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裏山の急傾斜指定に伴う県による工事もいよいよ間近。その指定区域に、景観の良い裏庭も含まれまして、県に庭園部分の施工委託をするかどうかの最終判断が求められています。擁壁は作らない。現存の樹木は活かすといったところまでは譲歩。ただ、ジオファイバー工法による表土への吹き付けによる仕上がりが、庭としての機能を殺さないかどうかが悩み所。文化財指定を受けておらず、人命第一ということで、公費を用いて、これ以上の工夫は認められないようです。室町時代には、大内盛見の菩提寺である国清寺が建っていた地。当時の石組みもどこかにあるのではなかろうか。常栄寺庭園3キロほど離れた現・常栄寺には、雪舟作といわれる庭園が残っていまして、他にも市内には、善生寺に室町時代に作られた庭園が。善生寺庭園うちの庭も、不自然に茂った庭木を切除すると、あちらこちらから石組みが浮き出てきまして、もしや山口に滞在したこともある雪舟が、指図したこともあるのではなかろうかと、勝手な妄想を。一緒に妄想し、文化の擁護を主張する出入りの若い庭師さんは、土木事務所まで注文を付けに行くほどで、裏庭を工事することには絶対反対。いつもお世話になる室積にある普賢寺さんの庭も雪舟の作といわれ、中央の三尊石や、鯉魚石などの配置は、雪舟お決まりのパターンだそうです。近年発掘された旧・阿東町の常徳寺庭園。雪舟作との記録もあり、今後、保全のあり方が問われることでしょう。現在は無住寺院で、近所の民家もまばらですが、かつては銅山があり、栄えた地でした。益田・医光寺は、常栄寺と同じ東福寺末で、雪舟の作庭。ちょうど文化庁が入っての改修作業が行われていて、池の水が抜かれることで、水面下の石組みがよくわかります。京都からの庭師が作業。崩落部分や水回りの補修だけでなく、作庭時には無かったであろう樹木の切除も行っていました。ただ、建物の増築が、庭側に張り出したことで、庭園の一部が改変。視点も、庭へ近付きすぎることが残念で、元来はもう少し離れた位置から眺めていたはずです。医光寺のすぐ近くにある時宗の萬福寺庭園も雪舟作。こちらは自然な石組みの医光寺に比べて、ずっとシャープで、金剛界曼荼羅やモダン・アートかと思わせるほどに抽象的です。甍の勾配が目を引く本堂は、鎌倉時代末期の建造で、国重文。建物と庭園の配置やバランスも大切と実感しました。さてさて弊寺は、どのような答えを出すのでしょうか。
2010.06.08
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先日、毎朝マルの散歩で出会う、県庁勤めの檀家さんから坐禅指導を請われまして、一緒に坐ること30分ほど。場所を問わず、少しの時間であっても継続することが大切と伝えて別れたのですが、先月末、また散歩で出会った折、家では家族への対応で精一杯となり、全く落ち着かないので、お寺で坐禅会を行ってもらえないかとの依頼。はい、少し考えてみますと言って、寺に戻るや京都の住職に電話。6月から坐禅会を始めたいと伝えたところ、「それぐらいのことで電話なんかするな!こちらは明日から大攝心(集中修行期間)なんだぞ」と返事。すぐさま「坐禅」と大書いたしまして、門前に張り紙いたしました。翌朝、また散歩中に檀家さんと出会い、「昨日の今日の話ですが、住職に許可を取り、今週末から坐禅会を始めることになりました。早速門前に張り紙をいたしましたので、是非ともお越し下さい!」と申したところ、「ええっ、もう今週からですか?参加者は、私だけではないでしょうね?」と驚き呆気にとられた表情。一人からでも続けることに意義がある・・・とはいえ、たった張り紙一枚で、反応があるのやらと思いきや、庭掃除中、近所の売店の方がいらっしゃり「坐禅の張り紙を見て、ちょっと立ち寄りました。私も時間のある時は坐らせていただいて宜しいですか?」今度は、私が反応の早さに驚きました。そして、その日たまたま飲食店で同席した方と話になり、私が某寺の副住職であることを告げたところ、なんと先方は、まめ子さんの同級生で、尚かつ30年以上前、うちのお寺で行われていた坐禅会の参加者。おまけに、坐禅会に限らず、毎朝先代住職のもとまで坐りに通っていらっしゃったそうで、今週から坐禅会を始めることを伝えると喜ばれ、早速に参加のご返事が頂けました。お寺の総代さん、かつて坐禅会に参加していた方の息子さんなどにも連絡。そして今日は、たまたま近所のお寺のお茶所から、坐禅用にと線香の供養がありまして、実は明日から坐禅会を始めるところでしたと伝えるや大喜び。何事も自然に流れの傾いていくことが、不思議でなりません。尚、先日のタレント候補者の一件が、新聞記事になりました。支局長評論 俳優をやめたわけ
2010.06.04
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一昨日に葬儀の導師を務めた副施設長さんが、施設だよりの原稿を持参。当人の許可を得て、そのまま掲載させていただきます。ターミナル・ケアについて映画「おくりびと」や、「おとうと」等が話題となり、最近ターミナル・ケア(終末期医療)について論じられるのを耳にすることが多くある。私自身、近年御縁の深い方々の死を経験することが多くなり、その都度いろいろと考えさせられている。私は医学については全くの無知であり、それについて語る資格がないことは百も承知の上で、敢えて思うことを述べさせて頂くことをお許し願いたい。ターミナル・ケアを論じる時に問題となるのが「延命治療」と「尊厳死」である。人間である以上、生に対する執着があるのは当然であるし、また家族の立場においても、少しでも長く生きてほしい、少しでも長く生かしてあげたいと願うことは当然の思いである。一方で、自らの生命力で生きているのではなく、延命治療によって死ねずにいるくらいなら自然のまま寿命を全うしたいと願ったり、延命治療によって苦しんでいる姿を見るのが辛く、早く楽にしてあげたいと願う家族の気持ちもまた当然の思いであろう。どちらが正しいのかはわからないが、最近は延命治療を望まない人が増えてきていると聞く。先日、高校一年生の男の子が亡くなり、縁あって導師として引導を渡させて頂いた。その子は中学一年生の秋に難病を患い、爾来入退院を繰り返していた。生来が明るく元気な子で、病床にあってもいつも笑顔でダジャレを連発し、周囲を幸せにしてくれる子だった。また手先が器用で、粘土細工や紙細工の作品をたくさん作っている。果たしてその子が自分の病気を知っていたのか、或いはどう思っていたのかはわからないが、不安や苦しみに眠れない日もあったのではないかと思う。その子の最期を病院で看取らせて頂いたが、その子は最期まで精一杯、力一杯生き切った。その姿は本当に尊く、私はその瞬間まで精一杯、力一杯生き切った彼を尊敬している。ターミナル・ケアというとよく言われるのが、「いかに良い最期を迎えさせてあげられるか」とういことである。しかし私はそうは思わない。死を迎える準備というような消極的なことではなく、「いかにその瞬間まで精一杯生き切るか」ということこそが大切なのではないか。「いかに死ぬか」ではなく、どこまでも「いかに生きるか」である。そして周りの者は、その人が精一杯生き切るためにお手伝いできることを、精一杯させて頂ければ良い。それが「ターミナル・ケア」ではなかと思う。その子の葬儀では、精一杯生き切った彼に恥ずかしくないよう、私も精一杯引導を渡したつもりである。もしかすると、「お前、何やってんだよ~」(彼の口癖)と、彼に笑われているかもしれないが、それもまた彼らしさであり、そう思って頂けると幸せである。
2010.05.30
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隣接施設に住する16歳男子が、二年半の闘病生活を経て、逝去致しました。最初は、入院していることが多かったのですが、本人と職員たちの意志で、なるべく病院へ入院せずに在宅(隣接施設)で生活。先週土曜日に体調を崩して入院するまで、職員や他の子どもらと一緒に時間を過ごしていました。喪主となるお母さんも発達障がいを抱え、しかも数少ない遺族しかおらず。もちろん経済的にも大変苦しく、施設としても限られた措置費しか捻出出来ない中で、葬儀のやりくり。副院長の僧侶が、先ず本人とは全く面識のない檀那寺の住職に説明し、ずっと関わりのあった施設職員や僧侶たちで送り出したいことを納得していただき、葬儀屋さんにも華美な祭壇を用いず、道具は弊寺のものを用いたりしてコストを極力抑えるよう話し合いを持ちました。本尊の代わりに、一円相。職員皆で葬儀を段取りし、知恵を出し合って、手作りの会場設営です。導師は、その子と10年近く親子のような付き合いをしていた副院長の僧侶。引導に何度も声を詰まらせ、嗚咽する姿に、横に並んだ私たちも、溢れ出そうになるものを必死で堪え、宙を見上げました。ほとんど儲けにはならなかったであろう葬儀屋さんも、若手職員の反応をみるに、今回の葬儀では、様々なことを学んだようです。参列した皆それぞれの心の中に、彼の命が紡がれて行きました。火葬場から、骨壺に入って帰ってきた彼に読経。その後、副院長が、遺族のみならず、職員と子どもらを前に挨拶。「○○くんは、本当に最期の最期まで、一生懸命に生き切りました。彼の姿からは、本当に沢山の事を教えて貰いました。皆さんも自分自身の命を大切に生き切って下さい!」片付けを済ませて寺に帰ろうとした時、ふと小学校低学年の女の子が私に近寄り、「○○くんが、また帰って来たっていうけど、今どこに居るの?」と不思議そうな顔で尋ねてきました。
2010.05.29
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いつもお世話になる方の誕生日会に呼ばれまして、小さなお店を8人で貸し切りに。店長夫婦も今日は仕事をしないと決めて、ささやかながら、楽しい時間を過ごしていました。店の扉には、『本日貸し切り』の張り紙をしてあったのですが、スッと開いた扉に誰だろうか?と注視するや、今回の参議院選で、何かと話題になっている民主党のタレント候補者が、地元TV局の方と。ちょっと躊躇する二人に、店長が、どうぞどうぞと勧めました。二足の草鞋を履くようなタレント候補者に政治を任せられるわけがない!といった意見が大半を占める山口県。民主党の県連推薦候補が、本部から却下されたこともあってか、県連ですら厳しい反発。誰に尋ねても、反応は冷ややかです。やや遠慮気味に、一人一人握手しながら挨拶を。のっけに、誕生日を迎えた主賓「今まで三度、あなたにお会いしていますが、覚えていらっしゃいますか?」「・・・・・」おじ様、「最初にはっきりと言っておきますが、私は(対立候補である)○○の親戚です。」「・・・・・」私「かつて近鉄奈良線の特急車両で隣席に座り、環境問題について論議していたことを覚えていますが、」「・・・・・」二人が別席に腰を据えて飲み始め、暫くして帰ろうとしたところ、こちらに座っていた○日新聞の方が、「ちょっと待って下さいよ!」と呼び止め取材を。どのような会話になるのか興味を持ちまして、ちょこんと横に腰掛け、かつて出会った際の第一印象と同じく、大きな声で喋り続ける候補者の意見にじっと黙ったまま耳を傾けました。大半は役者としてのお話でしたが、M原順子の『二足の草鞋は履きません!』が話題となるや、「ところでお坊さん、私のキャッチ・フレーズは、どんなのが良いですか?」これには私が「・・・・・・」大らかで嘘をつけない人柄は、よくわかりますが、国政を任せるとなれば・・・・・店主も、「勿体ないなあ・・・」と漏らしておりました。
2010.05.25
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昨日、むらこうさんのご案内で、昨年完成した福岡マスジドの見学会に参加させていただきました。JR箱崎駅に降り立つと、JRの高架沿い直ぐに、天高くそびゆるミナレットが視界に飛び込んできます。(手前の建物は、違います)箱崎は、古来より異文化の玄関口。現在も、九大に通う多くの留学生を受け入れてきた街。その留学生を中心に、1998年よりマスジド(モスク)建設への募財が始まり、2005年には土地を購入。留学生センターでの食事会などを通じて地域住民との交流を重ね、少しずつ理解を得、ようやく建設に至りました。関連記事見学会には、地域の方だけでなく、新聞などで情報を得て興味を持たれた方など50名ほどが。先ずは地階に於いて、クルアーンの詠唱後、イスラームについての説明から。僧侶や神父などといった在俗とは対照になる聖職者はおらず、五行(1、信仰告白 2、1日5回の礼拝 3、喜捨 4、ラマダーン月の断食 5、一生に一度のメッカ巡礼)六信(1、唯一絶対の神・アッラー 2、天使 3、諸啓典 4、諸預言者 5、終末の日 6、定命)が皆に義務付けられており、宗教と文化が切り離せません。イスラム文化圏に於いては、コミュニティの相互扶助も密接で、終末に於ける最後の審判を信じるといった宗教的な理由のみならず、欧米や日本に比べ、格段に自殺者が少ないことも特色といえるようです。次に礼拝を見学。礼拝を呼び掛けるアザーンの響き。ちょうど、通り掛かった豆腐屋さんのラッパの音色や、頭上を越えていく飛行機の轟音が合間に重なり、心地よさを感じました。神社に行くと最初に口をすすぐように、先ず手洗いなどで身を清めた後、一人一人が礼拝堂にやって来て、個人で礼拝を。そして定時になると、横一列にピタリと並んで唱導師に合わせて一緒に礼拝を行います。金曜日などは、部屋いっぱいになるとか。次に地階へ戻り、小グループに分かれてのミーティングとなり、自由な意見交換を行いました。福岡市と違い、モスリムの絶対数が少ない行橋から来たという日本人とインドネシア人のハーフの中学生男子は、学校の給食は、一人お弁当を持参。礼拝は、ひとり図書室で行っているとか。彼のお姉さんなどは、体育の授業に於いて夏場でも一人、長袖長ズボン。ミニスカ全盛の中で、一人だけ超ロングスカート・・・いじめは、無いのかと質問したところ、ちょっとした悪ふざけはあっても、一生懸命に溶け込みたい気持ちがあるから、悪質ないじめを受けたようなことは身に覚えが無いとの答えに、少し安心。過去に受け入れた留学生や海外旅行中のことなどを振り返ると、似ていてちょっと違うよりも、全く違うぐらいの方が、教義の違いを知るよりも、行いそのものに触れる方が、子ども(心のよう)であれば、排除しようとすることなくお互いにすんなりと受け入れやすいのかもしれないなと思いました。それぞれのグループに於けるミーティング内容を発表した後、三階に移動して食事会。お祈りだけでなく、食事も、ミーティング時も男女別々に仕切られています。エジプト、バングラディシュ、インドネシアなどの手作り料理がずらり。熱帯や砂漠地帯中心ということで、保存の為に香辛料が良く効いた料理の多いのが特徴。食中毒を起こしやすい豚肉が禁忌とされるのも理解出来ますが、かつて仏教もそうであったように、異なる文化や風土と交わる中で、更に地域に対応した柔軟性が、問われていくのかもしれません。日没のお祈りが始まるまでの間、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。今宵は、三日月のすぐ真上に金星が。次は24年後にしか観ることの出来ない配置だったそうです。
