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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第八話 青年インカ(10)
【 第八話 青年インカ(10) 】
こうして、トゥパク・アマルたちが地下深くで逃亡の道程を進む傍ら、地上の敵将アレッチェは、スペイン軍精鋭の秘密部隊を結成し、鬼のような剣幕で昼夜を問わずトゥパク・アマルたちの行方を捜し続けていた。
が、未だ、その痕跡は、全く掴むことができずにいた。
これほど虱潰(しらみつぶ)しに捜索していながら、ここまで忽然(こつぜん)と姿を消し去られてしまうとは――!!
アレッチェは、このような絶対に起こってはならぬ事態に至る前に、さっさとトゥパク・アマルを処刑してしまわなかったことを、発狂するほど、悔やんでいた。
彼は、奥歯が破壊されるほどにギリギリと噛み締めながら、心の中で己に向かって反吐(へど)を吐く。
(自分ともあろうものが……!
いや、直観していたのだ…――このようなことが、起こるかもしれぬと…!
だというのに、何故、防げなかったのか!!)
当然ながら、脱獄幇助を行った番兵を洗い出すために、将校から端役の番兵まで、アレッチェの監視下で厳しい訊問が行われた。
だが、リノは、もちろん内心では心底震撼していたが、まるで貝のように堅く口を閉ざし、何も知らぬを貫き通した。
それは、トゥパク・アマルを守るためというよりも、断固として己の命を守り抜くために―――。
幸運にも、あの臆病なリノがそれを為し得たのも、既に番兵セパスが脱獄時期とピタリと重なるように姿を晦(くら)ましていたため、自ずと、嫌疑の目がセパスに向けられていたという背景があってのことだった。
しかも、役人たちが行方不明となったセパスの家宅捜査をした際に、目を疑うほどの大金が隠し置かれていることが露見したのだから――それは、本当のところは、トゥパク・アマルから返礼としてリノが受け取ったものを、セパスが強引にリノの元から奪ってきた例の大金だが――アレッチェの目にも、他の役人たちの目にも、今やセパスに対する嫌疑は決定的なものとなっていた。
ともかくも、脱獄に伴うアレッチェの激昂と再捕縛に対する執念の激しさは、これまで以上に言語を絶するものであったが、しかしながら、さすがに、このアレッチェは、これほどの事態においても、その冷静さを完全には失うことはなかった。
執拗な捜索を続行する傍ら、彼は、トゥパク・アマルが脱獄したことを決して表ざたにはしなかった。
味方のスペイン軍にも、ことさら、インカの民には、脱獄の事実は微塵も表には出さず、極秘事項として堅く秘密に付した。
牢に関わっていた将校や番兵たちの口は、半ば脅しをかけて、完全に封じ込んだ。
よって、脱獄の事実を知る者は、アレッチェ自身が結成した秘密の捜索部隊を除いては、植民地統治機構のトップにいる副王、アレッチェら植民地支配中枢部を牛耳る数名のスペイン重役人、そして、この国最高位の司祭モスコーソ――そのモスコーソも、また、此度の脱獄を知って卒倒するほどに悔しがったことは、ご想像の通りであるが―― のみであった。
アレッチェは、激しく切歯扼腕(せっしやくわん)しながらも、冷徹明晰な頭脳を巡らせ続ける。
もしトゥパク・アマルが脱獄したなどと公になれば、まだ国中のほうぼうに潜んで反乱再燃の機会を狙い続けているインカ軍の残党たちに、この上ない鋭気を注ぎ込んでしまうことになるであろう。
トゥパク・アマルに焚(た)きつけられて、すっかり生意気になっていたインカの民衆どもを、彼らが皇帝と崇めるトゥパク・アマルを捕縛したことで、やっと元のように大人しく押さえ込んだばかりだというのに!!……――再び、彼らを立ち上がらせるような刺激を与えることは、絶対に避けなければならなかった。
そして、一日も早く再びトゥパク・アマルを捕え、今度こそ、一刻も早く処刑にしてしまわなければならぬ――!!
