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中高年サラリーマンからの行政書士 独立・起業の舞台裏
第1話(改) 指切りげんまん
1.
「遅いなあ」
アサミはもう何十回目か判らないが、コンパクトを使って隠れている路地から表通りをうかがった。
「どこか行っちゃったのかなぁ。見逃すはずはないんだけどなぁ。まさか裏から出て行ったってことはないよね」
アサミはこれも何回目か判らないが、時計を見る。
「ワ~ッ。もう3時間以上も経ってるじゃない。ほんとにまだ居るのかなあ」
季節は1月の下旬。時刻は夕方。彼の後を尾行(つけ)てきて、ビルに入ったのでここで待ち始めた頃は日も当ってまだ暖かかったけど、だんだん日が傾いてくるにつれ気温も下がってきた。今日はお気に入りのピンクの超ミニスカートのスーツで決めてきたアサミは足元からどんどん冷え込んで、だんだん立っているのもつらくなってきた。黒いハイヒールの爪先が凍えて感覚がなくなってきている。卵形の整った顔立ちがこわばっている。寒さで涙目になっているお陰で、せっかくじっくり決めてきた目元の化粧も崩れ気味だが、逆にひとみが潤んで、これはこれで色っぽい。
「来た!やっと来た」
その後しばらくしてアサミは隠れている路地から再びコンパクトの鏡で通りを見て小さくつぶやいた。いつ出てくるか判らないので動く訳にもいかず、もう何度も違う方向へ行ってしまったのではないかと不安になりながらも待っていた甲斐があった。
実はおとといも一度同じように待ち伏せたが、その時は1時間くらいで出てきたのに、今日は3時間半も待たされた。しかも一昨日は他の人と一緒に出て来てしまったので結局声が掛けられなかった。
でも今日は一人。やっとチャンスが巡ってきた。アサミは3時間半も待った足の疲れや、諦めかけていたのが大丈夫だった事での安心感から半泣きになりそうなのをぐっとこらえて、かじかむほほに精一杯力をれて、ここ数日練習してきた飛び切りの笑顔を作りながら、タイミングを計って通りに飛び出した。
「セ・ン・セ!」
「っ!びっくりした。いやぁ~驚いた。誰かと思ったらアサミちゃんじゃないか。久しぶりだけど、こんなところで何してるんだい? まさか押しかけ同伴じゃないだろうな。残念だけど今日はお店には行けないよ。」
声を掛けられたのは轟幸太郎。行政書士である。アサミの勤めるキャバクラにはお客さんに連れられて過去に何回か来た事がある程度で、同伴などはしたことがない。
「嬉しい!、アサミのこと覚えてくれてたんですね。でもぉ、今日はお店のお仕事じゃないんですぅ。実は…
「ジャーン!!」
彼女がそう言いながらバッグから取り出し、水戸黄門の印籠のように幸太郎の目の前に差し出たのは一枚のはがきだった。
「何だ?」
幸太郎はそう言いながらよく見ようと少し体をかがめてはがきを見た。行政書士試験の合格通知だ。
「行政書士? 合格通知ぃ!?」幸太郎は半分裏返った声でそう言うと体をかがめたままアサミを見上げた。
「センセェ。私を弟子にして!」
「弟子ぃ!?」今度は完全に裏返っている。
「そう、弟子。ワタシ立派な行政書士になりたいの。だからセンセイの弟子にしてください。お願いしますっ!!」
彼女はそう言うと、深々と頭を下げた。
「弟子なんて冗談じゃない。それに急に行政書士になりたいなんて突然言われても‥‥‥。」
幸太郎はいきなりの話の展開について行けず、どうしていいのか判らないので誰かに助けを求めるように周りをきょろきょろ見渡したが、もちろん助けてくれるようなものなどいるわけもない。
それどころか、道の真ん中で中年のうだつの上がらない風采の男に、ピンクの超ミニスカートのツーピースにハイヒール、派手なアクセサリーを身に付けた、いかにもホステス風の女の子が深々と頭を下げているという情景に、徐々に回りも好奇心を持ち始めたようで、じろじろと視線を向けはじめていた。これじゃ店の借金の取立てか何かにしか見えない。