2010.05.16
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連日、ネズミを捕まえて来るマル昨夕、マルの散歩で瑠璃光寺の裏山を歩いていたところ、歩きの旅を続けており野宿をしたいので東屋を探しているという70歳の男性に出会いました。はっきりと大きな声で丁重に挨拶する様子を見て、「ああ、よければ、隣りにあるうちのお寺に来て下さい」と言うや、子どものように大喜びで万歳を。先ずはお寺の本堂に連れて行き一礼させようとするや、いつもやっているお願いをさせて欲しいとのこと。どうぞと勧めたところ、「○○さんの病と苦しみを私に下さい、△△さんの病と苦しみを私に下さい、□□さん有り難う・・・・・」といった口上を一生懸命に。旅で本当にお世話になった方々への感謝を回向。実は、かつてロープで首を吊ったが死ねなかった。生かされるだけの価値があるのかと思い行脚。一日二日は、空腹でも耐えられる。三日目で食事にありつけなかった時には、縁が無かったと山中で潔く首を吊る覚悟を持って旅を続けているが、三日続けて空腹であったことは、一度もない。橋の下、コンクリートの上で眠るのは、本当に寒い。寒く道ばたに転がる虫けらを拾い上げ、温かい草むらにそっと寝かしてやることを続けていると、何故かしらいつも温かい場所に出会うことが出来る。自分も本当に生かして頂いていることがわかり、預かった命を生ききること、心から生かされていることに感謝できるようになったと、何度も涙を流しながらのお話を聞かせていただきました。旅好きな近所のしんちゃんも招いて、一汁一菜と、ほんの少しの?般若湯で、ささやかなおもてなし。様々な話を伺ううちに、埼玉の深谷にあるよく知ったお寺の近所に住んでいたことが判明。何かと活躍される住職のことも知っており、かつて伝導掲示板の張り紙に書かれた言葉が気に入って、何度か所望したとか。寺にある某師の書かれた観音様の絵が描かれたお軸を見せると、号泣しつつ深々と頭を下げておりました。翌朝、朝のお勤めを共にし、草むしりを済ませて出立の際、20年前にいただいた張り紙の言葉を思い出したとのこと。追えば逃げるよ赤とんぼ待てばとまるぞ竿の先そして、座右の銘としてずっと心に刻みつけているという「忘恩」と題した言葉借りた傘雨が止んだら邪魔になる何度も何度も振り返ってはお辞儀する彼の背中が見えなくなるまで、ずっと見送らせていただきました。
2010.05.12
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昨日早朝、マルの散歩に出掛けるや、隣接する児童養護施設を覗き込む、ちょっとくたびれた感じの若い男性あり。近寄って挨拶を交わすと、参道を真っ直ぐ寺の方へ。見慣れぬ姿で、何となく挙動不審な様子に、問題があって引き離された子どもの親か、はたまた賽銭泥棒かと警戒。もう一度、寺の裏側竹藪へと公園から下りる道を選んで寺へ戻り、こっそりと行動をチェック。取り敢えずは大丈夫であることを確認して、墓地を抜ける別コースへと散歩を続けました。ぐるっと回って30分後、寺に辿り着くや、山門前に先ほどの男性。やっぱり預かっている子どもの親かもしれないなと思い、近付き会釈するや先方より質問。「こちらの新しい建物は、どのような施設ですか?」100年以上年前から続く児童養護施設であり、寺との関わり、子どものことや職員のこと、問題点などを説明。随分と真剣に耳を傾けて聞き、質問を重ねる姿勢に、にわかに好感を持ちました。そして、旅の途中であること、自分の仕事についての迷いなどを話した後、私にひと言。「施設で何かお手伝い出来ること、ありませんか?」ちょっと嬉しくなりまして、答えを返さぬまま直ぐさま施設に連れて行き、職員と交渉。早速に丸一日、子どもらと生活を共にして貰うことにしました。勉強を教えたり、キャッチボールをして遊んだり。最初出会った時と比べ、表情がずっと活き活きしてきたことに驚きです。子どもらも、あっという間に馴染んでおりました。夕方になって子どもらと別れ、長崎には帰らず、寺で一泊することに。たまたま昼間に訪れた丹波のおかんとも会話。更に晩ご飯は、たまたまいらっしゃることになったおじ様と、施設職員の僧侶も一緒となりまして、夜遅くまで話は尽きず。人と接する仕事がよくて、何事にも前向きな姿勢で、お金儲けに関心が無く、親が反対しないのであれば、お坊さんになるのも、なかなか面白いよ!と薦めたところ、否定はせず、ウンとも言わずに、ただ目を輝かしておりました。今朝、食事を済ませて出立。風のように旅立つ背中を見送り。かと思いきや、不意に昼頃玄関に舞い戻ってきて、嬉しそうな表情で沢庵漬け一本と般若湯を私にどうぞと差し出し、マルに手を振りながら再出発いたしました。夕方、マルの散歩時に出会った子どもが私に質問。あれあれ、お友だちは、どこへ行ったの?きっとまた何時か、子どもらに会いに、帰って来ることでしょう。
2010.05.06
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先日、いつもお世話になるむらこうさんを山口に迎えました。宗教やコミュニティのあり方について、心を以って経験を通じての様々なお話が尽きません。常栄寺の庭園や、知人より案内のあった秋吉台芸術村ホールに於けるチェロをメインにした室内楽のコンサートに耳を傾けたりしながら、充実した時間を過ごさせていただきました。また、一昨日は檀家さんから招待を受けまして、家族と一緒に食事。山口にずっと居て欲しいといった期待に、ずっと居たいと真っ直ぐに。いつの間にやら、山口弁も随分とマスター。本当に大好きな街になりました。支え支えられていることに感謝です。昨日は、朝の庭掃きの最中、とある大学教授がふらりと訪れまして、たまたまネットでうちの寺の事が紹介された某新聞のサイトを見て、仏教が自分の悩みを解決してくれるかもしれないと思い立ち、お寺へやって来たとのこと。マルの留守番する本堂正面にて、お話を伺いました。研究に対する悩み、学生への指導に関しての悩み、子育てについての悩み等、いっぱいいっぱいの様子。一時間ばかり話を聞いて、要所要所のアドバイスで、徐々に穏やかな表情へと変化し、こちらも一安心。一段落着いたところで、今度は横浜から、湯治のためうちの近所にアパートを借りる老婦人が来訪。駒大で仏教を学び、曹洞宗の各師や臨済宗の老師方と親交のある方。先日の来訪時は、住職との会話後、不意に取り出した「正法眼蔵随聞記」についての本を庭掃除をしていた私に。今回は、先ず、その本についての感想を問われ、分かり易く書かれていますねと答えたところ、「これが、昨今の曹洞宗に於けるスタンダードな解釈になっている」と返答。今時の主流であるとすれば、手堅くて良いですねと申したところ、「ちっとも良くないわよ!」とバッサリ。ムムッ来た来たと思い、確かに解釈は分かり易いが、訳者自身の経験が全く追いついていないというのは、各所に散見出来ますと返したところ、「その点が、今時の一番の問題なのよ。」とザックリ。まさに門前の婆子。「私は無宗教なんですよ」などと嘯けど、油断も隙もありません。話が、多岐にわたって盛り上がってきたところで、今度は、悩みを抱えて時折やって来るお兄さんが、子どもたちを抱えて、ふらりとやって来ました。昨日は嬉しそうな表情で、何度も話に聞いていた子どもたちを紹介。初めて見るお父さんとしての姿。頼り切った子らの姿に、安堵を覚えました。午後は、久しぶりに、かつて一緒に南高梅を植えた隣接施設の卒業生がふらりと来訪。一時間ほど、話を伺いました。ちょっと調子が悪いとのことでしたが、覚えてくれていたマルとの再会に大喜びです。また入れ違いに、言い落とした事があると言ってやって来た門前の婆子(敬称)「あなたは、きっと諸法無我を体得なさっていらっしゃいますね。ところで今後、仏教者として何かやりたいことはありますか?」すかさず、全くありませんよと大笑いしたところ、「はるばる山口まで来た甲斐があった。私の末期はあなたにお願いします。」滅多に見せぬ何とも安心した表情で、帰って行きました。見送るのと入れ違いに今度は、いつもお世話になるふらりふらり夫婦さんが、広島から訪ねていらっしゃいました。本堂前にて、マルと一緒に茶礼。今年早逝した山口出身の作家、北森鴻さんのことが話題に。持ち合わせていらっしゃった何冊かの本をお借りし、ただ今読書中です。昨日は、朝からずっと、お茶を飲んでいるうちに日が暮れていきました。本日は、隣接施設の子どもらと例年の登山に。途中、子どもをおんぶしたり、手を引っ張ったり。頂上へ辿り着く前に、弁当の包みを開ける子どもら。脱落の最終組を登り切らせるのが、毎年の楽しみとなって参りました。
2010.05.02
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先ずは、先日からの読売新聞夕刊に於ける連載、禅寺の精進料理を中心としたお話の続きをご紹介。[禅寺料理日記](6)寒さは根菜で追い出す[禅寺料理日記](7)素材の味だけでおいしく[禅寺料理日記](8)日々の生活が修行草食系男子の保守本流との表現は、かなりユニークとの反応もありました。[禅寺料理日記](9)いのち敬い栄養も満点[禅寺料理日記](10)ごちそう作って「合格」今日は、お寺まで足を運んで葬式仏教と批判しにいらっしゃった檀家さんあり。ずっと伺っていると、あまりにも偏った情報による一方的な意見ということで、こちらもメディアを引用しつつ丁寧に見解を差し出したところ、納得して帰られました。説得力の大きさが違うのかなと、反応の変化が興味深くもあります。昨日、蕎喰いまとみさんへ。農家レストラン『おわて』さんを招いての「九重山菜の会」に行って参りました。『いまとみ』さんのお蕎麦も、勿論美味しいのですが、この日は『おわて』さんの山菜料理が振る舞われました。自給自足で、昔ながらの自然食ばかり。食事が進むにつれ、なんとなく懐かしさが・・・化学調味料を用いない、素材そのものの味わいは、禅寺の精進料理だけでなく、田舎で育った私の子どもの頃の味覚にも重なります。初っ端に、イタドリが登場。和歌山の南部ではゴンパチといった名前で呼ばれるほど、春先には慣れ親しんだ味です。私の席の向かいには、時折ご一緒させていただく料理研究家の檜山タミ先生が座られ、一つ一つの料理をメモを取りながら丁寧にチェック。そして、いつもながらのユーモアを交えた興味深いお話を聞かせて下さいました。「これ、食べられるのよ!」と言って、雄しべと雌しべを取り除き、飾りかと思ったツツジの花をむしゃむしゃ。真似して同じようにむしゃむしゃやると、なかなか美味しい。・・・因みに、寺へ戻ってから様々な種類のツツジの花を食べ比べてみましたが、それぞれ味が微妙に違います手作りのコンニャクが出てくると、灰汁には何を用いているのだろうかと論議。おわてさんが用いたのは、豆殻とソバ殻。クヌギが良いと言う方や、栗のイガが良いと言う方もいらっしゃるとか。また青竹を用いると、色の白いコンニャクとなるそうです。そして、コンニャク芋の芯は、えぐみが出るので使わないことなどなどと伺っていると、自分でも作ってみたくなりました。また料理に使用していたお酢は、柿酢。渋柿を瓶に放り込んでおき、冬に搾って夏に出来上がるそうですが、収穫が早すぎれば酸っぱく、熟して甘い場合は、生米を一握り瓶に放り込むと程良い味になるとか。檜山先生によると、ベトナムでは様々なフルーツを用い、家によって酢の味が違うそうです。わらび、竹の子は、収穫後すぐに湯がくことが肝要。おわてさんによると、農家では、お湯を沸かしておいてから収穫に出るのが当たり前とのことでした。メインは、山菜のてんぷら。手前から時計回りに、タラの芽、コシアブラ(樹は版木の材料)、ニワトコ(樹は接骨の添え木の材料)、花筏、真ん中に椿の花。ちょっとピンぼけした椿の花ですが、味はしっかりしています。かつて精進料理屋の息子が、沢山抱えて来たこともあるコシアブラの香りが、やはり一番人気。冬のような寒さの日が続き、この日に合わせて持ってくることが出来るのか、本当にスリリングだったそうです。食の大切さから、命の大切さまで、さりげなく教えていただいたひとときでもありました。そういえば、完成したうちのお寺の柚餅子の紹介を忘れていました。
2010.04.26