アレッチェは、周囲の者を誰彼無く焼き尽くすほどの、苛烈な赤黒いオーラをメラメラと燃え立たせながら、クスコ界隈のみならず、次第に捜索範囲を国全域に拡大させつつ、追跡の魔手を伸ばしていった。
しかし、アレッチェが血道を上げてトゥパク・アマルの行方を追っている頃、インカ側も、にわかに水面下の動きをはじめていた。
トゥパク・アマルたちが脱獄して間もなく、此度の破獄を外界から援護した、かのクスコの酒場のマスターらは、地下道に用意したトゥパク・アマルへの荷が無くなっていることを確認すると、速攻、使者をディエゴの陣営に飛ばした。
ディエゴ――トゥパク・アマルの従弟、且つ、副官的存在であり、此度の反乱におけるトゥパク・アマルの名実共に右腕である――は、トゥパク・アマルが囚われた後も、その救出の機会を狙って、クスコ周辺の各地でスペイン軍と幾多に渡る死闘を展開し続けていた。
酒場のマスターの放った早馬の使者がディエゴの元に到着する頃、彼は、トゥパク・アマルの重臣であったビルカパサらと共に、クスコ近郊にあるウルコスの地で激闘を展開していた。
ちなみに、ウルコスの地は、かつてインカ帝国に最初の白人が攻めてきた時、金銀を守るため、それらの財宝を投げ込んだとの言い伝えが残る神秘の湖、美しいウルコス湖がある場所でもある。
夕陽に燃える秋のアンデス山脈を湖面に映し出す、まるで鏡のような麗しいウルコス湖の岸辺――その日の戦闘を終え、湖岸に陣を張るディエゴは、クスコからの使者が携えてきた書状を開いて、本当に息が止まった。
トゥパク・アマルを凌ぐほどに長身で、銃弾で打ち抜かれても心臓に届かぬのではと思わせるほどの強靭な、その褐色の巨躯(きょく)が、書状を手にしたままグラリと横に揺れた。
「!――ディエゴ様?!」
傍で明日の戦闘に向けて各隊長らに余念の無い指示を送っていたビルカパサが、反射的に、ディエゴを脇から支えた。
ビルカパサは驚いた眼差しで、今にも意識の飛びそうなディエゴを慌てて近くの草の上に座らせ、「どうされたのです?」と、低く問いかける。
ディエゴは目を剥(む)いたまま、筋肉の塊のごとくの巨大な手で額を押さえ、興奮に震える声を絞り出す。
「ひ…人払いを……!
すぐに人払いをしてくれ…!!」
そのディエゴの声音には、興奮や驚愕と共に、強い歓喜が混ざっているようにも聞こえる。
ビルカパサは訳の分からぬままに瞳を瞬(しばたた)かせながら、ともかくも、ディエゴの指示に従った。
インカ帝国時代の金銀財宝が水中深く眠るウルコス湖岸の山の端に、黄金色の夕陽がゆっくりと姿を消し、辺りには次第に紺碧の帳(とばり)がおりてくる。
ディエゴとビルカパサは、夜の気配に包まれゆく天幕の中に入ると、互いの顔を見合わせた。
一体、何事ですか?――と問いたげな、ビルカパサの鷲のように精悍な風貌に、鋭さが強まる。
そんなビルカパサの方に、今も恍惚の中にいて声を失ったまま、ディエゴは使者からの書状を差し出した。
「え…?」
相変わらず感情統制のいき届いたビルカパサの沈着な眼差しは、まだディエゴの表情に注がれている。
一方、ディエゴは、興奮に膨らんだ鼻をひくつかせながら、書状を握る指に力を込めた。
ビルカパサは、差し出された書状に視線を向けた。
彼は、以前にも増して無数の傷痕が刻まれた褐色の腕を伸ばして、その書状を受け取る。
かつて、その逞しい腕は、トゥパク・アマルの最も傍近い護衛官として、主(あるじ)の命を、果たして、どれほどに渡って守り、救い続けてきたことであろうか。
そして、そのビルカパサも、今、書状に目を通して、落雷に打たれたように身を聳(そび)やかせた。
「!!!…ま…さか…――?!」
二人は、改めて、張り裂けそうに見開かれた眼で、互いの顔を穴の開くほど凝視した。
普段は、泣く子も黙るほどに厳(いかめ)しい二人の面持ちは、今、激しい興奮と恍惚に上気して、それこそ薔薇色に染まり、その瞳は潤んで涙さえ浮かべているほどである。
暫しの間、ディエゴもビルカパサも言葉を継げぬままにいたが、やがて、どちらからともなく、互いの骨が砕けるほどにガッチリと両手を取り合った。
そして、歓喜の叫びを上げる。
「トゥパク・アマル様が…牢を破って、地下道を移動中……だと?!
