよめきが聞こえ、だが、それも、すぐに水を打ったように静かになった。
今、豪奢な装飾の施された椅子に、全く所在無く、気もそぞろに座って待つリノは――まだ20代前半ほどだろうか、いずれにしろ、その様子は頼りなげで非常に心もとない。
彼は人種がスペイン人であるというだけで、この植民地の片隅で生まれ、貧しく、殆ど学も無く、番兵の端役につけたことが吹けば飛びそうな精一杯の誇り……スペイン本国生まれのスペイン人からは、生来ずっと蔑まれ、扱(こ)き使われ――だが、それは、リノに限ったことではなかったが…。
この新大陸、つまりは植民地生まれのスペイン人たちは、ただ「植民地生まれである」という理由だけで、本国から渡来したスペイン人たちから、甚(はなは)だしい差別――それでも、インカ族の人々が蒙(こうむ)ってきた差別や虐待に比べれば、大分ましではあったが――を受けてきたのだ。
そんなリノが待つテーブルへと、インカ族のマスターが、まだ興奮の冷めやらぬ、しかしながら、先ほどと変らぬ物腰柔らかな態度で、店の奥から戻ってきた。
彼は、座っているリノの目線に合わせて腰を落とし、「お待たせしました」と、丁寧に礼を払う。
そして、穏やかな、それでいて、噛み含めるような口調で、リノの耳元に顔を寄せて言う。
「あのお方の書状に認(したた)められておりますものをご用意致すためには、少々、お調べせねばならぬことがございます。
明日までには必ずご用意いたしますので、ご足労ではありますが、明日、この時間に、もう一度ご来訪願いたいのです」
「え?!
あ、明日に…また…?」
すっかり居心地の悪くなっていたリノは、思わず、眉をしかめる。
マスターは真摯な瞳で深く頷き、それから、手に抱え持っていた大きな包みを、リノの手元に差し出した。
リノは怯えた眼で、時限爆弾でも目の前にしたかのように、ビクリと身を聳(そび)やかせた。
「え…?
こ、これは……?」
激しく戸惑うリノの顔を見つめて、マスターが宥(なだ)めるように微笑む。
「どうか、そんなにご心配なされますな。
我々のことを、そんなに信用できませんかな?
さあ、中をお確かめください。
それは、あのお方から、あなた様に返礼としてお渡しするようにと託(ことづか)ったものでございます」
「え?!」
リノが驚いて袋の中を覗くと、中には、分厚い札束の山!!――それが、一体、どれほどの金額になるのか、皆目、検討もつかぬほどの多量さであった。
「!!!」
想像したことすらないような巨額の札束を前にして、リノは、本当に目の玉が落ちるのではないかと見えるほどに、大きく目を見開いて凝固している。
「こ…こ、こ、こ、こんな…大金…!!
これを…全部、お、お、俺に……?!!」
完全に面食らって、それこそ、頭から湯気が立つほどに興奮の坩堝(るつぼ)にあるリノの様子を窺(うかが)いながら、マスターは微笑みつつも、小声で力を込めて言い添える。
「さようで御座います。
獄中ではお渡しできぬゆえ、この場にて、あなた様にお渡しするようにとのご指示でございました。
もちろん、これは、まだ半分。
明日、ご来訪の折に、残りの半分をお渡しいたします」
「!!…――」
さすがに天まで舞い上がらんばかりのリノに、マスターは、穏やかに、しかしながら、しっかりと釘を刺す。
「どうかお気をつけて。
決して、このような大金をお持ちになっていることを、どのような誰にも、悟られてはなりません。
あのお方の御身にとって危険が迫るだけでなく、あなた様にも、大いなる危険が降りかかりかねませぬゆえ」
「わ…わ、わかった……」
「どうぞ、そのように」
マスターは再び品の良い笑顔で頷くと、真っ直ぐにリノの瞳の奥を見つめて、深遠な声で最後の念を押した。
「では、明日。
お待ちしておりますので、必ずご来訪を」
さて、リノがついに書状を手に酒場を訪れた頃には、トゥパク・アマルが破獄を決意してから、既に十日以上の時が経っていた。
というのも、番兵であるリノを自分の味方に引き入れるために数日間を要したし、抱き込まれたリノが決意をして実際に依頼先の酒場に足を運ぶまでにも、さらに数日間を要してしまっていたのだ。