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住職を八王子駅で後輩と一緒に見送るや、ちょっと高尾駅まで後輩と話をした後、代官山へ急行。高尾から都心に向かって、じっと見据える心が大きく変わることはありませんが、どんどんと人が増えていくにつれ、それまでとは、180度全く違った世界に立っているような。ちょっと不思議な感覚です。弊寺に於ける看取りのことを取り上げて下さった読売新聞の編集委員の方々と、月刊・寺門興隆の編集部の方を交え、カノヴィアーノさんに於いて、会食の機会を得ることが出来ました。以下参考ながら、読売新聞夕刊で現在連載中、禅寺の料理に関しての記事[禅寺料理日記](1)寒の座禅 粥を頂く[禅寺料理日記](2)食の大切さ、「しまつ」で実感[禅寺料理日記](3)「手間」が深める素朴な味[禅寺料理日記](4)お供え 五色の献立作りから[禅寺料理日記](5)神父の精進スパゲティ私は記者ではありませんが、メモを取っておけば良かったなと思うほど。様々な角度から見つめられた現在の仏教に於ける問題や立脚点。そして、皆が望んでいること。様々な分野にまで多岐にわたってのお話は、目の前に繰り出される料理とともにご馳走ずくめで、とても興味深く、もっともっと聞きたいことが沢山。追い詰められたそこで、どのように一歩を踏み出していくのか。得られた様々なヒントを昇華出来ればと思いました。翌朝、飛行機出発までの空き時間、ふと思い立って、恵比寿にある後輩のお寺を訪れることにしました。ところで、お寺は何処だっけ?と駅前に立ってキョロキョロ。花屋さんに道を尋ねると、丁寧に教えて下さいました。臨済宗のとある季刊誌の編集を任されている後輩。近頃は、NHKのカルチャーセンターの講師も任されたり、土地柄もあって様々なメディアとの接点も多い彼。会える時間は、たった20分ほどしかないということで、猛スピードでしたが、ぐいぐいとつつけばつつくほど、面白い意見が出てきます。「無縁社会」といった言葉が、もてはやされるまでになってしまった昨今、仏教者がどのように対応していくかが性急に問われているようだがとの私の振りには、「世相に素早く対応する日蓮宗や浄土真宗に対し、禅宗は、良く言えば鈍感力があるといったところか」との答え。世相に素早く対応する教団ほど、スキルが追いつかずに振り回され、うつ病に悩まされる僧侶も多いというのも事実。メディアにはなかなか触れられることのない、100年スパンで物事を考えるような、地道に当たり前の事をこつこつとやる禅者のあり方を伝える努力、お願いしますよと言って、その場を後にしました。また、帰路檀家さんより電話。心療内科も含めた医師を信頼できないで愛知に居る大学生の息子を少し預かって欲しいとのこと。了解したところ、翌日夕方にはお寺へ飛んでやってまいりまして、マルと一緒に散歩へ。そして、昨日は秋穂の海辺にある小さなお寺の春季法要の手伝いへと連れて行きました。 真っ新の大般若経ちょうど、昨年、人吉君が山口でデビューした場所。以前にも、預かった他の檀家さんの息子を連れて行ったということで、また誰か連れて来たねと、皆驚くようなこともなく自然に受け入れて下さいます。当人も、受け止めてもらえたことで、少し表情も柔らかくなり安心した様子。医者の治療が届かない、ぎりぎりの所。帰寺後に拝読した某氏からのメールや、この数日間をも振り返りつつ、どのように時代が変わろうとも、僧侶に求められる肝要な所は、やっぱり此処なんだなあと、改めて実感致しました。
2010.04.20
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翌朝、道場後輩の同行を得て、八王子駅前のホテルを出発し、やや郊外にある廣おん寺へ。うちの先々代が、山口から通って戦前から戦後にかけて師家を務めたこともある道場。毛利家の先祖といわれる大江氏のお寺といった縁もありまして、こちらの菩提樹を取り木して、弊寺の庭でも育てています。先々代の就任当初は、荒廃していたそうですが、昭和10年の南針軒老師の遷化に伴い、南ぜん寺本山の意向に合わず、総分散した雲水たちが先々代の元に錫を移して修行。後に宗門の重責を担うことになる多くの方々を輩出いたしました。その当時は、みるみるうちに境内が整備されていったそうです。それら雲水さんの中には、うちの住職が小僧さんの頃から面倒を見て貰った岡山時代の師匠も先導役の一人として活躍。様々なご縁が重なって、思い入れの深いお寺です。現在の老師さんは、うちの先代と南ぜん寺の道場で一緒に修行。一世を風靡した柴山全慶老師が、雲水修行していたうちの先代の部屋に、漢文について尋ねにやってきたエピソードなどを披露。本当にいつも親しくさせていただいたと、懐かしそうに話しておりました。また、その道場を訪れて驚いたのは、5年ほど前、南ぜん寺に門を叩いた後輩が、移籍したその道場にあって、活き活きとした表情でバランスの取れた雲水さんになっていたこと。50半ばで入門してきたのですが、なかなか若い者に追い付けず、更に我の強さも抜けないままだったのですが、こちらの道場の水に合ったのか、見事にこなれて雲水さんらしく。ちょっと指導力不足だったことが、恥ずかしいぐらいで、本当に頭が下がりました。山梨・塩山に抜ける道は雪。真っ白な雪をかぶった山々に、満開の櫻のピンクが、くっきりと浮かび上がる景色は、いと不思議。それでも長いトンネルを甲府盆地に抜けると、全く雪は無く、桃の花が満開となっていました。向がく寺は、山梨県を中心とした臨済宗の本山。こちらの管長さんも、南ぜん寺の道場のOBで、うちの住職がお世話になっています。ピシャリ、ピシャリと几帳面に、直ぐさま雲水に罵声を浴びせる指導方法。ところが、こちらにも、早い段階でうちの道場を去って、こちらに移ってきた者が、雲水の古株に。やはり表情が活き活きとして、動きも良く、バランスの取れた雰囲気に、別人かと思ったほど。頭が下がりっぱなしです。住職と管長さんのお話は、主に雲水の指導法について。「不器用でも問題ない。地道にこつこつが、結局は一番!」「そうそう。」二日間、多くの師が胸襟を開く姿に接した貴重な体験。一人一人を尋ね歩くことの良さも、じっくりと噛み締めることが出来ました。
2010.04.18
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今年10月に先代住職の13回忌法要を行うということで、15日より、京都・関東方面のとりわけ御縁の深い方々のところへ、住職とともにお願いに参りました。行事参加のお願いと参加の御礼の為に、現地まで赴くという昔ながらのしきたり。関東方面のお二人からは、案内を郵送でもいいよと言われていたのですが、住職は、きっちりとしたところを弟子である私に教えておきたいとの思い。普段、多くの方を指導される方ばかりということもあり、随分と興味深く同行させていただきました。真っ先に、先師の弟弟子であった南ぜん寺管長さんのところへ。法要の導師を頼む挨拶を致しました。「先代の行履(あんり)を記すようなものは、くれぐれも残すなよ。先々代は、没蹤跡ということを口を酸っぱくして言うておった。だから、著書など何も残しておらんじゃろう。(残そうといった欲が出れば、大切な物事の本質から逸れていってしまう)先々代には、20人の弟子がおったんだが、10人は出征して亡くなり、8人は結核で亡くなってしまった。わしも、結核を患い、半生半死で1、5人が残ったようなもの。そのような半人前の私の方が、まさか長生きをすることになるとは、思ってもみなかった。色々なことを省みても、自分の思ったようには一つも成らないまま、ここまで来た。縁に随って身を任せておるのが一番ええんじゃ。」いつもは、さっさと要件だけ済ませば、先方から話を切り上げることが多いようなのですが、今回は、次に伺う場所への時間を気にして、こちらから話を切り上げることになるほど、じっくりと向き合って下さいました。次に、うちの本山である建にん寺へ。僧堂(修行道場)の奥まった部屋で、管長さん、宗務総長さん二人まとめてのお願い。海北友松の障壁画に囲まれた薄暗くも趣きのある一室。先代が、本山からゲートルを巻いて京大に通っていたころが、懐かしいといったお話などを。祇園界隈で家庭教師をしていたころもあったようで、未だに随分と親しみを持った古い方が、残っているようです。縁者のところで昼食を頂いた後、東ふく寺の僧堂へ。こちらは、昨年秋に就任したばかりの老師で、うちの住職とは、他道場でありながらも、雲水時代からの道友。亡くなった先代の法の流れを受け嗣ぐ一人でもあります。15分前に到着し、ちょっと早いかなと思うも、すでに大玄関では雲水さんが座って待っておりました。本堂横の客間に通され、待つこと少し。付き人に、住職の格好を確認させ、少しこちらを待たせてでも同じ格好に合わせて出てくるのが、こちらの流儀なんだと、住職が私に耳打ち。ちょっとはにかんだ笑いを見せつつ、住職と同じ格好で登場致しました。挨拶を済ませるや、隣の応接間に移動。気楽にコーヒーを飲みながらのお話は、住職もちょっと一休みといった感じです。そして、行事のお願いとは関係無いのですが、たまたま流れの中に挟まった相こく寺に於ける先代老師の三回忌法要に、同行させていただきました。老師とは、先月末の囲む会で出会ったばかり。若くして亡くなった相こく寺先代老師は、うちの住職の先輩にあたり、相談役でもありました。相こく寺の山内寺院とOBばかりが、ずらりと百人ばかり。やっぱり他道場は、雰囲気が全く違うなあといった感慨。のこのことやって来た私のような付き人も、お客様として最前列につけられたのですが、すぐ目の前で、老師が張詰めた空気を切り裂くように法語を唱え始めると、こちらの方が、緊張してしまいます。うちの住職曰く「しっかりやっているじゃないか。一生懸命な今が、本当に一番良いなあ!」法要後は食事となり、和やかな時間。他道場ながら、久しぶりに出会う何人かの道友を見つけ、嬉しくもありました。法要後、京都から関東方面に移動。新幹線に乗るや、引き出物として出版された遺芳集をパラパラとめくり始めた住職。突然に、オイオイと声をあげて号泣。横浜線の車内では、勢い余って手すりにぶら下がるや懸垂を。普段であれば、目上であっても厳しく物言いをつけるのですが、一日の流れを踏まえるや驚くこともなく、善し悪しやらといった判断やらを越え、世法では計れない凄まじい気魂の固まりに触れさせて頂いたことが嬉しく思えました。
2010.04.17
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以前にもご紹介いたしましたが、開基元就公の意志によって、敵味方無く戦死者を弔う法華千部会が営まれました。450年前から、毎年行われる行事。和尚さん方も、行事中はそれぞれの役目を任され、修行しに来たという気持ちでもある様子。二泊三日で近隣の和尚さん方10人ほどが合宿のように雑魚寝で寝泊まりし、日中に何度も読経。ご飯の時間も、本式のお給仕が付いて、皆黙々と。今では、長州法華の伝統も、うちのお寺だけにしか残っていないようです。片付けも皆で一緒に。私もようやく行事に慣れて参りまして、ただひたすらやみくもに走り回っていた頃に比べ、お祭りのような雰囲気が楽しくなり、全く疲れを感じなくなりました。行事中、竹の子掘りに出掛ける木魚の師匠読売新聞夕刊に於きまして、「見聞録・禅寺料理」の連載が12日より始まりました。学生の頃、大変お世話になった京都・大珠院での典座修行を中心とした内容。大珠院で、うどんをご馳走になったことなどが、懐かしいです。この間、マル住職とは、ほとんど相手になれず、暇そうにしておりました。
2010.04.12
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ブログを更新する暇は無いと言いながら・・・マルが、一般観光客に襲いかかりそうになったということで、安全対策を。昼寝場所の移動ごとに、「危険」ならぬ「危犬」のボードも移動させることで、様子を見ることにしました。これで安心かと思いきや、暫くして、けたたましくワンワンと。やれやれと思いながら覗いてみれば、作業着で、竹の子鍬を抱えた木魚の師匠と格闘。慌てて制止しました。師匠は、イノシシよりも鋭い嗅覚で、まだ土に埋もれた若竹を探り当てる名人。その師匠、帰り際に曰く、「わしは、デジタルやITとやらが、大嫌い。来年の地上波テレビ放送終了と同時に、わしはもう、人間やめるっちゃ!」やはり仙境に遊ぶ方は、ひと味違います。尚、人間はやめても、和尚は続けるそうです。
2010.04.04
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行事のため、暫くアップは休みます。近頃、土日に頻繁にやって来る中学生?の賽銭泥棒。おば様より、「あの子が、またやって来たよ」との報を受け、捜査出動。中門前に自転車を置いて逃げたということで、防犯登録ナンバーを確認後、鐘楼門に登って待機することにしました。待つこと10分。戻ってきた中学生。先ずはポンプ室の裏へ身を潜ませ、様子を窺いながら中門をくぐり境内へ。観音堂前に置かれた納め札入れに手を突っ込んでゴソゴソし始めるやこらーーーーー! 何やっとるんだーーーーーー!と一喝中学生は、やや慌ててキョロキョロ。しかし、見回しても誰も居らず、もう一度手を突っ込んだところで、もう一喝こらーーー泥棒! さっさと帰れーーーーーー!狐につままれたような表情で、中学生は帰って行きました。駄目押しは、金一封に致します。
2010.04.02
