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一方、アンドレスは、「行って参ります!!」と、トゥパク・アマルに、側近たちに、そして、恭順を示しながら見守る無数のインカ兵たちに、再び深い礼を払う。彼を見送る兵たちの中には、義勇兵たちも含まれている。そんな義勇兵たちの隊列の一隅から、コイユールも、そっと見送ってくれているかもしれない、と、ふっとそんな思いがアンドレスの胸中をよぎる。(必ず、また…!コイユール!!)心の中で、コイユールに最後の別れを告げ、それから、アンドレスは将としての横顔に戻り、トゥパク・アマルの本隊を成す全軍の兵たちをはるばると見渡した。トゥパク・アマル様を、どうかお願いいたします…――!!側近たちに、インカ軍本隊の全ての兵たちに、そう心の中で強く訴えかけると、アンドレスは振り切るように踵を返した。そして、己を待つ軍勢の方に決然と向かう。途中、素早くアンドレスに近づく者がある。それは、かの朋友ロレンソであった。二人は深い感慨に溢れる目で、暫し、見つめ合う。「アンドレス、存分に!!」「ロレンソも!!」互いに深く頷いた。それから、ロレンソが言う。「アンドレス。そなたの大切なお方のことは、わたしが必ずや、お守りいたす」アンドレスは、ハッとした目で朋友を見る。ロレンソは再び深く頷き、光を宿した目で微笑んだ。「アンドレス、何も案ずるな。今は、戦(いくさ)のことのみを!!」「ロレンソ…!!」どちらからともなく、その手をがっちりと結び合う二人を、微かにその瞳に涙を滲ませたマルセラが、少し離れたところから見守る。アンドレスと目が合うと、マルセラは常と変わらぬ少年のような闊達な笑顔をつくり、きっぱりと言う。「アンドレス様、ご武運を!!」「マルセラも!!」アンドレスは優しい瞳でマルセラを、そして、ロレンソを交互に見た。「二人共、また会おう!!」そして、心の中で、二人に深い真心を込めて言う。(ロレンソ、マルセラ。二人は、必ずや、幸せになってくれ…――!!)それから、アンドレスは、その身に備えた重厚なサーベルの感触を、その逞しい手でしかと確かめながら、己を待つ大軍団の方へと勇ましい足取りで歩み去った。 ◆◇◆ご案内◆◇◆本日もお読みくださり、どうもありがとうございます。今回にて「第六話 牙城クスコ」は終了となり、次回からは「第七話 黄金の雷(いかずち)」に入って参ります。この後は、いよいよトゥパク・アマルの本拠地ティンタでの波乱の総決戦へと突入して参ります。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします! ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.27
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アンドレスは頭を下げたまま力強く出立の挨拶を述べると、決意と覚悟を秘めた蒼く燃える瞳で、真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。その瞳に頷き返すトゥパク・アマルの瞳は、雄大な大地を悠然と流れる川のごとくに静かで、深遠である。「しかと頼んだぞ。アンドレス」あの深く、低く、響く声で、トゥパク・アマルが言う。「はっ!!」再び、アンドレスが深く恭順の礼を払う。その瞬間、トゥパク・アマルが、跪くアンドレスの前に、優美な身のこなしで身を屈めた。驚いている眼前の若者と同じ目線になり、トゥパク・アマルは、いつ見ても美しいその切れ長の目元に強い光を宿し、アンドレスの蒼く燃える瞳をじっと見つめた。「忘れるな。いつ、いかなる時も、わたしはこのインカの地にあり、インカの民と共にある。たとえ、その姿が見えなくなろうとも、わたしはそなたの中に宿っている。だから、そなたの判断を信じて進め。よいね」そして、すっとその目を細めて、微笑んだ。アンドレスの瞳が揺れ出すのも束の間、トゥパク・アマルはすっくと立ち上がると、いかにもインカ皇帝らしき厳然とした眼差しに戻って、きっぱりと響く声で言う。「行(ゆ)くのだ、アンドレス!!」アンドレスは何か心に引き摺るものを残しながらも、しかし、凛とした姿勢で立ち上がった。もはやトゥパク・アマルに届くほどにその背丈も体格も、そして、その放つ雰囲気も、雄々しく成長しつつあるアンドレスは、今、大きな重責をその身に受け入れ、十分に二万の軍団の将らしく見える。それと共に、ディエゴやビルカパサら、常に彼に身近に接してきた者たちは、アンドレスの雰囲気が、急に今までとどこか変わった…――何か、これまでには無かった深さと大きさを宿したような、地に足がついたような…と漠然と感じていたが、それは、此度の遠征という大任を纏ったことによるためなのか、彼らには、真相はわからなかった。だが、今までのアンドレスとは、どこか雰囲気が違う…――と、それだけは、確かだ、と感じていた。ふとディエゴが目をやると、トゥパク・アマルも無言のままに、しかし、何かを感じ取るようにアンドレスを見つめている。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.26
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そして、二日後…――。アンドレス、遠征出立の日である。インカ軍本営の中央広場では、インカ軍本隊の兵が整然と見守る中、トゥパク・アマルと、そして、側近たちと別れを交わすアンドレスの姿があった。蒼穹の空に、今年巣立った若いコンドルが悠然と舞い飛ぶ、爽やかな秋晴れの早朝である。アンドレスと共にラ・プラタ副王領へ出征する精鋭二万の軍勢は、騎兵と歩兵から成り、革と綿でできた頑強な胸甲を身に纏い、サーベルと鈍器と銃とで武装している。その武装の様相は、トゥパク・アマルの采配により、彼自身の本隊にも引けを取らぬほどの堅固なものだった。アンドレス配下の軍団の中には、若獅子のごとく逞しく生気溢れる若い兵たちが数多く、やはりまだ若いながらも、その腕前は既に老練の武者に等しい総指揮官アンドレスに恭順と敬意を表しながら、意気揚々たる表情で出立の時を待つ。一方、アンドレスは、己の出立を見送る側近たちに、そして、本隊に残る兵たちに、深く礼を払いながら別れの挨拶を述べていた。彼の父親にも等しき叔父のディエゴが、まさしく父親のごとくの厳しくもおおらかな眼差しで、あの岩のように逞しい手をアンドレスの肩に乗せ、一発、力強く叩いた。「自信を持って、存分に戦ってこい!!」アンドレスも力強い笑顔を返し、「叔父上も、存分に!!」と凛々しい眼差しで言う。傍に控えるビルカパサは、相変わらず感情統制のいき届いた表情の中にも、深い感慨を滲ませてアンドレスを見る。そして、トゥパク・アマルにするのと全く同じように、今、アンドレスに向かって、非常に深く恭しく頭を下げた。アンドレスはビルカパサの傍近くまで歩み寄り、真剣な眼差しで相手の顔を見つめた。「ビルカパサ殿、くれぐれも、トゥパク・アマル様をお願いいたします!!」深い思いのこもったその声に、ビルカパサも、その意をしかと察して、「アンドレス様、どうかお任せください」と、非常に精悍な眼差しで力強く応える。それから、アンドレスは、少し離れたところでじっと己に見入るフランシスコに向いた。「フランシスコ殿…!」誠意溢れる声で真っ直ぐに視線を送ってくるアンドレスに、フランシスコも居住まいを正してそちらに向き直る。「フランシスコ殿、どうか、トゥパク・アマル様のこと、よろしくお願いいたします」そう言って、アンドレスはフランシスコに深々と頭を下げた。フランシスコは、その目に戸惑いの色を浮かべながらも、「アンドレス様、恐れ多いことでございます」と、周囲の側近たちの目を気遣いながら、アンドレスの頭を上げさせる。そして、変わらず真摯な眼差しで己を見つめる眼前の若者に、フランシスコも「必ずや、できるだけのことはいたす」と、戸惑いの色を残しながらも、頷き返した。アンドレスも、今一度、フランシスコに深く礼を払った。その他の側近たちとも別れを交わした後、最後に、アンドレスは、中央に堂々たる風貌で厳然と立ち、静かに己に視線を注いでいる、インカ軍全軍の総指揮官トゥパク・アマルの方に進み出(い)でた。そして、その足元に跪き、深く礼を払う。「トゥパク・アマル様、それでは、行って参ります!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.25
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コイユールが布包みを開くと、その中には、太陽の紋章の刻み込まれた鞘に納められた、重厚な短剣があった。「これは…!!」彼女は、生まれてはじめて手にした短剣なるものに、困惑と恍惚の表情で息を呑む。鞘のみならず、柄にも黄金の繊細な細工を施されたその短剣は、まるで王家の秘宝のように厳かで美しい。しかし、それ以上に、その剣には、蒼い「気」を纏うような気迫と輝きがあった。「コイユール、それを俺だと思って、人目につかぬところに常に身につけていてほしい。そして、いざという時は、それで身を守ってくれ」「え…!!」驚いたように見上げたコイユールの瞳に、先程までの柔らかさとはうって変わって、険しいほどに真剣なアンドレスの表情が映る。「コイユール…君が、この短剣を使わねばならぬような状況になどならないことを、俺は、心から祈っている。だけど、この戦乱の中では何が起こるかわからない。俺が傍にいれば、君に何か起こりそうになれば、迷いなく、俺はその敵を討つだろう。だが、俺は、傍にはいられない。その短剣は、俺の分身だ。だから、そういう事態になったら、俺が躊躇なく敵を討つと言った言葉通り、迷わず、敵の胸を突け。いいね。一秒でも間を置けば全てを失う。だから、一瞬も躊躇(ためら)ってはいけない。コイユール、君が殺(や)るのではない。俺が殺るのだ。わかったね。コイユール」アンドレスの、その険しく鋭い眼差しと口調に、コイユールは身を固めながら固唾を呑む。一方、アンドレスはコイユールの片手を取ると、短剣の上に彼女の手を乗せ、その上から彼自身の片手も重ね、そして、まるで祈りを捧げるようにじっと瞼を閉じた。コイユールは、己の手にアンドレスの手のぬくもりと共に、力強いエネルギーが送られてくるような感覚を覚える。そして、そのエネルギーが彼女自身の手を包みながら、その下にある短剣に流れ込んでいくのを感じた。まるで二人の力が合わさり、短剣がいっそう蒼い輝きを強めながら、力強く脈動しはじめていくかのようだった。コイユールは短剣を強く握り締めた。その彼女の手を、アンドレスも力強く握り締める。そのまま、彼は再び、コイユールをしっかりと胸に抱き締めた。「コイユール、誓ってくれ。必ず、生きて、会う、と!!」短剣を胸にしたまま、コイユールも深く頷く。「アンドレス、誓うわ…。必ず、生きて、会いましょう!」今、再会を誓い合う若い二人の上に、まるで見守り庇護するように、純白に光輝くインカの月明かりが粛々と注がれていた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.24
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一方、今、とても素直になったコイユールの眼差しを受けて、アンドレスの心は不安や恐れを凌駕し、ただひたすら愛しいという、もうそれだけに覆われていく。次の瞬間には、アンドレスの逞しい腕は、今にも崩れそうなコイユールをしっかりとその胸に抱いていた。そして、己の力を分け与えるかのように、その腕に力強く包んだまま言う。「俺は、絶対に、死なないと誓う。だから、コイユールも誓ってくれ。また、必ず…必ず生きて会うと!!」コイユールは、声が詰まって、言葉が出ない。ついに、コイユールは、アンドレスの胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げて泣き出した。まるで、今までこらえにこらえてきた様々な想いや感情を全て吐き出すように、箍(たが)がはずれ、意識すらもどこかに飛んでしまったように泣き続けている…――そんなコイユールの、これまでの、そして、これからの、その不安も悲しみも、アンドレスは、その全てを吸い取り、引き受けるように、いつまでも優しく抱き締めていた。やがて、涙も涸れたのか、コイユールはいつしか泣きやんで、それから、アンドレスの胸に顔を埋めていることにハッとして、慌ててその腕から離れる。そして、泣きはらした真っ赤な目のやり場に困ったように、頬を微かに染めたまま、周囲に視線を泳がせた。それから、「あっ!」と、小さく声を上げて、パッと表情を輝かせた。アンドレスも、「え?」と、コイユールの視線を辿る。見ると、ちょうど二人の寄り添っていた傍の大木の樹幹に、可憐な蘭の花が咲いていた。一つの株に仲睦まじげに咲いている二つの花…――純白の花びらに、紅色の斑点が鮮やかに映えている。コイユールは、まるで妖精か何かに近寄るように、相手を驚かせまいとでもするかのような足取りで、静々と花に近づいていく。そして、蘭の傍で夢見るような眼差しになって、ぽつりと言った。「そういえば…エスピリットパンパ(註:『魂の平原』の意)に向かう途中の森には、蘭がたくさんある場所があるって聞いたことがあるわ。雨季には、それはもう、たくさんの美しい蘭の花が咲くって…」そんなコイユールの方に歩み寄りながら、アンドレスも想いを馳せるような眩しげ目になった。「エスピリットパンパか…。かつての皇帝陛下…今のトゥパク・アマル様と同じように、征服下のインカの復活を賭けて戦ったマンコ・カパック様やティトウ・クシ様、そして、初代のトゥパク・アマル様たちが暮らされた秘密の都があった場所だ…」「初代のトゥパク・アマル様…」蘭の花を愛しげに見つめながら、そっと頷くコイユールの方に、アンドレスは優しく目を細めた。「行ってみようか」「え…」コイユールは、ふっと蘭の方から視線を上げた。彼女の瞳の中に、微笑みながらも、真面目な顔でこちらを見つめているアンドレスの姿が映る。「この反乱が終わったら、行こう!二人で…!歴代の皇帝陛下たちの魂を守っている蘭の花たちだ…。きっと、高貴で、可憐で、美しい花たちに違いないよ。コイユール、君に、見せたい」「え…!」恍惚に顔を輝かせながらも、言葉を失ったまま、コイユールは頬をたちまち蒸気させていく。そんな彼女を目前にして、アンドレスも我に返ったように、突如、カァッと赤面した。そして、慌てて言う。「…っていうか、いや、俺も見たいから…!!」「え…!」コイユールは頬を染めたまま、しかし、すっかり照れているアンドレスの慌てように、ついに、プッと微笑ましげに吹き出した。「コ…コイユール…」急に情けない声を発しているアンドレスに、コイユールは、思わずクスクスと笑ってしまう。それから、すぐに彼女は優しい眼差しを向けた。「嬉しい…!アンドレス」そんな彼女に、アンドレスは、まだ少々照れくさそうながらも再び優しく微笑みかけると、傍の地面に置いてあった布包みを手に取り、それをコイユールの目の前に捧げ上げた。それから、今までと少し趣の異なる、真剣な眼差しになって言う。「これを、君に…」「え?!」驚いたように目を瞬かせながら、コイユールがその包みを受け取る。彼女の手の平に、ズッシリとした重量感が伝わってきた。これは?!…――と、見上げるコイユールの瞳に頷きながら、「布を開けてみて」と静かな、しかし、力を込めた声でアンドレスが言う。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.23
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アンドレスは、真意を込めた真摯な声で続ける。「俺は、これからはトゥパク・アマル様のお傍でお守りすることはできなくなるけれど、遠くからでも、トゥパク・アマル様のために、インカのために、力一杯戦う」眩しそうな目になって見上げるコイユールの方に、アンドレスは熱い視線を向けた。「そして、君のために…――戦う!だけど、君が願ってくれるなら、俺は死なない。必ず、生きる。だから、君も死んではいけない。コイユール。絶対に!!」恍惚とした表情で、コイユールはアンドレスを見上げ続けている。アンドレスは、彼もまた、恍惚たる表情でコイユールを見つめながらも、誓いを求めるように言う。「いいね、コイユール、必ず生き延びるんだ!!どんなことがあっても!!」「アンドレス…!」二人は、その清く澄んだ目で、真っ直ぐに互いの顔を見つめた。再び、生きて会いたい!!――…それは、当然のことだった。しかし、その胸中には、凍てつくような不吉な予感がよぎらぬはずはなかった。ふと現実を振り返れば、コイユールが残るこのインカ軍本隊も、アパサの援護に向かうアンドレスの精鋭部隊も、両者を待ち受ける行く手は、あまりに波乱ぶくみであった。トゥパク・アマル率いるこの本隊は、間もなく、いっそう強化されたアレッチェ率いるスペイン軍本隊との総決戦になるのは必定。一方、アンドレス率いる精鋭部隊とて、ラ・プラタ副王領の敏腕フロレス率いるスペイン軍との激突に、自らその身を投じていくことになるのだ。もしや…もしや、これが、本当に、今生の別れになるのでは…――?!二人の胸中を、不安の暗雲が激しく渦を巻く。コイユールの、あれほど気丈に耐え抜いてきた眼差しも、今は、まるで縋(すが)るような必死の色を帯びながら、アンドレスに注がれる。(ああ…もう本当にアンドレスは、このまま、ここを離れて行ってしまうのだ…。ラ・プラタ副王領って…そんな遠くに?!インカ全体のためだって、それは、よく分かってる…。だけど…!今までは、たとえ言葉など交わせなくても、それでも、同じ陣営の中にいるって、それだけで、私、こんなに安心と感じていたんだ…!今頃、そんなことに気付くなんて……!!)コイユールの瞳は大きく揺れ、その潤んだ目元からは涙が膨らみ、零(こぼ)れ落ちそうになっている。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.22
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しかし、アンドレスは、包み込むように優しく見つめ、今、コイユールは、こうして近くで彼を感じる時、あの絶対的なトゥパク・アマルの言葉さえも超越する程に、彼女にとって、眼前の青年は今でも全幅の信頼に値する、とても大きな存在であった。やがて、コイユールは意を決したように頷いた。「トゥパク・アマル様から、決して、誰にも言ってはいけない、と言われていたことなのだけど…」そして、彼女は覚悟を決めた表情で、トゥパク・アマルの施術中に見た、あの震撼を伴う不吉なヴィジョン――神々しく黄金色に輝く太陽のような光が、突如、赤黒く変色し、その赤黒いものが溶岩のように宇宙に流れ出し、美しい宇宙を呑みこんでしまった――について説明していく。アンドレスは固唾を呑んで、じっと話に聞き入った。「私の単なる幻覚であればいいのにって心から願っているわ。だけど、あんな状況で見てしまっただけに、とても、とても怖い…。万一にも、天が知らせてきた…予言であったら…って…!トゥパク・アマル様に、何か恐ろしいことが起こるのではないかって…そんなこと、あるはずないって思おうとしても、どうしても拭(ぬぐ)えなくて…!!このまま、あの光景の通りになってしまったら、どうしようって…!!」いよいよ大きく全身を震わせるようにして言うコイユールをなだめるように、アンドレスは「コイユール」と、そっとその名を呼ぶ。コイユールが見上げる瞳の中に、昔と変わらぬ優しい微笑みを湛えたアンドレスの姿が映った。「コイユール、君もよく知っている通り、トゥパク・アマル様はとても強いお人だ。たとえ運命でさえも、あのお方は、ご自分の力で変えてしまうさ。それに、このインカの天も大地も、いつだって、トゥパク・アマル様の味方をしてくださる。だから、コイユール、君がそのことで、もう、そんなに苦しむのは、今すぐおやめ。今、君は思い切って俺に話してくれたろう。その瞬間に、コイユールが見たものは、全て俺の中に引き受けた。君の言葉を忘れずに、俺は精一杯にトゥパク・アマル様を援護する。だから、君は、そのことは、もう、忘れるんだ。いいね」アンドレスのその言葉は、決して、とりわけ特別な内容というわけではなかったかもしれない。だが、コイユールにとっては、まるで魔法の呪文のように、その胸に押し込めた氷の塊を瞬時に溶かし去ってしまうほどの威力を十分に持っていた。まるで大きな海に包まれていくような感覚の中で、コイユールは、ただ素直に、深く頷き返す。アンドレスも、また、己の言葉を無条件に信じようとしてくれているコイユールをとても愛しく、再び二人の距離が近づいていくことを感じて、彼の心は湧き立った。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.21
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そんな!!…――という衝撃が、コイユールの表情にハッキリと浮かび上がる。コイユールは、そのような己の反応を慌てて隠すように、さっと地面の方に視線を移した。その彼女の様子に、アンドレスの胸は締め付けられるように苦しくなる。月明かりが地に引く己の影を、暫しの間、じっと見つめていたコイユールだったが、やがて思い切ったように顔を上げる。そして、意を決したように、アンドレスの苦しげな瞳を見つめた。しかし、すぐに耐え兼ねるように、再び、さっと視線をそらした。それから、小さな擦れた声で言う。「アンドレス…どうか御武運を…!」「え…」「私…アンドレスが、最前線で、どんなに危険に晒されて戦っているか聞いているの…。どうか…どうか、命だけは…ね…アンドレス……」アンドレスの目の前で、今、声を詰まらせているコイユールは、まるで己の本心に固く蓋をして、相手の視線から逃がるかのように身を縮めたまま、小刻みに震えている。(コイユール…!!)コイユールが、彼女自身の感情よりも、あくまで、新たな戦地に向かう己の身を案じる言葉のみを並べるその姿に、アンドレスの心はかえって掻き乱された。悲しい、寂しい、不安だと言って泣いてもいいのに、健気(けなげ)にも気丈にこらえるコイユールの姿は、己が突き放してしまっていた数年間の帰結としての、埋め難い遠い距離の隔たりのごとくに…――甘えてはいけないと、己に受け留める度量無しと、暗黙に突き付けられているかのようにさえ感じさせる。アンドレスも、無意識に視線をそらし、両拳を握り締めた。じっと目を伏せるようにして、うつむいているコイユールの脇で、アンドレスの横顔も苦渋に歪む。彼は、それから、頭を冷やすように上空を仰ぎ、深夜の森の冷気を吸い込んだ。そして、懸命に心を落ち着かせて、コイユールの方に再び向き直る。うつむくコイユールは唇をギュッと固く結び、やっと見開いた目元には険しささえも宿して、己の周りで次々と展開していく奔流に流されまいと、必死で足を踏み締め、耐え抜こうとしているかのように、アンドレスには見える。その姿は非常に健気で気丈であるのだが、それ以上に、あまりにも儚げで、痛々しい。コイユールをこれほどに追い詰めている張本人は誰かと、己に剣を向ける心境のアンドレスの心も、また、その心臓が潰(つぶ)れそうなほどに痛んでいた。(だが…俺のことだけなのか…?コイユールの、この苦しそうな様子は…)深く打ちひしがれたようになっているコイユールを目前にして、その彼女の苦しみを除きたいと真剣に思えばこそ、今、アンドレスの頭は、ただ感情に流される状態を凌駕して、冷静さを手繰り寄せていく。今度は、アンドレスの方が、じっと何かを読み取るようにコイユールを見た。実際、自分の此度の遠征の件は別としても、コイユールが、何かとても重いものを背負っているように見えてならない…――という直観が、アンドレスにはあった。(そういえば…あの時も…!)先日、ロレンソと共に歩む治療場の路上で、コイユールに偶然に鉢合わせたあの時、彼女の目が懸命に何かを訴えようとしているように見えたことを、今、アンドレスは鮮明に想起する。(コイユールにも、何かあったんだ…!)そう確信して見入るアンドレスの目は、コイユールの瞳の奥に、何か、まるで叫ぶかのような色が潜んでいるのを鋭くとらえる。「コイユール…君の方こそ、何かあったのでは?」コイユールの目が、再び、大きく見開かれた。「…!!」「コイユール、何があったのか、話してごらん。どんなことでも!」アンドレスが、誠意溢れる声で言う。コイユールは、トゥパク・アマルの治療中に見た不吉な予言的光景のことと、そして、トゥパク・アマルの『誰にも言ってはいけない』という言葉を噛み締めたまま、言葉を発せずに立ち尽くす。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.20
