このようにジョディとメアリの最善の利益が衝突することを認めることによって、裁判長はジョディの生存権とメアリの生存権が衝突することを明らかにした。そしてこのようなディレンマに直面した場合、裁判官は責任を放棄して両親の決定に委ねるのではなく、「もっとも害の少ない選択肢the least detrimental alternative」すなわち二つの害悪の小さい方を選ばなくてはならないとし、次のように論じた。生命の神聖さの原則からして二人の生命の重さを比較することはできないが、手術が二人の生命の質にどう影響を与えるかについては考察することができる。「死を運命づけられた」メアリの寿命は手術によって数ヶ月縮まるが、ジョディは比較的普通の生活を送れるようになるのであるから、双子にとっての最善の利益を考慮すれば、手術を行なうことが圧倒的に支持される。また裁判長は、「メアリには生きる権利the right to lifeはあったとしても、[ジョディの心臓に負担をかけて]生きている権利the right to be aliveはない」とも論じた。
しかし、この判決に反対する人も少なからずいる。たとえば、Journal of Medical Ethicsの編集者であるラーナン・ジロンは、今回の件に関しては親が決めることが許されるべきだったと主張している6。控訴院判決では、利益が衝突する場合には「もっとも害の少ない選択肢」が選ばれなくてはならないとされ、手術をするという選択肢が選ばれたが、彼によればこれは論点先取である。なぜなら、アタード夫妻のように「罪のない人を犠牲にして人を助けることは許されない」という価値観を持つ人にとっては、かえって手術を行なわないことこそが「もっとも害の少ない選択肢」と考えられるからである。しかもアタード夫妻の信念は多くの人に共有されており決して不合理なものとは言えないのだから、裁判所が彼らの代理同意を無効にしてしまったのは間違っていた、と言うのである。
注 二人の姿については、以下のサイトに図解があるので参照のこと。 なお、以下の注で引用されているURLは、 すべて2002年3月19日に参照したものである。 Jodie and Mary: The medical facts ここで言及されている判例は、ブランド裁判のことを指す (Airedale NHS Trust v Bland [1993] AC 789)。 この裁判については、注3にある控訴院の判決で説明がなされている他、 以下のサイトに簡単な説明がある。 Judging a moral minefield 高等法院での判決の要旨と控訴院での判決については、千葉(2001)の他、 主に以下のサイトを参考にした。 In the supreme court of judicature, court of appeal (civil division), on appeal from family division: (Case No: B1/2000/2969) Siamese twins: The judgement 人工妊娠中絶や安楽死に反対する英国の市民団体 (http://www.prolife.org.uk/)。 判決についてのさまざまな反応については、以下のサイトを見よ。 Siamese twins: The reaction Raanon Gillon, `Imposed separation of conjoined twins -- moral hubris by the English courts?', in Journal of Medical Ethics, 2001;27:3-4. ノールズも基本的に同じ主張をしている。 Lori P. Knowles, `Hubris in the Court', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 50-52. 約150年前、J・S・ミルは『自由論』において、 人々は個人的自由の範囲を誤解していると嘆き、次のように述べた。 「子供たちは、比喩的にでなく文字どおり、 自己の一部とみなされるものと人はほとんど思いがちであって、 子供たちに対する彼の絶対的排他的支配に対する法のほんのわずかな 干渉にさえ、世論は非常にはげしく反発する」 (『世界の名著 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1979年、336頁)。 この考え方はまだ根強く残っており、 今回の判決に対する反対の隠された根拠になっているように思われる。 しかし、両親の意見が解決不可能なほどに対立する場合にどうするか という問題があるだろう。 Mary Warnock, `Reason to live or die', The Observer, 28/Aug/2001. たとえば上掲のジロンやノールズの論文を見よ。 Siamese twin returns home One of our Siamese twins must DIE Dreadful dilemma facing twins' parents 参考文献 浅井篤、「結合双生児の分離手術」、『医療倫理』 (浅井篤、服部健司ほか著、勁草書房、2002年3月出版予定)、第6章 千葉華月、「シャム双生児分離手術事件控訴院判決」、 『年報医事法学』(2001年16号)、日本医事法学学会編、2001年 千葉華月、「シャム双生児分離手術事件判決――誰が何に基づいて判断する べきか」、日本生命倫理学会ニューズレター、第20号(2001年6月15日)、5頁 Veronica English et al., `Ethics briefings', in Journal of Medical Ethics 2001; 27;62. Raanon Gillon, `Imposed separation of conjoined twins -- moral hubris by the English courts?', in Journal of Medical Ethics, 2001;27:3-4. Lori P. Knowles, `Hubris in the Court', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 50-52. Alex John London, `A Separate Peace', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 49-50. [謝辞] 今回もいろいろな方にお世話になったので、ここに記して謝意を表したい。京都大学医学部の浅井篤氏には、文献を紹介していただいた。京都大学文学研究科リサーチアソシエイトの板井孝壱郎氏と京都大学文学部倫理学研究室出身の松村路代氏には、草稿を読んでもらい貴重なコメントをいただいた。もっとも、本文中に誤りがあるとすれば、すべて責任は筆者にある。