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一昨日と昨日は、用あって関西に。合間を縫ってこっそりと、久しぶりに高校野球を観たいなあと思い立ったのですが、雨模様。帰路の楽しみに残しておくことにしました。辿り着いた某市中は、あちらこちらに警察官がズラリと並ぶ、物々しい雰囲気。何事かと思いきや、天皇皇后両陛下が、間もなく通過するとのこと。指定場所で待つこと15分。近付いた車が目の前で原則し、徐行。美智子様と目が合ったかな?なんて思いながら、ミーハーな気分で手を振らせていただきました。それにしても両陛下、車に乗っての外出時には、自分たちを見つめて手を振る人ばかりしか見たことがないのではなかろうか。人目を忍んでこっそり八百屋へ野菜を買いに出掛けるなんて、きっと出来ないだろうなと、僧侶よりもずっと制約が多そうで、ちょっと不憫に思えます。道草はそれまでで、そうそう、今回の主たる目的は、二回目を迎える相●寺老師を囲む会。今回は、老師よりプロジェクトの提案があり、僧侶以外にも、大学教授と某誌編集者を呼びたいとのこと。これは皆で論議をすることが面白いかなと思い、私からも関心がありそうな方に声掛け。皆で10名ほどが、集まりました。インターネットを利用し、映像を通じて数カ所の会場を結び、同時に法話を聞き座禅会を行うといった内容。プロジェクターを用いて、様子の説明が行われました。都市部であれ地方であれ等質の仏法を享受できるといった発想も、よくわかります。会の後、今回の不参加者から聞いた話によると、賛否は別として、テラワーダでは、すでにそのような形の瞑想会が、取り入れられているとか。ただ、画面と音声の情報だけで本当に大切なことが伝わるのだろうか?といった表情の者が大半。しかも、今回集まった中で、パソコンを情報伝達のツールとして使いこなせている者は、ごくわずかです。情報を専門に取り扱う方同士でも、様々な面で視点や認識の違いを感じ、面白く思いました。翌日は早朝より、丹波のオカンが美術商を連れて宿泊所に参上。以前、オカンから応挙の絵を扱っている方が居ると聞き、冗談で「贋物じゃないですか?」と私が問うたことで、カチンと頭に来たことが発端。お天気も良く、今日こそは甲子園に行くぞと内心意気込みつつの面会となりました。ところがところが・・・知人が何人も重なると知り、暫く白隠禅師のことやら、様々に話が弾みまして、主たる目的が何であったか忘れた頃、美術商が持参した風呂敷を開けば、なんと応挙の軸が四幅。固唾をのんで見守る中、一つずつ紐解かれるのですが、パッと広げられた時の嬉しさは、何とも言えません。間近で観る筆致はどれも見事。美術商曰く、いくつもの作品に接していると、真贋は落款を見なくてもわかるようになる。本物には、筆の息づかいが聞こえてくるような緊張感がある!とピシャリ。初期の作品である叭々鳥から、油の乗った天明期のすすき図。大胆に余白を活かした彩色の紅葉図。それと、事前のリクエストに応え、棟方志功によるキリスト像の版画を拝見。お孫さんが所有していたらしく、初刷りのもので、細部まで黒色がくっきりと。表具も十字を表した意匠が粋です。至福の時間に漂い、気が付けば、もう山口へ戻らねばならないほどで、甲子園に立ち寄る暇は、ありませんでした。
2010.03.27
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昨日、人吉君がいよいよ道場へ出立する朝を迎えました。先ずは、対面で正座して、住職から気迫のこもった激励の挨拶を。かなり厳しく突き放し、窮地に追い込んでおいてから自分のペースに持ち込み、きちんと前を向かせようとする手段は、真似が出来ません。そして、人吉からやって来たお母さん、いつもお手伝い下さるおば様二人、と共に出立茶礼を。出立の辞を告げると、緊張した中で、住職が皆にお茶をたて、黙々と一気に飲み干します。ちょうど雨降りということで、雨具を着けての出立。本堂正面より中門で一礼後、参道を真っ直ぐ振り返らずに歩き、姿が見えなくなるまで、皆が背中を見つめました。ちょうど、今日から二日間、道場の玄関に這い蹲っての庭詰め。その後、伊深では七日間(通常は三~五日間)、壁に向かって黙々と座り続ける旦過詰めを経て、ようやく入門が許されます。「その間の着替えの下着は要らないんですか?」と人吉君に尋ねられましたが、もちろん「要らん」と即答。そういった環境も含め、存分に楽しんで欲しいなと願っています。出立前には、植木屋さんが用意して下さった松の樹を記念植樹。住職より、「まず三年間は、暇の願いは書かないぞ!」と、きっぱり。また、山口へ手伝いで戻る日には、きっと大きく育っていることでしょう。たまたまグランドで遊んでいた隣接施設の今期卒院生も呼び寄せ、一緒に土を掛けさせました。富士山を尻に敷く?私が道場で使っていた座蒲団と腰当ても補修して利用。入門が認められるころに、生活用具一式を送り届けます。ちょうど、先日危篤であった檀家さんの葬儀も、彼の出立の同日午後にお寺で。(枕経、通夜もお寺に泊まり込んで)葬式後、住職も京都へ出立。ほぼ一週間続いた様々な送別会を経て、また閑かなお寺に戻りました。
2010.03.24
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午後、檀家さんより電話あり。入院していた90過ぎの母が危篤で、亡くなった時の心積もりのほどをお願いしますとのこと。いつも、先代住職のお話などを聞かせて下さった方。意識の有無を確認。まだ意識が有るとのことで、もし宜しければ、住職とともに伺わせて欲しいと伝えたところ、少し驚きつつも快諾して下さいました。と、すぐさま拭き掃除をしていた住職に報告。「危篤時に坊さんが病室を見舞うなんて、ちょっとなあ・・・」とためらい。「よく存じた方ですし、先方には行くと伝えてありますから参りましょう!」と言って、やや強引に引っ張り出しました。酸素吸入器を着け、喋ることは出来ませんが、住職の顔を見ると微笑。住職が、しばらく手を握ったまま話し掛け続けたところ、それまでやや乱れていたという身体機能の計測数値も安定。皆が安心した表情を見せたことも含め、病室を出るや「来させて貰って良かった」とポツリと漏らしました。昨日より人吉くんが山口へ戻り、いよいよ修行道場へ出立の準備。道場での所持品は、柳行李一つ掛搭願書と誓約書を清書させるや、だんだんと筆に馴染みつつ心の準備も整っていきます。袈裟文庫は、行脚の際の必携品。箱の中には袈裟を仕舞い、経本、携行食器である持鉢、剃髪道具、雨具をくくり付けます。前後のバランスを保つことで首や肩への負担を楽にしたり、ずり落ちないようなヒントなども。脚絆と草鞋の履き方も、自分が習ったように教えるのですが、締め方の加減など最後は自分の力です。いつの日か、今度は彼がそっくりそのまま教える番になることでしょう。
2010.03.19
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タイトル通り。雪が解け、暖かくなった一昨日水が大嫌いなマルをドボンとお風呂に放り込み丸洗いしました。これからお彼岸が終わるまでの来客ラッシュも、洗いたての姿でお出迎え。まるで、生まれたての子山羊のようでありながら、昨日も出会った方々からは、老犬ですか?と尋ねられてばかりです。この19日で、6歳に。本名、那智里女母親と祖母が同一・・・エディプス・コンプレックスの賜物?妙なる因果で、山口の寺に寄寓しております。
2010.03.15
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半年近く、練馬のお寺で預かって頂いた人吉くん。間もなく東京を離れるということで、一昨日、うちの住職に成り代わって御礼を述べに参りました。途中、六本木ミッドタウンに、ちょっと立ち寄り。サントリー美術館にて「おもてなしの美~宴のしつらい」展を見学しました。30分ほどのつもりだったのですが、面白くてついついのめり込んでしまい、一時間半も。お寺には、昏鐘が鳴る閉門時の到着となってしまいました。それでも和尚さんは、気持ち良くお会いいただきまして、豪放ながらさりげない心配りには、いつもながら感服。薬石のおもてなしでは話が弾み、気が付けば10時前まで。多くの道場が集まり競った網干の龍門寺開創400年遠忌には、うどん供養の折、うどんを一本一本すすって一時間半かけて食べ続けていたら、よその巨漢の雲水が、足の痺れを切らしてぶっ倒れてしまったとか、修行時代の様々なエピソードを話す時は、特にいきいきとしています。また、伽藍の復興を手掛けた十数年間は、かつて看護の折に垣間見た、病床で毎日理趣分を繰る青嶂軒老師に倣い、工事の安全を祈願して理趣分を毎日繰ったそうです。小僧寺としてのあり方も論議。様々な智慧を授かりました。今回は、少し離れた圓照院に宿泊。さりげなく用意された湯呑みセットや洗面用具に、人吉くんも良い修行をしているなあと思いきや、実は蒲団を敷いただけだったとか。床に活けられた花も、もちろん和尚さんです。うちの寺と違って、寝床に風が入ってこないだけでも有り難いもの。高級ホテルや旅館のような豪華な調度品は一切用いていませんが、さりげないおもてなしが息づいた空間は、とても心地良いものだと改めて実感いたしました。僧堂入門の記念にと、人吉くんが頂いた雲水衣。朝からも、お茶を飲みながら2時間近くお話を。うらもおもてもなし。語り尽くす山雲海月の情といった呼吸に、こちらも吐き尽くして羽田に向かいました。一夜明けた今日の山口は、雪が降り続いています。
2010.03.10
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昨日午前中、境内の観音堂を熱心に見入るグループあり。面白そうだなと近付いてみたところ、二年前の中門修理でもお世話になった文化財建造物保存技術協会の一団でした。全国各地から。鎌倉末期から室町にかけての禅宗様の建造物について、話をしていたところ、弊寺の小僧出身で住職となった方がいらっしゃる岐阜県・多治見のお寺の修復に携わる方あり。先方も、ずっと離れた場所でのローカルな話題に驚き。やはり、すっとその場を越えて人とつながっていく瞬間に面白さを感じます。午後は、「ラジオ深夜便 FM ウォーク in 山口」というイベントの関係で、全国から500人近くの参加者が、うちの寺へもやって参りまして、普段は閑散とした境内が賑やかに。一昨年、89歳で小説「見残しの塔―周防国五重塔縁起」を上梓した久木綾子さんが、ゲスト。見残しの塔構想14年、執筆に4年をかけ、実際に宮大工の作業場や日本各地に足を運んで小説を書き上げたとか。山口では、隣寺の喧噪を避けて、ひっそりとした弊寺のベンチに腰を掛け、お弁当を食べていたところ、(亡くなった先代)住職に「そんなところにいないで縁側にいらっしゃい」と声を掛けられたというエピソードが、ラジオ番組で語られたそうです。久木さんは、90を越えてなお、羽黒山の五重塔を舞台にした第二作目を執筆中です。今回、直接の協力依頼はなかったのですが、案内者の木喰仏を拝みたいとのリクエストに応えたところ、帰り掛けに参加者から拍手が湧くほど喜んで下さいました。尚、木喰上人も60歳を過ぎてから仏像を刻み始め、90歳までの30年間に、1000体以上を残しています。その後、隣接施設の理事としてお世話になっている小谷典子先生の山口大学における最終講義に出席させていただきました。繰り返し繰り返し実地に足を運んでの調査を重ねて来られた社会学の教授。筑豊地区に於ける閉山後の炭住コミュニティ調査を皮切りに、糸満系漁民の移動と定着、防府に進出したマツダの地域定着を調査。また、企業メセナや地域メセナによる文化支援や街作りへの取り組みの調査と後押しなどをダイジェストで紹介。最後に、我の我のといった気持ちで地域社会の発展を求めるだけでは駄目で、そのような枠組みを超えて様々な社会との連携と思いやりが求められているといったことを提言されました。講義は、学外からも様々な分野の方が詰めかけ、立ち見が出るほど満員に。そこからも、業績の一端が窺えます。講義後、同行したおじ様と、懇親会場のホテルに移動。ちょうどおじ様の弟が、東京から帰って来ているので紹介するよとのこと。18時半から始まる懇親会のため受付準備をする前を素通りし、すぐ横の部屋の受付に?あれよあれよと部屋へ通され、バタバタさせながら急造の席に着かせていただき顔を上げると、よく見慣れた山口市の重役方やらがずらりと並ぶところに向けてカメラが回り、何とも言えぬ緊張感が漂っている。およそ40名。隣の方の資料を覗かして貰うと、「第1回山口七夕会ふるさと交流会」10年前に発足した東京を中心とした山口出身者の会で、東京で重職に就く方も多く。今回は初めての山口開催とのことでした。いきなりの会議に参加するも、全くの場違いでは?と小さくなっていましたが、ドタ参歓迎と優しく。今後は山口出身者に限らず、山口を思う方々にも参加を呼び掛けていきたいといった趣旨に合致?と勝手に納得。会議の途中、おじ様が中座の挨拶を済ませると、私も慌てて資料を掴み、開始間近となった隣室の懇親会へと移動しました。本当に仕切りを一つ隔てただけの隣室。こちらは、200名ほどが集まり華やかに。昨年末に観た映画「マイマイ新子と千年の魔法」の原作者、高樹のぶ子さんが乾盃の音頭を取ったり。食事が始まってからも何人かの挨拶が続き、おじ様曰く、「誰も挨拶を聞いていないよなあ」おじ様の番になり、いつものすっきり明快で、ちょっとしたユーモアも交えた三分間スピーチ。やはり、腹式呼吸での発声が、一番相手の心や耳に届くのかなあと思いました。おじ様が挨拶を済ませると、また七夕会に移動。こちらでは、ゆっくり食事が出来るかなと思ったら、懇親会はすっかり終盤に。断る隙もなく挨拶をお願いしますと頼まれ、結婚式の戒師以来のスピーチでしたが、ニコリと笑いながら聞くおじ様の顔に安心。苦手ながらも一生懸命に話していたら、案外耳を傾けて下さるものだと、ホッとしました。話の後、曲まめ子さんの同級生や、亡くなった総代さんの生徒だったという方などが、近付き話し掛けて下さいました。その後、様々な方と会話するも、隣室で出会った方々との会話における方向性とピッタリ合致することばかり。隣室との仕切りを取っ払ったら、見事に深みのあるネットワーク型社会が体現できるのではないかと思い描いておりました。
2010.03.07