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すうっと肩の力が抜けていくのを感じながら、アンドレスは思い切って言う。「コイユール…。すまなかった。俺は、ずっと、君に声ひとつかけずに…」コイユールは軽く首を振って、微笑んだ。「そんな…。声などかけなくても、アンドレスは、いつも見守ってくれていたわ…。そう感じてた。トゥパク・アマル様やビルカパサ様の治療の時に出会えた時も…いつだって…!」「コイユール…!」アンドレスは、胸を突かれたように言葉が出ない。コイユールに話したいことが…言わねばならぬことが…山ほどあるはずなのに……!!一方、コイユールは静かに微笑みながら、アンドレスを見上げている。本当は、どれほど会いたかったか、話したかったか、近くに感じたかったか…――と、コイユールの心にも、アンドレスに伝えたい気持ちがとめどなく溢れるが、彼女もそれを言葉にすることができずにいた。コイユールは、無意識に胸の前で片手を握り締める。そして、思い切ったように深く息を吸い込むと、素直な疑問を問いかけた。「アンドレス…でも、何か、あったのね?こうして、来てくれたのは、何か訳があるのでしょう?…そうなのでしょう?」己の心を見通すようなコイユールの清く澄んだ瞳に貫かれ、アンドレスはいっそう口ごもった。(やっと会えたというのに、すぐに別れの話を切り出すのか…俺は……!しかも、隣国まで行く上に、いつ戻れるかさえ分からないなどと…――!!)そんな彼を力づけるように、コイユールが優しい笑顔をつくる。「言いにくいことなの…ね?でも、私、きっと大丈夫よ。ね、アンドレス、心配しないで、言ってみて」コイユールは気丈に微笑みを保とうとするが、口ごもるアンドレスの沈黙が長引くにつれ、徐々に不安気な影を宿しはじめる。アンドレスは、不安定になりかけた足を踏みしめた。(今まで、まるで避けるようにしていた俺が、こんなふうに、突然、押しかけたこと…何か理由があってのことだって、コイユールは察しているんだ。その理由を、コイユールだって、本当は聞くのが怖いに違いないのに…。でも、コイユールは向き合おうとしている…!)アンドレスは、改めてコイユールを見た。コイユールは覚悟を決めた真摯な眼差しで頷くように、真っ直ぐ自分を見上げている。(コイユール…!!ああ…俺も、今までのように、避け、逃げるのは、もう終わりにするのだ!!)アンドレスは意を決したように、真正面からコイユールに向いた。そして、搾り出すように言う。「コイユール…俺は、ラ・プラタ副王領に…派遣されることになったんだ。明後日、遠征に出立する」「!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.19
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やがて、アンドレスとコイユールは、本営のはずれの静かな林の中に入った。濡れたように輝く深夜の月明かりが、二人の上にゆるやかに注がれる。二人は1メートルほどの距離を隔てて、互いを見つめて立った。どちらも胸が詰まって声が出ない。涼やかな秋の夜風が静かに吹きすぎ、梢の葉をサヤサヤと優しく鳴らしていく。それから、風はアンドレスの頬を撫で、そのままコイユールの髪をそっとなびかせて通り過ぎた。アンドレスは、この期に至って、やっと、やっと、今こうして己の直近に感じることのできた愛しい女性への切ない感情と深い感慨とに溢れる眼差しで、コイユールを見つめる。一方、コイユールは、未(いま)だ全く信じられぬという表情で、しかし、その清らかな目元に押さえきれぬ愛おしさを滲ませ、震えるようにアンドレスを見上げている。「コイユール…!」アンドレスはその響きを確かめるように、やっとその名を呼ぶ。コイユールは切なげに瞳を揺らし、今にも涙が溢れそうな澄んだその目で、アンドレスを見つめ、それから、優しく微笑んだ。その瞬間、その目元から、一粒の涙が頬を伝う。再び、コイユール…――と言いたかったが、アンドレスもまた、激しく突き上げる感情から、声を失っていた。そんなアンドレスに、コイユールは愛しげに、再びそっと微笑んだ。吸い込まれるように釘付けられるアンドレスの瞳の中で、コイユールは微かに頬を染め、その細い指先で涙をぬぐう。そして、そのまま天空の月を見上げた。つられるように、アンドレスも、月を見上げる。粛々と白く慎ましやかに輝く美しいインカの月が、そこにあった。「綺麗ね」あまりにも懐かしい声で、コイユールが言う。コイユールの声を身近に聞いたのは、何年ぶりのことだろうか。「本当に」やはり、あまりにも懐かしい声で、アンドレスも応じる。コイユールにとっても、アンドレスの声を直接聞くのは、全く数年ぶりのことである。それから、二人は天空を仰ぐ視線を互いの方に戻した。どちらからともなく、微笑みがこぼれる。二人の間に流れる空気は、いつしか、とても和らいだものになっていた。あの懐かしい日々と同じように、穏やかで、優しい空気…――が、今、再び二人を包みはじめる。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.18
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高地の秋の深夜は、既に冷え込みが強い。澄み切った秋空に輝く月明かりに照らし出される夜道を、その姿は見えねども確かに存在するであろう運命の大きな手に、まるで導かれてでもいるかのように、アンドレスは急いだ。彼は真直ぐに負傷兵の治療場へと向かい、衛兵たちが深く挨拶するのに返礼するのも忘れたように、治療場へと乗り込んだ。増加の一途を辿る負傷兵の治療に当たるため、深夜にもかかわらず、多くの従軍医や看護の女性たちが休み無く働いている。トゥパク・アマルの片腕にも等しい側近中の側近の将――アンドレス――の突然の深夜の来訪に、周囲の兵も従軍医も、負傷兵たちさえも、驚きの眼で、ひどく畏まりながら慌ててその道を開ける。一方、アンドレスには、今は、そんな周りの様子など全く見えてはいない。彼は、ただ、コイユールの姿だけを夢中で探した。瀕死の重症を負った兵たちが収容されている特別な天幕へと、アンドレスは進んでいく。きっと、そこにコイユールがいるに相違ない、と分かっていたからだ。果たして、前方の一隅に、負傷兵に優しく微笑みかけるコイユールの姿を見つける。何事かと驚愕の眼で周囲が注視するのも感知せぬまま、アンドレスは、一直線に進み、コイユールの後ろに立った。「コイユール!!」はっきりとした声で、その名を呼ぶ。ハッと身を翻すようにしてコイユールが振り返る。コイユールの目が、大きく見開かれた。しかし、コイユールは、にわかには起こっていることが信じられぬという様子で、何度もその目を瞬かせた。それから、まるで深い混乱に陥ったように、その瞳を危うげに大きく揺らし、呆然とアンドレスを見る。「え?!…ア…――アンドレス?!」震えるような声を漏らし、血で染まったその指を思わず額に当てるようにして、コイユールは動転したまま立ち尽くした。アンドレスの方も、全くなだめる余裕など無いまま、「コイユール、君に話がある。少し、時間をくれないか?」と、単刀直入に言うのがやっとである。コイユールは、まだ呆然としつつも、深い恍惚の表情で、コクンと頷いた。彼女は看病中の兵を素早く傍の看護の女性に依頼すると、夢中でアンドレスの後を追うようにして、やや地から浮いたおぼつかぬ足取りで治療場を後にした。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.17
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アンドレスは己の天幕の中で寝台に呆然と腰をかけたまま、両手で顔を覆い、固まったように動けずにいた。今しがたのトゥパク・アマルとのやり取りが、頭の中でグルグルと周り続ける。(トゥパク・アマル様は、先の先まで、既に読んでおられるに相違ない!!そして、その読みが、決して明るいものではないことを、トゥパク・アマル様のあの言葉は、あの表情は暗黙に伝えていらしたのだ!!)アンドレスは、震えのとまらぬ瞼を、さらに硬く閉じる。(トゥパク・アマル様は、もはや覚悟を決めておられるのだ…――!!)「ああ…!!」彼は、そのまま両手で頭を抱え込んだまま、その柔らかな髪を指で掻きむしった。頭の中が芯まで熱くなっているのを覚えながら、しかし、そのような己を冷静に見つめるもう一人の自分の存在をも感じる。(明後日、出立…。トゥパク・アマル様の仰る通り、アパサ殿を、そして、ラ・プラタ副王領をお見捨てすることなど、もちろん、できない。だけど、あの猛将たるアパサ殿が苦戦を強いられるほどの相手とは…――?!)冷静に考えれば、己が進むべくトゥパク・アマルによって指し示された方向とて、決して、安寧の道ではないのだ。(全く最悪の場合、トゥパク・アマル様のこのインカ軍本隊も、そして、ラ・プラタ副王領のアパサ殿の精鋭部隊も、両方が共にスペイン軍に征圧される危険性さえあるのだ。そうなったら…そうなったら、本当に、インカは終わりじゃないか…!!)アンドレスは、頭を抱え込んでいた腕を放し、愕然とした目でその顔を上げた。遠くを睨む彼の眼差しは、今、非常に険しく、鋭くなる。反射的に、傍に置かれていたサーベルを握り締めた。そのまま、ガッシリと握り締め、目の前に掲げ持つと、ゆっくりと鞘から抜いていく。激しく揺れ動くアンドレスの瞳の中で、その鋼色の刃物はいつもと変わらぬ蒼く気高い気を纏い、彼の指の中で力強く脈動している。瞼を閉じ、意識を手の中の感触に集中しながら、サーベルの霊妙な波動に己自身の波動を連動させていく。その時、不意に心の中に、サッと強い光が差し込む気配を感じ、アンドレスはハッと目を見開いた。(そうか…!!俺は、早々に決め付けすぎていた。いいか、もっと冷静に考えてみろ、アンドレス。このインカ軍本隊には、トゥパク・アマル様がついている。あのトゥパク・アマル様のことだ、決して諦めてなどいるはずがないじゃないか!!先々まで読んで、万一の時の、そのリスクまでをも全て計った上で、なお、あのお方はインカが勝ち残るための方策を練り続けているのだ。ましてや、あのアパサ殿となれば、あのご気性だ…死ぬまで、いや、死しても、なお、戦い抜くほどのお気持ちでいるに違いない!!そうなのだ…俺たちは、絶対に勝たなければならない!!諦めたら、そこで全てが終わってしまう!!両軍が、共に敵に屈すのではなく、共に勝ち上がるために、俺はアパサ殿の援護に行こう。インカ軍の完全勝利のために!!)アンドレスの澄んだ瞳の中で、蒼い炎が煌々と甦る。彼は決意を秘めた表情になり、しなやかに鍛えられたその長い足で、すっくと立ち上がった。しかし、次の瞬間、再び胸の奥がズキンと激しく痛む。(明後日、ここを発ったら、次はいつ戻ってこられるか全く分からない。いや…果たして、本当に戻ってこられる日があるのかさえ分からないんだ……)突如、今までとは異なる急激な息苦しさを覚え、彼はギュッと胸を押さえた。薄暗い空間の中で、頼りなげな蝋燭の炎に照らし出され、ゆらゆらと天幕の布に浮き上がる己の影を見る。まるでもう一人、人間がそこにいるかのように、影が動く。今、アンドレスの瞳の中で、その揺れる影は、幻影のように愛しい人の姿に変わっていく。「コイユール…!」無意識のままに、その口元から呟きが漏れる。「コイユール…!!今宵、あの黒人兵と出会ったのは、この時のためだったのか?……いや、あの者と会わずとも、俺はきっとこうしていた!!コイユール…!!」アンドレスは、はじかれたように出口に向かって歩み出す。そして、そのまま力強い足取りで天幕を抜け、コイユールのいる治療場へと、まるで何かに憑かれたように真夜中の道を突き進んでいった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.16
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それから、トゥパク・アマルは、再び、総司指揮官としての、厳然たる、精悍で真摯な表情に戻った。「このわたしが、むざむざスペイン軍にやられるつもりなぞ、あるわけがあるまい。しかし、最悪の事態を想定しておくことも、また必要。それに、実際、アパサ殿をお見捨てにすることなどできぬというのも、事実なのだ。それは、もちろん、アパサ殿とその兵たちの命をお守りするという意味もあるが、それだけではない。ラ・プラタ副王領でインカ側の勢力を、今、このまま押さえられてはならぬのだ。このペルー副王領の勢力とて、どこまで維持し拡大できるのか、保障はますますできなくなっている。仮に、わたしがスペイン人の手に囚われるか殺されるかした暁には、この地での勢力は一気に下火になるやもしれぬ。その時のためにも、ラ・プラタ副王領での勢力維持は、インカの民にとって、精神的にも、物理的にも、この先の反乱の拠点となり得る要(かなめ)なのだ。あの地を、今、敵に押さえ込まれるわけにはいかぬ」トゥパク・アマルの話を喰い入るように聴きながら、アンドレスは生唾を呑んだまま、返す言葉を失(な)くしている。トゥパク・アマルの言うことの意味が、彼にはとてもよく理解できていた。しかし…――、アンドレスの中で、もう一人の自分が再び声を上げる。(トゥパク・アマル様は、あのように仰ってはいるけれど…でも、今、まさに敵が決死の総攻撃をしかけてくるであろう矢先に、本当に、俺が、この本隊を、そして、トゥパク・アマル様の元を離れてよいのか…――?!それに、ここを離れてしまったら…離れてしまったら……)アンドレスの頭の中で、トゥパク・アマルやインカを思う気持ちと、トゥパク・アマルには思いもよらぬであろう密かな想い人への情とが、渦巻きながら激しく交錯し、思考は混迷していく。今は床の方に完全に視線が落ちたようになっているアンドレスを、覗きこむがごとくの姿勢になりながら、トゥパク・アマルが念を押すように力を込めて言う。「万一にも、わたしがスペイン軍の手に落ちることがあろうとも、そなたは、間違っても救出に来ようなぞと思ってはいけないよ。わかっているね、アンドレス」床に落としていた視線を鋭く上げたアンドレスの端麗な目元は、今、わななくように、恐ろしく険しくなっていく。「まさか…――!!そんな事態になって、安閑としていられようはずはありません!!すぐにお助けに上がります!!」「アンドレス。先程のわたしの話を聞いていなかったのか?我々が共に一網打尽にされてはならぬのだ。重ねて言う。仮にわたしが捕えられても、そなたは決して、救出に来てはならぬ!これは命令だ!!」最後は語調を強め、炎を燃え滾(たぎ)らせた修羅のごとくに険しい表情でトゥパク・アマルは言うと、もう何も言わせぬという眼で激しくアンドレスを見据えた。そのトゥパク・アマルの表情を、まるで稲妻に打たれたように愕然と見上げるアンドレスの握り締めた拳が、痙攣するように震えだす。天幕の中に訪れた静けさの中で、蝋燭の溶け出す音だけが微かに響いた。「出立は、明後日。戻って、すぐに準備にかかりなさい」己の背中を押すようなトゥパク・アマルの口調に、アンドレスは立ち上がらざるを得ない。トゥパク・アマルが見守る視線を感じながら、アンドレスはおぼつかぬ礼を払い、もはや拭えぬ悲痛な表情を浮かべたまま、その場を後にした。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.15
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(アパサ殿の元へ…俺が、二万もの軍勢を率いて…!これまでの分遣隊とは、まるで桁が違う…!!本当に…俺に、大軍の将を任せようとしておらるのだ…このトゥパク・アマル様が…!!)大任を委ねられた恍惚と興奮で、アンドレスの全身に武者震いが走った。彼は頬を紅潮させつつ、だが、一方で、…――心の奥底で激しく痛むものがある。(だけど…この本隊を去る…ここを離れるってことは……!!)にわかに様々な思いが、その胸中に飛来する。アンドレスは、息を詰めた。いかに当本隊が大軍勢を率いているとはいえ、己が二万もの兵を率いて遠方に去っても良いものなのか?…――間もなく、ほぼ確実に、スペイン軍との総決戦が控えているというのに?!…と、彼の理性は懸命に状況を分析する。その一方で、それら理性とは全く別の次元で、先ほど出会った黒人兵の姿が、そして、コイユールの面影が、彼の脳裏をかすめていった。しかし、兎も角も、アンドレスはトゥパク・アマルの前に深く恭順の礼を払った。そして、「ありがたき御言葉。アパサ殿のために、この力が役立つのであれば、身に余る光栄でございます」と、力強く応える。が、同時に、その表情には、隠し切れぬ苦しげな色が強くよぎった。「ですが…トゥパク・アマル様、今、このインカ軍本隊を離れることには、少々心配もございます」思い切ったように、しかし、きっぱりと語るアンドレスに、トゥパク・アマルはその目を意味ありげに細め、静かに問う。「そなたがいなければ、このインカ軍本隊が、弱体化するとでも言うのかね?」「いえ…そういうわけでは…」アンドレスが口ごもる。そして、一呼吸おいて、改めて、トゥパク・アマルを見据えた。もはや覚悟を決めた鋭い目になり、アンドレスがはっきりとした声音で言う。「率直に申し上げて、今、このインカ軍本隊自体も、決して、安全な状態ではないと思われます。それどころか、此度の投降取り止めのこともあり、遠からず、この本隊を標的にして、スペイン軍がこれまで以上の総攻撃を仕掛けてくるのは必定でありましょう。このような時に、俺が二万もの大軍を率いて、ここを立ち去ってもよいものなのかと…――」「だからこそ、そなたは、ここを離れるのだ」アンドレスの言葉を遮るように、決然たる口調でトゥパク・アマルが言う。え?!…――と、反射的に身を引き締めて背筋を伸ばしたアンドレスの前で、トゥパク・アマルが、あの燃え上がるような目になって続ける。「万一、このインカ軍本隊が殲滅(せんめつ)させられても、そなたは生き残るのだ。我らが最後の時まで、共にあり、一網打尽にされてはならぬ!」今や、その全身からも青白い光を放ちはじめたトゥパク・アマルを見上げるアンドレスの瞳は、激しく揺れている。アンドレスは挑むような眼で、トゥパク・アマルの方に大きく身を乗り出した。彼の瞳の中にも、蒼い炎が燃え上がる。「まるで、この本隊が、敵に敗れるのを甘受するかのようなご発言…!!トゥパク・アマル様らしくありません!!」「そなたこそ、自惚(うぬぼ)れてはならぬ。この本隊には、そなた無しでも、十分に戦えるだけの将も兵もある」トゥパク・アマルは、まるでアンドレスを見下(みくだ)すような色を浮かべ、その目の端で笑ってみせる。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.14
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果たして、アンドレスの中で心の塊がやっと氷解しはじめたとき、しかしながら、インカ軍の若き将たる彼の行く手には、はやくも新たな試練が待っていた。ジェロニモと語り終えて自分の天幕に戻ったアンドレスは、そのまま慌しくトゥパク・アマルの天幕に呼び出された。急いで参じたトゥパク・アマルの天幕の前では、火の粉を上げて燃え上がる松明(たいまつ)が、秋の夜空を音も無く焦がしている。先刻のジェロニモとの対話の余韻を反芻する間も無く、アンドレスの横顔は、再び、険しい武人のそれへと変っていく。(トゥパク・アマル様が、こんな深夜に側近を直々に呼び出すなど、めったにないこと。何か、特別なご用件に違いない…!)彼は心の中で、静かな覚悟を決める。トゥパク・アマルの天幕周辺では、これまでにも増して厳重に警備態勢を敷く衛兵たちが、来訪したアンドレスに深く礼を払い、その入り口を開いた。アンドレスも衛兵に礼を返し、それから「失礼いたします」と内部に声をかける。天幕の奥から、「入りなさい」と、トゥパク・アマルの低く響く声がする。やや緊張した面持ちで、アンドレスが中に足を踏み入れる。トゥパク・アマルは手招きして、アンドレスを己の傍にいざない、座らせた。それから、暫し、じっとアンドレスに見入った。それは静かな、包み込むような、まるで、父が息子を見るがごとくの眼差しであり、且つまた、アンドレスの目の中で、トゥパク・アマルのその瞳は、何か深い感慨を帯びているようにさえ映る。吸い込まれそうなトゥパク・アマルの眼差しに、アンドレスは微かな恍惚と眩暈のような感覚を抱く。彼は、瞬間、眩しさに目を瞬いた。そして、慌てて己を立て直すようにして、アンドレスが問う。「トゥパク・アマル様、ご用件とはなんですか?」トゥパク・アマルはゆっくり頷き、総指揮官としての厳然たる面持ちに戻っていく。そして、神託を下すがごとくに、厳かに言った。「アンドレス。そなたには、これより二万の軍勢を率いて、アパサ殿を援護するため、ラ・プラタ副王領に向かってもらいたい」「アパサ殿のもとに?!ここを離れて、ラ・プラタ副王領に…――!!」己を見上げ、その目を見開くアンドレスに、トゥパク・アマルが深く頷く。「ラ・プラタ副王領のスペイン軍が、フロレスという総指揮官のもと、あのアパサ殿さえも圧倒しはじめているのだ」トゥパク・アマルの目が、鋭く、険しくなった。そして、熱を帯びた切れ長の目元をすっと細め、改めて、真っ直ぐにアンドレスを見下ろす。「側近たちの中で、あのアパサ殿と最も心を通じ合わすことのできるのは、アンドレス、そなたしかあるまい。かつて、アパサ殿がそなたを戦士として育ててくれた恩を、今こそ、存分に返してきなさい」そう言って、トゥパク・アマルは厳然とした表情のまま、静かな微笑みをつくった。一方、アンドレスは、即座には如何様(いかよう)にも反応できず、くっきりと大きくその目を見開いたまま、呼吸さえも忘れたように息を呑んでいる。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.13