「とにかくここじゃまずい」そう言うと幸太郎はアサミの手を掴んで近くの喫茶店に飛び込んだ。
「じゃあ、病気のお母さんの治療費を払うためにキャバクラでバイトしながら、昼間は大学に通ってると言う訳かい」
幸太郎はコーヒーカップを手に持ったままそう言った。彼女の父親は町工場を経営していてそれなりに裕福だったのだが、人がよく、頼まれたら嫌と言えないところがあって、頼まれて連帯保証人になったところの事業が失敗し、その借金を返すために工場も家屋敷も失ってしまったのだ。その上それでも残った借金を返そうとして昼夜を分かたず働いたことが崇ったのか、彼女が小学生の時に過労死してしまった。
残された母親も女手ひとつでアサミを育てようとして同じように過労からくも膜下出血で倒れ、いまだに植物人間状態で入院している。
「そうなんです。だからワタシ法律のことが勉強したかったんです。両親も法律のことをもっと知ってたら、こんな事にはならなかったんじゃないか。法律を知っててうまく利用してるやつらがいい思いをし続けてるんじゃないかって。だから母が倒れた時に高校を辞めて就職せずに逆に大学に行こうって決めたんです。」
見かけによらず強い娘なんだな、そう幸太郎は思いながらこう答えた。
「話はわかったが、弟子を取ると言うのは勘弁してくれ。うちの事務所はとても補助者を雇える状態じやないし、それに学校とお店とうちの事務所と3つの掛け持ちはとてもできないだろう」
「もう行政書士の資格をとったから大学は辞めてもいいんです。」
「何で? 勿体無い。せっかくここまで来たんだから卒業しなさい。」
「いやですぅ~。絶対にセンセイの弟子になるって決めたんだからっ」
2.
およそ1年前
「そうなのよ。なんて言うかカツコイイって言うんじやないけど、頼りになるって言うか、とにかくステキだったのよね~」
アサミの隣でカウンターに肘をついて手を合わせ、斜め上向きに遠くを見ながらそう言っているのは、アサミの友人の絵美である。
絵美はアサミより10歳ほど年上だがアサミの勤めるキャバクラの近くのコンビニで働いていて、アサミがお店帰りによく寄るので自然と話すようになり、いつしか夜中のファミレスなどでこうやって会うようになったのだ。
「ご主人、それは違うんですよ」絵美はオクターブを落として真似して見せた。
「ご主人、それは違うんですよ」
幸太郎はまたかと言うような顔をしながらそう言った。
「6ヶ月以上継続して勤務している従業員は、8割以上の時間勤務すれば、その勤務形態にあわせた日数分、有給休暇を取ることができる事になってるんです。労働基準法でそう決まってるんですよ」
「しかしこいつは従業員じゃないぞ。ただのパートじゃないか。パートに有給休暇なんて聞いたこともない」
コンビニの店主はあごで絵美の方を指しながらそう言った。
「パートやアルバイトも立派な従業員ですし、これは正社員だけじやなくパートやアルバイトでも適用されるんです。違反すると罰金ですよ」
幸太郎は食い下がる。
「でも俺は聞いてないぞ。休暇を取りたいって主任に言ったかも知れないが、俺は許可はしてないからな」
「有給休暇は労働者の権利なので許可はいらないんです。申告すればいいんですよ」
「そんな…。勝手に休まれたら店が回らないじゃないか。何か日にちを変えさせる事ができるって聞いたことがあるぞ。商店街の集まりで誰か言ってたような。」だんだん店主の言葉から覇気と怒気が抜けてきた。
「時季変更権の事ですね」と幸太郎。
「時季変更権が認められるには、代わりの要員を用意しておくとか、本人が休める環境を整備していて尚且つ緊急事態などどうしても業務に支障が出るような場合、たとえば何人かでまとめて休暇を取るとか言ったような特殊なケースでしか認められていません。これは判例で確定しています」