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実家へ帰る途中に立ち寄った「唐津くんち曳山展示場」実家から山口へ戻る途中、江須崎にあるエビとカニの水族館に行ってみました。エビとカニを中心に、何かと話題を提供するユニークなミニ水族館。オウムガイひな祭り展示として、雌から雄に性転換するサクラダイとヒメ江須崎には、日本童謡の園もあり、こちらの開園式には、高校の時、ブラスバンド部で参加。一般から公募して作曲された童謡「かにさん」の演奏などが懐かしいです。江須崎次に高校の同級生が住職する富田・草堂寺に。串本・無量寺と同様に長沢蘆雪の障壁画で有名。ちょうど庫裏の建設が進んでいました。かつて行脚中に訪れた際、庫裏玄関に沢山のタライが並べられ、足洗の準備が出来ているなんて気が利くなあと思いきや、雨漏りと知り驚き。これで100年以上は、大丈夫です。大阪では、アルモドバル監督の映画「抱擁のかけら」を。「オール・アバウト・マイ・マザー」や、「トーク・トゥー・ハー」といった繊細に入り組んだ心情を色鮮やかな映像で描かれた作品同様、どんどんと映画の中に引き込まれていきます。いつもながら見事なストーリーなのですが、お坊さんといった立場から観ると、愛別離苦や、怨憎会苦といった四苦八苦に充ち満ちた内容。これでは、どこまで行っても、主人公は苦しみから逃れることが出来ないでしょう(笑)しかし、いつの時代であれ、その満たされない感情や無常観、ちょっとした心の寄り道が、人生に膨らみを与え、多くの芸術作品を生み出しているのかもしれませんね。追記本日発売の月刊誌「寺門興隆」3月号にて、寺での看取りの件が詳しく紹介されました。今まで記事にして下さった方同様、しっかりとした意見の見え隠れする記者さんで、仏教はまだまだ大丈夫でしょう。また、今回の掲載にあたっても、舞い上がることなく今一度総代さんのお墓に手を合わせて来なさい等、淡々と見守って下さる多くの方々に感謝です。
2010.02.28
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昨日、実家に戻って参りました。紀南はやっぱり山口と比べて、随分暖かいなあと驚いたのですが、全国的にかなり暖かかったようですね。ただ、日差しはかなり眩しく、海と空の青さが全く違います。嬉しくて、すぐさま森林浴へと山中を彷徨。今日は、両親と一緒に、地域の山として親しまれ校歌にも歌われた風吹山へ、久し振りに登りました。子どもの頃から、何度も何度も登った標高303メートルの山。家から登山口までは、徒歩2分です。昭和10年代、鉄道の開通とともに、観光地にしようと地域の方々の協力で、四国八十八ヶ所にちなんだ石仏を頂上まで並べ、ミニお遍路さんとしてのルートが整えられました。当時は、有田地区の風物として神社の大楠や、筆島などとともに絵葉書を作成したりと、かなりの意気込みがあったようです。途中、ウバメガシの大規模伐採のため、かつて鬱蒼としていた箇所の景色が変貌。大雨ともなれば、土砂崩れが起ってもおかしくないほどの急斜面。中学生の頃、砂防ダムが出来たのですが、20年後のこのような伐採を想定して作られたのだろうかと、少し首を傾げます。それでもまだまだ昔から変わらぬウバメガシのトンネルも残されていてホッとしました。私がかつて四国遍路を中断した35番札所の清滝寺の仏像は、偶然にもうちの先祖が寄進。山頂には、大きなお大師さんの像が座っています。そこから紀伊半島の最南端が見渡せる展望台に向かっては、20年前、中学生の頃に皆で山桜を記念植樹。その日は、紀南でも珍しく数年ぶりに雪が積もり、山上で雪合戦したことも思い出されます。桜の樹一本一本に名札を下げていたのですが、大半の樹は枯れてしまい、現在は名札だけを残すものがほとんど。私が植えた樹も、名札ごと行方不明ですが、同級生や担任の先生の名前を見つけ、嬉しくなりました。山から下りるや、感涙?いえいえ、鼻水とくしゃみが止まらなくなりました。
2010.02.25
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ここ暫くは、シーズン・オフとなった住職が、京都より戻っています。先日、住職に留守番を頼み、ほぼ毎冬の恒例となった丹波・谷川での托鉢に行って参りました。谷川への出発前、住職が雲水以外の後輩たちへの手土産にと色々選択。△△には、ポン柑を!□□には、おかきを!○○には、チョコレートを!××も同姓だからチョコレートを!?と選りすぐりの品を持参し、住職に駅まで送り届けてもらっての出発です。久々に紺の木綿衣で網代笠、脚絆掛け、草鞋履きで新幹線に。車中では、とあるブログで評判になっていた坊主DAYSを。坊主DAYS臨済宗のお寺の娘さんが、お寺での生活や兄の修行のことなどを綴ったコミック・エッセイ。お寺で生まれ育ち、跡取りの僧侶となった者たちの心情が、あまりにもリアル。僧堂内での実情の描写も、私たちが育った場所とは違いますが、そっくりそのままです。(谷川への到着後、マンガ好きの後輩に薦めるも、とっくに購入していました・汗)新幹線を降りるや、ちょっとした時間を利用して、姫路駅前の映画館に立ち寄り、映画「おとうと」を。ターミナルケアがテーマになっていて、鶴瓶師匠の演技が冴えていると先輩から聞いていました。会場は、中高年のお客さんばかりで満員。観客の方々も感情豊かで、一緒に笑い、一緒に啜り泣き。一様に目を赤らめつつも満足した表情で、映画館を後にしていました。加古川駅にて、高校卒業間近のフミ君と待ち合わせ。ショウゴ君のお父さんに、車で迎えに来て貰い、三人で谷川へ。フミ君は、今春より大学の禅塾へ。10日ほど前に、彼から電話があり、ふと思い立って、「托鉢に行かないか?」と声を掛けたところ、元気よく「行きます!」との返事。お父さんの衣類を鞄に詰めての参加です。今回の托鉢は、ショウゴ君のお父さん始め禅塾出身者4名。僧堂の雲水2名、他地元の和尚さんたちが一緒。草鞋の締め方は、雲水さんが指導。托鉢の作法も習います。心構えは、元禅塾の指導員を務めた住職が伝授。私が学生の頃、福山のお寺で初めて托鉢を体験させていただいたことが、思い出されます。ちょっと格好良すぎるかな?和尚の息子も、いずれ同じ道を歩みます。托鉢は、18禁?うどん供養も18禁?いえいえ。18金の卵。18金から24金にまで、磨きの純度を上げて行くことでしょう。
2010.02.17
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ご用の方は、鐘を叩いて下さい昨日は、ある檀家さんの家で13回忌の法要。初めて山口へ来た丁度12年前の日のことが思い出されました。当時の私は、まだまだ僧堂で修行中。2月より、京都の道場で指導していた先代住職の付き人となりまして、城崎でのOB会へ伴われた後、山口の自坊へと随行。小郡駅では、当時、副住職であった現住職がお出迎え下さいました。ちょうど、檀家さんのお通夜があるということで、副住職さんは夕ご飯を食べずにお通夜へ。僧堂では滅多に口に出来ぬであろうからと、すきやきを用意して下さいました。その間、副住職の帰りを待ってはいられぬということで、先代と差しつ差されつ般若湯。調子に乗り始めるや、先代より「何か一曲唄ってみろ」後は、盃が乾くまで交互に歌のやりとり。副住職さんが、お通夜を済ませて寺へ戻って来た頃には、鍋も空っぽに。すっかり出来上がっていた二人に、ただただ呆れるばかりであったとか。翌日、住職の親戚一同が集まっての会には、城崎より持ち帰った蟹での鍋。私は暇をいただいて萩を観光してから京都へ。(の予定が、毎度の脱線に・・・)一方、副住職さんは会に参加せず、お葬式へ。お葬式を済ませて寺へ戻ってみると、大量の蟹の残骸と後片付けを残すのみであったとか。少しは口に入るかなとの期待も、蟹の泡の如くに消え失せたそうです。その二ヶ月後に、住職が突然の遷化を迎え、付き人としては、結局最初で最後の仕事となりました。昨日は、そのお通夜とお葬式となったおばあちゃんの法要。すきやきと蟹すき。まさか、このようなご縁に至るとは、不思議でなりません。
2010.02.08
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寺の中門よく見れば、石燈籠に猫がかくれんぼうしておりました。一昨日は節分。恒例の隣接施設での豆撒きは、中高生に豆を激しくぶつけられていた3年前までとは全く違い、幼児を怖がらせるばかりのナマハゲ化が進行中。 耳なし芳一?今年は、私も初めて鬼役で参加させていただきました。三人の鬼が部屋へ入るや、一瞬にして悲鳴の渦に。一番驚いたのは、かなりやんちゃな女の子が、鼻水を垂らし涙を流しながら、土下座して鬼に必死で嘆願。「もう、悪いことはしませんから許して下さい!」翌朝、通学時に出会うも、すっかり元に戻っておりました。立春だった昨日は、おば様と九州国立博物館へ。二度目の妙心寺展です。11時頃に到着して、先ずはゆっくりと食事。ところが今回は平日だからか、ほとんど博物館へ入って行く人を見掛けず。ウェイトレスに客の入りを尋ねたところ、期待していた割りには、さっぱりだとか。京都五山展は、正月三が日に各日3000人以上だったが、今回は3000人に満たなかったとのこと。妙心寺派ではありませんが、僧職と見てか、もっと宣伝して下さいと頼まれるほどでした。逆におば様は、人が少ないのであれば、じっくり見られると嬉しそうに。おば様、妙心寺開山・関山慧玄禅師像の前で、しばらく立ち止まったまま動かず。動いてはまた、その像の前へ戻り私にひと言。「こんな表情のお坊さんに、なって下さいよ!」その後、前回と違って次々に僧侶と遭遇。そして、法衣を纏う何処かで見たことのある僧侶が、檀家さんを案内。声を掛けてみたところ、大学の同級生でした。帰りには、天神さんへ。本殿前、飛梅の花が咲き始めていまして、道真公も嗅いだであろう優しい香りを漂わせておりました。
2010.02.05
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一昨日の法事では、お齋での話に熱中しすぎたか袈裟を持ち帰ることを忘れ、昨日の法事は、読経中に叩いていた木魚が座蒲から落ちて転がりだす惨事に。それでもお齋は、音楽好きが多くて歌合戦になりました。93歳の元音楽教師が熱唱するカンツォーネ「カロ・ミオ・ベン」は、見事。他、唱歌「鎌倉」「広瀬中佐」などの合唱。帰っておば様にも話したところ、それらの唱歌がスラスラ。若い頃に覚えた音楽というのは、いつまで経っても自ずと口から湧き出てくるほど身体に染み込むものかと驚きました。この数日は、じっくりとDVD・CD鑑賞を。先ずは、ショスタコーヴィチ作曲「ムツェンスク郡のマクベス夫人」。この作品、1934年に初演されたのですが、初演当時は大好評。ところが観劇に来たスターリンが激怒し、評価は一変。1936年の「プラウダ批判」(プラウダ紙は、1912年レーニンにより創刊)に晒され、20年以上にわたる演奏禁止のみならず、時はあたかも大粛清吹き荒れる中、生命の危機に陥るほどになりました。今回手にしたDVDは、クーセイによる、絶えず檻の中に閉じ込められたような閉塞感の強い舞台演出。ヤンソンス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管が、沸き起こる激しい感情や衝動的な行為をダイナミックに表現。ぐんぐんと閉所へ押し込まれていくかのように、最後まで一気に惹きつけられます。歌手陣も、かなりの熱演で、カーテンコールに立ったヒロインが、目を赤く腫らすのも納得。ブルジョア社会の腐敗を皮肉ったかのようなストーリーが、大胆な表現を覆う隠れ蓑でもあったのでしょうが、初演当時、全体主義全盛の中では理解されがたいのも良くわかります。プラウダ批判を受けて、やはり鋭角なナイフのように研ぎ澄まされた表現に満ちた交響曲第4番の初演を回避。【送料無料】ショスタコーヴィチ / 交響曲第4番 コンドラシン&シュターツカペレ・ドレスデン(1963年ドイツ初演ライヴ) 輸入盤 【CD】初演のリハーサルまで行われていたそうですが、フルシチョフによるスターリン批判の時代を迎えるまでお蔵入り。【送料無料】ショスタコーヴィチ / 交響曲第5番《革命》 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(1973) 輸入盤 【CD】有名な交響曲第5番「革命」で、やっとこさ評価を取り戻しますが、演奏の難易度のみならず音楽の緊張感は、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と並んで凄まじい4番と5番では全く違うのも興味深いところです。【送料無料】ショスタコーヴィチ / 交響曲第7番『レニングラード』 スヴェトラーノフ&スウェーデン放送響 輸入盤 【CD】更に交響曲第7番「レニングラード」で、評価を上げました。しかし内向的な面も強く、4番の作風に通じる第8番。【送料無料】ショスタコーヴィチ / 交響曲第8番 コンドラシン指揮モスクワ・フィル(1967) 輸入盤 【CD】ベートーヴェンの第9番のような戦勝記念作品をとの期待が高まる中で、嘲り笑うようにさらりと諧謔的な第9番を発表。【送料無料】輸入盤CD均一 2500円ショスタコーヴィチ / 交響曲第9番、『ロシアの川』、『レニングラード生まれ』 ティトフ&サンクト・ペテルブルク交響楽団 輸入盤 【CD】またもや前衛芸術を糾弾するジダーノフ批判に晒されピンチに。ここでもやはり、第11番「1905年」、第12番「1917年」ショスタコーヴィチ / 交響曲第11、12番、他 ヤルヴィ&エーテボリ交響楽団 輸入盤 【CD】にて評価を回復。生命の危険を感じれば、社会主義リアリズムに乗っかった表題作品を発表して難を逃れるといったことの繰り返しに、かなり屈折した心情が伝わってきます。このように時代を追い掛けながら作品を観ていくと、作品が違って聞こえてくるのが不思議です。そして、映画「ドクトル・ジバゴ」を。ドクトル・ジバゴ 特別版 / オマー・シャリフ原作者のパステルナークは、この小説でノーベル文学賞の候補に挙がるも、ロシア革命を批判した作品としてソ連共産党が辞退を強制しています。医者であり詩人の主人公が、ロシア革命を挟んで様々に状況や自身に対する評価が変われども、絶えず自身の理想を追い求め、最期まで自身の心を貫き通します。一本のバラライカが、流浪の旅に同行するのも印象的。200分の大作ですが、凍てついた冬のシーンが多く、私のしもやけが、また少し広がったような気がしました。ヨミウリオンラインにて、長寿革命連載関連の写真ギャラリーで、弊寺が紹介されています。
2010.01.31