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「アンドレス様、誤解をしないでください。 コイユールは、俺にとって大切な友です」「ジェロニモ…」「そんなことより、アンドレス様…俺の言いたいことを察してください。大丈夫ですって!アンドレス様なら、コイユールと正面切って会われたからといって、決してご自分を見失うことなどありませんよ。俺が保障します!!」そう言って、ジェロニモはバシッと勢い良く己の胸を叩いて、それから、あの茶目っ気のある笑顔をニッと見せた。 アンドレスの胸は、再び、ぐっと切ない感情で詰まる。同じ一人の女性を想う者として、いかにこうしたことには疎いところのあるアンドレスとはいえ、ジェロニモの気持ちは、ここまでくれば手に取るように汲み取れる。(ジェロニモ…君という人は……)アンドレスは、瞬間、目を伏せて、溢れるように込み上げる様々な感情を呑み込んだ。 そして、吹っ切るようにして目を見開き、ジェロニモに向かって瞳で深く礼を払うと、心を込めて微笑んだ。「はは…君が保障してくれるのか?それは心強いな」そんなアンドレスに、今度はジェロニモの目が惹きつけられる。周囲の空気の色さえ一変させて輝かせてしまうような、そんな光を放つアンドレスの笑顔に直近で触れて、ジェロニモは思わず吐息を漏らした。 (コイユールが惹かれるのも、さもありなん…――か)ジェロニモは、己の心の奥底に未(いま)だ寂しく疼くものの存在を密かに感じながらも、それ以上に何か深く腑に落ちる感覚を覚えて、アンドレスに向かって勢い良く頷いた。「俺は、アンドレス様とコイユールのためなら、何肌でも脱ぎましょう!!」そう言って、誠実な瞳で真っ直ぐにアンドレスを見つめ、それから、改めて深く跪き、恭順の礼を払った。 「ジェロニモ…!」同様に誠意を込めた眼差しで見つめるアンドレスの方に再び顔を上げたジェロニモは、その艶やかな黒い肌に、今度はあの親しげな笑みをニンマリと湛えて悪戯っぽく言った。「それに…マルセラ様も、ええと…ロレンソ様でしたっけ、若いトゥパク・アマル様の側近のかたですが…あのお二人も、アンドレス様とコイユールのことでは、すっかり気を揉んでおられましたヨ!」「…――えっ!!」アンドレスは、カァッと顔を火照らせた。「なっ…マルセラとロレンソが…?!あの二人…俺がコイユールをって…き…気付いていたのか?!」 アンドレスの表裏の無いそのままの反応に、ジェロニモは思わず吹き出し、ははは、と豪快に笑った。「そうそう!!あまり皆に心配をかけてはいけませんって。もうまだるっこしいことは止めて、想い合っている者同士は一緒にならないと、ね。今は、明日の命もわからないんですから」そう言うジェロニモの口調は茶化してはいたが、その目の色は、相変わらず誠意溢れる色であった。 アンドレスも、再び誠意を込めた瞳で頷く。「君に会えて、嬉しいよ、ジェロニモ」「俺もですよ。アンドレス様」それから、二人は身分も、人種も、全くその違いなど超えて、しっかりと手を結び合った。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.12
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アンドレスの視線が、ふっと遠くなる。「愛しているからこそ、コイユールと身近に接するのが怖かった。コイユールは…俺の心を、あまりに和ませ、安らげてしまう…。この戦闘に緊張感をもって集中せねばならぬ時に、そんなコイユールの存在は、俺には怖かった」そう言ってアンドレスは、不意に目を伏せた。その瞼が微かに震える。「俺は…怖かった。一度、身近に接したら、コイユールのことで頭が占められてしまいそうで…。インカのために向けるべき自分の心を、全て彼女に捧げてしまいそうで…ギリギリに保っているものが崩れてしまいそうで…。将の一人として、戦闘と殺戮に手を染めなければならぬ時に、そんなこと、許されまい…?」アンドレスはそう言って、震わせていた瞼をゆっくり上げた。「アンドレス様…」ジェロニモが、どこか同情すら漂わせたような、しかし、それ以上に険しさを孕んだ声で言う。「それでは…アンドレス様は、コイユールよりも、ご自身のことを大事にされてきた…ということですか?」「!!」ぐっと言葉に詰まるアンドレスは、ジェロニモにも増して険しい形相になっていく。だがそれは、恐らく、己に刺し貫くような視線を向けている眼前の黒人兵への怒りなどでは、もはや無く、避けていた鏡をいきなり突き付けられたような、そんな思いに憑かれたためであった。長い沈黙の後、ジェロニモの目の中で、どこか、その姿さえも小さくなってしまったようなアンドレスが、ふっと小さく息をつき、そして、皮相に笑った。「は…はは…確かに、君の言う通りだな…。俺は、自分の保身のために……」「アンドレス様…」ジェロニモの目の中で、もはや皮相ささえも保てぬかのように、アンドレスの表情からは感情が消え、やがて苦悶の色へと変っていく。険しいほどに真剣な眼差しで、じっと見据えるジェロニモの向こうに、まるでコイユールの姿を写し取るかのように、あたかも告白か懺悔をするかのように、アンドレスが再び話しはじめた。「だが…言わせてくれ…。決して、コイユールが農民の娘だからとか、トゥパク・アマル様の目を恐れて、ということではなかった。トゥパク・アマル様は、この国の未来を文字通り背負っておられる。俺は、トゥパク・アマル様のその姿に深い敬意を持っているし、あのお方のお考え、為されように賛同している。だから、最大限、お力添えをしたいと思っている。だが…だからといって、トゥパク・アマル様を恐れているのとは違う。それに、俺は、身分で人を差別などしない。農民だろうと、皇族だろうと、同じ人間に違いない。黒人だろうが、白人だろうが、インカ族だろうが、どれも、本質は同じ人間だ。何も違いはしない。そんなことで、俺は、人を区切って見てはいない。だから、今だって、俺は『スペイン人』と戦っているとは思っていない。あの者たち…あの役人たちの、暴政と戦っている…そう思っている。もっと言えば、俺は、人間だけを特別だと思っているわけでもない。人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、この大地と天空の、まったく等しき位置にある住人だと思っている。多分、アフリカの大地を今も愛し続ける君の心と同じようにね…」ジェロニモに添えられていた剣先は、いつしか、すっかり地に下ろされ、今は深く肩を落としているアンドレスの姿は、本当に懺悔でもしているかのようにジェロニモの目には映る。一方、そんなアンドレスの前で、ジェロニモは先刻までの険しさをふっと解き放ち、あのいつもの親しみ深い笑顔で、はにかんだ。「アンドレス様!もう充分です。お気持ち、よくわかりました」「!」アンドレスが驚いたように顔を上げる。「アンドレス様、こんな一介の義勇兵の俺に、そこまでお話しくださるとは、俺の方こそ恐縮します。本来なら、あなた様のようなご身分の方に、これほどまでのことを言い放った俺は、手打ちにされてもおかしくないはず」「ジェロニモ…」「それに、もう過ぎたことです。俺は、コイユールが、これから幸せになってくれれば、それでいい。だから、アンドレス様…――!」そう言ってジェロニモは、再び、その野性的な横顔に力を宿して、きっぱりとアンドレスを真正面から見据えた。アンドレスは己の心の中で凍りついていたものが熱せられて溶け出すような激しい感覚を覚えつつ、且つまた、えもいわれぬ切ない感情に憑かれていた。「ジェロニモ…もしや…君も、コイユールのことを……」「アンドレス様!それ以上は…――」ジェロニモの鋭い声に、アンドレスは僅かに後方に身を退(ひ)いた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.11
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相手の気迫にアンドレスがやや気圧されている間にも、ジェロニモはさらに畳み掛けるように続ける。「それに、コイユールのことは別としても、アンドレス様のお考えを知りたいのです」「コイユールのことを別としても…俺の考えを…?!」剣先を当てられたまま、ジェロニモは真剣な目で頷く。「俺たち黒人は、もともとインカの人間じゃあない。故郷はアフリカの大地…。縁あって、こうしてインカのために戦う運命とはなりましたが…。この先、この命、果たして、本当にインカのために投げ出すに値するのか…今、俺は迷っています。これからの戦いは、今まで以上の修羅場になるのでありましょう。完全に命を捨てる覚悟が無ければ、もはや、ここには留まれない。トゥパク・アマル様は黒人奴隷解放令を出してくださった。だから、そのご恩には報いたいが…。だが、これからはトゥパク・アマル様の片腕でもあり、若き将たるアンドレス様の時代でありましょう。果たして、ついていくに値するお方なのか…俺にはわからなくなってきた。もしコイユールのことを大切に思われているのなら、たった一人の女性も幸せにできず、いや…、心を深く傷つけさえして、それで国全体を幸福にできるものなのか?ましてや、身分や、上の者の目を気にするようなお方なら、論外です。これは…恐らく、黒人の兵たち、皆の思いでもありましょう」「…――!」アンドレスは唇を噛み締めながらも、その目は次第に思慮深い色を湛えはじめる。「アンドレス様、どうなのですか?それとも、俺が、たかが黒人の義勇兵だから、と、軽んじて、お応えせずに逃げますか?」「逃げる?」アンドレスは鋭い視線を向けた。「ジェロニモ、君は、ずいぶんハッキリ物を言うな。こんな無謀なことをして…。いや…危険な橋を渡る勇気があると言うべきか」ここまできては、アンドレスも思わず、苦笑せざるを得ない。彼は、暫し、じっと息を詰めたままジェロニモを真正面から見据えた。そして、意を決したように語りはじめる。「俺は…コイユールを愛している…――」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効) (随時)
2006.12.10
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いきなりコイユールのことを切り出され、見知らぬ義勇兵の前にもかかわらず、不覚にもアンドレスはその場に硬直した。一方、ジェロニモは、相手に混乱を招かぬよう、丁寧に説明をしていく。「アンドレス様、突然、このようなことを申し上げ、驚かれているかと思いますが…わたしは、ビルカパサ様の連隊にコイユールと共に参戦している義勇兵です。以前、インカ軍に参戦するために、スペイン人の元から脱走を図った時、コイユールには助けられたことがあって…、それ以来、友として親しくさせて頂いております」アンドレスは固唾を呑んだまま、じっと話に聞き入った。にわかに、その胸の動悸が速まっていく。その足元で、ジェロニモは真摯な瞳を向けながら、恐らく眼前の若い将は自分よりも幾らか年下かとは思えたが、さすがにトゥパク・アマルの側近中の側近である、このアンドレスの傍で緊張を滲ませてはいた。しかし、意を決した決然とした口調で続ける。「アンドレス様は、何故、コイユールにお声のひとつもおかけにならないのですか?コイユールが…どれほど、アンドレス様の身を案じて…というか、どれほどアンドレス様を深く慕っているか、よく知っておられるはずなのに!!」「…――!!」アンドレスは息を呑んだまま、その瞳を大きく揺らしはじめる。それと共に、まさか、こんな形で、見も知らぬ黒人兵から、突然、己の心に秘めていた核心部分に土足で踏み込まれようとは!!…――アンドレスのその表情には、驚愕と共に憤怒の色さえも浮かび上がった。「お…おまえには、関係の無いことであろう!!」思わず、アンドレスの語気が荒くなる。「アンドレス様、誤魔化さずにお応えください。何故なのです?何故、これほどに長い間、コイユールを放っておくのですか?コイユールが、貧しい農民の娘だからですか?!それとも、トゥパク・アマル様の目を恐れているのですか?!」その瞬間、アンドレスのサーベルの剣先が、ピタリとジェロニモの喉下に突き付けられた。「おまえ…さすがに、無礼ではないのか?言葉に気をつけろ……」氷のような声で、アンドレスが言う。さすがのジェロニモも、ビクリと身を固める。アンドレスはサーベルをその位置に保ったまま、自らもその黒人兵の前に跪き、同じ目線になった。そして、唸るように問う。「名は何と言う?」「ジェロニモ…」「ジェロニモ…君こそ、何故、ここまでする?…――コイユールのことを、好きなのか?」「アンドレス様、誤魔化さず、きちんと俺の質問に応えてください。俺にとって、コイユールは大切な友です」そう応えつつも、ジェロニモの胸の奥底は、にわかに疼く。だが、彼は、いっそう決然とした眼差しを、その黒い野性的な横顔に湛えて続けた。「友として、俺は、これ以上、コイユールが苦しむ姿を見てはいられない…!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.09
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かくして、トゥパク・アマルがスペイン軍への出頭を拒んだ今、両軍間に張り詰める緊張は、これまでに無く強まっていた。この期に至っては、いよいよ次こそスペイン軍が決死の総攻撃を仕掛けてくるのは必定と思われた。インカ側にとっても、スペイン側にとっても、もはや後の無い状況へと達しつつあったのである。そのような日々の中でも、否、そのような時であるからこそ、アンドレスは、一日の任務を終えた深夜、人気(ひとけ)の無い高台の一隅での自主訓練を決して怠らなかった。かつての武術指導の恩師アパサの教えを守り、今でも、アンドレスは日々の地道な基礎訓練を極力欠かさぬよう努めていた。基本こそが奥義…――あの厳しい訓練の日々の中で幾度も聞かされた師の言葉は、確かに、幾多の実戦場面において、彼の命を様々な危機から救い、また、その力を発揮させる要(かなめ)となってきた。(きっと、すぐすこまで、スペイン軍との、これまで以上の総決戦が迫っているに違いない!!そして、今度こそ…その決戦こそが、最終決着の場になるかもしれない…――!!)サーベルを振り切る一刀、一刀に、いつになく力がこもる。彼の動きと共に、蒼い残光が幾度も宙を走っては、闇に溶けるように消えていく。一通りの訓練を終えると、暫し、サーベルを己の目の高さに掲げ、その霊妙な光を確かめるようにじっと見つめた。そして、そのまま、逞しい腕でガッシリとサーベルを支えながら、夜空に高々と捧げるように持ち上げる。かのクスコ戦の前夜、迷いを捨て去り敵を討つ決意をしたあの時と同じように、南十字星の御前に誓詞を立てるがごとくに…――。無数に降り注ぐ巨大な流星たちが、天空に輝くサーベルに幾筋もの閃光を煌かせ、消えていく。その時だった。不意に、背後の林の中で人の気配を感じた。アンドレスは瞬時にサーベルを身構えると、その気配の方に鋭く声を放つ。「誰だ?!」まもなく、夜闇に溶け込む木々の間から、黒い影のような人物が姿を現した。「何者だ?!そこへなおれ!!」アンドレスは、暗闇の中に目をこらしながら、再び鋭く言い放つ。黒い影は、その言葉通り、進み出る足を止めると、丁寧に地に跪いた。そして、深く礼をする。その様子に、不審を抱きつつも、アンドレスはサーベルを握る指から僅かに力を緩めた。(インカ軍の兵か?!しかし、知らぬ気配……)彼は跪く相手にゆっくりと、慎重に近づいていく。それは見慣れぬ黒人の若い兵士であった。「そなた、義勇兵の者か?顔を上げよ。何故、ここに来た?俺に何か用なのか?」矢継ぎ早に質問を投げてくるアンドレスに、跪いたままゆっくりと顔を上げたのは、あの黒人青年ジェロニモであった。「アンドレス様、突然このような所まで押しかけて、申し訳ございません。どうしても、アンドレス様と二人で話をしたかったので」アンドレスは目を見開く。「俺と二人で話を?」全く面識の無い黒人の義勇兵から二人で話したかったと言われても、アンドレスはまるで狐につままれたようで、さっぱり訳が分らなかった。「何のことだ?人違いでは?俺は君に会ったこともないと思うのだが…」困惑しつつも、さすがにアンドレスは、相手が誰であろうと話しを聞く耳は持っている。彼はサーベルを鞘に収めると、その黒人兵の近くまで歩み寄り、「何の話だ?話すがいい」と、言葉を選びながら低い声で問う。「恐れながら…」とジェロニモは今一度深く礼を払うと、跪いたまま顔を上げ、真っ直ぐ貫くような瞳でアンドレスを見た。「コイユールのことでございます」「!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.08
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赤黒いオーラを全身からメラメラと周囲に放ちながら、アレッチェは、その本性をあからさまにした獰猛な横顔で薄暗い窓外を睨みつけた。我らスペイン側の思惑がインカ側に漏れた…――その出所として考えらるのは、インカ族でありながらも唯一スペイン側の裏事情を知り得る立場にあるフィゲロア以外には有り得ぬ。アレッチェの指は、自動的な動きで拳銃に弾を込める。そして、再び、鬼のような形相で、窓の外を睨み据えた。だが、この時勢に至ってもなお、数万人という大規模な「リマの褐色兵」を将として統率しうる器を持つ者は、あのフィゲロア以外には考えられぬということも、また、皮肉なことに、事実であった。此度の件で民意がこれまでにも増して「白い役人ども」から離脱しつつある現況に及んでは、その勇敢さにおいても実直な人柄においても傭兵たちから人望の篤いフィゲロアは、いっそうスペイン側にとって必要不可欠なる重要人物であることには違いなかった。且つまた、彼が裏の事情をインカ側に漏らしたという何ら具体的な証拠も無かった。(取替えのきく人材であれば、銃弾一発で片付くものを…!)アレッチェの顔面が、苦々しく歪む。その時、ドアにノックがした。「フィゲロアか。入れ」既に意を決しているのか、ドアは躊躇(ためら)い無く開かれる。そこには、変らず真っ直ぐな眼差しに、しかし、今は、深い覚悟を宿した面相のフィゲロアが立っていた。アレッチェは蛇のような目で、無言のままに手だけを動かし、フィゲロアを己の直近まで呼び寄せる。そして、腕の届く距離に至るや、いきなりフィゲロアの頭に銃口を突き付けた。外面的には毅然として平静を装うフィゲロアではあったが、意志の及ばぬところで、その体が、一瞬、硬直する。そのまま、アレチェは氷のような声で憎々しげに言った。「おまえ、まさか、トゥパマリスタ(トゥパク・アマルの一味)ではあるまいな?あるいは、やつのスパイか?」フィゲロアは、無言でじっと耐える。アレッチェは、いっそう強く銃口を相手の頭に押し付けた。銃口が喰いこんだフィゲロアの頭皮からは、血が滲み、やがて床に滴(したた)りはじめる。一方、アレッチェは、ひどく汚らわしいものを見るかのように、床に落ちたフィゲロアの血を侮蔑的な眼で見下ろした。そして、いかにも白人らしい長く引き締った脚を、その血をあからさまに避けるようにして移動すると、冷徹な声で続ける。「フィゲロア…おまえに昔から目をかけ、おまえの一族にも特等の待遇を与え、一からここまでおまえを軍人として育てあげてきたわたしへの恩を、まさか忘れたわけではあるまいな?」ぐっと唇を噛み締めるフィゲロアの頭に、アレッチェは拳銃をさらに強烈に捻(ひね)り込んだ。その引き金に添えられた指には、いよいよ激しく力がこもっていく。「おまえも所詮、下賤なインディオにすぎなかったとは、残念至極…」呻くようにそう言い放つと、妖魔のような背筋も凍る形相で、フィゲロアを睥睨するように険しく見下ろした。「もはや、次は無いものと思え。万一にも、おまえが我らを裏切るようなことがあれば、その瞬間に、おまえの命は消え失せる」わななくように見開かれていくフィゲロアの目を突き刺すように、睥睨するアレッチェの眼光がいっそう獰猛に光る。そして、凍てつくような冷酷な声で続けた。「それだけではない。もし、この後、おまえが裏切るような真似を再び微塵でもしようものなら、リマに残してきたおまえの親族一同は当然、おまえの副官も、おまえの元にいる『リマの褐色兵』を成す傭兵どもも、全員を同罪とみなす。傭兵など、金さえ出せば、この国に溢れる貧困農民から幾らでも掻き集めることができる。おまえの下にいる今の軍団を総入れ替えすることなど、わたしには容易(たやす)い。そのことを、よく覚えておくことだ」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.07
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だが、それから、トゥパク・アマルは瞳の色を少々和らげ、軽く肩を竦めた。「とはいえ…兎も角も、今回は、そなたに助けられたわけだ」そして、僅かに微笑む。アンドレスはやっと顔を上げ、深く胸をなでおろして、息をついた。「トゥパク・アマル様…!」「ありがとう、アンドレス」そう言って、次の瞬間、トゥパク・アマルは瞳で深く頷き、アンドレスに向かって、しっかりと礼を払った。アンドレスは、あのブロンズ像のごとくの端麗な目を、はじかれたように大きく見開き、それから、深々と畏まった。その胸には、熱いものが激しく突き上げる。「トゥパク・アマル様…!!そんな…勿体のうございます!!」一方、トゥパク・アマルは、床に同化するほどに平伏しているアンドレスに、目を細めたままに静かな微笑みを送っている。しかし、まもなく鋭い眼差しに戻って、トゥパク・アマルが再び口を開く。「フィゲロア殿は、この後も、スペイン軍のもとで兵を指揮するおつもりなのか…」呟くように言うトゥパク・アマルに、ハッとアンドレスが顔を上げる。彼の表情にも、ありありと悲痛な色がよぎった。アンドレスの指が、無意識のうちに、まるで床を激しく掴むように押し付けられる。「はい…。裏切ることはできぬ、と…!」「そうか…」苦しげなトゥパク・アマルの眼差しが、いっそう鋭くなる。「此度のことで、フィゲロア殿の御身が案じられる」アンドレスもにわかに苦渋の表情に変わり、深く頷いた。 そして、間もなく、トゥパク・アマルの早々の出頭を促しにインカ軍の本営を訪れたスペイン側の使者は、彼の出頭取りやめという、全くの方向転換を突き付けられることとなった。スペイン側の激しい怒りと困惑は言うまでもなく、その態度はあからさまに脅迫めいていったが、もはやトゥパク・アマルの態度は硬かった。さらに、それと時を合わせるように、国中の民衆たちの間に流言が広がった。――我々、民の負担を軽くしてくださるために、強制配給の廃止、関税の撤廃、十分の一税の廃止、そして、全軍の兵たちへの恩赦と引き換えに、我らの皇帝陛下トゥパク・アマル様がスペイン軍に命を投げ打ち投降しようと決意されたが、白い役人どもがその約束を守らない心積もりであることを事前に知り、あわやのところで、投降を取りやめるに至った。あの白い役人どもは、これまで散々に歴代のインカ皇帝様を欺き、裏切りを行ってきたのと同じように、我らの皇帝陛下までをも、ついに騙し討ちにしようとしたのだ!!…――と、その事実だけならまだしも、多くの場合、噂にはさらにスペイン役人たちを悪し様に言う尾ひれまでついて、広く国中に流布していった。結果、民衆たちは、これまで以上にトゥパク・アマルを深く讃え、その傘下に加わるものは再び増加していった。スペイン側に強引に付き従わされていたインカ族の傭兵たちの中にさえ、逃亡し、インカ軍のもとに馳せ参じる者が出るほどであった。だが、そうしたトゥパク・アマルの投降取りやめに、スペイン軍総指揮官アレッチェやモスコーソ司祭をはじめ、スペイン側の戦時委員会の面々がどれほど激昂し切歯扼腕したかは、想像に余りある。かくして、トゥパク・アマルやアンドレスが危惧した通り、スペイン役人たちの矛先は、褐色の敵将、かのフィゲロアに向かった。亡者のごとくに血走った眼(まなこ)のアレッチェは、執務室に配下の部下を呼びつけると、地を這うごとくのおどろおどろしき声で呻くように言う。「フィゲロアをここに呼べ!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.06