しかも、ミカエラ様や皇子様たちまでもが、ご一緒に…?
信じられるか?!
ビルカパサ!!
これは、敵方からの、何かの謀(はかりごと)か?!
我が軍を油断させようとでも?!」
「いや…ディエゴ様、この書状の出所は、確かな場所からです。
ですが…わたしも、全く、信じられません。
こんな夢のようなことが……?」
二人は、トゥパク・アマルの脱獄を知らせる書状を、皿のような眼で幾度も読み直す。
そこには、トゥパク・アマルがミカエラや皇子たちを伴って脱獄を果たしたこと、現在は地下道を使ってクスコから逃亡中であること、敵将アレッチェは脱獄について表向きは隠しているが、執拗に捜索していること――それらの事実が、事の経過した日時と共に丁寧に書き記されていた。
「しかし…やはり信じられません…。
あのトゥパク・アマル様が、脱獄などという手段に出るとは!」
ビルカパサは感動に打ち震える一方で、純粋に驚いたような声を上げる。
かつて敵将アレッチェも抱いていたのと同様、ビルカパサにも、如何なる時も曇りひとつ無い廉潔を貫いてきたトゥパク・アマルが、「脱獄」などという裏に回った行為を敢行するなど思いもよらぬことであり、率直に意外であったのだ。
そんなビルカパサに、ディエゴは、ふっと笑って、相手の隆々たる上腕を軽快に叩いた。
「この状況下では、我がインカ軍が牢に近づくことなどできぬことを、トゥパク・アマル様は、早々に察しておられたのであろう。
だから、自ら牢を破る以外、手立てはないと悟っていたに相違あるまい。
いやはや、脱獄とは、さすがに、わたしも驚いたが…。
まあ、だが、あのお方にも、いろいろな側面があるからな。
以前から、かなり無茶なこともされていたではないか。
ホレ、あの、褐色兵の将フィゲロア殿との話し合いの時も!
周りが引き止めるのも頑として聞かず、女装までして、一人で敵陣に乗り込んだし……」
「あ…確かに…!」
思わず苦笑しているビルカパサの脇で、ディエゴは、「だろ?わたしなど、副官として、ずいぶんヤキモキさせられたもんだ!」と、茶目っ気のある笑顔で肩を竦めた。
「はは…ディエゴ様!」
そのまま二人は、どうにも溢れ出す歓喜に身を任せるように、ひとしきり明るく笑った後、気付けば、いつしか、二人して褐色の厳(いか)つい指で目頭を押さえていた。
彼らの逞しい肩が、今は、喜びにわなないている。
やがて、ディエゴは、込み上げた涙を指先で押さえ込むようにして拭き取ると、輝くような瞳でビルカパサを見た。
そして、ニンマリと笑う。
「あのアレッチェめ!
さぞや、悔しがっていることだろうよ!!
地団駄(じだんだ)踏んでいる顔でも拝んでやりたいところだが、向こうも、今頃、凄まじい勢いでトゥパク・アマル様を探し回っている頃であろう。
あの者たちのことだ、草の根分けても探し出す執念深さで、血道を上げていることだろうよ」
ビルカパサも、涙に洗われて光を強めた瞳で、鋭く頷き返す。
ディエゴは既に常の厳(いかめ)しい武人の面差しになり、射抜くように宙を睨み据えた。
「我々も、アレッチェどもに遅れをとってはならぬ。
すぐに、捜索隊を編成し、クスコから通じる各地の地下道より入って、トゥパク・アマル様がたをお助けに上がらねばなるまい。
まずは、クスコからの地下道が通じている場所を調べ上げねばな。
地下道の出口は無数にあるから、少々厄介ではあるが…――主だった場所を絞れば、おおよその当たりをつけることはできよう」
「お任せください!!
ただちにお調べし、捜索部隊の手配を致します」
ビルカパサが勇壮な笑みと共に、決然と恭順を示す。
ディエゴは頷き返しながら、その太い声を低めた。
「ただし、この件は、トゥパク・アマル様の御身の救出が真に叶うまでは、内々で動くのが得策かと存ずる。
捜索部隊に加える者は、絶対に信頼できる兵に絞ってくれ。
今の時期に一般兵たちにまで知れ渡れば、浮き足立ち、何かと動揺の元にもなりかねぬ」
ビルカパサは思慮深い目で、しかと礼を払った。
「はっ!!
心得てございます!」
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
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