だが、その間も、トゥパク・アマルの脱獄計画――むしろ、脱獄へ向けての地道な作業と言うべきか――は、水面下で密かに進行していた。
作業は、監視の目が薄れる深夜。
彼は、暗闇の中で、粗末な寝台の上板の下から、鋭い陶器の小片を取り出した。
その小片は、食事時に用いられる皿――それこそ、周囲が欠けて、小汚く、いかにも、囚人に屈辱感を与えんとするかのような惨めたらしい陶器の器だが――の端の一部を壁にぶち当てて、手に入れたものであった。
もともと、そのくたびれた陶器の周囲には幾つもの欠けた部分があったため、もう一箇所程度の欠落個所が増えたところで、嫌疑の対象になることはなかった。
トゥパク・アマルは足枷を引き摺りながら、鉄格子とは反対側の壁際に寄り、なるべく目立たぬような隅の方を、手にした陶器で削りはじめた。
もちろん、無秩序に削っているわけではない。
先述のごとく、その壁は、インカ時代からの伝統的なアドベ(日干しレンガ)を、土と何かを練り合わせたものによって接合し、ビッチリと塗り込めたタイプのものだった。
硬質のアドベ部分はともかく、接合部の土壁部分は比較的柔らかい。
素手では無理だが、この陶器の小片なら、何とか傷つけることができる。
気の遠くなるような地道な作業だが、トゥパク・アマルの鋭利な横顔は真剣そのものである。
既に十日以上にも渡って、夜毎、番兵の目を盗んで続けられてきた作業によって、壁には深い溝が生じていた。
リノに託した書状が相手先に無事に届き、首尾よく、依頼した品が外界から入手できれば、早々に次の段取りに駒を進めたい。
それまでに、今の作業を、最大限、進捗させておきたかった。
トゥパク・アマルは、土壁を削る音が漏れぬよう細心の注意を払いながら、完全なる闇のベールに身を包み、器用な指先を巧みに使って、その根気強い作業を延々と続けていった。
かくして、翌日…――。
リノは、昨日と同じ酒場を訪れた。
昨日のマスターがいそいそと、満面の笑顔でリノを迎え入れる。
「これは、これは!
よくぞお越しくだされた!」
マスターは、恰幅の良い全身でリノを囲い込むようにしながら、「さあさあ、中へ…!」と、リノを奥の静かな席へと誘(いざな)っていく。
そして、リノを座らせると小走りで店の奥へと姿を消し、すぐさま、小さな封書のような袋を手にして戻ってきた。
彼は、その袋を、捧げ持つようにしてリノの手元に差し出した。
「これを、あのお方の元へ!
書状にて、ご依頼の品でございます」
「え…これ……?」
リノは、思わず、唖然と口を空けて、気の抜けた声を漏らした。
マスターが差し出したものは、20センチ四方にも満たない程度の、実に小さく、さして厚みも無い、一片の封書だったのだ。
手に持った感覚も、多少の重量感はあれども、親指と人差し指で軽く持てるほどに、あっさりと軽い。
リノは、己の足元に跪くようにしているマスターの顔を、まじまじと見下ろした。
「これだけ…?」
「はい」
マスターは、あの上品な笑顔で頷く。
「あまり嵩張(かさば)るものでは、牢内に持ち込むあなた様にも、嫌疑がかかってしまいましょう?
恐らく、獄中で必要なものを挙げれば切りがなくありましょうけれど…陛下は、いえ、あのお方は、あなた様の御身を大変案じておられますゆえ、最低限のもののみを求めてご依頼になられたのでしょう」
そう言いながら、マスターは肉付きのよい己の胸元をそっと押さえて、にっこり微笑んだ。
「その程度なら、懐にそっと忍ばせて……」
それから、マスターはパンパンに膨らんだ大きな袋を背後から取り出した。
そして、「さあ、こちらは、お約束のお礼でございます」と、あの物腰柔らかな態度で、リノの膝元にそれを乗せた。
ズシリとした心地よい重量感が、リノの膝に伝わる。
「…――!!」
リノは、即座に、その中身を察して、パッと頬を紅潮させた。
そんなリノに、マスターは笑顔で促す。
「どうぞ、中を、おあらためください。
それは、全て、あのお方から、あなた様への返礼でございます」
リノは、ゴクリと音を立てて唾を呑み込むと、興奮に震える指で袋の中身をそっと覗く。
案の定、中は、卒倒するほどの多額の札束の山!!