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トゥパク・アマルは噛み含めるように言った。「アンドレス。確かに、先日、わたしはそなたに、この後は、そなた自身の判断で行動せよと伝えた。だが、此度のような行動をしろ、と申したのではない。現在のような非常時下での行動は、極めて慎重でなければならぬ。今回は、全くの幸運にも、そなたは無事に戻ってくることができた。しかし、もし敵方に捕らえられていたならば、果たして、いかなる事態になっていたと思う?」トゥパク・アマルの言わんとすることを、疾(と)うに察しているアンドレスは、再び、深く頭を下げる。「申し訳ございません…!」「もし、そなたが捕らえられスペイン側の捕虜とされていたら、あの者たちのことだ、我々に無条件降伏を迫ってきたに相違あるまい」トゥパク・アマルが厳しいながらも、諭すように言う。アンドレスは深く恐縮しながら、「本当に申し訳ございません!!」と、いっそう平伏する。それから、瞳を揺らしながらも、意を決した面持ちでトゥパク・アマルを見上げた。そして、思い切ったように言う。「万一、そのような事態に陥った暁には、どうか、俺のことはお見捨てください!!」トゥパク・アマルの眼差しが、さらに険しくなった。アンドレスは、思わず、身を縮める。「馬鹿なことを言うな。いかなることがあろうとも、そなたを見捨てることなどできようか」低い声でそう言って、ますます険しくなりゆく表情のトゥパク・アマルの前で平伏しながらも、アンドレスは、澄み切った真摯な眼差しを、きっ、と投げ返す。「それは俺とて、同じこと!トゥパク・アマル様をお一人で、敵の手に渡すことなどできません!!絶対に!!」「アンドレス…。わたしは私情だけで申しているのではない。そなたは、インカ軍にとっても、インカの民にとっても、その精神的支柱となるべく特別な立場にある者なのだ。もはや、そなたの命、そなただけのものではないと心得よ!」燃えるような、厳しくも、熱い眼差しで語るトゥパク・アマルの表情に、アンドレスは言葉を呑みこむ。そんなアンドレスを見下ろしたまま、トゥパク・アマルは淡々とした声音に戻って言った。「此度のそなたの行動は、本来ならば、少なくとも謹慎処分は免れぬほどのもの。今はそのようなことをしている場合では無い故、実際には致さぬが、だが、それほどの事であったことをよく認識しておきなさい」「はい…トゥパク・アマル様…」アンドレスはガックリと肩を落として、「深く反省いたします…」と、先程までの勇姿はどこへやら、今は、すっかり落胆しきった声になっている。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.05
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トゥパク・アマルは無言のまま、再び、その目を見開いた。そんな彼の前に身を低めながらも、鋭利な横顔で、再び、きっぱりとアンドレスが言う。「トゥパク・アマル様、此度のこと、全てスペイン役人たちの謀(はかりごと)でございます!スペイン軍へのご出頭など、されてはなりません!!」アンドレスの後を追って、ちょうどトゥパク・アマルの天幕に着いたディエゴとビルカパサも、思わず息を呑んでアンドレスを見た。トゥパク・アマルは目を細めてアンドレスを見下ろしていたが、「何故、そのようなことを言う?」と静かに言葉を返すと、アンドレスの様子をうかがいつつも、再び、ゆっくりと荷をまとめる手を動かしはじめた。その傍らで跪いたまま、アンドレスはフィゲロアとの一連のやり取りについて説明していく。話が進むにつれて、いつしか荷を整理するトゥパク・アマルの手も止まりがちになる。ディエゴ、ビルカパサは、まんじりともせず、じっとアンドレスの話に聞き入っていた。やがて、荷をまとめるトゥパク・アマルの指が完全に止まった。そして、「なるほど…。あのスペイン役人たちの二枚舌ぶりは、相変わらずというわけか」と、苦々しい声で言う。それ以上は言葉にはせぬものの、トゥパク・アマルの眼光は、非常に鋭く、険しくなっていく。当初から守る気も無いくせに、大幅な減税を謳って、いたずらに民を喜ばせ、偽りの恩赦を宣言して兵を安堵させて…か…――!!荷に添えられていた指をぐっと固く握り締め、切れ長の目元を険しく吊り上げているトゥパク・アマルの傍らでは、同様に鋭く光る眼のディエゴが、正面からトゥパク・アマルを見据えた。「トゥパク・アマル様…!!」トゥパク・アマルも「あのフィゲロア殿が申すのであれは、間違いはなかろう」と、頷く。ディエゴ、ビルカパサ、そして、アンドレスの喰い入るような眼差しがトゥパク・アマルに注がれた。どうするのですか?!当然ながら、出頭は即刻、取りやめですね?!…――と、三人の目は激しく訴える。暫し、思慮深い目になった後、トゥパク・アマルはゆっくりと頷いた。「あの者たちのことだ。そのようなところであろうと予想してはいたが、はじめから守られぬことが明らかな約束に従うことはできぬ」側近たちは瞳を輝かせて、底知れぬ深い安堵の吐息をつき、そして、力強く頷き返した。一方、今、トゥパク・アマルの精悍な横顔には、とても強い光が宿りゆく。「此度のこと、アンドレスの申す通りであるならば、何よりも、フィゲロア殿が、我らインカ側を擁護するにも等しき言動をなされたことの意義は、非常に大きい」側近たちも、再び深く頷いた。ディエゴが素早くトゥパク・アマルの前に歩み寄る。「トゥパク・アマル様!フィゲロア殿が仰ったように、国中に此度のこと、広く宣伝いたしましょう。すぐさま各地に伝令を飛ばします!!」トゥパク・アマルも、ゆっくり頷く。「そういたそう。二人で手分けをし、各地に伝令を派遣せよ」「それでは、早速!!」力強く言い残し、興奮で顔面を紅潮させながら、ディエゴは大股で急ぎ立ち去った。ビルカパサも輝くような目で再度トゥパク・アマルに一礼をした後、俊敏な身のこなしでディエゴの後に続いた。それから、トゥパク・アマルは、跪いたまま己の方を、その澄み切った眼差しで眩しそうに見入っているアンドレスに、視線を向けた。アンドレスは、ハッと居住まいを正す。結果は兎も角、己の行動が、いかに逸脱したものであったかをアンドレスなりに認識している彼は、トゥパク・アマルからの咎(とが)めを受けることも当然ながら覚悟の上ではあった。が、その鋭い眼光のもとに実際に晒されると、身の縮む思いを抱かずにはおられない。一方、トゥパク・アマルは、案の定、険しい表情で真っ直ぐアンドレスを見下ろしている。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.04
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かくして、すっかり日も落ちた頃、フィゲロアの館から疾風のごとくにインカ軍に舞い戻ったアンドレスの元に、ディエゴとビルカパサが走り込む。「アンドレス!!何と勝手なことをするのだ!!おまえは…!!」ディエゴは思わず気色ばんで、その岩のような巨大な手の平をアンドレスの頬を目掛けて振り上げた。一方、アンドレスは、平手打ちでも何でも、そのようなものは幾らでも甘受する覚悟の表情で、僅かに身を固めたまま、真っ直ぐディエゴの前に立っている。今にも振り下ろさんとするディエゴの振り翳した腕を、即座に、ビルカパサが背後からガッチリと押さえ込んだ。ビルカパサはディエゴの腕を固く押さえながら、「アンドレス様は、ご無事で戻られたのです。それが何よりではありませぬか!」と、常のごとくに感情を抑えながらも、きっぱりとした声で言う。それからビルカパサはアンドレスの方に深い安堵の視線を向け、「アンドレス様、ご無事のお戻り、誠に何よりでございます」と、恭しく一礼をした。そして、「トゥパク・アマル様もたいそう心配をしておられます。ここは、まずは、トゥパク・アマル様のもとに!」と、真摯な声で言いながら、「さあ、どうぞ、お行きください」と、ディエゴの前から逃すようにして目で合図を送る。アンドレスは二人の方に、「勝手なことをして、ご心配をおかけしました!本当に申し訳ありませんでした!!」と深々と頭を下げると、「トゥパク・アマル様は、天幕に?」と早口で問う。ビルカパサが頷くのを確認する間も惜しむように、彼はトゥパク・アマルの元に走った。その後姿を、「全く、何たる無謀な…!!あれでは、あまりに先が思い遣られる」とブツクサ言いながらも、溢れ出すような安堵の表情を浮かべるディエゴと、そして、既に完全に冷静な面持ちを取り戻したビルカパサが追う。一方、天幕の中には、目前へ迫ったスペイン軍への出頭準備のために、身辺整理を行うトゥパク・アマルの姿があった。死に向かう準備であるはずなのに、あの波紋一つ無い湖面のごとくの、極めて静かな、落ち着き払った横顔である。「トゥパク・アマル様!!」息を切らしながら天幕に走り込んできたアンドレスの方を、トゥパク・アマルがハッと振り返った。「アンドレス、戻ったのか!」トゥパク・アマルも、さすがに大きく目を見開く。常の時には全く冷静なはずの彼の瞳も、あまりに深い安堵からであろう、明らかに揺れていた。トゥパク・アマルは、暫し、アンドレスの方を見つめていたが、やがて、またゆっくりと手元に視線を戻し、身辺整理の作業を再開する。そんなトゥパク・アマルの傍に走り寄ると、アンドレスは地に跪いて真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。「トゥパク・アマル様、此度は勝手なことをして、本当に申し訳ありませんでした!!」そして、地に伏すようにして深く頭を垂れた。そんなアンドレスの方に静かな視線を注ぎながら、トゥパク・アマルは作業の手を止める。「何よりも、そなたが無事に戻って本当によかった。アンドレス」アンドレスが見上げた瞳の中に、トゥパク・アマルの偽りなき深い安堵に満ちた表情が映る。アンドレスは、そんなトゥパク・アマルの様子に強く心に迫りくるものを感じて、熱くなった胸を拳でぐっと押さえた。そして、凛と響く、決然とした声で言う。「トゥパク・アマル様!!スペイン軍への出頭のご準備は、今すぐに、おやめください!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.03
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アンドレスは決然と立ち上がると、背後からフィゲロアの方にいっそう詰め寄った。「真のあなたのお気持ちはどうなのです?!今でも、本当に、スペイン側に加勢したいと思っておられるのですか?!フィゲロア殿…インカ軍に加わることは、裏切りなどではない!!本来のありかに戻るということではないのですか?!」まるで暴き正すがごとくに険しくなったアンドレスの眼差しを避けたまま、フィゲロアは窓の外に視線を投げた。外は、徐々に日が西に傾きはじめている。濃い赤茶色の色調で彩られる落ち着いたクスコの街並みに、斜めに降り注ぐ朱色の陽光が、いっそうの深みと重厚さを与え、街全体が最も輝きを増す時間帯が訪れる。その瞬間、フィゲロアのその背から放たれる刺々(とげとげ)しく殺気立った気配が、不意に変ったことを、アンドレスは鋭く感じ取った。相変わらずアンドレスに背を向けたままではあったが、しかし、今、硝子窓越しに黄金色の西日を受けながら、フィゲロアは、低く、だが、はっきりと話しはじめる。「よく聞け…アンドレス。俺はスペイン軍を裏切ることはできぬ。だが、事実は、事実として、おまえに教えてやる」「フィゲロア殿…!」ハッと息を詰めて、その彫像のような美麗な目を大きく見開き懸命に己を見据えるアンドレスの視線を背に強く感じながら、フィゲロアは続ける。「スペイン人の高官たちは、トゥパク・アマルを捕らえた後には、再び、あの強制配給も増税も再開し、おまえたち側近も、果ては、恩赦を与えると建前上は宣言したインカ軍の兵たちも、一網打尽にする心積もりでいる」「!!」アンドレスは息を呑み、しかし、やはり!!…――と、まるで剣のごとくに鋭利になった横顔で、宙を激しく睨み据えた。一方、フィゲロアは窓外に注いでいた視線をゆっくりと動かし、やがて、真っ直ぐにアンドレスに向いた。そして、その表情に深い決意を秘めた光を宿して、続ける。「アンドレス!トゥパク・アマルの投降をやめさせるのだ!!」「フィゲロア殿…!!」「おまえは、すぐに戻ってトゥパク・アマルの投降をやめさせ、そのかわり、国中に流言をばら撒け。いいか、アンドレス、よく聞け。トゥパク・アマルは、民衆の負担を減らすためにスペイン軍のもとに、その命を捨てて、出頭しようとした。だが、スペイン側の裏切りの目論みを事前に知り、投降するのをやめたのだと…――そのありのままの事実を、民衆の間に広く流布させるのだ。さすれば、たとえ、投降などせずとも、民の心は決してあの者から離れることはない。今や国中の民は、誰もが、トゥパク・アマルが投降しようとしていることを知っている。もう十分に、トゥパク・アマルの民への思いは伝わっていよう。ならば、あの役人どもの宣言が偽りであるとわかりながら、出頭するなど、馬鹿げている。そもそも、あの白人どもの二枚舌ぶりは、とうの昔から民の誰もが知るところのもの。あの者どもの裏切りを事前に知って、トゥパク・アマルが此度の投降を取りやめたとて、何ら不自然は無い」「フィゲロア殿…――!」アンドレスは恍惚とした表情ながらも、圧倒されるように息を呑んでいる。フィゲロアは無言で頷き返すと、その鋭くも真摯な視線で、アンドレスに「さあ、早く行け!!」と強く促した。一方、アンドレスは興奮と驚きから顔を紅潮させたまま、動けずにいる。「アンドレス、このようなところに長居は無用。一刻も早く戻り、トゥパク・アマルに投降をやめさせるのだ!!そして、言った通りに流言をばら撒け。スペイン役人どもの二枚舌ぶりは相変わらずである、と!そして、トゥパク・アマルが、いかに民を思っているかを示すのだ!!」ついにアンドレスは、深く頷いた。「フィゲロア殿、かたじけない…!!本当に…何と礼を申してよいか…!!」「ふん…礼など…!俺は、事実を伝えたまでだ。さあ、とっとと行け!!」「しかし…フィゲロア殿…あなたは…?このようなことを話して、あなたの御身が危険なのでは?!もちろん、あなたから聞いたなどとは言わないが…、あのアレッチェのこと…流言の出所を探らぬはずはない…!恐らく、あなたに嫌疑がかかるのでは?!」アンドレスは、非常に深刻な眼差しでフィゲロアの方に身を乗り出す。「フィゲロア殿!!俺と一緒に行きましょう!インカ軍の元に、共に参りましょう!!」「アンドレス、何度も言ったはずだ。俺は、スペイン軍を裏切れぬ…!」「…フィゲロア殿…!!」瞳を激しく揺らしながら苦渋の表情で己を見据え続けているアンドレスを、ついに、フィゲロアはその鉄棒のような腕で、ぐいと荒々しく窓外に押し出した。「さっさと、行け!!アンドレス!!この屋敷には、あのアレッチェも出入りしているのだ!!このようなところを見られたら、俺が迷惑なのだ!!」「フィゲロア殿…!」アンドレスは唇を強く噛み締め、深々と頭を垂れて礼を払った。「本当に…かたじけない…!!」そして、再び涙の滲みかけた瞳に、しかし、今は凛とした光を宿し、貫くようにフィゲロアを見つめた。「俺たち側近たちの誰にも増して、きっと、あなたこそ、トゥパク・アマル様の軍団の将として相応しい…!!いつの日か、必ず、あなたがインカ軍の一人として戦う日が来ると、俺は信じています!!」そういい残すと、アンドレスはまだ涙の痕跡の残るその顔に、しかし、精悍で力強い眼差しを取り戻し、最後に再び深く礼を払った。そして、トゥパク・アマルの元に急ぎ帰還すべく踵を返した。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.02
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しかし、アンドレスは首を横に振りながら、再び相手の真正面に回りこむと、決然とした声で切り込むように言う。「フィゲロア殿!!トゥパク・アマル様が、どれほど…、どれほど、このインカのことを…このインカの地を、民を愛し、守り抜こうとしておられるか、お察しください!!いや、あなたのことだ、きっと全て見抜いておられるのでしょう!!だから、さっきも、あなたは一人で肩を落とされ、苦しんでおられた…!フィゲロア殿、あなたは、やはり、我々と同じ…インカの民としての心をお持ちなのです!!あなたなら…あなたなら、トゥパク・アマル様が囚われるということが、インカにとってどれほど破壊的な打撃になるかわかっておられるはずです!!フィゲロア殿!!」必死で訴え続けるアンドレスの澄んだ、純粋な瞳が、同様に、深く澄み切ったフィゲロアの瞳の中で揺れている。唇をギュッと結び、フィゲロアは眼前の若僧をいっそう激しく睨みつけた。が、その瞳も明らかに揺れている。アンドレスは、そのまま、フィゲロアの前に飛び込むように深く跪くと、床に頭を押し付けて平伏(ひれふ)した。「あのお方の御身を、お命を、今、この地から、この世から、亡きものにしてはなりません!!」頭を床に擦(こす)りつけたまま、アンドレスの肩が震えている。「フィゲロア殿、あなたが望むことなら、俺は、どんなことでもいたします!!ですから…――!!」アンドレスはそのまま暫く言葉も失ったように伏していたが、やがて思い切ったように頭をもたげ、再び、貫くようにフィゲロアを見上げた。その目には、今、蒼い炎が燃え上がり、それと共に、光る涙が滲みだす。フィゲロアは、思わず息を呑んだ。「トゥパク・アマル様をスペイン人のもとに差し出すことなど、絶対に、絶対に、なりません!!なんとしても、喰い止めねばなりません!!鍵を握るのは、あなたなのです、フィゲロア殿!!」挑むように鋭くなったアンドレスの目からは、涙が溢れ、とどまることなく頬を伝って流れ落ちていく。「アンドレス…」フィゲロアは擦れた声で相手の名を呼ぶが、彼もまた固まったように、暫し、言葉が出ない。彼の目の前で、アンドレスはその肩を震わせながら、いよいよ止まらぬ涙を押し隠すように、己の逞しい右手でその顔面を押さえた。そのようなアンドレスを直視し続けられず、フィゲロアは目をそらし、床の上に視線を落とす。彼の呼吸も、不規則に乱れだす。互いに言葉を発することができず、ただ、部屋の中には、もはや押さえ切れぬアンドレスの漏らす嗚咽のみが流れた。数分の時が流れた後、苦しげな表情のままフィゲロアが低い声で言う。「俺に、どうしろと言うのだ」アンドレスが、押さえ込んだ指の間から、はじかれたようにその目を見開く。彼は、そのまま、手で涙を押さえ込むようにして拭き取ると、呼吸を整え、あの蒼い炎の燃え上がるがごとくの激しくも澄んだ瞳で、再び真正面からフィゲロアの目を見据えた。「我々インカのために、共に戦いましょう!!フィゲロア殿も、貴殿のもとにいる兵たちも、インカ軍に加わってください。必ずや、スペイン軍を打倒することができるはずです!!」そして、凛とした、毅然とした声で続けた。「さすれば、トゥパク・アマル様をスペイン側に引き渡すことなど、全く、不要のこと!!」まだ濡れたその目に煌々と炎を燃え滾(たぎ)らせながら、跪きつつも身を乗り出すようにして懸命に己を見上げるアンドレスに、しかしながら、フィゲロアはいっそう苦渋の表情で、再びその目をそらす。「俺に…スペイン軍を裏切れと、そう言うのか?」「フィゲロア殿…!!」いっそう己の方に迫り来るアンドレスの眼光を避けるように、フィゲロアは反対側の窓辺の方に歩み去った。そして、背を向けて、硬い声で呻くように言う。「俺は、一度、これと決めてスペイン軍に加わったのだ!!アンドレス…おまえもインカの人間だろうに、それが、裏切れなどと…よく言えるものだ…!そのようなこと、俺には絶対にできぬ!!」 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.12.01
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軽く肩を竦めて、それから、フィゲロアは独り言のように呟いた。「トゥパク・アマルといい、このアンドレスといい、インカ軍の将たちは、全くもって、いつもこのように破天荒な現われ方をするものなのか…」一方、窓硝子を隔てたバルコニーから、アンドレスは両手を広げて、武器など持ってはいません、と身振りで示す。その様子に、フィゲロアは、かのトゥパク・アマルの対面の際にも同じような情景を見たことを思い出し、苦虫を噛み潰したような表情になる。そして、思わず、顔を歪めて苦笑した。あのトゥパク・アマルの話し合いの際も、武器を持たぬあの者に、結局は素手で打ちのめされたのだ。(おまえたちの場合は、武器の有無など、関係ないではないか…!)そんなことを苦々しく思いながらも、フィゲロアはゆっくりと窓辺に近づいた。それから、やむを得ぬという表情を浮かべ、バルコニーに面したその窓を開く。フィゲロアとアンドレスが直近の距離で、今、ついに対面する。すぐにアンドレスは深く頭を下げた。「突然の来訪、何卒、ご容赦ください」「唐突な来訪は、あのトゥパク・アマルの時で、もはや慣れた」皮相な口調でそんなふうに言い放つ眼前の敵将に、アンドレスは再び深く礼を払う。「どうかお気を悪くなさらないでください」「で、今度は、何用だ?」いきなりの本題に、瞬間、アンドレスの方が不意を突かれた表情になる。が、すぐに意を決した眼差しになると、真正面からフィゲロアに向き直った。「トゥパク・アマル様のことで…!!あのお方が、スペイン軍に出頭すると仰っているのをご存知でしょうか?」澄み切った真剣な瞳で激しく見据えてくる眼前の若者の視線を、同様にとても純粋なフィゲロアの瞳は、しかし、今は、さっとそらす。「フィゲロア殿!!」アンドレスは、フィゲロアの視線の先に回りこんだ。「トゥパク・アマル様をスペイン軍の手に渡すことなどできません!!そのために…そのために、あなたのお力が必要なのです」アンドレスの来訪以前から既に苦しげな色を浮かべていたフィゲロアの表情が、今、いっそう苦渋に歪みはじめる。そして、回り込んできたアンドレスを避けるように、部屋の一隅に向かって、数歩、移動した。「アンドレス、おまえの頭は、一体、どうなっているのだ?俺は、おまえたちの敵であろう!俺を当てにするのは、全くもってお門違いだ」低く冷たい声で言い放つフィゲロアの前に、しかし、再び、アンドレスは回りこんだ。「いいえ!!あなたの率いる褐色兵が、この後のインカの命運を…、そして、トゥパク・アマル様のお命さえをも左右するのです!!どうか、あなたの率いる褐色兵の軍団を…――!!」「黙れ!!しつこいぞ!!」核心に触れてきそうなアンドレスの言葉を鋭く制し、フィゲロアは凍てつくような目でアンドレスを睨み据えた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.30
