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ぼくは言った。「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ――、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい――っていうわけだ」「だって、読むってそういうことでしょ」 また宮下さんの言い方が出た。真紀さんとぼくは庭に向かって腰をおろして脚を組んでいた。 さっきたしか草むしりしていたときに出たクローンの再生の話ではないけれど、経験や知識は遺伝子にインプットされることもなければ複写したりすることもないのだが、そういうことよりもむしろ真紀さんが一人で本を読んでいるあいだに感じていることは(真紀さんはあんな言い方をしたが何も感じていないはずがないし、真紀さんは相当いろいろ考えながら読んでいるはずなのだ)結局誰も知ることなく真紀さんと一緒に消えていく。 ぼくは何て言ったらいいのか、やっぱりそれはもったいないような気もしたし、せめてそういう人がいることが知られるぐらいのことがあってもいいんじゃないか、なんて考えてしばらく黙ってしまったが、そのうちにイルカやクジラのことを思い出した。(『この人の閾』保坂和志/新潮文庫より) 「読むってそういうこと」。こういう風にさらりと言ってのける、その言葉の中に含まれていることの多さを思うと、途方もない感じと同時に、どこか、胸がいっぱいになるような気がしてきます。読んでいる、というその時間について、ゆっくりと思いを巡らしていくことも、また愉しいことですね。
2005.04.26
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「ようし」ビルは言った。「へべれけに酔っ払おう」「酔っ払って、泳ぎにいこうや」ニックは言った。 彼はウィスキーのグラスを飲み干した。「彼女のことは悪かったと思ってるけど、でも、どうすりゃ良かったんだ?彼女のお袋さんはあんな人なんだし!」「ああ、ひどい女だったよ」ビルは言った。「気がついたら、もう終わってたんだから」ニックは言った。「こんな話、しないほうがいいな」「おまえが悪いんじゃないさ」ビルは言った。「おれが持ちだしたんだから、この話は。でも、言いたいことはもう言っちまった。もう二度と蒸し返さないようにしようや。おまえもあの件についちゃ、もう考えないほうがいいぞ。またよりがもどっちまうかもしれないから」 そんなふうに、ニックは考えたことがなかった。あの結果はもう決定的だという感じがしていたからだ。が、そういう可能性もまだあり得るのだ。そう思うと、気分が急に楽になった。「ああ」彼は言った。「そういう危険はあるよな、常に」 いまは幸せな気分だった。取り返しのつかないことなんて、この世には何もないんだ。土曜の夜になったら、町にいってみよう。今日は木曜日だった。(『三日吹く風』ヘミングウェイ/訳=高橋健二『ヘミングウェイ全短編1』新潮文庫より) 自分のやってしまったこと、自分の過失、そういうものを一人で思い詰めていると、次第にそれが二度と取り返しのつかないこと、人生の最重大事に思えてしまうことがあるものです。でも、私たちが不意に、そこから解放されるとき、それは懐の深い友人と他愛のないお喋りをしているときだったり、ありふれた休日の変哲のない午後の一時であったりするのではないでしょうか。もちろん、その気持ちの変化には、問題を根本から解決する力は備わっていないかも知れませんが、一日に一つ、あるいは、何か一くさりの行為の中にはいつも、清々しい恩寵のような瞬間があるのかも知れません。そして、愛について悩んだときは、同性の友人が傍にいてくれることがとても嬉しく思えるのも、味わいがあります。
2005.04.24
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私は朝おそくまでぐっすり眠った。新しい陽は私にとっておごそかな祭日として明けた。それは少年時代のクリスマスのお祝い以来味わったことのない祭日だった。私は、すっかり内心のおちつきを失っていたが、不安は少しももたなかった。自分にとって重要な陽が明けたのを感じ、私は、周囲の世界が変化し、深い関係をもっておごそかに待機しているのを見、かつ感じた。かすかに流れる秋雨も美しく静かで、厳粛に朗らかな音楽に満ちて祝日のようだった。始めて外部の世界が私の内部の世界と清く諧音を発した。――こうして魂の祝日は来た。生きがいができてきた。どの家も、どの飾り窓も、路地のどの顔も私を乱さなかった。すべてはあらねばならぬとおりであって、日常のありふれたもの空虚な顔をしておらず、すべては待機している自然で、運命に対しうやうやしく用意を終えていた。小さい少年のころ、クリスマスとか復活祭とかの大祭日の朝、私には世界がそんなふうに見えたのだった。この世界がこんなに美しくありうるとは知らなかった。私は自己の内に沈潜することに慣れていた。そして外界のものに対する自分の感覚が消えうせたこと、輝く色彩の喪失は幼年時代の喪失とさけがたく結びついていること、いわば魂の自由と成人との代償としてこのやさしい微光を断念しなければならないことに甘んじてきた。いま私は、すべてのものは埋もれ暗くされていたにすぎないのを見、また、自由になったものとしても、子どもの幸福を断念するものとしても、世界が輝くのを見、観察する子どもの深い驚きを味わうことができるのを知り、うっとりとした。(『デミアン』ヘッセ/訳=高橋健二/新潮文庫より) ヘルマン・ヘッセは古くから日本人に親しまれてきた作家だと言えるでしょう。そして、今回この一節を拾い上げ、私は何となくですが、その理由の一端がよく判るような気がしました。 本を閉じ、私たちは思います。でも、本当にこんな朝が自分にやって来るだろうか?と。豊かな精神性と甘やかな感傷性はまさに紙一重ではないか、と自らを疑うこともあります。「すべてはあらねばならぬとおり」の世界が目の前に現れることなど、神秘的すぎる考えではないか、と。しかしながら、私たちは(少なくとも私は)それを待ち続けているような気がします。