恍惚に貫かれた瞳で顔を真っ赤に上気させているリノに、マスターが丁寧に礼を払う。
「では、くれぐれも、あのお方に、先ほどのものを…」
「わ…わかった…必ず、渡す」
興奮に打ち震えながら、上擦った声で応えるリノに、マスターは、その足元でいっそう深く礼を払った。
「あなた様は、我がインカ全体にとって、恩人にも等しきお方。
あなた様に、インカの神々の大いなるご加護と祝福がありますように――!!」
その晩、獄中の当番に戻ったリノは、未だ興奮の冷めやらぬ状態ではあったが、通常の巡回と同じ素振りで、トゥパク・アマルの牢へと向かった。
毎回、勤務に入る前には、此度のリノのような万一の行為に及ぶ者の無きよう、番兵の持ち物は将校たちに入念にチェックされるが、酒場で預かった小さな封書は下着の間に着込むようにして持ち込んでいたため、リノは無事に監視の目を免れた。
とはいえ、彼の心臓は極度の緊張と怯えから早鐘のごとく打ち鳴っており、それを顔に表さぬために必死であった。
やがて、深夜の石段を降りてくるリノの足音を、奥まった暗黒の地下牢の一隅で、トゥパク・アマルは敏感に聞き分ける。
彼は陶器で壁を削っていた手の動きを止めると、しなやかな長い指先で、つっと削られた溝をなぞり、その深さを確かめる。
それから、切れ長の目を僅かに伏せて誰にともなく頷くと、もうすっかり慣れた足取りで、一つの鎖音も立てずに足枷ごと鉄格子の前に移動した。
ほどなく、強度の緊張と恍惚に憑かれた危うげなリノの足音が、直近まで迫りくる。
次の瞬間には、リノの手元のランプが、鉄格子の前に座したトゥパク・アマルの姿を漆黒の闇の中に浮かび上がらせた。
その薄明かりの中で、トゥパク・アマルの流れるような視線が、感情の昂(たか)ぶりのために小刻みに震えるリノの全身を、ゆっくりと包み込んでいく。
先刻から早鐘のごとくに高鳴っていたリノの心臓は、トゥパク・アマルの視線を受けて、いっそう激しく脈打ちだす。
夜更けの冷え切った獄中にもかかわらず、ただでさえ興奮と緊張の渦中にあるリノは、さらに今、トゥパク・アマルの存在を意識して熱く頬を火照らせながら、酒場から預かった小さな封書を懐から取り出した。
封書を持つリノの指先は、不規則に震えている。
トゥパク・アマルは鉄格子ごしに、沈着な佇まいで石床に座し、リノの一挙手一動にゆるやかな視線を注ぎ続けている。
「こ…これを、預かってきた……」
震えるリノの指先から封書を受け取った俯(うつむ)き加減のトゥパク・アマルの美麗な目元で、瞬間、蒼い炎が静かに燃え上がった。
それから、彼は、改めて、真っ直ぐにリノを見つめた。
そして、真摯な声音で深く礼を払う。
「リノ…このような危険な仕事を成し遂げてくれたそなたには、礼の言葉も無いが、本当にありがとう」
「…――」
脱獄に向けたトゥパク・アマルの連日連夜による誘惑工作によって、すっかり魂を抜かれているリノは、今もなお、物欲しげに、鉄格子を隔てながらもトゥパク・アマルの傍に膝をついて身を寄せ、陶酔した表情で一心にこちらを見つめている。
リノの上気した頬に、褐色のしなやかな指で優しく触れながら、トゥパク・アマルが言う。
「リノ、本当にありがとう」
彼は、リノの頬に触れていた指先をゆるやかに相手の背に回し、その逞しい腕でリノの体を包み込むように抱き寄せた。
そして、鉄格子の間から、耳元で囁くように言う。
「リノ…そなたは、本当によい子だね。
だから、これからも、此度のことは、決して、誰にも悟られてはいけないよ。
そなた自身の身を守るためにも…。
この後、たとえ、わたしが如何なる行為に及ぼうとも、そなたが関ったことは絶対に口にしてはならない。
それから、そなたが酒場で手にした返礼金についても、決して、誰にも怪しまれてはならぬ。
そのためにも、あの金は、すぐには表立って使ってはならないよ。
全てのことが過ぎ去り落ち着くまでは、あくまで、そなたは、今までと何一つ変わらぬ素振りで暮らすのだ。
リノ、よいね?