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当然ながら、扉には硬く錠が下ろされている。アンドレスは窓の外から屋敷の内部を覗きながら、褐色の敵将フィゲロアの姿を探した。一階の窓からは、フィゲロアの姿は確認できない。彼は庭先から屋敷の二階を見上げた。人の気配を微かに感じる。アンドレスは屋敷脇の倉庫の屋根に跳躍すると、そこから二階のバルコニーに、まるで鳥のような身軽さで易々(やすやす)と舞い移った。そして、バルコニーに立ったまま、鋭い眼差しで窓越しに室内を見渡す。果たして、目的の相手、フィゲロアの姿を硝子(ガラス)の向こうに見出した。相手は、まだ、突然の来訪者、アンドレスの存在に気付かない。そのまま、アンドレスはフィゲロアの様子を探るように見た。戦場で、幾度か既に、相見(あいまみ)えている勇猛なその姿は、しかし、今は、一人、室内のテーブルにうつ伏せるようにして、まるで肩を震わせているかのごとくに見える。アンドレスは、息を呑んだ。何か、ひどく胸に迫るものを感じて、暫し、じっとその姿に釘付けられる。(フィゲロア殿…、もしやトゥパク・アマル様のことで、あなたもお苦しみなのでは…?!)窓硝子を隔てて瞳を揺らしながら見つめるその視線を鋭く感じ取ったのか、フィゲロアが、はたと頭をもたげた。そして、視線の方向を探るように、ざっと室内を見回した後、窓の方にも視線を向けた。その瞬間、窓の向こうのバルコニーに立ち、喰い入るように己を見ている混血の若者の姿が目に飛び込む。フィゲロアは予測外のことに、さすがに驚きの眼で、はじかれるように椅子から立ち上がった。そのまま、驚きを引き摺りながらも、窓辺の若者を素早く観察する。(あの者、どこかで見たことがある?!)フィゲロアは、険しい目つきのまま、貫くように窓硝子の向こうを見据えた。貧しい平民の服装に扮してはいるが、凛々しくも華やかな気品溢れる、蒼い炎を纏ったような、その混血の若者の風貌には、確かに見覚えがあった。そして、再び、はじかれたように目を見開いた。(まさか、アンドレス…――?!)直接、言葉を交わしたことはなかったが、戦場で、実に鮮やかな剣裁きで先陣に立つ若武者を、否、インカ軍の若き将を、フィゲロアの目は幾度かとらえていた。当然ながら、その敵将の名は、フィゲロアの耳にも入っていた。いや、それ以前にも、かのクスコの戦場で、トゥパク・アマルにとどめの一撃を喰らわそうとした時、目にも止まらぬ駿足と剣裁きで己とトゥパク・アマルとの間に割って入ってきた剣士、それこそが、今、思えば、このアンドレスであったのだ。フィゲロアの引き締った口元に、意図せぬ苦笑が浮かぶ。一方、窓辺のアンドレスは、相手の表情から、己の正体が知れたことを悟った。(フィゲロア殿…――!!)アンドレスは、窓硝子を隔てたまま、頭を下げて深く礼を払った。それから、軽く硝子をコツコツと指で叩き、「開けてください。危険なことは致しません。」と、口を動かしてメッセージを送る。フィゲロアは半ば唖然としながら、そして、半ば呆れたような眼差しで、まじまじとアンドレスの姿を見据えている。(馬鹿め…!!このような時に、敵中に一人で乗り込んでくるなど!危険な目に合う立場にあるのは、おまえの方だろうが、アンドレス…!!) ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.29
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険しくも、案ずる色を濃厚に漂わせはじめたトゥパク・アマルの方を、ロレンソは真っ直ぐに見上げ、きっぱりとした口調で言う。「トゥパク・アマル様。あなた様をお一人、むざむざ、あの悪鬼のごとくのスペイン役人たちのもとへ行かせるなど、アンドレス様には到底できぬことなのです!アンドレス様なりに、道を必死で探っておられるのでございます!」そう言って、跪いたその姿勢のまま、地につくほどに深く頭を下げた。「何卒、アンドレス様のお気持ちをお察しください。どうか、ご容赦ください!!」友を弁護するために己の前に平伏(ひれふ)している若者の姿を見下ろすトゥパク・アマルの眼差しは、今は、もう、すっかり静かな色に戻っている。そして、微かに溜息をついて、ロレンソに語りかけた。「全く…そなたのように、よく出来た友をもち、アンドレスは果報者だな。」そう言って、ロレンソの傍に彼もまた跪く。「顔を上げなさい。」と、穏やかな声で言うと、慎重に頭を上げた真摯なロレンソの瞳に優しい眼差しで頷き返した。「ロレンソ殿、この後も、アンドレスのことをよろしく頼む。」「はっ!!」再び、深く頭を下げて、しかし、力強い声で応じる若者の方に、細めた目でもう一度頷き返した後、トゥパク・アマルはゆっくりと立ち上がった。そして、状況を見守っていたディエゴとビルカパサの方を順次見渡した後、トゥパク・アマルは思慮深い眼差しで、「まさか、迎えに行くわけにもいくまい。あのアンドレスのことだ。ここは信頼して、本人のしたいように任せるとしようか。」と言って、ほんの僅かに、しかし、はっきりと微笑んだ。 その頃、既に、アンドレスは、ロレンソに教えられた裏ルートを通って、スペイン兵たちの目を逃れ、クスコのフィゲロアの屋敷の門前まで来ていた。もちろん、己の身分や正体を隠すために、貧しい平民の服装に扮し、頭にターバンのような布を巻いて、さり気なく顔を隠しながら。まだ、真昼の日が高い頃ではあったが、暑さのためか、かえって街の人通りは少なかった。アンドレスは人通りの切れた隙を見計らうと、そのまま策を弄さず、屋敷の門前の護衛官たちの前に進み出た。たちまち、数名の厳(いかめ)しい護衛官たちに取り囲まれる。相手に嫌疑の質問をさせる間も与えず、彼は、素手のままに、しかし、その腕と肘を常のサーベルのごとくに鋭く振り翳すと、護衛官たちの急所目がけて俊敏に振り下ろした。通りの人目につく前に、瞬時に事を片付けねばならない。彼は集団で襲い来る敵をかわして幾度か中空に跳躍すると、確実に狙いを定めて敵の急所めがけて舞い降りては、次々と一撃で相手の気を奪った。たちまち辺りには静けさが戻り、微かに汗を滲ませて立つアンドレスの周りには、気絶した護衛官たちの体がばらばらと横たわっていた。気を失って、すっかり伸びている兵たちを、門柱の陰に運んで、素早く隠す。そして、急ぎ足で、屋敷のドアに向かった。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.28
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その時、部屋のドアにノックが聞こえた。フィゲロアは、苦しげな表情のまま顔を上げる。そして、「誰だ?」と、ドアの方に声をかける。ドアの向こうから、「フィゲロア様、トバールでございます。」と、太い声がした。「入ってくれ。」フィゲロアの言葉に、重厚なドアが開く。そこには、インカ族の戦士らしいガッシリと引き締った体格の、青銅色の肌をした中年の男が立っていた。トバールと名乗ったこの男は、リマの褐色兵の将、フィゲロアの副官である。彼は慎重にドアを閉めると、「何かわかったか。」と鋭い眼差しで問うフィゲロアの方に近づいた。そして、一礼を払ってから言う。「裏の情報ではありますが…、やはり、総指揮官アレッチェ殿は、トゥパク・アマル様を捕えた後、側近やその他のインカ兵たちをも捕らえ、さらには、増税も強制配給も再開する心積もりのようでございます。」己の将、フィゲロア同様に、眉を顰(ひそ)めざるをえない様々なスペイン側の所業を、その渦中に身を置いて散々に目にしてきたこの副官トバールも、此度のトゥパク・アマルの投降については一方(ひとかた)ならぬ強い懸念を抱いていた。「このままでよいのでありましょうか。フィゲロア様…!」既に皺の刻まれはじめた額を苦しげに歪めながら、己の方を激しく見据える、その腹心の部下を見つめるフィゲロアの横顔は、いっそう濃厚な苦渋の色に覆われていった。 他方、その頃、インカ軍の本営でも、再び騒然たる事態が生じていた。「アンドレスがいない?!」不意に目を見開くトゥパク・アマルの前に、ビルカパサが困惑した声音で、深く身を屈めて返答する。「はい。今朝方からお姿が見えず、ずっと探しているのですが、やはり、どこにもお姿がありませぬ。」同様に探し回っていたディエゴも、トゥパク・アマルの天幕に現われると、非常に険しい眼差しのまま首を横に振った。トゥパク・アマルが、考え深気にすっと目を細める。「ロレンソ殿を呼んでくれ。」「はっ!」ビルカパサが再び深く身を屈めて礼を払うと、素早く天幕を出ていった。まもなく、アンドレスの朋友、ロレンソがトゥパク・アマルの前に現われる。「ロレンソ殿、アンドレスのこと、何か存じておるまいか。」穏やかながらも鋭く問いかけるトゥパク・アマルに、ロレンソは深く畏まり、頭を下げる。そして、ゆっくりと顔を上げて、その大人びた鋭利な表情をトゥパク・アマルの方に向けた。じっと見つめるトゥパク・アマルの瞳の中で、ロレンソは微かに迷いの色を見せるが、すぐに意を決した目の色に変わった。「アンドレス様は、クスコに向かわれました。」やはり…――と、トゥパク・アマルがいっそう鋭い表情になりながら、再び、目を細める。「クスコのどこに行ったのだ。」「フィゲロア殿のお屋敷であります。僭越(せんえつ)ながら、わたしが、先日トゥパク・アマル様をご案内した道をアンドレス様にお伝えいたしました。そのルートで…。」思わず、トゥパク・アマルは言葉を失(な)くす。傍に控えていたディエゴ、そして、ビルカパサも、息を呑んだ。「アンドレス…何という勝手なことを…!!」わななくようにそう言って、ディエゴは気色ばみながらも、しかし、彼もまた、アンドレスの心中がひどく察せれて、思わず深い溜息を漏らした。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.27
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一方、かの褐色兵の敵将、フィゲロアは、ひどく苦々しい思いと共に、今、非常に深い葛藤状態にあった。彼は、その日、一時的な停戦のためにクスコの地に戻っていたが、事態がトゥパク・アマルの投降の方向に進んでいることを知り、内心、ひどく穏やかならざる心境にあった。戦場では、今でも彼は、スペイン側の討伐隊の極めて重要な将として、インカ軍との戦闘を続行してはいた。しかしながら、続々と貧しいインカ族の農民たちを傭兵として狩り集め、敢えて同族同士で殺戮をさせ合うスペイン側のやり口に、本来は非常に正義心の強く純粋な彼は、次第に不信の念を募らせていた。一方、トゥパク・アマル率いるインカ軍の兵たちは、いかに厳しい戦況になろうとも、己の兄弟姉妹たるインカ族の者たちに――たとえ今は敵、味方に引き裂かれていようとも――決して、致命的な攻撃を仕掛けてくることはなかった。また、スペイン側とインカ側では、その捕虜の扱いも完全に対照的であった。スペイン側のもとに捕虜として捕えられたインカ軍の兵たちは、いかに酷い負傷を負っていても、皆、拷問にかけられ惨殺された。他方、インカ軍の捕虜となったスペイン兵たちは、インカ軍の従軍医によって手厚く治療され、釈放された。フィゲロアはクスコの屋敷の一室で、その澄んだ瞳を揺らしながら、己の額を固く押さえ込んだ。その部屋は、正体を隠すために女装に扮して己を単身訪れたトゥパク・アマルと、かつて直談判を行った、あの時と同じ場所である。あの晩の話し合いの光景が、フィゲロアの脳裏に甦る。輝くような威光を放ちながら、清冽な眼差しで、真っ直ぐに己を見つめて語るトゥパク・アマルの姿とその言葉の一つ一つが、幾度も彼の脳裏に、そして、心に、飛来した。『今も、インカの地の民の、その身に深く宿る魂は、決して、いかなる民族にも劣るものではない。我々の中には、まだそれが生きている。いかなる者とて、それを押し潰し、息絶えさせてよいはずはない。このまま植民地体制下の暴政が続くならば、民の命が果てるだけでなく、遠からず、民の魂までもが死に絶えるであろう。そなたほどの者が、このままインカの民が死に絶え、あるいは、生きた屍となるのを見過ごせるか?手遅れになる前に、ことを進めねば何も変らぬ。今なら、まだ間に合おう。だが、これ以上は、据え置けぬ。時は今なのだ!フィゲロア殿、我々、インカの民のために、そなたの力を貸してほしい。我々インカ軍と共に戦おう!!』フィゲロアは、額を押さえたまま、きつく瞼を閉じた。「インカの地の民の、その身に深く宿る魂」…――たとえ敵方の傭兵に回されていようとも、白人たちに戦(いくさ)を強要された貧しい農民たちを決して討たず、今に至っては、己の命を呈して減税その他の民の負担を軽減させ、且つまた、側近たちを含め全てのインカ兵たちの命をも守り抜く――トゥパク・アマルは、あの時の言葉を、その身をもって体現しているのだと、フィゲロアには、そう感じられてならなかった。(トゥパク・アマル…!!本気で、スペイン軍のもとになど、くだるつもりなのか?!)フィゲロアの瞼が震える。(この俺が、あの時、トゥパク・アマルの言葉を信じてインカ軍に寝返っていれば、このようなことにはならなかったということか…?それでは…俺が…?この俺が…トゥパク・アマルを、処刑台に送る段取りをつけた、ということか?!)彼の目が、はじかれたように見開かれる。だが、即座に全てを振り払うようにして、激しく首を振った。(い…いや…トゥパク・アマルとて、あのアレッチェが言う通り、腹の底では、インカ皇帝に返り咲いて独裁政治を敷こうとしていたかもしれぬのだ!!俺は、それを喰い止めた、という見方とてできるのだ。そうだ…そうなのだ!今更、俺は何を血迷っているのだ!!これで良かったのだ…!!)フィゲロアは吹っ切るように、その顔を、きっ、と上げ、毅然とした眼差しをつくった。が、すぐにそれは、苦渋と皮相の色に歪んでいく。(ああ…だが、このひどく落ち着かぬ感覚は、一体、何なのだ…。)再び、フィゲロアは深く肩を落とし、テーブルの上で強く握り締めた褐色の拳を震わせた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.26
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さらに追い討ちをかけるがごとくにトゥパク・アマルが言う。「そなたが編制した褐色兵の軍団も、時間をかければ、インカ軍に寝返らせることもできよう。わたしには自信がある。ましてや、彼らは多くが貧しき農民たち。己の田畑を手放して戦線に参加はしているが、長きに渡って、己の農地を空けることが、彼らにとってどれほどの危惧であるのか、そなたにわかるか?己の意志で参戦したわけではない彼らのことだ、すぐにも自らの農地に戻りたいと願っているはず。端金(はしたがね)と脅しだけで、いつまで彼らを動かせるものか…そなたも、やがて思い知る時がくるであろう。」アレッチェの握り締めた拳が、ワナワナと震えている。あまりの侮辱的な状況に、にわかに言葉も失(な)くして、アレッチェは、ただもう白目を剥き出しにした鬼のごとくの形相で、額に油汗を滲ませながら、こちらを睨みつけている。しかし、トゥパク・アマルは全く気圧される風情もなく、淡々と続ける。「それでも、そなたが書状に示した通り、真に強制配給や税関を廃し、他の兵たち同様、側近たちにも恩赦を与えることを誓うならば、わたしはそなたのもとに出頭してもかまわない。」トゥパク・アマルは、相変わらず冷ややかな目で見下ろしながら、「どうする?」と、完璧に落ち着き払った態度で問う。(この下賤なインディオが…――!!)煮えくり返る腸(はらわた)を押さえ込むように、アレッチェは、その手で己の胃の辺りをぐっと押さえた。突き上げる嘔気と共に、今すぐにでも、眼前のインディオを絞め殺してやりたいほどの激烈な憎悪に翻弄される。そんなアレッチェの様子を、冷静な目でじっと観察しながら、「すぐに答えずともよい。クスコに戻られて、皆でゆっくりと考えよ。そなたたちの返答次第で、この命、引き渡そう。」と、トゥパク・アマルが低い声で言う。アレッチェは相変わらず鬼のごとくの形相でトゥパク・アマルを睨みつけながら、しかし、結局は即答することができず、「戦時委員会の会議にかけて、話し合い、返答する。」と、憎悪と憤怒と苛立ち故にすっかり上擦った声で言い残し、インカ軍の陣営を立ち去った。 かくして、切歯扼腕しながらクスコに戻ったアレッチェは、トゥパク・アマルの出した条件――すなわち、側近たちの引渡しの拒否――について、即刻、戦時委員会を招集して話し合いを行った。結果、トゥパク・アマルを捕えることを最優先事項と定め、やむなく、形の上では、側近たちの引渡しの拒否を許諾する形とした。だが、彼らの腹の内には、もちろん、インカ(皇帝)一族及びその側近たちの抹殺に対する激しい執念が渦巻いていた。兎も角も、まずはトゥパク・アマルを捕え、インカ軍を弱体化させた後、順次、側近たち、及び、インカ一族を始末する、という方向で話し合いはまとまった。側近や一族たちに関する情報は、捕えたトゥパク・アマルから、直接、拷問下で白状させることもできよう、とスペイン人高官たちは考えてもいた。ただし、トゥパク・アマルという人物をよく知るアレッチェは、どのような目に合わせようとも、あの者から吐かせるのはひどく難儀であろう、と感じてはいたが。いずれにしろ、トゥパク・アマル亡き後のインカ軍など、所詮は烏合の衆…――スペイン人中枢部の認識は、まだこの時点では、その程度のものだったのだ。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.25
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アレッチェは、トゥパク・アマルに向ける、その射竦めるような鋭い眼をいっそう光らせた。最初から、このインディオはひどく危険だと、直観していた。そして、その直観通り、否、その直観をも凌ぐスケールで、大々的な反乱を巻き起こし、植民地支配中枢部を心底震撼させた。アレッチェは、改めて、眼前のインディオ、トゥパク・アマルを見据える。(実際、よくぞここまでやったものだ…――。トゥパク・アマル!!)己の人生において、恐らく最大の宿敵となったのが、よりによってインディオとは…。皮相な感情と共に、全く奇妙なことではあったが、アレッチェの中に、妙な感慨に似た感情が込み上げる。(だが、勝負はあった。結局は、歴代のインカ皇帝のごとくに、今、おまえも制圧者の前に跪くのだ!!)その冷酷な目が、氷のごとくに光る。一方、トゥパク・アマルは、全く落ち着き払った態度で、彼にとっても、図らずも宿敵となった、その眼前のスペイン人の方に鋭くも静かな視線を注いでいた。今や覚悟を決めた彼は――否、恐らく、この反乱を起こす前の、とうの昔から己の命など投げ打つ覚悟を決めていた彼は、澄んだ光をその切れ長の目元に宿し、思慮深い眼差しをじっとアレッチェの方に向けている。まるで、相手の心の声をすべて読みぬくがごとくに。(アレッチェ殿、そなたのもとにくだるのは、跪くためではない。真に、インカの民が立ち続けるためなのだ。)そして、その落ち着き払った美しい目を、すっと細めた。それから、深く、低く響く声で言う。「クスコの戦時委員会のもとに、出頭しよう。」アレッチェは、瞬間、目を見開いた。さすがの彼も、興奮からか、にわかに全身の血流が速まるのを感じる。(ついに、この男を、トゥパク・アマルを押さえ込んだのだ…――!!)「だが、わたしの側近たちを、そなたたちのもとにはやれぬ。」「なに?!」アレッチェは、再び、冷や水を浴びせられたように、険しい表情に戻る。「側近たちは、渡せぬ。」毅然とそう語るトゥパク・アマルの眼は、これまでの静かな眼差しを一変させ、あの青白い炎をメラメラと燃え上がらせはじめている。アレッチェもまた、獰猛な光をありありと湛えた眼で、睨み返した。「そのような勝手が通るか!!」「それでは、わたしが出頭する話も、無かったことにしてもらうしかあるまい。」「何…――!!」改めて、激しい睨み合いの応戦となった。本来は、少なくとも表面的には、かなりの冷静さを保ちうる性質(たち)のはずのアレッチェであったが、この時ばかりは、己の感情を明らかに露呈させはじめる。アレッチェは非常な憎悪の眼で、あからさまに切歯扼腕しながら、「それでは、強制配給や減税の話も、全て白紙に戻してもよいのだな!」と、わななく声で言う。「どうしても側近たちを差し出せと言うのならば、やむをえまい。」トゥパク・アマルが無機質な声で言う。「完全に、そなたたちの植民地支配の鎖を断ち切るまで、戦い続けるのみだ。」そう語るトゥパク・アマルの全身からは、蒼い覇光が、その瞳の中の炎に呼応するがごとくに湧き立ちはじめる。アレッチェは、傍目から見ても明らかなほどに、その目元をピクピクと引きつらせながら、歯をギリギリと摺り合せた。「反乱の大義も無くしたおまえたちに、誰がついてくるというのだ!!」吐き捨てるようにアレッチェが、がなり立てる。トゥパク・アマルは相手を見下ろすようにして、その目を冷ややかに細めた。「この国の民の苦しみは、強制配給や税の問題だけではない。あの最悪な鉱山での強制労働、言語を絶する虐待行為、人とも思わぬ権利の剥奪…まだまだ挙げれば切りの無いほどの問題がこの国にはある。十分に、我々が掲げる大義はあるのだ。」「くっ…――。」アレッチェは顔面を引きつらせたまま、言葉に詰まる。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.24
