| ただ一つの後悔・見えない綺麗な目 |
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| (ただ一つの後悔)
「義母を思う」 私は何でも迷わずに決めてしまう方で、その上慌てものですから、失敗が多い。 けれど、その割りにいつまでも後悔はしません。後で埋め合わせしようとか、取り返しがつくさ・・というお気楽者です。 その私が、どうやっても取り返しがつかなく、悔やんでも悔やみきれない出来事一つだけあります。 私たちが結婚した時、主人の父親は早くに亡くなっていて、主人の母と、祖母がいました。 主人には二人の兄と二人の姉がいましたが、それぞれすでに独立したり結婚していて、家には末っ子の主人だけが残っていました。 そこへ私は嫁いだのですが、その時、義母は病気で入院中でした。 結婚と同時に、私は家と、職場と、病院をトライアングルのように回る毎日になりました。 義母には内緒でしたが、病気は末期癌で、次第に弱っていく日々でした。 だんだんに、ろれつも回らなくなり、言葉は「エアイ」(痛い)とか「アア」「ウウ」しか言えなくなってきたある日、私に「アア~ヤン」と言いました。何回も何回も私の目を見て言います。手を握ると、かすかに力を入れてくるのが分かります。 何かを伝えようとしている・・・。 でも何度聞いても分からない。 色々考えて、私は義母が「あかちゃん」と言っているのかと思いました。 結婚した私たちに赤ちゃんはまだかと訊いているにのかと・・・。 「あかちゃん?」と訊き返すと、「ああ~やん」と繰り返します。 その時、私は、「赤ちゃんはまだだけど、できるまでには退院して抱いてやってね」というようことを言ったのを覚えています。 それでも義母はなんどか「ああ~やん」と言って、やがて疲れたように黙りました。 その後、そういう風に話し掛ける体力もなく、やがて約1ヵ月後、義母は亡くなりました。 それから6年、元気で毎日お題目を上げて暮らしていた祖母が二日寝込んで、急に亡くなりました。 お葬式の後、私は40度近い熱を出し、寝込みましたが、やっと熱が下がり、台所で食事の支度をしている時、突然ある言葉がひらめきました。 「アア~ヤン」あれは、あかちゃんではなく、「おばあちゃん」だったのでは・・・ 「アア~ヤン」それは「おば~ちゃん」だったに違いない。 おそらく、義母は死期を悟り、後に残す老母を心配して、私に「おばあちゃんをよろしく頼む」と言いたかったのでしょう。 あんなに、私の目を見て必死で声を絞り出していたのに、どうして、私はその言葉を分かって上げられなかったの。 「分かったよ、おばあちゃんを大切にしてしっかり面倒みるからね、心配しないでね」と、あの時、一言言って上げられたら、義母はどんなに、安心できたでしょうか!! それを私ときたら、何度も「赤ちゃん?」と訊き返すなんて。 自分のことしか考えない嫁が来たと悲しく、後に残す祖母の事がどんなに気がかりだった事か・・・ 今更気が付いても、もう義母に伝えるすべはありません。 もう取り返しがつかないだけに、私にとっては今でも心の痛む事です。 今、父はあの時の義母と同じような母音ばかりの話し方になってきています。 寒い、は「エウイ」背中は、「エナァ」。何とかして父の言葉を分かろうと、分かった言葉を、片端からメモに書きとめます。 今日、やっと分かったのは「オイエ~」、30分かかっておしりと分かりました。 「おしり?」と言う言葉に「ア~イ」と返事が・・・オムツが濡れて、おしりが気持悪かったようです。 取り替えて、お湯と乾いたタオルで拭き、家でいつもしていたように、お股をパタパタあおぎ、「気持ちいいね~」というと「ア~イ!」と大きな声で返事してくれました。 メモに書きとめたカナと、言葉の発音は微妙に違いますが、似た発音の時は確かめる事ができます。 これと思う言葉を言い返してやると違う時は返事をしませんが、合っていると「ア~イ」といいます。 「ア~イ」が聞けるまで何度も色々な心当たりの言葉を繰り返し言ってみます。 最近は、ほとんど眠っている事が多く、問答も疲れて、途中までしか分からず諦める事も多いのですが。 それでも、もう義母の時のような思いをさせたくないし、私も悔いを重ねたくありません。 (見えない綺麗な目) 「本当に見えません」 父はこのところ、夜から朝にかけて、37度台の熱が出るので、ペグの処置はお預けのままです。 お昼頃には、36.3度位に下がるので車椅子に乗って、ロビーに出たりしますが、今日はお天気がよく、日当たりのいい廊下の突き当たりで少しお日様に当たりました。 リクライニングの椅子を使っていますが、お尻が痩せてきたせいか、クッションを入れてもすぐ痛くなり、病室に戻りたがる事が最近多くなりました。 今日は、ひなたぼっこで気持良さそうでしたが、間もなく、寒いと言い出しましたので、又、熱がでて寒気がしてきたのでは?と心配ですぐ病室に戻りました。 ベッドに入り、羽毛の肌掛け布団のうえに毛布をかけ、(重い布団や毛布が嫌いです)やっと温まったようです。 しばらく、「アアン、ウウン、ガァァ」と意味もない声を出していて、何か用事?と、訊いても返事もしません。 「声を出したいの?」と聞くと、「あ~い!」とのこと。 しばらく、して静かなので寝たのかなと顔を見ると、真顔でじっと私を見ています。 父は、8年前の第1回目の脳梗塞で目が見えなくなりましたが、明るい暗いは分かります。 目には何の異常もなく、 見えているものをきちんとした映像として認識する神経の部分が侵されてしまった だけですから、人らしいものがいるという程度は分かります。顔らしいものがあるというのも分かります。 ただ、きちんと顔には見えないのです。 ですから、見えないと言う説明はとても難しいのです。 前方から人がくると動くものが近づくので、まるで見えるかのように目がそちらへ向きます。 でも、食事のお膳を出され、前に置かれても、テーブルやベッドの色や形と渾然として、どこにどんな物があるのか、認識できないのです。 このせいで、北海道でも有数の脳外科と言われる病院で、脳梗塞を見逃し、眼科の検査を繰り返し、しまいに、詐病(嘘つきの病気)か、神経ヒステリーと診断されてしまったのです。 たまたま、脳に視神経が入っている部分の、片方ではなく、両側に対称的に脳梗塞が起きると言う、何万例に一つのケースだったせいもあります。 発作後すぐ救急車で病院に行ったのですから、すぐ高圧酸素治療、その他の治療に入れば、あるいは手遅れにならずに済んだのでは、と、後に脳梗塞と診断された時は、随分悔しい思いでした。 父の写真をホームページに載せて見たら、皆様がやはり目が見えるように感じられたようです。 看護婦さんも、父が見えないのがどうしてもピンとはこないようです。 白衣が動いていくと、目で追うので無理もありません。父の目をじっと見ていると、見えない(映像として見えていない)とは私ですら思えないのですから。 毎日病院に行く事や、病院に父を長く置いておきたくない理由は、ナースコールが押せず、誰かが声をかけてくれるまでひたすら待つしかないことが、哀れだからです。 誰かがそばにいない限り、父が、自分の意思や、要求を伝える手段を持たないからです。 父に取っては、看守がたまに見回りに来る独居房に入れられたのも同じなのです。 親孝行だね、と褒めてくださる方が多いですが、とても面映いです。 もし、父の目が見えていたら、私の対応はもっと違っているでしょう。 澄んだ綺麗な父の目を見つめながら、2回目の発作で、不自由な体になりましたが、目だけは残しておいてやりたかったと、改めてしみじみ悲しく思います。 |