店主は諦めたといったように天井を見上げた。
「でも実際店はこいつが居なくて困ったんだ。店の規定でも休んで迷惑かけたら給料1週間分の罰金って決めて、この通り張り紙してるんだ。」と事務所の壁の張り紙を指差した。
「休暇は取れても、罰金は払ってもらうからな」店主は少し元気を取り戻して言った。
「これは賠償額を事前に決めている就業規則になるので、法律違反です。無効ですよ」幸太郎は平然と受け止める。大体皆同じようなパターンだ。一般商店などでは労働基準法など雇う方も雇われる方も理解していない。だからこんな規則や勤務状態がまかり通っている。
「そんな‥・。じや俺はどうしたらいいんだ」
「簡単ですよ。休んだ日の未払いの給料と罰金として差し引いた給料1週間分を払ってくださればいいんです」
「何だそりゃ。他に方法はないのか」
「ありませんねぇ」幸太郎は取り付くシマもない。
「わかったよ。払えばいいんだろう、払えば」
「で、払ってもらったの」これはアサミ。
「うん。轟さんが言ってくれて、その場でね。」
「轟さんって、その交渉してくれた人?」
「そう、轟幸太郎さん。これが名刺よ」
そう言いながら、絵美はバッグの中の財布から1枚の名刺を取り出してアサミに見せた。
「轟幸太郎。行政書士。各種法務コンサルタント、ねぇ」アサミはつぶやいた。
「ねぇ、この行政書士ってな~に?」絵美に聞いてみる。
「よくは知らないわ。でも弁護士みたいに法律の事を色々する人みたいよ。法律はアサミの方が専門でしょう」
「法学部って言ったってまだ2年生だから、ほとんど勉強してないんだもん。で、どこで見つけてきたの?」
「プログでよ。プログを渡り歩いていたら『トラブル相談』みたいな日記を書いている人がいて、そこから辿って行ったのよ」
「そうか、絵美さんってパソコンやるんだもんね。私なんか全然わかんないから尊敬しちゃうなあ」
「やるって言うほどじゃないけどね。昼間時間があるからよくいろんな人のプログを読んでるだけよ」
絵美の夫、と言っても正式には結婚していないようだが、は腕のいい菓子職人らしいが、腕に自信があるのと短気なところが災いして、すぐに店主や仲間達とけんかしてしまい、仕事が続かないらしいのだ。そのため昼間パチンコなどに行っていることが多いのだが、そのくせ絵美が日中出かけるのを嫌っているらしい。自分が帰ってきたときに絵美が居ないとだめらしく、一度など絵美が買い物に出かけていたら、ひどく怒って殴られたこともあったという。
だから絵美は日中は部屋でインターネットをしたりして時間をつぶしているらしい。ただそれでは食べていけないので、夜中にコンビニで働いていると言う事だった。
「でもお陰で助かったわ。今月は彼がギャンブルですったらしくて、結構厳しかったから」
絵美はアサミが返す名刺を受け取ろうとして、顔をしかめた。
「大丈夫?。手首まだ痛むの?」
絵美は自転車で転んだ、と言っているがアサミは信じていない。どうもまた殴られたらしいが、アサミが「別れたら?」と持ちかけても、姉さん女房らしく「あの人私が居ないと何もできないから」とうつむいて恥ずかしそうに言っていた事があるくらいだから、相当惚れ込んでいるらしい。日中はだめで夜中は出かけてよいと言うのもこの二人の七不思議のひとつだが、夫婦喧嘩は鬼も食わないって言うくらいだから、恋人や夫婦の問って外から見ただけではわからないもののようだ。
「でもそんな事があったんじゃあ、お店も居づらいんじゃないの?いじめられたりしてない?」
「それがさぁ。店長が経営者は不公平だとかぶうぶう言うもんだからさぁ、轟さんが別の日に法律解説みたいな事をしてくれて、それで店長も納得したみたいなのよ。結局そのまま顧問だかコンサルタントだかになって貰ってるわ。お店の規則も色々変わったし、店長もちょっと見直したわ」
「へぇ~、行政書士かぁ。こんな資格があるんだぁ。ちょっと調べてみなくっちゃ」
3.