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およそ二年間にわたって行われてきた急傾斜地崩壊対策事業、昨夏の大雨による土砂崩れを経て、いよいよ寺の裏山にも手が入ることになり、県土木による施工法などの説明がありました。擁壁が出来る土地境界あたりの位置確認が主。景観がどうなるかと問題に思っていたカエデとツツジが茂る裏庭の斜面には、切土は無く、ごく一部分の擁壁で済むとのこと。ちょっと安心しつつ、帰り際に手渡された図面を見れば、裏庭斜面部分が緑色に塗りつぶされている。よく見れば、ジオファイバー工法が施される?とか。調べてみると、地面の崩落を防ぐために繊維や樹脂などを吹き付け、そこへ生態系を壊さぬよう、その土地に生息する草木の種子が蒔かれる工法。ちょうど、前の山にもそのような工法を施した箇所があり、その現場を見つつ裏庭の場合をイメージ。いつもいつも裏庭の斜面には草刈り機を回しているのですが、広範囲にわたる為、住職は必ず除草剤も散布。(除草剤の散布が、地表の流失と崩壊を招く一因になっているかもしれないのですが)普段はそのようにして、手入れが行き届いた景観を保っています。ところが、ジオファイバー工法を施工した一年後の箇所。今回の施工後、斜面に草刈り機を回すことは?更に、住職が除草剤を撒くようなことがあれば?手をこまねいているうちに草が生い茂る様を思い浮かべるや、裏庭は狸の巣になること間違いなしかと思いました。
2010.01.28
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昨朝、突然のサイレンに、何事かと隣のお寺へ大急ぎで自転車で走ってみれば、大がかりな消防訓練が行われていました。夕方には、隣の施設へ救急車が。訓練かと思いきや、遊んでいて大きなガラス窓を突き破ったやんちゃな子どもが、病院へと運ばれていきました。先日より、鈴なりとなった柚子の実を使って、初めての柚餅子(ゆべし)作りにチャレンジ。でも、いきなりの失敗?収穫時期が、少し遅く、完熟で落下を待つ梅の実とは違って、落下の頃にはブヨブヨの水膨れになって、腐りかけのものが多く、使えそうなものを探すのに一苦労。こちらの気候では、年末か、一月初旬の収穫がベストです。水洗いした後、蓋を切って中身を刳り抜き柚子釜を作ります。そして、以前作った手作りのお味噌に砂糖と胡麻を混ぜて、やや甘めに調整。柚子釜の中へ詰めていきます。柚子釜の中へは、7分目ぐらいで良いと聞いていたのですが、ちょっと欲張って9分目まで。30分から40分ほど蒸します。さてさてどうなったかなと鍋の蓋を取ると、なんとなんと中身がオーバーフロー。やはり、聞いた通りに7分目が適量で、二度目はほとんど溢れ出すことなく成功いたしました。ゆっくりと熱を冷ましてから、半紙で包んで日の当たらぬ風通しの良い場所に干します。が、オーバーフローした一回目の柚餅子は、水分が多すぎるのか、半紙が破れてポトポトと落下。やはり、多くの説明通りにキッチンペーパーで包むと、落下をくい止めることが出来ました。ところが今度はおば様より、物干しハンガーが汗臭いよと注意を。食品ですから臭いが移っては大変と、物干しハンガーを良く洗ってから、柚餅子を釣るし直しました。およそ一ヶ月半ほど待てば、出来上がりです。柚餅子作りで、注意すべき点のおさらい。1、柚子の収穫時期を間違えないこと。2、柚子釜の中身を欲張らないこと。3、破れやすい紙で包まないこと。4、物干しハンガーは良く洗ってから用いること。これで、来年からは、手間取らずに柚餅子作りが出来る はず?です。
2010.01.25
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先週、一度訪れてみたかった長門市の通地区に行って参りました。古式捕鯨で栄えた港町。以前、弊寺を訪れたくじら資料館の館長さんとお話をしてから、ずっと気になっていました。そのくじら資料館の裏手にある鯨墓。捕獲・解体されて母親の胎内より出てきた鯨の胎児が、埋葬されています。生きるために命をいただくことへの感謝と自然への強い畏怖の念は、心からの祈りとなったことでしょう。向岸寺には位牌と享保四年(1719)から天保八年(1837)の約120年にわたって過去帳が残され、捕獲された一頭一頭に戒名が付けられました。現在も年に一度、全ての戒名を読み上げての法要「鯨回向」が、行われています。丁重に整備され、今も息づく町の方たちの思いに、ただただ頭が下がりました。また先日、九博で行われている妙心寺展に行って参りました。道中、博多駅でふと目にとまった、覚えのある顔。ちょうど博物館のエントランス・ホールで鳴鐘会が行われまして、飛鳥時代に福岡で鋳造された妙心寺にある黄鐘調の鐘と、大陸への玄関口であった太宰府・観世音寺鐘の兄弟鐘の共鳴に浴することが出来ました。雅楽に於ける黄鐘調よりは、何ヘルツかピッチが高いそうです。双ヶ丘に庵を構えた兼好法師が聴いた妙心寺の鐘は、よく撞き込まれているためか、響きに様々なうねりが。一方、太宰府に左遷された菅原道真が耳にした観世音寺の鐘は、真っ直ぐに澄んだ響きが。鐘が鋳造された仏教伝来の頃をも思いつつ、余韻に浸らせていただきました。そして、芳澤勝弘先生による『白隠の禅画について』といったタイトルの講演会を拝聴。白隠禅師は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代の名僧。現在の老師方は、みな白隠禅師の法系にあり、現在の道場における禅問答は、全て白隠のスタイル。精力的な活動には驚かされるばかりで、膨大な書画と、著作や講本への書き込みが残されています。その一方、活き活きとした唐代からの禅とは違ってやや形式化されてしまい、良くも悪くも、一言一句、そのスタイルから抜け出せていないところが、現代の難点でもあるのですが、真言宗に於ける空海や曹洞宗の道元のように、あまりにも秀でた宗教者であった為に乗り越えられぬ壁になっているといえるかもしれません。画像がよく見えるようにと最前列に陣取るや、講演者の真ん前。もっと僧職の方がいらっしゃるかと思いきや全く居らず、先生は、ちょっとこちらが気になったようです。大きな富士山の下を大名行列が行われる図や、大きな達磨さんの画。富士山や達磨さんを仏教の真理と見立てて上求菩提下化衆生といったところを表しているのですが、一時間半では、まだまだ言い足りず。かなり砕いた内容ながら、一般の方の質問を聞いていると、なかなか本質的な意味合いを捉えることが難しいのかなとも思いました。講演後、少し挨拶を。今の時代、白隠さんに、もう一がんばりして頂きたいといった気持ちでいっぱいだと仰っておりました。そして、つい先ほど、正月前に話題として取り上げた英語ノートの教科調査官の方が、またふらりと寺の玄関に。やはり研修会の講師として招かれたご様子。手紙にてこちらの意見を述べるまでもなく、タイミング良くいらっしゃったので、寺の説明をしつつ、合間に英語教育についてのお話を。最初は、尋ねられることに、何処へ行っても・・・・と少しうんざりしたような態度。しかし、お正月に児童心理学を専攻する某大元教育学部長宅で伺った、「実験データから、6歳までで聞き取りの耳は固まってしまう。様々な音程や種類の音を聞く環境が、多様な言語理解につながる。従って本当にバイリンガルな子どもを育てたいのであれば、6歳までに教育することが必要なのだが、そのようなことを明言すれば、現代の教育システムがひっくり返ってしまうので、大きな声では言えない。」といった話や、ブログで頂いたいくつかの意見、更に一国の教育の根幹を左右する問題として捉えていることを伝え、他、名前を挙げつつ擁護意見や、反論に興味を持っていることを伝えると、どうしてこのようなお寺で?と目をパチクリして、かなりの驚き。最後に、事業仕分けで凹んでいないか心配していたのですがと伝えると、元気よく「私は打たれ強いから、大丈夫!」との返事。気持ちに無理だけはなさらないで下さいと声を掛けさせていただくや、やる気の漲る表情で寺を後にされ、こちらも安心しました。
2010.01.21
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結論はタイトルの通り。(イメージとして、弊寺ではなく、隣のお寺の画像を拝借)風邪薬がよく効きまして・・・パッと目が覚めれば、普段より明るい部屋の中。飛び起きてみれば、外は雪景色。どおりで明るいはずだと時計を見たら、とっくに7時を回っておりまして、どおりでどおりで明るいはずでした(汗)すでにマルも、散歩はまだかとスタンバイ。山門を開けると、隣の子どもらが、大はしゃぎで雪合戦。マルも嬉しくて嬉しくてすっかり遊び疲れてしまいました。
2010.01.13
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お正月早々、私の不注意で、マルが小さな犬のお尻にガブリと噛み付いてしまい、何針も縫う大ケガをさせてしまいました。悲鳴のような叫びに、隣の子どもらも驚き。出血がひどく、元々心臓が悪い犬で、命は大丈夫だろうかとの不安があったのですが、元気に回復したとの報を受け、取り敢えずはマルく収まっています。 一昨日は、一の坂川沿いにある赤れんがホールでのチェンバロ・リサイタルに行って参りました。フランシスコ・サビエルが、山口での布教の際、大内義隆にチェンバロの原型ともいわれるマニコルディオを贈り試奏したことが、日本で初めての西洋楽器の演奏といわれ、山口市はこれにちなみ、大内氏の家紋とサビエルの紋章をあしらったチェンバロを製作。たびたび赤れんがでチェンバロのコンサートが開かれていたようなのですが、私にとっては生チェンバロと共に初めてのことです。寺の玄関では、チェンバロ演奏のCDを流すこともしばしば。先日、多くの演奏家と交流がある新聞記者さんと、古楽器演奏についてあれやこれやと談義していたところだけに、期待は膨らむばかり。それにしても、世界を舞台に活躍する中野振一郎さんの演奏が、様々な援助もあって1500円で聴けることに驚き。前売りは、もちろん完売だそうです。静かに響く、ガルッピ作曲チェンバロ・ソナタからのアンダンテで、リサイタルの始まり。よく耳にするピアノの奇人?アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる同曲のピアノ演奏とはまた違い、楽器の音色に吸い込まれるような優雅さがあります。一方で、演奏者が得意とするロワイエ作曲「スキタイ人の行進」は、曲調の変化に富み、豪壮な表現。フランス革命以前、宮廷でしか演奏されなかった精緻な音楽ですが、ただただ雅やかなだけでなく、こんなにも曲想豊かでダイナミックな変化に富んでいたとはと驚きです。 休憩と調律を挟んでの後半は、全くロココ調からかけ離れたスコット・ジョプリンのラグタイムの一曲や、メリーウィドのワルツが弾かれました。中野さんにとってのデビュー・アルバムは、なんとスコット・ジョプリン等のラグタイム集。賛否両論が沸き起こり、『チェンバロの革命児』といったキャッチ・フレーズが。10年ほど前までの『チェンバロの貴公子』を経て、今頃は何も呼ばれなくなったとか。それにしても、合間の中野さんのお話は、関西人らしいウィットに富み、惹きつけられます。現在はさながら『チェンバロの漫才師』?といったところでしょうか。最後にまたロココの時代に戻ってフォルクレの組曲。当時、天使と称されたマレに比して、悪魔と呼ばれたフォルクレの「ジュピター」などは、原曲のヴィオラ・ダ・ガンバによるモコモコとしたイメージとは全く違い、F・クープランや、ラモーなんて甘いぜ!と言わんばかりに切れ味鋭くバリバリギラギラとへヴィメタのようなノリに痺れました。当時は、きっと破天荒な曲に驚いたことでしょう。演奏後、CDを購入して中野さんからサインを貰う際、知人のことを尋ねてみるまでは良かったものの、気分の高揚からか更に冗談で応える余裕もなく、会話はそこでプツリ。作務衣に雪駄と、ドレスコードに引っ掛かりそうな格好で、少し不思議そうに眺められました。【ポイント10倍】\2000以上で全国送料無料!!※代引き手数料を除く優しい恋わずらい~ヴェルサイユの音楽中野振一郎
2010.01.12
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本年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。27日に、お寺に於いて、ほとんどお坊さんばかりでのクリスマス会?を皮切りに、隣接施設での行事や接待もあって毎日賑やかに。年越しまでに沢山の薪が届き、これで不安無く年が越せると、おば様は大喜び。年越し蕎麦を集まった皆で食した後は、デザート用に解凍したクリスマス・ケーキにナイフを入れての年越し。鐘撞きは、昨年の倍の人数となりました。昨年までとは違い、年が明けても泊まり客が絶えず。なかなか手が着かなかった年賀状は、やって来た子どもに手伝ってもらっています(汗)
2010.01.03