2005.04.21
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美しい女の姿がぼくの眼の前にちらつけばちらつくほど、ますます、ぼくの哀しみは強くなった。ぼくは、自分も、少女も、そしてその少女がもみ殻の埃の中を通って馬車の方へ走っていくたびに、いつも哀しそうな視線でかの女を見送る小ロシヤ人も、可哀そうに思った。少女の美しさにたいするしっとがあったためだろうか。それとも、この少女がぼくのものでないこと、けっしてぼくのものにはならないであろうこと、かの女の世にもまれな美しさも偶然なもので、必要のないもので、地上のすべてと同じような永遠のものでないことがざんねんなためだろうか。それとも、ひょっとして、ぼくの哀しみは、ほんとうの美を目撃することによって人間に起こる特別の感情のせいだろうか。ああ、わからない!(『美女』/訳編=佐藤清郎『チェーホフの言葉』(弥生書房)より) まるで、十代の頃書いた自分の古い日記を読み返すような思いがします。日々の通奏低音が「哀しみ」であったあの濃密な時間を思い出す人も、決して少なくないのではないでしょうか。単純に比較してみても、今以上に、隈取り濃い多感な時間を過ごしていたのは確かなようです。けれども、この「哀しみ」は、時間と場所、そして形を変えて、今も共通して私たちの毎日にやって来るような気がします。もちろん、そもそもこのような感慨を抱かないで大人になる人もいますが、これはきっと、文学のとば口にある、豊かな感傷性、といえるものなのではないか、と思います。
2005.04.19
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In the fall the war was always there,but we did not go to it anymore. It was cold in the fall in Milan and the dark came very early.Then the electric lights came on,and it was pleasant along the streets looking in the windows.There was much game hanging outside the shops,and the snow powdered in the fur of the foxes and the wind blew their tails.The deer hung stiff and heavy and empty,and small birds blew in the wind and the wind turned their feathers.It was a cold fall and the wind came down from the mountains.(In Another Country) 秋には戦闘が切れ目なくつづいていたが、ぼくらはもう前線にはいかなかった。秋のミラノは寒く、日が暮れるのが実に早い。すると電灯がともされて、ウィンドウを覗きながら大通りを歩くのが楽しくなる。店の前には猟の獲物がたくさんぶらさがっていた。狐の皮に雪がこびりつき、その尻尾が風に吹かれていた。鹿は硬直して、ずっしりと、虚ろにぶらさがっていた。小鳥たちも風に吹きさらされ、羽毛が逆立っていた。いかにも寒い秋。山から風が吹き下ろしていた。(『異国にて』高見浩=訳『ヘミングウェイ全短編1』新潮文庫より) みなさん初めまして。 今日からこのブログに、日々の読書の中で心に留まった断片を集めていきたい、と、そんな風に思っています。『言葉の落ち穂拾い』とでも言ったところでしょうか。 小説家の保坂和志さんが、ある著書の中でこんなことを書いています。 私たちの言葉や美意識、価値観をつくっているのは、文学と哲学と自然科学だ。その三つはどれも必要なものだけれど、どれが根本かと言えば、文学だと私は思う。(『書きあぐねている人のための小説入門』草思社) 私もこの考えに同感です。私たちは、生涯を通じて、世界のありとあらゆることを感受し、表現していこうとします。そして、それを可能にしてくれるのは、唯一言葉によって、なのだと思います。ある時にはそれは、必ずしも美しい断片とは限らないかも知れません。あるいは、文学ではなく、映画や、音楽や、日常で交わされるお喋りの中に見出されるかも知れません。 今日は、みなさんへのご挨拶に代えて、ヘミングウェイの短編『異国にて』の冒頭部分を拾ってきました。今は四月ですが、やがて五月がやって来ます。どういうわけか、この季節になると、私はヘミングウェイを読み返したくなってくるのです。私はただ拾い集めてくるだけですが、もし、その断片が、みなさんの生活に新しい美意識、価値観を生み出す切っ掛けとなれば、これほど喜ばしく、愉しいことはないと思っています。 毎日更新、という訳にはいかないかも知れませんが、どうぞよろしくお願いします。
2005.04.17
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