Moyashi

Moyashi

かわ

かわ


 川は国道沿いの通学路とは反対側に流れていて常にひっそりと濃厚な湿度を持って佇んでいる。特に日が落ちる時刻になると隣接する山林から吹くじっとりした風が影響して、その存在を色濃くする。長く伸びた杉の影が揺れて歩道のコンクリートを染める。次第に占有する面積が増えていき、そして暗闇がここにもやってくる。
 対照的に交通量が多く、大型車両が頻繁に行きかう国道は通学路となっていて、夕刻近くなると黄色い交通安全帽子を被った小学生が2、3人固まりながらバラバラと重い足を引きずるように帰路につく姿をみることができる。彼らの多くは足を進めることを口惜しむかのように必死に喋り続けている。活気があるわけでもなく商店街とは名ばかりの軒先が並ぶこの地域はバブル経済を発端とした新興住宅街だ。しかし、そのつかの間の夢魂が尽き果てると同時に単なる過疎地域へと再び戻ってしまった。ポスト・モダンや脱啓蒙主義とはかけ離れた一種の窪みとして陸地を形成している。
 この地域にとって川は意味あるものではない。象にとっての髭剃り。宇宙飛行士にとってのくるみ割り人形。マクドナルドにとっての伝統。はるか彼方に追い遣られた染みに相当するしかないのがこの川だ。人々は己の過ちより先に、静かに暮らす隣人よりも先に、埋没するこの地域から抜け出そうと懸命になり、あたかも川の存在などなかったかのように振舞っている。むしろ、否定しようと躍起になっているのかもしれない。人々の敗北感を洗い流した生活廃水は川の至る所で淀みを作っている。
 だからこの川沿いの道には電灯というものはない。さらに西側にある小高い山のおかげで日が沈むのも他の場所に比べて1,2時間早かった。冬場4時過ぎとなるとすでに10メートル先の縁石でさえ暗闇で見えないほどだ。1年を通して印象の変わらない場所である。だからこの道は通学路としては認められていなかった。

 僕は時折、下校路を外れてこの川沿いの道を歩いた。それはとても楽しい時間だった。単純に好奇心から生まれた行動は触れてはいけないものへの好奇心を生み出し少しずつ高鳴る胸の鼓動を膨張させる。転がる石ころ、忘れ去られた採掘場、すべてが僕の後押しをしてくれているみたいで無敵だった。
 滑らかに勾配する川沿いの道を歩くと道は突き当たる。左手にある車幅ほどの橋を渡ると川の反対側を歩くこととなる。右手に見下ろす川面を覘くと色とりどりの錦鯉が泳いでいる。きっとどっかの人間が放流したのだろう。コンクリートに固められた両岸に浮かぶ彩色強いそれは子供ながらに異物感を僕に据えた。排水口から気泡を含んだ水がゆっくりと川に流れ込み、錦鯉の周りと混ざり合う。きっとこの錦鯉はある日自分が腹を上に向けて動けずにいることに気づくのであろう。自分が何に毒され、なぜに川底を見ているのかさえ知らずに。異物感はしゅるしゅると音をたてて根を張った。僕には聞こえた。何か深いところまで落ちるあの音を耳元で確かに聞いた。居たたまれなくなり足を進める。
 川は上流に近づくと泥流を塞き止めるための段差が増えてゆく。小さな滝のように作られた段差は水が落ちるとまた小さな滝つぼを作る。その小さな滝つぼを数えながら歩いた。確実に僕の中で何かが落ちた。同時に感じるこの焦燥感はどこから来たのだろう。段差の数を6まで数えて川面を見ると、それがいた。

 はじめ僕にはそれが一体何なのかがわからなかった。検討さえつかなかった。いや、正しくは検討などという行為は置き去りにされていた。それがあまりにも現実性を濃縮し、吸収し過ぎていたからだ。焦点を合わせ細かい泡を含んだ滝つぼを覗くと、茶色の物体が滝つぼに翻弄され、回り続けている。回転すると周期的に白くぷっくりとした部分が見え隠れして、その横に短い突起物4つがあった。僕が現実性に追いつき始める。世の中でもっとも簡潔で潔い言葉を使うと、それは犬の水死体だった。
 落ちてくる水の勢いに吸い付けられて犬の死体はゆっくりと横回転している。水分を含んだ全体像はやや丸みを帯びている。ゆっくりとゆっくりとそれは回り続けている。僕が見つめ続ける間も僕が知らない何かを巻きつけて、それは回り続ける。
 日差しは早く流れる雲に遮断され心成しかくぐもった黄褐色で包まれていた。少なくともここに響いている音は水が大きく擦れあう鈍い地響きだけで、決壊を防ぐため異様な高さにまで膨れ上がった石の堤防に乗っている僕は疑うことも疑われることもなくそこに一人だった。そして回り続けるそれは、絶望的なほど深い底から伸びる細い糸に繋いだ何かを汲み取っていた。きゅるきゅると巻きつけられてその何かはここに近づいてきている。それは何か大きな繋がりを持ってもうすぐやってくる。

 だから僕は逃げ出した。川沿いに降り積もる様々な亜種を振りほどいて走る。急斜面の裏道を抜け、湿っている道路を跳び越え、曲がりくねった山道を突っ切り、家へ入る。ランドセルを玄関に放り投げ、階段を上がり、脱いだ靴下を放り投げ、自室に飛び込み布団を被る。外はすでに薄暗くなっていた。窓からのぞく暗がりにすうっと気配を感じる。そいつはそこから僕を見下ろしてる。僕はもうだめだと小さく声に出す。そして鼻で笑ってみる。何も変わるはずがない。しかししっかりと感じることができる。変わったのは自分じゃない、それらすべてだ。深くつながる広大な闇と僕とはここで一回折り合いをつけなければいけないのだ。深く被った布団をめくり上げ、顔を出し窓を望む。終わりまでの平行線が音をたてて傾き始めた。


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