アサミは『街の法律家』という行政書士の仕事に興味を持ち、色々と調べていくうちに、弁護士以外にも法律系の資格が色々とあることが分かってきた。でもその中で行政書士が一番面白そうじゃないか、一度行政書士に会って実態を聞いてみたい、と思っていたところへ偶然幸太郎自身が別のお客さんに連れられて店にやって来たのだ。
もちろんアサミとしてはこの天の配剤を逃すわけもなく、行政書士のことや幸太郎のことをしっかり聞き出し、自分の進路として行政書士が理想的であること、指導を受けるのは幸太郎が適任であることを確認しておいた。そして、行政書士試験を仕事と学業の合間を利用して独学で勉強して試験を受けたのだった。幸い法学部で法律を勉強しているし、学校でも公務員試験の対策の一部として受験を推奨していたので、勉強はやり易かった。
そして、試験後の自己採点で合格が判ると、今度は開業に向けての情報収集と幸太郎を指導者・コーチとして口説き落とす作戦を綿密に立て、今日こうやって幸太郎に弟子入り表明していると言う訳だ。
幸太郎としてはやけに根掘り葉掘り仕事のことや幸太郎のことを聞いて来た記憶があったが、実はそういう理由からだったと今わかったようだった。当時は一緒の社長さんがヤキモチを焼くほどもてたと勘違いしたが、世の中そう甘くはなかったと悟ったらしい。
「同じ匂い、か」
「えっ?」
「いや何でもない。
「だから、補助者はいらないって言ってるじやないか。だからまず大学を出て、それからどうするかゆっくり決めても遅くはないだろう?」
「さっきも言いましたけど、本当は弁護士にもちょっと憧れてたんですよね。その開業資金のためにお店に勤めるようになったっていうのもあるんですけどね」
「そうそう、弁護士を目指す方がいいと思うよ。行政書士なんてそんなに儲かる仕事じやないし」幸太郎は渡りに船とそう言った。
「でも司法試験は難しそうだし、行政書士っていう天職も見つけたし」アサミはウインクした。そろそろ決め所だ。
「弁護士だって司法制度の改革でなりやすいように変わっていくよ。法科大学院に行くという方法もあるし。そのうち行政書士より人数も増えるかもしれない」
「そうなったら、食べていくのが余計大変じやないですか。それにその時は行政書士のほうが希少価値になる訳でしょ」
「わかったよ。補助者として雇う訳にはいかないが、もしアサミちゃんが開業する時は、提携事務所ということで仕事のことは色々教えてあげるよ」
所詮アサミの若さと熱意に幸太郎がかなうわけもない。最後には結局こう言わされていた。幸太郎としてはこれで時間かせぎができる、そのうち諦めるかも知れないと踏んでいたようだが、アサミの返事は意外なものだった。
「うれしい!やった-。じゃ早速準備に取り掛かりますから、開業する時の注意点とか近いうちに教えてくださいねッ。約束ですよッ」
そう言うとアサミは右手の子指を差し出した。幸太郎も仕方なく付き合う。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます。指切ったっ」
4.
「いいかい、前にも行った通り、この”身分証明書”と”登録されていないことの証明書”というのはどちらも被後見人や保佐人でない事を証明するためのものなんだ。身分証明書は本籍地から、登録されていないことの証明書は法務局から入手する。同じ意味合いの文書だけど、制度が変わったので2種類必要なんだよ。こんな感じの文書は他にもいっぱいあるから、これから色々出会えるよ。
「それと写真と住民票、戸籍抄本、事務所の賃貸契約書を用意して、あとは試験研究センターから合格証が届いたらそれを持って行政書士会に申請に行く、と言う段取りになる」
「もう一回おさらいすると、1月の中旬に合格発表があり、そのあと大体1月の末から2月のはじめにかけて合格証が届くはずだ。登録にはこの合格証の原本の提示が必要だから、登録申請は早くて2月上旬になる、と言う訳だよ」
幸太郎はアサミに頼まれて開業までの手続きを前に一度やっているが、申請直前の再確認を事務所でやらされている。
今日のアサミはお店が休みということもあり、おとなし目のスーツ姿だ。事務所に出入りするのにあまりホステスっぽい格好はまずいと思ったのと、幸太郎に対してもこういう格好が似合うところを見せておこうと言う意味もある。
「合格発表から結構待たされるんですね。合格通知じゃだめなんですかぁ?」
「規定ではだめみたいだね。立派な賞状が届くわけじやないから、もうちょっと早くしてくれてもいいようには思うが、確認したり総務大臣と知事のハンコも押すので、いろいろ手間もかかるんだろう。
「それに今審議されている試験改革案が通れば、合格発表がもっと遅くなるから登録されるのが3月末に間に合わない人が多くなるように思うな。これからは切りのいい4月1日開業が厳しくなるかもしれない」
「早めに合格しておいて正解だったかしら?」
「何でも試験は後ほど難しくなるって言うからね。とにかく必要な書類がそろったら登録料といっしょに都道府県の行政書士会、単位会って言うんだけど、に申請するだけだ。何もなければ大体1カ月半くらいで登録される。
