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一応、理系の思考、但しヒマすぎて余計なことを考えすぎ。

中途半端なホームページや冗長なブログを書きなぐりの日々。

・ラヨン市が好きな定年退職者ガンバル
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・定年退職者そしてラヨン市のファン
2012.01.17
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カテゴリ: どうなる日本
減給以上「慎重に」 日の丸・君が代訴訟で最高裁初判断 中日新聞


起立しない行為は「個人の歴史観がもとであり、物理的に式典の進行を妨害しない」と指摘し、これによって「職員の身分に重大な不利益をもたらす」減給や停職の処分を科すのは「裁量権の範囲を超えており違法」だと判示した。

宮川光治裁判官
「不起立行為があっても式典の進行に影響はない。たとえ戒告でも、懲戒処分は重すぎ、裁量権を逸脱する」と主張した。

桜井龍子裁判官
懲戒処分を受けた後に不起立を繰り返すと、より処分が重くなる都の懲戒制度に触れて「減給や停職というより重い処分を機械的に科すのは、行為に対してバランスを欠き不当だ」と強調した。
---以上、抜粋

式典の進行を妨害したかどうかが問題ではないように思うのだが、まあそれはいい。
戒告はいいけれど、減給や停職は不当だ、というのはいかがなものか。

それでは、戒告されようが、されまいが同じことなら戒告の意味がない。
行動を改めさせたいから戒告する、それでも改めないならどうすればいいんだろう?

で、「行動」なのだが、
このような行動を聞いてoyajiが思うのは、
あなたは人を教える立場でしょ、雇われているのでしょ、である。
雇われていること(その社会・組織に属していること)の恩恵を享受しながら、そのことに反対する、いや反対する意見を述べ議論することはいい、自由を求めることもいいでしょう。
しかし、社会・組織に属する以上、勝手気まま、何でもアリというのはおかしいでしょう。
何かのキマリがあるだろうし、義務があるはず。

「個人の歴史観」というが、教師なのだ。
全くの個人としてどこかの式に参列するのとはわけが違う。
生徒は教師の教えとしてその行動を見ている。

キマリを教育者が率先して破ることなど示してほしくないとoyajiは思うのだ。


一体どんな考えなのかと、
「日の丸・君が代」強制反対 予防訴訟をすすめる会 のHP
を見てみた。
そこに「教育の自由裁判をすすめる会共同アピール」というのがあった。

---抜粋---

---略---
学校では、自由闊達な議論を保障し、生徒と教師の主体的な人格的触れ合いを通し
て、子どもたちの成長をはかる必要があります。上からの命令にただ服従することか
らは、生徒が潜在的に持っている能力を引き出すことはできません。国際的にも共通
認識になっているところですが、生徒が相互に学び合い助け合うような自由な教育環
境こそが子どもたちの力を伸ばしていくのです。
---後略

ここでは「国旗・国歌への敬意の表明の強制」をされたくないらしい。
では「表明の強制」がないとして、「敬意」についてはどうなのだろう。
敬意を持とうが持つまいが、軽蔑しようが、それは思想良心の自由ということ?
日本人として生まれ、日本を蔑視する、もっといえば自分という人間に生まれて自分を蔑視する、自己の存在を否定する、ということにもつながりませんか。
勿論、そう思うのは自由です。しかし教育では何を教えたいのだろうか。
気にいらないキマリ・約束は破りなさい、自分の自由のためには他人とキマリを作ったり、約束してはいけないということなのだろうか。


この日本では「自由闊達な議論」を何ら制限はしていない。
国際的にみても、自由である部分は相当に広い、自由すぎるほど自由。
そして、国際的な共通認識として、自分の国(その象徴として国旗、国歌)へ敬意を払うのはどこの国でもごく普通のことだ。

最近、よく思うのだが、自由とか権利とかの裏には必ず何らかの義務・犠牲がある、それを忘れて(なのか、教育のせいなのか)、義務の伴わない更なる欲望、強欲を求めすぎていないだろうか。






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最終更新日  2012.01.17 16:46:11
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