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先日紹介させていただいた読売記者による佐々木先生へのインタビューが、ようやく記事になりまして、ネット上でも紹介されました。読売新聞・長寿革命総集編尚、上記リンク先には、年間通してのシリーズも全文掲載されています。一昨日は、人から勧められて久しぶりにテレビ番組を。「坂の上の雲」が、ちょうど日清戦争の回でした。途中、斥候部隊が敵に遭遇し、戦況を不利とみての退却戦。退却戦こそ難しいと言って、大隊長自らしんがりを務めるシーンがあり、思い出したことがありました。昨年だったか、陸自の連隊長さんと茶話の折、「攻める訓練ばかりではなく、退却の訓練は行わないのですか?」と私が質問。若手の幹部候補生たちが、固唾をのんで見守る中、「訓練に於いて、退くという選択は、絶対にない」との答え。「古代中国の兵法では、戦況が不利と見れば、さっと退却することも、作戦の一つ。車の運転も、前へ進むばかりでなく、バックが出来なければ免許証が取れない。(私はバックが下手ですが)いざという時は、退却を選ぶことも必要ではないか?」と応戦。 それでもすかさず、「訓練ですから、絶対に不利であったとしても、どのようにして難局を切り抜けるかと試行錯誤することに意義がある。そのような中で力を付ければ臨機応変、自ずと一番難しいといわれる退却戦でも、しんがりを務めることが出来るようになる」と、質問と答えがややちぐはぐのような気もしましたが、まるで禅問答の様に?言葉通り引き下がらず難局を強行突破されました。ゴラン高原へのPKO活動参加を経て、最年少で就任した連隊長は、4月より市ヶ谷へ移動しています。話変わって、その今年4月、ふらりと弊寺を訪れたとある寺院の寺庭さん(奥さん)。私が雲水だった頃は、中学校の英語教師で、途中から京都市の教育委員会勤めとなるも、ジャージ姿でマウンテンバイクに跨って疾駆する元気良いお母さんだったのですが、その日は、違和感を感じるほど華やかに正装。気質まで良く知った方なので、失礼を顧みることなく、思わず、「その格好で、一体どうしたのですか?」と質問。山口県の教育委員会から講演を頼まれてやって来たとの答え。「ええっ、講演?ホンマですか?」隣りには、ガードマン?いえいえ、県教委の方が付き人として、やけにペコペコしながら立っていて、口を挟む。「先生は、カリスマ英語教師として著名でありまして、今春より文科省の教科調査官に就任された方です」う~ん・・・んんん?絶えず元気よく、子ども相手に家の中でも英語で話しかけるお母さんではありましたが、???の驚きでした。しばらく春の事は忘れていたのですが、近日、小学校への英語教育導入への手引きとして今年4月に配布された「英語ノート」が、民主党による事業仕分け作業により廃止となり、小学校教員が動揺しているといったニュースあり。調べてみれば、英語ノートに関し、絶えず看板として担ぎ出され、矢面に立った奥さんへの意見も含め、賛否両論がずらり。興味深い意見この難局をどのように乗り越えるのか、少し心配です。
2009.12.22
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今年就任した宇部の檀家総代さん宅へ郵送しておいて欲しいと頼まれていた来年のカレンダー。3日間山口に滞在した住職を新山口駅へ送り届けた際、そのまま宇部まで持って行ってきますと住職に言ったところ、「家に総代さんが居なければ、無駄足になるぞ。それに、一度持って行けば、毎年足を運ばねばならず、大変だぞ。」との意見。「新山口からであれば、すぐですから。」とかなんとか返事し、小雪舞う中、宇部へと車を走らせました。初めての訪問ですが、今時は、パソコン等で、ピンポイントで間違うことなく辿り着くことが出来ます。玄関でサッと挨拶して帰る予定でしたが、せめてお茶でも飲んでいって下さいとのお言葉に甘え、家に上がらせていただきました。通された応接間の奥に、ちらりと見えた仏間。少し手を合わさせて下さいと頼み、分家ゆえ、まだ物故者がいない本尊だけの仏壇前に座り読経。僧侶による初めての読経だそうで、こちらも嬉しく思いました。その本尊の脇に置かれた小瓶。何だろうかと思いきや、硫黄島の戦いに於いて従軍医であった兄が玉砕した塹壕の砂が詰まっているとのこと。興味を示したところ、仏壇の引き出しから、戦死した兄の資料を取り出して下さいました。昭和45年の捜索の際、遺体の衣類に縫いつけられた名字と、傍に置かれていた手記から、当人と確認。文系志望であったものの、代々が医師の家系ということで、結局は医療の道に進まざるをえなかったというだけあって、手記には、海水と煮沸した雨水からリンゲル液を作った際の比率など医療関係のメモが残されているだけでなく、流麗な文章により塹壕での様子も書き記され、場の緊張感がひしひしと伝わってきます。文末には『負傷者ガ運バレテキタ。サア、ショウバイ、ショウバイ』と冗談まで。米軍に追い詰められたほぼ最北部の塹壕ながら、最期まで全く理性を失っていなかったことに、驚かされました。まあどうぞ、ご一服といって、小堀遠州流の盆点前を披露。100歳で亡くなったお茶の先生だった母より手解きを受けたそうです。毎日曜日には、仏間の炉に炭を起こし、釜を掛けるや二時間ほどの大掃除。松籟が聞こえ始めると、先祖の戒名を書いたメモ用紙を仏壇に立てて供茶。立派な位牌ではなくも、ひたすらにお茶を供える様を思うと、ただただ頭が下がります。また、総代さんは、医学部の元教授でありながらエスペラント運動にも関わり、普及に努めて来られた方。やはり運動に尽力され、海外にまで布教した柴山全慶老師とも交流あり。よく使い込んだ茶碗を手にしつつ、哲学や宗教にまで話が及び、80歳を越えるも、「今」を願う思いにキラキラと目を輝かせる様には、惹かれるものがあります。そして最後に、方眼紙へ横並びにひとりひとりの線が引かれた、本人を始め恩師や影響を受けてきた様々な方々の幕末以降、およそ150年間の年表を取り出しました。洋の東西を問わず、一人一人の歴史が縦横に交わる様を表にすると、今ここに在る自身の立脚点が、よく見えてくるとか。奥様によって、サッと用意された点心にも箸をつけつつ、不意の客ながら、あっという間の二時間を過ごさせていただきました。
2009.12.19
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たま駅長のような愛想はありませんが瞑想は得意ですでも、時々サボっています
2009.12.14
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すっかりボロ雑巾に。成道会の朝は、飯炊きが一番の早起きです。一週間伸び放題となった髭と頭髪の剃髪後、住職の居る隠寮へ挨拶に。住職は、ギロリとした目で私を見据えるや「(この一週間)どうだった?」と質問。こちらもサッと目を見据え、間髪入れずに「楽しかった~」と破顔微笑。住職も、ホッとした様子でお茶を勧められました。雲水さんたちにも、本当に楽しい一週間を過ごさせてもらいましたと挨拶。この日は皆、目が輝いています。よくお世話になる山内の和尚さんの所へ立ち寄ると、かつて知り合いだった設計士さんが、まさに断髪を行うところ。私も一刀を入れさせていただきました。帰路、湯波半さんからいただいた甘湯葉で思い出し、崇○寺へ。この秋就任したばかりの老師に、勝手口で会うことが出来ました。リュックから取り出した甘湯葉が入った大きなビニール袋を見るや、「托鉢してきたんやね。山口まで持って帰ったら重いだろうからね。」とチクリ。色々とご無理なさいませんようにとの呼び掛けには、「無理なんて、ひとつもしてないよ」との返事。お身体気をつけてとのくくりの挨拶には、「それは、お互い様ですよっ!」雲水時分と相変わらずのやりとりに安心です。付き添って本山の道場からやって来た雲水さんも、師匠は湯波半さんを通じてよく知った方。合理的で、道場内は、一般の方がほとんど介在しない本山道場とは全く違い、台所も、庭掃除も信者さんがお手伝いされるといった僧堂も面白く、今後、新しく入って来る雲水さんへの指導の仕方などで、雰囲気の出来上がっていく様が楽しみとのこと。その活き活きとした目付きには、こちらも嬉しくなります。僧俗が集まった白隠さんの松蔭寺と同様で、原点回帰のような。お師匠さんのように、やらされるではなく、最後には何事も楽しいと言える道場になれば良いですねと、勝手なエールを送り、最初、案内していただいた表情豊かな寺男さんにも丁重に挨拶し、山口へ戻りました。
2009.12.11
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天下の名僧・南天棒老師による「師家の試験を行おう」との意見に、「では最初に儂が、あんたを試験してやろう」と言い放ってやり込めた南針軒・河野霧海老師筆による「莫妄想」うちの道場は、厳しいだけでなくイジメが酷いなどと噂が立ち、近頃はほとんど人が入って来ないので、何とかして下さいよと現役雲水さんの意見。ではでは楽しいイメージで、帰ったら宣伝しておきましょうということで、攝心中に出てきたパティシュール・オーマエさんのケーキをご紹介。うちにやって来れば、毎日美味しいケーキが食べられます!初日 キャラメル・ショコラ二日目 イチゴのオペラ三日目 オーマエ・プリン中日 あっさりショコラ五日目 グロゼイヌ六日目 栗とさつま芋のコラボ攝了日 クリスマス・バナナティー後輩からは、こんなことをしても、効果があるのですか?との厳しい意見(汗)きっと20年後には結果が出るはずと、胸を張って豪語しておきました(笑)カレーは、毎度ながら気合いじゅうぶん。ところが、道場に於いても定番となった梅ご飯はベチャ飯となり、唯一の大失敗?毎朝のお粥に添えられる梅干しも、道場のものは、皮と種ばかりということで、見かねて葬式の後、山口から持参しました。ケーキだけでなく、美味しいカレーと梅干しを食べられることも魅力かな(笑)
2009.12.11
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いよいよ始まった攝心ですが、二年ぶりということで、なかなか感覚が戻らず。少人数ということで、前回と違って裏方も二人きりになり、ほとんど一人でもやり切れるぐらいの統括的な視点で、素早くこなしてしまう現役雲水さんは、見事に無駄無い動き。これでは、お手伝いどころか、足手まといにならないかと、私も必死です。ところが初日の昼食後、お葬式が出来たとの電話あり。檀家さん以外の方で、9月末に、もしものことがあればと頼まれていたのですが、住職に伝えておくのをすっかり忘れておりまして、「わしは、そんな話は聞いとらんぞ。」とプンプン。「そんなこと言っても・・・(人の死に目に何を言うか)」と引き下がらず、他に任せること無く急遽山口へ帰ることになりました。攝心の途中、泊まり掛けで外出するなんて初めてのこと。絶えず自分と向き合ったまま静謐な時間を過ごす塀の中とは違い、一歩外に出れば、多くの観光客のざわめきが、全身に突き刺さるような感覚に包まれます。たまたま、開山塔所寺院の住職とすれ違い、立ち話を。道場だけでなく、お寺に入ってからも、管長を務めた住職の身の回りの世話など、かなり苦労を重ねてこられた方でもあり。ニコニコと笑いつつ「修行も良いけど、檀家さんとも向き合ってあげて下さいね。」の言葉には、スッと響くものがありました。丁重に葬送の儀を済ませ、また山口から再出発。途中、今度は地下鉄の烏丸御池駅で、コンサートの勧誘に会いました。京都コンサートホールでのリラクゼーション系音楽?修行をしなくても、この音楽を聴くことで心が楽になるんですと、かなり必死。私はこれから修行に行くところ。修行をしても、こころ一つで楽ですよと応えるや、不思議そうにこちらを眺めておりました。夕刻に道場へ辿り着くと、ストンと何事もなかったかのように、また続きの始まりです。
2009.12.11
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道場を出てからの最初の年は、自分から「行きたい!」と言うも断られたのに、住職から「来い!」と言われて、行かされるような気持ちであれば、絶対に行かないと言い張っていた臘八大攝心(その1、その2、その3)ですが、この度は住職から不意に指定席の新幹線往復切符を差し出され「来たらええよ」と肩透かし。温室での促成栽培よりも、露地栽培の野菜の方が、よっぽど味わいが有る!と、近頃は絶えず真っ向から住職に意見。受け取ることにやや気後れするも、短期間ながら参加してみたいというOBや、少人数となってやり繰りに困る後輩たちの少しでも手助けになればと思い直し、とことん裏方の飯炊きに徹すると心に決め、寺の留守番をはるばる和歌山から呼び寄せた親父(潮岬と盆地の山口との気温差は5℃)に任せ、二年ぶりに参加させていただきました。京都へ辿り着くと、先ずは一番に花大へ。先日、本を頂いた佐々木先生のところへ御礼を言いに。実は、その二日前、私を取材した新聞記者が、シリーズ「長寿革命」の総集編ということで先生を取材。その際に、私が先生のゼミ・クラスだったと知り、因縁に驚いたとのメールを記者さんから京都への出掛けに頂いたところでした。研究室を覗くや、先生は大喜び。「師弟で特集記事に掲載されるなんて、本当に嬉しいよ!」「先輩からは、誰からも注意できない裸の王様にならぬよう、これらの一件はもういい加減にして陰徳を積むようにと、お叱りの意見もありました」と伝えたところ、すかさず「何を言うんだ!自分から売り込んでいったわけでもないのに。社会の求めに応えて自ずと還元されていっているのだから、何も迷うことはない。」今、向き合っている岐路のことも後押し下さり、攝心へも何だかすんなり。良き師、良き先輩方に囲まれ、有り難い限りです。尚、記事は5日に掲載される予定でしたが、急遽普天間基地問題の特集に差し替え。その後、気配が無いので、明日12日の朝刊かもしれません。その後も、様々な縁ある方々の所へ立ち寄りつつ、夕方になってようやく道場へ。闇への時間へと変わり行く中で聴く木板の一音一音に身の引き締まる思い。いよいよ攝心の始まりです。
2009.12.11