ただし県によっては支部長が事務所視察にくるところがあるらしい。東京はそんなことはしていないけど。」
「と言うことは登録は3月中旬になるってことか‥‥‥」
アサミはつぶやいた。
「月に2回、15日と月末付けで登録されるから、多分3月15日だと思うよ。私もそうだったし。3月10日ごろに通知が届いたと思ったな。でも『登録されるから業務を開始していいです』と言う知らせをもらっても、登録式に行かないと登録証もくれないし、大体自分の登録番号さえわからないから、何もできないに等しいけどな」
「で、その前に職印を作っておかないといけないんですね」
「その通り。登録式に職印届を持って行くかなくちやいけないから、作るなら早めに作った方がいいかもな。規定では「行政書士『氏名』之印」と縦書き3行で表すことになってるけど、それ以外の形でも認められてるようだよ。」
「と言うことは4月の開業まで2カ月ほど準備期間がある、と言うことですね」
アサミはうしろのカレンダーを振り返っりながらそう言った。今日はアップ気味にまとめた髪のせいで、うなじの線がきれいに出ている。
「資格学校の実務研修はその間を利用して開かれることが多いんだけど、行政書士の本部・支部の研修会は登録後でないと受けられないから、実務を覚えるのは結構あとになる。ただそんなことを言ってたら生きていけないから、開業までの2カ月間にやることは一杯ある。とても足りないくらいだと思うよ」
幸太郎は事務机のほうに目を泳がせながらそう言った。
「で、どんなことをするんですか?」アサミは小首を傾(かし)げながらそう聞いた。
「とにかく集客しないことには仕事は来ないから、まず、自分の専門分野を決めること。これが一番大事だ。行政書士の業務範囲はとにかく広い。名前を聞いただけでどんな仕事か分からない原因のひとつはそこにあると言ってもいいと思う。でも仕事をするには『何々の専門家』と言った方が相手に対する印象も強い。それに新人の頃はいろんな業務を覚えるのは無理だ。だから専門分野を決めてその分野を深く掘り下げる。そうすればお客さんと話している時も自信を持って対応できる。この自信というのは結構大事な要素なんだよ。頼りなさそうな人に大事な仕事を頼む気にはならないだろう?」
「そうですね。分かりました。でもどうやって専門分野を決めたらいいんですか?」
「決め方はいろいろあるよ。自分の経験を生かすとか、趣味や好きなことから入っていくとか。もう読んでるだろうけど、いろいろな開業支援本に業務内容が紹介されているから、それを読んで自分の感性に合いそうなものを選ぶといいと思うよ。いくら詳しくてもその仕事が嫌いなようじややらない方がいい。その辺も敏感にお客さんは感じ取るものだからね。」
「じゃ、何冊か本を当って見ます。受験の時に読んでいた本では国際業務なんかが面白そうだと思いましたけど」
「国際業務も外国人の受け入れの在留許可をやる入管業務やその中でも結婚や親子関係を中心に行う国際私法と呼ばれている分野、それに外国企業との契約などをやる業務の渉外業務など、いろいろと幅が広いんだ。その中から自分で面白そう、やってみたいと思う業務をもう少し絞り込んで決めるんだ」
「へえ~知らなかった。そんなに色々あるんですね。で、専門分野を決めたら、あとはそれを徹底的に勉強すれば良いわけですね」
アサミは行政書士の仕事の多様性に改めて感心した。
「勉強だけじやだめだよ。世間にアサミちゃんが勉強してるって事を知ってもらわないと」
「え? でもどうやって? 新聞に広告でも出すんですかぁ?」
「今はそんなことをしなくても、安くみんなに知ってもらえる方法があるんだよ。」
「なんですか、それは?」アサミは思わず身を乗り出した。いくらある程度蓄えがあり、今後もお店のお給料もしばらくは入って来るとは言え、いざ開業しようとすると思っても見なかったところにお金が出て行ってびっくりしてしまうことがある。安く宣伝できると言う幸太郎の言葉はとっても魅力的だ。
「インターネットだよ、インターネット。インターネットでホームページを開設し、そこに自分が勉強したことをなるべく詳しく書くんだ。手続きの方法なんかもできるだけ分かりやすく書くようにするんだよ」
「そんなことをしたら、こっちに仕事を頼まないで自分でやっちゃいませんか」
「それがそうでもないんだよ。もともとよっぽど複雑な申請業務でない限り、役所などへの申請とかは普通の人が普通にできるようになってるんだ。そういう人は最初から行政書士なんかに頼まない。頼むとしたら忙しくて役所に行けないような人か、標準の手続きじやなくて困っている人のどちらかなんだよ。だから詳しく書いておけばおくほど、信頼されることになる。そして、『こういうケースではどうなりますか?』と質問して来てくれるんだ。情報を出し惜しみしている感じの人にはそんなこと聞かないだろう」
「確かにそうですね。そう言えばお店のお客さんなんかでもそういう人いるなぁ」
「あと最近はホームページだけじゃなくて、プログもやったほうがいい」
「プログですかぁ。プログってよくわからないんですけど、日記みたいに毎日書くんでしょう?