そなたが急に羽振りが良くなれば、すぐに、わたしとの関わりを疑われる。
それは、わたしにとってのみならず、そなたにとっても大いに不都合なことなのだ」
トゥパク・アマルは、そこで一呼吸おいた後、さらに声を低めて続けた。
「そなたも、もう、分かっていると思うが…――リノ、そなたが、わたしのために成し遂げてくれたことは、そなたにとっては、脱獄幇助(ほうじょ)の罪に値すること。
もし、このことが知れれば、そなたは死罪をも免れぬほどに、相当に重い刑に処せられるであろう。
そなたの上司、アレッチェ殿の眼力の鋭さは、そなたも、よくよく、知っての通りだ。
僅かでも嫌疑の目をかけられれば、死しても、なお、自白させられるほどに、散々な目に合わされるであろう」
「…――!!」
陶酔し切ったようにトゥパク・アマルの胸に身をあずけながらも、リノの体が硬く強張るのを感じて、トゥパク・アマルは、リノに回した腕にいたわるように優しく力を込めた。
「案ずることはない。
そなたは、何も知らぬ素振りで普通に過ごしていれば、それでよい。
そして、わたしが首尾よく外界に出られれば、わたしは、いつでも、そなたを喜んで迎え入れる。
だが、リノ……まだ、事は端緒についたばかり。
もし、この後、わたしが事を上手く成し遂げられずに、そなたの身にまで危険が及びそうになれば、迷わず、あの酒場に行きなさい。
必ず、匿(かくま)い、力になってくれよう」
そう言ってトゥパク・アマルは、リノの体をそっと己の身から離し、渡された封書の中から何かを取り出して、リノの手に握らせた。
驚いたように目を見開くリノの手の中には、3センチ四方ほどの純金のビラコチャ神像が乗せられていた。
繊細な彫刻が施された神像の眼部には、緑色の神秘的な光を放つ大粒のエメラルドがはめ込まれ、仄(ほの)かなランプの灯りの下にもかかわらず、目に痛いほどに眩(まばゆ)く輝いている。
そして、そのエメラルドの煌(きらめ)きさえも圧倒するほどに、神像そのものが燦然(さんぜん)たる閃光を放ち、それが、いかに良質の黄金から成るものかを雄弁に物語っていた。
「こ…これは…?」
「ビラコチャ神の黄金像。
ビラコチャは、我々インカの民が、森羅万象、あらゆるものを生み出した創造神として崇拝する神」
「ビラコチャ…神……」
あまりの眩さに目を細めながら息を呑むリノの前で、トゥパク・アマルは僅かに俯き、ビラコチャ神像に礼を払うように瞼を閉じた。
やがて、彼は、金色の光を反射する目元を見開くと、真摯な瞳でリノを見つめ、静かに微笑む。
「それは、インカ(皇帝)一族のみに受け継がれている秘宝のひとつ。
わたしとの縁ある者であることの証(あかし)。
そして、それを持つ者は、わたしの元へ自然と誘(いざな)われ、両者が生きてさえいれば、やがて再会も果たせよう。
そなたと、再び外界で見(まみ)えることの叶おう日がくることを願っている。
リノ…――本当に、ありがとう」
やがて、任務に戻るためにリノが立ち去ると、トゥパク・アマルは形ばかりの粗末な寝台の陰に寄った。
彼は、両腕で寝台の上板を易々と持ち上げると、その下から、密かに取り置いていた小さな蝋燭を取り出した。
ちなみに、かつて拷問時に脱臼させられた右腕は、もちろん、あの拷問の後に早々に自分で関節をはめこみ、さっさと修復済みである。
幸い、此度の脱臼は、過大な重量が加えられたがために関節がはずれたのみで、その周辺部への外傷をそれほど伴ってはいなかった。
トゥパク・アマルにとっては、自己修復の可能な範囲である。
実際、これまでの幾多の戦場で、もっとむごたらしい負傷を繰り返してきた彼にとっては、この程度の身体的故障を自己修繕することなど、たいして難儀なことではない。
ただし、敵方の目を欺くため、外面的には、脱臼しているそのままに装ってはいたが。
彼は蝋燭に火を灯して、素早く封書の中身を確かめる。
次の番兵が回ってくるまでに、蝋燭を消して、蝋の臭いまで残さぬためには、何事も敏捷に進めなければならなかった。
脱獄を決行するその瞬間まで、どのような些細なことでも、一切、感づかれるような痕跡は残してはならないのだ。
ちなみに、深夜の巡回に訪れるのは、リノだけではない。
ほぼ30分に1回ほどの間隔で回ってくる3人の番兵たち――深夜の担当は、リノと同様、身分の低い端役の番兵たちばかりではあるが、先述のごとく、誰もが、ある意味、リノのような純粋さを持っているわけではない。
むしろ、身分の低い番兵たちの中には、あのセパスのように、己の立場や境遇を身分の高い将校たちと比較して、ひどく捻(ひね)くれてしまっている者、普段の鬱憤を晴らすべく下らぬ攻撃性をぶつけてくる者、飢え渇き強欲な者などが、大勢を占めている。
それらの者たちに此度の脱獄計画を微塵でも悟られては、全ては水泡に帰す。
トゥパク・アマルは、鉄格子の方に背を向けながら、寝台にもたれて眠っているかのごとく姿勢のままに、素早く封書の中身を取り出した。
(……―――!)