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一方、その傍らから、深刻ながら、とても思慮深い声がする。その声の主は、やはり、あの老齢な賢者、ベルムデスであった。ベルムデスは身を低めてトゥパク・アマルの方に礼を払い、その深く刻まれた額の皺をいっそう深めながら、恭しく、静かに、しかし、はっきりと話しはじめる。「トゥパク・アマル様のお考え、よくわかりました。確かに、この期に及んでは、スペイン側の妥協案を撥ね付けてまでの反乱の続行は、民意に反するものとなる恐れはありましょう。しかしながら、それは、あの役人たちが、その約束を本当に果たした場合のこと。あの者どものやり口を、この年老いたわたしは、幾度となく見て参りました。あの者どもは、守る気もない方便を駆使し、己に都合のよい目的さえ達すれば、あっさりと手の平を返して裏切るのでございます。これまで、かのピサロに騙されたアタワルパ様のご時世から、果たして幾多のインカ皇帝たちが、その卑劣な手の内に落ちてきたことでございましょうか。」そう一息に語りきると、ベルムデスは息をつぎ、その思慮深い表情をいっそう深刻気に歪め、激しくトゥパク・アマルを見据えた。「なりませぬ。トゥパク・アマル様、決して、あの者どもの言葉に乗ってはなりませぬ…!!」己の命を絞り出すかのごとくに訴えるベルムデスに、トゥパク・アマルは、とても深く礼を払う。「ありがとう、ベルムデス殿。そなたの申すことは、恐らく、正しい。しかしながら、わたしが出頭しなければ、民衆たちは、彼らの切望する減税、強制配給などを、わたしが撥ね付けたと思うであろう。ましてや、あの褐色兵のために、インカ側の犠牲者も数知れぬ状態になっている。このままでは、民意は離れ、犠牲者も増えるばかりなのだ。その上、そなたたち側近以外の兵には恩赦まで発せられている。もはやインカ軍そのものが分断されかねぬ危機なのだ。完全に分断される前に、手を打たねばなるまい。この先、必要な時には、いつでも反乱を再燃させるために。わかってくれるね。」深く、はっきりとした声で、滔々(とうとう)と諭すように語るトゥパク・アマルに、側近たちも、そして、ベルムデスも、にわかに言葉を無くす。トゥパク・アマルは再び全員に頷きながら、見渡し、続ける。「わたしが亡き者となり、結果、スペイン人の役人たちが、その約束を裏切り、再び、増税なり強制配給を開始したら、今一度、反乱の火の手を上げよ!!その時には、さすがの褐色兵も、あの者たちの本性を目の当たりにするであろう。そうなれば、褐色兵の将を、兵たちを、必ずや説得できるはず。その暁には、彼らを我々インカ軍の味方として引き入れよ。」そして、力強く言う。「その時こそ、真に、植民地支配の鎖を断ち切るのだ!!」トゥパク・アマルは、衝撃波を浴びたような表情で己を見据えている二人の片腕たち、あのディエゴを、そして、アンドレスを、改めて、暫し、真正面から見据えた。それから、同様に、未だとても受け入れられぬという眼で固まったまま己に釘付けられている側近たち全員を、再びあの包み込むがごとくの眼差しで見渡した。「わたしが亡き後は、そなたたちでそれを成し遂げよ。そなたたちなら、できると信じる。」そして、最後に、噛み含めるように言って、微笑んだ。「案ずることはない。たとえ、この身がこの世からなくなろうとも、わたしの魂は常にそなたたちと共にあり、そなたたちと共に戦い続けるのだから。」 他方、それから間もなく、かのスペイン軍総指揮官アレッチェは、クスコの戦時委員たちの驚愕をよそに、トゥパク・アマルの求めに応じて、インカ軍の陣営内にてトゥパク・アマルと会うことを承諾した。此度の反乱鎮圧の総責任者である彼もまた、ここが正念場であることを深く認識していた。インカ軍の息の根を止めるのは今しかない!!…――そのためには、何としても、トゥパク・アマルを捕えねばならぬ、と固い決意を噛み締めていた。トゥパク・アマルとうい人物を、その性格も行動傾向も、今や、かなりまで把握し尽くしているアレッチェは、トゥパク・アマルが話したいというならさっさと話した方が事の進みの速いことを悟っていたし、また、己の来訪に伴い、トゥパク・アマルが何か危害を加えてくることなぞ絶対に無いことも確信していた。然るに、それから間もなく、アレッチェは数名のスペイン人護衛官と共に、トゥパク・アマルの本営を訪れた。トゥパク・アマルは深い礼をもって、このスペイン軍総指揮官、且つまた、植民地全権巡察官たるアレッチェを丁重に陣営に招き入れた。面会用にしつらえられた天幕の中で、トゥパク・アマルは人払いをした後、全く二人きりで、アレッチェと対峙して座った。あの護衛のビルカパサも、この時ばかりは天幕内部へ入ることを許されず、天幕の外側にて警護にあたった。「アレッチェ殿、此度はわたしの求めに応じ、はるばるお運びいただき、誠にいたみいる。」トゥパク・アマルが、あの流麗なスペイン語で丁寧に礼を払う。アレッチェも、それに応じるよう、目だけで礼を払ってみせる。たちまち重い沈黙がその場を支配する。二人は暫し、互いの目を見据え合った。かつて、トゥパク・アマルがインカ皇帝の子孫であることを承認させるために訪れた首府リマのアウディエンシア(最高司法院)で初めて二人が対面した時、そして、反乱幕開け直前に副王の言葉を伝え聞くために訪れたトゥパク・アマルが副王代理のアレッチェと接見した時…――それぞれの状況が、まるでフラッシュバックのごとくに二人の脳裏に甦る。はじめて対面したあの時と同じように、今、二人の鋭い視線は宙を切り裂くほどの衝撃で完全にぶつかり合い、無言の火花が激しく散った。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.23
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気迫を帯びた眼差しで月を見上げたまま、トゥパク・アマルはまるで誓詞を立てるかのように、一瞬、その引き締まった右腕を真っ直ぐ天空に向けて掲げ上げた。それから、瞳を閉じて、まるで祈りを捧げるように月の方向に頭を下げる。(わたしが亡き後は、インカの民の守護者として、ディエゴを、そして、あのアンドレスを、月よ、太陽神よ、大地と天空の神々よ、どうか見守り、力を貸し給え…。)トゥパク・アマルは暫し、そのまま、じっと瞼を閉じて祈った。それから、ゆっくりとその目を開ける。月明かりがくっきりと浮き立たせる彼の横顔は、今や、己の命を投げ打つ深い決意のために、その凛々しく精悍な風貌をいっそう際立たせていた。今、トゥパク・アマルの脳裏には、あのスペイン軍総指揮官アレッチェが、はっきりとその姿を現してくる。彼は、その宿敵を射抜くがごとくの非常に鋭く険しい眼差しで、眼前を毅然と見据えた。(側近たちをスペイン軍のもとにくだらせること、そのような要求は、絶対に呑むことはできぬ。それだけは、あの男に、アレッチェに認めさせねばならぬ…――!)今、再び天空を振り仰ぐ彼の瞳の中で、晩夏の夜空に、遠く、蒼い稲妻が光っていた。 まもなく数日後、分遣隊として各地に遠征していたディエゴ、オルティゴーサ、そして、アンドレスがトゥパク・アマルの召集を受けて、馳け戻ってきた。トゥパク・アマルは、あのスペイン人の使者からの書状を手に、側近中の側近たちを己の天幕に集めた。参集した側近たちは、従弟ディエゴ、参謀オルティゴーサ、相談役ベルムデス、そして、甥のアンドレス、腹心ビルカパサ、アンドレスの朋友ロレンソ、さらに、かの義兄弟フランシスコも、今は再びその場に加わっていた。トゥパク・アマルは、冷静な声でスペイン軍からの書状の内容――つまりは、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止、さらには、反乱軍の全ての将兵及び兵たちの罪を不問に付すこと、そして、その条件としての、トゥパク・アマル及び、その側近たちのクスコ戦時委員会への出頭――を、集まった者たちに伝え、且つ、己の考えを丁寧に説明した。そして、最後に、ゆるぎなき決意を宿した眼差しで、「然(しか)るに、わたしは、クスコの戦時委員会に出頭しようと考えている。」と、はっきりと言った。えっ…――?!あまりのことに、側近たちは、皆、暫し、何が起こっているのかわからぬままに、愕然を通り越した呆然の眼(まなこ)で、魂が抜けたようにトゥパク・アマルを見ている。誰の頭の中も、ただ、ひたすら真っ白なままに、完全にその正常な動きを止めていた。絶句したまま己を見据え続ける側近たちに、トゥパク・アマルは、あの包み込むような眼差しを向ける。「アレッチェ殿と直(じか)に話をし、そなたたちの出頭は、何としても食い止める。」そう言って、改めて全員を穏やかな瞳で見渡すトゥパク・アマルの方に、しかしながら、今、この瞬間まで完璧に固まっていたアンドレスが、ついに口火を切った。その声には激しく案ずる色と共に、むしろ、強い憤怒の気配さえもが篭(こも)っている。(何故、トゥパク・アマル様…あなた様は、そんなに重要なことを一人で勝手に決めて、しかも、そんなにあっさりと仰るのか…――!!スペイン軍に出頭するということは…それは…それは…!!)アンドレスは震える声で、呻くように言った。「我々のことよりも、トゥパク・アマル様…!!あなた様の御身こそが、決して失われてはならぬものではないですか!!この…このインカのために…!!」わななくように激しく揺れる瞳を見開き、まるで挑みかかるがごとくに身を乗り出して、喰い入るように見据えるアンドレスに、トゥパク・アマルはいつも通りの静かな微笑みを返した。「ありがとう、アンドレス。だが、此度ばかりは、わたしが行かねば事はおさまらぬ。」そして、アンドレスの方に僅かに身を傾け、真剣な眼差しで、深遠な、響く声で言う。「アンドレス、そなたこそ、生き延びるのだ。そして、あのスペイン人の役人たちが、我らに誓った約束を果たすのを、しかと監視し、見届けよ。もし、彼らが果たさぬ時は、再び立ち上がるのだ。幾度でも!!」胸が詰まって声の出ぬアンドレスに、トゥパク・アマルは再び、穏やかに、そして、力強く頷き返す。「アンドレス、そなた自身の力を、信じよ。確かに、そなたには、まだ未熟なところも多い。だが、それは、これからそなた自身の力で事を進め、切り拓く中で克服してゆけばよい。未熟であることと、潜在力のあることとは別のこと。そなたは、もう、わたしの庇護なくとも、己自身の力で何事もやっていける。いや、やっていくべき時がきたのだ。この後は、そなた自身の力を信じ、自分の頭で考え、判断し、行動せよ!そして、そなたの真(まこと)の力を己自身で引き出し、インカの地のために、民のために生かしきるのだ!」厳然たる、しかし、まるで父か兄かのごとくの深い愛に貫かれた眼差しで、トゥパク・アマルに真っ直ぐ瞳の奥底まで見据えられ、アンドレスは先刻の身を乗り出した姿のまま、再び、微動だにできなくなっていた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.22
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その晩遅く、トゥパク・アマルは己の天幕の中で、揺れる蝋燭の炎を見つめながら深い思索に耽っていた。もし、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止が真に実現されるのならば、民の負担は著しく軽減することは明らかだった。しかしながら、この反乱の究極的な目的――植民地支配の瓦解――は、もしこの書状に従うならば、もはや成し得ぬことになるのだ。トゥパク・アマルは鋭い目つきで、揺れる蝋燭の炎を見つめ続けた。彼の漆黒の瞳の中で、緋色の炎が不安定に舞っている。(しかし、もし、この書状を撥(は)ね付ければ、強制配給や税は変わらず、結果として、民の負担は続いていくのだ。もちろん、この反乱を成功させ、植民地支配を終焉させれば、そのようなものは根底から無くすることができる。しかし、もはや、敵方から、このような妥協案が出された以上、それを一蹴すれば、一刻も早く楽になりたいと願う民衆の心に背くことになるであろう。民が真に願っているのは、植民地支配下にあるか否かということ以上に、兎も角も、まさに今の目前の苦しみを少しでも軽減することなのだ!)トゥパク・アマルは燭台の灯りを消した。天幕が暗闇に包まれる。辺りに蝋の臭いが、たちこめた。(スペイン人の役人たちが、あそこまで我らの要求を呑むと言ってきた今、こちらがそれを撥ね付け、反乱を続行すれば…もはや、民意は、我々についてはこなくなるであろう!)トゥパク・アマルは険しい眼差しのまま、すっと立ち上がる。(ただでさえ、モスコーソ司祭によるキリスト教からの破門の一件以来、当地生まれのスペイン人の心は離れつつあるのだ。これ以上、民意が離れれば、反乱の続行は不可能。そうなった暁には、もっと酷い条件で、否、全く無条件に降伏を迫られることにもなりかねぬ…――。)かなりのところまで敵方を追い詰めていたはずが、逆に、敵にいきなり王手を打ち込まれたがごとくの苦々しい思いが、渦巻きながら、彼の胸内にジワジワと広がっていく。トゥパク・アマルは、傍に立て掛けてあった漆黒のマントを羽織った。そして、ゆっくりと天幕を出た。頭の中が熱くなっている。夜風にあたりたかった。秋近い夏の深夜の風は、幾らか日中の熱の余韻を残しながらも、さすがに高地だけあって十分に涼やかな冷気を運んでくれる。トゥパク・アマルは、先刻、己の胸中にたちこめた苦い思いを吐き出すように、深く息を吐いた。そして、すうっとその身に冷ややかな夜風を吸い込んだ。夜露を含んだ野草のしっとりとした香りが、ゆったりと胸の中を満たしていく。アンデスの森にそっと息づく妖精のように、ひっそりと咲く蘭の花の、甘い香りの余韻が心地よい。足元で鳴く哀愁を誘う虫たちの声が、空に向かって響いていく。その鳴き声に促されるように、トゥパク・アマルもまた、高い空を振り仰いだ。涼やかな風が彼の纏うマントを、漆黒の翼のごとくに後方にゆるやかに翻す。風の中に舞う長髪を、そのしなやかな指でゆっくりと掻き上げながら、彼は真っ直ぐに天空の月を見つめた。月の清らかな光をその端に宿した切れ長の目は、今、ゆるぎない決意を秘めた眼差しに変わっていく。(此度の書状の内容も、わたしや側近たちを捕えるために仕組んだあの者たちの罠であるかもしれぬ。いや、その確率は、むしろ高い。だが、あそこまではっきりと国中に減税を明約する以上、いくら権力を牛耳るスペイン人高官たちとて、わたしを捕らえた後に、即座にあっさりと手の平を返して約束を違(たが)えれば、それこそ、あの者どもから民意は離れる一方のはず。とはいえ…、あの者どもたちのこと、どこまでも愚かなことを仕出かさぬとも限らぬ。ならば、わたしが処刑された後も、あの者たちを厳しく監視する者が絶対に必要だ。今、それをできるのは、わたしと共に反乱を率いてきた側近たち…ディエゴ、アンドレスを中心とした者たち以外にはあるまい。ならば、側近たちをも、スペイン人の元にくだらせることなど、決してできぬ!) 月光を浴びるトゥパク・アマルの逞しい全身からは、今、蒼い覇光が、燃え上がる炎のごとくに立ち昇る。(アレッチェ殿…そなたのスペイン軍に、わたしのこの身柄、引き渡そう。だが、それはあくまで、わたし一人…――それが、わたしの出頭の条件だ!) ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆『インカの野生蘭』: トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.21
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一方、使者は、はじかれたように目を見開く。まさか、わざわざこのトゥパク・アマルと1対1の直談判などに、今更あの総指揮官アレッチェ様が応ずるはずがあるまいに!!…――と、やはり「インディオ」に侮蔑的な偏見を持っているに相違ないその使者は、瞬間、ありありとそんな色の表情を浮かべたが、しかし、トゥパク・アマルの鋭い眼光の前では、さすがに身を硬くする。そして、兎も角もここは無難にかわそうと上目遣いで言った。「わかりました。総指揮官に伝えるだけはしてみましょう。」「よろしく頼む。」真摯な声でそう言うトゥパク・アマルに、その白人の使者は再び口を開いた。「最後に…此度のご返答が定まるまで、一時的に戦闘を休止する方向で、と、総指揮官から承っております。」トゥパク・アマルはゆっくり頷いた。「わかった。各地の兵を引こう。」使者はもう一度だけ形ばかりの礼をすると、そのまま足早にインカ軍の陣営から立ち去った。使者が去ると、この本営に残っていた側近の一人、トゥパク・アマルにとっては父親のごとくに相談役を果たしてきた老賢者ベルムデスが、深く礼を払いながらトゥパク・アマルの目を覗き込んだ。「トゥパク・アマル様、その書状、果たして、いかなることが…?」トゥパク・アマルは澄んだ眼差しをベルムデスに向けた後、思いに耽ったような伏し目がちな表情になり、「改めて、後日、内容をお伝えいたします。暫し、考えさせていただきましてから…。」と、深く礼を払って言う。そんなトゥパク・アマルを、ビルカパサもひどく案ずる色を滲ませて、じっと見つめた。その視線に応えるように、トゥパク・アマルもビルカパサの方に視線を注ぐ。「ビルカパサ。そなたは、ディエゴ、オルティゴーサ殿、アンドレスの陣営に伝令を飛ばし、一時休戦の旨と、それから、この本営に至急戻るよう伝えてほしい。」ビルカパサは「畏(かしこ)まりました。」と俊敏な身のこなしで一礼すると、伝令の手配のために素早く立ち去った。常に平静を崩さぬトゥパク・アマルの表情は変らず湖面のごとくに静かだが、いっそう研ぎ澄まされていく横顔には、今、深い影が射し、そのさまは、逆に、ゾクリと鳥肌が立つほどに美しかった。しかし、それだけに、トゥパク・アマルの表情に浮かび上がる、その尋常ならざる氷のように鋭利な美しさは、彼を知る身近な者に、決して表には出さぬトゥパク・アマルの内面に渦巻く苦悩と葛藤の深さを激しく突き付けてくる。そのまま書状を手に、ゆっくりと己の天幕に引き上げていくトゥパク・アマルの後姿を、ベルムデスが非常に強く案ずる色で見つめた。(トゥパク・アマル様、彼ら侵略者の二枚舌は、かのピサロがインカ帝国を滅ぼしたあの時から、あの者たちの変わらぬ常套手段…!決して、騙されてはなりませぬ…――!!)ベルムデスの心が叫ぶように、トゥパク・アマルに訴えかける。そして、トゥパク・アマルもまた、後姿のまま、しかし、まるでそのベルムデスの声に呼応するがごとくに、刃のように鋭利なその横顔で深く頷いた。(わかっております、ベルムデス殿。しかし、この書状の内容は、今、この戦況の中では、一考に値するもの。安易に一蹴することはできませぬ!) ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.20
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そして、はやくもその日の夕刻、スペイン側の戦時委員会からの使者が、トゥパク・アマルのいるインカ軍本営へと遣わされた。時に、1781年3月初旬のことである。そのスペイン人の使者は、門前のインカ軍の兵たちに驚きと警戒をもって差し止められたが、すぐに使者の来訪はトゥパク・アマルに知らされ、本営の中へと通された。使者との面会用にしつらえられた天幕で、トゥパク・アマルと使者は対面した。使者は、一応の礼を払った後、アレッチェによってしたためられた書状を差し出す。トゥパク・アマルも相手に礼を払った後、優雅な、しかし、素早い手つきで書状を開いていく。中には、先刻、クスコの戦時委員会でアレッチェらによって取り決められたばかりの、あの内容が記されていた。つまりは、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止、さらには、反乱軍の全ての将兵及び兵たちの罪を不問に付すこと、そして、その条件としての、トゥパク・アマル及び、その側近たちのクスコ戦時委員会への出頭…――。その内容に目を通しながら、さすがに、トゥパク・アマルの眼は大きく見開かれた。(代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止…!!)反乱を起こすまでは、血を吐くほどにあれほど幾十回にも渡り訴え続けてきたにもかかわらず、決して見向きもされなかったそれらの要求に、今、殖民地支配中枢部が許諾の態度を示そうとしているのだ。もちろん、スペイン役人たちの二枚舌ぶりは、これまでの彼らとの交渉過程及び治世を見てくる中で嫌というほど思い知らされてきたトゥパク・アマルは、今もその白い役人たちが書き連ねたそれらの文言を、そのまま甘受してよいなどと思いはしなかった。しかしながら――強制配給を全面的に廃止し、税関を閉鎖し、教会の十分の一税をも禁止すると、ついにそこまでスペイン人中枢部に言わしめたという、その事実は、少なからず心に迫りくる要素をもっていた。且つまた、真にそれらが実現すれば、この国の民の負担はどれほどに軽減されるであろうか!!わななくように見開かれたトゥパク・アマルの瞳も、この時ばかりは明らかに揺れている。だが、彼はすぐに冷静な表情に戻り、再びそれらの全文に目を通すと、暫し、思慮深い、そして、やや鋭い眼差しになって、その目をすっと細めた。結局は、その書状の内容の本質は、甘い餌をちらつかせながらも、暗黙にインカ軍の、そして、トゥパク・アマルの降伏を迫っているものであった。彼は、しなやかな褐色の指先をその額に添えながら、もう一度、険しい眼差しでその書状を沈黙のまま読み返していく。スペイン人の使者も、周囲に集まった側近たちも、息を詰めてその様子を見つめていた。それから、トゥパク・アマルはゆっくりと書状から目を上げ、使者の方に視線を向けた。「使者殿、此度(こたび)は誠にご苦労であった。この書状、確かに、お預かりした。」使者は、鋭く探るような目つきをしつつも、頭を下げる。トゥパク・アマルも頷き、それから、改めて、真っ直ぐな眼差しをその白人の使者に向けた。「貴軍の総指揮官アレッチェ殿と、直接二人で話したい。この書状への返答は、その後に。その旨、アレッチェ殿にお伝え願いたいのだが。」そう言って、トゥパク・アマルは研ぎ澄まされた精悍な横顔に、静かな、しかしながら、決して否とは言わせぬ、との気迫を滲ませ、その目元を鋭利に細めた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.19