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来月1日からの臘八大攝心へ参加するということで、来月10日頃まで、記事のアップは、休みます。二年ぶりということで、体力が一週間持ち堪えられるかどうかは、ちょっと疑問・・・気持ちだけは日に日に高まっていますが。 生物学者と仏教学者七つの対論先日、以前紹介させていただいた佐々木閑先生より、近著『生物学者と仏教学者 七つの対論』が、届きました。遺伝学を専攻する生物学者、斎藤成也さんの視点と、仏教学者である先生との対論。京大工学部の出身でもある佐々木先生と、人文系にも詳しい斎藤さんといったお二方の愛読書が、古代・ギリシャ哲学を幹とした王様と仏教哲学の長老が討論する『ミリンダ王の問い』とのこと。物質と精神、意識と無意識、生と死、科学と宗教における絶対的存在、科学と宗教の重なる部分、科学と宗教の将来、科学と宗教といったテーマで、対論を繰り広げられますが、二人は高校の同級生だそうです。 また、先日は映画、『マイマイ新子と千年の魔法』を観に行って参りました。 マイマイ新子高樹のぶ子の小説をアニメ映画化した作品で、昭和30年代の山口県防府市が舞台。国衙のあった古代の多々良(防府の旧名)とクロスオーバー。古代、昭和、そして自分が経てきた『今』と、時代は違えど、ちょっと懐かしい子どもの頃の感覚が、呼び覚まされます。 そして、昨日は久々に購入したDVD、フォト・ジャーナリストの広河隆一さんの初監督ドキュメンタリー作品、『パレスチナ1948-NAKBA(ナクバ)』を観ました。 パレスチナ1948 Nakba 【DVD】かつて1960年代に、イスラエルのキブツでユダヤ人と共同生活したことがある監督ですが、そのキブツがパレスチナ人の迫害された場所に建っていたと知り愕然。以後、40年間にわたってパレスチナを取材してきた記録を映像と写真で綴っています。130分、ただひたすら、淡々と見入ってしまいました。
2009.11.28
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先日、9月に釜山の梵魚寺で出会った崔さんが、韓国人の仲間と共に8名で、山口を訪れました。韓国からは、日本の大都市や大型観光地へのツアーは有るものの、山口・萩はほとんど知られぬ街だとか。大内氏が祖先を百済から仏教を伝えた聖明王の第三王子であるとした琳聖太子を祖とするなど、朝鮮半島との交流の玄関口として結びつきが強かったはずなのですが、朝鮮出兵の折に大軍を率いて攻め入った毛利輝元や、初代朝鮮総督府の総監であった伊藤博文などに強く縁ある場所として、やや感情的に敬遠しているのかもしれません。山口駅への出迎えは、萩焼・宇田川さんの息子さんと、その友達の県庁マンさん。お寺にて、カレーでの昼食を振る舞った後、萩へ移動しました。萩焼の祖の一人・李敬の流れを汲む坂高麗左衞門窯へは、私も初めてのこと。そういった場合、手土産は、馴染みのお茶屋さんで尋ねてみるとよいとの提案をいただきまして、事前に檀家さんのお店へ。「ああ、坂さんですね。良く存じています。訪問する人数が、10人でしたら、抹茶の種類は、こちらをこれぐらいが良いですよ。」と教えていただき、そのようなことも、ひと勉強ありました。さっと掃き清められた入り口には、スッと背筋が伸びる緊張感が走ります。ところが、後ろを振り向くと、車から降りるやいなや、皆一斉にタバコをプカプカ。よく考えてみれば、こちらは訪問客としての心構え。後ろの皆は、旅行客としての態度。日本文化に対して、皆さん少しは理解があるのかなと思っていましたが、やや違う雰囲気で、正直一体どうなるやらとの不安も。日本語を話せる崔さんを除いては、全くの異文化交流です。11代坂高麗左衞門さんの三女さんの出迎えで、先ずは座敷に上がらせていただき、お抹茶を頂戴。皆、お茶から飲み始めようとしましたので、慌てて日本でのお客としての作法として、お菓子を取ることを教えました。皆、飲み干した抹茶碗を無造作に手に取ると、「韓国に於いては、これらは雑器(マクサバル)でした。どうしてこのような雑器が日本に於いて珍重され、陶工を連れ帰ろうとするまでに至るのかわからない」と、率直な意見。最初の窯跡に強い思いを感じるあたりにも、秀吉の嗜好を発端に無理矢理連れて来られた李兄弟などへの同情の念が被さり、萩焼の良さや、枯淡に親しむ侘びの心は、理解し難い溝ともなっているように感じられました。初代からの作品が並ぶ蔵の中や、現在使用している登り窯など、最後まで丁寧に対応して下さった坂さんに、感謝です。二泊のうち一泊は、お寺でどうぞということで、貸し布団を用意。夜は、今回のご縁の発端ともなった山口市日韓友好協会の初代会長を務めたおじ様をゲストに迎え、温泉豆腐で接待させていただきました。ところが、翌朝の朝食時、問題が勃発。お寺ということで、お粥さんにサツマイモのきんぴらと、南瓜の煮物を出したのですが、何だか口を尖らせて崔さんに激しく不平を言う方あり。私にとって韓国語が理解出来ないことが幸い?「昨夜は雑炊、今朝は粥、昨日はカレーと汁物のような飯ばかり。おかずの数も少なすぎる!」と言っていたに違いなく、崔さんから昼食と夕食の内容について細かな注文を。僧侶の私は、どこでも何でも受け入れてしまうのですが、やはり一般の方は、国を違えど、かなり食べ物に対するこだわりが強かったりするんだなあと痛感。旅行先の食事となれば、私の妹などでもそうですが、ずっと覚えていたりして、食べ物の恨みは恐ろしいと、つくづく思いました。二日目の夜は、こちらが接待を受けまして賑やかに。最後は、歌舞音曲禁止?などと言う間もなく久々のカラオケへ突入しまして、やはり歌を通じて心を通わすことの素晴らしさを実感。マイクの奪い合いにならない限り、お互いの垣根は、ありません。 今回のような草の根交流を通して試行錯誤を繰り返しつつ、ちょっとした違いを認め合いながら、お互いに親しみを覚えていくことを願って止みません。
2009.11.25
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読売新聞さんによる、年間を通しての特集「長寿革命」死生観をテーマにした第4部の連載がはじまりました。取材を受けた件のみならず、様々な事柄を絡めつつ、どのように提示されていくのかが楽しみです。ちょうど今週末には、総代さんの一周忌法要ということで、関わり合った皆がまた、気持ちを新たにすることでしょう。昨年、看取りに関しての最初の記事で登場した「大笑」の軸を持参した表具師さんが、今年は「夢」のお軸を携えて、いらっしゃいました。住職の帰寺、その後は韓国のお客さんたちを案内ということで、アップは少し休みます。
2009.11.17
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先日、お招きがありまして、室積に行って参りました。峨眉山の散策中に見掛けた相撲の土俵跡。ここで数年前まで奉納相撲の大会が行われていたそうですが、近隣企業の相撲部廃止に伴い中止に。石垣を積み上げた観覧席は、半擂り鉢状の急傾斜で、皆お弁当を持参し楽しんだそうです。鼓ヶ浜。こちら、何度も訪れながら今まで気が付かなかったヤマト君。名前からのイメージとは違う洋犬ですが、本当におとなしく、誰にでもなつくそうで、一緒に散歩しました。また、本日は恒例となった七五三。隣の子どもら4名の御祝いをお寺で行いました。にっこり笑ってと言われれば言われるほど、表情がひきつっていく子も。これからますますやんちゃに磨きがかかっていくことでしょう。
2009.11.15
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朝、境内を掃き掃除していると、行商風の方が、参道を真っ直ぐこちらへ向かっておりました。背中に抱えるのは、伸縮自在のはたきであろうかと、以前無理矢理押し付けられそうになったことを思い出し、少し警戒。本堂前で、マルが飛びつかないかとも心配になり、そのおじさんの肩をよく見ると、はたきではなく、一羽のオウム(マメコバタン)。観音堂・菩提樹下のお釈迦さんの前で、記念撮影を始めたので、私もカメラを手にして近付きました。大阪の路上では人気者のオウムだそうで、現在は全国を巡業中とのこと。色々尋ねていると、ジャッキーの芸を披露して下さいました。鉄琴を叩けるそうです。万歳!と叫んで万歳したり、指先にあわせてゴロンと寝転がったり。ベッカム!と呼べば、かつてのベッカム・カットの様にピンととさかを立てます。こてこての大阪のノリですが・・・現在は13歳で、40年ほど生きるとか。おば様曰く、「飼いたいね~」ヤギの件では、散々反対されましたが、オウムは、肩に乗せてもらうや『ビルマの竪琴』を思い出して、ジーンと来たそうです。「じゃあ、飼いましょう!」と答えまして、早速にネットで調べてみると、コバタンは15万円。他のオウムも、50万程度。ワシントン条約で規制がかかり、ほとんど手に入れることは不可能なようです。そういった一連のやり取りで、ほったらかしにされたマルは、ずっと不服そうに眺めておりました。
2009.11.10
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良寛さんが若き頃修行したことで知られる倉敷市玉島の円通寺へ、観音霊場会の合同法要に参加して参りました。良寛さんの故郷、向かいは佐渡の日本海に面した出雲崎とは、また違い、陽光眩しく映す瀬戸の海を見下ろす高台にあるお寺。行基菩薩も修行した地といわれ、大きな岩がゴロゴロしています。お砂踏み。今回は、禅宗・曹洞のお寺ですが、様々な宗派が集まるということで、天台の声明も皆で唱和。え~え~え~え~~~え~~え~~~~~~~~えっ?と、未だなかなか上手く唱えられません・・・普段全く縁が無いからか、修験道が行う柴灯大護摩には、毎回興味深く見入ってしまいます。今回、中国普陀山からいただいた観音像。ようこそ、おいでませ!と、暫くは、玄関にて多くの方を迎えます。
2009.11.08
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崔さんが送って下さった、『雨森芳洲』のハングル訳書釜山梵魚寺で二ヶ月前に出会った文化観光解説士の崔さんよりメールがありまして、山口に残る古来からの朝鮮半島との交流を訪ねるといったテーマで、友人数名と共に今月末、山口へいらっしゃることに。連絡を受けた日、たまたま親しい市文化財保護課の職員が寺へ参りまして、今回の話をしたところ、是非とも協力させて欲しいとのこと。そして、早速に近くの様々な文化施設へ下調べに回りました。また、本日たまたま和尚さんの集まりがあり、萩から来た和尚さんに、萩焼の古窯について尋ねたところ、文禄・慶長の役で朝鮮より連れてこられた萩焼の祖である李兄弟の弟・李敬の流れを汲み、古窯を所有する坂家が檀家さんとのこと。その場で直接、電話連絡を取って下さいまして、古窯跡のみならず古萩も含めた代々の坂高麗左衞門の作品を見学させていただくことになりました。お寺にも投宿していただき、朝鮮通信士の時代にも負けぬ、これ以上ないおもてなしを・・・・・というより、私が一番ワクワクしながら楽しんでいるのかもしれません。
2009.11.03
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先日、岡山へ後輩の晋山式へ行ってまいりました。以前うちの住職が、招かれざる客として、おば様代理で結婚式に出席した因縁あり。今回は、住職だけでなく、ほんまもんのおば様も出席する予定だったのですが、二日前より腰痛で這うような状態に。当日朝、出発時間直前まで迷っていたのですが、「馬子にも衣装と言いますが、おババにも衣装を」などと冗談を言って、この日の為に用意していた貸衣装を着せることまでは出来ました。 結局、無理はせず、皆さんによろしくお伝え下さいということで、おば様の付き人と成り切るはずだった私が、デジカメに写ったおば様の写真を挨拶代わりに。寺へ戻るや、おば様に報告。後輩や、お稚児さんたちの写真に見入っておりました。こちらは、帰り掛けに立ち寄らせて頂いた先輩と娘さんです。
2009.11.01
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先日、6月は留守だった山主のところへ、人吉君を連れて(連れられて?)泊まり掛けで挨拶に行って参りました。今月より、正式に弊寺の弟子になり、改めて廣徳寺で小僧生活を。通常であれば、道場への入門までは、弊寺で面倒を見るものですが、彼の縁もあって来年3月までは、預かって頂くことになりました。羽田空港で待ち合わせしていたのですが、第一ターミナルと第二ターミナルが有ることをうっかり忘れていて、最初から蹴つまずき、おまけに地下鉄では、乗り換えがあることを確認せず、普通であれば、一時間少しで辿り着くはずが、3時間もかかり玄関に立った時は大汗。「挨拶の包みも何も、持って来ないように。法衣を着てくるようなことも無いように。」とのことで、作務衣姿でリュックを背負ったまま、知客寮(接客室)に通されました。全く気負うことの無い姿勢といい、絶えず腹の底から響かせる発声といい、間違いなく長年修行を積み重ねて来られた方で、久しぶりのカラリとした商量問答に、ぐんぐん引き込まれます。また、お手伝いさんたちの話では、何人かお弟子さんが居たけれど、最後まで残った者は一人もおらず、皆逃げ出してしまったとか。今回も、人吉君を預けるにあたり、廣徳寺出身の某管長さんより、「本当に大丈夫だろうか?」と心配されてはいたのですが、人吉君に「逃げる前には、私に一報するように」と言うや、大笑い。きっと大丈夫です。和尚さんも曰く、「彼がこちらで修行するというよりも、わしの方が修行させられるよ!」徹底、腹を割っての「一重山尽きて又一重、話り尽す山雲海月の情」の一念に納得し、廣徳寺を後にしました。布団を干すのに一番陽当たりが良いのは、近衞家の墓所。「総理大臣と名指揮者の前に、布団を干せるなんて羨ましい!」と、思わず口走ってしまいました(汗)和尚さんの愛犬「黙念」和尚さんが入る予定の墓前に、黙念の姿も生前から刻まれています。支院の圓照院は無檀家ながら、信者さんの寄進により、様々な意匠を凝らした建物となっています。本尊は、一瞬目を疑い、こちらで詳細を述べられぬほどの驚くような仏像で、見惚れてしまいました。本尊様から「連れ帰って欲しい」との声は、残念ながら、聴くことが出来ませんでした。廣徳寺が元あった場所の支院・徳雲院は、台東区役所となり。関東大震災、東京大空襲を経て、現在はビルとなっています。こちらも無檀家ながら、区役所と提携し、葬祭施設としても利用されています。
2009.10.23
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