書状で依頼したものは、しかと、そこにあった。
蝋燭の炎を濡れたように反射する精悍な横顔で、彼の引き締まった口元が、優美な弧を描く。
間もなく、トゥパク・アマルは鋭利な眼差しになると、蝋燭の薄明かりの元、封書から取り出した品々を吟味していく。
――小型の鋭利な金鋸、やはり小型だが頑強な鏨(たがね)、硬い数本の針金、小さな懐中時計、そして、何かの描かれた一枚の手紙サイズほどの紙面――
トゥパク・アマルは、懐中時計を確認する。
これで、番兵の巡回のタイミングを、今までより、ずっと計りやすくなる。
それだけでも、作業効率は断然異なってくるはずだ。
それから、蝋燭の炎に紙面を近づけた。
彼の沈着で思慮深い眼差しが、隙無く慎重に、その紙面――それは、無数の線が、くもの巣のように網目状に走り書きされているだけのものであったが――の表面をなぞっていく。
風も無い獄中を照らす蝋燭の炎は微かに震える程度で殆ど動きもなく、その真っ直ぐな光が、今、トゥパク・アマルの美しい目元に反射し、漆黒の瞳の中に静かな朱色の炎を燃え上がらせる。
(ふむ…なかなか、よく調べられている……)
その後も長いこと紙面をさらうように見つめていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
(やはり、そうであったか…――…!)
トゥパク・アマルは横顔で満足気に微笑むと、そっと蝋燭の火を吹き消した。
それから、トゥパク・アマルは暗闇の中で金鋸と鏨(たがね)、そして、懐中時計を手元に残して、再び、両腕で寝台の上板を持ち上げると、その下に封書を隠した。
彼は寝台を素早く元の状態に戻すと、暗闇の中で、目を凝らす。
薄い紙切れと針金ゆえ、完全に寝台の隙間に収まり、外見的には、案の定、全く違和感は無い。
そのさまを確認すると、彼は、早速、足枷を切る作業に取り掛かった。
ちらりと懐中時計に視線を走らせ、次の巡回のタイミングを計る。
天井のひび割れた石壁の随所から絶え間なく湧いて滴(したた)る水滴音のために、懐中時計の放つ微かな秒針音など、殆ど目立たない。
しかし、不意に何が起こるか分からぬ獄中――常に周囲に神経を張り巡らせつつ、手元の作業を進めていく。
粗末な食事のたびに密かに取り置いていた油分を潤滑油として、足枷を金鋸で切り離していく、非常に地道な作業ではある。
(だが、破獄の可能性は、徐々に高まっている。
とはいえ、結果は、最後の瞬間まで分からぬが……――)
トゥパク・アマルは、実際に目立たぬ個所を幾らか削ってみて、その入手した金鋸で鉄鎖が確実に切断され得ること、及び、その切断にどれほどの時間を要しそうかを算段した後、鎖を断つ作業を中断した。
毎日、拷問部屋へ連れ出される際には、移動用の足枷に付け替えられるが、その都度、役人たちは鎖の状態を確認する。
破獄を決行する前に、足枷が切断されつつある痕跡など残しては、元も子も無い。
さすがに用途を熟知して相手が準備してくれた品だけあって、足枷を断ち切るには打って付けの金鋸である――これなら、決行間近の作業でも間に合うであろう。
彼は顔にかかった長髪を素早い手つきで掻き上げると、今度は鏨(たがね)を手に、先日来、陶器の小片で削り続けてきた土壁へと向かった。
2週間近くに渡って継続してきた地道な作業によって、土壁は既にかなり削られていたが、皿の破片などでなく、今や、鏨(たがね)という強力な道具を得て、また、もともと器用で強靭な彼自身の力も合わさって、作業はさらに捗(はかど)っていった。
こうして、夜毎、監視の目をかすめながらの、注意深く、根気強く、そして、持ち前の沈着さを生かした秘密の作業が、ハイペースで進められていった。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第八話 青年インカ(6)
をご覧ください。◆◇◆
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