「アサミはまだまだ毎日書くような仕事の情報なんてないですよぉ」
「プログは仕事のことより、趣味のこととか仕事について感じたこととか、自分の人となりを出すようにした方がいいんだよ。前はメルマガがその役目を果たしていたけど、最近ではプログの方が更新も楽だし、写真とかも使えて情報も提供しやすい。あとメルマガは数が増えすぎて出しても目立たなくなったって事もある。プログはその点まだ少ないから、多くの人に見てもらえる可能性が高いんだよ。もちろんメルマガもまだまだ有効な手段だから、出したほうがいいけどね」
「分かりました。ホームページを作って、それと合わせたメルマガを発行する、と。そして、プログは側面支援で日々の活動や人となりなんかをプログで公開するんですね。」
「わかってるじやないか。ホームページとプログを合体させて、プログで直接販売をしている人もいるが、私は分ける方がいいと思ってる。
「なぜなら、人は嫌いな人からは物を買わない。知ってる人からは物を買いやすい。プログでは見込み客と知り合いになるために使う方がいいと思ってるからなんだよ。
「でもどっちがいいかは自分で判断してくれ。最近ではプログなのにホームページのような外見を持たせられるものも出てきている。この辺のツールをどう使うかは日進月歩だから、つぎいっぎ勉強していくしかないんだ。」
「ソーシャルなんとかとか言うのをお客さんが話してたことがありますけど?」
「ソーシャル・ネットワークだね。これもこれから有効なツールになるかもしれない。いまは昔のパソコン通信みたいにそれぞれのグループ間の連絡手段がないけど、これが相互乗り入れできるようになったら爆発するかもしれない。だから勉強だけはしておいたほうがいいと思うよ。と偉そうなことをいってるが、私もあんまりよく知らないんだけどね」
アサミは幸太郎から指導を受けていく中で、幸太郎が最初思っていた以上に集客などに新しい手法を取り入れているのに驚いた。前によくお店に来ていた頃に聞き出したところでは、その人となりのよさと仕事に対する姿勢などから自分の師匠として最適だと選んだのだが、コンピュータ関係などもよく勉強していて、結構掘り出し物だったようだ。
私ってやっぱり比と見る目あるじゃん。そう思いながら口ではこう言っていた。
「行政書士でやっていくのも、大変なんですね」
「どんな職業だって、怠けてて金は稼げないよ。昔売れない飲食店を復活させる、っていうTV番組があったけど、そこに出ていた達人たちに共通していたことは『手抜きしない』『一生懸命やる』って事だった。習いに来てる方は最初は楽して儲けようって人が多かった感じがするけどね。」
「天は自ら助くるものを助く、ですね」
5.
4月1日は予定通りアサミの事務所の事務所開きだった。と言っても幸太郎と二人で缶ビールで乾杯しただけだったが、それも無事に終わり、ホームページの立ち上げ、プログの開設まで何とかこぎつけて、いよいよアサミも一人の行政書士として仕事をはじめることになった。それに先立って3月の末には東京会の登録式にも出席し、行政書士登録証や行政書士証票(身分証明書)、それにバッチなんかを貰って来て、格好だけは「行政書士のセンセイ」になっていた。
でも本当の勉強はこれからだ、とアサミは思う。襟に金バッチを着けていても仕事は来ないし、行政書士には実にいろいろな案件が持ち込まれて来る。自分の力不足で救ってあげられなかったケースなどつらい案件にぶつかる時もあるだろう。それを乗り越えて一人前になっていくのだと思う。
乾杯が終わったあと、幸太郎がこう言った。
「しかしこの事務所、急いで探した割には駅からも近くて、しかも格安で掘り出し物だよ。これだけの物件が、話しに来た1月下旬から探し始めて良く見つかったなぁ。普通ならすぐに借り手が付いていそうなものだけど、よっぽど急に前の借り手が出たか何かしたのかな。何かコネでもあったのかい?」
アサミは子供が隠し事を話すような目をしてこう言った。
「実は轟さんに最初に頼みに行った時にはもう見つけて手付けを打ってあったんですよ。理想は轟さんと同じ板橋で探したんですけどいい所がなくて。結局アパートに近い府中になっちゃいましたけどね。
「・・・・・・・」
*本編はある出版社の担当者の提案で、主人公の職業などを変えて製作したものです。
2005/11/03
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