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この期に至っても、未だトゥパク・アマルに決定的な打撃を与えられぬこと、そればかりか、いっこうに反乱の勢いがおさまる気配のないことに、根っから「インディオ」をひどく蔑み、極めてプライドの高いこのスペイン軍総指揮官アレッチェは、かなりの苛立ちと焦りと、これまでにも増して激しい憎悪を燃え滾(たぎ)らせていた。彼は、机上に広げていた書類を乱暴に握り締めた。グシャリと紙面が音を立てて、その形状を無残に歪める。それから、机上のグラスから荒々しく水をあおり、乾ききった喉にそれを流し込むと、改めて、司祭を、将軍を、そして、戦時委員たちを鋭く見渡した。モスコーソ司祭は、反乱勃発以来、切歯扼腕させられる事態の連続のあまりに、今となっては、もはや怒り心頭も通り越して不気味に冷静になったその細めた眼で、探るようにアレッチェを覗き見る。バリェ将軍は、最近の一連の戦線の中でいっそう逞しく日焼けしたその獅子のごとくの厳(いかめ)しい顔面を、真っ直ぐアレッチェに向け、毅然とした鋭い眼でじっと次の言葉を待っている。そして、その他の戦時委員の面々たちは、皆、アレッチェの鬼気迫る眼光に、息詰めて固唾を呑んでいた。アレッチェは、再び、全員を、凍てつくような冷酷な眼で見渡した後、地底から滲み出すがごとくの不気味に低く響く声で言った。「あのトゥパク・アマルが訴えている要求を呑んでやるのです。」「要求を呑む…――?!」委員たちが、瞬間、眼を見開いた。それから、気色ばんで、騒然となる。「まあ、待て。続きを聞こう。アレッチェ殿、それはどういうことかな。」そう言って委員会の面々を押し黙らせ、細めた瞼の奥から覗く眼を、いっそう炯炯と光らせはじめたモスコーソ司祭が言う。その口元には、既に、アレッチェの言わんとすることを察しているがごとくの、不気味な笑みをうっすらと浮かべながら。アレッチェは、戦場で日焼けした筋肉質の腕とその指でテーブルの表面を掴むようにやや前傾姿勢になりながら、噛み含めるように言う。「代官による強制配給を全面的に廃止し、税関を閉じ、教会の課してきた十分の一税もすべて禁ずるのです。」「なんと…――!!」委員会の面々は、某然として、言葉を失っている。だが、モスコーソは、えらく面白そうに、いっそう細めた目で「ほほう…。」と、ほくそえんだ。暫く黙っていたバリェ将軍が、そのぶ厚い胸板を反らせながら、「それで…?」と太く響く声で問い、腕を組む。アレッチェは、再び水を喉に流し込み、さらに説明を続けた。「そのための条件は、トゥパク・アマル及び、その側近たちが、このクスコの我々戦時委員会に出頭すること。その代わり、その他いっさいの反乱軍の将兵、及び、兵たちについては、今までの罪を全て不問に付す、と国中に宣言するのです。」モスコーソ、バリェ、そして、委員たちが、ゴクリと固唾を呑んだ。さらにアレッチェは、続ける。「代官による強制配給が廃止され、税も著しく減免されれば、トゥパク・アマルが掲げるこの反乱の大義は明らかに薄れよう。結果、トゥパク・アマルが民衆の心を掴むことは困難になるのは必定。モスコーソ司祭様がトゥパク・アマルをキリスト教から破門して以来、既に、当地生まれのスペイン人の心は迷いはじめている。そこに追い討ちをかけるのです。さらには、トゥパク・アマル及びその側近どもと、他の兵たちを分断することもできましょうぞ。」委員会の面々が言葉も出ずに、しかしながら、非常に深く頷く中、アレッチェはさらに付け加えた。「強制配給なり、税など、一時的に止めようが、なに…トゥパク・アマルを捕えた後に、またいつでも再開すればよいのです。それに、トゥパク・アマルがいなくなれば、もはやインカ軍など、ただの烏合の衆。今回の反乱軍に加わった兵や民衆どもは、やつを始末してから、いかようにもできましょう。」そう言って、血に飢えた獣のごとくの残忍なその眼を光らせ、あのどす黒いオーラを発しながら、まるで地獄の使者のような冷酷な笑みをありありと浮かび上がらせた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.18
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果たして、その頃、ペルー副王領のインカ軍、すなわち、トゥパク・アマルの軍団の状況は、実際には、どのようになっていたであろうか。かのフロレスの洞察のごとく、彼らは次第に苦しい戦いへと追い詰められていた。トゥパク・アマルの懸命の説得にもかかわらず、「リマの褐色兵」の将、フィゲロアはアレッチェやモスコーソ司祭の命に従い、現在に至ってもインカ軍へ刃を向け続けていた。クスコ戦以来、再び戦線はクスコ周辺の複数の郡へと拡散していた。ペルー副王領におけるスペイン軍の総指揮官アレッチェ及び、総司令官バリェ将軍の指揮のもと、褐色兵たちの数は次第に増員されながらスペイン人の軍勢の中に組み込まれ、インカ軍と戦火を交える各地へ続々と派遣された。褐色兵たちは、多くが傭兵として金で雇われた各地の貧しいインカ族の農民たちであった。たとえスペイン側につくことが、その意に反していたとしても、スペイン人の役人たちからスペイン軍に加わることを強要されれば、決してそれを断ることなどできなかった。インカ族の平民たちにとっては、永きに渡り絶対的権力者であったスペイン人の役人たち、いわゆる「お上(おかみ)」の恐ろしさは、彼、そして、彼女らの骨の髄まで染みていた。今回のトゥパク・アマルの反乱が勃発して以来、それら「お上」の権威は少なからず失墜しつつあったが、それでも、直接的に恭順を迫られれば、それら白い権力者たちにこの青銅色の人々が盾突くには、今でも死をもって抗うほどの覚悟が必要だったのだ。そのようにして狩り出された褐色の傭兵たちは、戦慣れもしておらず、また、当然ながら士気も低かった。既に幾多の戦闘場面をくぐりぬけ戦い慣れた、しかも、非常に士気も高い、インカ側の義勇兵や専門兵が本気で討ちかかれば、彼らを殲滅(せんめつ)させることなど、さしたる難儀なことではなかったに相違ない。しかしながら、トゥパク・アマルの指令のもと、インカ軍の兵たちは褐色兵――つまりは、スペイン側につくことを強いられたインカ族の兵たち――に、決して致命傷を与えぬという不殺の姿勢を崩さなかった。そうした無謀な試みが兎も角も可能であったのは、その時点までに、既にインカ軍の占拠した地が相当な範囲まで広がっていたこと、及び、自ら義勇兵として名乗りを上げる者たちが、この時期に至ってもなお尽きることがなかった、という事実があった。今やインカ軍の軍勢は全国的に見れば数十万の規模である。トゥパク・アマルは、それらの兵たちの中から精鋭の者たちを厳選し、部隊を猛将ディエゴ及び豪腕の参謀オルティゴーサ、そして、若くして老練の剣士アンドレスの元に分遣隊として編制し、それぞれを各地に派遣して討伐隊との戦闘に当たらせた。それら三名の将による軍団は、文字通り、インカ軍最強の精鋭部隊ではあったが、しかしながら、やはり、敵に致命傷を与えられぬ戦いは想像を絶する過酷なものであり、彼らの部隊の兵たちの多くの者が無残な、あるいは致命的な負傷を負った。日増しに犠牲者の増え続ける状況下で、トゥパク・アマルの苦悩は深かった。彼はこれまで通り、衆目の前面で毅然とした力強い態度を崩すことは決してなかったが、しかし、人目の無いところで彼の横顔にふとよぎる、思いつめたような苦しげな表情を、まるで影のごとくに常に護衛し続けるビルカパサの目は幾度かとらえていた。これまでの戦線の中では、見ることのなかったトゥパク・アマルのその苦悶の表情に、ビルカパサもまた、深い心痛を覚えながら、いよいよこの反乱の戦況の厳しくなってきた現実を暗黙に突きつけられる思いを抱いた。 だが、この反乱の戦況の厳しさを感じていたのは、決して、インカ側だけではなかった。スペイン側もまた、インカ軍の戦いぶりに、ひどく苦々しい思いを噛み締めていたのである。クスコ戦の勝利にもかかわらず、また、必殺の褐色兵を差し向けているにもかかわらず、ますます拡がる反乱の野火をみて、討伐隊の中枢を為すリマとクスコの役人たちが合同で策を練る戦時委員会の面々もまた、非常な苦渋と焦りの念を募らせていた。もはや、決定的な勝負は軍事的な行動だけではつかぬ!!…――彼ら、スペイン側の中枢部は、その意見で一致した。ペルー副王領のこの戦時委員会の面々は、総指揮官アレッチェ、総司令官バリェ将軍、そして、かのモスコーソ司祭を中心に、クスコの旧イエズス会の教会に設置された本営の中で雁首を突き合わせ、今も眉を顰(ひそ)めて互いに目配せし合っていた。総指揮官アレッチェが凍りのような低く、冷酷な声で言う。「もはや、軍事的行動のみでは、あの反逆者トゥパク・アマルどもを抑え込むことは至難。こうなっては、インカ軍を内部から崩壊させるしかあるまい。」そして、黒々とした前髪から覗く、あの鋭い眼光で、まるで脳裏に描いたトゥパク・アマルを撃ち抜くがごとくに宙の一点を見据えながら、「なに…既に、わたしには策があるのです。」と、その口の端を不気味に吊り上げた。 ◆◇◆◇◆Information◆◇◆◇◆トゥパク・アマルやアンドレスが活躍したアンデスの森に、今も人知れず咲いている神秘の花たち…――アンデスやアマゾンを30年以上彷徨する写真家、高野潤氏の最新作。お薦めです!!著者/訳者名高野潤/著出版社名新潮社 (ISBN:4-10-301571-3)発行年月2006年08月サイズ207P 22cm価格 2,940円(税込) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.17
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まるで中世の騎士のごとくの風貌をした、このフロレスなる人物は、最高司法院の議長も務めたほどの頭脳の明晰さをもち、副王から直々に討伐隊の総指揮官を任されるほどの武勇に秀でた武人でもあったが、それだけでなく、悉(ことごと)く偏見と二枚舌に印象付けられる当時のスペイン役人の中では極めて珍しく、濁りの無い公正な視点で物事を見極める眼力を備えた人物でもあった。 それは、彼が「当地生まれ」の白人であり、生まれてからずっと、スペイン渡来の白人たちによる偏見と苦渋を舐めさせられ続けてきたという、彼の生育暦的な事情もあったかもしれない。特に、当時、スペイン渡来の白人たちに独占されていた植民地中枢部の要職への道を歩み出した時、その過程で彼がどれほどの苦労と屈辱に耐えてきたかは想像に余りある。しかし、その強い意志と高い能力によって、己の手で道を切り拓き、彼のような生い立ちの人間としては全く前人未到の高みへと、着実に昇り詰めてきたのである。その苦難のプロセスは、彼のような人物にとっては、むしろ、その人格的素養を磨きあげるための良き糧でさえあったに相違ない。もちろん、彼はあくまでスペイン側の役人であり、且つまた、今やラ・プラタ副王領におけるインカ軍鎮圧のための討伐隊の長であり、この後、アパサとの対決を中心に、その有能な手腕によって、皮肉にも、インカ軍を次第に追い詰めていくことになるのだが。それでも、彼の偏見に汚されぬ、物事の本質を見極めんとする公明正大な視点は、常に彼の行動の裏側に流れ続けていく。だが、一方で、不幸にも、ペルー副王領の、あの偏見に満ち満ちた、且つ、血に飢えた冷酷極まりない植民地巡察官アレッチェが、このラ・プラタ副王領の巡察官をも兼任していたのだった。そのため、道義心に貫かれたフロレスの動きも、この忌々(いまいま)しい巡察官の存在によってかなりの部分が封じられてしまうことになるのだが。ともかくも、フロレスは、今、再び、ラ・プラタ副王領の戦時委員会の面々を鋭く見渡しながら言う。「あのインディオの首魁、アパサに徹底抗戦を行う。アパサの軍勢は、総勢1万と数千程度。たいした規模でもない上、あの軍勢は火器も乏しく、装備も甚(はなは)だお粗末だ。にもかかわらず、その勢いは、とどまるところを知らぬ。あの首魁アパサの豪腕ぶり、不気味な統率力、しかも、よほどの智将なのか、ただの私利私欲にまみれた小物なのか、全く読めぬあの性格と行動…それだけに、かえって厄介だ。あの者にこれ以上、当地で暴れ回られては、全てが手遅れになりかねん。早々に、あの者の息の根を止めねばなるまい。」委員たちは深く頷き、険しい眼差しで地勢図を広げた。同様に地勢図を見渡すフロレスの視界に、ペルー副王領の『クスコ』の文字が入る。彼の脳裏に、未だ見(まみ)えたことのない、この反乱の総指導者トゥパク・アマルのことが、ふと、よぎる。(トゥパク・アマル…――果たして、いかなる人物なのか。)フロレスの眼差しが、遠くなる。できれば、一度会って、直接、話をしてみたかった。だが、恐らく、もうそのような機会は訪れないのではあるまいか。フロレスの心境は複雑であった。(トゥパク・アマル…あの者が反乱行為なぞという違法な暴挙に出たことを、正当化する余地は無い。とはいえ、トゥパク・アマルの蜂起には、それなりの理(ことわり)があるとも思える。その上、インカ軍は、よくぞと思うほどに奮戦した。しかし、今や、総体的に見て、戦況はそなたたちに厳しいものとなっている。)そして、また、フロレスは、同じスペイン人である巡察官アレッチェの仕儀を、非常に苦々しく噛み締めてもいた。(アレッチェ殿…クスコ戦では、インカ族の人柱まで立てたという…!しかも、トゥパク・アマルは、未だに、褐色兵へは手をくださぬと聞く。もはや、インカ側の犠牲は数万を超えるのだ。いつまで、このようなことを続けるつもりなのだ、トゥパク・アマル!)それから、フロレスは、その鋭い眼差しに悲愴な色を浮かべた。トゥパク・アマル…そなたの清冽な心では、あの悪魔に魂を売ったがごとくのアレッチェには、恐らく、勝てぬ…――!! ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.16
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その瞬間、不意に、昼間のトゥパク・アマルの言葉がアンドレスの耳元に響いてきた。『アンドレス…こうして改めて見ると、そなたは、そなたの父にとても似てきたようだ。そう…だな、姿も、その性格も。』彼の胸はいっそう熱くなる。(父上…!!)彼の目元からは、いよいよ涙が溢れて頬を伝って流れた。再び、指先でそれをぬぐうと、その澄んだ瞳で、天空に瞬く南十字星を見つめた。まるで、亡き父の存在を、そこに探すかのように…。無意識のうちに、アンドレスは、父に語りかける。(父上…あなたは、スペインから渡ってきた生粋のスペイン人だったのに、インカ族の母上と一緒になられたのですよね…。俺には、それは、あまりにも当たり前の事実で、今まで、そのことを深く考えたことなんて無かったけれど…でも、実際は、どうだったのですか?父上…インカ族の母上と結婚するって…それって、祖国さえも捨てる覚悟でなくては、できないことだ…!それに、周りの反対は、どうだったんだろう?いや、それは、母上にとっても同じだったはずだ。インカ族でありながら、しかも、王族でありながら…、侵略者として恨んでも恨みきれぬはずのスペイン人の父上と一緒になるなんて…――どんなに、「裏切り者」「不義」と罵られても何も言えぬほどのことだったはず!父上にとっても、母上にとっても、周りの風当たりはどれほどに厳しかっただろうか…。それでも、父上…あなたは、母上と…!そして、この俺が生まれた…。)アンドレスは込み上げるものを止められず、もはや涙の溢れるのに任せるしかなかった。南十字星も、今の彼の視界の中では、水底の中に揺れるように霞んで見える。そのまま、長いこと、アンドレスは草の上に横たわったまま、箍がはずれたように泣き続けた。そんな彼の傍を、アンデスを渡る夜風が、その頬の涙をそっとぬぐいながら、優しく、静かに、吹き過ぎていった。 さて、少々話は転ずるが、この頃、ラ・プラタ副王領で猛威を振るっていた猛将アパサの軍団にも、その勢いに翳(かげ)りの気配が生まれつつあった。このペルー副王領でトゥパク・アマルが蜂起して以来、それと呼応して立ち上がったラ・プラタ副王領のインディオたち――かの猛将アパサを中心とする軍勢たち――の暴れぶりにすっかり手を焼いたスペイン中枢部は、徹底的な交戦体制を敷くため、この度、当地の副王ベルティスによってイグナシオ・フロレスという男が討伐軍の総指揮官に任じられた。このことが、この後より、アパサの、そして、ラ・プラタ副王領のインカ軍の息の根を、ジワジワと止めていく契機となっていく。このフロレスという人物は、かなりの有能な男で、副王の信任も篤(あつ)かった。彼は、ラ・プラタ副王領生まれのスペイン人で、己の実力によって、当時、絶大な権力を誇っていた当地のアウディエンシア(最高司法院)の議長にまで選任された人物である。スペイン渡来の白人たちが植民地支配の中枢のほぼ全体を牛耳っていたこの時代、フロレスのように現地生まれのスペイン人が、そのような要職につくなど極めて稀なことであった。そのことからも、このフロレスという人物が、いかに有能な人物であったかがうかがい知れる。しかしながら、その地位に至るまでも、そして、要職についた現在でさえも、彼は、「当地生まれのスペイン人(クリオーリョ)」というだけで、スペイン渡来の役人たちから何かと軽蔑され、「トゥパマリスタ(トゥパク・アマルの一味)」などと陰口を叩かれていた。だが、フロレスは、そのようなくだらぬ陰口に、屈する男ではなかった。陰口を言いたい者には、言わせておけばよい。それより、己のなすべきことを、着実に成し遂げるのだ。そんな彼は、年齢的にはまもなく40歳を超えようとしていたが、その若々しく端正な風貌には、どこか余裕と優雅さを湛えている。背を覆う長いブロンドは自然なウェーブがかかり、スペイン人らしい彫りの深い顔立ちに柔らかな雰囲気を添えている。その風貌には、ソフトで優美な雰囲気と共に、誠実さと道義心に貫かれた凛々しさが宿っていた。今、そのフロレスは、ラ・プラタ副王領の戦時委員会にて、中央の席に堂々と座し、鋭い目で全体を見渡して言う。「これより、あのインディオの首魁アパサに、徹底抗戦を行う!」 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.15
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「え…?!」マルセラは、その瞳に戸惑いの色を浮かべながら、再び、その頬を上気させる。そんな彼女の様子に、ロレンソも胸苦しさを覚えながら、しかし、切り出した以上、後へは引けぬという様子で畳み掛ける。「まさか…アンドレスが好いている相手は、コイユールという、農民の娘ではあるまいね?」そのロレンソの言葉に、マルセラの目は大きく見開かれた。そのまま、瞳を揺らしながら喰い入るように己の瞳を見据えるマルセラの様子に、ロレンソは、「やはり、そうなのか。」と、溜息交じりに呟く。マルセラも苦しげな眼差しになって、小さく頷く。「はっきり聞いたことはないけれど、多分…。」「何故、農民の娘と、アンドレスが、そのような間柄になっているのです?」「間柄って言っても、あの二人の間には、まだ何も無いですよ。この戦(いくさ)がはじまってからは、アンドレス様は、コイユールに声の一つもおかけにならないし…。」そう言って、マルセラは吐息を漏らした。「あの二人を見ていると、私も、何だか、やるせなくて…。」「でも、何故、皇族中の皇族のアンドレスと、貧しい農民の娘が知り合いになったのです?」「それは…あの二人がまだ幼い頃、コイユールの自然療法を、アンドレス様のお母上が受けていらして、それで知り合いになったの。そう…、昔っから、あの二人は、本当に、とても仲が良かったから…。」かつてを思い出すように遠い目をしながら語るマルセラの言葉に、ロレンソも、静かな面持ちで幾度も頷くように聞き入っていた。恐らく、マルセラ自身もアンドレスに特別な感情を抱いているはずであったから、その気持ちを察すると、ロレンソの心はいっそう切なくなった。そして、「そうだったのか…。」と、彼もまた、溜息をつく。「それにしても、何という…。一体、どうしたものか…。」呟くように言うロレンソに、マルセラも深く頷いた。「本当に…。」二人はそれ以上言葉も無く、次第に藍色に変わりゆく夏の宵空を振り仰いだ。一方、先ほどの訓練を終えた後、マルセラにコイユールとアンドレスの関係を思いきって聞き出そうと、ロレンソとの会話の終わるのを木陰で待っていたジェロニモは、図らずもその答えを盗み聞いてしまったことに、激しい胸の鼓動を感じながら立ち竦んでいた。マルセラとロレンソがその場を去り行くまで、ジェロニモは息を殺したまま、木陰に身を潜めていた。そして、二人の姿が完全に空き地から消えると、やっとその姿を表に現す。(コイユールとアンドレス様が…!やはり、そういうことだったか…――!) そんなふうにして、アンドレスを取り巻く若者たちが、彼とコイユールとの関係にすっかり気付き、それぞれに思いを巡らせていることなど露とも知らぬ当のアンドレス本人は、その夜も、一人、いつもの素振りの練習場にいた。しかし、その場に来てはみたものの、サーベルを片手に立ち尽くしたまま、もう何十分も、ただぼんやりと星空を見上げている。そして、幾度となく、小さく溜息をつく。そんな彼の様子など全く他所の様子の上空はスッキリと晴れやかに澄み渡り、その天空を埋め尽くすほどの無数の星々の中で、かの南十字星がひときわ高貴な光を放っている。アンドレスは暫し南十字星を見つめて、そのエネルギーを全身に吸い込むように深々と息を吸い込むと、気を取り直したようにサーベルを構えた。だが、その瞬間にも、コイユールのこと、フランシスコのこと、そして、思いもかけずトゥパク・アマルの口から飛び出した父のこと…――それらが、溢れ出すように彼の頭と心の中に氾濫し、欠片(かけら)も練習に向ける意識など残ってはいなかった。アンドレスは観念したようにサーベルを鞘に収めると、そのまま、仰向けに草の上に身を投げ出した。夜露に濡れた草のひんやりとした感触が、熱くなった頭と体に心地よい。すぐ耳元では、虫の鳴く声がする。郷愁を誘うその優しい音色にじっと聞き入っていると、幼い頃のコイユールの愛らしい姿が…そして、清らかな一人の女性として成長した現在の彼女の姿が、込み上げるように、どうしようもなく愛しく思い起こされてくる。(俺は…コイユールのことを、こんなにも想っているんだ…――。)そんなふうに感じると無性に胸が熱く、何故だろうか、目頭さえもが熱くなってくる。アンドレスは、思わず、その指先で目元をぬぐった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.14
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何かに急(せ)かされるような気分で、そのままロレンソはマルセラの元に向かった。(アンドレスと付き合いの長いマルセラ殿なら、その想い人のことについて、もっと何か知っているかもしれない…!)いつの間にか、辺りは、そろそろ日も傾きはじめている。透明なオレンジ色の陽光に、インカ軍の陣営が包まれていく時間帯。広大な野営地を吹き抜ける風も、だいぶ涼やかになってきた。ロレンソがマルセラの居所のあるビルカパサの天幕近くまで行くと、少し広いスペースの空き地に精鋭の兵たちを集め、マルセラが何やら武術訓練らしきものを展開している。何をしているのかと少し離れた位置から見ていると、どうやら、訓練を受けているのはマルセラの方で、敵の急所を突き、傷つけずに相手を気絶させる方法などの指南を専門兵から受けているようだった。そんなマルセラらの訓練風景を見て、ロレンソは眉を顰(ひそ)めた。なお、マルセラと共に、ビルカパサの連隊に属する複数の義勇兵たちも共に訓練を受けており、その中には、ロレンソにはまだ面識はなかったが、あの黒人青年ジェロニモの姿もあった。一通りの訓練を終え、義勇兵たちにも解散を命じながら汗の処理をしているマルセラの方に、今、あのジェロニモが、何か意を決したような表情で近づこうとしていた。しかし、それよりも早く、ロレンソの方がマルセラの元へ詰め寄った。やむなくジェロニモは、一旦、草陰の方に身を隠した。マルセラは汗を拭いながら、ロレンソの方に闊達な笑顔を向ける。「これは、ロレンソ殿!」「何の訓練をしているのです?」鋭い目で問うロレンソに、マルセラは変わらぬ笑顔で応える。「褐色兵たちを傷つけずに倒す方法を練習しているのですよ。でも、どうしたのですか?ロレンソ殿こそ、こんなところまでお越しになるなんて。」ロレンソはマルセラの質問には答えず、やや厳しい眼差しで言う。「マルセラ殿、そなた、褐色兵のいる戦線に出るおつもりなのか?」「もちろんです。そのために、こうして訓練しているのですから。」当然のことでしょう、とばかりにロレンソの目を見上げるマルセラに、ロレンソはいっそう険しい口調で言う。「駄目です!そのような付け刃(やいば)の訓練で、あの褐色兵の軍団に対応できると思っているのですか?」「付け刃?!」さすがにマルセラも、ムッとした表情になる。「戦場で敵に致命傷を与えずに倒すなど、そのような不殺の技は、到底、一朝一夕で体得できるようなものではない非常に難儀な技なのです。そんな技を要求される戦場など、まるで狂気の沙汰だ…。そのような危険な場所に、そなたが行ってはいけない。」「狂気の沙汰って…それって、トゥパク・アマル様に盾突く御言葉にも取れますよ!!」思わず気色ばんでマルセラが言う。それでも、ロレンソは、真剣な眼差しでマルセラの瞳を見つめたまま、僅かに首を横に振る。そして、噛み含めるように言った。「いけません。あの褐色兵との戦線には、そなたは出てはなりません。」マルセラは、すっかり興奮して頬を上気させ、ついにロレンソに喰ってかかった。「ロレンソ殿!!私に指図をするおつもりですか?!」ロレンソは深く息をついた。そして、今度は、その大人びた眼差しに優しい光を宿して、じっとマルセラを見た。その目の色に、マルセラは無意識に息を呑み、思わず険しくなったその表情を和らげる。「そなたは女性なのです。もっと御身を大切になさい。」囁きかけるがごとくに深く静かに言うロレンソのその言葉に、マルセラは、明らかに頬を紅潮させた。「なっ…何を、いきなり言うのです…!!」すっかりドギマギしながら、マルセラは応戦しようとするが、それ以上、言葉が出ない。そんなマルセラを慈しみを込めた眼差しで見下ろしながら、ロレンソも少々はにかんで、「そなたには、死んでほしくないから。」と小さな声で付け加えた。いっそう赤面しながら絶句しているマルセラの方から、ロレンソも僅かに耳元を染めて視線をそらし、深呼吸をするかのように暮れなずむ夕空を仰いだ。少しの沈黙が流れた後、再び、ロレンソが問う。「話は変わるのだが…。」そう言って、少々言葉を探しあぐねたように沈黙するロレンソに、マルセラも先ほどとは異なる冷静な眼差しに戻って、「何ですか?何でも言ってみてください。」と先を促す。ロレンソは、軽く咳払いをしてから、やはり少々言いにくそうに、しかし、意を決したように切り出した。「アンドレスが…想っているお方のことを、何かご存知ですか?」 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.13
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思いもかけず、路上で鉢合わせたコイユールの、今、完全にアンドレスに釘付けられている、その大きく見開かれた瞳は、この一瞬の間に既に涙ぐんでいるようにさえ見えた。アンドレスの目も、完全にコイユールに釘付けられる。(コイユール…!!)己を見上げるコイユールの瞳は、「アンドレス!!」と、まるで叫んでいるかのようだった。アンドレスは、もはや、その瞳から目を離すことができない。手を伸ばせばすぐ触れられそうなほどの距離にいて、吸い込まれるようなコイユールの目の色は、何か、ただ私情だけではない何か、を必死に、激しく、訴えようとしているように思われた。アンドレスは、それが何かを見極めようとするかのごとくに、思わずその身を乗り出した。「コ…――。」その名が、喉元まで出かかる。しかし、数人のインカ軍の兵たちが、慌ててコイユールの方に走り寄ると、「こら、おまえ、何をしている!はやく道を開けなさい!!」と、散乱している薬草を掻き集めてコイユールを通路の端にどかせた。兵たちが「申し訳ございませんでした!!」と、アンドレスとロレンソの方に、すっかり恐縮して深く頭を下げる。コイユールも我に返って、兵たちの後ろに控え、深く頭を下げた。その肩を微かに震わせながら。(コイユール…!!)アンドレスは激しく後ろ髪を引かれる思いで、しかし、その場を徐々に離れていく。再び、地に視線を落としながら重い足取りで歩む彼の顔面は、苦渋で歪んでいた。(本当に、俺は、一体、何をしているのか…――!!)そんなアンドレスの後姿に、ロレンソは再び溜息をついた。全く、己の半身にも等しいサーベルさえも地に落としたまま、立ち去ってしまうとは。彼は俊敏な身のこなしで、アンドレスが拾い忘れたサーベルを、その逞しい褐色の腕でがっしりと拾い上げた。それから、兵たちの後ろに隠れるようにしているコイユールの方に歩んでいった。「そなた、名は何という。」見知らぬ、いかにも身分の高そうな、トゥパク・アマルの側近風情の男からいきなり名を問い正され、コイユールの目には恐れの色が浮かび上がる。しかし、すぐに、「コイユールと申します。失礼を深くお詫びいたします。」とはっきりした声で応え、深く頭を下げた。「コイユール…。」ロレンソは、小さく呟き、その大人びた目を微かに細める。それから、周囲にいた兵たちに、「その娘に咎(とが)めの無きように。」と言い残して踵を返すと、アンドレスの落としたサーベルを手に、彼もまた天幕の方へと急ぎ引き返していった。そして、アンドレスに追いつくと、「アンドレス、これを。」と、サーベルをそっと差し出す。サーベルを落としたままにしてきた事実に初めて気付き、アンドレス自身も愕然として、僅かに震える手でそれを受け取った。ロレンソは、そんな友の肩に思わず手を添える。さすがに、ロレンソも言葉が無かったのだ。まだ、確証は無いものの、もし、アンドレスの想う相手が先ほどの、全くいかにも貧しそうな平民の、というか、恐らく農民の、あの娘だったとしたら…――。普通に考えたら、それを成就するのは、確かに、非常に難しいことに思われた。アンドレスは目をそむけたまま、「ありがとう。」と力無く言うと、己の肩に添えられた友の手を静かにはずした。そして、それ以上何も言わず、己の天幕の方へと戻っていった。ロレンソの心にも、悲痛な感情が湧き起こる。彼の脳裏に、先日、アンドレスの想い人について尋ねた際、己がアンドレスに伝えた言葉が甦ってきた。『アンドレス、わたしたちは、どのような立場や境遇にあろうとも、本質は誰もが同じ一人の人間。そうだろう?』かつて、あのようにアンドレスに言いはしたが…、と、ロレンソは深く溜息をつき、それから難しい表情になった。確かに、そうなのだが…しかし…――。ロレンソは、再び深い息をつく。此度の事情は、そう奇麗事は通らぬだろう。何と言っても、アンドレスは、『インカ皇帝』に限りなく近しい身分の者なのだ――…!!(何ということか…!)さすがのロレンソも、暫し放心したまま、眉間に皺を寄せた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.12
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「アンドレス。」トゥパク・アマルの声には、険しい色味が明確に宿っている。アンドレスは、トゥパク・アマルの方向に真正面から向き直り、跪いたまま、深く頭を下げた。その姿を見下ろすようにしながら、深く、低く響く声で、諭すようにトゥパク・アマルが言う。「そなたは、まだ、あまりに未熟。此度のこと、よく反省し、糧とせよ!」アンドレスは、地につくほどに深く頭を下げた。フランシスコの手前もあってか、トゥパク・アマルは言葉でこそ言いはしなかったが、その非常に厳しい眼差しは、――そなたは、虚言を重ね、表面上辺の修繕にとらわれ本質的解決を取りこぼし、果ては、その見識と経験の乏しさに対する無自覚と暗黙の驕(おご)りから、相手の命さえ危険に晒した、その責を何とする!!…――と、そう言わんとしているのだと感じられてならず、アンドレスは己を深く恥じ入り、その場に沈むほどに深く身を屈めた。そんなアンドレスが顔を上げるのも待たず、トゥパク・アマルはすっと立ち上がると、天幕の出口に向かいはじめる。そして、後姿のまま言う。「言うまでもないが、此度のこと、決して、他言は無用。」それから、入り口付近で警護に当たりながら、一連の事の成り行きを息詰めて見守っていたビルカパサにも視線を投げ、「そなたも、決して、他言無きように。医師、そして、事情を知る衛兵たちにも、その旨、しかと伝えよ。」と鋭い声で言うと、トゥパク・アマルはそのまま天幕を後にした。 その日の午後、盛夏の陽光の下、いつものようにインカ軍の精鋭の兵たちに武術指導をするアンドレスの姿を広場の端で見ながら、彼の朋友、ロレンソは僅かに首を傾けた。やがて、その日の指導を終え、汗を拭きながら、アンドレスが広場の出口の方に向かっていく。そんな彼の方に、ロレンソがゆっくり近づいた。「アンドレス、何かあったのか?」相変わらず勘の鋭い朋友の呼びかけに、アンドレスは躊躇(ためら)いがちに振り返る。「ロレンソ…。」「そなたの今日の動き、全く切れが無かったぞ。何かあったのであろう。」アンドレスは、全く、この友はいつも何もかもお見通しなのだから、と観念したように、軽く肩を竦めた。そして、鞘に収めたサーベルの感触を確かめるように握りなおし、無意識のうちに深く溜息を漏らした。「自分が情けなくてね…。」やや皮相な笑みを浮かべるアンドレスを、ロレンソが少々心配そうな目になって覗き込む。「そなたらしくもない。一体、何があったのだ?」「詳しくは言えないのだけれど、トゥパク・アマル様に叱られてしまった…。」そして、アンドレスは再び深く息をついた。ロレンソも、つられるように、小さく溜息をつく。「そうか…。」二人は、暫く黙ったまま、天幕への道を歩んだ。インカ軍の兵たちが、歩み来る二人の前の道をさっと開け、深く頭を下げて礼を払っていく。二人も、礼を返しながら歩む。やがて、ロレンソがゆっくり口を開いた。「アンドレス。そなたには、トゥパク・アマル様もお目をかけているのだ。だから、時に厳しい事も仰られるのであろう。」真摯な声で笑顔を向ける友の前に、しかし、今のアンドレスには「目をかける」という言葉が妙に苦々しく感じられる。「ロレンソ、俺は、君の目にも、トゥパク・アマル様に目をかけられているように映るのか?」アンドレスの声は、明らかに上擦っている。ロレンソは、アンドレスの反応に、やや訝(いぶか)しげに首を傾け、「そなたは、トゥパク・アマル様の右腕、ディエゴ様に続く、まさにトゥパク・アマル様の片腕にも等しき者。お目をかけられて当然ではないか。」と、何を今更(いまさら)、という口調で応じた。アンドレスは、言葉を呑む。それから、再び、ふっと溜息を漏らした。「それなら尚の事、こんな俺では…、この先、インカのために、果たすべき役割を果たしていくことができるのだろうか。」そして、思いつめたような目になる。「トゥパク・アマル様は、凄いお方だ…。俺には、とても、あんなふうにはなれない。」思いのほか深刻な様子のアンドレスに、ロレンソの眼差しも、やや本気で心配そうな色になる。「確かに、トゥパク・アマル様は凄いお人だ。だが、アンドレス、そなたには、そなたの良さがある。そなたは、そなたなりにやれば良いではないか。」包み込むような眼差しで、己を一生懸命元気づけようとしている友の心を察し、アンドレスの心にあたたかなものが流れ込む。そして、同時に、こんなふうにしてロレンソにまで心配をかけている己が、いっそう情けなく感じられてくる。「ありがとう、ロレンソ。」アンドレスは、吹っ切るようにして、ともかくも笑顔をつくった。まだ、どこか力無い笑顔ではあったが、それでも、あの湧き立つような彼特有の華やかさは変わらず宿っている。そんな朋友の笑顔に、ロレンソも目を細めて、いつもの大人びた微笑みを返した。やがて、天幕への途上で、二人は負傷兵たちの治療場を通り過ぎていく。治療場からは、相変わらず、兵たちの苦悶に喘ぐ呻き声が漏れていた。盛夏の午後の陽光の下、いやがおうにも発せられる血や傷口の放つ臭気が、傍らを通るだけでも鼻をついてくる。アンドレスは案じる眼差しになりながらも、その目は、無意識のうちに、どうしてもコイユールの姿を探してしまう。一方、急に落ち着かぬ様子になったアンドレスの方に、ロレンソの、いつもの鋭い視線が注がれる。「どうかしたのか?アンドレス。」ロレンソが訝しげに問う。「いや…、な、何でもないのだ。」と、全く、そのようには見えぬ態度とは裏腹な答えをするアンドレスを、しかし、とりあえず今はロレンソもそれ以上の追求はやめておく。そして、話題を変えるようにロレンソが言った。「最近、兵たちの噂で聞いたのだが、治療場で、不思議な力を使って治療に当たっている娘がいるらしい。手を添えるだけで、体や心の痛みを和らげることができるとか…。全く、いろいろな者がここには集まっているのだな。」「えっ?!」いきなり大きな声で過剰に反応したアンドレスの方に、ロレンソが驚いた目で向き直った。アンドレスは、己の心臓が、まるで小動物のように小刻みに鼓動を打ちはじめるのを感じながら、しかし、必死で平静を装おうとする。「そ、そうなのか…、噂にも、なっているのか…。」アンドレスとしては無難に答えたつもりだったが、ロレンソはいっそう複雑な表情になって、「噂にもなっているのかって…、それでは、そなた、その娘のこと、以前から知っていたのか?」と、かえって追求の質問を投げてくる。アンドレスは口を滑らせてしまったことに、思わず身を縮め、慌てて言い返した。「い、いや…そ、そうだな。聞いたことがあったような、無いような。どのみち、そのようなこと、どうでも良いではないか!」早口でかわそうとするアンドレスの横顔を覗きながら、ロレンソも一応は頷く。「まあ、そうなのだが。そなたの様子が、何だかおかしいから、つい…。」「もうその話はやめよう!」と、アンドレスは視線を地面に落とし、急いで治療場の前を通り過ぎようと足を速めた。明らかに頬が上気しているその横顔を、そっと見守る友の視線を感じながら。アンドレスはその視線から逃れるように、下を向いたまま、さらに速度を上げた。だが、次の瞬間だった。すぐ目の前の方で、バサバサと何かが地面に落ちる音がした。アンドレスが、はたと顔を上げると、ほんの4~5メートル先のところで、コイユールがその手に抱えていた薬草の束を地面に落としたまま立ち竦んでいる姿があった。予想だにせぬ出会いに、アンドレスの心臓は止まりそうになる。彼の手からも、その重厚なサーベルが、ドサリと鈍い音を立てて草の上に落ちた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.11
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否、もう、そのようなことはどうでもよい…!!アンドレスは、唇を噛み締めたまま、深く肩を落とし、天幕の地についたその拳を震わした。(自分の浅はかな行動が…、逆に、フランシスコ殿をここまで最悪な事態に追い込んでしまった…――!!)一方、トゥパク・アマルは、アンドレスとフランシスコと両者を見渡しながら、「アンドレス、どうなのだ?フランシスコ殿の申している通りなのか?」と問う。が、その声は、早々に真実を見抜いているがごとくに、淡々としたものだった。アンドレスは、もはや、これ以上の虚言の積み重ねが、眼前のトゥパク・アマルには全く通用しようもないことを明確に悟っていた。アンドレスは、そのまま土下座をするがごとくに、トゥパク・アマルの前に平伏(ひれふ)した。「トゥパク・アマル様、申し訳ございません!!此度(こたび)のこと、全て、俺が仕組んだことでございます。」それから、アンドレスはフランシスコの方にも、平伏して、頭を地につけた。「フランシスコ殿、申し訳ございません。俺の…俺の小賢(こざか)しい振る舞いで、あなた様をいっそう…。」(…いっそう、このような形で、窮地に追い込むことになってしまった…――!!)あまりの深い申し訳なさと、激しい自責と情けなさと、裏切られた深い失望とで、アンドレスの声は詰まった。一方、平伏したまま、その肩を震わせているアンドレスの方に向けられるトゥパク・アマルの視線は、いつになく厳しいものであった。「全て、ありのままを話すのだ。」もはや逃れようのない場まで追い込まれた心境のまま、アンドレスは、これまでのフランシスコとの一連の経過を話しはじめる。いっそう厳しくなった表情でアンドレスの話を聞き終えたトゥパク・アマルは、しかし、小さく溜息をついた。そして、考え深げな目になり、今や完全に絶望的な表情になっているフランシスコの方に、その身を屈めた。「フランシスコ殿、そなたをこのような状態まで追い込んだのは、わたしなのだね。許してほしい。」トゥパク・アマルの態度に驚愕した眼を向けるフランシスコに、トゥパク・アマルは瞬間、頭を下げて礼を払い、それから、静かに微笑んだ。「此度のことは、全て水に流そう。だから、そなたも、気に病むことはない。まずは、体の治療に専念するのです。」まだ呆然と見つめるフランシスコの目の中で、トゥパク・アマルは改めて深く頷く。「そのかわり、今後、一切、酒を口にしてはならぬ。そして、体が回復したら、わたしの元で、再び、インカ軍のために力を貸してほしい。戦場に出ずとも、フランシスコ殿、そなたにだからこそ任せられる重要な仕事は、山ほどあるのだから。」そう言って、フランシスコの瞳を穏やかな目で見つめながら、「わかったね。」と、静かに念を押す。フランシスコは、まだひどく呆然としたまま、しかし、トゥパク・アマルの眼差しに引き込まれるように頷いた。トゥパク・アマルも、あの包み込むような横顔で頷き返す。天幕の中の空気が、すっと和らいだものになったかのようだった。しかしながら、もはや極限状態まで追い込まれ、醜態の全てを知られてしまったフランシスコの心境は、果たして、いかなるものであったろうか。そのフランシスコの目に、トゥパク・アマルの穏やかな眼差しは、果たして、どのように映っていたのだろうか。深い人間愛と正義心に貫かれ、常に己の信ずる光の方向に真っ直ぐ目を向けているトゥパク・アマルと、人間の闇の、そのまた闇の中へと埋没しつつあるフランシスコとの間に、もはや埋めきれぬ溝が生まれていたかもしれぬことを悟っていた者がいたとしたら…――それは、真に闇の中の苦悶を知るフランシスコのみであったかもしれない。一方、トゥパク・アマルとフランシスコのやり取りに、驚きと深い感嘆とを宿した恍惚たる表情で見入っていたアンドレスの方に、今度はトゥパク・アマルの視線が注がれる。その目は、再び、かなり厳しいものに変わっていた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.10
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アンドレスは体中から完全に血の気が引いていくのを感じながら、必死でフォローの言葉を探した。「トゥパク・アマル様、それは…!!」アンドレスが口を挟むのを、トゥパク・アマルは鋭い眼差しで一瞥し、「そなたは黙っていなさい。」と一掃する。当のフランシスコは、憔悴しきったあの蒼白な顔面さえ、今は、極度の恐怖と怯えと羞恥心のためであろうか、赤黒い色に変わって、その瞼も唇もすっかり震えていた。アンドレスはもはや見ていられず、「トゥパク・アマル様、お許しください…!!全て俺が…。」と、トゥパク・アマルの跪く寝台の傍に崩れるように身を屈めた。トゥパク・アマルの視線が、アンドレスに注がれる。「何故、そなたが謝る?」その時だった。「アンドレス様の…。」フランシスコの、搾り出すような、蚊のなくごとくの、か細い声が聞こえた。トゥパク・アマルもアンドレスも、思わず息を詰めて、フランシスコの方を見下ろす。もはや焦点も定まらぬ虚ろな目のまま、混濁した意識の中でフランシスコが続ける。「アンドレス様の…天幕に、お酒がたくさんあって…。アンドレス様は、わたしを元気づけてくださろうと、それを勧めてくださって…。アンドレス様の天幕に行けばわかります。…たくさんの酒瓶が…。」トゥパク・アマルもアンドレスも、フランシスコの歪みきった表情を愕然と見つめた。が、すぐに、トゥパク・アマルは冷静さを取り戻した目になると、小さく息を漏らした。それから、ゆっくり視線をアンドレスに向けて、「そうなのか?」と、無機質な声で問う。トゥパク・アマルの目の中に、アンドレスが完全に呆然と固まっている姿が映る。アンドレスの脳裏には、あの昨晩までの憎悪に満ちたフランシスコの表情が甦っていた。トゥパク・アマルに問いかけられているのさえ耳に入らぬかのように、アンドレスは、今、改めて、その揺れる瞳でじっと眼前のフランシスコを見つめた。そこには、すっかり戦慄と震撼の眼で放心したフランシスコの姿がある。あまりの展開に、むしろ、アンドレスの頭は不気味に冷静になっていく。トゥパク・アマルに逃げ場を与えられぬ形で追求された極限状態から、思わず口をついて出てしまった言葉なのか?それとも、まさか…憎悪を抱く自分を、フランシスコは、はじめから、このような形ではめようと思っていたのか…――?! ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.09
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フランシスコは訳がわからぬままに、いっそうひどく怯えた眼でトゥパク・アマルを見て、それから、もう耐えられぬとばかりに、すがるような視線をアンドレスに投げた。アンドレスも冷やりとして竦(すく)みかける足で、しかし、何とか寝台の傍に急ぎ歩み寄る。「トゥパク・アマル様、何か…?」探るようなアンドレスの声にトゥパク・アマルは応えず、今度は、素早い手つきでフランシスコの手首を押さえ脈を探った。いっそう険しい眼差しになりながら、トゥパク・アマルは、そのままフランシスコの指先をじっと観察する。その指先が、ひどく細かく震えている。アンドレスの目にも、それが、単なる緊張による震えではないことが即座にわかった。トゥパク・アマルは鋭くも思慮深い目になり、まるで医師のごとくに、フランシスコの胃の辺りに毛布の上から手を当てて、触診するかのように少し押した。「痛ッ…!」激しく顔を歪めたフランシスコの方に、にわかに深刻な眼差しになったトゥパク・アマルの視線が注がれる。最後に、相手の呼吸の状態と息の臭いを確かめてから、トゥパク・アマルは、いつしか額に汗を滲ませて立ち竦んでいるアンドレスの方をはじめて振り返った。トゥパク・アマルの眼差しは深刻ながらも冷静ではあったが、アンドレスと目が合った瞬間のその色は、非常に険しいものだった。「アンドレス。すぐに医師を呼ぶように、衛兵に告げてきなさい。」「トゥパク・アマル様…?!」すぐには動けぬアンドレスに、トゥパク・アマルはさらに険しい目を向ける。「酒による中毒症状だ。はやく医師を呼ぶのだ。恐らく、急に酒を絶ったのであろう。このままでは、逆に離脱症状が出て、危険だぞ。」「!!」アンドレスは息を呑んだ。己の全身から、どっと汗が噴出すのが明らかにわかる。しかし、ともかくも、彼は急ぎ衛兵のもとへ走り、医師を依頼した。再び、彼が寝台の方に戻った時には、トゥパク・アマルが非常に案ずる眼差しでフランシスコを覗き込みながら、しかしながら、やや厳しい口調で、「これほどになるまでの酒をどこから手に入れたのだ?」と、無情とも取れる核心的な質問をしているところだった。アンドレスは呼吸も忘れて、その場に凍りつく。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。ホームページ(本館)へは、下記のバナーよりどうぞ。ランキングに参加しています。お気に入り頂けたら、クリックして投票して頂けると励みになります。(月1回有効)
2006.11.08
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